聖書・コーラン

徐福は一体何しに日本へ来たのか。

卑弥呼の国である邪馬台国は”yamatai”と一般に呼ばれるが、当時の日本語は二重母音であり発音は曖昧だったのです。

旧仮名遣いを読むと感じるのは、ワ行母音の方が発音しやすいと言う事実です。

卑弥呼の時代には、日本語の発音はワ行母音であったと考えられるのです。

邪馬台国は”yamatou"と発音されていたはずで、中国人は自分の言いやすいように”yamatai"と言い換えた可能性があるのです。

”yamatou"、すなわち”ヤマトウ”はヘブル語で「ヤハウェの民」を意味している言葉です。

ここで興味深いのは日本には古代中東の遺伝子があるばかりか、アイヌの生活文物が古代イスラエルの物に似ていて、沖縄の文化も聖書似ていて、更には、古事記や日本書紀の神代七代についても聖書の天地創造の七日を連想できると指摘される事です。

その日本に、ヘブル語で「ヤハウェの民」を意味する「ヤマトウ国」があるのです。

しかも卑弥呼は鬼道の使い手とされるが、卑弥呼の時代とは中国では神武天皇になったという説の出ている徐福が日本に来た頃と重なります。

徐福は方士、今日でいうところの陰陽の使い手なのです。

卑弥呼の鬼道とは隠れた力を呪術によって使いこなす術とみていいので、実質的に陰陽と言っても差し支えないのです。

徐福は卑弥呼の背後で、鬼道を指導している可能性があるのです。

ところが陰陽とは、ユダヤ教神秘主義のカッバーラとそっくりなのです。

となると、徐福は大勢の人を引き連れてヤハウェの民の国であるヤマトウに亡命したカッバーラの使い手となるでしょう。

民俗学者吉野裕子は日本の民俗は陰陽で読み解けると、指摘しています。

徐福はヤハウェの民の国ヤマトウに、カッバーラを持ち込んだのでしょうか。

それとも、ヤハウェの民の国ヤマトウにはすでにカッバーラがあると知ったうえで、徐福は亡命したのでしょうか。

日本の神社の原型は山を御神体とするもので古代エジプトのピラミッドコンプレックスとそっくりだと、エジプト学者吉村作治は言います。

狛犬の正体はスフィンクスだとも、吉村作治は断言しているのです。

日本の神話の構造も、太陽神を頂点とし動物を含む神々が三神をなす点が古代エジプトと共通なのです。

徐福は一体日本で何をしようとしたのか、興味がそそられますね。

追記

徐福と卑弥呼についてはこんな記事も書いていました。

卑弥呼の鬼道を考える。 

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大義を民の声として掲げてこそ希望の光は見える。

出エジプト記は、神の声を伝えたモーセとアロンに対して頑なであったファラオのためにエジプトが被った禍の数々を記しています。

民の声は天の声神の声と置き換え、頑な為政者を頑なファラオと置き換えるなら、この教訓は今も通じるはずです。

民の声に対して頑な為政者は、民に禍をもたらします。

出エジプト記の紅海の奇跡は大義による結束によって救われた民の奇跡と、愚かで頑な為政者に従った民の悲劇の記録でもあります。

奴隷の苦しみより自由のために戦って死ぬ方がましという決意は、私達を結果として救いに導くのです。

高く掲げられた大義は、私達の希望の光であり道なのです。

大義の旗を高く掲げ、大義の旗を見失わず勇敢に前進するものだけが、勝利の光を見るのです。

真理や真実や大義そのものは見えないが、それを証言した現象や記録は見ることができます。

そして、それらを目に見えるものにすることができるのは、それらを実行したものだけなのです。

そして、それらを受け入れたものにとってそれらは現実となるのです。

大義を掲げる時、その大義は誰のためなのか何のためなのか、常に問われます。

私達は大義を掲げるなら、その答えもまた掲げなければならないのです。

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神社とアテン神とイエスと…。

日本の神社の原型は、山をご神体とした拝殿とされています。

この構図は確かに吉村作治教授指摘の通り、ピラミッドコンプレックスとよく似ています。

