聖書・コーラン

アメリカ合衆国と社会政策と社会主義と聖書と…。

申命記 15章
7 あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。
8 必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。
アメリカは合衆国大統領が就任の宣誓の際に、聖書の上に手を置いて誓うはずですよね。
ならば、あれこれと屁理屈をこねて自分達の地域や合衆国にいる貧しい人々に無条件で手を広げようとしない人はいても少数派じゃないと、おかしくないでしょうか。
ところが実際には、あれこれと理由を並べ立ててそれを拒む人、アメリカ合衆国に多くないでしょうか。
聖書の神は、「もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。」と人々に諭しています。

彼らにとってアメリカ合衆国とは、「あなたの神、主が賜わる地」じゃなくて私や私の先祖が選んだ土地だからでしょうか。
自分達の今生きているのは自分達の努力の結果であってそれ以外の何物でもない、だから神は関係ないというのでしょうか。
考えたくはないけれどもしそうならば、アメリカ合衆国の人々の多くはこの聖句を思い出した方が良いでしょう。
イザヤ書 29章
13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。
アメリカ合衆国でクリスチャンと名乗る人の多くは、日曜日に教会で聞く聖職者の説教で聖書を学んだ気になっているのでしょう。
様々な出自の人々が共有している数少ない共通点の一つがクリスチャンであることだとすれば、自分達の通っている教会で聞く聖職者の話に少しでも疑問を持つならば、たちまち拠り所となるコミュニティを失いかねないからなのでしょうか。
ここで疑問がわきます。
この教義は聖書の教えの中でも、極めて基本的で大切なものではないでしょうか。
それなのに彼らが拒否反応を示すなら、何かわけがあるはずです。
この教えの実践は、まさに社会政策そのものです。
そして彼らの故郷の地で社会政策は、特権階級の保身としておこなれた性格が強いのです。
彼らは特権階級無き社会を求めて新天地に渡った人達の子孫だとすれば、社会政策の必要性を認める事はすなわち特権階級の存在を前提とした社会に自分達はいると認める事になりはしないかという感情があるのかもしれません。
そして近代民主主義社会で社会政策の充実を誰よりも求めて行動する人々は、社会主義者だったのです。
彼らは特権階級のアメリカ合衆国での存在を否定したいあまり、特権階級の存在を思い起こさせる社会政策に生理的に拒否反応を示すのでしょうか。
若い世代はそのような過去のトラウマより今の自分たちの置かれた状況を解決する方が先なので、社会政策の実行が社会主義なら社会主義は素晴らしいではないかと思うようになったのでしょう。
今後の展開に要注目ですね。

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「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」この聖句を考え直してみます。

詩編22章の冒頭の言葉、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」はイエスの十字架上の言葉として、あまりにも有名です。

世間一般の解釈として、十字架で御父の助けも無く果てる我が身を嘆きながらまさに自身の生涯の預言詩であるこの詩を朗唱する途中で落命された、というのがあるのではないでしょうか。

