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2024年12月

教会の聖餐式ってどういうことでしょうか。

今、多くの教会で聖餐式ではパンと水が用いられています。

ちなみに聖餐式のパンと水は、イエスの肉と血の記念とされています。

それは、イエスのこの言葉によるのです。

「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネによる福音書 6章 54節)

ところが最後の晩餐では、イエスの肉としてパンがイエスの血としてワインが用いられているのです。

今多くの教会の聖餐式で、ワインではなく水がイエスの血の象徴なのにです。

イエスは「言っておくが、私の父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(マタイによる福音書 26章 29節 )と言っているので、それにならってワインを聖餐式に使っていないというのもあるがそれ以上の意味があるのです。

当然ですが、車で聖餐式に来た人が飲酒運転で逮捕されないためだけじゃもちろんありません。

新約聖書のルカによる福音書には、有名なマルタとマリアの物語があります。

イエスの話に耳を傾けるマリアと、もてなしのために忙しく立ち回るマルタの話です。

姉のマルタはイエスに向かいもてなしの手伝いをしないマリアに注意して欲しいと頼むと、イエスはマリアは大切な方を選んだとたしなめます。

イエスにとってのもてなしとは、話に耳を傾けることであり飲食の提供を受けることはそのついでにしか過ぎないのです。

ヨハネによる福音書にはイエスとサマリアの女の話があるが、イエスは食事を勧める弟子たち向かいそれよりも大切なものがここにあると答えています。

それがサマリアの女が自分の言葉に耳を傾けたことであるのは、明らかです。

ヨハネによる福音書には、イエスがサマリアの女に語った言葉として「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」とあります。

ここから見えるのは、イエスの血とはイエスの語る言葉でありそれは永遠の命に至る水と言うことなのです。

そして、イエスは言います。

「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネによる福音書 6章 35節 )

つまりパンは、イエスの肉の象徴なのです。

そこで、合わせてこうなります。

「私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。」(ヨハネによる福音書6章 55節56節
つまり聖餐式のパンと水はイエスの肉と血を自分自身の肉と血としますと聖約を交わす証と言うことであり、さらに水は永遠の命に至るためにイエスに従うとの意思表示の象徴と言うことなのです。

聖餐式は単なる最後の晩餐の追体験だけでは、ないのです。

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塩麴を味わいながらふと思う。

塩麴という調味料があるが、乾燥米麹と塩と水さえあれば一週間から十日ほど毎日ちゃんとしっかり混ぜさえすれば誰でも作れる案外と手軽な代物である。

塩はできたら美味しい海の塩などを使った方が、味はまろやかになる。

というよりも、本来の塩麴は海の塩で作られるものだから言うだけ野暮と言うものだ。

塩麴は、万能調味料と言う人もいるくらい豚肉や鶏肉や魚や野菜など多くの食材と相性が良く料理の幅を広げる。

嬉しいことに塩麴には消化吸収をサポートし、食材の保存性を向上させる効果がある。

麹は味噌や醤油や酒を作るのに使う発酵食品であるけど、酒を除いて味噌や醬油を作るのにも塩が使われている。

味噌や醬油は、魚醬で魚を使う代わりに大豆や米や麦で作った醬油と見ることができる。

そう思うと、実はお手軽に作れる塩麴は味噌や醬油や魚醬の親戚筋にあたる調味料ではないか。

魚醬というと、アジア特に東南アジア沿岸部を中心に東アジアの日本や中国なども含めいくつかの文化圏で用いられている。

その魚醤文化圏には古代ローマの範囲も含まれ、ガルムという魚醬が使われていたがイタリアには今でも伝統的な魚醬であるコラトゥーラがある。

海産物で作られる醤油には、オキアミが原料なものもあるがその多くがアジアで作られている。

ちなみにケチャップは今でこそトマトが材料だが、もとは魚醬を含めた発酵調味料である。

今でこそ魚醬はアジアがメインな印象があるが、塩と材料さえあれば作れるのでどちらも比較的容易に手に入り発酵食品ができやすいアジア特に南アジアから東南アジアに広がり定着したのかもしれない。

現代日本人の遺伝子は東アジアの中では最も西方に近く家族性地中海熱のアジアの飛び地であることを思えば、日本人が塩麴を万能調味料として重宝するのは故郷の地で食べていた魚醬を塩麴で代用していたからなんだろうか。

そう思えば、イカの塩辛なども魚醬文化圏の中に入れていいのか。

オキアミが材料だって、魚醬の仲間に数えられるのだからね。

魚醬の奥は、意外と深いのか。

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神は科学や技術に形を変えて今も生きているのではないか。

神なんていないという人の中には、神がいるなら何でこんなことになるんだと言いたいこと多いじゃないかと言う人がいる。

神がいるならどうしてこうなったと言いたいことは人類が誕生してから数え切れないほどあるのに、どうして長い間人類は神を信じ神を恐れてきたのかあなたは考えたことがあるか。

人類は生き延びるために、必死になって世界に働きかけて知識や情報や知恵を蓄えて活用しながら今日まで来たはずだ。

生き延びるために蓄えてきた知識や情報や知恵を活用して、彼らなりに世界に働きかけてきた。

それらは科学と呼ばれなかったが、彼らなりの科学や技術の体系化を試みて来たことは間違えない。

彼らなりにこの世界に適応できて来たから、その子孫として私たちが生きているのだ。

彼らから生き延びるために科学や技術を磨き上げる術を、受け継いで来たから私たちも科学や技術を発展されている。

神がいるならなんでこうなる、ではなく神がいるからこうなったとすべてを理解することで生き延びてきたのだ。

幸せは神の恵みであり不幸は神の怒りと思い、感謝と恐れを神に伝えて祈ってきたのだ。

確かになかには、非科学的な儀式や残酷な生贄もある。

だが、動物実験という名の生贄を今も科学者は科学と言う神に捧げていないだろうか。

臨床治験と言う名の人身御供を、科学と言う神に捧げていないと言えるだろうか。

様々な社会実験的な試みでさえ、ある意味では科学と言う神に捧げている犠牲とどう違う。

見せかけの現象という名の偶像崇拝に振り回され、誤りという名の偽預言に惑わされる日々が今もないと言い切れるか。

そう、昔も今も神は真理や真実や法則や規則の体現者なのだ。

体現者だから、人のように対応してきたのだ。

いつの間にか宗教は迷信や既得権益や様々なしがらみと結びついてしまったので、効率や能率を追求する社会になってしまった現実の足枷になった宗教から効率や能率を保証してくれる科学へと神を取り換えただけの話である。