古代エジプトでは、ピラミッドが時代を下って本殿となり偶像崇拝が入り込みました。

日本の神社は、古代エジプトが陥った偶像崇拝を排して原点回帰をしたと言えます。

ピラミッドは、天への階であるとともに天から降り注ぐ光の象徴でもあるのです。

日本の神社にある鏡は、その天から降り注ぐ光の代替品なのです。

神社でなぜ拝殿と本殿の間に階があるか、それは、神社の原型がピラミッドコンプレックスであることを忘れないためです。

 だからこそ階で拝殿と本殿を繋ぎ、本殿に鏡を置いたわけですね。

本殿の正体は、ピラミッドコンプレックスのピラミッドにあると言って良いでしょう。

その証拠に、日本の神話大系は古代エジプトとうり二つの、太陽神を中心とした動物を含む八百万の神々を祀っているのです。

 しかも、古代エジプトと同様に三神構造で祀っている事も似ていますね。

太陽神が女神なのは、女帝合理化のためのすり替えの結果と指摘されています。

しかし、鏡は天から降り注ぐ光の代替品にとどまりません。

なぜ丸でないとならないのか、と言う疑問が残ります。

実は太陽神は、太陽円盤をその象徴としています。

 鏡は太陽円盤をも、表しているのですね。

階は太陽が放つ光の象徴でもあると、指摘しました。

太陽円盤と太陽が放つ光の象徴を、一つに描いた神が存在します。

アテン神です。

神社は、アテンの神殿であることを見せながら隠し、隠しながら見せています。

その証拠に、天皇家の象徴である十六弁菊花紋をあげましょう。

十六弁菊花紋は、古代中東の太陽神紋がその正体なのです。

そしてその太陽神紋は、放射線に囲まれた太陽円盤として描かれています。

アテン神の放つ光は、しばしば神の伸ばした手の姿で描かれています。

それに対して、太陽神紋は放射線です。

だが、注意してください。

アテン神が伸ばしているその手が表しているのは、太陽円盤から降り注ぐ光でもあるのです。

 古代中東の太陽神紋の正体は、アテン神だったということですね。

そのアテン神を、天皇家は象徴としています。

そして天皇家は、日本の神道の最高祭司です。

神社の鏡と階は、当然、アテン神に対応するとみる方が自然なのです。

ピラミッドは、日本の神道では山で代替されたが、山の神は女性とされています。

 なぜでしょうか。

山、そして、ピラミッドは母体の象徴だからです。

神社の姿は母体を表していて、鳥居は足に当たります。

 だから、古い神社の鳥居は二本の柱だけが立っていた。

参道は産道でもあるのです。

茅の輪くぐりは、生まれなおしの儀式なのです。

 でも、新しい神社の鳥居は違いますね。

 古代イスラエルの門に、似ていると言う指摘もあります。

鳥居と言うのは、アラム語で門を意味するとも、言われていますね。

でも、他にも似ているのがあります。

ヘブル文字には、一文字で神を表すものがあります。

一つは勾玉に似ている「ヨッド」、そして、もう一つが「へー」です。

ヘブル文字の「へー」には、鳥居そっくりな書き方があるのです。

「へー」はヤハウェを表す「ヨッド・へー・ヴェブ・へー」の一文字です。

そして、ヤハウェとは、旧約聖書時代のイエスなのです。

 そうなると神社の鳥居は、イエスを表す事になるのですね。

イエスは、私によらないでは神の国へ入れないと語っています。

鳥居は、赤いものが多いですよね。

 白や、まれに黒もあるけど、大抵の場合そうです。

白や黒も、陰陽では霊界の象徴とされる色なので問題ないですけどね。

 赤は、陰陽では地でもあるが、火でもある。

イエスは、火と聖霊で人を清めると言われています。

アテン神と、イエスは、どういう関係なのでしょう。

 アテン神信仰と聖書の教えは、似ていると聞きましたけど。

さらに、調べて見た方が良さそうですね。

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マツアを買ってみました。

新型コロナウイルスの感染防止で自宅にこもることが奨励され、日曜日も時間を持て余しぎみになります。

そう言えばイエスと弟子たちの最後の晩餐は過ぎ越しの祭りの日で、種入れぬパンであるマツアが用いられたはずと思ってどこかで手に入らないかと見れば、教文館に久しぶりの入荷。

