神道

徐福は一体何しに日本へ来たのか。

卑弥呼の国である邪馬台国は”yamatai”と一般に呼ばれるが、当時の日本語は二重母音であり発音は曖昧だったのです。

旧仮名遣いを読むと感じるのは、ワ行母音の方が発音しやすいと言う事実です。

卑弥呼の時代には、日本語の発音はワ行母音であったと考えられるのです。

邪馬台国は”yamatou"と発音されていたはずで、中国人は自分の言いやすいように”yamatai"と言い換えた可能性があるのです。

”yamatou"、すなわち”ヤマトウ”はヘブル語で「ヤハウェの民」を意味している言葉です。

ここで興味深いのは日本には古代中東の遺伝子があるばかりか、アイヌの生活文物が古代イスラエルの物に似ていて、沖縄の文化も聖書似ていて、更には、古事記や日本書紀の神代七代についても聖書の天地創造の七日を連想できると指摘される事です。

その日本に、ヘブル語で「ヤハウェの民」を意味する「ヤマトウ国」があるのです。

しかも卑弥呼は鬼道の使い手とされるが、卑弥呼の時代とは中国では神武天皇になったという説の出ている徐福が日本に来た頃と重なります。

徐福は方士、今日でいうところの陰陽の使い手なのです。

卑弥呼の鬼道とは隠れた力を呪術によって使いこなす術とみていいので、実質的に陰陽と言っても差し支えないのです。

徐福は卑弥呼の背後で、鬼道を指導している可能性があるのです。

ところが陰陽とは、ユダヤ教神秘主義のカッバーラとそっくりなのです。

となると、徐福は大勢の人を引き連れてヤハウェの民の国であるヤマトウに亡命したカッバーラの使い手となるでしょう。

民俗学者吉野裕子は日本の民俗は陰陽で読み解けると、指摘しています。

徐福はヤハウェの民の国ヤマトウに、カッバーラを持ち込んだのでしょうか。

それとも、ヤハウェの民の国ヤマトウにはすでにカッバーラがあると知ったうえで、徐福は亡命したのでしょうか。

日本の神社の原型は山を御神体とするもので古代エジプトのピラミッドコンプレックスとそっくりだと、エジプト学者吉村作治は言います。

狛犬の正体はスフィンクスだとも、吉村作治は断言しているのです。

日本の神話の構造も、太陽神を頂点とし動物を含む神々が三神をなす点が古代エジプトと共通なのです。

徐福は一体日本で何をしようとしたのか、興味がそそられますね。

追記

徐福と卑弥呼についてはこんな記事も書いていました。

卑弥呼の鬼道を考える。 

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神社とアテン神とイエスと…。

日本の神社の原型は、山をご神体とした拝殿とされています。

この構図は確かに吉村作治教授指摘の通り、ピラミッドコンプレックスとよく似ています。

古代エジプトでは、ピラミッドが時代を下って本殿となり偶像崇拝が入り込みました。

日本の神社は、古代エジプトが陥った偶像崇拝を排して原点回帰をしたと言えます。

ピラミッドは、天への階であるとともに天から降り注ぐ光の象徴でもあるのです。

日本の神社にある鏡は、その天から降り注ぐ光の代替品なのです。

神社でなぜ拝殿と本殿の間に階があるか、それは、神社の原型がピラミッドコンプレックスであることを忘れないためです。

 だからこそ階で拝殿と本殿を繋ぎ、本殿に鏡を置いたわけですね。

本殿の正体は、ピラミッドコンプレックスのピラミッドにあると言って良いでしょう。

その証拠に、日本の神話大系は古代エジプトとうり二つの、太陽神を中心とした動物を含む八百万の神々を祀っているのです。

 しかも、古代エジプトと同様に三神構造で祀っている事も似ていますね。

太陽神が女神なのは、女帝合理化のためのすり替えの結果と指摘されています。

しかし、鏡は天から降り注ぐ光の代替品にとどまりません。

なぜ丸でないとならないのか、と言う疑問が残ります。

実は太陽神は、太陽円盤をその象徴としています。

 鏡は太陽円盤をも、表しているのですね。

階は太陽が放つ光の象徴でもあると、指摘しました。

太陽円盤と太陽が放つ光の象徴を、一つに描いた神が存在します。

アテン神です。

神社は、アテンの神殿であることを見せながら隠し、隠しながら見せています。

その証拠に、天皇家の象徴である十六弁菊花紋をあげましょう。

十六弁菊花紋は、古代中東の太陽神紋がその正体なのです。

そしてその太陽神紋は、放射線に囲まれた太陽円盤として描かれています。

アテン神の放つ光は、しばしば神の伸ばした手の姿で描かれています。

それに対して、太陽神紋は放射線です。