イエスが御父の助けを全く期待していなかったかと言えば、人の子イエスとしてはそうだったかもしれません。

ゲッセマネで出来るなら飲まずに済ませたい苦い杯も、人の子イエスとしてはそうだったかもしれません。

でも、ゲッセマネでイエスが全身の毛穴から流された血の汗は、それだけが理由だったのでしょうか。

人の子イエスとしては、そうだったかもしれません。

だが私は、引っかかるのです。

最後の晩餐で弟子の一人の裏切りがあると、イエスが告げた際にその人について嘆いたこの一言です。

マタイによる福音書 26章
24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
イエスは贖罪の子羊として死ぬ自分の定めを決意して受け止めておられ、むしろ裏切る役回りになってしまった人の運命を嘆き悲しんでおられるのです。
イエスが飲まずにいられたらどんなに良かったかと嘆かれた苦い杯とは、苦楽を共にし心から愛して育て導いてきた弟子の中から自身を十字架に送る裏切りが出るという一番あって欲しくなかった展開が出来るなら嘘であって欲しいと言う悲しみでしょう。
イエスは布教の日々を、弟子の一人一人の思い出の数々を、思い浮かべていたでしょう。
拒まれた悲しみと、悩み苦しみながら成長していく弟子の姿、その挙句に来たのは弟子の裏切り、イエスの味わった挫折感の深さはどれ程だったでしょうか。
しかもその弟子達は、御父の同意無しに選んだ人は誰もいないはずなのです。
それなのに裏切りが弟子の中に出た、イエスの心の葛藤はどれだけ大きく激しかったでしょうか。
だからこそ、全身の毛穴から血の汗が出るほどに苦しまれたのではないでしょうか。
心の底から信頼し尊敬していた御父の人選だからこそ、ユダの裏切りが分かった時のイエスの悲しみと苦しみは普通の人なら耐えられないくらいだったでしょう。
だからこそ、裏切る弟子に対して生まれて来ない方が良かったと嘆かれたのではないでしょうか。
弟子達の前に毅然とした姿でいたイエスも、とうとうゲッセマネで限界に来たのではないでしょうか。
弟子達の前では頼れる師でいたいイエスは、苦しみ嘆き悲しむ姿を彼らに見せるわけなどあるはずがありません。
泣きはらした顔などを見せられる立場ではないイエスは、その苦しみと悲しみを血の汗として流されたのではないでしょうか。

ルカによる福音書 23章
34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
イエスが御父にとりなしの祈りをした時、自分を十字架にかけた全ての人のために祈られたのでしょうが、とりわけユダの裏切りに対してなのかもしれません。
この裏切りなしに、贖罪の子羊としての務めを果たすことはできなかったからです。
でも、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言うこの言葉の裏に込められている想いは、さらに深さがあるのかもしれませんね。

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ユダの裏切りは神の想定内だったのだろうか?

果たしてイエスの12人の使徒の人選は適正だったのか、裏切り者となったユダも選ばれた使徒の中にいるわけです。
そしてイエスは、ユダに対して心から悲しんでおられるのです。
マタイによる福音書 26章
24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
この聖句自体は、ユダを名指しする前に言われています。
けれどもイエスはこの時すでに、ユダが裏切ると知っておられるのです。
つまりこの聖句は明らかに、ユダに対してのイエスの悲しみの言葉と思って良いでしょう。
しかし、イエスは全ての言動を御父の指示や合意なしにはなさっておられません。
ヨハネによる福音書 1章
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
これらの聖句にある言(ことば)とは、イエスを指しています。
マタイによる福音書 10章
40 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。
この聖句はイエスが使徒達に告げたのだが、イエスが「わたしをおつかわしになったかた」と呼んでいるのは天の御父である神を指しています。
イエスの全ての言動は、天の御父である神の指示と承認の上でなされています。
マタイによる福音書 11章
27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
この聖句の子はイエスを父は神を、それぞれ指しています。
つまり、ユダの人選は御父の合意の上になされているのです。
もし、12使徒の誰もイエスを裏切らないならイエスの贖罪の十字架はあったでしょうか。
少なくとも御父は人選の際、12使徒の誰かはイエスを裏切ると承知の上でなされておられるとなるでしょう。
ちょうど、アダムとイブが禁断の木の実を食べたときのように、御父はサタンの企みを織り込み済みで人選をされたのかもしれません。
もし神がアダムとイブの禁断の木の実を食べた行為を怒ったなら、皮の着物を二人に与えたでしょうか。
創世記 3章
21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
この皮の着物は、アダムとイブがエデンの園を出ていくまさにその時、神が二人に与えたものなのです。
もしアダムとイブが禁断の木の実を食べた行為が神の意図に反していたなら、神は二人に皮の着物を与えたでしょうか。
サタンの行為は、神の想定内だったのです。
禁断の木の実は善悪を知る実、つまり善が何であるかを知るだけではなく悪が何であるかも知ってしまう実なのです。
人々を善に導くのが神の仕事なのに、悪に対する知識を立場上教えるわけにいくでしょうか。
そこで神の計画を妨害しようとたくらむサタンの行為を逆手にとって、神は禁断の木の実を二人に食べさせようとしたのです。
もちろん、神の所に帰って来られるように救済の手段も考えた上でです。
贖罪の子羊の役を御子が引き受けてくれたからこそ、可能になった計画なのです。
考えてみると、今の私達もまた、せっかく神の導きにたどり着いたにもかかわらず、離れてしまう人やお休みになる人がいます。
ユダが裏切るのは偶然だったとしても、十二使徒の誰かが裏切るのは必然として御父はそれも承知の上で人選をなされたとするなら、御父はユダに対しても何らかの形で救いの道を備えておられるのかもしれません。
だって御父は、私達皆が帰ってくることを望んでおられるからです。
マタイによる福音書 18章
12 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
13 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
14 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
イエスのたとえにある羊は、私達全てを指しています。
そして迷い出た羊を探しに出る羊飼いとはイエスであり、羊飼いの主人とは天の御父である神を指しています。
でも、私達は今まだそれがどのような道なのか知らない方がいいのかもしれません。
だって知ってしまったら私達は確実に、怠けてしまうでしょうからね。
とにかく、絶えず祈り、助けと教えを求めるしかないでしょうね。
それが、無難な道でしょうからね。

