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2024年11月

ブラックホールの構造と役割が見えてきた。

ブラックホールの中は、時間と空間とエネルギーと特異点だと一般的には思われている。

だが実際には重力波は引力と斥力が交互に発生して伝播している現象であり、天体と時空の境界面で重力波が発生している。

重力波があまりにも小さいのは、時空と接している物質表面で歪められた時空に蓄えられているポテンシャルが物質波に揺さぶられて解放されているからである。

実際には物質の側にも時空との押し合いで発生している歪みエネルギーが、ポテンシャルとして蓄えられている。

物質側にも蓄えられている歪みのポテンシャルが同時に解放されているけれども、物質波の一部として時空に伝えてれている。

物質と時空の接している面で、物質波で揺さぶられて時空の歪みエネルギーが物質の面と垂直方向に伝播している。

そして時空に伝播した重力波が、物質の重力圏を形成する。

天体の重力圏はこうして時空の中に展開され、周囲に引力となって働くことになる。

斥力は発散して弱まるので、合力としては引力としてだけ作用することになる。

ブラックホールの中は、光さえ出られない重力の発生源の巨大質量の天体が中心に存在しているので想定されている特異点などはない。

例えて言えば、ブラックホールの中は光さえ出られない蟻地獄の巣のようなものである。

中心に存在しているのは特異点ではなく、極限まで圧縮されている蟻地獄のように待ち構えている超巨大重力天体である。

ブラックホールの中心に存在しているのは、極小のコアを取り囲む高密度なエネルギー領域かもしれない。

重力波が引力と斥力の合成である以上、集積されるエネルギーや質量には当然限界点に達する時が来る。

やがて銀河宇宙の中心にある巨大ブラックホールが、圧縮の限界点に達する時が来る。

連鎖反応的にブラックホールの爆発的なエネルギーの解放がドミノ倒しのように起き、衝撃波が物質を津波のように掃き寄せていきながら巨大なボイドが形成される。

無数のボイドが広大な宇宙空間全体に同時発生的に広がって、物質の掃き集められた領域で新たな天地創造のドラマが始まる。

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なぜ波動関数は複素数で表されるのか。

波動関数は、量子力学において純粋状態を表す複素数値関数である。

 

純粋状態とは、扱う系について原理的に可能な限りの情報が既に得られている場合を指す。

それに対して、混合状態は系に対する情報が不足していて、ある純粋状態が測定される確率しか分からない状態である。

 

ここではなぜ波動関数が複素数で表されるのか、それだけを考える。

 

複素数とは、2つの実数 a, b と二乗すると-1となる虚数単位 iを用いて

z = a + bi

と表すことのできる数のことである。

 

物理学において、エネルギーまたはエナジーは、仕事をすることのできる能力のことを指す。

エネルギーは重さと速さの二乗の積で得られるが、重さを1と取れば速度の二乗となり重さは具体的なエネルギーを得るために代入される変数に過ぎなくなる。

エネルギーには様々な形態をとるが、全てのエネルギーの基本はポテンシャルと運動エネルギーの和が一定であることにある。

素粒子や分子の運動が、全てのエネルギー現象の大本だからである、

 

そして、全ての運動はまずポテンシャルの蓄積から始まる。

励起ということもあるが、同じことだ。

エネルギーが二乗数なのは、蓄積されたエネルギーと解放されるエネルギーが同じ大きさで方向が逆なので全体の値が零にならないように二乗すると考えればいい。

二乗すると面積の式になるが、エネルギーは面積に働く作用であるからその方が自然なのだ。

 

ポテンシャルの蓄積は、運動とは逆方向、つまり、負の方向になされる。

蓄積されたポテンシャルが解放されるのが、運動となる。

 

