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「木を見る西洋人、森を見る東洋人」っていうけど、ほんとのところはどうなんだろう ――このあたりでいってみましょう。

ちょっと気分転換のつもりで、そんなことを考え始めた。
よく聞く言い回しだし、文化の違いを説明するには便利な表現でもある。

それで、気になったので軽い気分で考えてみた。

 

ところが、いざ考え始めてみると、どうも引っかかる。

スポットライトを使いたがる西洋、決めポーズで注目を集めたがる東洋。

果たして、こんな単純な比較で良いのだろうか。

本当に西洋は「木」ばかりを見てきたのだろうか。
本当に東洋は、最初から「森」を見渡していたのだろうか。

たとえば西洋の科学を思い浮かべると、緻密で分析的で、要素を切り分けて理解する姿勢が強い。

確かに「木を一本一本見る」感じはある。
でも、そもそも科学は自然哲学として始まっている。自然全体の秩序や法則を、どう理解できるか。そういう問いから出発しているはずだ。

そう考えると、西洋が最初から細分化一辺倒だったとも言い切れない。
むしろ、全体を理解しようとして、うまくいかないから分けてみた、という順序だったのではないか。
「木を見る」という態度は、森を見ようとした結果として生まれた側面もあるのではないか、そんな気もしてくる。

一方で、東洋はどうだろう。
陰陽や五行、道といった考え方は、たしかに全体のバランスや流れを重視する。即物的で、実践的で、理屈よりも身体感覚に近いところから話が始まる。
ただ、それも「最初から森が見えていた」というより、森の中を歩き続ける中で、だんだん見えてきたものではないのか。

こうして考えていると、「木」と「森」という対比そのものが、少し乱暴に思えてくる。
分けて考えることで分かりやすくなるものもあるけれど、その分、見落としているものもある気がする。

まだ自分の中でも整理はついていない。
だからこれは結論ではないし、主張でもない。
「こんなこと考えてしまったけど、どうなんだろう」と、自分に向けてつぶやいているだけだ。

この先、話は科学や社会の話に寄り道するかもしれないし、宗教や思想の話に触れるかもしれない。
でも今回は、とりあえずこのあたりまでにしておく。

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