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なんで新約聖書に「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるのか。

聖書には、神は前もって告げ知らせないでは何事もなされないとあります。
アモス書 3章
7 まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。
考えて見れば、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言ってそこで止めているわけです。
例えばこの聖句のようにです。
マタイによる福音書 22章
32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。
出エジプト記でも、複数の聖句にアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とあります。
名乗りをヤコブの神で止めているとは、つまり、ヤコブの12支族の全ての子孫の神と名乗っている事になりませんか。
そして12支族は、世界に散っているのです。
もちろん12支族と行動を共にしていた居留民も、世界に散っています。
居留民が自分達の祖先が祀っていた神の儀式をして主の怒りを買ったとは聖書のどこにもないなら、居留民もまた自分達の身を寄せていた支族と共に祈りに参加しているのではないでしょうか。
となればヤコブの神は、12支族と行動を共にした居留民の神でもあったとなりませんか。
実は、12支族と居留民の子孫は今や世界中の民族や部族になっているのではないでしょうか。
という事は、ヤコブの神は世界中の人々の神となっていると言い換えても良いとなるでしょう。
御父はそれを見届けた段階で、御子を贖罪の子羊として地上に送られたという事でしょうか。
御父はなぜもっと早くに御子を遣わされなかったのか、その理由はこれ以外にあるでしょうか。
イスラエルになぜ居留民はいたのか、私は全ての民の神であるとヤコブの神は人々に告げていたのでしょうか。
イエスは旧約聖書を、私について予言しているとしています。
確かに個々の聖句にも、イエスの預言となっているものは多いです。
では、イエスが全ての民の救い主となるとどのように旧約聖書では預言されていたのかとなります。
旧約聖書にも、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神はイスラエルやユダヤだけの神ではないと示唆する記述は見つかります。
しかし一番の預言とは、イスラエルやユダヤの民が世界に散る事であり、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗っている正にその記述そのものにあるのかもしれません。

だからこそ新約聖書にも、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言う名乗りがあるのでしょう。
地上の全ての民はイエス生誕の時点で、ヤコブの子孫もしくはイスラエルの居留民の子孫のいずれかだったのでしょうから。

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聖書で最低限知っておいた方がいいことは?

聖書は長くいろいろ書かれているけれど、一番の基本はこれらの聖句につきてしまうかもしれません。

詩編 139編
1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。/主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。
2 あなたは座るのも立つのも知り/遠くから私の思いを理解される。
3 旅するのも休むのもあなたは見通し/私の道を知り尽くしておられる。
4 私の舌に言葉が上る前に/主よ、あなたは何もかも知っておられる。
5 前からも後ろからも私を囲み/御手を私の上に置かれる。
6 その知識は、私にはあまりに不思議/高すぎて及びもつかない。
7 どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。/どこに逃れれば、御顔を避けられよう。
8 天に登ろうとも、あなたはそこにおられ/陰府に身を横たえようとも/あなたはそこにおられます。
9 暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも
10 そこでも、あなたの手は私を導き/右の手は私を離さない。
11 「闇は私を覆い隠せ。/私を囲む光は夜になれ」と言っても
12 闇もあなたには闇とはならず/夜も昼のように光り輝く。/闇も光も変わるところがない。
13 まことにあなたは私のはらわたを造り/母の胎内で私を編み上げた。
14 あなたに感謝します。/私は畏れ多いほどに/驚くべきものに造り上げられた。/あなたの業は不思議。/私の魂はそれをよく知っている。
15 私が秘められた所で造られ/地の底で織りなされたとき/あなたには私の骨も隠されてはいなかった。
16 胎児の私をあなたの目は見ていた。/すべてはあなたの書に記されている/形づくられた日々の/まだその一日も始まらないうちから。