だが、注意してください。

アテン神が伸ばしているその手が表しているのは、太陽円盤から降り注ぐ光でもあるのです。

 古代中東の太陽神紋の正体は、アテン神だったということですね。

そのアテン神を、天皇家は象徴としています。

そして天皇家は、日本の神道の最高祭司です。

神社の鏡と階は、当然、アテン神に対応するとみる方が自然なのです。

ピラミッドは、日本の神道では山で代替されたが、山の神は女性とされています。

 なぜでしょうか。

山、そして、ピラミッドは母体の象徴だからです。

神社の姿は母体を表していて、鳥居は足に当たります。

 だから、古い神社の鳥居は二本の柱だけが立っていた。

参道は産道でもあるのです。

茅の輪くぐりは、生まれなおしの儀式なのです。

 でも、新しい神社の鳥居は違いますね。

 古代イスラエルの門に、似ていると言う指摘もあります。

鳥居と言うのは、アラム語で門を意味するとも、言われていますね。

でも、他にも似ているのがあります。

ヘブル文字には、一文字で神を表すものがあります。

一つは勾玉に似ている「ヨッド」、そして、もう一つが「へー」です。

ヘブル文字の「へー」には、鳥居そっくりな書き方があるのです。

「へー」はヤハウェを表す「ヨッド・へー・ヴェブ・へー」の一文字です。

そして、ヤハウェとは、旧約聖書時代のイエスなのです。

 そうなると神社の鳥居は、イエスを表す事になるのですね。

イエスは、私によらないでは神の国へ入れないと語っています。

鳥居は、赤いものが多いですよね。

 白や、まれに黒もあるけど、大抵の場合そうです。

白や黒も、陰陽では霊界の象徴とされる色なので問題ないですけどね。

 赤は、陰陽では地でもあるが、火でもある。

イエスは、火と聖霊で人を清めると言われています。

アテン神と、イエスは、どういう関係なのでしょう。

 アテン神信仰と聖書の教えは、似ていると聞きましたけど。

さらに、調べて見た方が良さそうですね。

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修験道と秦氏。

山岳宗教史研究叢書7に『東北霊山と修験道』が、収められています。

こう言う内容です。

総説 東北霊山と修験道
第1篇 下北・津軽の山岳信仰
第2篇 陸中の修験道と山岳信仰
第3篇 陸前の修験道と山岳信仰
第4篇 羽後の修験道と山岳信仰
第5篇 羽前の修験道と山岳信仰
第6篇 磐城・会津の修験道と山岳信仰

修験道は修験宗とも言い、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教です。

修験道の成立には仏教の行脚や道教の入山修行も影響していると言われ、森羅万象命や神霊が宿るとして神奈備(かんなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立したとされています。

修験道は飛鳥時代に役行者とも呼ばれる役小角が創始したとされるが、役小角は謎の多い人物です。

役小角が属した役氏(えんうじ)あるいは、役君(えんのきみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族です。

葛城流賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君(かものえんのきみ)とも称されます。

役民(えきみん)を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたと言います。

役民とは、都の造営などの際に徴収される労働者のことです。

また、役氏は大和国・河内国に多く分布していたとされます。

賀茂氏は、秦氏の中でも特に祭司の一族と指摘されています。

となると、役小角もまた、秦氏であった可能性が見えてきます。

修験道の行者は、山に詳しい人も多いのです。

修験道の行者となれば、誰にも怪しまれることなく山奥に分け入ることができます。

秦氏の拠点を置いた場所と、何らかの資源の分布を重ねてみると、面白い事に気が付けるかもしれません。

何故に秦氏は、仏教と神道の両方に関わりを持ったのでしょうか。

日本中の資源の情報、そして、大陸の最新情報、この二つを誰にも疑われる事なく調べるのにこの二つは実に好都合です。

殖産豪族秦氏が目をつけない方が、おかしくないですか。

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米沢と秦氏と鉱山と?

