聖書・コーラン

あなたは聖書の終末預言をご存じだろうか。

あなたは聖書の終末預言をご存じだろうか。

マタイによる福音書やルカによる福音書に、それは記されている。


今、複数の伝染病のパンデミックが起こりしかも薬の不足という事態も起こっている。
この事態は、果たして一過性のものでそう何回も起こることはないのだろうか。
それとも温暖化によって溶けた氷の下から過去の病原体が再来して、新たなパンデミック対策が必要となるのだろうか。
ルカによる福音書の終末預言を、連想せざるを得ない。
大地震もまた、増えてきているからだ。
異常気象による、深刻な事態も各地から報道されている。

また、大地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や天から大きな徴が現れる。(ルカによる福音書第21章11節)
偶然と笑うかどうかは勝手だが、最悪の場合を想定するのが危機管理だ。
聖書の終末預言を最悪の場合の想定と見て、備えておくに越したことのではないか。
戦争に対しても、決して気が抜けない事態が進んでいるからだ。
以下に、マタイによる福音書とルカによる福音書の終末預言を述べておく。
どう受け止めるかは、あなた次第だ。

マタイによる福音書 24

4イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。

5私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

6戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。

7民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。

8しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。

9その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。

10その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。

11また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。

12不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。

13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

14そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 

ルカによる福音書 21

8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、付いて行ってはならない。

9 戦争や騒乱があると聞いても、おびえてはならない。こうしたことは、まず起こるに違いないが、それですぐに終わりが来るわけではない。」

10そしてさらに、言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる。

11また、大地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や天から大きな徴が現れる。

12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。

13それは、あなたがたにとって証しをする機会となる。

14だから、前もって弁明の準備はするまいと、心に決めなさい。

15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである。

16あなたがたは、親、兄弟、親族、友人にまで裏切られ、中には殺される者もいる。

17また、私の名のために、すべての人に憎まれる。

18しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。

19忍耐によって、あなたがたは命を得なさい。」

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私たちの世界でいつの間にか科学や技術やそれによる産物が事実上の神や偶像になっていないだろうか。

今、私たちの世界でいつの間にか科学や技術やそれによる産物が事実上の神や偶像になっていないだろうか。

人びとの幸せのために始まった生産活動や流通は、階級社会の中で競争や欲望の対象とされいつの間にか私たちを振り回すものになっているのではないか。

 

これで果たして良いのか。

 

私は、聖書の十戒を思い出して問い直してみたくなる。

 

十戒は、次のようなものだ。

ここでは、正教会・聖公会・ルーテル教会を除くプロテスタントの場合を挙げる。

カトリックは布教の手段として偶像を使い始めたために偶像崇拝の禁止を十戒から外してしまったが、ルーテル教会はそんなカトリックの解釈を引き継いでしまっているのだ。

聖書には、はっきりとこうある。

 

あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。

それにひれ伏し、それに仕えてはならない。(出エジプト204節から5節より抜粋)

 

そして、十戒はこの言葉から始まる。

私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。(出エジプト2023節)

 

主が唯一の神であること

偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)

神の名をみだりに唱えてはならないこと

安息日を守ること

父母を敬うこと

殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)

姦淫をしてはいけないこと

盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)

隣人について偽証してはいけないこと

隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと

 

十戒の引用はしばしば主が唯一の神であることから始められるが、私はその前の「あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者」という指摘があってこそ「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」という言葉が重い意味を持つと考える。

自由と言う名の幸せをあなた方に与えたのだから、あなた方は私に従えと言っていると感じられるからだ。

 

知恵や知識や技術だけでなく自由も与えたのは、この私だと言っているのではないか。

 

だが、これだけでは偶像崇拝の対象になってしまった科学や技術やそれらの産物と大差がなくなってしまう。

 

違いはそのあとにこそある。

 

偶像崇拝するな、立ち止まって自らを省みる時を持て、殺すな、官能的な快楽に溺れるな、奪うな、噓をつくな、むさぼるなとあるのではないか。

 

「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。」(出エジプト208節)

 

聖別しなさいとは、単なる休息ではなく神はいったい何をされたいのか思いをはせる日にしなさいと言うことだ。

 

