仏教

蓮華座の仏像と陰陽魚太極図。

日本の仏像では、半跏思惟像など一部の例外を除けば台座に腰掛ける姿はほとんどないのです。

日本の仏像はほとんどが蓮華座の上に、表現されます。

日本では仏教は神道と習合しているので、本来は太陽神紋である菊花紋に対応して蓮華座なのかと連想していました。

ところが偶然西上ハルオ著『世界文様事典』を見かけ、さりげなく眺めていてはっとしたのです。

「蓮華は、太陽の恵みをうけて聖なる神を誕生させる」「インドでは聖なる仏陀の座となり、霊力をもつ生命を誕生させる花」とされて、「仏教の場合…蓮華は清浄心、仏尊の功徳、涅槃思想を表すとされ」るのですが、注目したのは“聖なるもの神や霊力をもつ生命を誕生させる花”とされる点です。

蓮華はヒンズー教でも「聖なる神を生む花」「産むことのできる女性の象徴」とされるのですが、ヒンズー教のタントラと神道の陰陽道は極めて似たと言うよりも本質的に同一と言えるほど似ているのです。

日本の仏教は、そう言う神道と習合しているのです。

陰陽道の基本は陰陽合一の思想で、「陰には陽」「陽には陰」を配して、合一して万物を生みだす太極となるのです。

そしてもちろん、生み出す女性に見立てられた蓮華座は陰で生み出された仏は陽に配されているのです。

蓮華座の上の仏は万物を生む陰陽合一の太極を表していた、つまり、陰陽道の象徴である陰陽魚太極図と同じ意味を表していたのです。

陰陽魚太極図を仏教に持ち込んだので日本では仏像は蓮華座が定番となったのかと、気が付いたのです。

偶然の出会いに感謝。

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興福寺の阿修羅像とキリスト教?

私は時折、キリスト教の教えと仏教の類似を面白く思います。
日本に伝わった大乗仏教の成立にキリスト教の影響があるだけではなく、仏教そのもの教えにキリスト教との類似を感じるのです。
それはさておき、興福寺で阿修羅像が収められていた西金堂に込められたメッセージが気になるのです。
興福寺の仏像の配置を知る手掛かりとして、曼荼羅図が残されていると言います。
その曼陀羅図をよく見ると、御仏の真正面で婆羅門の鳴らす金鼓(こんく)は御仏の教えを説く声の象徴だが、それを聞く十大弟子や八部衆は懺悔の表情を浮かべ、向かって左奥の阿修羅に至るのです。
その阿修羅の三つの顔は、十大弟子や八部衆の表情の正に集大成と言えるでしょう。
この阿修羅の三つの表情は、十大弟子や八部衆の懺悔の表情のアルファにしてオメガなのです。
この諸仏の像を作らせた光明皇后は、施薬院や悲田院さらには薬草の湯気で人々を癒す一種のサウナを作ったお方でもあります。
阿修羅は戦いの神とされるが、その阿修羅に人々の内面的な葛藤の表現を演じさせた光明皇后。
イスラムのジハードには、現世の戦いである小ジハードと内面の戦いである大ジハードがあります。
そしてイスラムもまた、聖書による宗派なのです。
ユダヤ教徒やキリスト教徒は、あまりジハードの教えが聖書に込められていると気が付いていないのではないでしょうか。
興福寺の阿修羅の表情の謎は、ジハードを知らない人には戸惑うでしょうが、光明皇后は明らかにジハードの思想を知っていたのかもしれないのです。
光明皇后は聖武天皇の后で、二人には東方キリスト教の影響が指摘されます。
光明皇后がこれら諸仏を西金堂に納めた動機には諸説あるが、まさか聖書の教えへの信仰告白なんてことはないでしょうね。
日本史とキリスト教には意外と繋がりがあるのかもしれない、そんな気になります。

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イランからの亡命者が日本に来た?