山形県米沢市の界隈には藤原ゆかりの苗字、例えば佐藤は結構あるようですね。

そして、藤原系の祭司一族である小林一族もいるのです。

秦氏ゆかりの神社である、成島八幡宮もあるのです。

これはひょっとしてと米沢と養蚕のつながりを調べてみると、養蚕は米沢にとって重要な産業なのですね。

藩主上杉景勝の側近だった直江兼続は、藩の収益拡大を図るため、織物の素材となる青苧(あおそ)や絹を生む蚕の餌となる桑、染料となる紅花などの栽培を奨励したのです。

青苧や桑や紅花は藩の特産物として、織物産地に売り出されたのです。

じゃ、養蚕と米沢のつながりはどうなっているのかですね。

米沢の「市」や町人町の発祥地ともいわれる米沢の鎮守、白子神社が面白いです。

米沢の鎮守とされたのは確認される範囲では、平安時代、この地方を鎮めに来た小野良春によって社殿が建替えられた時からと伝えているのです。

白子神社は和同5年(712)の創建と、大変古い由緒を伝えているのです。

白子神社の由緒は、こうです。

神のお告げによって桑林に蚕が生じ、桑を食べている光景は雪が降ったように白一色で、やがてその蚕は繭を作り、この不思議な現象により、この地を白蚕(白子に由来する)村と呼び、和同5年に神社を建て白蚕(白子)明神とした、というものです。

この不思議の背景には、秦氏が関わっていたのではないでしょうか。

どういう繋がりや理由やきっかけがあったのか、それはわからないです。

ただ、米沢の近くには八谷鉱山や滑川鉱山があるのです。

八谷鉱山は、金、銀、銅、鉛、亜鉛などを主に産出した鉱山です。

滑川鉱山は、渇鉄鉱が採掘されました。

殖産に関わりの深いことで知られる秦氏は、これらの鉱山に目をつけていた可能性は考えてもいいかも知れません。

とは言え鉱山経営は、軌道に乗るまでに時間もかかるし、資金も必要ですよね

その資金稼ぎの手段として、養蚕を手掛けたのでしょうか。

養蚕で得た富を背景に、鉱山開発に乗り出す目論見はあったかも知れません。

米沢織は、秦氏の目論見にまで遡るのでしょうか。

じゃ、米沢牛との関わりはどうよって思いますよね。

米沢牛の歴史は、案外浅いようなのです。

岩手県南部から鉄を運ぶのに使われた牛は、米沢地方を通る越後街道沿いの村々に売っていったそうです。

その牛の飼育の歴史の上に、米沢牛はあると言うのです。

じゃあ、米沢の近くの鉱山は秦氏は手をつけなかったのでしょうか。

岩手県には、松尾神社が二つ祀られているのです。

松尾神社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)は、元々は秦氏の神だったそうです。

ちなみに大山咋神は、山に杭を打ちその所有を示す神であるというのです。

じゃあ、岩手県南部の鉄の方が採掘が容易なので米沢の鉱山は後回しになったのでしょうか。

米沢近郊の鉱山と秦氏の関係は、謎のままです。

でも、秦氏と鉱山の関わりはおぼろげながら、見えてきたかも知れません。

米沢と秦氏、何かありそうですね。

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秦氏と塩?

