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誰もが幸せに生きる理想的な世界を考えてみましょう。

神の国と言うと、「神なんかいないのだから神の国などというものも、有り得ない」と思う人が多くないでしょうか。

 

神の国を「誰もが幸せに生きる理想的な世界」と言い変えたら、どうでしょう。

 

「誰もが幸せに生きる理想的な世界」なら、誰だって住みたいはずではないでしょうか。

古の人はそれを「神の国」と呼んだ、それだけのことではないでしょうか。

 

では、どうしたらそういう世界に近づけるのでしょう。

 

それには、個々の人や企業や組織や集団や国が自分の利益の最大化を競い合うことを大前提とする価値観を改める必要があるのではありますか。

 

誰もが自らの必要以上に求めず不足に悩む人や企業や集団や組織や国があれば惜しみなく分け与えあうことが当たり前になるならば、「誰もが幸せに生きる理想的な世界」に近づけるのではないでしょうか。

 

それには、生産や流通の目的を利益追求とする社会から一人一人の需要に寄り添うために行う社会に変える必要があるでしょう。

 

必要を上回る莫大な富を手にする人々がいる一方で明日の糧もままならない人々がいるのでは、「誰もが幸せに生きる理想的な世界」といえるでしょうか。

 

もしかしたら、明日の糧もままならない人々の中に素晴らしい能力や可能性を持っている人がいて、有り余る富の持ち主を喜ばせることをできるかもしれません。

 

しかし今のままでは、永遠にその展望が見えないではないでしょうか。

 

豊かな能力や才能の持ち主が誰もが等しく豊かな富を手にできる機会を保障されるべきであり、その富を惜しみなく分け合い乏しさのために悩む人が一人もいない世界を当たり前にする方がよくないでしょうか。

 

神とは、その理想の実現を求める永遠不滅の権威の象徴と見ればよいではありませんか。

 

そして、私たちの目指すべき境地の象徴と見ればよくないでしょうか。

 

イエスや仏陀が口をそろえて、道を説くのは偶然ではありません。

 

仏教やキリスト教や、古代から綿々と続く教えは至高の存在への道を説く教えなのです。

 

真理が一つである以上、その象徴としての神もただ一人であり沢山の名と数多くの働きがあるために複数の神がいると思われたのに過ぎません。

 

謙虚で素直な気持ちでみんなが力を合わせて課題に向き合うなら、見出す答えもひとつになるでしょう。

 

頑なな心を捨てて、どこまで素直に現実に向き合えるかに人類の未来はかかっています。

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