トルクメンの絨毯は有名だが、トルクメンにもアイヌのむっくりに似た楽器があるのです。

演奏法はもちろん、音も似ています。

トルクメンとアイヌ、何か繋がりがあるのでしょうか。

イランは不思議な国で、日本の建国時にも大勢のイラン人が関わっています。

イランは今でこそイスラムだが、かつては拝火教が盛んだったのです。

なのに、日本に来たイラン人の多くは仏教徒だったと聞きます。

そういえば、仏教にメソポタミア起源説が出ています。

イランにも結構仏教徒がいたのでしょうか。

そういえば、アフガニスタンのイラン系パシュトゥーン人はイスラム化の前は仏教徒だったといいます。

イランにも仏教遺跡が見つかり、少なからず仏教徒がいた証拠になるでしょう。

日本に来た仏教徒イラン人は、亡命者なのでしょうか。

これから建国の日本なら、出番と居場所を確保出来ると遠路はるばるやって来たのでしょうか。

日本で大和朝廷がいつ頃成立したかはっきしないが、中東でイスラムが台頭してきた時期とほぼ重なるのは興味深いです。

今ほとんど、イランに仏教徒はいません。

アフガニスタンのパシュトウーン人に起きたのと同じ事がイランでも起きたとするなら、信仰を守ろうとした人々が安住の地を求めて旅立ったのは不思議ではないでしょう。

彼らは風の便りに、極東で仏教に基づく国家が生まれた、と聞いて一縷の望みを抱いてやって来たのでしょう。

彼らにもはや祖国はなく、新興の仏教国家に骨を埋める覚悟で来たのでしょう。

正倉院にはシルクロードの文物が多いが、特に目立つのはやはり、イランです。

平家にはイラン人が多いと、指摘する人もいます。

平家が束ねたときは一丸となって行動したが、平家が滅ぶと再び地元に帰ったと思われます。

もし日本から大量なイラン人が大陸に渡ったなら痕跡があるはずだが、そんな話を聞いた事はありません。

そもそも、日本で築いてきた生活を捨ててまで危険を冒して大陸に渡るでしょうか。

どっぷりと日本の落ち着いた生活に浸かった彼らが、争いに明け暮れる大陸に帰りたいと考えるでしょうか。

日本の中のイラン、もっと注目されても良いのではないでしょうか。

どうでしょう。

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七福神と天の大時計?

Seiza面白い本を見つけました。

大修館書店から出ている「星座で読み解く日本神話」です。

別にブックレビューする気は、ありません。

オリオン座からイメージされる形は、S型やX型や*型や砂時計やリボンの形だと著者は言います。

はたと、思いました。

弁財天とも記される弁才天は、琵琶を抱えた姿の他にも八臂弁財天や人頭蛇身の女神だったりします。

弁才天の正体がオリオン座なら、説明が付くのではないでしょうか。

弁才天はまた、宗像三女伸の一人、市杵島姫神と同一視されることも多いのです。

宗像三女神とは、沖津宮に祀られる田心姫神・中津宮に祀られる湍津姫神・辺津宮に祀られる市杵島姫神の事です。

日本から大陸及び古代朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄海灘の神として、大和朝廷によって古くから重視された神々です。

沖ノ島には沖津宮、筑前大島には中津宮、宗像田島には辺津宮、というように海北道中の島々に祀られてきました。

なぜ、宗像三女神は横一列に一か所にまとめて祀られないのでしょう。

航海の安全祈願というだけでは、説明が付きません。

しかし宗像三女神がオリオン座の三ツ星なら、天に縦一列に上がる姿を表したと説明が付きます。

しかも弁才天も宗像三女神も水にまつわる女神だが、オリオン座の近くには天の川があるのです。

弁才天のルーツは古代インドの水の神サラスヴァーティーで、サラスは「水」を意味し、もともとは西北インドにあった大河の名前を指したというからまさに天の川の傍らに位置するオリオン座はうってつけではないでしょうか。

七福神には、弁才天の他にも恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人がいます。

寿老人もまた、見れば寿命が伸びると伝えられるカノープスの化身とされます。

となると、他にも星や星座に繋がる神はいないのでしょうか。

大黒天は、破壊と創造の神であるシヴァの化身マハーカーラの名は、“マハー”とは(もしくは偉大なる)、“カーラ”とはあるいは(暗黒)を意味するところから訳された名前です。

