塩麴との付き合い方を考える。こいつ一体何者?
塩麴という調味料がある。
あると言えばあるし、ないと言えばなくても困らない。
気づけば冷蔵庫に居座っていて、買ったから、作ったから、何となく使ってきた。
正直なところ、これまで積極的に「使いこなしてやろう」と思っていたわけでもない。
塩としては弱い。
甘味としてもはっきりしない。
万能調味料だと言われても、どこが万能なのか今ひとつ分からない。
そんな距離感のまま、ずっと使ってきた。
ところが、最近ふと気づいた。
塩麴を使った料理と、使っていない料理とでは、微妙に丸さが違う。
はっきり「美味しくなった!」とは言えない。
でも、雑味が出にくい。
野菜の青草さが前に出てこない。
肉や魚のクセが、なぜか穏やかになる。
味が足されている感じはしない。
なのに、食べやすい。
これ、何をしているんだろう。
砂糖は分かりやすい。
入れれば味が丸くなる。
角を丸ごと別の形に作り替える。
味の方向性が一気に見える。
塩麴は違う。
丸くしない。
甘くもしない。
ただ、角だけが取れている。
工作で言えば、面取りに近い。
形は変えない。
でも、触ったときの引っかかりがなくなる。
やりすぎると輪郭がぼやけるし、
やらないと、どこか荒い。
塩麴は、味をつけているのではなく、
素材の状態を変えているのだと思う。
とんがりやすい素材、
若い野菜の青さ、
肉の繊維の荒さ、
そういうものを、消さずに、静かに均す。
だから、調味料として使おうとすると失敗しやすい。
完成した味に足すと、輪郭が曖昧になる。
「何を食べているか分からない」感じになる。
逆に、
味を決める前、
素材がまだ荒れている段階で使うと、
あとから効いてくる。
使っているときは気づかない。
やめたときに初めて分かる。
「あれ、今日はちょっと角が立つな」と。
思えばこれまで、
雑味や青草さをあまり気にせず食べられていたのは、
塩麴のおかげだったのかもしれない。
万能調味料という言葉は、
たぶん塩麴には合わない。
むしろ、工程の道具に近い。
味を作る道具ではなく、
味が荒れないように整える道具。
だから、毎回使う必要はない。
尖りを残したい料理もある。
クセを前に出したい日もある。
塩麴は、
調味料棚の前列に並べるものではなく、
工具箱の隅に置いておくくらいがちょうどいい。
「今日は面取り、入れるか」
そのくらいの距離感。
塩麴とどう付き合うかを考える、というより、
塩麴が何者なのかを、やっと確認し始めた
そんな感じかもしれない。
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