聖書・コーラン

マイナンバーカードが聖書の予言にある悪魔の数字666のようにならない保証があるか。

最初は任意とされたマイナンバーカードが、保険証に紐付けられいつの間にか義務にすり替えられています。

そうなると次にくると、予想されるのはどういうことになるでしょう。

免許証やキャッシュカードやクレジットカードとの紐付けとなって、マイナンバーカードなしに何もできない超管理社会が目指されるかもしれないですね。

生体認証と紐付けされたら、どうなるでしょう。

あらゆる個人情報とマイナンバーカードが紐付けされようとしているから、産まれたばかりの赤子や認知症の人はどうするか当然課題になると想像できます。

当然ながら、生体認証も選択肢にはいると思われるのです。


そうなると聖書で予言されている、これなしに何もできない悪魔の数字の世界が連想されるのです。

ヨハネの黙示録 13章
16 また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
17 そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
18 ここに知恵がある。理解ある者は、獣の数字の持つ意味を考えるがよい。数字は人間を指している。そして、その数字は六百六十六である。

この六百六十六は象徴であり、実際は生体認証のことと思われるのです。

この時代にはまだこの技術がないので、象徴を使っただけと考えられます

この記述は、まさに全ての個人情報に紐付けされたマイナンバーカードが生体認証に紐付けされた状態を思い起こさせるのです。

生体認証に紐付けされたマイナンバーカードの便利さに、日本は簡単に飛びつくのではないでしょうか。

聖書の悪魔の数字666に対して、オカルト作品のイメージしかない人が多いから心配しています。

聖書の記述を見れば、まさに生体認証そのままなのは一目瞭然なのですけれども。

聖書を読んでいる人は少ないから、ほとんどの人が気が付かないから気になります。

マイナンバーカードが出てきた時から、心配していた事態になりそうな予感がします。

相当な注意が必要と感じています。

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生産と流通や科学と技術は元々人々のためにあった。

科学と技術が神の領域に踏み込みつつある今、倫理や道徳も神の領域に達しないと大変なことになると言う危機感の共有が必要になっている。

 

目先の利益追求最優先の資本主義から、すべての生産と流通が人々の必要のためだった時代を再び目指す第二のルネサンスを実現しようではないか。

 

落ち着いて考えられる時代にならないと、倫理が追いつかないのではないだろうか。

倫理や道徳も神の領域に達するとは、これまで神の領域とされてきた段階に達している科学と技術を安全に使いこなすことができることを意味する。

もはや勝つか負けるかではなく、すべての人々の幸せのためにある科学と技術・生産と流通にならないとダメな時代になった。

第二ルネサンスが必要なのではないだろうか。

 

人々の必要を満たすための生産と流通が、結果として利益をもたらす時代の方が長かった。

今のような利益の追求が生産と流通の第一の目的になりがちな資本主義の時代は、人類の歴史から見ればほんの一瞬に過ぎない。

 

生産と流通が原点に戻る第二ルネサンスの実現、これが今求められている。

長い人類の歴史の中で、神の国とは理想の国と同じ意味であった。

特定の誰かではなく唯一絶対な存在からの指示の実現としての理想の実現が、神の国だったのだ。

 

今やすべての人々の求める理想の実現と、神の国は重なりつつある。

 

絵空事と思われてきた神の国を、今こそ実現しようではないか。

絵空事と思われてきた神の国、それは実にシンプルだ。

 

人々は必要を超えた分を惜しみなく分け与えあって、乏しさのために困る人がいなくなるようにしろ。

生産と流通を人々の必要のためにと言う原点に戻せば、それは可能になる。

 

どうすればいいのか、みんなでとことん納得いくまで話し合えばいい。

 

生産と流通を人々の必要のためにと言う原点に戻せば、労働時間は半分の4時間でも間に合う。

 

それだけの生産性は、すでにある。

あとは私たちの選択だけ。

 

市場は、古代から営まれてきた。

資本主義を特徴づけるのは、生産や流通の目的が利潤追求にあることだ。

生産や流通の目的を、人々の需要に応えると言う本来の姿に戻すべき。

 