波動では、ポテンシャルの解放としての運動がポテンシャルの蓄積も兼ねる。

言い換えれば、ポテンシャルの蓄積と解放の繰り返しが波動でありそれを記述するのが波動関数となる。

ポテンシャルの蓄積と解放の無限ループが、波動でありその表現が波動関数だから蓄積過程を虚数が解放過程を実数が表す複素数となるのである。

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膨張宇宙論の難問の原因は重力波の解釈にあった。

宇宙の大構造を見ると、広大なボイド構造の間に私たちの銀河のような天体の分布があるのがわかる。

では、どうしてこのような広大なボイド空間ができたのだろうか。

何者かが引いたというなら、もっといびつな形でボイドが作られることになるのでここまで大きくなることはない。

それに、どのようにして引いたか説明することが困難である。

とてつもない規模で発生した衝撃波であるなら、もっと大きなボイドができる。

それだけ大きな衝撃はを作れるだけの、ポテンシャルエネルギーが集積可能な存在があればいいのだ。

それが、ブラックホールである。

ほとんどの銀河宇宙の中心に、巨大ブラックホールがあると判明している。

ブラックホールは、永遠不滅なのかといえば決してそうではない。

いつか、限界点に達する。

圧縮された気体が限界点に達すると爆発的にエネルギーを放出するように、ブラックホールもまた限界点に達するはずなのだ。

重力波は、正の状態と負の状態を往復しながら伝播する。

重力波は、正の状態が引力であるなら、負の状態が斥力であるはずなのだ。

ブラックホールはいつしか、ポテンシャルの蓄積が限界点に達する。

そして、爆発的にエネルギーを開放して強力な衝撃波を発生することになる。

この衝撃波が、ドミノ倒しのように次から次へとブラックホールの崩壊と衝撃波の連鎖を産む。

やがてとてつもない巨大な衝撃波が、広大なボイドを生み出す。

広大で広範な領域で広大なボイドの発生が連鎖反応的に起きて、ボイド構造の間に莫大な量の物質が掃き集められる。

そうして集められた領域で、新たな宇宙の誕生が始まるのだ。

ボイドの膨張が収まると、圧縮された空間も多少膨張して断熱膨張効果で少しは冷却される。

そうして、最初のインフレーションが起きる。

膨張宇宙論との差は、観測される赤方偏移の原因が重力波の負の状態である斥力に求められるということだ。

ボイド構造が落ち着くまで、多少の膨張は起きるからもしれないが今はすでにそれも落ち着いているはずだ。

遠くからくる光ほど、過去を見ることになる。

過去の光ほど赤方偏移が大きいのは、ボイド構造が落ち着く中で多少後退するのにつられて天体のある領域が若干ではあるが膨張しているからである。

時がたつほどボイド構造は落ち着いてくるので、遠方の電波の赤方偏移の原因は重力波の負の状態である斥力による効果だけになってくるだろう。

アインシュタインの式で正体不明な斥力とされるのは、重力波の斥力成分と見ればつじつまが合う。

天体を覆うダークマターとは重力波の濃い領域であり、宇宙に薄く広がるダークエネルギーとは恐らく重力波の薄い領域である。

重力波は極めて弱く、引力と斥力の間の往復もマクロの存在である私たちにとってはもちろんほとんどの素粒子にとっても影響力は乏しいだろう。

だが、電磁波にとっては十分に大きいので影響力を強く受けてしまうというわけなのだ。

追記

今回の話は、

膨張したのは宇宙ではなくボイド構造の方だ。

の続きになる。

なぜ重力波は小さいのかと、考察したので参照して欲しい。

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なぜ伊勢神宮は世界遺産にならないのか。

伊勢神宮は 意外と思われるかもしれないけれども世界遺産に登録されていません。
伊勢神宮は、神宮にのみ続いている式年遷宮という20年ごとに社殿を新たに建て替えるという伝統のために建物の「真正性」や「完全性」が世界遺産の基準に合致しないとされています。
伊勢神宮は日本の皇室と深い関わりがあり、その重要性は国として認識されているが、世界遺産としての推薦はされていないのです。
また、伊勢神宮自体が世界遺産登録を必要としていないという考え方もあります。
とはいっても、世界文化遺産としてならどうでしょう。
式年遷宮という、世界にもまれな文化は世界的な遺産となる資格はあり得るようにも見えます。
だが、あえて世界遺産にならないとしたらどうでしょう。
三種の神器は天皇でさえ容易に触れられないが、伊勢神宮にはそれがあるのです。
三種の神器の一つ、八咫の鏡です。
内宮に祀られています。
世界遺産になれば、外部からの見せて欲しいと言う依頼を拒めないでしょう。
見せられない神器を守るために、あえて世界遺産にならない道を選んだとも言えるでしょう。
伊勢神宮で二十年ごとの式年遷宮で移動しているのは、目に見えている部分だけではありません。
神の御霊もまた、移動しているはずです。
世界遺産となれば、ここに外部からの介入や干渉は避けられないでしょう。
そして、ここにこそ、伊勢神宮の世界遺産にならない本当の理由があるように見えます。
密かに移動している、神の御霊の依代が隠されているのが伊勢神宮なのです。
ある人は、失われた聖櫃だと言います。
ご神体を納める器である御船代、箱でありながら船と呼ばれる器にご神体を納める、なんとも不思議な名前ではないでしょうか。
箱でありながら船と呼ばれる聖なる器は、歴史上一つしかありません。
聖櫃はアークと呼ばれるが、聖書でアークと呼ばれるのは方舟と聖櫃だけなのです。
聖櫃は、この伊勢神宮にありますよと見せながら隠していると言わんばかりではないでしょうか。
よこしまな目的にさらされないために、聖櫃は時が来るまで伊勢神宮に隠されていて限られた人たちに守られていると彼らは指摘しているのです。
真相は、いずれ何らかの形で明らかになるでしょう。

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ヒッグス場とヒッグス粒子は質量を顕現させるのであって与えているのではない。

量子の世界に質量を与える存在としての、ヒッグス粒子やヒッグス場が想定されている。

だが素粒子の質量をどのようにしてヒッグス場やヒッグス粒子は決めているのか、そのメカニズムは解明されているのだろうか。

素粒子はその誕生の時点で、ポテンシャルとして質量をすでに持っているはずである。

その質量が認識できないのは、加速度が重力と区別がつかない、言い換えれば、等速度運動と無重力状態は区別がつかないからである。

素粒子がポテンシャルとして持っている質量が顕現するには、加速度との遭遇が必要である。

加速度とは、運動状態を変化させて慣性質量としての質量を顕現させる能力を持つ作用である。

素粒子に加速度を加えて、ポテンシャルとしての質量を顕現させる作用を持つ場が必要なのだ。

その働きをしているのが、ヒッグス場でありヒッグス場が発生させる抵抗作用の担い手がヒッグス粒子である。

ヒッグス粒子の与えている抵抗としての加速度が、素粒子の質量を顕現させるのだ。

恐らくヒッグス場の正体とは、時空の中で働いている何らかの作用である。

時空の中に満ちている重力波こそが、ヒッグス場なのかもしれない。

重力波は、斥力と引力が交互に発生しながら時空の中で伝播する波である。

重力波は、正の状態と負の状態を往復しながら伝播する、重力の正の状態が引力であるなら負の状態は斥力でなければおかしいからである。

ヒッグス粒子の正体とは、重力波の斥力成分なのかもしれない。

素粒子を減速するには小さくとも、質量を顕現させるには充分な作用の能力を持っているからである。

時空に満ちている重力波こそが、ダークエネルギーの正体でありダークエネルギーの密度が高い状態をダークマターとして認識しているのだろう。

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膨張したのは宇宙ではなくボイド構造の方だ。

重力とは、時空の歪みによってもたらされる現象に他ならない。

時空の歪みは何によるかと言えば、物質によってもたらされる力の作用によってである。

全ての物理的な存在は、力による作用が働けばまずその内にポテンシャルエネルギーが溜まる。

時空の歪みにも、当然ポテンシャルエネルギーの蓄積が伴うはずである。

そして、時空の歪みのポテンシャルエネルギーの解放は重力波として伝播している。

では、重力波は物質と時空の接する面からどのようにして発生しているのだろうか。

ド・ブロイの明らかにしたことにより、全ての物質には物質波があるとわかっている。

物質波は、絶対零度であっても止まらない振動による波である。

時空と物質の接する面には、絶えず物質の振動が持続している。

ということは、時空歪みによって溜まっているポテンシャルエネルギーの解放は物質表面の振動のタイミングに合わせて起きていることになる。

解放されているポテンシャルエネルギーの大きさは、蓄えられているポテンシャルエネルギーの大きさと物質表面の振動のエネルギーの大きさや間隔によって決まるのではないか。