主はいつも、私たち一人一人を知っておられると言うのです。
だからこそ、こうなるのかもしれませんね。

詩篇 9篇
10 み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者を/あなたは捨てられたことがないからです。
ならば、こう思われないように日頃の言葉と行いに注意しないと…ならないのかニャ。
イザヤ書 29章
13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。

それでも、主はなお、寛大でいらっしゃるようですよ。

ルカによる福音書 15章
21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

そして御父はそのために御子に贖罪の子羊となるように、求められたと聖書は言うのです。
さらにイエスは十字架の上でさえ、なおも取り直しの祈りをなさったのと。

ルカによる福音書 23章
34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。

信じるかどうか別として、最低限これを知っていれば聖書の基本的な教えは分かったと言えるのではないかしら。
どんなもんでしょうね。

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聖書の神が求める思慮とは?


聖書の中には、一体何を言いたいのって思いっきり突っ込んでみたくなる聖句も少なくありません。
これも、そんな聖句の一つではないでしょうか。
箴言 1章 22 「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで/思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
思慮がないって私だってちゃんと考えて生きてるんだよ神様何因縁つけてるんだ、そう反発したくなる人も多いのではないでしょうか。
でも神は言うでしょう。
あなたが考えてないとは言っていない、私の求めたいような内容や段階には程遠いのだ。
じゃあ神は、なんでそう私達に思慮がないと文句を言うのでしょうね。
こんな聖句があります。

マタイによる福音書 7章
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。

自分の目に梁があると認めない者と思慮のない者を等しいと見れば、次の聖句の意味がより深く見えるかもしれません。
ここで言う、思慮とは神の御心にかなう思いでありましょうから。
神様に言いたいんだよ目に梁が入るわけないでしょうが、そう言うあなたの声が聞こえてきそうです。
目の中の梁がわからないのが、思慮が無いって事なのかと。
私達は自分が考えているつもりでも、人の言葉を受け売りしているだけかもしれません。
人の噂を真に受けているだけかも、しれません。
思い込みや思い違いや勘違いや早とちりに、気が付けていないのかもしれません。
知識や情報の不足に、気が付けていないのかもしれません。
神が言いたい目の中の梁とは、私達が気が付けていないうちに陥っているさまざまな誤りの全体なのでしょう。
神はさまざまな自らの不十分さに気が付けていないのに人に対してあれこれ突っ込んでいる人達を、偽善者と言いたいのかもしれません。

マタイによる福音書 7章
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

そして、偽善者とは神の御心にかなう思いとしての思慮がないのにあると偽る者でありましょう。

さらには、自分が気が付かないうちに陥った偽善もあるかもしれません。

気が付かないうちに陥った偽善の裏には、神の御心に気が付けていない思慮不足と言うなら、私達は一体どうしたら良いのでしょう。

ヤコブの手紙 1章
5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

途方に暮れてしまったなら、神である私に解決策をとことん聞きなさい。
神様、そういう事ですか。
はいはい、わかりました。
私達はどうせ、あなたの求める水準の思慮はできません。
神様、あなたを質問攻めにさせていただきます。
その代わり、ちゃんとご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