シヴァの特徴としては、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装身具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、武器であるトリシューラ(三又の鉾)、ダマル(太鼓)が挙げられます。

ガンジス川下流域においては勾配が少ないことと3大河川が合流することによる流量の巨大さ、さらに主にブラフマプトラ川によるチベット高原からの膨大な量の土砂の堆積によって流路が安定せず、まさに破壊と創造の神シヴァのモデルに相応しいと言えるでしょう。

となると、大黒天のルーツであるシヴァもまた、オリオン座の化身かもしれません。

毘沙門天は戦闘的な印象だが、インドにおいては財宝神とされ戦闘的イメージはほとんどなかったと言うから意外です。

中央アジアを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになったのです。

帝釈天の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方、水精埵の天敬城に住み、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち北倶盧洲(ほっくるしゅうを守護すると言う事ですが、水精埵と言う名前が気になります。

まさかまた、オリオン座の化身なんて言うわけではないでしょうね。

福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、三体一組の神です。

中国において明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた「三星図」を飾る風習があります。

寿星は南極老人星(カノープス)とされ、容貌は時期によって諸説あるが近代以降は禿げた長大な頭に白ひげをたくわえた老人とされることが多く、また厳密にはもともとこの寿星(南極老人)が単独で日本に伝わったのが寿老人なので、これまた星や星座に関係ある神です。

しかし、カノープスは単独の星なはず、まさかまた、オリオン座の三ツ星と関係があるのでしょうか。

同時に見える事はあるけれど、近いような近くないような、距離なのですが。

恵比寿は七福神の中で唯一の日本の神です。

狩衣姿で、右手に釣竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的です。

何やら、またぞろオリオン座ですか見たいな雰囲気が漂うが、何やら様子が変です。

神格化された漁業の神としてのクジラの事だとの声もあるのです。

クジラと言えば、くじら座があるけれどギリシャ神話では、生贄のアンドロメダ姫を食べようとする巨大な海の怪物ケートスとして登場し、メドゥーサを倒した後たまたま通りかかった勇者ペルセウスによってメドゥーサの首を突きつけられ石にされてしまうとされるからどう見てもつながりませんね。

だって、恵比寿は古くから漁業や商いの神として祀られているのですから。

神無月では地元にとどまる留守神ともされています。

恵比寿が釣り人姿なのは事代主神と混同されたのは、大国主神の使者が事代主に天津神からの国譲りの要請を受諾するかを尋ねるために訪れたとき、事代主が釣りをしていたとされることからきています。

また、事代主の父である大国主命が大黒天と習合したことにより、えびすと大黒は親子ともされるようになりました。

またまた、オリオン座つながりなのでしょうか。

布袋は、唐代末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧、弥勒菩薩の化身と言う伝説まで持っているとされます。

弥勒菩薩は、遠い未来に人々を救うことが約束されている釈迦を継ぐ者と言うから、星や星座とは一見無関係に見えますが、実は星や星座は天の大時計として昔から人々に用いられてきたので全く無関係とはない、のかもしれませんね。

ちなみに七福神は船に乗ります。

船の星座もあったのですよ。

あまりの大きさに、りゅうこつ座、ほ座、とも座の3つに分割されたアルゴ座です。

その名称はギリシャ神話に登場する船、アルゴーにちなんでいます。

寿老人はカノープスの化身とされるが、カノープスはりゅうこつ座のα星の事です。

七福神が乗っているのは、天空を航海しているアルゴーなのでしょうか。

どう思いますか。

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修験道と秦氏。

山岳宗教史研究叢書7に『東北霊山と修験道』が、収められています。

こう言う内容です。

総説 東北霊山と修験道
第1篇 下北・津軽の山岳信仰
第2篇 陸中の修験道と山岳信仰
第3篇 陸前の修験道と山岳信仰
第4篇 羽後の修験道と山岳信仰
第5篇 羽前の修験道と山岳信仰
第6篇 磐城・会津の修験道と山岳信仰