そこで、小さくとも密度の高い中性子星などは強い重力を発生することになる。

解放された重力エネルギーは、物質と時空の接する面にも向かうがその反対方向にも向かうはずである。

そして重力は波として、時空を伝播する。

波としての重力波は、引力と斥力の交互の発生によって伝播するはずである。

遠方から来た電磁波の赤方偏移は、重力波の斥力作用によるエネルギーの減衰が引き起こした見かけ上の現象に過ぎない。

遠方からくる電磁波ほど、重力波の斥力作用によるエネルギーの減衰は大きくなるはずだからである。

ここからくる結論は、宇宙は膨張などしていないということだ。

観測される宇宙のほとんどの天体は、ボイド構造の隙間に集中している。

ならば、ここから推論されるのは膨張したのはボイド構造であり宇宙に存在する天体とはボイド構造の間で圧縮された時空に蓄えられたポテンシャルエネルギーの析出ではないかということである。

膨張宇宙論でいう宇宙の冷却とは、ボイド構造の成長の減速によって圧縮の圧力が減少したことによりもたらしたものだったのである。

無数の泡構造モデルも、マルチバースモデルも、無数に発生したボイド構造の間に宇宙の天体は発生したということを部分的に反映しているモデルに過ぎない。

追記

この続きは、

膨張宇宙論の難問の原因は重力波の解釈にあった。

で考察したので、参照して欲しい。

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縄文犬はどこから?

私はこれまでにも、秋田犬や琉球犬や北海道犬などが実はヨーロッパの犬と起源が近いのではないかと見てきた。

そして、縄文時代に遡らないと説明が付かない可能性を追求してきた。

東アジアの中で日本人の遺伝子は突出してヨーロッパに近いが、その原因となったのが縄文人だからである。

 

和犬とも呼ばれる日本犬には、現存するものちしては6種類が知られている。

犬種名    大きさ

秋田犬   (あきたいぬ)      大型犬

甲斐犬   (かいけん)         中型犬

紀州犬   (きしゅういぬ)     中型犬

柴犬        (しばいぬ)          小型犬

四国犬      (しこくけん)      中型犬

北海道犬    (ほっかいどういぬ) 中型犬

 

四国犬は、以前は土佐犬と呼ばれたが土佐闘犬との混同を避けるためこう呼ばれるようになった。

 

面白いのは柴犬だけが、特定の地域名がないことだ。

実は柴犬とは、類似の特徴を持つ複数の地犬の総称である。

 

信州柴犬  (しんしゅうしばいぬ)

川上犬   (かわかみけん)

美濃柴犬  (みのしばいぬ)

山陰柴犬  (さんいんしばいぬ)

縄文柴犬  (じょうもんしばいぬ)

 

信州柴犬は、現存するほとんどの柴犬のルーツといわれている。

日本で飼育されている柴犬の、実に99%が信州系だ。

ピンと立った耳や丸まったしっぽ、被毛の色といった、現在の柴犬にも共通する特徴が引き継がれている。

 

信州川上犬とも呼ばれる川上犬は、長野県南佐久郡川上村に伝わり、保護育成されている小型日本犬の一種である。

信州柴犬がタヌキ顔なのに対し、川上犬はオオカミ犬に近いのが特徴である。

山がちな地形である信州は、異なる系統の柴犬が生息してきた興味深い地域といえる。

 

複数の地域で飼育されてきたために特定の地域名のない柴犬だが、縄文柴犬もまた特定の地域名がない。

縄文柴犬は、あまり知られていないと思うが新しい犬種ではない。

縄文柴犬は、縄文時代の遺跡から出土した犬の骨格・頭骨や額段が浅いなど、良く類似し、世界的に見ても珍しく、原種性が維持された日本の犬だ。

縄文柴犬と呼ばれるが、縄文時代の縄文犬(じょうもんいぬ)と混同しないように注意する必要がある。

というのは、縄文犬の特徴を受け継いでいると言われるのは現生の日本犬では柴犬のほか、北海道犬、琉球犬などのほかに、カナダ原産のラブラドールレトリバーもいるからだ。

縄文柴犬は、縄文犬の特徴を受け継いでいる犬種の一つなのである。

柴犬の中でも特に縄文柴犬が、縄文犬に近いということなのだろう。

 

縄文犬の分布がアメリカ大陸にも及ぶのは興味深いが、縄文人の分布もまた環太平洋規模の可能性があると明らかになりつつある。

 

そして、その縄文縄文人の遺伝子がヨーロッパに近い、正確に言えば共通の祖先に近いと言える。

 

犬の分布から、日本人のルーツを探ると面白いことが見えてくるかもしれない。

 

秋田美人とヨーロッパ?

 

秋田犬とヨーロッパ

 

北海道犬や琉球犬もヨーロッパから来たか。

 

縄文の犬とイスラエルの犬はどこかでつながる?

 

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アメリカはどこに展望と出口を求めるのか。

今アメリカでは、社会の大半の富を手にした少数者と取り残されたと感じている圧倒的な多数者に二極分化している。
取り残されたと感じている人たちも、感性的で感覚的感情的に反発している人たちと理性的理論的に展望を開こうとしている人たちにさらに分極化している。
感性的な人たちがトランプに、理性的に対応しようとする人たちがバーニーサンダースの一派に、分かれてきたようだ。
もちろん、どうしていいかわからない人たちも相当数いる。
共和党がトランプに乗っ取られた感があるが、それはキリスト教という価値観を共有しているという側面を見る必要があるだろう。
一方の民主党は、労働者やマイノリティに軸足を移しはしたが急速な変化を望まない中間層意識の人から抜本的な改革を求める底辺に近い人たちもいる。
以前からバーニーサンダースの一派に連なる流れは民主党内部にあったがなかなか多数派を取れないのは、比較的な多数派である中間層意識の人たちのためらいによるものだろう。
ここまで来たら共和党も民主党も分党して新たな党が産まれた方が良いくらいだが、あまりにもアメリカは広すぎる。
もし共和党と民主党が分裂して新たな党が産まれるとすると、多数のローカル政党ができて混乱に拍車がかかる危険性さえある。
アメリカの抱える閉塞感の、闇は深い。

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能もまた陰陽である。

能は、江戸時代になると幕府の式楽として演じられるようになる。

そこで、なぜ能が幕府の式楽とされたのか考えてみる。

 

式楽とは、貴族や武家などの儀式に用いられる芸能のこと。

式楽には、平安時代の宮廷における雅楽や寺社の行事における音楽なども含まれる。

しかし、江戸幕府が猿楽特に能楽を式楽と定めたことから、式楽と言えば猿楽をさすことが多い。

 

