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2024年3月

陰陽だけで説明していいですか。

七支刀も蛇行剣も祭祀に使われたのは明らかだけど、問題はどういう理由が考えられるかだ。
恐らく、陰陽思想が関係あるだろうがそれだけではない。
七支刀の七は、まず思い浮かぶのが北斗七星だ。
北斗七星は中国で「天帝の乗る車であり、四方を司る神」とされそこから発展して、北斗七星は人々の長寿や豊かさを司ると考えられた。
陰陽道でもその考えを取り入れ、「属星祭」という祭として北斗七星に対する信仰が行われるようになる。
蛇行剣は、蛇をその長さから息や声の象徴としてとらえて神の言葉を地上におろす儀式に使われたのかもしれない。
陰陽が表の顔とすれば、裏の顔がカッバーラとの関わりだ。
七支刀はその形からメノラーの変形の可能性があるし、蛇行剣も聖書の癒しの青銅の蛇と関わりを疑ってもいいかもしれない。
何しろ日本の文化は一皮むけば、聖書を連想出来るものがいろいろあるという指摘もある。
イスラエルで失われた十支族を探している組織があるが、シルクロードに沿って分布しているという。
その東の端に、日本がある。
失われた十支族の大半が、日本にきたかもしれないという声もある。
あなたはどう見るか。

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神との和解について考える。


多くのキリスト教の宗派では、神との和解は大きなテーマの一つになっております。
それは、全ての人は禁断の木の実を食べたアダムとイブの子孫として二人の原罪を引き継いでいるとされるからです。

それでマリアのイエスの受胎は「無原罪のお宿り」として、キリスト教芸術の最大の主題の一つになっているのです。


誰が神に許されるのか、どうすれば神に許されるのか、多くの神学者が悩んできました。

誰もが新約聖書でイエスに「あなたの罪は許された」と言われた人達のように、神から「あなたの罪は許された」と言われたいからです。

しかし、神はそう簡単に「あなたの罪は許された」と仰って下さるわけではありません。
では、どうなさるかと言えば忘れて下さるのです。

アダムとイブは、禁断の実を食べたことを忘れて戴けたので皮の衣を頂戴しました。


私達にある罪は、私達自身の判断ミスによるのです。
アダムとイブによって私達は選択の自由を手にした結果、判断ミスを犯してしまう運命も背負っているからです。
御父に忘れて戴くのは、私達自分の判断ミスなのです。
私達は、失敗からたくさんの教訓を得るからなのです。

それでは、私達のミスを御父に忘れて戴くにはどうすればいいのかと言うことになります。
教訓を学ぶことが悔い改めとなるけれど、御父に忘れて戴くにはまだ不十分です。
悔い改めてさらに独り子であるイエスの執り成しを求めて、御父に祈るのです。

イエスの贖罪の死を私の贖罪として受け止めてくださいと、祈るのです。

言ってみれば、私達はみなイエスの贖罪を代わりに受け止めていただくたびに御父に借りを拵えているわけです。

自分の十字架を背負ってついてきなさいと言うのは、これからの全生涯をかけて返済する御父に対する借りを忘れることなくついてきなさいってことだったんですね。

それで疲れたら、イエスのくびきを自分の肩にかけて助けて頂きながらやり方をしっかり学んで少しずつ御父の目にかなう返済方法を覚えていきなさいというわけですね。

なるほど、私達に永遠の命があるわけだわ。
復活した後の体の話ですけどね。
限りのない時間をかけないと返済出来ない借りを、御父に作っちゃうわけだから。

イエスの名によって御父に祈るたびにね。

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神がいるなら、なぜ悪があるのか考えてみましょう。


『神がいるなら、なぜ悪があるのか――現代の神義論』と言うクラウス・フォン・シュトッシュの著作が、加納和寛の訳で出版されています。


「神がいるなら、なぜ悪があるのか」この問いかけは、世の多くの教会では「神義論」という未解決の議論とされているのです。
ではどうして、未解決の議論とされているのでしょう。
彼らは、なぜ神は悪の存在を認めているのかと言う根本的な問いでつまづいているからです。
創世記 1章 26節には、こうあります。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」

神は私達を自らの似姿として造られたとありますが、それは見た目だけではなく能力や可能性と言う点でも自らの似姿とされているのです。
なぜなら人が神の目にかなうようにあらゆるものを治めるには、神の目的を正しく理解している必要があるからです。

だから聖書には、「主イエスを着なさい」「真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい」「新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。」と繰り返されるのです。

私達には、何が善で何が悪か自分で理解でき判断できるようになるだけではなく、なぜ善でなぜ悪なのかも自分で理解でき判断できるようになるようにも求められているのです。

それは、神が私達に自分と同じ能力を身につけることを求めているからなのです。

悪がなければ、何が悪でありそれがなぜ悪なのかも知ることはできません。

だから神は、あえてサタンに堕落したルシファーの企みを許しておられるのです。

サタンの企みを逆手にとって、私達に神のような知恵と知識を授けようとしておられるのです。
そうでなければ、どうしてヨブ記のような記述が残されているのでしょう。
正しいものとされたヨブでさえ、神に対する理解を深めるためにサタンの試しをされているのです。
しかし人は、迷い悩み時として神の御心の真意を見失うのです。

神はそのような人の弱さを許したいので、救いの計画としてイエスの贖罪を用意しておられるのです。
人は誰でも神の目に罪とされることを犯してしまうけれど、イエスの十字架の贖罪を自らの贖いとして御父に許しを求めることができるのです。
人は失敗から多くを学んで、成長するからなのです。
多くの学びを重ね、精神的にも神の似姿に限りなく近づいていくように御父から期待されているのです。

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