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資本主義を続ける方が恥ずかしいのではないだろうか。

人々の行動の基準の一つに、恥の意識がある。

では私たちの恥ずかしさの基準は、何だろうか。

いつの間にか、知らないことや持っていないことが恥ずかしくなってしまっている。

しかし、知らないことや持っていないことはそんなに恥ずかしいのだろうか。

人は皆、生まれてきた時は何も持たないし何も知らないでいる。

生まれてきたばかりのときは、何もないことや知らないことは何も恥ずかしくなかったはずだ。

ではなぜ、知らないことや持っていないことが恥ずかしくなるのか。

適応することが、生まれてきたその瞬間から求められるからだ。

生き残るためには、適応しなければならないからだ。

だとしたら、恥ずかしいのは知らないことではなく知ろうとしないことではないのか。

何を知った方が良くて知ったことをどう生かすか、それを知ろうとしないことこそは恥ずかしいことではないのか。

それを、知らないことそれ自体が恥ずかしいのだと、錯覚させられているだけではないのか。

歴史を遡れば、地域の集団の中で守りあえていた時代から家族で身を寄せて守りあった時代になり、いつの間にか大人になると自分のことは自分で守るしかない社会の中で生き残るしかなくなってしまった。

人々の導き手として神が共有された時代から神が権力者の後ろ盾に変質させられた時代を経て、神を頼らない時代になってしまっている。

そして、資本主義では何もかもが商品とされてしまい信頼や信頼関係さえも事実上商品にされてしまっている。

人は自分の提供する商品化された財やサービスを選んで欲しいから、これを知らなかったりわからなかったりしたら恥ずかしいと思わせることを競うようになった。

本当に恥ずかしいのは知らないことではなく知ろうとしないことだが、そこに気が付かれてしまうとより良いものを探されて売りそこないかねないからこれを選ぶことがいかに素晴らしいか価値があることか錯覚させようとあの手この手を繰り出す。

コマーシャルメッセージ、すなわちCMは情報提供を装いながら巧みに自分の提供する財やサービスの利用や取得に誘導するのである。

こうやって知識や情報は私物化され囲い込まれ、互いに協力や共同すればより良い財やサービスになる可能性が潰される時代になってしまった。

より良い財やサービスの提供のための協力や共同でさえ、囲い込みの競い合いの一環とされる。

ここに気が付かれたら、資本主義は一巻の終わりだ。

だが考えてみよう。 

全ての生産と流通が人びとの必要に応えてなされる状態になろうと、その主体が企業や団体などの集団であることに何の変りもない。

行動の目的が目先の利潤追求から、人びとの必要に応え人びとの幸せのために変わるだけである。

生き残っている企業や団体は、出発点は人びとの必要や幸せに奉仕することを原点にしていたはずだ。

そして、原点に忠実な企業や団体が生き残ってきたはずだ。

だったら、目先の利潤追求から人びとの必要のために生産と流通があった原点に返り人びとの幸せのために行動してなんの不都合があるか。

だからこそ、もう資本主義は卒業しようというのだ。

私は恥ずかしいことを言っているだろうか。

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