修験道は修験宗とも言い、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教です。

修験道の成立には仏教の行脚や道教の入山修行も影響していると言われ、森羅万象命や神霊が宿るとして神奈備(かんなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立したとされています。

修験道は飛鳥時代に役行者とも呼ばれる役小角が創始したとされるが、役小角は謎の多い人物です。

役小角が属した役氏(えんうじ)あるいは、役君(えんのきみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族です。

葛城流賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君(かものえんのきみ)とも称されます。

役民(えきみん)を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたと言います。

役民とは、都の造営などの際に徴収される労働者のことです。

また、役氏は大和国・河内国に多く分布していたとされます。

賀茂氏は、秦氏の中でも特に祭司の一族と指摘されています。

となると、役小角もまた、秦氏であった可能性が見えてきます。

修験道の行者は、山に詳しい人も多いのです。

修験道の行者となれば、誰にも怪しまれることなく山奥に分け入ることができます。

秦氏の拠点を置いた場所と、何らかの資源の分布を重ねてみると、面白い事に気が付けるかもしれません。

何故に秦氏は、仏教と神道の両方に関わりを持ったのでしょうか。

日本中の資源の情報、そして、大陸の最新情報、この二つを誰にも疑われる事なく調べるのにこの二つは実に好都合です。

殖産豪族秦氏が目をつけない方が、おかしくないですか。

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とりとめのない話でしょうか。

ふと、思ったのです。
日本では、最後の締めを「とり」といいます。
最後とは、最高や頂点と言う意味も込められています。
そして、神輿の上には鳳凰と言う鳥がまさしく「とり」を務める構図です。
これが偶然なはずがないです。
神輿は移動神社であり、神社のとりは「鳥」が務めて「取り仕切る」構図であると言ってるようなものです。
日本は神仏混交だが、飛鳥時代はまさに過渡期だったはず。
飛鳥時代の仏像の裏のメッセージは、「日本の仏教は鳥が取り仕切る」であると言わんばかりに、見事なまでに鳥です。
外見に惑わされちゃダメというわけなのです。
飛鳥時代の仏像のシルエットは、まさに鳥そのものです。
私は気が付いた時、愕然としました。
もはや、飛鳥時代の仏像が全て、鳥にしか見えなくなったからなのです。
残念ながらほとんどの人が、飛鳥時代の仏像の裏モチーフの鳥であることに気が付いていないのです。
神職の衣の裾に房があるが、そのわけはほとんどの人が説明できないでしょう。
もしかしたら、神職の衣のモチーフは「鳥」かもしれません。
そして、神職の持つのは榊だが、仮に神職の真の姿が鳥なら、携えるべきはオリーブでしょう。
神社の裏モチーフは古代エジプトの太陽の船かも知れません。
だから鳥居があるのでしょう。

神社の裏モチーフは古代エジプトの太陽の船だとしても、神社には神輿があります。
神輿の正体がアークと言う指摘があります。
アークは方舟もさしますが、神職の真の姿がオリーブを携えた鳥だとしたら、神社の真の姿はアークとなってしまいます。
日本にはアークがあると、神社の姿は白状しまくりの構図と言う事なのです
日本には古代イスラエルの遺伝があることがわかっています。
その日本の神社の正体が、オリーブを携えた鳥が乗ったアークだとしたら、どうなるでしょう。
後は、聖書の預言を紐解いていくしかないでしょうね。
日本人こそ、聖書を読むべきなのです。
果たして、これは単なる白昼夢のようなものなのか、それとも真実なのでしょうか。
答えは、神様がご存知なのかもしれません。
 

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神道とシンドウとヒンドウ?