宗教にもともと社殿なんてものはない、確実に神を感じたいからそういう場としての社殿を作りいつの間にかそこに行かないと会えないと思い込んでしまっただけなのだ。

至る所で問いかけという名の祈りを、今も人々は科学と言う神に捧げているのだ。

だが個々の科学は個々の神々に過ぎないから、最終的には寺や神社や教会などでさらに格上の神に成功を祈るのではないか。

この傾向は、面白いことに最先端の科学者や技術者ほど目立つと聞く。

未知の領域に踏み込んでいく不安を紛らわす気休めと、言い訳しながらね。

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資本主義は市場経済の一段階に過ぎないと知ろう。

私は資本主義を卒業しようと主張するが、市場経済をダメと言ってはいない。

市場というと、資本主義とイコールであるかのように誤解している人はいないだろうか。
「市(いち)」「市庭」とも言う市場(いちば、しじょう 、マーケット)とは、定期的に人が集まり商いを行う場所、あるいは、この市場(いちば)における取引機構に類似した社会機構の概念を指す。
市場は、生産と流通の発展段階に応じてそれぞれの時代や地域ごとに様々な形で営まれてきた。
だから、資本主義以前から営まれてきた市場や市場にちなむ地名は世界各地にある。
そして日本語における「市」あるいは「市場」という語は、中国の『易経』繋辞下伝にある神農の伝説「日中為市、致天下之民、聚天下之財、交易而退、各得其所」に由来するとも言われている。
つまり資本主義という社会と経済の仕組みがなくなっても、市場は残るのだ。
資本主義は、市場経済の歴史の一つに過ぎない。
勘違いしないようにして欲しい。

市場はこの社会にどのような財やサービスが、供給されているか需要があるかをリアルタイムで反映している。

市場は供給と需要のバランスを自動的にとってくれる、それ自体は非常に優れた仕組みである。

問題は、その後にある。

資本主義ではどうしても、供給が過剰になると最悪の場合企業の倒産や大量の失業者が出る。

その事態を避け、少なくとも緩和するために様々な努力がなされてきた。

だがそれは、後々の需要の先食いになってしまう場合が多くどこかで帳尻合わせをする必要がある。

為政者は自分の時にそれが起きて欲しくないから、無理矢理先延ばししているに過ぎない。

それは結局、利潤の追求を基本的な目的にした経営であり経済だからである。
資本主義を卒業し、生産と流通を必要と人びとの幸せのために行い惜しみなく助け合い支えあう社会に帰ればいいのだ。
それが一番困難になってしまったのが、利潤の追求を原則としている資本主義社会なのだ。
もう十分に生産と流通をすべての人にいきわたらせるだけ、発展させた。
あとは、どう使うか考えようではないか。

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就労は何のためにするのだろう。

資本主義を卒業することが、人びとの幸せのために必要なことは明らかではないだろうか。

就労は本来、誰にとっても働く喜びと社会の中での居場所の確保という側面がある。

だがそれには、個々の職場の努力では無理なので社会全体の合意にならないといけない。

資本主義は利潤の獲得を目的とし利潤の最大化を競うので、どうしても効率や能率を追求する傾向があるからだ。

そのために日本では、障害者の就労支援のために様々な形で作業場所が作られてきた。

 

しかし「障害者の権利に関する条約」では、無差別で社会への完全かつ効果的な参加及び包容的に差異の尊重並びに人間の多様性の一部及び人類の一員としての障害者の受入れを行い機会の均等を実現することが批准した各国に求められている。

そこで障害者の就労は、支援のための施設から一般の職場への移行が求められることになる。

障害者の一般職場での就労促進には、一般の就労もまた効率や能率一辺倒ではなくまず働く喜びのための就労に変えなければならない。

 

とは言え、障害者は能率や効率を追求するとついていけない場合がある。

障害者にとっての就労は、働く喜びと社会の中での居場所の確保という側面の方が強い。

そしてこれは、本来誰にとっても必要なことではないのか。

ということは、障害者の働く喜びと社会の中での居場所の確保は就労環境のユニバーサルデザインになりえることになる。

 

効率や能率を重視する以上、障害者や何らかの形でハンディキャップのある人の就労の機会はどうしても厳しくなるのが資本主義のある意味では宿命と言える。

やはり、資本主義を卒業してこそ誰もが働く喜びと社会の中での居場所の確保としての就労が安定して可能となる。

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核子とクオークを見直してみた。

面白いことに、核子やクオークは接近しても重力で衝突する事態にはならないとわかっている。

もっとも核子はあえてぶつけたら衝突するのだが、それには相当なエネルギーが必要だ。

何かの作用が働いて、衝突しないようになっているとしか考えられない。

となると、この何らかの作用は斥力と考える方が自然だ。

では、この斥力の正体とは何だろう。

すべての物質には大小の違いはあっても、重力場が伴っている。

では、この重力場はどのようにして発生しているのだろうか。

ありとあらゆる物質には、絶対零度になってもなくならない物質波がある。

この物質波によって、時空の振動が生じて重力波が発生している。

重力波の伝播現象が重力であり、重力場でもある。

物質波によって、時空にポテンシャルが蓄積しそれが解放されて重力波が生じる。

恐らくクオークや核子ほどの大きさだと、周囲の重力ポテンシャルが何らかの形で弾性力を発揮し相互の衝突が回避されている。

クオーク間の引力は離れるほど強まるのではなく、個々のクオーク表面の重力ポテンシャルの弾性が弱まるのだ。

結果として、クオーク間の引力の方が勝る。

クオーク自体は軽いのだが、周囲のポテンシャル領域のエネルギーが持つ仮想的な質量の作用もまた加わっているのかもしれない。

クオークの閉じ込めには、まだ謎は多いがグルーオンの到達距離にクオーク間の距離が何らかの形で制約を受けているのは確かだろう。

ただ言えるのは、軽いはずのクオークから陽子や中性子の重さが産まれるメカニズムの中にクオーク閉じ込めの原因が隠れているのは間違いない。

陽子や中性子からなる原子核の質量が、核子の質量の合成より軽いのと対照的であることが核分裂が起きやすい理由だろう。

原子核の結合エネルギーが核子の質量欠損によるので、核子のエネルギーが励起されると結合エネルギーに打ち勝って核子が飛び出す。

クオークは、本当に軽いのだろうか。

もし本当のクオークの質量はもっと重いので、質量欠損によって生じた結合エネルギーを振り切るのが容易でないとしたらどうだろう。

重い物資ほど慣性質量が大きいので動かすのに強力な力がいるとしたら、軽いはずのクオークと核子の質量の差もクオークの閉じ込めも説明が付くのではないか。

これはあくまでも仮説だが、新しい理論を苦労してひねり出すよりはましなのではないか。

そうしたら、クオーク間の弾性力の大きさも理解が容易になるのではないか。

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光さえあれば発電するペロブスカイト太陽電池はどこまで普及できるのか。