能の正式な上演形式は、「五番立」という一日五番と定められている。

能の演目は「神男女狂鬼」、即ち「脇能物」「修羅物」「鬘物」「狂物」「切能物」の5種類に分類されている。

 

この「五番立」に先立って演ずるものと位置付けられるのが、「翁」である。

「翁」は、正式には「式三番」という「能にして能に非ず」と言われる神事・祈祷曲である。

おもに正月や慶事に上演され、国家の安泰や五穀豊穣などを祈念する。

「翁」の構成は大きく分けて、諸役の登場、露払いの舞、白い翁による祝言・祝舞、地固めの舞、黒い尉による祝言・祝舞となる。

 

「式三番」は、あくまでも神事のためとされてすべての演者は精進潔斎をして臨む。

「式三番」というのは、三柱の神からなる造化三神を連想できる。

神聖とされる儀式や行事には、神聖とされる三がしばしば表される。

様々な面で通常の能や狂言とは異なった特殊なもので、能が式楽とされる一番の理由といっていい演目である。

 

秘すれば花と言う能に対して、幕間の狂言は人の滑稽さを即興劇として演じる。

つまり能を陰とすれば狂言は陽となり、通して演じられる舞台全体は陰陽合一の太極を表すことになる。

能と狂言は陰陽合一の太極を表すからこそ、儀式に奉納される芸能の主役となりえたのだろう。

さらに、演目は能と狂言で九つだが「翁」を加えると十になるし、「翁」は「式三番」とも呼ばれるのでそうなると十二となる。

十と十二とくれば、十干十二支も連想できる。

幽玄が注目される能だが、裏には陰陽思想があるとしか見えない。

これは、決して偶然ではないだろう。

以下に、「脇能物」「修羅物」「鬘物」「狂物」「切能物」について説明する。

詳しいことは専門の書やサイトに述べられているので、さらに知りたい人はそちらを当たって欲しい。

今回は、the.comを参照させていただいた。

 

五番立の番組はそれぞれ一曲ずつ選び、「神男女狂鬼」の順に並べて作る。

そして幕間に、狂言が演じられる。

 

「脇能物」は、「神・男・女・狂・鬼」のうちで「翁」の次に最初に演じるべきとされた曲である。

「脇能」という名称は、「翁」の脇に置かれる曲という意でつけられたとされる。

「高砂」「老松」「賀茂/加茂」など、神を扱った祝言性の濃い内容の曲が多いのが特徴となる。

 

「修羅物」は、「二番目物」ともいう脇能に次いで二番目に演じるべきとされた曲のこと。

修羅とは阿修羅の略であり、仏教の世界観では修羅道は常に戦いの続く世界とされる。

戦とともに一生を送り、死後、修羅道に堕ちたとされる武者の姿が描かれることが多い。

「田村」「通盛」「頼政」など男武者が主人公の曲が多いが、「巴」という女武者の曲もある。

 

「鬘物」は、「三番目物」ともいい脇能、修羅能に次いで三番目に演じるべきとされた曲のこと。

幽玄の趣がある美女や天人が登場し、みやびやかな舞を舞う趣向の能が多い。

三番目物には典雅な男性貴族や、神さびた姿で現れる老体の樹木の精が主人公の曲なども含まれる。

 

「狂物」は、「雑物」「雑能」「四番目物」ともいい四番目に演じるべきとされた曲のこと。

「神・男・女・鬼」のいずれにも属さない曲趣のものは、すべて四番目物に入れる。

様々な原因で精神が揺れ動く、いわゆる物狂いの人物の物語が多いことから「狂物」の名称をつけるとされる。

 

「切能物」は、「切能」「五番目物」ともいい狂物に次いで五番目に演じるべきとされた曲のこと。

一日の演能の終わりに演じられるので、物事の終わりを意味する「切り」をつけて「切能」と呼ぶ。

祝意を込めた曲や、見た目の華やかさを楽しめる鬼退治的な物語が多い。すべての曲に太鼓が加わってテンポよく演じられる。

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誰もが幸せに生きる理想的な世界を考えてみましょう。

神の国と言うと、「神なんかいないのだから神の国などというものも、有り得ない」と思う人が多くないでしょうか。

 

神の国を「誰もが幸せに生きる理想的な世界」と言い変えたら、どうでしょう。

 

「誰もが幸せに生きる理想的な世界」なら、誰だって住みたいはずではないでしょうか。

古の人はそれを「神の国」と呼んだ、それだけのことではないでしょうか。

 

では、どうしたらそういう世界に近づけるのでしょう。

 

それには、個々の人や企業や組織や集団や国が自分の利益の最大化を競い合うことを大前提とする価値観を改める必要があるのではありますか。

 

誰もが自らの必要以上に求めず不足に悩む人や企業や集団や組織や国があれば惜しみなく分け与えあうことが当たり前になるならば、「誰もが幸せに生きる理想的な世界」に近づけるのではないでしょうか。

 

それには、生産や流通の目的を利益追求とする社会から一人一人の需要に寄り添うために行う社会に変える必要があるでしょう。

 

必要を上回る莫大な富を手にする人々がいる一方で明日の糧もままならない人々がいるのでは、「誰もが幸せに生きる理想的な世界」といえるでしょうか。

 

もしかしたら、明日の糧もままならない人々の中に素晴らしい能力や可能性を持っている人がいて、有り余る富の持ち主を喜ばせることをできるかもしれません。

 

しかし今のままでは、永遠にその展望が見えないではないでしょうか。

 

豊かな能力や才能の持ち主が誰もが等しく豊かな富を手にできる機会を保障されるべきであり、その富を惜しみなく分け合い乏しさのために悩む人が一人もいない世界を当たり前にする方がよくないでしょうか。

 

神とは、その理想の実現を求める永遠不滅の権威の象徴と見ればよいではありませんか。

 

そして、私たちの目指すべき境地の象徴と見ればよくないでしょうか。

 

イエスや仏陀が口をそろえて、道を説くのは偶然ではありません。

 

仏教やキリスト教や、古代から綿々と続く教えは至高の存在への道を説く教えなのです。

 

真理が一つである以上、その象徴としての神もただ一人であり沢山の名と数多くの働きがあるために複数の神がいると思われたのに過ぎません。

 