生産や流通の目的を人々の需要に応えると言う本来の姿に戻すと、搾取されてきた剰余価値のために余剰生産物を作らされてきた労働時間が要らなくなるので労働時間は今の半分でもよくなる。

労働時間短縮で出来た余裕時間は、文化やスポーツやレクリエーションなどで新たな需要を産む。

もちろん、科学や技術をどう用いるのが人々の幸せに役立つのか考える時間もできる。

 

市場は、古代から営まれてきた。

資本主義を特徴づけるのは、生産や流通の目的が利潤追求にあることだ。

生産や流通の目的を、人々の需要に応えると言う本来の姿に戻すべき。

 

生産と流通や科学と技術は、元々、人々のためにあった。

原点に帰ろう。

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三星堆と日本はつながるのか。

1986年に中国の四川省徳陽市広漢県の三星堆で発見された三星堆遺跡は、長江文明に属する古代中国の遺跡の一つである。

三星堆遺跡とその文化は紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属し、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである。

 

三星堆を営んでいた人達の祖先は、治水の道具として竹籠石を用いているが日本にも竹籠龍と呼ばれるそっくりなものがある。

彼らは鵜飼の風習を持っていたが、日本にも鵜飼の風習がある。

鬼や邪鬼を払う曹がい(「がい」は羊と皿を縦に合わせた文字)と言う面を作るが、どこか鬼瓦を連想出来る。

十日神話と言う十の太陽が十羽の鳥に運ばれる神話を、三星堆を営んでいた人達は持っていた。

日本で神への奉納舞に使われる伝統的な衣装も、鳥の装飾がある。

神聖な木の思想も、御神木を思わせる。

西に若木と東に扶桑の神樹を配するのも、鹿の角を神樹に見立て神獣にしたことが連想出来る。

 

三星堆と日本のつながり、何かありそうだ。

気になる。

 

十日神話では十羽の鳥が十の太陽を運ぶとされるが、古代エジプトでは太陽の船の先頭に鳥が乗る。

十羽の鳥は十の枝の神樹にとまるが、この神樹は恐らく西方の世界樹や宇宙樹や生命の樹に連なる。

そして生命の樹は、メノラーと言う聖なる燭台にも連なる。

そして蜀の地に住むのは、偶然ではない。

三星堆では、太陽神の目をかたどる遺物が見られる。

 

古代エジプトでも、ホルスの目が作られている。

太陽と月は古代エジプトでは非常に古い時代から、ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神ホルスの左右それぞれの目と考えられてきた。

やがて二つの目は区別され、左目である「ウアジェト(ウジャト)の目」は月の象徴、右目である「ラーの目」は太陽の象徴とされた。

 

三星堆の太陽神の目は、この太陽神ラーの目を連想させる。

 

そして蜀の字は、ウアジェトの目を連想させる。

ウアジェトは、コブラの姿、あるいは、頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる、下エジプトの守護女神である。

蜀の字は、頭をもたげたウアジェトをかたどったように見えるのだ。

蛇の神聖視は、日本の文化にもある。

しめ縄は、日本神話の天岩戸隠れがはじまりといわれている。

神話では、「尻久米縄(しりくめなわ)」と呼ばれていた。

この他にもしめ縄に使われた漢字も何通りかあり、蛇が関わっている説もある。

さらに古く格式の高い神社には、その御神体や神様そのものが蛇だという「蛇神」が多く存在している。

偶然だろうか。

三星堆の表現様式は、古代の西方から来たとしか言えない。

シュメールの文物を連想出来るところさえあり、彼らの文化の起源を示唆している。

指導者のシンボルの杖も、遊牧民を連想出来る。

何か、匂う。

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「隣人を自分のように愛しなさい」これができれば、ヨーロッパはロシアの脅威は減らせるはずだ。