再生可能エネルギーの普及が広がるなか、生成AI関連事業には大量の電力が必要であるので電源としての原発に注目が集まるという見方がある。

再生可能エネルギーは安定性に欠けるし、通常の需要に応えるのが今のところ手一杯だからだろう。

しかしその一方で、日本初の技術であるペロブスカイト太陽電池がシリコン系に匹敵する性能に達し世界中の企業がしのぎを削っている事態になっている。
ペロブスカイト太陽電池とは「ペロブスカイト」という鉱物の結晶構造を利用した太陽電池で、軽くて柔軟な太陽電池が作れたり製造コストを抑えられたりすることから次世代の太陽電池として注目されている。
日本にとってうれしいのは、レアメタルが要らないのとほとんど国内の資源だけで作れることだ。
日本でも産業化の準備が進むが、普及すれば原発6基分は賄えるという。
これが世界中に広がれば、原発何基分になるかという話になる。
何しろ光さえあれば良いので室内の照明でも発電ができるのだから、蓄電池と組み合わされば丸々一日分やりかたによっては十分行ける施設や設備は多いだろう。
軽くてどこにでも使えるから、スマートフォンやタブレットやノートパソコンの充電もこれさえ持ち歩けばコンセントや電池を気にすることがないとなる。
服だろうと帽子だろうと、印刷技術で作れるペロブスカイト太陽電池の装着できる場所は至る所にある。
ペロブスカイト太陽電池は小さな結晶が集合して膜になっているため、曲げたり折ったりすることができる上に重さもシリコン太陽電池の10分の1程度と軽いからである。
もちろん、壁やベランダにも簡単に付けられる。
だから、日本だけで原発6基分以上実際には行けるかもしれない。
材料の一部に鉛を使っているのでリサイクルを見越した技術開発も並行して進める必要があるとはいえ、中国に優位を奪われたシリコン系の二の舞を踏むことがないように願いたい。
AIの電源も、大半はプロブスカイト太陽電池に任せろとなってもらいたいものだ。
廃棄物の厄介さは、原発の方がまだまだ半端じゃないわけだから。

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明治になって南朝を正統としたとされるが三種の神器の所在だけが理由なのか。

明治維新の時に皇居とされた江戸城跡だが、その皇居前には南朝のために戦った楠木正成の銅像がある。

楠木正成の銅像が皇居前に置かれたわけは、明治時代に入ると三種の神器の所在などから南朝を正統とする見方が強まり南朝天皇に忠義を尽くした楠正成は正義である、という考えが生まれるからとされる。
だが南北朝は1392年に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡したことで合一し、以降歴代天皇は北朝の子孫となっていたはず。

そこで、明治天皇はすり替えられたなどという説も出る。
ここで気になるのが、九州の二つの菊池神社の存在である。
福岡県の菊池神社は、鎌倉時代末期に後醍醐天皇による倒幕の魁として博多で玉砕した菊池武時を祭神とする。
主祭神​は、菊池武時命のほかに仁徳天皇と埴安大神を祀る。
明治2年(1869年)、藩主・黒田長知によって墓碑地に社殿が建立される。
昭和8年(1933年)4月4日には県社に昇格している。
熊本県菊池市に鎮座する菊池神社は、南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏の3代を祭る。建武中興十五社のうちの一社である。
菊池神社の鎮座祭は明治3年(1870年)4月28日に行われ、この時に主祭神を菊池武時とし、武重と武光を配祀神とした。
旧社格は別格官幣社で現在神社本庁の別表神社。
つまり菊池神社は南朝側で戦った菊池一族を祭神として祀るにもかかわらず、明治になって社殿が建ちそれぞれ県社や別格官幣社となっている。
これもやはり、南朝を正統としていなければ有り得ない待遇である。
天皇側で戦った人たちを顕彰したというにしては、建武中興十五社の祭神の中には北朝を敵に回した人たちを祀る神社は他にも存在する。
北朝は正統ではないから、敵に回しても構わないというのだろうか。
そもそも明治維新で担ぎ出されたのが北朝方の天皇なのであれば、わざわざ南朝を正統と言わなくても良いはずではないか。

南朝を正統としたのは三種の神器の所在などからというが、北朝に三種の神器は渡っているとしたら北朝が正統だと強弁しても良いのではないかとの疑問は残る。

楠木正成や菊池一族への対応、やはりなにかあったと勘繰られても仕方ない気はする。

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宗教と哲学と科学はもはや一体化すべき時が来た。

今、世界は二通りの価値観や世界観に分裂や分化しているのではないだろうか。

一方は神を認める価値観や世界観であり、もう一方は神を認めない価値観や世界観である。

とは言え、私たちの価値観や世界観の出発点は宗教であったはずだ。

長い間、宗教は哲学でもあり科学でもあった。

宗教は、哲学や科学や倫理や道徳や場合によっては技術さえも含む時代が長かった。

世界に対する知識や情報や認識が深まり、次第に哲学が発展し始める。

哲学は、神が作られたこの世界はどうなっているのか知りたいという欲求から始まっている。

なにかものを作ろうとするとき、世界はどうなっているか知る必要が高まったのである。

そしてさらに技術の水準が上がってくると、認識が深まり科学が産声を上げる。

こうして、宗教と哲学と科学はそれぞれ影響を与え合いながらも独自の展開をする段階を迎える。

けれども、科学や技術はその発展の結果として以前なら神の領域とされてきた水準に入ってきているのではないか。

その証拠に、科学や技術はその様々な分野で倫理や道徳や価値基準の確立と実践が課題になりすでに何年も経っている。

一般市民に身近なところでは、情報倫理や情報モラルやデジタルシチズンシップなどだろう。

私たちは技術や科学をどう利用し活用して生活を豊かで便利で快適なものにしていくか、あらゆる分野で考える段階になる時代に生きている。

そして活用や利用を考えるべき科学や技術は神の領域とされてきた段階になった以上、倫理や道徳や価値基準もまた神の領域に踏み込んでいかざるを得ない。

かつて、それぞれの理解を深めるため分かれてきた宗教と哲学と哲学は境目の消える時代に入ってきたのではないか。

宗教と哲学と科学は、より高次な段階で一体化を追求する段階に入ってきたのではないか。

そしてその統合は、実践によって検証しながら衆知を結集してなされるべきである。

人類の共有とならなければ、それは実現できないからである。

 

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ディープフェィクの広がりによっても、もはや倫理や道徳や価値基準も神の領域になる必要がある段階に来ているのではないだろうか。