「仏教メソポタミア起源説」「『ブッダの謎』─仏教西アジア起源論」と言った興味深い本が出ています。

仏陀と仏教に関する本なのだが、妙な気分になったのです。
日本には古代中東の遺伝子が多く残り、日本語とタミル語は同祖の言語と言う説が唱えられ、日本にはインドや中東と似た顔もよく見られるでしょ。
仏教それ自体の起源は意外と古く、釈尊は歴史の深い仏教における聖者の一人にすぎないともいえますよね。
そして、仏教の起源は西アジアに遡るとなると、気になるのはヒンドウと言う言葉です。
シンドウとも呼ばれるが、濁点を取ればシントウになるでしょう。
日本語は歴史を遡ると、発音のあいまいな二重母音の時代があるのでしたね。
二重母音、特に日本のようなワ行母音に近い二重母音の場合、濁点は落ちやすい訳ですよ。
日本の民族宗教であるシントウの読みが、シンドウの転化だったとしたら、そしてもし、シンドウの民は西アジアに遡るとしたら、どうなりますか。
古代日本の成立期、意外なほど多くのペルシャ人が参加して活躍してるが、古代中東や西アジアの文化が色濃く残る日本で、彼らは自らの理想を実現したかったのだろうかと思えてくるのです。
さらに、ペルシャ人仏教徒が古代日本に多数来ているが、彼らは仏教が少数派となった西アジアを逃れ、安住の地を求めてやってきたのだとしたら、どうなりますか。
ヒンズー教、ヒンヅー教とも呼ばれるヒンドゥー教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教だが、ネパールに近いチベットも日本と同様に古代中東の遺伝子が多く残り、インドもドラビダ語と日本語の近縁性が指摘されるのですよ。
神道はシントウと呼ばれているけれど、シンドウが二重母音の曖昧な発音が原因でそう呼ばれているのに過ぎないとしたら、どうなのでしょうか
考えても見てくださいね、ヒンドウはシンドウとも呼ばれるとしたら、ヒンドゥー教はシンドウ教になまっても良いはずでしょ。
そして、ヒンドゥー教と言う言葉は、他の宗教との比較や区別の必要性から出てきたわけだから、本来の名称はヒンドゥーなわけですよ。
ヒンドゥーの教えに随う民がヒンドゥーであり、神道の教えに随う民が日本人だったと言えるでしょう。
今、日本では多くの宗教が混在しているけれども、八百万の神々を受け入れてそれでいてびくともしないあたり、ある意味、ヒンドゥー教に似ていませんか。
穢れや嫌なことは水に流すと言う言葉があるが、ヒンドゥーの民はまさにいまでも聖なる川で身を清めたいと願っているわけでしょ。
こんなところにも、日本人の西アジア起源の可能性が感じられるのかと、妙な気分になったのでした。

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法輪を考えてみた。

法輪は、仏教の教義、特に釈迦が説いた四諦・八正道の別称です。

 

法輪は、仏教の教義を示す物として八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化されました。

卍と共に仏教のシンボルとして信仰され、寺院の軒飾りにも使用されました。

中国では道教にも取り入れられ、教義を示す用語として使用されています。

 

法輪の「輪」とは古代インドの投擲武器であるチャクラムを指すと見られています。

 

チャクラムは、古代インドで用いられた投擲武器の一種です。

チャクラムは、日本では戦輪、飛輪や、円月輪とも呼ばれ忍者が使用したものです。

ちなみにチャクラとはサンスクリットで「輪」を意味する中性名詞の語幹です。

チャクラムは、投擲武器としては珍しく斬ることを目的としています。

チャクラムの直径は1230cm程で、真ん中に穴のあいた金属製の円盤の外側に刃が付けられています。

 

投げ方は二通りあり、円盤の中央に指をいれて回しながら投擲する方法と、円盤を指で挟み投擲する方法です。

ヒンドゥー教の神であるヴィシュヌも右腕にこの円盤をもつとされています。

 

人々の煩悩が僧侶から説かれた仏教の教義を信じることによって打ち消されるさまを、転輪聖王の7種の宝具の1つであるチャクラムに譬えた表現であるとされます。

 

そこから、仏教では教義である法輪を他人に伝えることすなわち転を転法輪と言うようになりました。

転法輪は別名、転梵輪ともいいます。

 