ロシアは歴史的に南下をしたがってきたが、地理を見れば不凍港を切実に欲しいのは仕方がないと言える。
自由になる港の確保と領土の獲得がイコールであった時代が長かったので、武力対立の的となってきた。
だが、平和利用に限定できれば話は違う。
相互不信が、それを阻んできたのだ。
ロシアの領土拡大の歴史は、征服欲と言うよりはむしろ防衛線を首都から遠ざけるために行ってきたと言える。
ロシアにとって、ヨーロッパは文化や経済の先進地域でもあるがそれ以上に警戒すべき侵略者でもあったのだ。
ロシアからみればナポレオンやヒットラーによる侵攻は、ヨーロッパによる侵攻の歴史の一部でしかない。
平和利用に限定できれば、ロシアに港を開放して問題はない。
軍事が絡むから、こじれるのだ。
ロシアにはヨーロッパは貪欲な侵略者であり、ヨーロッパにはロシアは絶えず南下を狙っている油断できない隣人という、不幸な歴史が続いた。
ロシアの側からみたNATOの存在は、銃口を常に向けられている状態でしかない。
ロシアを安心させるには、いっそNATOをなくすか、ロシアもNATOの一員にするしかない。
そしてロシアを、ヨーロッパの一員として自由貿易圏に引き込むのだ。
ロシアが欲しいのは季節を問わず使える港だから、平和利用に限定できれば良いわけだ。
ロシアにとって欧州との自由貿易圏の一員となれば、一年中使える港が手に入る。
周辺諸国にすれば、ロシアに南下の口実を与えないで済む。
すでにロシアも含む対話の場はあるが、開店休業状態になっている。
ロシアも自由貿易圏になるなら、再開ができる。
聖書にはこうある。
マタイによる福音書 5章
43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。
44 しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
また、こうもある。
マタイによる福音書 22章
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38 これが最も重要な第一の戒めである。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」
聖書には、これもある。
マタイによる福音書 5章
9 平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。
ヨーロッパもロシアもキリスト教文化圏なら、知らないはずはない。
速やかに神のみ言葉に、従うべきだろう。
どうだろうか。

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聖書の神を信じろと押し付けるつもりはない。学べることが多いから読んで欲しいだけ。

聖書の神は4000年も前から、必要を超えたものは惜しみなく分け与え乏しさゆえに困る人がいないようにと戒めている。

いまだにそれができないのは、自分可愛さから余剰生産物を手放せない人が多かったから。

自分の心の弱さに、負けたから。

だからこそ聖書の神は、私はあなたの弱さを強さに変えると言う。

それは、高慢さや頑なさを捨てて打ち砕かれた心の悔いる霊を持つことで可能になる。

自分を愛するように他者を愛し真理と正義の担い手である神を愛する者となってこそ、真の強さが身に着くと聖書の神は説く。

でも、難しいけどね。

そこで、「最後まで耐え忍ぶ人は幸いである、神の国はその人たちのものだ」と聖書の神は説く。

残念ながら、「滅びに至る道は広く大きく見出す人は多く、救いに至る道は狭く小さく見出す人は少ない」のが現実。

誰でも疲れている人は休ませてあげるから私のところに来なさいと聖書の神は誘うけど、実は続きがある。
私は柔和で心のへりくだった者であるから私のくびきを負うて私に倣いなさい、諭してくる。

つまり、強がってないで心の底から頼れる相手に気づきなさいと言うわけだ。

聖書の神は、説く。
探せ、さらば見出す。求めよ、さらば与えられる。叩け、さらば開かれん。
誰でも、探すものは見出し、求めるものは与えられ、叩くものは開かれるからだ。
それをあきらめて、待っているだけの人は多くないか。
それじゃ、いつまでも変わらないし、変われない。

聖書の神は、こうも言う。
誰でも知恵の足りないと思うものは、ためらわないで神である私に尋ねろと。
神の声は、ささやくように細く小さくそれでいて力強い。
それを気が付けるのは、焦りや頑なさや高慢さや思い込みを捨てた打ち砕かれた心と悔いる霊になれたとき。
少しずつ、近づこうとするべき。

焦る必要はない、なぜなら神の諭しと導きはそこにも少しここにも少しと、その人の理解と行動のできる範囲でしか来ないから。
神の声を探し求めて諦めずに行動を続ける人だけが、それに気が付けるようになる。

