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生産と流通や科学と技術は元々人々のためにあった。

科学と技術が神の領域に踏み込みつつある今、倫理や道徳も神の領域に達しないと大変なことになると言う危機感の共有が必要になっている。

 

目先の利益追求最優先の資本主義から、すべての生産と流通が人々の必要のためだった時代を再び目指す第二のルネサンスを実現しようではないか。

 

落ち着いて考えられる時代にならないと、倫理が追いつかないのではないだろうか。

倫理や道徳も神の領域に達するとは、これまで神の領域とされてきた段階に達している科学と技術を安全に使いこなすことができることを意味する。

もはや勝つか負けるかではなく、すべての人々の幸せのためにある科学と技術・生産と流通にならないとダメな時代になった。

第二ルネサンスが必要なのではないだろうか。

 

人々の必要を満たすための生産と流通が、結果として利益をもたらす時代の方が長かった。

今のような利益の追求が生産と流通の第一の目的になりがちな資本主義の時代は、人類の歴史から見ればほんの一瞬に過ぎない。

 

生産と流通が原点に戻る第二ルネサンスの実現、これが今求められている。

長い人類の歴史の中で、神の国とは理想の国と同じ意味であった。

特定の誰かではなく唯一絶対な存在からの指示の実現としての理想の実現が、神の国だったのだ。

 

今やすべての人々の求める理想の実現と、神の国は重なりつつある。

 

絵空事と思われてきた神の国を、今こそ実現しようではないか。

絵空事と思われてきた神の国、それは実にシンプルだ。

 

人々は必要を超えた分を惜しみなく分け与えあって、乏しさのために困る人がいなくなるようにしろ。

生産と流通を人々の必要のためにと言う原点に戻せば、それは可能になる。

 

どうすればいいのか、みんなでとことん納得いくまで話し合えばいい。

 

生産と流通を人々の必要のためにと言う原点に戻せば、労働時間は半分の4時間でも間に合う。

 

それだけの生産性は、すでにある。

あとは私たちの選択だけ。

 

市場は、古代から営まれてきた。

資本主義を特徴づけるのは、生産や流通の目的が利潤追求にあることだ。

生産や流通の目的を、人々の需要に応えると言う本来の姿に戻すべき。

 

生産や流通の目的を人々の需要に応えると言う本来の姿に戻すと、搾取されてきた剰余価値のために余剰生産物を作らされてきた労働時間が要らなくなるので労働時間は今の半分でもよくなる。

労働時間短縮で出来た余裕時間は、文化やスポーツやレクリエーションなどで新たな需要を産む。

もちろん、科学や技術をどう用いるのが人々の幸せに役立つのか考える時間もできる。

 

市場は、古代から営まれてきた。

資本主義を特徴づけるのは、生産や流通の目的が利潤追求にあることだ。

生産や流通の目的を、人々の需要に応えると言う本来の姿に戻すべき。

 

生産と流通や科学と技術は、元々、人々のためにあった。

原点に帰ろう。

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