自粛要請のために店舗は休業だが、感染防止に注意しながらネット通販はしているというので注文してみたのです。

Matzos

マツアは過ぎ越しの祭りでは重ねてささげられるので鏡餅を見たユダヤ人が日本人も過ぎ越しの祭りをやるのかと早とちりしたこともあると、聞いた覚えがあります。

過ぎ越しの祭りも大晦日もマツアや鏡餅を飾って徹夜で朝を迎える点は、確かに似ています。

過ぎ越しの祭りでは苦菜を食べる風習があるが、日本でも1月7日に七草粥の習慣があるのも面白いですね。

マツアを見ながら、ふと、日ユ同祖論を思い出して愉快な気分になりました。

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出雲大社に裏の御祭神?

出雲大社には、出雲国杵築大社御神殿天井八雲之図と言う謎めいた図が伝わっているのです。

Yakumo  

八雲の図と言いながら、七つの雲しか描いてないのです。

この七つの雲は、五色に描かれているのです。

五色と言えば、陰陽ですよね。

奇数は陽で偶数は陰、八つ目の雲は陰だからあえて描きませんでしたって、暗号が雲の色に隠されているのでしょうか。

出雲大社の祭神は、大国主大神ですよね。

実は裏の祭神をお祀りしているって、暗号なのでしょうか。

表の祭神は大国主大神、隠して祀られている別の大国主大神が実はあると言うのでしょうか。

神の世界で大国主大神をニックネームにつけて似合うお方は、誰でしょう。

神の神、王の王、この二つの異名を持っていると言えば、イエスが有名ですよね。

イエスは旧約聖書のヤハウェにあたり、かつてはエホバとも訳されていました。

ヤハウェは「ヨッドヘーヴェブヘー」って、ヘブル文字で書くのですよね。

ヘブル文字の「ヨッド」は「ヤー」とも読んで、これ一文字で「ヤハウェ」を表すのです。

「ヤーの雲」を「八(や)の雲」としゃれたのでしょうか。

そうなると気になるのが、「金輪御造営差図」なのです。

Kanawa  

これには、カッバーラの生命の樹だっていう突っ込みがあるのですよね。

Seimeinoki

生命の樹は「アダムカドモン」とも呼ばれ、人、それも絶対三神の後ろ姿とされると言います。

特に、イエスだそうです。

そうなると、出雲大社は実はイエス神社って事になってしまうのですけどね。

大国主は大きな社に自分を祀って欲しいって、言ってましたよね。

そしたら天孫一族は、出雲大社をイエス神社にこっそりやってしまったって事でしょうか。

祀られている大国主は、納得しているのでしょうか。

謎ですよね。

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私達は神の命令から逃げられない。

マルクスとエンゲルスは、社会主義を低次と高次にわけてそれぞれこう位置付けました。

社会主義の低次の段階では能力に応じて働き、働きに応じて受け取る。

福祉や教育や医療は収入に関係なく、当人や家族の必要なだけ受けられる。

社会主義の高次の段階では能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。

もちろん、福祉や教育や医療は誰もが必要に応じて、そして、必要なだけ受けられる。

これはマルクスやエンゲルスが言い出しっぺではなく、聖書で神が命じている事なのです。

マルクスやエンゲルスのやった事は、聖書で神が命じた収入の低さで困る人が出ないよう惜しみなく助けろという命令からあれこれ理由をつけて逃げ回ってきた社会に実現可能だからやれと突き付けた事と言えるでしょう。