そういっている私も、聞こえてるのはごくわずかな求道者の一人でしかない。
続けただけ。

神の声を聴きそこなったり、見失うとどうなるか。
聖書の神は、またこうも説く。
偽メシアや偽預言者に、気をつけろと。
この偽メシアや偽預言者は、心の弱さや隙に付け込んで、誰にでも現れる。
少しでも疑問が出たら、ためらわないで神に尋ねないと大変なことになる場合もある。

それは、謙虚で素直な心で先入観や思い込みを捨ててありのままに見ようとするのでなければ本当のことは見えてこないと言うことだが、焦る気持ちになる前でないと難しい。

だから、ためらわないで常に神に諭しと導きを求めて祈る必要がある。

難しいが、偽メシアや偽預言を避けるにはやるしかない。

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陰陽だけで説明していいですか。

七支刀も蛇行剣も祭祀に使われたのは明らかだけど、問題はどういう理由が考えられるかだ。
恐らく、陰陽思想が関係あるだろうがそれだけではない。
七支刀の七は、まず思い浮かぶのが北斗七星だ。
北斗七星は中国で「天帝の乗る車であり、四方を司る神」とされそこから発展して、北斗七星は人々の長寿や豊かさを司ると考えられた。
陰陽道でもその考えを取り入れ、「属星祭」という祭として北斗七星に対する信仰が行われるようになる。
蛇行剣は、蛇をその長さから息や声の象徴としてとらえて神の言葉を地上におろす儀式に使われたのかもしれない。
陰陽が表の顔とすれば、裏の顔がカッバーラとの関わりだ。
七支刀はその形からメノラーの変形の可能性があるし、蛇行剣も聖書の癒しの青銅の蛇と関わりを疑ってもいいかもしれない。
何しろ日本の文化は一皮むけば、聖書を連想出来るものがいろいろあるという指摘もある。
イスラエルで失われた十支族を探している組織があるが、シルクロードに沿って分布しているという。
その東の端に、日本がある。
失われた十支族の大半が、日本にきたかもしれないという声もある。
あなたはどう見るか。

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神との和解について考える。


多くのキリスト教の宗派では、神との和解は大きなテーマの一つになっております。
それは、全ての人は禁断の木の実を食べたアダムとイブの子孫として二人の原罪を引き継いでいるとされるからです。

それでマリアのイエスの受胎は「無原罪のお宿り」として、キリスト教芸術の最大の主題の一つになっているのです。


誰が神に許されるのか、どうすれば神に許されるのか、多くの神学者が悩んできました。

誰もが新約聖書でイエスに「あなたの罪は許された」と言われた人達のように、神から「あなたの罪は許された」と言われたいからです。

しかし、神はそう簡単に「あなたの罪は許された」と仰って下さるわけではありません。
では、どうなさるかと言えば忘れて下さるのです。

アダムとイブは、禁断の実を食べたことを忘れて戴けたので皮の衣を頂戴しました。


私達にある罪は、私達自身の判断ミスによるのです。
アダムとイブによって私達は選択の自由を手にした結果、判断ミスを犯してしまう運命も背負っているからです。
御父に忘れて戴くのは、私達自分の判断ミスなのです。
私達は、失敗からたくさんの教訓を得るからなのです。

それでは、私達のミスを御父に忘れて戴くにはどうすればいいのかと言うことになります。
教訓を学ぶことが悔い改めとなるけれど、御父に忘れて戴くにはまだ不十分です。
悔い改めてさらに独り子であるイエスの執り成しを求めて、御父に祈るのです。