今や、様々な分野の科学や技術はその最前線でかつてない水準に達し、以前なら不可能なことと思われていた段階にある。

それはかつてならそれが出来たら神の領域と呼ばれるだろう水準であり、当たり前になるといつの間にか誰もが出来てしまう人の領域になってしまったものたちである。

それによって受けられる恩恵も、広がっている。

だがその一方で、負の側面の広がっている事態も深刻になりつつある。

AIによるディープフェィクも、ある意味ではかつてこれが出来たら神と呼ばれた領域のものが今や小学生でさえアプリさえ手に出来れば可能になる段階になってしまった。

そして、悪用や乱用やほとんど犯罪行為と言える段階にまで達している。

言ったことやしたことのないものがでっち上げられるディープフェィクが深刻になっているが、その多くは事実関係を確認することが難しいのが実態なのだ。

結果としてディープフェィクによって侵害された名誉の回復に苦労する人も、多くなってきている。

その一つである性的なディープフェィクもまた勝手に作られた本人や家族を深刻に傷つけるのに安易に作られ拡散されるとなれば、誰もが被害者にも加害者にもなりえる。

そこで法的規制が問題になるが、そしてそれはもちろん必要があるだろうが、やはり基本は倫理や道徳や価値基準の確立と向上となるべきである。

ここを抜きにして、規制ばかりが独り歩きすることがどれだけ息苦しい社会の原因になるか考えた方が良い。

神がいるかいないかではなく、かつて神の領域とされてきた領域の科学や技術が人の領域になってしまった以上は使いこなす人もまた倫理や道徳や価値基準を神の領域にまで引き上げる必要があると認識を改める段階にきたと自覚した方が良い。

そのための真剣な義論が、始まって欲しい。

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資本主義は新しい可能性を次々と生み出すかもしれないが、資本主義からの卒業にこそそれらは役に立つことになる。

資本主義は基本的に需要と供給のバランスを市場経済にゆだねるので、どうしても景気の変動が避けられない。

そこで、需要と供給のマッチングの試みとしてシェアリングエコノミーのビジネス化が進んでいる。

だが、シェアリングエコノミーは資本主義を救うのだろうか。

シェアリングエコノミーは新しく購入したものや家などの空きスペースを共同使用することもあるが、中古のリサイクルも活発化するなど基本的には新製品の流用を減らす方向に働き景気を低迷させる可能性もある。

シェアリングエコノミーで活性化するのは、仲介業や修繕業などだろう。

一方で、新品は生産量が減るので高価格化しそれに見合う高品質化や高性能化するだろう。

それを購入できる高所得者層と、シェアリングによって共有するために対価を払うために雇われて働く人に分かれる。

そして働く人も、生産量の少ない新製品の生産と流通に携わる人とシェアリングエコノミーを回すために労働する人に分化するのではないか。

そうして、所得の二極分化を激しくする方向に向かう可能性もある。

資本主義を部分的に修正すると新たな歪みが生まれるだけということは、これ以外の取り組みでも変わることはない。

資本主義を卒業した後に展開される様々なビジネスのモデルが、生まれて多様化して延命措置としての幻想を振りまくだけである。

基本的な解決は、利潤追求から生産と流通を一人一人の必要に応えたものに変え幸せのために行われる方向に転換するしかないのである。

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草の根の交流による平和のネットワークを追求しないのはなぜだ。

世界の平和は、誰もが望んでいる。

だが、なかなか実現しないのはなぜだ。

発想の転換ができていないからだ。

草の根の交流による平和の構築こそ、カギを握るのだ。

そして、その可能性をぶれることなく追求するのだ。

抑止力による平和の確保という発想は、力のバランスを崩す新たな勢力が登場すればもろくも崩れ去る。

例えば清国を破った新興国家日本の登場は清国の植民地化競争を産んだが、それは当然日本の参加という不確定要素を巻き込むことになっていく。

制御不能な抑止力行使の事態の連鎖によって、第二次世界大戦はある意味起こるべくして起きたと言えるのだ。

神の領域に入った科学や技術は悪用や乱用や軍事利用によって、見方によっては核兵器を上回る恐怖をもたらす兵器の開発につながる。

そうなれば核兵器の禁止が実現しても、新たな恐怖の均衡を模索する状況を誘発してしまう、

ついていけないと痛感した国の中には、相手の国の不満分子を挑発してテロリストによる恫喝に走るところも出る可能性もある。

そしてテロリストの暴走が、新たな恐怖の連鎖を生み出す。

抑止力行使による平和の確保と言う発想は、報復と恐怖の制御不能な連鎖を産むことが懸念される。

だとしたら、たとえどんなに時間がかかるとしても対話による平和の確保を追求した方が良い。

野党外交や民間外交を含む、多層的で重層的な草の根の交流による相互理解の深まりを追加するのだ。

かつて王侯貴族たちは婚姻関係のネットワークによる平和の確保を追求したが、今度は民間レベルの親密な関係のネットワークによる平和の確保を追求するのだ。 

愛する人を守るために平和の確保を追求し戦争を阻止する草の根交流の連鎖による、世界的な秩序の維持を実現するのだ。

そして兵器を全廃して、それに使っていた資金や資源は国境を越えた助け合いのために使うのである。

相互理解と相互信頼が崩れたら戦争になるという恐怖の連鎖によって、平和の確保を追求する競争になれば環境問題の解決や貧困問題や格差問題の解消が国際連携による推進が実現するなら戦争など馬鹿馬鹿しいと思う世代がやがて多数を占める時代になる。

その日は必ず来るし来させなければならないと言う合意がつくれるか、私たちの決意と決断が試される。

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企業や団体による政党や政治家への人やモノや資金の援助は選択の自由を妨げるから全面的に禁止することだ。

あるべき社会の姿として語られるものの中に、投票率が高いことが挙げられる。

では、どうすればいいのか考えてみよう。

それにはまず、行為や行動から入る方が良い。

思想信条の議論から入ると、収まりがつかないだろうからである。

もちろん、自由を妨げる行為や行動はするべきではなく選択の自由は保障されるべきである。

そして政党や政治家への支援は、基本的に個人による自発的な献金やボランティアであるべきである。

個人による政治活動への支援や参加は、民主主義を支える基礎ともいえる行為であり行動だからである。

ほとんどの政党や政治家が、個人による献金やボランティアによって支えられているのが当たり前になれば、社会や政治の在り方を語り合うことは日常生活の一部になり投票率も上がるだろう。