二人の著書は「空想から科学へ」と日本語では訳されるが、「理想主義から現実主義へ」と訳す方が、内容に合っています。

理想主義として社会主義思想を展開した人たちは何人もいるが、理想論の段階にとどまっていた限界もありました。

マルクスとエンゲルスは、それらの主張が理想論ではなく実現可能だと理論と科学によって示したと言えます。

マルクスやエンゲルスの思想を聖書の焼き直しと言う人もいるが、ならなぜ、資本主義はマルクスの呪いから逃げられないのでしょう。

福祉社会をどう実現するかの課題が突きつけられこの課題から逃れられない事自体、人間は神の命令から逃げられない事の証ではないのでしょうか。

どうでしょうか。

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イスラム法の背景を考えてみた。

イスラム社会はイスラム法を持つが、それは拠点を持った共同体を守る必要があったからなのです。

ユダヤ教に宗教的規範はあっても法がないのは、離散したのでユダヤ人としての連帯はあっても拠点を持った共同体がなかったからです。

キリスト教法学がないのは、救いの教えに徹し教団はあるが共同体がなかったからです。

キリスト教徒の共同体が営まれた時期や地域はあるが、それはむしろ例外なのです。

教団は政治的には中立を保つか、一部地域のように教会が世俗権力と癒着するか、いずれにしてもキリスト教徒自身による共同体は一般化しなかったので、キリスト教法学はできなかったのです。

イスラム法は彼らの社会の置かれた状況を反映して成立したが、聖書やコーランの教えに基づいて作られたのです。

だからイスラム法に基づいて運営されるイスラム社会は、聖書とコーランに比較的忠実な社会なのです。

運用の現実はアラブ社会の慣習によって歪められた部分もあるのは、残念な現実ではあります。

イスラム社会にしばしばみられる問題があるからと、イスラムの教えを誤解しないで欲しいのです。

コーランや聖書の教えと、アラブ社会の旧弊が入り混じったのが現実のイスラム社会なのですからね。

キリスト教社会だって、それぞれの社会の旧弊を少なからず引きずって歪められた側面があります。

キリスト教社会にもその歪められた側面だけ見て、キリスト教を邪教と勘違いしている人達が少なからずいる残念な現実があるのです。

聖典を正しく理解するのは大事だけど、容易ではないのです。

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イスラム法の背景を考えてみた。

イスラム社会はイスラム法を持つが、それは拠点を持った共同体を守る必要があったからなのです。

ユダヤ教に宗教的規範はあっても法がないのは、離散したのでユダヤ人としての連帯はあっても拠点を持った共同体がなかったからです。

キリスト教法学がないのは、救いの教えに徹し教団はあるが共同体がなかったからです。

キリスト教徒の共同体が営まれた時期や地域はあるが、それはむしろ例外なのです。

教団は政治的には中立を保つか、一部地域のように教会が世俗権力と癒着するか、いずれにしてもキリスト教徒自身による共同体は一般化しなかったので、キリスト教法学はできなかったのです。