イエスの贖罪の死を私の贖罪として受け止めてくださいと、祈るのです。

言ってみれば、私達はみなイエスの贖罪を代わりに受け止めていただくたびに御父に借りを拵えているわけです。

自分の十字架を背負ってついてきなさいと言うのは、これからの全生涯をかけて返済する御父に対する借りを忘れることなくついてきなさいってことだったんですね。

それで疲れたら、イエスのくびきを自分の肩にかけて助けて頂きながらやり方をしっかり学んで少しずつ御父の目にかなう返済方法を覚えていきなさいというわけですね。

なるほど、私達に永遠の命があるわけだわ。
復活した後の体の話ですけどね。
限りのない時間をかけないと返済出来ない借りを、御父に作っちゃうわけだから。

イエスの名によって御父に祈るたびにね。

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神がいるなら、なぜ悪があるのか考えてみましょう。


『神がいるなら、なぜ悪があるのか――現代の神義論』と言うクラウス・フォン・シュトッシュの著作が、加納和寛の訳で出版されています。


「神がいるなら、なぜ悪があるのか」この問いかけは、世の多くの教会では「神義論」という未解決の議論とされているのです。
ではどうして、未解決の議論とされているのでしょう。
彼らは、なぜ神は悪の存在を認めているのかと言う根本的な問いでつまづいているからです。
創世記 1章 26節には、こうあります。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」

神は私達を自らの似姿として造られたとありますが、それは見た目だけではなく能力や可能性と言う点でも自らの似姿とされているのです。
なぜなら人が神の目にかなうようにあらゆるものを治めるには、神の目的を正しく理解している必要があるからです。

だから聖書には、「主イエスを着なさい」「真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい」「新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。」と繰り返されるのです。

私達には、何が善で何が悪か自分で理解でき判断できるようになるだけではなく、なぜ善でなぜ悪なのかも自分で理解でき判断できるようになるようにも求められているのです。

それは、神が私達に自分と同じ能力を身につけることを求めているからなのです。

悪がなければ、何が悪でありそれがなぜ悪なのかも知ることはできません。

だから神は、あえてサタンに堕落したルシファーの企みを許しておられるのです。

サタンの企みを逆手にとって、私達に神のような知恵と知識を授けようとしておられるのです。
そうでなければ、どうしてヨブ記のような記述が残されているのでしょう。
正しいものとされたヨブでさえ、神に対する理解を深めるためにサタンの試しをされているのです。
しかし人は、迷い悩み時として神の御心の真意を見失うのです。

神はそのような人の弱さを許したいので、救いの計画としてイエスの贖罪を用意しておられるのです。
人は誰でも神の目に罪とされることを犯してしまうけれど、イエスの十字架の贖罪を自らの贖いとして御父に許しを求めることができるのです。
人は失敗から多くを学んで、成長するからなのです。
多くの学びを重ね、精神的にも神の似姿に限りなく近づいていくように御父から期待されているのです。

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心の備えは出来ているだろうか。

新約聖書のマタイによる福音書には有名な「十人の乙女」の例えがあるが、これはイエスの再臨への備えの大切さを説いているとされている。
それは事実だが、心の備え全般の大切さを説く説話と見る事も出来る。

状況を甘く見て心の備えが無いと事態を乗り越えられないと言う例え、と見ればどうだろう。

市民と野党の共闘で政権交代を目指す取り組みは始まったばかりなので、すぐに勝利できると楽観する方が甘い。

政権への批判は強いがそのまま野党への政権交代への期待になっていないのは、これまで野党がまとまれなかったからだ。

本気が疑われている間は、野党の議席は伸びても政権交代には届かない。

市民と野党の共闘で政権交代を目指す取り組みは、日本が初めて体験する市民による市民のための革命だと言える。

多くの市民が自らが主役となって政治を動かす事に参加する、まさに日本史上初の事態を目の当たりにしているのだ。

そう簡単に行くはずがない。

経験から何を学ぶのか、問われている。

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サタンは心の隙間に忍び寄る。

マタイによる福音書 16章
23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」
イエスは「必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに告げた。
ペテロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめた。
その時のイエスの返事が、この言葉だ。
ペテロはイエスの言葉の真意を思うよりも、あとに残される自分の事が心配になったのだ。
イエスは、なぜこの言葉を言ったのかこそ尋ねて欲しかったのだ。
ちなみに、サタンとは妨げるものの意味なのでイエスはペテロに邪魔をするなとたしなめた事になる。
サタンは期待させておいて、決定的な瞬間で裏切ることが多い。
この時のペテロが、まさにそうだったのだ。
人はしばしば、自分の事ばかり考えて他人の気持ちを理解できない。
それに気が付けたなら、この言葉を呟く方が良いかも知れない。
「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」

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