批判と非難、似ているようでまるで違う。
批判は理解できないとか欠点や欠陥と思えることに対して問いただす行為でもあるが、評価できるところを指摘する行為でもある。
それに対して非難は、理解できないとか欠点や欠陥と思えることに対して問いただすように見えて実はダメなところや失敗を断罪する側面が強い。
自分の理解できないことは無意識のうちに退けたくなるので、人は批判と非難の混同をしがちになる。
有名な聖書のこの聖句は、人が陥りやすい批判と非難の混同を指摘しているのだ。
マタイによる福音書 7章
3きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。
4きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。
5偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。
きょうだいの目のおが屑を取ろうと提案しているとは、相手の欠点を直してやろうとしているように見えて相手を自分の基準に合わさせようとしている行為への皮肉でもある。
自分の目に梁があるではないかと言うのは自分の至らなさを棚に上げて人を責める行為をしていると、批判しているのである。
「まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見える」とは、自分にも欠点があることを認めて互いに反省しあいなさいという忠告なのだ。
そのことは、次の聖句を見ればはっきりする。
マタイによる福音書 7章
1「人を裁くな。裁かれないためである。
2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。
どうして「人を裁くな。裁かれないためである。」というのかと言えば、批判の振りをしながら自分の基準や価値観に合わない人たちを自分に従わせようとする高慢さがそこにあるからである。
だから、幼子のようになれと聖書は繰り返し説くのである。
罵りの非難と是正の批判の区別が、人にはしばしば難しいからである。
幼子の問いかけは、純粋に知りたいという成長欲求の表れだからである。
もっとも、大人になると幼子の問いかけのあまりの鋭さに非難されているような心の痛みを感じることが多いのだろうけど。
ルカによる福音書 10章
21その時、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
マタイによる福音書 18章
3 言われた。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。
5 また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
幼子は、忠告を素直に受け入れ自分の行動や発言を少しでもいいものにしたいのだ。
大人になるとそれが難しくなるのは、忠告の振りをしながら意のままに操ろうという下心を感じるからである。
マタイによる福音書 11章
16今の時代は何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者たちに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。
17『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。/弔いの歌を歌ったのに/悲しんでくれなかった。』
この聖句は、マタイによる福音書23章 37節と、対をなすのである。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
ここで言う預言者とは、天の御父である神の言葉の仲介者としてのイエスの地上における代理者のことである。
イエスは、自分や自分の言葉を取り次いだ預言者をめんどりに人々を雛に例えている。
預言者たちは、幼子のように天の御父の言葉に忠実に従っている。
だが世の多くの人は聞こうとはしない。
まるで、子どもたちが『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。/弔いの歌を歌ったのに/悲しんでくれなかった。』と嘆いたようにだ。
そして争うことになり、その争いは止めどもなくなってしまう。
そこで、この忠告が意味を持つのだ。
ルカによる福音書 6章
36あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」
37「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。
38与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」
ここで言う許すとは、妥協することでも我慢することでもなく忘れるということ思い出さないということだ。
いつまでたっても忘れないから、腹が立つのだ。
誰だって、いつまでもしつこく言われたら嫌なはずだ。
だから、この聖句がある。
ルカによる福音書 6章
31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
批判と非難の区別が難しいなら、せめて優しく尋ねるようにしたいものだ。
お互いの気づきのためにね。
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