謙虚で素直な気持ちでみんなが力を合わせて課題に向き合うなら、見出す答えもひとつになるでしょう。

 

頑なな心を捨てて、どこまで素直に現実に向き合えるかに人類の未来はかかっています。

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埴輪の向こうに古代中東の姿が透けて見えるのは私だけか。

これまで殉職者の代わりではないかと見られてきた埴輪は、初期の頃は円筒埴輪であったことがわかってきてその位置づけが変わってきた。

なぜに円筒埴輪なのか、神は柱として数えられているがそれと無関係ではない気がする。

死者を守る結界として、神々の力を求めるために円筒埴輪が多用されるのではないかと想像されるのだ。

墳墓の結界としての円筒埴輪がなぜか畿内で古墳や埴輪が廃れていく中で、地方では具体物を象るものになっているという見解が出てきた。

死者を神々の世界に送り、守って欲しいのであれば寺社建築に変わっても良いしむしろそれが自然な流れだったのだ。

高い技能の持ち主たちを庇護するのは、それなのに地位も財力もいるからだ。

中央の機内で古墳や埴輪が廃れていく中で、機内の王権との結びつきを誇示する手段として古墳や埴輪は地方へと伝播したのだろう。

死者を守る結界としての円筒埴輪の意味が忘れ去られていく中で、位置付けも土着信仰や文化と同化していったのだろうか。

古代エジプトの墳墓の死者に仕えるウシャブティや生活を再現する壁画のような役割を担う存在として、埴輪が展開されるように思われる。

だからこそ、死者に仕えるウシャブティ的な存在としての人物埴輪が出てきたり生前の生活を再現する一連の動物や器物を象る埴輪が展開されるのだとしか見えなくなってきた。

太陽神を中心に動物も含まれる八百万の神々世界が繰り広げられる、古代エジプトのような神話世界が日本にはある。

神像がなく賽銭箱があることを除けば、二本の柱が前に立ち拝殿と本殿で構成される神社の構成は古代エジプトに通じる。

狛犬も、古代中東の神や王権の守る獅子を思い起こさせるものだ。

そういえば、天皇の菊花紋でさえ古代中東の王家の紋章に酷似している。

天皇を導いた八田烏も、古代エジプトの太陽神を導いた鳥を想起させる。

日本は、想像以上に古代中東の延長線上にある国なのか。

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AIのある未来は、ユートピアだろうか、それとも、デストピアだろうか。

AIのある未来は、ユートピアだろうか、それとも、デストピアだろうか。

あなたは、考えたことがあるだろうか。

 

AIはビッグデータをもとに判断をする以上、そこには当然私たちの価値観や価値基準も含まれる。

 

AIがどういう判断をするかは、どういう価値観や価値基準を学習するかで決まる。

つまり、AIの下す判断は使う人たちの本音と本心を赤裸々にあばきだしたものになるってこと。

AIの下したあまりの倫理や道徳に照らして問題のある判断に、運用停止した前例もあるそうだ。

 

これから先、科学や技術はこれまで知りえないとか実現は困難と見られていた水準にどんどんと踏み込んでいく。

 

携わっている科学者や技術者は、これまで以上に説明が難しい内容をこれまで以上に一般の市民に向けて知らせていく努力と工夫が求められるようになる。

 

表現力や発信力はこれまでは文系の分野とされてきた傾向があるけど、これからは理系の人々にも磨きをかけてもらわなければならない。

 

それは言い換えれば、文系とされてきた人々もまた科学や技術をどうわかりやすく表現し発信するかを一緒になって模索していくことが求められるとなる。

 

もはや理系とか文系とかの、境目は外す方が良い。

ますます科学や技術も理解を求めて発信力が必要となるし、一般の市民にも科学や技術に自分はどうかかわるかを理解し判断することが求められるからね。

 

紛争解決のためには原理や原則をみんなが守ってとことん話し合うとか、個性や事情は尊重しあい互いに助け合い支えあうとか、すべての人は謙虚で素直になり平等の立場であると認め合うとか、これらの建前をいかにうまく使いこなすか努力している姿や価値観をビッグデータとして学習させる必要があると考える方が良い。

 

