誰一人取り残さないために本気で行動できてこそ、持続可能な平和に繋がるのではないでしょうか。
「平和とは一体どういうことなのか」 そんな問いが、最近ずっと頭の中にあります。
つかの間の平和は、しばしば置き去りにされたと感じる人たちによって壊されていくそういう悲しい現実が続いています。
置き去りにされたと感じる人たちの反発とは、偽善への反発ではないでしょうか。
国が「平和外交」や「人道支援」を掲げても、国内の弱者が置き去りにされていたり、政治が不透明になったりすると、国民はその姿勢に疑念を抱くのではありませんか。
それは、感情の冷却にもつながりかねません。
理想が現実と乖離していると、国民の共感や熱意は冷めてしまい、「どうせ口だけだろう」という諦めが広がるのではないでしょうか。
外交と国内の信頼の関係が、大切なのではないでしょうか。
国内の信頼が外交の土台に、なければならないのではないでしょうか。
国民が自国の価値観や行動に誇りを持てなければ、他国への「愛」や「支援」も空虚に感じられるでしょう。
「誰一人取り残さない社会」が目指されていると言われても、取り残されている人の声が届かない限り、それは実現しないでしょう。
「自分を愛するように人を愛し、神を愛せ」というスローガンは、響きは美しいのです。
けれど、それをどう形にすればいいでしょうか。
具体的な提案として、「惜しみなく分け与えて、乏しさのために困難に苦しむ人を出さない」ことが求められています。
でも、問題は「どこまでが必要なのか」ということではないでしょうか。
立場によって、必要のとらえ方は大きく異なるでしょう。
富める者にとっての「必要」は、贅沢と紙一重かもしれません。
一方で、何も持たない人にとっての「必要」は、今日を生きるための最低限かもしれないのです。
だからこそ、分け合うという行為には、単なる物のやり取り以上のものがあるのではないでしょうか。
それは、相手の立場に立って「何が本当に必要か」を想像することではないでしょうか。
そして、自分の持分が小さくても、できる範囲で手を開くことではないでしょうか。
平和が続かない理由の一つに、理想と現実の乖離があるのではないでしょうか。
内と外のギャップが感じられるなら、人は不信感を覚えてしまうでしょう。
国内で「隣人を愛せ」「神を愛せ」と唱えていても、実際には分断や差別、利己的な行動が蔓延していると、その言葉は空々しく感じられるのではないでしょうか。
問い続けること、語り合うこと、そして小さな行動を積み重ねることが、理想を形にする第一歩ではないでしょうか。
誰もが話を聞いて欲しいなら、まず相手の説明や弁明を最後まで聞いた方が良いでしょう。
そうすれば、自分の話もまた、最後まで聞いてもらえるでしょう。
これもまた、自分を愛するように人を愛し神を愛せと言う教えの小さな実践となるでしょう。
持続可能な平和には一貫性が必要ではないでしょうか。
国内での誠実な取り組みがあってこそ、国際的な平和活動にも説得力が生まれます。
それはやはり、自分を愛するように人を愛し神を愛せと言う教えをどうしたら実践と実現できるかにかかっているのではないでしょうか。
その思いの分かち合いが難しいのは、本気と本音で語り合う場がなかなか作れないからでしょう。
能力差があるから平等なんて無理とか努力が足りないとか、そういう議論にすり替えられてしまうことも、原因に上げられるでしょう。
ここで見落とされているもう一つの教えは、惜しみなく手を開いて乏しさのために困る人を無くしなさいと言うことではないでしょうか。
富める者もそうでないものも、必要な物だけを残して、惜しみなく分け与えることが、求められているのではないでしょうか。
問題は、どこまでを必要と思うかではないでしょうか。
平和の実現には「本気と本音で語り合う場」が不可欠であり、そこでは単なる理屈や効率論ではなく、人間の根源的な価値観が問われるべきなのかもしれません。
なぜ「本気と本音の対話」が難しいのでしょうか。
競争社会の論理が支配していることが、まずあげられます。
能力差や努力の有無に焦点が当てられると、弱者への共感や連帯が後回しにされてしまうのではないでしょうか。
自己責任論の蔓延もまた、あげられます。
困窮や不平等が「個人の問題」とされると、社会全体で支え合うという発想が希薄になるのではないでしょうか。
対話の場が分断されていることは、深刻な事態となっていないでしょうか。
SNSやメディアでは、対立が煽られやすく、深い対話よりも短絡的な意見の応酬になりがちになっていないでしょうか。
見落とされがちなもう一つの教え、それは非常に根源的でありながら、現代社会では軽視されがちなことです。
「乏しさのために困る人を無くす」ことは単なる慈善ではなく、社会の構造そのものを変える提起と言っていいでしょう。
