お互いを知ろうとする忍耐と寛容のいる取り組みを馬鹿にして平和が作れるわけがないと気が付く方が良い。
東南アジア諸国は軍事ブロックを解消したばかりか中国も含む対話の枠組みを作りそれなりに維持しているのに対し、ヨーロッパ諸国は軍事ブロックを残しロシアも含む対話の枠組みを作りながら形骸化させてしまったのはなぜだろうか。
考えてみたい。
面白いのは東アジアでは古代に政治的にも経済的にも中華文化圏があったが、ヨーロッパではスラブ文化圏という形はあったが政治的や経済的なロシア文化圏は古代から現代まで一度もなくロシア大国主義との距離を模索する歴史ばかりだったように見える事だ。
そしてスラブ文化圏は、ほぼ東欧圏と重なる。
ロシア大国主義の厄介なところは、ロシア民族はスラブの民族の一部である事、ある意味政治的に切り取られた国土の産物という側面がある事だろう。
ロシア民族とは、輪郭線が非常に曖昧な民族と言える。
そのために周辺諸国と軋轢を生みやすいともいえるが、だから絶え間ない対話でガス抜きがいる。
ロシアとヨーロッパの平和は、絶え間ない相互理解のための対話でしか確保できない。
聞きたい事があれば間髪入れないで質問出来る関係は、絶え間ない対話の場があってこそ可能だ。
軍事的な意図が無いならば、平和的で開放的な施設や設備であると相互の交流を受け入れて示さなければならない。
ロシアから見れば、アメリカとの軍事同盟であるNATOと事実上一体に感じられるEUの拡大は、アメリカの銃が目の前に突き付けられたのと大差ないのだ。
平和を望むなら、ヨーロッパとロシアは対話の場を一切の条件抜きで作るしかない。
誤解を解くための、終わりなき対話の継続だけが平和を作る。
信頼して欲しいなら、疑いを晴らすための努力を惜しまない事しかない。
納得できると言うのは相手の判断であり、自分ではない。
説明は、あなたが信頼できるとわかった疑って悪かったと相手が言うまでやめてはならない。
平和とは、忍耐と寛容の産物なのだ。
一方戦争は、不信と不寛容の産物だ。
そもそも、人と人は過去の歴史も経験も違う以上完全に分かり合えるなんて幻想に過ぎない。
忍耐と寛容で相互の信頼を築き合った関係の中でこそ、平和的な関係は作れる。
国と国も、基本は同じだ。
背景となる歴史も文化も言語も違うから、相互の理解がより難しくなっているだけなのだ。
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