さもなければ、デストピアが待っていると覚悟することだ。

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雨ごいの祈りを考えてみる。

雨ごいすると雨が降るというけど、雨ごいしなくても降るよねって言えば否定したと思う人って正しいのでしょうか。

降って欲しいときに降らないから雨ごいをする、違いますか。

逆に言えば、どんなにしても降らないならその人たちには雨ごいの力がないと思われたんじゃなかったかしら。

待てば降るとわかっているときに雨ごいの祈りをするなら、彼らの中では時間を無駄にする愚か者か騙そうとする詐欺師かどちらと思われるのではないでしょうか。

切実に雨が降って欲しいから、雨ごいの祈りをするのですよ。

今だって降って欲しい時に降らなければ、どうしたらいいのか対策を考えるのではないでしょうか。

どういう状況下でどういう事象が起きるか、なぜ調べようとするのですか。

知らなければならない必要があるか、どうしても知りたい抑えきれない好奇心があるからです。

雨ごいの祈りをする必要がある人たちは、どうしても降って欲しいからしていたのです。

そこには、彼らなりの観察や経験の蓄積があったのです。

天動説だって熱素説だってフロギストン説やエーテルだって、それ以外にも今でこそ否定されているけど真剣に信じられていていた考えがありました。

雨ごいの祈りほどの切実さこそないが、研究していた当人にとっては真剣だったのです。

今定説になっている学説だって、新たな展開で天動説や熱素説やエーテルのように否定される段階にならないと誰が言えますか。

天動説は、どんどん精緻なモデルを数学的に積み上げていったが現象の説明や解明は諸説入り乱れて迷路に入り込んでいました。

それらをすっきりと解決した地動説は、今から見ればコロンブスの卵みたいなあっさりとしたものでした。

卵がどうなっているか、素直に見てこうすれば立つと見つけた人は発想を転換しただけです。

現代の科学や技術でも、降って欲しい時降って欲しいところに降らせるのは難しいのです。
降って欲しくない日に降らないように、前倒しで降らせる研究はそれなりに進んでいるようですけど。
頑張ってもできない人となぜかできる人がいるので、なぜかできる人を中心とした雨ごいの祈りがやられてきたのです。
なぜそうなるのか、現代の科学で説明できるかという話です。
神に認められた人が神に認められる条件を整えて、はじめて雨ごいの祈りができる。
雨ごいの祈りは、そうして続いてきたのです。
自然のサイクルで誤差はあっても、何か月かすれば必ずというくらい雨が降るではないですか。
一か月近く降らなくても雨ごいの祈りをするタイミングは、そろそろ降りそうな頃合いなので効いているように思われてきたという方がまだ科学的な説明ではないですか。
観天望気という言葉があるように、それがうまい人がタイミングよく雨ごいの祈りをしようといってそれが当たってきたから効いているように見えていただけだと言えばその方がまだ科学的な態度ではないでしょうか。
誰もが不可能と思っているのに雨ごいの祈りが効く人がいれば、それはなぜかを改めて調べたらいいのではないでしょうか。
そして神の存在しか考えられないとなれば、素直に受け入れるのです。
それこそが、科学的な態度であり姿勢ではないでしょうか。
どういう条件下で、報告された事象は起きたのですか。
まずは、その条件下で再現性があるのか確かめるのが科学的な姿勢であり態度ではないでしょうか。
科学は、技術の現場の問いや要請に応えて発達してきた歴史があります。
もちろん、好奇心からの研究もあるでしょう。
しかし、その好奇心は生活や仕事や遊びの中から出てきたはずです。
そして、どうしてこの場所やこの条件でその事象は見つかったのか気づいたのか調べるはずです。
それは、自分の経験や先入観では説明できないと感じたからではないでしょうか。
自分が知りたいから理解したいから、調べるのではないでしょうか。
どういう条件下で起きる事象か無視して、どこが科学的なのですか。
少なくとも、技術者の取るべき姿勢や態度ではありません。

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年収103万の壁を無理して超えようとするより全国一律最低賃金1500円以上を実行した方が良い。

いま、年収103万円の壁をはじめ、様々な制度上の課題や問題が議論されている。

いわゆる現実的な対応と称する議論をする人たちが、この課題を提起したのだ。

だが、議論をすれするほど乗り越えるべき課題と財源に充てるべきものを探す難問がいくつも立ちはだかる現実に突き当たるだろう。

 

私はこの現状に、これらの聖句を思い起こさずにはいられない。

 

マタイによる福音書 7

13 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。

14 命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」

15「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。

16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。

17すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。

19良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

 

年収103万円の壁、解決そのものは必要だが財源問題もある。

だが下手をすれば、国債増発や消費税増税を財源に充てるという議論が出る可能性も否定できない。

 

日本共産党は企業の内部留保課税で全国一律最低賃金1500円の実現という形で回避の道を示したが、国民民主党は財源も示さず提案したからこういう事態になったのだ。

 

選挙の中で与党は国民民主党の提起に対して、財源に充てるものを言わないとは無責任との批判を避けた。

 

財源問題を言えば、泥沼にはまるのは目に見えていたからだ。

そして日本共産党の提起は黙殺したが、自由民主党は多額の企業団体献金を失うことを恐れ議論に巻き込まれない道を選んだのだ。

 

大手メディアといえば彼らも財界や大企業が主要なスポンサーだし、NHKも予算の審議が国会でなされるので議会第一党の自由民主党を敵に回せば予算の審議に差し支えるから下手な真似は出来ないのだ。

 

課題があるとき、乗り越えるための対応には二通りの道がある。

 

正面突破と、回り道を見出して回避する道を行くことの、選択という二通りの道だ。

 

日本共産党は全国一律最低賃金1500円以上の実現で、根本的に回避する道を示した。

財源問題には、溜まり過ぎた大企業の内部留保に時限立法で課税して中小企業支援に充てるという解決策を示している。

大企業も最低賃金全国一律1500円以上を実施した方が良いことはわかっていても、他が足並みをそろえてくれないと自分がばかを見るからできないでいる。

ならば、政治が権限を使って命令するしかない。

どうせ使い道がなくて溜まっている内部留保だから、ちょっとくらい吐き出したところで当面の経営には大して響かない。

むしろ地方の経済が元気になれば、新たな投資や収益の機会が増える。

やりようによっては、それぞれの企業は吐き出した以上に利益が上げられるだろう。

国債増発や消費税増税を財源に充てることのない道がある以上、国民が選ぶべきなのはそちらの道があるならそちらに進もうと声をあきらめないで上げ続けることだ。

 

そんなものあるかという人には、これらの聖句をお送りしよう。

 

マタイによる福音書 7

7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。

8 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。

9 あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。

10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。

12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

 

先の引用した聖句にある救いに至る狭く小さな道も、諦めずに探した人だけが見出し歩むものなのだ。

 

マタイによる福音書 6

33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。

 

マルコによる福音書 10

14 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

15 よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

実現には、国民が声をあげることが大切だ。

主権者である私たちの声を聞けと、行動を起こすのだ。

声の上げ方には、署名や請願行動をしたりデモや集会で要求実現を求める姿を目に見える形にすることもある。

全国的に各地で創意工夫を凝らした行動を組織すれば、より効果的だろう。

遠回りに見えても、余計な苦労をするより内部留保というお宝があるならそれを使おう。

経済活動が元気になれば、企業は吐き出した内部留保に見合う収益や利益を上げやすくなる。

金は天下の回り物、そして大企業は自分たちのもとに富が集まる構図を作っている。

せいぜい知恵を絞って、市場で回収することを考えた方が良いぞ。

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複素数とは変化の総体に対応する数だ。

何らかの式に虚数が出てくると、これはポテンシャルとか初期状態や初期条件や経路積分や偏微分なんかを扱っているのだろうなとか表には出てこないが時間経過を扱っているのだろうなとか想像たくましくしてみています。

 

虚数とは、二乗されて負の数になる数のことです。

そしてエネルギーの式は、二乗で示されているのです。

 

ということは、虚数とは負の状態のエネルギーに対応するとみるのが自然です。

虚数で表されるエネルギーとは、ポテンシャルにほかならないはずです。

 

さらに負の数と言うことは、式を遡っていることでもあるはずです。

 

その式は、現象がたどるすべての経路でありましょう。

 

つまり虚数とは、すべての経路積分の初期条件や初期状態を内包しているという意味でも、ポテンシャルと言えます。

 

そうなると虚数はそれ自体の中に時間をも内包しているとなるのです。

 