だが、法輪については、釈尊が説法して人々の迷いを砕く有様を戦車が進んでいって敵を破ることにたとえたものと言う見方もあります。

 

つまり、実際のところ正体が不明なので、古代インドにあった武器で印象の似ているものを、恐らくこれであろうと推論が述べられているのに過ぎないわけです。

 

ならば、新たな説を唱える余地もあると言うことです。

 

実は釈尊には、中東系の可能性があるのです。

何しろ、こんな本が出るくらいです。

「仏教メソポタミア起源説」「『ブッダの謎』─仏教西アジア起源論」。

そうなると、法輪のイメージとして釈尊の思い描いていたものは、中東由来の可能性は否定できないのです。

 

聖書の創世記に、この記述があります。

 

創世記 3 24

神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

 

神は、言いつけに背いて知恵の木の実を食べた結果として死を知る必要が出てきたアダムとイブが罪を得たままで命の木の実を食べて永遠の命を得ることが無いよう、ケルビムと、回る炎のつるぎとで命の木への道を守らせたわけです。

 

このケルビムも輪と関係があります。

エゼキエル書 10 6

彼が亜麻布を着ている人に、「回る車の間、ケルビムの間から火を取れ」。と命じた時、その人ははいって、輪のかたわらに立った。

 

そしてこのケルビムの正体として、グリフィンとスフィンクスが候補に挙がってきたのです。

 

スフィンクスはすでにおなじみでしょうから、グリフィンについて紹介します。

 

グリフィンはグリフォン、グライフ、グリュプスとも呼ばれる伝説上の生物です。

一般的には、鷲あるいは鷹の翼と上半身、ライオンの下半身をもつとされるが、ライオンの頭で表現される場合もあります。

 

グリフィンには車をひく役割があるとされるほか、面白いことに、ローマ時代になるとシリアやパレスチナ周辺でグリフィンと一つの車輪という図像が突然現れると言います。

 

問題は、ケルビムと炎が深い関係があることです。

 

古代から中東には王家の象徴として太陽をかたどった紋章がありました。

その形はなんと、日本の天皇の象徴である菊花紋とそっくりなのです。

 

エジプトでは宗教改革でアメン神からアテン神へと崇拝の対象が切り換えられたことがあったが、そのアテン神の姿は太陽円盤の周囲に放射線を描くものです。

 

この宗教改革はアクエンアテン一代で挫折したが、アテン神は中東で古来から崇拝の対象であった太陽神と主張されていたのです。

 

もしこの主張が正しかったなら、菊花紋そっくりの太陽神の紋章の正体はアテン神だった可能性が出てきます。

 

現在ではトルコのイスタンブールで博物館となっているアヤソフィアは、東ローマ帝国時代に正統派キリスト教の大聖堂として建設され、トルコがイスラム圏になってからはモスクに転用されたこともあった建築です。

 

アヤソフィアの四角い建物に丸いドームが載っている形は、円で象徴される天と四角で象徴される地をそれぞれ表しています。

 

円で象徴される天の中心に太陽円盤の周囲に放射線を描くアテン神を配すると、見た目は車輪のような形になります。

 

法輪は、八方向に教えを広めるさまを表現する車輪形の法具とされるが、アテン神の周囲に光を放つ太陽神のイメージを重ね合わせることはできないでしょうか。

 

密教では、最高神は太陽の光の象徴とされる大日如来とされています。

 

もし、大日如来の正体はアテン神だとしたらどうでしょう。

 

そして、ケルビムやグリフィンに関係深い輪の正体もまたアテン神だとしたら…。

 

ケルビムもグリフィンも、神の守護者とされています。

 

法輪は、アテン神であり、ケルビムやグリフィンと関係があるのでしょうか。

釈尊中東説がもしも成り立つのであれば、このような解釈もあり得るのではないか、そう思ってまだまだ、証拠集めと検証が必要であることを承知で今回の議論となりました。

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欧米のキリスト教に思うこと若干。

ネットでイスラムになびいちゃう欧米の若者が結構いると聞いて、へえって思ったことがある。

モルモンへ改宗する欧米の若者も、ネットでモルモンの会員とやり取りする中で改宗を決意する人が結構いると言う。

ネットの力、意外と馬鹿にできないって思う。

 