神は創造の業の度にそれを点検し、確認している。

目的にかなっているか、神と言えども自らの業を振り返っているのだ。

あなた方も自らの業を振り返る日を持つようにと、諭しているのだ。

ただ、休むだけではないのだ。

 

神は疲れを知らないから、疲れを癒すために休んだのではない。

自ら範を垂れ、振り返りと疲れを取る日を作る必要を示したのだ。

 

それと今回は十戒を振り返るのが目的だが、聖書には惜しみなくあなたの手を広げて乏しさのために困る人がないようにしなさいと諭している言葉もある。

 

誰もが惜しみなく自分の手を広げて乏しさのために困る人がないようにすれば、人のものを盗ったり貪ったりそれを誤魔化すこともないし満ち足りれば目先の官能的快楽で気を紛らわすこともない。

 

みんなが競い合うライバルになってしまい負けられなくなる社会の中で人類全体の課題に取り組んでも、結局のところギクシャクしてうまくいかない。

 

そうではなく、お互いに助け合い支えあい隣人を自分を愛するように愛し、正義と秩序を自分を守るように守れば、協力はうまくいく。

 

そのことを考えて欲しいから、聖書を一人で多くの人に読んでもらいたいのだ。

 

信じるかどうかは、一人一人の判断で決めればいいのだ。

 

どうだろうか。

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本当に抑止力行使って役に立つのか?

抑止力行使を平和のためと言う人たちがいるけど、本当にそうなのか。

じゃああなたは、他の国の抑止力行使に対してはいそうですかと大人しく従う気になるかと聞きたい。

こん畜生と思うんじゃないの、だったらやるなよって話だよ。

 

抑止力行使と言うけど、これがいかに馬鹿げているか自分の嫌なことをとにやったら逆効果になるって教えだろこれって!

違うかい?

聖書にはこうあるよ。

 

マタイによる福音書 22

37 イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

38 これが最も重要な第一の戒めである。

39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

40 この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」

 

『隣人を自分のように愛しなさい。』

 

自分のされたくないことは人にもしない、これのわからない愚か者の考えが抑止力行使だろ。

 

悲しいことには、キリスト教の国と自らを言う国の指導者が当たり前のように抑止力行使を語るのだ。

 

聖書には、こういう神のボヤキが載っている。

イザヤ書 29

13 主は言われた。/「この民は口で近づき/唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている。/彼らは私を畏れるが/人間の戒めを教えられているにすぎない。

14 それゆえ、私は再びこの民を/驚くべき業によって驚かす。/この民の知恵ある者の知恵は滅び/悟りある者の悟りは隠される。」

 

これはいわゆる旧約聖書に載っているから、新約聖書しか読まないと知らないのだろうか。

 

聖書は、教訓集として読んでもこんな風に結構面白いから読まないのはもったいないぞ。

 

それはさておき、自分の嫌なことは人にもやるな、これが守れるだけでも平和は保てるんじゃないのか。

 

違うかい?

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聖書の警告を馬鹿にすると馬鹿を見るというのは心配のしすぎだろうか。

今の世界と社会の現実を見ると、改めて聖書の警告を思い起こしてみる方が良いように思われる。

マタイによる福音書 24

3イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

4イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。

5 私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

6 戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。

7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。

8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。

9 その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。

10 その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。

11 また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。

12不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。

13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

14そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

イエスを名乗ってこそいないが、これが解決策だと主張して人々の判断をむしろ混乱させている動きは目立つのではないだろうか。

一面的で表層的な理解なために、やればやるほど事態がこじれていくのではないだろうか。

本格的な戦争にこそなっていないが、深刻な利害対立が排他的な対応のためにより対立が深まっていないだろうか。

これは、偽預言者が多数現れ多くの人を惑わすという警告を連想させる事態と見た方が良いのではないか。

不正が行われたと糾弾や非難しあうことが増えていないか、このままでは不正がはびこり多くの人の愛が冷めるとの警告が現実化しかねないとの心配は取り越し苦労だろうか。

このままでは、この聖書の警告通りになりかねないというのは悲観的すぎるだろうか。

最悪の場合を想定してこそ、危機管理の基本だろうがね。

マタイによる福音書 7章 
13「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。
14 命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
では、救いに至る狭い道はどうすれば見出せるのだろう。

