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2024年10月

日本語とラテン語は同祖なのだろうか。

与謝野達著『ラテン語と日本語の語源的関係』は、言語研究の専門家に言わせるとトンデモ本の類らしい。


だが日本は家族性地中海熱という遺伝病のアジアの飛び地であり、東アジアで最も欧州寄りの遺伝子の飛び地であり、食文化も地中海世界に近く、ラテン系に黒髪が多いのは偶然か。

ついでに言えば、日本人のルーツについて考察すると日ユ同祖論とか日本シュメール同祖論のようなものが出るくらい西方がいたるところで顔を出す。

この本も、差し詰めその類とみていいのかもしれない。

イタリア映画のエキストラの顔を見ると日本人に似た人が多いし、最近ではテルマエ・ロマエの実写化でローマ人を全員日本人が演じたがローマっ子が違和感がないと太鼓判を押す。
ラテンのノリと大阪のおばちゃんのノリ、妙に近いと思うのは勘違いだろうか。

日本語は単語に男性名詞や女性名詞がないところは英語に近いが、動詞の変化形の多さは欧州の言語に負けないし人称代名詞にいたっては欧州の言語より多いが複数と言う共通点もある。
日本語は複数の言語が混ざった点では、成立の経過が英語に近いのかもしれない。
日本人のルーツは、複数指摘される。

英語のBE動詞に近い用法の「は」は、かなりさかのぼれる。
一方でテニヲハの助詞は、時代を下って現れる。
文字による記録が始まる時点で、男性名詞や女性名詞がないということはこの前に現代日本人と日本語の基本は成立したと言える。
これは、比較的に近い言語の間で混交が起きたとみるべきか。

英語と日本語の成立の変遷を比べてみると、その過程は母国語の国風化の歴史と見ていいのかもしれない。
つまり、日本語の成立を探る要素分解をするならなるべく古い言語同士で比較する方が良い。
古代中東で分化した現代人の祖先で西に行った欧州人と、東に行った日本人と見たらどうだろうか。

日本語は古代ユーラシア語に、複数の言語が混交して成立したのかもしれない。
日本人の遺伝子は、極端に東アジアの中でヨーロッパに近い。
日本語にラテン語に近い要素があっても、そう思えば別に不思議ではないのかもしれない。
つまり、日本語ラテン語同祖論があってもいいのかもしれない。

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聖書になんで雅歌は収められたのか考えてみた。


旧約聖書になんで雅歌のような、取扱注意な文章が載せられたのでしょうか。
理解に苦しむ人が多いことは、わかります。
私も、そうですから。
雅歌がたんなる文学であるなら、なぜ収録しようとしたのでしょう。
偽典や外典として正典とはみなされなかったものがあるのに、あまりに異質な感じな雅歌がどうしてはずされなかったのかが謎なのです。
非常にリアルな官能的で耽美で優美な描写は、音読をためらうほどです。

私たちはそのような世界には、我を忘れて没入しやすいですね。

では、神との愛はどうでしょうか。

同じくらいに我を忘れて没入できるでしょうか。

キーワードは、幼子のように神を思うという、言葉でしょうか。

確かに幼子は、すべてを忘れて没入しますよね。
親の愛の世界に。
官能的で耽美な愛と同じくらい、私たちはすべて忘れて没入して神との愛に浸れるでしょうか。
すべてを忘れて没入し、神の愛に身も心も委ねられるでしょうか。

でもイエスの弟子は、イエスの花嫁とも例えられています。
ここに、この謎を解くカギがあるのではないかと感じました。
書かれている内容を理解しようとするより、なぜ収録されたのかを考える方が良い文章ではないかと思いあえて考察してみました。
愛とは、理屈や頭で考えるものでしょうか。
むしろ、感じるものではないでしょうか。
神の愛はあれこれ考えるより感じ取ることこそ肝心と言う意味では、雅歌はまさにそういう文章でしょう。
神の愛のメッセージは理屈で考えるより心で感じ取れ、と言うのでしょうか。
聖書はそういうものだぞと言うつもりで編纂されたなら、別に異質でもなんでもなくなります。
神の愛に包まれる感触、それを感覚的につかむことの大切さこそ雅歌に込められたメッセージかもしれません。
でも、そうは言っても神の愛を感覚で掴むのはもなかなか難しいですよね。

せめて、神との対話としての祈りを神の愛に包まれる喜びに満たされるものになるようにしたいものです。

いつになったら、そうなれるかな…。

気長に行きますか…。

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共産主義の意味を考えてみた。

共産という言葉は、日本語だとあまり類語がないのです。

一方で英語のコミューンという語は、コミュニティとかコミュニケーションと語幹を共有しています。

つまり、対話や共感を大事にして平和に共に生きる道を一緒に探そうという思想がコミュニズム(共産主義)ということでしょう。

日本共産党の目指すのは、そういう社会ということではないでしょうか。

日本共産党が共闘で変革を進めようとするのは、単に綱領に決めているからというだけではないのでしょう。

みんなで一緒に社会をよくしていこうという共産主義の基本に、忠実に活動しているからごく自然なことなのかもしれません。

だから、様々な運動とも常に連帯や連携をして議会や行政に働きかけることはごく当たり前にできるししようとするのでしょう。

それで、相談や陳情が集まりやすいとなるのではないでしょうか。

共産主義と言うのは、社会に働きかける手段と言うより手法と言うか手順に近いのではないでしょうか。

つまり、どういうことかということです。

共感や対話を大事にしながら平和に共に生きる社会を目指す方向を示す、道の探し方や歩き方の指南ではないのかというのです。

だから社会主義や共産主義の世界の青写真は、ないのかもしれません。

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腸内フローラも政治も日頃の心得次第。

腸内フローラという考えがある。

腸内フローラは、善玉菌と悪玉菌が3割日和見菌が7割で構成される。

健康は、善玉菌が優勢で保たれ悪玉菌が優勢になるとがんなどが悪化しやすくなる。

そこで、乳酸菌やビフィズス菌のような善玉菌を積極的に摂る必要がある。

なんだか、政治みたいだな。

立場で見方が変わるけど。

 

ちなみに善玉菌は積極的に摂るだけじゃなく、オリゴ糖や食物繊維も意識して摂って元気にする食習慣が必要だ。

善玉菌を摂って増やすだけじゃなく、元気に保つ日頃の心掛けがいる。

政権交代をするとか良い憲法や法律は出来たら安心しないで、保つ心掛けがいる。

腸内フローラ、聞けば聞くほど政治だな。

 

腸内フローラが悪化すると精神に悪影響が出るし、ストレスをやわらげると腸内フローラは改善していく。

言ってみればブラック企業やダメな政治家や政党がはびこると精神を損ない、労働時間短縮や環境の整備でホワイト企業や国民のために働く政党や政治家を増やす気になる人が増えるようなものか。

 

ついでに言うと、小さながんはしょっちゅうできているけど腸内フローラで善玉菌の優勢が保てていれば小さな内に免疫系の働きで排除される。

悪玉菌が増えるとがんがはびこりやすいので、意識して善玉菌を摂って養う食習慣やストレスをためない生活を心がけることが推奨される。

身につまされるな。

 

日頃の体調管理や生活から仕事や政治に至るまで、小さな改善の積み重ねを怠らないようにしないといけない。

 

忘れがちだけど、気を付けないといけないな。

 

自戒を込めて。

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