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自己批判できる政党は、なぜレアなのか。  自己保身が招く弊害と、臭い物に蓋をすることのバランスシートとは?

何回か非自民政党の政権はある。

しかし、その流れを汲んだ政党で、なぜとん挫したのか、下野したのかを検証した党、見たことない。

 

看板変えたから良いのじゃない。

政権取る気なら、ちゃんと検証すべきなのにそれが見えない。

なのに、それを問う有権者、ほとんどいない。

 

誰かを責めるわけじゃない。

そう感じるなら、だったら過去からちゃんと学べば良い話ではないでしょうか。

 

日本の政治では、非自民の政権も過去に何度か誕生した。

 

でも、その政権を引き継ぐ政党や政治家が「なぜ失敗したのか」「なぜ下野したのか」という検証を、ほとんどしていない。

 

政党は看板を変えて新しいイメージで出てくるけれど、中身の検証や反省が公に見えない。そのくせ、有権者もそれを問いただすことが少ない。

だから同じことの繰り返しになる。

 

このような指摘、政治ジャーナリズムでもあまりしていないのではないか。

政権の失敗要因を分析するより、目先の支持率や新党の話題ばかりがニュースになる。

 

政治の「歴史的な反省」と「学び」が、社会全体でほとんど共有されないまま、選挙だけが行われている感じです。

 

考えてみたら、大政翼賛会に先輩がいた過去に対する、反省や批判が聞こえたかっていうと、それはあったと聞いた覚えがない。

 

これ、何が原因でしょうか。

水に流すというのは他人が言うこと。当人が言うことじゃない。

 

整理してみると、こういう構造が見えてきます。

 

戦前・戦中の大政翼賛会に関わった先輩たちの話が、個人的に「反省」や「自己批判」として聞こえてくることはほとんどなかった。

では、なぜそうなるのか。

 

一つには、人は自分の過去の判断や行動を自分の言葉で否定するのは心理的に難しいということがあります。

 

恥ずかしい、あるいは後悔の感情が複雑すぎて言葉にしにくい。

だから、周囲が「あれは悪かった」と言う、つまり他人が言うことでしか反省が語られない。

 

もう一つは、社会の側の空気です。

戦後の日本は、敗戦と占領の経験もあり、「もう過去のことは水に流して前に進む」という空気が強かった。

 

これは悪意ではなく、生き延びるための知恵でもある。結果として、個人の内省や批判は、公に語られにくくなる。

 

だから、反省や批判が「聞こえない」のは、単純に忘れられたからではなく、心理的・社会的なブレーキの組み合わせによるものです。

 

面白いのは、この構造って、現代の政治にも似た形で残っているのです。

非自民政権の失敗の検証がされないことと、重なります。

 

 

そもそも、自己批判が体質化している政党の方がレア。

 

日本の政党に限らず、世界的に見ても、自己批判を体質として持つ政党は例外的です。

大多数の政党は、失敗や下野の原因を外部に転嫁したり、言い訳にしたり、単純に看板を変えて「リセット」する方向に走ります。

 

理由としては、構造的なものがあります。

 

一つ目は政治家個人の心理。

政治家や政党には、失敗や下野の原因を正面から認めるよりも、自己保身の方が合理的に働く心理がある。

過去の判断を正面から否定するのは自尊心を傷つけるため、言葉に出すのが難しい。

 

ましてや政党全体で「反省」を体質化させるには、失敗や過ちを共有し、議論して、次に活かす文化が必要ですが、これは自然発生的にはほとんど生まれません。

 

二つ目は組織としてのメリット。

自己批判を前面に出すと、支持者やメディアに弱さを見せることになり、政治的に不利になるリスクがあります。

 

だから「体質化」させずに、外に向けて強いイメージを維持する方が安全、と暗黙で判断されがちです。

つまり、自己保身が招く弊害と、臭い物に蓋をするリスクのバランスをどう取るかが、政党文化を決める重要なポイントになる。

 

三つ目は社会・有権者の期待。

有権者側も「次の看板を応援する」「過去は水に流す」という傾向が強いと、政党は反省文化を育てる必然性がなくなります。

相互作用で反省が表に出にくい構造ですね。

 

つまり、自己批判が体質化した政党がレアなのは、心理・組織・社会の三重の壁があるから。逆に言えば、そこを突破する政党は非常に珍しいし、長期的な信頼を得やすいとも言えます。

 

 

となると、自己批判できる政党はなぜレアか。

自己保身が招く弊害と臭い物に蓋をすることのバランスシートとは、と言うことを考えてみたくなります。

 

 

戦前の大政翼賛会が解散した後、大政翼賛会の名をそのまま引き継ぐ政党は存在しなかった。

 

つまり、組織としての連続性は完全に断たれたわけです。

 

一方で、「昔からの名前」を冠した政党はあるけれど、それは組織的・思想的な連続性ではなく、名前だけの継承に過ぎない。

 

これは面白いポイントで、名前の継承と体質の継承は別物だということを示しています。

政党の自己批判や体質は、単に看板を残すだけでは伝わらない。

例え名前は残っても、反省や文化はリセットされる、ということです。

 

 

この構造を考えると、過去の日本の政党の歴史も興味深い。

 

戦前の大政翼賛会を見てみると、この構造はよく分かる。

大政翼賛会は戦後解散したが、その名前を引き継いだ政党は皆無で、合流前の党名で再出発した党も存在しなかった。

 

戦前の政治勢力は、名前も組織もほぼリセットされた形で戦後の政界に消えたのである。

 

例外は日本共産党だけで、戦前戦中に非合法化されていたため、戦後に結党時の主義・主張をそのまま継承して再出発することができた。

 

こうした歴史を振り返ると、現代の政治の姿も自然に重なる。

過去に非自民政権が誕生したことはあるが、その失敗や下野の理由を丁寧に検証した政党や政治家はほとんど見当たらない。

 

看板を変えてリスタートすれば良いという雰囲気になりがちで、過去から学ぶという姿勢が体系化されていない。

 

繰り返しになるが、誰かを責めたいわけではない。

責任を感じるというなら、過去からちゃんと学べば良いといいたいのです。

 

たとえ自分や自分の政党に直接関係がなかったとしても、歴史から学べることは山ほどある。

 

過去の失敗やリセットの構造を理解すれば、同じ過ちを繰り返すリスクは減らせるし、自己批判できる政党の希少性の意味も腑に落ちるだろう。

 

だから、自己批判を体質化できる政党は珍しい。

できるところは稀で、しかも長期的な信頼を得やすい。

過去の失敗から学べる政党は、実は非常に価値がある存在だ。

 

 

過去の失敗から学び、自己批判できる政党がいかに稀有で貴重かを理解した上で、あなたなら、どんな政治文化を育てたいだろうか。

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