猿田彦はソルト彦ではないかと、あたりをつけた事がありました。

そして猿田彦は熊野とも繋がりがあるので、熊野もまた塩で知られます。

和歌山県色川地域で、昔ながらの製法で製塩している業者がいるのです。

どうやら「熊野」の名前は「カムイ」の転訛のようです。

昔の日本語はワ行母音に近い二重母音で、「カムイ」は「クヮムィ」であったのです。

「クヮムィ」が発音の平唇音化で音が明瞭化し、「クヮムノ」「クマノ」「熊野」と転訛したのです。

アイヌの神送りの行事「イヨマンテ」で熊の霊を天に返すのも、熊がカムイの転訛だからかも知れないですね。

それはさておき、熊野を名乗る神社は各地にあるけど、香川にも面白い土地があります。

温泉施設が数多く点在する塩江温泉郷、熊野権現神社や岩部八幡神社があるのです。

塩江温泉郷は約1,300年前の奈良時代に僧行基によって発見され、弘法大師空海が湯治の地として伝えたという由緒正しき温泉地の総称です。

県内最古の温泉郷で「高松の奥座敷」として親しまれています。

塩江温泉の泉質は、単純硫化水素泉です。

硫化水素イオンは硫化水素を水酸化 アルカリなどの塩基性水溶液に溶解することでも発生するのです。

これらは酸化されやすく、還元剤となるのです。

遷移金属塩の水溶液は硫化物 (H 2 S, NaSH, Na 2 S 等) と反応して、固体の塩を沈澱するのです。

この塩が、塩江の名の由来になったのです。

塩が取れるところに熊野神社、どうやら熊野神社自身も塩と縁があるようです。

そして塩が取れる塩江に秦氏ゆかりの八幡神社、流石はビジネス豪族秦氏ですよね。

そう思って見ると、熊野八幡神社は全国各地にあるし、熊野古道の三重県でも熊野神社からそう遠くない地に八幡神社はあるのです。

秦氏と言えば機織りの印象が強いが、秦氏と塩も注目してみても面白そうですね。

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出雲大社に裏の御祭神?

