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聖書になんで雅歌は収められたのか考えてみた。


旧約聖書になんで雅歌のような、取扱注意な文章が載せられたのでしょうか。
理解に苦しむ人が多いことは、わかります。
私も、そうですから。
雅歌がたんなる文学であるなら、なぜ収録しようとしたのでしょう。
偽典や外典として正典とはみなされなかったものがあるのに、あまりに異質な感じな雅歌がどうしてはずされなかったのかが謎なのです。
非常にリアルな官能的で耽美で優美な描写は、音読をためらうほどです。

私たちはそのような世界には、我を忘れて没入しやすいですね。

では、神との愛はどうでしょうか。

同じくらいに我を忘れて没入できるでしょうか。

キーワードは、幼子のように神を思うという、言葉でしょうか。

確かに幼子は、すべてを忘れて没入しますよね。
親の愛の世界に。
官能的で耽美な愛と同じくらい、私たちはすべて忘れて没入して神との愛に浸れるでしょうか。
すべてを忘れて没入し、神の愛に身も心も委ねられるでしょうか。

でもイエスの弟子は、イエスの花嫁とも例えられています。
ここに、この謎を解くカギがあるのではないかと感じました。
書かれている内容を理解しようとするより、なぜ収録されたのかを考える方が良い文章ではないかと思いあえて考察してみました。
愛とは、理屈や頭で考えるものでしょうか。
むしろ、感じるものではないでしょうか。
神の愛はあれこれ考えるより感じ取ることこそ肝心と言う意味では、雅歌はまさにそういう文章でしょう。
神の愛のメッセージは理屈で考えるより心で感じ取れ、と言うのでしょうか。
聖書はそういうものだぞと言うつもりで編纂されたなら、別に異質でもなんでもなくなります。
神の愛に包まれる感触、それを感覚的につかむことの大切さこそ雅歌に込められたメッセージかもしれません。
でも、そうは言っても神の愛を感覚で掴むのはもなかなか難しいですよね。

せめて、神との対話としての祈りを神の愛に包まれる喜びに満たされるものになるようにしたいものです。

いつになったら、そうなれるかな…。

気長に行きますか…。

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