人は皆、自分の生きたいように生きられる社会や世界の在り方を求める権利を持っている。

そしてその実現のための、行為や行動や発言の権利を持っている。

誰にも、それを妨げる権利や権限はない。

国や地方の政府はもちろんどのような組織や団体や集団にも、思想信条結社の自由を妨げる権利や権限はない。

当然、特定の政党や政治家へ支持や協力を求める権利や権限も誰にもない。 

だからこそ、特定の政党や政治家への支援や便宜供与を目的とする後援会やサポーターの組織化が必要になるのだ。

特定の政党や政治家からの指導や援助や導きを受ける目的で結成された組織や団体でもない限り、政党や政治家への協力や便宜供与は目的外の組織や団体の流用や乱用になる。

企業団体の献金は、収益の社会への還元であっても本質的に利潤の増大に資することが期待できる活動への援助である。

全体への奉仕者であるべき政党や政治家への企業団体献金は、特定の企業団体への便宜供与を期待する行為になる可能性大なので禁止されるべき。

さらに政党や政治家への企業団体献金は、組織された目的以外の行動への構成員の関与を強いている時点で思想信条の自由の保障という点でも問題がある。

企業や団体については資金だけでなく、人や物を通じた特定の政党や政治家への便宜供与も禁止されるべき。

とは言っても政党や政治家も、資金や行為や行動への支援や援助なしには活動の持続や発展が難しいはずだ。

政党や政治家も得られる支援や便宜供与が個人によるものに限られると、一人一人の必要に応えた発信力が必要になるのできめ細かな人々への寄り添う活動になるだろう。

そうすれば、一人一人の必要に応えた社会のあり方が実現しやすくなるだろう。

そしてそれは、誰によっても妨げられてはならないのだ。

人々の行動の自由を妨げる一切の行為や行動は、明らかな犯罪行為や反社会的行為の防止や制止でない限りどのような理由であってもない方がいい。 

それがなぜいけないかは、説得や納得や合意によって答えに導かれるべきだし自分のして欲しくないことは人にもしないという基本を踏まえたら自然と方向は見えてくるだろう。

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誰一人取り残さない社会に資本主義は足枷となる。

いま、持続可能な社会の実現が課題になっています。

そして、どのようにして可能になるか追求が続いているのです。

資本主義ではありとあらゆる財やサービスが商品になる可能性があり、必要がある人のもとにあらゆる財やサービスが届きやすくなる条件が産まれた社会になっています。

そこできめ細かな需要に応えて、バリアフリーやユニバーサルデザインによる量産化の取り組みも進んできました。

けれども、バリアフリーやユニバーサルデザインはファッションで言えばレデイメイドのようなものです。

量産化に乗りやすい需要のある財やサービスはバリアフリーやユニバーサルデザインの商品になりやすいが、個別のニーズに応えた提供はファッションで言えばオーダーメイドにあたりどうしても高価な贅沢品になりやすいのです。

しかし、実際にはきめ細かな配慮が必要なのが一人一人の障害者です。

障害者とは、障害者総合支援法によると身体障害や知的障害や発達障害を含む精神障害その他の心身の機能の障害があり、障害および社会との関わり方によって生活や仕事に制限を受けている人とされています。

一方でその障害は社会の側の対応が不十分なために生じているのであるから、社会の側の方で対応を改めなければならないという風に認識が改まる方向に進んでもいます。

女性の社会進出や社会参加を妨げていた制度の在り方が変わって、女性の社会進出や社会参加が進んで行ったように今度は障害者の社会進出や社会参加の妨げとなっている制度が変わる必要があるのです。

とは言っても、障害者の場合は心身に由来する障害も多いので財やサービスの充実も課題となります。

女性の場合は家事の電化製品の普及が後押ししたが、電化製品は女性のためだけじゃなく男性にとっても家事の負担軽減になります。

つまり家庭用電化製品は、基本的にバリアフリーやユニバーサルデザインであったと言えるでしょう。

量産化が容易で採算に乗りやすいバリアフリーやユニバーサルデザインは安価で手軽にも身近にもなりやすいが、一人一人のきめ細かなニーズに合ったオーダーメイドの財やサービスの提供は商品にするとどうしても高価になります。

そこで、ボランティアで提供されるか公的支援を拡充して提供されることになります。

安定的な提供は余裕があるうちは可能だが、そうでないと持続可能性に不安定な要素が入ってくることになります。

誰一人取り残さないということは、障害者とされる人など誰もいないあるのは個性だけだという社会になることでしょう。

量産化が容易なバリアフリーやユニバーサルデザインも一人一人の必要に寄り添うオーダーメイドも、ものによっては無償でなければ誰一人取り残さない社会にならないのです。

これが安定的に持続可能になるには、目先の利潤追求が当たり前な社会からすべての生産と流通が人びとの必要と幸せのためが当たり前の社会に成長しなければ困難なのです。

だからこそ、資本主義からの卒業が必要です。

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資本主義を続ける方が恥ずかしいのではないだろうか。

人々の行動の基準の一つに、恥の意識がある。

では私たちの恥ずかしさの基準は、何だろうか。

いつの間にか、知らないことや持っていないことが恥ずかしくなってしまっている。

しかし、知らないことや持っていないことはそんなに恥ずかしいのだろうか。

人は皆、生まれてきた時は何も持たないし何も知らないでいる。

生まれてきたばかりのときは、何もないことや知らないことは何も恥ずかしくなかったはずだ。

ではなぜ、知らないことや持っていないことが恥ずかしくなるのか。

適応することが、生まれてきたその瞬間から求められるからだ。

生き残るためには、適応しなければならないからだ。

だとしたら、恥ずかしいのは知らないことではなく知ろうとしないことではないのか。

何を知った方が良くて知ったことをどう生かすか、それを知ろうとしないことこそは恥ずかしいことではないのか。

それを、知らないことそれ自体が恥ずかしいのだと、錯覚させられているだけではないのか。

歴史を遡れば、地域の集団の中で守りあえていた時代から家族で身を寄せて守りあった時代になり、いつの間にか大人になると自分のことは自分で守るしかない社会の中で生き残るしかなくなってしまった。

人々の導き手として神が共有された時代から神が権力者の後ろ盾に変質させられた時代を経て、神を頼らない時代になってしまっている。

そして、資本主義では何もかもが商品とされてしまい信頼や信頼関係さえも事実上商品にされてしまっている。

人は自分の提供する商品化された財やサービスを選んで欲しいから、これを知らなかったりわからなかったりしたら恥ずかしいと思わせることを競うようになった。

本当に恥ずかしいのは知らないことではなく知ろうとしないことだが、そこに気が付かれてしまうとより良いものを探されて売りそこないかねないからこれを選ぶことがいかに素晴らしいか価値があることか錯覚させようとあの手この手を繰り出す。