欧米の若者でイスラムに惹かれる人が出る背景には、欧米のキリスト教に対してコレジャナイ感が大きいことが挙げられるかも。

既存のキリスト教会からモルモンへの改宗も結構あると聞いたことある。

 

カトリックもプロテスタントも、魂の救済にとどまらず、生き方を求めて祈る信仰へと軌道修正しない限り、欧米の若者たちの教会離れも止まらないし、ISに足元を掬われてしまう若者たちも引き留めることなんて絶望的なまでに出来ないと思い知った方が良いのではないか。

 

カトリックの堕落を批判したプロテスタントもまた堕落したが、生き方を求める信仰に軌道修正することは魂の救済に胡坐をかいてきた生き方の全否定であり当然苦痛を伴う。

すでに得ている魂の救済の既得権益を脅かす輩が、気に入らないと言うわけであると言うことなのか。

そこに気付こうとしないのだとしかみえないのは、気のせいだろうか。

 

だが欧米の既存のキリスト教徒の多くは、若者たちをISにとられたこととイスラムにとられたことを短絡的に混同する傾向さえあるように思う。

彼らはイスラムを知らないばかりか知ろうともしないように思えるのは、とても悲しい。

キリスト教にいちゃもんをつけて喧嘩を売った、けしからん異教徒としか見ようとしないようだからだ。

違うだろうか。

 

旧態依然の欧米のキリスト教は魂の救済は説いたが、どう生きるべきかは説かなかった。

イスラムもモルモンも仏教も、どう生き、どう考えるべきかを彼らに示した。

ISに若者を取られたくないなら、既存のキリスト教も生き方を生き方を模索している若者に応えようとするべきだ。

 

現在、米国の仏教徒は約3百万人を数え、全米人口の1%に当たる。

ヨーロッパでも約100万人いる。

キリスト教徒と比べれば、仏教徒の数はまだマイナーだ。

しかし、伸び率だけに注目するなら、キリスト教徒をはるかに上回る。

なぜそうなるのか。

彼らは生き方を求めているのだ。

 

モルモンへの改宗者もまた生き方を求めて、既存のキリスト教会に別れを告げた人たちである。

既存のキリスト教は信ずれば救われると説くが、どう生きるべきか指し示す力がない。

ただ救いを求めてすがる人たちばかりと、言って良いかもしれない。

受け身ばかりと言えるだろう。

 

トリックへの反発からプロテスタントが生まれたが、今欧米では既存のキリスト教への幻滅から宗教離れが深刻と言う。

維持がままならなくなり、手放される礼拝堂もかなりあると聞く。

だが、心の支えや拠り所を求める人は実は多い。

Isの誘いに乗ってくる若者は、心の隙間で足元が掬われてしまった人が結構いると言う。

さもありなんと言うべしだろう。

 

欧米では既存のキリスト教への幻滅から宗教離れも多いと聞くが、どう生きるべきかの悩みは多くの若者が普遍的に抱えている課題。

ISの誘いに乗ってしまう欧米の若者が多いのは、旧態依然の教会の体質に問題があると私は見る。

だがどっぷり浸かり込んだ人にはそれが見えてないのではないか。

 

FW・ニーチェの「アンチクリスト」も、欧米のキリスト教の現実への幻滅からキリスト教そのものの否定に走った典型だが、欧米の若者も既存のキリスト教への幻滅から改宗希望者が多いのかも知れない。