マタイによる福音書 7章 
15「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。
16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
ようは、過去の彼らの言動を見れば良いということになる。
後は、私たちがどのような価値観や世界観や倫理や道徳や価値基準で彼らを判断するかできるかが問われることになる。

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平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる。

いまだに世界から、戦争やテロの脅威は後を絶たない。

その結果として、どうなっただろう。

英語でWar on Terrorism または War on TerrorとよばれWoTと略称される対テロ戦争は、およそ2001年頃から勃発した、アメリカ合衆国などの有志連合と呼ばれる国家と、国内外におけるテロリズムを行う組織の間の戦争である。

正式名はGWOTすなわちGlobal War on Terrorismテロとのグローバル戦争で、第三次世界大戦やテロとの戦いとも呼ばれた。

勃発の原因としては、アメリカ同時多発テロが契機となっている。

テロ攻撃の犯人がアルカーイダであるとされ、アメリカ軍がイギリス軍などと共にアルカーイダをかくまっているとされたアフガニスタン・イスラム首長国を攻撃し、崩壊させた他、後にアルカーイダの最高指導者であるウサーマ・ビン・ラーディンを殺害した。

しかし、アメリカの支援を受けて成立したアフガニスタン・イスラム共和国がゲリラ化したターリバーンの攻撃を受け崩壊。同国に展開していたアメリカ軍は撤退する事となった。

ではこのテロとのグローバル戦争で、世界はテロの恐怖から自由となっただろうか。

怒りの連鎖は、新たな怒りの連鎖を産み何かきっかけがあれば再び愚かしい連鎖を産むだけではなかったか。

クリントン大統領は連邦政府ビルでのテロで、怒りの連鎖を断ち切り正義によってこの事態を乗り越えようと呼びかけた。

この時期のアメリカは怒りの連鎖によって引き起こされているテロが頻発していたので、その連鎖を断ち切る必要に迫られていたからだ。

だが動機はどうであれ、正義によってテロの連鎖を断ち切ろうと呼びかけたことは大きな意味を持つ。

連邦政府ビルに対するテロの犠牲への追悼演説でクリントン大統領は自分の言葉ではなく他者の言葉や聖書の引用を多用したが、個人の意見としてではなく普遍的な意味を持つメッセージとして発したいと意図している。

残念ながらテロへの対応を正義によってなそうとする呼びかけは、報復にすり替えられテロとのグローバル戦争へとアメリカの同盟国を巻き込んで突き進むこととなる。

私的な組織や集団と国家とでは力の差は歴然であって、力による威嚇でテロを封じるという点では抑止力行使と変わらないと言える 

抑止力行使が威嚇には屈しないという軍拡の連鎖を産んで緊張をかえって高めているように、武力行使による威嚇は巻き添えになった人たちに新たな報復の連鎖を産んでいる。

正義によって武力行使を抑えるなら、武力行使による報復ではなく法による対処こそ必要であり怒りではなく叱ること諭すことによって収拾を図る方が良い。

聖書は、今から2000年前にすでにこう述べている。

思い起こしてみたい。

マタイによる福音書 7

3きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。

4きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。

5偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。

目にあるおが屑や梁を、愚かさと言い換えてみればもっと意図が明らかになる。

きょうだいの愚かさは見えるのに、なぜ自分のもっと大きな愚かさに気付かないのか。

きょうだいに向かって、『あなたの愚かさを取らせてください』と、どうして言えようか。自分にはもっと大きな愚かさがあるではないか。

偽善者よ、まず自分から大きな愚かさを取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいから愚かさを取り除くことができる。

そのことは、次の聖句を見ればはっきりする。

マタイによる福音書 7

1「人を裁くな。裁かれないためである。

2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。

イエスは姦淫の現場を押さえられた女が石打の刑になろうとしているときに、こう言った。

「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネによる福音書87節)

すると女を罰しようとした人は皆、いなくなってしまう。

抑止力行使も似たようなものではないだろうか。

「あなたがたの中で過ちを犯したことのない国が、まず、この国に攻撃をしなさい。」

さあ、どの国が抑止力行使の権利があると言えるだろうか。

平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書59節)

神がいるかどうかは、問題ではない。

法と正義の体現者の象徴が神であるなら、私たちは法と正義の体現者の象徴である神に「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタイによる福音書3 17節)と呼ばれようではないか。