「必要な物だけを残す」ことの難しさが、その大本にあるのではないでしょうか。
現代では「必要」が欲望と混同されがちで、どこまでが本当に必要かを見極めるのは極めて困難となっているのではありませんか。
富の再配分の倫理が、いま、切実な課題となっているのではありませんか。
富める者が自発的に手を開くことが求められているが、それには内面的な変革と社会的な仕組みの両方が必要となっているのではありませんか。
では、どうすればこの教えを実現できるのでしょう。
教育の再構築が、求められているのではないでしょうか。
競争ではなく、共感と協力を育む教育が必要ではないでしょうか。
対話の場の創出は、切実な課題ではないでしょうか。
宗教、哲学、生活者の視点が交差するような「本音の語り合い」ができる場を意識的に作る取り組みが求められるのではないでしょうか。
「必要」の再定義も、欠かせないでしょう。
個人と社会が「何が本当に必要か」を問い直す文化を育てる時が来ていないでしょうか。
でも、多くの人は自分の非力さを感じてどこから手を仕えていいかわからないのではないでしょうか。
小さな持分でもできる「分け合い」のかたちを、考えてみましょう。
時間や気持ちを分けることから、少しずつでもいいから始められないでしょうか。
誰かの話を聞く、励ましの言葉をかける、孤独な人に寄り添うのはどうでしょう。
これも立派な「分け合い」ではないでしょうか。
知識や経験を分けることから、始めるのも良いかもしれません。
自分が知っていることを誰かに教える、困っている人に助言するのも貴重な支援ではないでしょうか。
物を分けるだけでなく、心を開くことも忘れたくないものです。
小さな贈り物、手紙、手作りのものなど、心がこもったものは何よりも温かいのではないでしょうか。
「無理のない範囲でやる」ことの大切さを、忘れたくないものです。
持続可能であることが肝心なので、無理をしてしまうと、続けるのが苦しくなってしまい自分自身が疲弊してしまうでしょう。
だからこそ「できる範囲で」が大事ではないでしょうか。
自分を大切にすることも、分け合いの一部ではないでしょうか。
自分を愛するように人を愛するという教えは、自分を犠牲にすることではなく、バランスを保つことでもあるのではないでしょうか。
理想を語るだけでなく、それを実現するための「場づくり」への同意や合意の形成には長い時が必要となるでしょう。
最後まで耐え忍ぶものは幸いであると、聖書は説きます。
相手に忍耐を望むなら、まず自分の方から忍耐を示す覚悟を持つ方が良いのではないでしょうか。
まずは、本音で語り合うことから始めたいものです。
「どう生きていきたいか」「どんな社会になってほしいか」、それを一人ひとりが言葉にする場を、少しずつでも広げていく合意や同意を私たちは広げられるでしょうか。
そして、その願いを実現するために、自分たちには何ができるのかを考え、分かち合い、行動できるでしょうか。
完璧な答えはなくても、問い続けること、語り続けることが、社会を変える力になるのではないでしょうか。
小さな声でも、誠実な声が集まれば、やがて大きなうねりになるのではないでしょうか。
多くの人がこう思うかもしれません。
「まだ、具体的な行動は出来ていないので、分かち合うほどの経験がありません」「思いを口にするのが精一杯です」「分け合いたい」「誰かの力になりたい」「そんな気持ちがあるのに、何をどうすればいいのか分からない」 「でも、だからこそ語りたいのです」。
あなたと同じように迷っている人が、きっとどこかにいるのではないでしょうか。
それだけで、もう十分に尊い一歩ではないでしょうか。
「思いを口にする」ことは、行動の始まりであり、誰かの心を動かす力を持っているのではないでしょうか。
経験がなくても、分かち合えるものはあるのではないでしょうか。
それは、あなたの誠実な問いや、迷いながらも前を向こうとする姿勢ではないでしょうか。
人と人との関係は、時に複雑に絡まるのではないでしょうか。
過去の傷、誤解、偏見、沈黙——それらが積み重なって、糸のように縺れていくのではないでしょうか。
でも、だからこそ、私たちは「解す」ことを諦めてはいけないのではないでしょうか。
解すには、時間がかかるでしょう。
根気もいるでしょう。
聖書は、何事にも時があるとも言います。
今に始まったことではない、でも、諦めたくないから後世に望みは託されたのかもしれません。
でも、誰かがそっと手を添え、少しずつ動かしていけば、糸はやがてほどけるのではないでしょうか。
対話も、きっとそういうものではないでしょうか。
あなたは、どう思いますか。
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