出雲大社には、出雲国杵築大社御神殿天井八雲之図と言う謎めいた図が伝わっているのです。

Yakumo  

八雲の図と言いながら、七つの雲しか描いてないのです。

この七つの雲は、五色に描かれているのです。

五色と言えば、陰陽ですよね。

奇数は陽で偶数は陰、八つ目の雲は陰だからあえて描きませんでしたって、暗号が雲の色に隠されているのでしょうか。

出雲大社の祭神は、大国主大神ですよね。

実は裏の祭神をお祀りしているって、暗号なのでしょうか。

表の祭神は大国主大神、隠して祀られている別の大国主大神が実はあると言うのでしょうか。

神の世界で大国主大神をニックネームにつけて似合うお方は、誰でしょう。

神の神、王の王、この二つの異名を持っていると言えば、イエスが有名ですよね。

イエスは旧約聖書のヤハウェにあたり、かつてはエホバとも訳されていました。

ヤハウェは「ヨッドヘーヴェブヘー」って、ヘブル文字で書くのですよね。

ヘブル文字の「ヨッド」は「ヤー」とも読んで、これ一文字で「ヤハウェ」を表すのです。

「ヤーの雲」を「八(や)の雲」としゃれたのでしょうか。

そうなると気になるのが、「金輪御造営差図」なのです。

Kanawa  

これには、カッバーラの生命の樹だっていう突っ込みがあるのですよね。

Seimeinoki

生命の樹は「アダムカドモン」とも呼ばれ、人、それも絶対三神の後ろ姿とされると言います。

特に、イエスだそうです。

そうなると、出雲大社は実はイエス神社って事になってしまうのですけどね。

大国主は大きな社に自分を祀って欲しいって、言ってましたよね。

そしたら天孫一族は、出雲大社をイエス神社にこっそりやってしまったって事でしょうか。

祀られている大国主は、納得しているのでしょうか。

謎ですよね。

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大日本帝国は神の国などではない。

国家神道は、日本本来の神道を歪めてしまったのです。

神道に偶像崇拝はなかったのに、天皇の写真を拝ませる偶像崇拝に変質させたのです。

天皇と呼ばれているお方は実は陛下であって、天の皇帝と地上の仲立ちをする最高祭司なのです。

つまり天皇陛下は人間であって、神ではないのです。

皇祖天照大御神の子孫という立ち位置ではあるが、天皇陛下は人間なのです。

天皇は人間宣言で、本来の立ち位置の人間に戻ったのです。

日本本来の神道を歪めた大日本帝国は、断じて復活させてはならないのです。

天皇は京都の御所にお戻りになられ、最高祭司のお勤めに励まれるべきお方なのです。

象徴天皇制はある意味、天皇をもとの立ち位置に近づけたといえるでしょう。

天皇はお言葉を述べ、民を導くのがお役目のお方なのです。

民は天皇のために死ねなどという、教育勅語など復活させてはならないのです。

民は神に仕え神は民を守る、これが本来の神道です。

民が神にささげるべきは、感謝であって自らの命ではないのです。

神の大御心に殉じたための死はあっても、神のために死んではならないのです。

神は民を守るためにおられるのが、神道なのです。

神に随い神に倣う随神の道が、神道なのです。

だから民は神に随い神は民を守るのです。

随うべきは神の道であって、偶像ではないのです。

神の道から外れてしまった大日本帝国に神風など吹くはずはなかったのです。

神が守る相手は神が決めるのです。

だから大日本帝国は、守ってもらえる自分であろうとするべきだったのです。

日本は神の国と自覚し神の御心に背かぬよう言動を慎むならいいが、高慢になってはならなかったのです。

神の道に随う教えに忠実ならば、高慢はあってはならないのです。

高慢に日本を堕落させた大日本帝国は、断じて復活させてはならないのです。

神道に教義がないのではありません。

随神の道(かんながらのみち)という名前に、神道の教えのすべてが込められているのです。

文書は失われたり改ざんされたりするのです。

人は完全ではないからです。

だから神道は、あえて教義を文面にあらわさなかったのです。

神に尋ねるべきなのです。

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大嘗祭

大嘗祭では、わざわざ内部の作りが同じ悠紀殿と主基殿が作られます。

悠紀殿と主基殿は簡素な材料で質素に作られ、古い時代の神社の形はこうであっただろうと連想出来ます。

大嘗祭で見落とされがちなのは、悠紀殿と主基殿が大社造りな事です。

大社造りと言えば、大国主命を祀る出雲大社の様式ですね。

しかも、それが二つ並べて作られ、それぞれの千木が内そぎの女千木と外そぎの男千木なのです。

女千木と男千木、つまりこれは陰陽を意識して悠紀殿と主基殿が作られていると言う事なのです。

具体的には、東西南北、上旬下旬、春夏秋冬、午前午後、前後左右、などを表し森羅万象をつかさどる八百万の神々を表しているのです。

森羅万象の八百万の神々と天皇が会食する儀式が、大嘗祭なのです。

天皇が悠紀殿と主基殿で神々と会食するのは大社造りの本殿に当たる場、伊勢神宮の方角に向かって神々と会食するのが大嘗祭なのです。

天皇の神々と会食をする場所の傍らには、寝座があります。

寝座はさまざまな憶測を生んでいるけれども、寝座は神座に通じ、この空間が神の場である事を示しているのです。

神道は基本的に偶像は作らない、そこで何らかの象徴で暗示するわけです。

霊の世界に入る事は、しばしば眠りに例えられます。

安らかにお眠りくださいなども、その一例ですよね。

それで寝座は、神座ともなるわけです。

新嘗祭も収穫を喜ぶ天皇と神々の会食だが、大嘗祭は新任天皇が神々と初顔合わせする儀式のようなものと言えるのではないでしょうか。

もちろんシンボルだから、他の解釈もあり得るでしょうけども。

なお天皇が神社をかたどった悠紀殿と主基殿の本殿にあたる場で神々と会食出来るのは、天皇が祭司それも最高祭司だからなのです。

大嘗祭とは、最高祭司としての天皇の座にこれから就く際の神々に対する就任パーティーのようなものではないでしょうか。

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御所と太陽の船?