どうだろうか。

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批判と非難の区別が難しいなら許すことを覚えたいものだ。

批判と非難、似ているようでまるで違う。

批判は理解できないとか欠点や欠陥と思えることに対して問いただす行為でもあるが、評価できるところを指摘する行為でもある。

それに対して非難は、理解できないとか欠点や欠陥と思えることに対して問いただすように見えて実はダメなところや失敗を断罪する側面が強い。

自分の理解できないことは無意識のうちに退けたくなるので、人は批判と非難の混同をしがちになる。

有名な聖書のこの聖句は、人が陥りやすい批判と非難の混同を指摘しているのだ。

マタイによる福音書 7

3きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。

4きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。

5偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。

きょうだいの目のおが屑を取ろうと提案しているとは、相手の欠点を直してやろうとしているように見えて相手を自分の基準に合わさせようとしている行為への皮肉でもある。

自分の目に梁があるではないかと言うのは自分の至らなさを棚に上げて人を責める行為をしていると、批判しているのである。

「まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見える」とは、自分にも欠点があることを認めて互いに反省しあいなさいという忠告なのだ。

そのことは、次の聖句を見ればはっきりする。

マタイによる福音書 7

1「人を裁くな。裁かれないためである。

2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。

どうして「人を裁くな。裁かれないためである。」というのかと言えば、批判の振りをしながら自分の基準や価値観に合わない人たちを自分に従わせようとする高慢さがそこにあるからである。

だから、幼子のようになれと聖書は繰り返し説くのである。

罵りの非難と是正の批判の区別が、人にはしばしば難しいからである。

幼子の問いかけは、純粋に知りたいという成長欲求の表れだからである。

もっとも、大人になると幼子の問いかけのあまりの鋭さに非難されているような心の痛みを感じることが多いのだろうけど。

ルカによる福音書 10

21その時、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

マタイによる福音書 18

3 言われた。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。

4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。

5 また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」

幼子は、忠告を素直に受け入れ自分の行動や発言を少しでもいいものにしたいのだ。

大人になるとそれが難しくなるのは、忠告の振りをしながら意のままに操ろうという下心を感じるからである。

マタイによる福音書 11

16今の時代は何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者たちに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。

17『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。/弔いの歌を歌ったのに/悲しんでくれなかった。』

この聖句は、マタイによる福音書23 37節と、対をなすのである。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

ここで言う預言者とは、天の御父である神の言葉の仲介者としてのイエスの地上における代理者のことである。

イエスは、自分や自分の言葉を取り次いだ預言者をめんどりに人々を雛に例えている。

預言者たちは、幼子のように天の御父の言葉に忠実に従っている。

だが世の多くの人は聞こうとはしない。

まるで、子どもたちが『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。/弔いの歌を歌ったのに/悲しんでくれなかった。』と嘆いたようにだ。

そして争うことになり、その争いは止めどもなくなってしまう。

そこで、この忠告が意味を持つのだ。

ルカによる福音書 6

36あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。

38与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」

ここで言う許すとは、妥協することでも我慢することでもなく忘れるということ思い出さないということだ。

いつまでたっても忘れないから、腹が立つのだ。

誰だって、いつまでもしつこく言われたら嫌なはずだ。

だから、この聖句がある。

ルカによる福音書 6

31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

批判と非難の区別が難しいなら、せめて優しく尋ねるようにしたいものだ。

お互いの気づきのためにね。

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鯛を食することとイエスの象徴を口にする聖餐式が通じるのか。

めでたいとされる鯛、なんと日本人と鯛の歴史は神話の時代に遡るという。

鯛の赤さ、タイの体形は横が菱形顔から見れば三角尾から見れば楕円と丸と三角と四角が一匹の中に揃う、その身は白い。

つまり、紅白と丸三角四角が一匹の中に揃うという興味深い魚だ。

これは、陰陽で言えば地の赤と霊界の白と天の円や地の四角や人の三角が見事に一つにまとまっている。

これが揃っている歴史的な人物と言えば、神の子として生まれ天の神と地の人をつなぐ仲介者として生まれたイエスしかない。

しかもイエスは、私の肉を食べ血を飲むと私を通して天の御父としての神と通じると説いている。

聖餐式のパンと水は、ここに由来している

そしてイエスの象徴として、魚がある。

古代ローマでキリスト教が弾圧された時代、イエスの象徴は魚だったのだ。

ギリシャ語で「イエス・キリスト、神の子、救世主」 を意味するΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡの頭文字を並べるとΙΧΘΥΣ (イクトゥス)となり、これはギリシャ語で「魚」を意味する。