言い換えると、実数とは展開された時間に対応し運動や変化を体現しているとなるでしょう。

 

複素数とは、顕現した時間と内包された時間を表し具体的には運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの総体を表現していることになります。

 

エネルギーの総体の表現が複素数なので、展開される式の中には偏微分や経路積分も当然含まれるでしょう。

 

となると、実数とは展開された後の経路の総体であり、虚数とは内包された展開される前の経路の総体となるでしょう。

 

虚数とは、イマジナリーナンバーなんだからどう妄想しようが私の勝手だろと開き直ってしまいました。

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那智大社はなぜこの地でなければならないのか。

熊野那智大社・飛瀧神社で、火祭りが行われるがそこに扇神輿が担がれる。
恐らく、火は命の象徴であり扇神輿の開いた扇と勢いよくほとばしる滝は一対で陰陽を象徴している。
滝が陽で扇が陰なのだが、陰の扇が開かれ滝から放たれる陽と一体化して陰陽合一の太極が祀りの場に顕現していることを示している。
芸能を奉納するのも子どもや若者というのは、旺盛な生命を象徴し那智の滝や扇神輿や火と呼応している。
御田植式は、豊穣を祈願する生命の象徴に満ちた祀りの結節点に当たるのだろう。
まさにこの祀りこそ、熊野那智大社・飛瀧神社がなぜこの地に祀られるかを雄弁に物語る儀式だと感じる。
この空間は、この儀式にふさわしい聖なる胎内ともいえる場なのだ。

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おちょぼ口の謎。

皆さんの地域や職場や学校などに外国の人が来ていると思うのですけど、英語の発音とか苦労していませんか。

私たちの多くは滅茶苦茶苦労しましたし、今も苦労しているのではないでしょうか。
少なくとも、私は結構苦労しています。
そこで気が付いたのですけど、日本人が英語などの発音で苦労するのは口の使い方の癖が違うからなのですね。
日本語は一つ一つの音を丁寧に発音するけど、英語などはいくつかの音を塊で発音します。
それでついていけないで、口がもつれて慌てるから余計ドツボにはまるのではないでしょうか。
おちょぼ口を、発音のニュートラルなポジションに心がけてみてください。
発音のニュートラルなポジション、言い換えると、発音の基本的なポジションということですね。
はじめのうちは息が切れてしんどいかもしれませんけど、慣れてくるとこの方が発音が楽になりますよ。
試してみてください。
私はなかなか使う機会がないのでないので苦労してますが、話す機会の多い方はこれを気が付かないうちにマスターして発音が楽になったはずです。
多くの言語でおちょぼ口が発音のニュートラルなポジションなのは、現代の私たちの祖先が中東から世界に散っていった名残なのでしょうか。
そういえば、おちょぼ口に当たる言葉って、ほかの言語にありますかね。
啜るときとか口笛のときとかしか使わない口の形だから日本語ではおちょぼ口という言葉ができたので、ほかの言語では発音の当たり前なニュートラルなポジションなので当たり前過ぎて誰も気にしないからなのでしょうか。
外国語の発音に四苦八苦しながら、気になったので話題にさせていただきました。

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やはり猫はイエスのメタファーだった。

 

猫は聖書では旧約聖書続編として扱われる、エレミヤの手紙とも呼ばれるバルクの書に登場します。

エレミヤの手紙は一章だけなので0章とされるが、バルクの書では第6章に数えられています。

 

新共同訳

エレミヤの手紙 00 21節 

その体や頭の上を、こうもりやつばめ、小鳥が飛び交い、猫までやって来ます。

聖書協会共同訳

エレミヤの手紙 00 21

その体や頭の上を、こうもりやつばめ、小鳥が飛び交い、猫さえそこにいます。

 

興味深いことに、「猫まで」「猫さえ」と猫は偶像崇拝に訪れる者たちの最高位に例えられているのです。

 

これは、猫がイエスのメタファーであることを知らなければ謎が解けないことを意味しているのです。

 

思い出してください、イエスはダビデの系譜に属する人物として聖書に記されています。

 

ダビデはユダの系譜だが、ユダは獅子になぞらえられているのです。

 

獅子はネコ科です、そして、猫はイエスのメタファーです。

 

これ、偶然ですか。

 

ちなみにエジプト神話で太陽神ラーの怒りの象徴としての雌ライオンの女神セクメトは、怒りを鎮められると大人しくなってメス猫の女神になっております。

 

聖書に出てくる獅子は、王者の象徴であるとともに最強の悪の強者としてサタンになぞらえられる存在としても登場する二面性を持っています。

 

善と悪の二面性は蛇が有名だが、獅子もそうなのですね。

 

獅子は百獣の王とされるが、イエスは王の中の王という点でまさに獅子になぞらえらえる存在でもあると言えます。

ここで興味深いのは、旧約聖書ではしばしば怒りに任せて逆らうものを容赦なく滅ぼしていたのに新約聖書ではどこまでも優しい愛の神としてイエスは登場してくるのです。

 

怒りの女神メスライオンのセクメトは怒りを納めておとなしいメス猫女神に変わりましたが、この対比は偶然とは思えません。

 

やがて裁きの神として再臨するイエスは、血染めの衣でメルカバ―にお乗りになります。

 

そしてさばきが終われば、優しい愛の神に戻られます。

 

聖書にネコは出ないどころか、獅子とイエスに形を変えて出まくっているのです。

 

だから、偽イエスの象徴は猫でなければならないとなるのです。

 

これが、エレミヤの手紙の猫の謎解きでした。

追記

聖書に出てくる猫は、旧約聖書続編として扱われるバルクの書の一部であるエレミヤの手紙だけなので苦労しました。

これまで何度か扱いましたが、一応一区切りついたことになります。

聖書には猫の出てくる記事もあった。

 

聖書は誰の目線で書かれているか。

 

猫は侮れません。

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国民が声をちゃんと上げるべき時に上げてこそ国は健全になる。