コマーシャルメッセージ、すなわちCMは情報提供を装いながら巧みに自分の提供する財やサービスの利用や取得に誘導するのである。

こうやって知識や情報は私物化され囲い込まれ、互いに協力や共同すればより良い財やサービスになる可能性が潰される時代になってしまった。

より良い財やサービスの提供のための協力や共同でさえ、囲い込みの競い合いの一環とされる。

ここに気が付かれたら、資本主義は一巻の終わりだ。

だが考えてみよう。 

全ての生産と流通が人びとの必要に応えてなされる状態になろうと、その主体が企業や団体などの集団であることに何の変りもない。

行動の目的が目先の利潤追求から、人びとの必要に応え人びとの幸せのために変わるだけである。

生き残っている企業や団体は、出発点は人びとの必要や幸せに奉仕することを原点にしていたはずだ。

そして、原点に忠実な企業や団体が生き残ってきたはずだ。

だったら、目先の利潤追求から人びとの必要のために生産と流通があった原点に返り人びとの幸せのために行動してなんの不都合があるか。

だからこそ、もう資本主義は卒業しようというのだ。

私は恥ずかしいことを言っているだろうか。

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あなたもいつの間にかスマホが神になっていないか。

今や、私たちの前には様々な課題が立ちはだかる事態になっている。

では、私たちの足並みは揃っているだろうか。

必ずしも、そうではない。

価値観や求めるものは、多様になっている。

そして、多くの人が答えを求めてさまよっている。

何かにすがろうとしている。

その一つにスマートフォン、いわゆるスマホがなっていないだろうか。

角川新書で宗教学者の島田裕巳が、『スマホが神になる 宗教を圧倒する「情報革命」の力』を出している。

ではなぜ、スマホつまりスマートフォンが人々の行動を左右してしまう神のような存在になりえてしまうのだろうか。

人は、弱いからである。

誰かとつながり誰かに守られていないと、不安だからである。

これは、生まれた時から始まっている。

自らの無力や無知をいやというほど知り、自分よりそれらが上にある存在を身近に感じて安心したいのだ。

自らの無力や無知を補ってくれる存在の始まりは、神であった。

社会に上下関係が生じさらに支配者が君臨するに及んで、支配者は神を利用して後ろ盾に使いだす。

神が実質的に、人にすり替わってしまったのだ。

そのために神や神の代理を演じてきた支配者の非力や無能がさらけ出される事態になると、人々はそれを神の非力や無能と勘違いしてそれに代わる存在を模索するようになる。

そして、科学や技術はその圧倒的な力で存在感を示しだし始めるといつの間にか科学者やや技術者、とりわけ優れた科学者や技術者が神のごとく存在感を醸し出していくことになる。

だがその結果どうなったか、人々はそれぞれ別の存在を神にするようになってしまったのではないか。

科学や技術は知らず知らずのうちに現代のバベルの塔となり、パーソナルなメディアであるスマホが人々の知識や情報を分断し始めるようになった。

分断された言語は様々な部族や民族や国民を生み出したが、パーソナルメディアは情報によって社会に新たな部族的な集団や集合を生み出して分断を持ち込んだ。

だがメディアによる社会の分断は、ラジオやテレビや新聞が普及し始めた時点ですでに始まっていたのだ。

パーソナルメディアとしてのスマホは、それを加速し見える化したにすぎない。

科学や技術は生産も知識や情報もかつてない勢いで進歩発展させて、一昔前であれば神の領域に思われていた領域に人々の気が付かないうちに踏み込んでしまっている。

神がいつの間にかすり替わって、その結果導きを求めるべき神を見失ってしまったのが現代ではないのか。

導きを求めるべき真の神とは何者なのか、真の神であればどのようにして対処や対応すべきと応えるのか探求すべき段階に来ているのではないだろうか。

では神がどういっているか、耳を傾けて見よう。

ヤコブの手紙 1

5 あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。

人はどうかすると、自分より知恵や知識や技能の下な人を見下したりする。

神は、そのような真似をしないと宣言している。

そして、こう告げる。

マタイによる福音書7

7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。

8 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。

9 あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。

10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。

12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

だが誰でもいいというわけではない。

私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。

(マタイによる福音書24章より抜粋)

だからこそ、こう戒めている。

出エジプト記 20

3 あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。

4 あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。

この世界が一つである以上、真理や真実もまた、一つであるはずだ。

人々は自らにあった形とやり方で、どうしたらいいのか答を求めたらいいのである。

もう一度、いや、何度でも、幼子のように真の神として従うべきものを探し求める方がよいのではないだろうか。

人類の前には、今や巨大な課題がいくつも立ちはだかる事態になっているのだから。

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争いを減らすには、まず自分のして欲しくないことは誰に対してもしないことです。

争いを減らしたりなくしたりするには、人に対する愛を示すことが必要だとはよく言われます。

では、愛を示すとはどうしたらいいのかということになります。

何か、手掛かりになるものが要ります。

聖書は、旧約聖書は4000年新約聖書でも2000年前から読み続けられてきました。

いわば、古典中の古典と言えます。

聖書には、特に新約聖書には、愛についての記述が多く見られます。

例を挙げましょう。


マタイによる福音書 22章
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38 これが最も重要な第一の戒めである。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」

この愛を、どう実践するかそれが問題です。
キーワードは第二の戒めで、隣人を自分のようにとあることではないでしょうか。
して欲しいことは人によっても状況によっても異なるでしょうけど、して欲しくないことは人によっても状況によってもそれほど差がないでしょう。
だとしたら、まずみんなが自分のして欲しくないことは人にもしないところから始める方が良いのではないでしょうか。
もちろん、神に対しても自分のして欲しくないことはしないことです。

ともすれば自分がして欲しくないことのはずなのに、人に対してしてしまった経験はないでしょうか。
人を不愉快にしてしまった苦い経験は、うっかりやらかしてしまったときに起こったはずです。

人と人はもちろん、国と国の間でも同じことでしょう。

すべての人が、これを自覚的に実践できるなら争いは減らせるし避けられるのではないでしょうか。

どう思いますか。

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科学や技術はそろそろ神の領域にどう臨むのか考えた方が良い。

科学や技術はどんどん先に進んでいくが、どこを目指してどういう世界を作ろうとしているのだろうか。

具体的な例を挙げて、考えてみたい。

 

宇宙の始まりを研究している人たちは、こういう発言をしだした。

インフレーションは「ただ」で物質やエネルギーをつくったといえる。

そのからくりは、真空のエネルギーの特殊性で説明することができる。

真空のエネルギーは不思議なことに、宇宙がどんなに大きく膨張しても、密度が小さくなることがない。

ほかにちょっと例のない特殊なエネルギーなので、真空のエネルギーは空間そのものに対しては押し広げる力を持っている。

空間内の物質に対してはマイナスの圧力を持っていて、収縮しようとする力が働く。

真空のエネルギーがある宇宙を、ゴムのようなものと考えるとわかりやすい。

ゴムが引き伸ばされると、ゴムの中の縮もうとするエネルギーが増加する。

これと同じように、宇宙が引き伸ばされる(膨張する)と、宇宙の中の真空のエネルギーも収縮しようとして増加する。

つまり、宇宙が膨張すること自体が真空のエネルギーを増加させる。

真空のエネルギーは、密度が決して小さくならない。

宇宙の大きさ、すなわち体積が100桁大きくなっても、宇宙の中にある真空のエネルギーの密度は変わらず同じである。

真空のエネルギー量は体積が100桁増えた分だけ、大きくなる。

大きくなった真空のエネルギーが、相転移で熱エネルギーに変わることによって、宇宙は火の玉になる。

 

このようにして、宇宙は始まるという。

 