だから、イスラムやモルモン、仏教などに惹かれる人が結構出るのかも。

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泣き相撲

普段は、氏神さまの境内で村の若者が豊作を祈願して草相撲として行われる宮相撲が毎年行われていました。

やがて職業相撲集団となり、四股名を付けることも生まれました。
かつては山や川にちなんだ四股名が多かったのは、生命力を励ます行事だからです。
もともとは男子のものであった子供の相撲としては、小中学生による草相撲もあります。
少年は、五行では滅びと生成を司り循環促す土気です。
大地の生産力を励ます意図があったものですが。
 神の嬰児イエスが下敷きにあるのでしょうかね。
草は草冠、日、十字で、草冠は元は並び立つ三叉で描かれ陰陽の生命の樹、日は太陽、十字は生命を育む太陽の光で、転じて生命力を表します。
一応相撲の起源は古く紀元前、垂仁天皇の御代に大和の国において当麻蹴速と野見宿禰が力競いをし、野見宿禰が勝ち、後の世に相撲の神と仰がれます。
また平安時代には宮廷で相撲節会が行われるようになり、五穀豊穣を祈る儀式ともなりました。
 国家安泰も併せて祈願されたようですね。
時代が下がって武家の時代になると、大名が力士を集め上覧相撲を行いました。
江戸時代には社寺の建立のため、寺社奉行の許可を受けて勧進相撲としての興行相撲が行われました。
勧進相撲は、正保2年6月(1645)京都の、下鴨神社の名で知られる賀茂御祖神社に関係のある糺森においておこなわれた、公許勧進相撲(京都勧進相撲)になりそうですね。
ちなみに、一般に蚕ノ社と呼ばれる木島坐天照御魂神社に元糺森があり、この社は三柱鳥居が有名です。
それに対して今のような泣き相撲は、宝永年間あたりまでしか、さかのぼれないようですね。
あるいは、起源はもっと古いものもあるかも知れませんけど。
と言いますのも、幼児が赤いふんどしを締めて、各々行事役の氏子総代に抱かれて土俵の上で一勝一敗になるように土俵の土をつけてもらい、子供の健康を祈願するとされる行事があります。
これが、土に付けられた子供がたいてい泣き出すところから、『泣き相撲』として親しまれている行事の元祖のようです。
赤いふんどしは火気、男子の子供は土気で、相生関係の火生土が前提にありそうですので、おそらくは男子が主に土俵に上がったかも。
 まあ、人自体も土気ですので、女子も可なんでしょうか。
実際、女子の参加する泣き相撲もありますね。
古来からかどうかは、情報の欲しいところですけど。
 ここには、人は土から出来たと言う、聖書の記述とともに、滅びと生成の太陽神の子孫とする古事記の反映もあるのでしょうね。
現在各地の神社には、古来から泣く子は育つとの意味に因んだとして、泣きすもうが行われています。
 でも、元は土に付けていたと言う伝承も古いとこには見えます。
今ではたいてい、役員氏子がまわし姿の力士に扮し、東西の土俵から幼児同志を抱きかかえ掛け声と共に、頭上高く振り上げて取組ませ、先に泣いたほうを勝とする行事になっています。
笑いが火なのに対し、泣きは水と思われます。
水は北に当たります。
でも火のついたように泣くというように、激しい泣きは火、つまり南に当たります。
北を正面、南を向う正面とし、東西の力士が対戦する、土俵の作りが反映され、少年は、五行では滅びと生成を司り循環促す土にあたりますから、大地の生産力を励ます意図が見て取れます。
農業に欠かせない水に困らないようにとの呪術でもあったので、泣き相撲には泣くと勝ちのところが多いのです。
水の多過ぎも困るので、ところによっては泣くと負けのところもあるようですけど。  
でも、どうも、この形になったのは、どうも宝永の頃みたいですね。
ここでも、泣きの水もまた禊の水、火は聖霊による禊に通じるのです。
 さて、泣き相撲で涙とくると、涙を流す慈悲の神イエスが連想されますねえ。
 涙の神の像がないと思ったら、こんな形で祭られていたのですかね。
さすが、偶像崇拝を禁じた教義もシンボルまでは。
 泣き相撲の原型が赤ふんどしの幼子を土に付けるものであったことは、義の太陽神イエスこそ、人類の親であると宣言しているのに等しいでしょ。
それは、考えすぎでは。

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