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古墳は災害レジリエンスのモニュメント? ――考古学と『古事記』『日本書紀』から読み解く歴史の空白

これまで古墳は、支配者の権力や威光を誇示するためのモニュメントとして語られてきました。

しかし、中国の史書に見られる日本史の「空白期」を、考古学の知見と『古事記』『日本書紀』の記述を照らし合わせて埋めていくと、古墳の別の顔が浮かび上がってきます。

 

弥生時代後期、台与の時代以降、日本列島は決して安定した社会ではありませんでした。

宮城県稲生田遺跡では弥生後期の津波堆積物と耕作停止の痕跡が確認され、南海トラフ沿岸でも古代津波が繰り返し発生したことが知られています。

瀬戸内や九州沿岸では、集落が消滅し、再編や移転を余儀なくされた痕跡が各地で見つかっています。

 

沿岸の集落が数百戸規模で壊滅し、水田耕作が数百年単位で中断された例もあります。

生活圏そのものが破壊され、復興と移動を繰り返す社会状況の中で、政治は「拡張」よりも「維持」と「再建」に追われていたと考える方が自然でしょう。

 

この状況下で、天皇が最優先せざるを得なかったのは外交ではなく内政でした。

生活基盤の立て直し、集落や水田の復興、祭祀や秩序の維持──それらに全力を注ぐ日々が続けば、中国王朝との外交記録が途絶えるのも不思議ではありません。

中国史書に現れる「空白期」は、衰退や断絶ではなく、内政に忙殺された結果として理解することもできるのです。

 

一方で、『古事記』『日本書紀』には、この時期の天皇や事績が連続して描かれています。

沈黙はなく、むしろ困難な状況をどう乗り越えたかが語られている。

これは、単なる系譜の保存ではなく、天皇の統治能力と国難克服の実績を検証し、後世に伝える意図があったからでしょう。

 

ここで古墳を見直してみると、その意味合いが変わって見えてきます。

古墳は権力誇示のためだけに築かれたのではなく、災害後の社会再建を象徴するレジリエンスのモニュメントだった可能性があります。

立地や規模を考えると、津波や地震の記憶を語り継ぎ、「この国は立て直せる」という意思を可視化する役割を担っていたとも考えられます。

 

そう捉えると、困難な時代を乗り越えた天皇が「仁徳」と称えられた理由も、単なる美称ではなく実感を伴って理解できます。

外交を後回しにしてでも内政を立て直し、社会を維持したこと自体が、最大の功績だったのかもしれません。

 

さらに視野を広げれば、縄文時代の鬼海カルデラの巨大噴火の記憶や、D-M55、セロトニントランスポーターS型といった遺伝的傾向も、日本列島に暮らす人々の生存戦略や協調性の背景として重なって見えてきます。

繰り返される自然災害に適応し、移動と再建を前提に社会を維持してきた経験は、精神文化の基層を形づくってきました。

 

その文脈に置くと、古墳は単なる過去の権力の遺物ではありません。

災害を経験し、それでも社会を再構築してきた記憶を刻むモニュメントであり、共同体を再び束ねるための象徴だったと読むことができます。

 

『古事記』『日本書紀』に記された天皇の事績は、その偉業を神話化するためだけでなく、検証し、正当化し、後世に共有するための記録でもありました。

外部史料の沈黙と内部記録の饒舌さ。

その対照を丁寧に照合していくと、古代日本社会の実像と、古墳に込められた意味が、少しずつ立体的に浮かび上がってくるのです。

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