この象徴はもちろん今でも、引き継がれている。

聖書で魚は、様々な形で登場する。

ヨナ書では三日三晩魚の腹の中にいた預言者ヨナ、マタイによる福音書ではペテロが釣った魚の口から出てきた銀貨、四福音書ではパンと魚の奇跡を起こすイエス、さらに弟子にも人を漁る漁師にすると言っている。

日本の神社は二本の柱を通って拝殿から本殿を礼拝するが、この構造は古代イスラエルの神殿と似ている。

裾に房のある衣装で木の枝でお祓いをし塩で清めるのも、古代イスラエルの神殿と似ている。

二本の棒で担がれる神輿と二本の棒で担がれるアークと呼ばれる聖櫃は、見た目が似ている。

正月の鏡餅は過ぎ越しで重ねて供えられる種入れぬパンであるマツアに似るし、正月に食べる七草がゆは過ぎ越しの苦菜を連想させる。

本来徹夜して迎えるのが正月元旦だが、過ぎ越しも徹夜で過ごす。

これは、偶然だろうか。

鯛を見れば、古代イスラエルとキリスト教が見えてきた。

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教会の聖餐式ってどういうことでしょうか。

今、多くの教会で聖餐式ではパンと水が用いられています。

ちなみに聖餐式のパンと水は、イエスの肉と血の記念とされています。

それは、イエスのこの言葉によるのです。

「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネによる福音書 6章 54節)

ところが最後の晩餐では、イエスの肉としてパンがイエスの血としてワインが用いられているのです。

今多くの教会の聖餐式で、ワインではなく水がイエスの血の象徴なのにです。

イエスは「言っておくが、私の父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(マタイによる福音書 26章 29節 )と言っているので、それにならってワインを聖餐式に使っていないというのもあるがそれ以上の意味があるのです。

当然ですが、車で聖餐式に来た人が飲酒運転で逮捕されないためだけじゃもちろんありません。

新約聖書のルカによる福音書には、有名なマルタとマリアの物語があります。

イエスの話に耳を傾けるマリアと、もてなしのために忙しく立ち回るマルタの話です。

姉のマルタはイエスに向かいもてなしの手伝いをしないマリアに注意して欲しいと頼むと、イエスはマリアは大切な方を選んだとたしなめます。

イエスにとってのもてなしとは、話に耳を傾けることであり飲食の提供を受けることはそのついでにしか過ぎないのです。

ヨハネによる福音書にはイエスとサマリアの女の話があるが、イエスは食事を勧める弟子たち向かいそれよりも大切なものがここにあると答えています。

それがサマリアの女が自分の言葉に耳を傾けたことであるのは、明らかです。

ヨハネによる福音書には、イエスがサマリアの女に語った言葉として「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」とあります。

ここから見えるのは、イエスの血とはイエスの語る言葉でありそれは永遠の命に至る水と言うことなのです。

そして、イエスは言います。

「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネによる福音書 6章 35節 )

つまりパンは、イエスの肉の象徴なのです。

そこで、合わせてこうなります。

「私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。」(ヨハネによる福音書6章 55節56節
つまり聖餐式のパンと水はイエスの肉と血を自分自身の肉と血としますと聖約を交わす証と言うことであり、さらに水は永遠の命に至るためにイエスに従うとの意思表示の象徴と言うことなのです。