かつて国家の成り立ちを人体に例える国家観があって、国体という言葉があった。
権力を頭脳に国家の様々な機関を臓器や手や足になぞらえたアナロジーで、国は体のようなものだから略して国体という。
頭脳が体で一番偉いから、他の者たちは頭脳の当たる権力に従えというわけさ。
だけど、最新の身体に関する研究はすべての臓器がすべての臓器に依頼したりされたりしながら連携して仕事をしている実態を明らかにした。
つまり、体のどこかが特別なんじゃなく、体の臓器はすべて役割分担しているってことじゃないかしら。
脳が果たして特別なのかと言えば、他の臓器がまともに働いてくれるから生きていられるわけでしょ。
どう生きなきゃならんか考える責任があるけど、感覚器が獲得してくれた情報がなきゃ何も考えられないし四肢がなければ何もできない。
持ちつ持たれつなわけよ。
世の中も同じ事で、権力っていうけどそれぞれの部署でちゃんと仕事を役割分担してくれるから仕事をやれる。
持ちつ持たれつなのは、世の中もこの体も似たり寄ったりだよね。
何威張ってやがる、俺たちが役割果たさなきゃ何もできない癖にね。
となれば、経済活動と言えども臓器の役割分担の作用と類似の推測をしたっていいし、むしろその方が適切な処方箋が書けるはず。
企業の内部留保は、体に例えたら体脂肪みたいな役割分担をしている。
体脂肪も適切な量なら健全だが、溜まり過ぎは健康を害する。
皮下脂肪ならまだしも内臓脂肪となれば、問題は別。
溜まり過ぎて内臓脂肪みたいになった内部留保は、体を動かして消費するように経済活動を動かして消費しないといけない。
個々の企業任せでは損したくないから動こうとしないのだから、政治の出番だ。
一時的に課税して中小企業にも最低賃金を上げさせて、全国一律で実施しなきゃだめだ。
少なくとも1500円から2000円以上に上げないと、今の物価にあわない。
頭脳を自負する権力がグズグズしているなら、国民の声で実施を迫らないとだめ。
そうしないと国は、いつまでも健康にならんぞ。
待っているのは、病床でただ寝ているのと大差ない。
必要なレベルのリハビリテーションで、機能回復を図らんと機能は衰える。
国民が国家の健康回復のために、適当に動かんと国もどんどん衰えるぞ。

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猫で繋がる古代エジプトと古代イスラエルと日本。

友人に聞いた話ですけど、ネコジャネコジャと言いながら樽神輿を担ぐ猫が描かれた手拭いを京都土産にもらったことがあるそうです。
余談になりますが、イエスのメタファーは猫だそうです。
それとイエスは太陽神になぞらえられますが、古代エジプトの太陽神ラーの目からライオンの女神セクメトが産まれたが大人しくさせたら猫の女神バステトになったという話も聞いたことがあります。
夜の世界を行く太陽神ラーを守る存在の中に、猫があげられるというのも面白いですね。
この辺り、何があるのか興味がひかれるところです。

日ユ同祖論で挙げられる定番ネタに、古代イスラエルの神殿と日本の神社の数々の類似があります。

二本の柱が前に立ち拝殿と本殿の構図は聖所と至聖所の構図に類似しているばかりか、賽銭箱があり裾に房のある衣装を身に着けた神職が日本は榊で古代イスラエルはヒソブと木の枝を持ち清めの塩を用いることまで似ているのです。

極め付きは、聖櫃とも契約の箱とも呼ばれるアークと神輿の類似です。

どちらにも羽の付いたオブジェが全面金張りの箱に乗り原則として外されることがない担ぎ棒がつくという、共通点があります。

古代イスラエルでは、神職はレビの一族が担っていました。
面白いのは、今でこそ職業選択の自由の対象に神職も入ってしまいましたが、神職も基本的には世襲で禰子と呼ばれます。
神殿の奉仕の中心は、古代イスラエルではアロンの子孫が担いました。
天皇も神職の一員ですが、神職の元締めということでオオヤマトネコ(大大和根子)と呼ばれます。
古代エジプトや古代イスラエルと日本が猫で繋がるなんて、やはり猫はミステリアスですね。
追記
2010年代くらいまでは、イエスを他の動物になぞらえるものはほとんどない状態でした。
当時はJesus catで画像検索をかけるとたくさんでてくるが、jesus dogなど他の動物になぞらえるものは皆無だったのです。
でも、多様性を認めろという時代の流れですね。
他の動物になぞらえる人が、続々と画像などをアップするようになっています。
社会学的には興味深い現象かもしれませんけど、歴史的な文化研究の立場からみると複雑な気持ちですね。

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モーセの子孫はどこにいる?

聖書を読んでいて思うのですけれど、ちょっと気になる記述が歴代誌にあります。

歴代誌上 26章
24 モーセの子ゲルショムの子であるシェブエルが宝物庫の責任者であった。
25 ゲルショムの兄弟エリエゼルに属するのは、その子レハブヤ、その子エシャヤ、その子ヨラム、その子ジクリ、その子シェロミト。
26 このシェロミトとその兄弟たちが、ダビデ王や親族の頭たち、千人隊および百人隊の長たち、将軍たちが聖別した聖なるものを納める宝物庫すべてを管理した。
ここで言う宝物庫とは、古代のイスラエルの神殿の宝物を納めた場所のことです。
アークは神殿の言わば御神体のような存在なので、宝物には入らないと言えばそうかもしれません。
アークは、契約の箱とも聖櫃とも訳される十戒石の収められている箱のことです。
モーセは、アークに収めれている十戒石を神から授かった人物なのです。
そのモーセの子孫が、アークを祭る神殿の宝物庫で責任名なのは偶然でしょうか。
アークは羽のある向かい合った一対のケルビムの乗った蓋と担ぎ棒の付いた収納スペースからなる金で覆われた箱で、大きさは一般的な神社の神輿に似ています。
初めて神輿を見て、なんでアークが日本にあると戸惑う人がいるそうです。
そのアークが、いまだに行方不明なんですよね。
日本の神輿はアークに似ていると指摘されますが、その神輿が二本の柱が前に立ち拝殿と本殿に分かれ偶像がないが賽銭箱はある神社に収められているけど神社の構成は神殿の構成と酷似しています。
神職は、裾に房のある衣装で榊を持ち清めの塩を用いるところも神殿の奉仕者と酷似しています。
これでもしアークが日本に来ていたなら、まさかモーセの子孫が持ち込んだなんてことはないでしょうね。
ルカによる福音書 12章
2 覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはない。


その時が来るまで、隠されているのでしょうか。
アークが奪われたりしないように、ひそかに守っているのでしょうか。
どうにも、気になります。

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