要するに、真空は特別な存在なので通常の常識は通用しないと言っているのと変わりがない。

天には地上と違う規則があると言っていた天動説と、どう違うのだ。

計算さえ合えば、どうでもいいのか。

ゴムと言う実在の物質を例えに使えるから、差し支えないというのか。

任意の物資で例えれば、何でもありと言っているようなものだ。

量子論も相対性理論も、それなりのニュートン力学との連続性がある。

ここにそれがあるのだろうか。

 

私は、重力波が斥力と引力の交互発生で伝播する現象とみる。

正の方向と負の方向、正のエネルギーと負のエネルギー。その往復が振動であり波動である。

ならば、正の方向やエネルギーと引力を負の方向やエネルギーと斥力の対応に何の問題がある。

時空にゴムのような柔軟性や反発する能力をみるというなら、斥力を見て何がおかしい。

 

重力波が斥力と引力の交互発生の伝播現象と見れば、時空には圧縮限界があり特異点などの厄介払いができるではないか。

 

だが、私の今回言いたいのはそういうことではない。

 

時空の物性研究は、科学や技術の新たな段階を生み出してより神の領域に近づくことになる。

 

ならば、知性や理性や知性や倫理や道徳もまた、神の領域に進まないと大変なことになる。

 

利潤や欲望の充足を是とすることを悪いとは言わないが、人びとの必要に応えて幸せをすべての人が手にいられる世界のために科学や技術は使われなければならない。

 

そうしないと、科学や技術は乱用と悪用の暴走で取り返しがつかない事態を招く。

 

科学や技術とどう向き合うか、多くの人が参加できる討論の場が何度もそしていくつも無数に持たれる必要がある。

 

科学や技術はどう、人々の理解できる言葉で語れるのか。

本気で考えた方が良い。

 