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聖書の神が求める愛の実践とはどういう事か考えてみた。

聖書、特に新約聖書では愛の実践を求める神からのメッセージが繰り返されています。
例えば、この聖句です。
マタイによる福音書 22章
37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
では、神の言う愛とはどうすればいいのでしょうか。
少なくとも流行歌で歌われているような愛では、ないでしょう。
神が実践を求める愛は、どのように行えばいいのでしょうか。
理解を得るヒントは、このような聖句かもしれません。
ルカによる福音書 6章
37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
ここで言うさばくなとは、どういう意味でしょう。
法に触れるような行為は裁かれても当然なので、それをやるなと言うわけではなさそうです。
人に対する評価を安易にするな、と言うのかもしれません。
このような聖句があります。
マタイによる福音書 7章
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
私達は皆自分の目に梁があっても気が付けていない、人への評価を正しく出来ているとは限らない以上、安易に恨んだり憎んだり妬んだりしない方が良いでしょう。
目に梁が入るわけがないので、もちろんこれは比喩です。
私達の知識や情報は、不十分な場合の方が多いです。
さらには、思い込みや思い違いや早とちりのような間違えをしていても気が付けていない時もあります。
噂に惑わされる場面も少なくないのは、誰もが思い当たるでしょう。
この聖句で言う目の中の梁とは、私達の正しい判断や評価を妨げているさまざまな要素の例えでしょう。
それに気が付いて取り除くのは、容易ではないです。
それが出来ていないうちは、あなたに私の何が分かるのとか、あなたの基準で私を図らないで、とか言われるのが落ちでしょう。
だからまず、自分の基準や判断を押し付けないように務めるところから始めるしかないのかもしれません。
私達誰にでも、苦手な相手はいます。
その人達を愛せと言われても、なかなかそう簡単にいきません。
まずは、安易に恨んだり憎んだり妬んだりしないところから始めるしかないかもしれません。
神である御父や御子の真似はそう簡単には出来ない、それは御父が一番よくご存知です。
だからこそ、やり直しが出来るように御子の犠牲がある。
ヤコブの手紙1章5節にあるように御父にひたすら質問しまくり、疲れたらマタイによる福音書11章28節にあるように休ませていただきましょう。
ヤコブの手紙 1章
5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
マタイによる福音書 11章
28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
御父や御子のような愛を実践できるようになるとは、贖罪のために我が身を捧げてくださった御子の真似が無条件に出来るようになる事でしょう。
聖書は、この世とはそのための修行の場と言いたいのでしょう。
でも、私は言いたい。
それが出来るくらいなら、私達は今頃この世界で修行してませんよ。

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興福寺の阿修羅像とキリスト教?

私は時折、キリスト教の教えと仏教の類似を面白く思います。
日本に伝わった大乗仏教の成立にキリスト教の影響があるだけではなく、仏教そのもの教えにキリスト教との類似を感じるのです。
それはさておき、興福寺で阿修羅像が収められていた西金堂に込められたメッセージが気になるのです。
興福寺の仏像の配置を知る手掛かりとして、曼荼羅図が残されていると言います。
その曼陀羅図をよく見ると、御仏の真正面で婆羅門の鳴らす金鼓(こんく)は御仏の教えを説く声の象徴だが、それを聞く十大弟子や八部衆は懺悔の表情を浮かべ、向かって左奥の阿修羅に至るのです。
その阿修羅の三つの顔は、十大弟子や八部衆の表情の正に集大成と言えるでしょう。
この阿修羅の三つの表情は、十大弟子や八部衆の懺悔の表情のアルファにしてオメガなのです。
この諸仏の像を作らせた光明皇后は、施薬院や悲田院さらには薬草の湯気で人々を癒す一種のサウナを作ったお方でもあります。
阿修羅は戦いの神とされるが、その阿修羅に人々の内面的な葛藤の表現を演じさせた光明皇后。
イスラムのジハードには、現世の戦いである小ジハードと内面の戦いである大ジハードがあります。
そしてイスラムもまた、聖書による宗派なのです。
ユダヤ教徒やキリスト教徒は、あまりジハードの教えが聖書に込められていると気が付いていないのではないでしょうか。
興福寺の阿修羅の表情の謎は、ジハードを知らない人には戸惑うでしょうが、光明皇后は明らかにジハードの思想を知っていたのかもしれないのです。
光明皇后は聖武天皇の后で、二人には東方キリスト教の影響が指摘されます。
光明皇后がこれら諸仏を西金堂に納めた動機には諸説あるが、まさか聖書の教えへの信仰告白なんてことはないでしょうね。
日本史とキリスト教には意外と繋がりがあるのかもしれない、そんな気になります。

