教会の聖餐式ってどういうことでしょうか。
今、多くの教会で聖餐式ではパンと水が用いられています。
ちなみに聖餐式のパンと水は、イエスの肉と血の記念とされています。
それは、イエスのこの言葉によるのです。
ところが最後の晩餐では、イエスの肉としてパンがイエスの血としてワインが用いられているのです。
今多くの教会の聖餐式で、ワインではなく水がイエスの血の象徴なのにです。
イエスは「言っておくが、私の父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(マタイによる福音書 26章 29節 )と言っているので、それにならってワインを聖餐式に使っていないというのもあるがそれ以上の意味があるのです。
当然ですが、車で聖餐式に来た人が飲酒運転で逮捕されないためだけじゃもちろんありません。
新約聖書のルカによる福音書には、有名なマルタとマリアの物語があります。
イエスの話に耳を傾けるマリアと、もてなしのために忙しく立ち回るマルタの話です。
姉のマルタはイエスに向かいもてなしの手伝いをしないマリアに注意して欲しいと頼むと、イエスはマリアは大切な方を選んだとたしなめます。
イエスにとってのもてなしとは、話に耳を傾けることであり飲食の提供を受けることはそのついでにしか過ぎないのです。
ヨハネによる福音書にはイエスとサマリアの女の話があるが、イエスは食事を勧める弟子たち向かいそれよりも大切なものがここにあると答えています。
それがサマリアの女が自分の言葉に耳を傾けたことであるのは、明らかです。
ヨハネによる福音書には、イエスがサマリアの女に語った言葉として「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」とあります。
ここから見えるのは、イエスの血とはイエスの語る言葉でありそれは永遠の命に至る水と言うことなのです。
そして、イエスは言います。
「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネによる福音書 6章 35節 )
つまりパンは、イエスの肉の象徴なのです。
そこで、合わせてこうなります。
聖餐式は単なる最後の晩餐の追体験だけでは、ないのです。
最近のコメント