クリスマス講演やサイエンスカフェのような取り組みが、積極的に推進されて欲しい。

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超巨大ブラックホールの生成する状況を考える。

銀河宇宙や銀河団の中心に、ブラックホールの存在がわかっている。

ブラックホールの中には、通常の理論では説明困難な超巨大ブラックホールがある。

これを説明できる、天体が存在する宇宙空間の形成モデルを構築する必要がある。

私は重力波が、引力と斥力の交互発生の伝播現象であるとして可能になるとみている。

重力波が引力と斥力の交互発生の伝播現象であると見れば、ブラックホールへの質量降着には一定の限界点に達する時が来る。

時空には圧縮の限界点に達する時が来ると見れば、ブラックホールの成長には限界点に達する時が来るとなる。

成長限界点に達したブラックホールは、重力波が持つ斥力成分の働きによって爆発的にエネルギーを放出する。

ブラックホール崩壊の衝撃波が、さらに周辺のブラックホールを連鎖反応的に崩壊させる。

そして、超巨大な衝撃波が物質を掃き寄せていく。

恐らくほぼ同じ時期に誕生したボイド構造に挟まれた領域に存在する天体領域には、ほぼ同時にブラックホール崩壊によって衝撃波が物質を掃き寄せる現象が生じる。

そして新たなボイド構造が生まれ、挟まれた領域に複数の超巨大ブラックホールが生まれる。

圧縮された時空は重力波が濃い領域を生成する、この領域がダークマターである。

ダークマターの周辺の重力波が薄くなった流域に分布しているのが、ダークエネルギーである。

ダークマターが濃い領域が、天体や銀河宇宙や銀河団の誕生する領域となる。

比較的小さなブラックホールの集積した質量の中で、銀河宇宙や銀河団が生成する。

質量分布のむらのなかで、銀河団や個々の銀河宇宙や恒星を中心とした降着円盤が生じる。

初期宇宙に起きたとされるインフレーションは、物質を掃き寄せてきたボイド構造が膨張してきたエネルギーを減衰される中である程度縮退することで生じる。

そしてインフレーションによって断熱膨張した天体が生じる領域が冷却され、物質の生成する状況になっていくのである。

ボイド構造の縮退が収まるに従い、天体が生まれる領域での赤方偏移は小さくなる。

その後の赤方偏移は、重力波が持つ斥力成分による現象に過ぎない。

遠方で観測される赤方偏移ほど大きい現象は、これで説明できるのではないか。

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日本は古代中東の引っ越し先なのか。

日本の神社は、二本の柱と拝殿と本殿からなる。

固定的な社殿は日本に帰化した秦氏などが持ち込んだ様式で建てられるようになったのであって、古来は山などの信仰の対象の前に祀りの度に仮の庵が営まれていた。

山と拝殿と柱とくれば、まさに古代エジプトのピラミッド複合体に似た構図になる。

古代エジプトでは本殿と拝殿と柱の構造となり偶像崇拝のために神像が祀られるようになってしまったが、日本の神社に偶像はない。

偶像崇拝になる前の、信仰を保とうとした集団が日本に来たのだろうか。

日本にも太陽の船に似たモチーフがあるし、見ようによっては神社そのものが鳥居を先頭に持つ太陽の船のようでもある。

天皇家の菊花紋は、故フセイン大統領が身に付けていた古代中東の王家の紋章に瓜二つなのは偶然ではない。

古代中東の王家の紋章に表されるのは、太陽神紋である。

そして、天皇家は自らを太陽神の子孫と位置付けている。

興味深いのは、日本にはユダヤ渡来説とシュメール渡来説が出ていることだ。

イスラエル人やユダヤ人の祖とされるアブラハムは、シュメールの都市であるウルを出立している。

となると、アブラハムはユダヤ人やイスラエル人である前にシュメール人であったとならないだろうか。

シュメール・イシュマエル・イスラエルと並べると、言葉に与えられた意味が違うのは承知の上で言いたい。

日本には、シュメールから派生した民であるイスラエルの一派のユダヤ人が来ているのではないだろうか。

古墳の埴輪には、どう見てもユダヤ人としか見えないものが数多くある。

故人の大切な持ち物として、帽子の埴輪まであるのだ。

伝統にこだわるユダヤ人は、いまでも前髪を伸ばして鍔のある帽子を被る。

この帽子は、ユダヤ人としてのアイデンティティの一部なのだ。

その帽子を、死後も被り続けることにこだわるのはユダヤ人でなくて誰だというのか。

聖書を見ると興味深いことに、アブラハムの子孫とエジプトの関りや繋がりはとても深く強い。

イスラエル、そしてユダヤ、さらに古代日本人もまた、古代中東の神殿様式の継承にこだわっている。

日本に来たシュメールやユダヤは、古代中東の神殿様式にこだわっているからこそそれが継承されている日本に来たのではないか。

そして、同化したのではないか。

そうでなければ、日本の神社に古代イスラエㇽの神職の装束や習慣が残っているはずはない。

神輿がアークと呼ばれる聖櫃に似ているとしても、何の不思議もない。

もともと、彼らの神殿は祀りの場を移動していたのだろう。

だから、移動神殿である神輿を作るのだ。

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コロンブスの卵をじっくり見てみた。

コロンブスの卵という言葉があります。

コペルニクス的な発想の転換と似た意味でつかわれるが、見落としていた当たり前を指摘された場合に特に使われています。

今、科学や技術はかつてないほどの精緻さの計測や観測に支えられているし高度に発達した数学や理論が展開されています。

もはや天動説や熱素説やフロギストン説やエーテルのような、馬鹿げた説や理論の出番などどこにもないと、考えている人は少なくないように見えます。

だが、それらの説や理論は当時の知識や技術や経験を背景にある意味では生まれるべくして生まれてきた説や理論ではなかったでしょうか。

今定説になっている説や理論だって、今現在の時点での知識や技術や経験を背景にして生まれてきたものでありその制約から逃れることはできません。

そして、それらの説や理論を転換したのは地道に積み上げられてきた基礎的な研究でした。

天動説は観測されたデータを取り入れながらどんどん精緻なモデルを数学的に積み上げていったが、現象の説明や解明は諸説入り乱れて迷路に入り込んでいました。

それらをすっきりと解決した地動説は、今から見ればコロンブスの卵みたいなあっさりとしたものでした。

卵の中はみっちり詰まっているように見えて、実はそうではありません。

そこにひびを入れても、中身が漏れない場所があるのです。

そこを少し潰せば卵は立つ、知ってしまえば誰にでもできるが気が付かないから悪戦苦闘してきたのです。

卵がどうなっているか、素直に見てこうすれば立つと見つけた人は発想を転換しただけです。

当たり前なのに、見落としていることはないでしょうか。

そこに気が付いた人だけが、人に先駆けてコロンブスのように卵を立てることができるのです。 

見落としている、当たり前はないでしょうか。

まだ立てられてないコロンブスの卵は、ありませんか。

追記

これは、

雨ごいの祈りを考えてみる。

の続編でもあります。

切り口を変えてみました。

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もはや資本主義を卒業して次の段階に一歩を踏み出した方が良い。

日々のニュースを見ていて感じるのは、果たして人類のあり方はこのままでいいのだろうかという不安だ。

神と言うと、そんなものはいないと言い放つ人は多い。

だが私たちの知識や技術は、かつて神のみができると思ってきた領域に踏み込んでいる。
だとしたら、私たち自身が知性や理性や倫理や道徳をも神にふさわしい段階に高めないと冗談抜きでまずい時代に来ている。

知識や技術が、もしも神でなければできなかったであろうという領域に踏み込んだとしたらどうだろうか。

神は、間違った使い方をしないように慎重に判断しているはずではないだろうか。

一歩間違えれば、取り返しのつかない結果を招くからこれまで封印をしているとしたらどうだろうか。

神は、人が対処可能な範囲で知識や技術を高めていくように導いてきたのではないか。

そして、人びとが神を恐れていた間は知識や技術はその範囲に収まっていた。

知識や技術が爆発的に飛躍したのは、神を恐れなくなってからだ。

自らの力に自信をもっていくこと、それ自体は悪いことではないだろう。

問題は、高慢にならないように気を付けられるかどうかだ。

生産と流通が人びとの必要に応えて行われる社会から、欲望のために行われる社会に変わってきた。

資本主義は、利潤追求という限界を知らない欲望を制御困難にしてしまった。

科学や技術が神の領域に踏み込んだ以上、知性や理性や倫理や道徳をも神にふさわしい段階に高めないといけないと誰もが危機感を持っているだろう。

だが自分が自制しても、出し抜かれたら敗北するのが資本主義なのだ。

もはや、資本主義を卒業した方が良い。

地球上のすべての人の必要を満たせる生産と流通が実現できたのに、現実はそれが困難になっている。

神にふさわしい段階へと知性や理性や倫理や道徳を高めないと、ここまで高まった生産と流通を全ての人の幸せのために生かせない段階にきている。

科学や技術は人類の能力がすでに神の領域に踏み込んだことを、目に見える形で示しているのに過ぎない。

いまこそ、謙虚で素直な心になって神の領域にふさわしい知性や理性や倫理や道徳とはなにか真剣に考えるべきではないか。

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聖書は感じ取る方が良いのかもしれません。

聖書を読んで感じるのは、幼子のように神を思えとイエスが繰り返し説いていることです。

幼子のように神を思うって、どういうことなのでしょうね。

そう思って聖書を読むと、聖櫃を迎えるダビデの喜びようはまさに無邪気に喜びを体中で表現してますよね。

私たち、聖書を読んで祈って聖櫃を迎えるダビデのように無邪気になれているでしょうか。
理解しようと、構えて読んで悪戦苦闘している人も多いかもしれませんね。
祈りを神頼みと考えて、お願いばかりしている人もいるのではないでしょうか。
祈りは、神との対話と言う人もいます。
抱えている悩みをひたすら相談して、祈りだと思っている人もいるでしょうか。
でも、幼子は祈りを神とのおしゃべりとして楽しんだり面白がっているのではないですか。
聖書は考えて読むより、感じ取るものなんですね。
そして、少しずつ分かっていけばいい。
それよりも大事なのは、神を感じ取ることではないでしょうか。
幼子は、難しいことなんてわからないから親がどう思っているか必死になって感じ取ろうとしています。
私たちも、神について何も本当はわかっていないはずなのだから、せめて感じ取ろうとする方が良いのかもしれません。
聖書は、印刷されて一家に一冊とか一人に一冊となったのは歴史からみればつい最近のことです。
ほとんどの時代、聖書は読み上げるものであり多くの人にとっては聞くものでした。
聞いて心に感じ取って、思い出しながら理解を深めるものだったのではないでしょうか。
旧約聖書の大半は、物語です。
これらの物語から、神からのメッセージを多くを感じ取ることが求められるのではないでしょうか。
聖書は、考えて読むより感じ取るものなのでしょうね。
雅歌は、聖書に収められているものの中でも感じ取る方が良いものの最たるものかもしれません。
雅歌は、英語の聖書ではソロモンの歌ソングオブソロモンと呼ばれています。
あの、神から知恵を豊かに恵まれたソロモンの歌と雅歌は呼ばれるのはなぜでしょうね。
愛の交歓で、理屈を捏ねる人はいないでしょ。
愛する人との一体化の喜びを歌い上げる雅歌のように、神との一体化の喜びを感じる信仰こそ求められる。
幼子は、信頼しきって親の腕に抱かれ胸に身を委ねて穏やかな顔で安らぐ。
私たち、その感覚をどれだけ味わえる信仰になっているでしょうか。
大人になると、難しいですよね。
でも、少しずつ思い起こすことを忘れないようにしたいですね。
自戒を込めて、お話させていただきました。

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