イスラム法は彼らの社会の置かれた状況を反映して成立したが、聖書やコーランの教えに基づいて作られたのです。

だからイスラム法に基づいて運営されるイスラム社会は、聖書とコーランに比較的忠実な社会なのです。

運用の現実はアラブ社会の慣習によって歪められた部分もあるのは、残念な現実ではあります。

イスラム社会にしばしばみられる問題があるからと、イスラムの教えを誤解しないで欲しいのです。

コーランや聖書の教えと、アラブ社会の旧弊が入り混じったのが現実のイスラム社会なのですからね。

キリスト教社会だって、それぞれの社会の旧弊を少なからず引きずって歪められた側面があります。

キリスト教社会にもその歪められた側面だけ見て、キリスト教を邪教と勘違いしている人達が少なからずいる残念な現実があるのです。

聖典を正しく理解するのは大事だけど、容易ではないのです。

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日本の古墳はマナの壺か。

大王一族の葬られた古墳は大小合わせて複数作られるが、最大なものは三段で堀に囲まれています。

埋葬者が葬られた石室は、後円部にあります。

この形は陰陽で解けるのです。

三段は天人地で、方は地で円は天、水も天、つまり天の頂点に葬られたのです。

前方後円墳には左右に張り出しがあります。

埋葬者の石棺は、張り出しに船で運ばれたのです。

石棺の形は、船を伏せた形式と見えるのです。

周囲にでっぱりはあるが、運搬用に付けられたとみれば納得できるものです。

埋葬者の石棺は、船で古墳に移動したのです。

だが、前方後円墳には張り出しが二つあります。

古墳に着くためのものと古墳からさらに天へ向かうためのものと解釈できるが、壺の取っ手を意識したのだという解釈もあるのです。

古墳は様々な形で作られた、それはなぜかと言うことです。

もし壺としたなら、前方後円墳だけが壺なわけがないニャ。

古墳はすべて壺を模ったのかもしれないのです。

祭祀用の壺の形は多彩です。

もしすべての古墳が壺を意識して模られたとするなら、どうなるでしょう。

歴史上最も有名な壺があります。

聖書のマナの壺です。

日本の古墳、特に前方後円墳はマナの壺を模ったという説があるのです。

確かに偶然にしては似過ぎています。

そこで日ユ同祖論の証拠の一つに、良く挙げられるのです。

実際、日本はユダヤと似ているのです。

ヘブル語と日本語、音と意味が似ている言葉が多いって聞きます。

ヘブル文字とカタカナも、似ていると指摘されます。

神社なんか、古代イスラエルの幕屋や神殿と構造はそっくりです。

ほかにもあるけど、主なものだけでもそれだけあります。

その日本の前方後円墳が、マナの壺に似ているのです。

不思議でしょう。

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令和と言う元号から連想したこと…。

日本の元号は、平成から令和に変わったのは皆さんご存知の通りです。

しかし、民俗に興味がある私は、実はオカルトぽいことにも関心があります。

聖書に関係あるオカルトと言えば、カッバーラです。

このカッバーラで私なりに、日本の元号が令和になった意味を解釈してみました。

これはどこまでも、私だったらこう思うという事なので、カッバーラに関心のある人なら誰でもこう解釈するというわけではないとお断りしておきます。

日本の国名は、日出ずる国と言う解釈で間違いありません。

でも、日本の天皇陛下は太陽神天照大御神の子孫とされているので、日本の国名はこうも解釈できるのです。

「日」は「太陽神天照大御神」「本」は「そのおひざ元」で、「太陽神天照大御神のお膝元の国」が日本と言う事になるでしょう。

だがこの天照大御神の岩戸隠れには、天照大御神の死と復活という解釈が成り立つのです。

太陽神のお隠れで世界が暗くなりそのお出ましに女性が立ち会う構図は、実はイエスキリストの死と復活の際の構図とそっくりなので、焼き直し説も出ています。

天照大御神はもともと、男性神天照国輝彦であったのが女性神にすり替えられたという説は根強くあります。

男性神であれば、なおさら焼き直しの可能性は高まります。

そこで、天照国輝彦はイエスキリストが正体と置くとこうなります。

「日」は「義の太陽神イエス」「本」は「木」と「十」で「十字架のイエス」。

つまり、日本は実はキリスト教の国であったとなってしまうのです。

何しろ天孫降臨とは、古代イスラエルの支族が来た事を表すとの説が出ています。

さらに、渡来人の中でも最大級の勢力である秦氏にも原始キリスト教徒説があります。

そして天皇は実は天皇陛下なので「天の神様の預言者」と解釈しても間違いではないのです。

何しろ天照大御神の子孫の位置付けなので、神様の代理人つまり、預言者と言う意味が天皇陛下と言う意味に込められていてもおかしくないのです。

そして、古代イスラエルは預言者に導かれた民族であったことを思えば、その指導者である天皇陛下は天の神様の預言者であってもおかしくないし、むしろ、自然なのです。

そして、令和と言う元号です。

「令」は「従うべき言葉」の意味でつかわれることが多いです。

では、「和」はどうでしょう。

カッバーラとしてみれば、こうなるでしょう。

木の字は「十」と「人」で「生命の樹」、「禾」の「ノ」は罪状版、ここに「口」で「和」。
だから「和」と言うのは「十字架で果てたイエスに従う」ってこと。

合わせて、「令和」は「イエスに従うべき時が近づいた」となるでしょう。

今の世界の状況は、イエスキリストの末日予言を連想できると指摘する人達がいることと重ねると、今後どういう展開になるでしょう。

注意して見ていきたいものです。

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