聖餐式は単なる最後の晩餐の追体験だけでは、ないのです。

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あなたもいつの間にかスマホが神になっていないか。

今や、私たちの前には様々な課題が立ちはだかる事態になっている。

では、私たちの足並みは揃っているだろうか。

必ずしも、そうではない。

価値観や求めるものは、多様になっている。

そして、多くの人が答えを求めてさまよっている。

何かにすがろうとしている。

その一つにスマートフォン、いわゆるスマホがなっていないだろうか。

角川新書で宗教学者の島田裕巳が、『スマホが神になる 宗教を圧倒する「情報革命」の力』を出している。

ではなぜ、スマホつまりスマートフォンが人々の行動を左右してしまう神のような存在になりえてしまうのだろうか。

人は、弱いからである。

誰かとつながり誰かに守られていないと、不安だからである。

これは、生まれた時から始まっている。

自らの無力や無知をいやというほど知り、自分よりそれらが上にある存在を身近に感じて安心したいのだ。

自らの無力や無知を補ってくれる存在の始まりは、神であった。

社会に上下関係が生じさらに支配者が君臨するに及んで、支配者は神を利用して後ろ盾に使いだす。

神が実質的に、人にすり替わってしまったのだ。

そのために神や神の代理を演じてきた支配者の非力や無能がさらけ出される事態になると、人々はそれを神の非力や無能と勘違いしてそれに代わる存在を模索するようになる。

そして、科学や技術はその圧倒的な力で存在感を示しだし始めるといつの間にか科学者やや技術者、とりわけ優れた科学者や技術者が神のごとく存在感を醸し出していくことになる。

だがその結果どうなったか、人々はそれぞれ別の存在を神にするようになってしまったのではないか。

科学や技術は知らず知らずのうちに現代のバベルの塔となり、パーソナルなメディアであるスマホが人々の知識や情報を分断し始めるようになった。

分断された言語は様々な部族や民族や国民を生み出したが、パーソナルメディアは情報によって社会に新たな部族的な集団や集合を生み出して分断を持ち込んだ。

だがメディアによる社会の分断は、ラジオやテレビや新聞が普及し始めた時点ですでに始まっていたのだ。

パーソナルメディアとしてのスマホは、それを加速し見える化したにすぎない。

科学や技術は生産も知識や情報もかつてない勢いで進歩発展させて、一昔前であれば神の領域に思われていた領域に人々の気が付かないうちに踏み込んでしまっている。

神がいつの間にかすり替わって、その結果導きを求めるべき神を見失ってしまったのが現代ではないのか。

導きを求めるべき真の神とは何者なのか、真の神であればどのようにして対処や対応すべきと応えるのか探求すべき段階に来ているのではないだろうか。

では神がどういっているか、耳を傾けて見よう。

ヤコブの手紙 1

5 あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。

人はどうかすると、自分より知恵や知識や技能の下な人を見下したりする。

神は、そのような真似をしないと宣言している。

そして、こう告げる。

マタイによる福音書7

7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。

8 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。

9 あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。

10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。

12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

だが誰でもいいというわけではない。

私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。

(マタイによる福音書24章より抜粋)

だからこそ、こう戒めている。

出エジプト記 20

3 あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。

4 あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。

この世界が一つである以上、真理や真実もまた、一つであるはずだ。

人々は自らにあった形とやり方で、どうしたらいいのか答を求めたらいいのである。

もう一度、いや、何度でも、幼子のように真の神として従うべきものを探し求める方がよいのではないだろうか。

人類の前には、今や巨大な課題がいくつも立ちはだかる事態になっているのだから。

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争いを減らすには、まず自分のして欲しくないことは誰に対してもしないことです。

争いを減らしたりなくしたりするには、人に対する愛を示すことが必要だとはよく言われます。

では、愛を示すとはどうしたらいいのかということになります。

何か、手掛かりになるものが要ります。

聖書は、旧約聖書は4000年新約聖書でも2000年前から読み続けられてきました。

いわば、古典中の古典と言えます。

聖書には、特に新約聖書には、愛についての記述が多く見られます。

例を挙げましょう。


マタイによる福音書 22章
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38 これが最も重要な第一の戒めである。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」

この愛を、どう実践するかそれが問題です。
キーワードは第二の戒めで、隣人を自分のようにとあることではないでしょうか。
して欲しいことは人によっても状況によっても異なるでしょうけど、して欲しくないことは人によっても状況によってもそれほど差がないでしょう。
だとしたら、まずみんなが自分のして欲しくないことは人にもしないところから始める方が良いのではないでしょうか。
もちろん、神に対しても自分のして欲しくないことはしないことです。

ともすれば自分がして欲しくないことのはずなのに、人に対してしてしまった経験はないでしょうか。
人を不愉快にしてしまった苦い経験は、うっかりやらかしてしまったときに起こったはずです。

人と人はもちろん、国と国の間でも同じことでしょう。

すべての人が、これを自覚的に実践できるなら争いは減らせるし避けられるのではないでしょうか。

どう思いますか。

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