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日本の預言者はどこに。

日本神話では、国生みに携わる二柱の神の名は「イザナギ」「イザナミ」とされます。

この「ナギ」「ナミ」とは、サンスクリット語の蛇を指す「ナーガ」に由来するのではないかとの説を聞いた覚えがあります。

ナーガは神聖視されたコブラを意味し、蛇の下半身に人間の上半身を持った神として崇拝されたそうです。

イザナギとイザナミがもしも人の上半身に蛇の下半身の神だったとすると、面白い連想が出来ます。

コンパスを持つ女媧(ジョカ)と定規を持つ伏羲(フクギ)です。

そしてコンパスと定規こそは、石工のシンボルです。

石工とは単なる工人ではなく、治山治水の担い手でもあります。

イザナギとイザナミとは、治山治水によって国造りの礎を築いた工人集団の長だったのでしょうか。

神仙思想に詳しい腕の立つ石工とは、メーソンを指します。

陰陽では蛇や風など長いものは、声の象徴です。

イザナギとイザナミは、神の声を地上に降ろす役を持つメーソンの長だったのかもしれません。

そうなると気になるのは、随神(カンナガラ)と言う言葉です。

この随(ナガラ)の「ナガ」は、神の御言葉の象徴としての蛇を指すのかもしれません。

随神(カンナガラ)とは神に随うと言う意味ですが、それには神に導かれる必要があるはずです。

そう言えば神社には、しばしば白蛇が神の使いとされています。

この蛇は、神の御言葉の象徴です。

神道は折に触れて、神託を乞います。

この神からの導きのメッセージを常に受け、人々に伝わるのは預言者です。

となれば、日本には預言者が存在するはずです。

だったら、もっと日本は良くなっていてもおかしくないでしょう。

その疑問に応えてくれるイエスの言葉が、聖書に収められています。

マタイによる福音書 23章 37節
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
エルサレムを日本と言い換えれば、身につまされるのではないでしょうか。
預言者を殺さないまでも、彼らの言葉にどれだけ耳を傾けてきたでしょう。
そもそも預言者を預言者として、認めて受け入れようとしてきたでしょうか。
では、その預言者はどこにいるのでしょう。
わからない時はどうしたらいいのかの答えも、聖書にはあります。
ヤコブの手紙 1章 5節
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
あなたはどう思いますか。

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イランからの亡命者が日本に来た?

トルクメンの絨毯は有名だが、トルクメンにもアイヌのむっくりに似た楽器があるのです。

演奏法はもちろん、音も似ています。

トルクメンとアイヌ、何か繋がりがあるのでしょうか。

イランは不思議な国で、日本の建国時にも大勢のイラン人が関わっています。

イランは今でこそイスラムだが、かつては拝火教が盛んだったのです。

なのに、日本に来たイラン人の多くは仏教徒だったと聞きます。

そういえば、仏教にメソポタミア起源説が出ています。

イランにも結構仏教徒がいたのでしょうか。

そういえば、アフガニスタンのイラン系パシュトゥーン人はイスラム化の前は仏教徒だったといいます。

イランにも仏教遺跡が見つかり、少なからず仏教徒がいた証拠になるでしょう。

日本に来た仏教徒イラン人は、亡命者なのでしょうか。

これから建国の日本なら、出番と居場所を確保出来ると遠路はるばるやって来たのでしょうか。

日本で大和朝廷がいつ頃成立したかはっきしないが、中東でイスラムが台頭してきた時期とほぼ重なるのは興味深いです。

今ほとんど、イランに仏教徒はいません。

アフガニスタンのパシュトウーン人に起きたのと同じ事がイランでも起きたとするなら、信仰を守ろうとした人々が安住の地を求めて旅立ったのは不思議ではないでしょう。

彼らは風の便りに、極東で仏教に基づく国家が生まれた、と聞いて一縷の望みを抱いてやって来たのでしょう。

彼らにもはや祖国はなく、新興の仏教国家に骨を埋める覚悟で来たのでしょう。

正倉院にはシルクロードの文物が多いが、特に目立つのはやはり、イランです。

平家にはイラン人が多いと、指摘する人もいます。

平家が束ねたときは一丸となって行動したが、平家が滅ぶと再び地元に帰ったと思われます。

もし日本から大量なイラン人が大陸に渡ったなら痕跡があるはずだが、そんな話を聞いた事はありません。

そもそも、日本で築いてきた生活を捨ててまで危険を冒して大陸に渡るでしょうか。

どっぷりと日本の落ち着いた生活に浸かった彼らが、争いに明け暮れる大陸に帰りたいと考えるでしょうか。

日本の中のイラン、もっと注目されても良いのではないでしょうか。

どうでしょう。

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