京都御所の紫宸殿、内部は一間で天井板は無く屋根裏は船底天井なのです。

これ、ひょっとしたら船を現すのでしょうか。

気になるのは皇祖天照大御神を祀る伊勢神宮に、御船代がある事なのです。

これ、偶然でしょうか

神社は、たいてい屋根は板葺です。

鳥居、拝殿、本殿、祀られるのは太陽神を頂点とした神々です。

まるで神社が、太陽神の船に見えて来ませんか。

神道と古代エジプトの似ているのは、太陽神を頂点に動物神を交えた三神構造で神々が祀られるところです。

日本の神社の配置は古代エジプトの神殿に似るが、神像が無く賽銭箱がある点が違うだけなのです。

ファラオも天皇も、太陽神の末裔とされるのでしたね。

紫宸殿は右近の橘と左近の桜の背後にあり、一番奥に玉座の高御座、この構図は神社に似てないでしょうか。

紫宸殿の前の右近の橘と左近の桜は、鳥居に見立てても良いのでないでしょうか。

そうなると気になるのは、紫宸殿は大きな一間の船底天井の内部に拝殿と本殿が配されるのはなぜかなのです。

紫宸殿は、太陽の船を現すのではないでしょうか。

菊花紋の正体は、古代中東の太陽神紋でありアクエンアテンが復活させようとしたアテンなのでしょうか。

古代エジプトでとん挫したアテン信仰を、古代エジプトの神話大系でカモフラージュしたのが日本の神話の神々だったのでしょうか。

もっと探索が必要なのは、確かですけどね。

古代エジプトとの奇妙な類似、これが指し示すのはなになのでしょう。

天孫一族の正体は、亡命してきたファラオの一族だったのでしょうか。

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藪医者とはどのような呪術を用いた人達だったのか。

なぜ、少しの風邪でも大袈裟に騒ぐ医者を藪医者と呼ぶのでしょう。

実は「藪医者」は「野巫医者」とも書き、占い、呪術、まじないや悪霊祓いなどを職業とする霊能者の医者であったようです。

下手な医者を意味する言葉になってしまった藪医者だけど、その昔は人々から絶大な人気と信頼を勝ち取っていた呪術医であったはずです。

ちなみに藪医者をねこ医者と呼ぶ地域もあるようですが、「禰子(ねこ)医者」と本来は呼ばれていたのでしょう。

薬を扱っていたからか、「猫薬師」とか「猫の薬師」と呼ばれていた地域もあります。

禰子とは、神職の家系に属する人達をさす言葉です。

元々の意味が忘れられて「猫医者」と勘違いされることもあるようです。

呪術医(じゅじゅつい)は呪医(じゅい)とも言い、医療専従者のうち医療効果の根拠を超自然的なものに求めるもの、もしくは周囲の人間によって超自然的な根拠によって治療する能力があるとされる人々のことです。

民俗学や文化人類学では、シャーマニズムによるシャーマンドクター(shaman doctor)やウィッチドクター(witch doctor)とも呼ばれます。

彼らはなぜ呪術で治せるかと言えば、誰もが呪術医に絶大な信頼を寄せるからです。

ではどうして野巫医者は、ちょっとの風邪でも大袈裟に叫ぶと呼ばれるようになってしまったのでしょう。

呪術医は病名の診断にトランスや占いを行ったり、治療に際して治療儀礼を施すことがあるからです。

周囲から絶対的な信頼を寄せられているうちは、トランスや治療儀礼は当然なこととして受け入れられていたでしょう。

薬師と呼ばれていた人達も、薬は補助的な手段で治療の中心は呪術だったのかも知れません。

呪術による治療は、人々の信仰が前提となります。

イエスがよく口にしていた言葉があります。

「あなたの信仰があなたを救った」

呪術医しか頼れない時代、人々は信仰が強かろうが弱かろうが皆、禰子医者にお世話になったのでしょう。

だが仏教とともに、信仰の有無や程度を問わずに治してくれる生薬や漢方薬を用いる薬師が来ました。

苦しい時の神頼みや苦しい時のだけの神頼みの人が多いのは、今も昔も大して変わらなかったのでしょう。

いちいち信仰の有無や強さが問われる禰子医者や禰子薬師より、誰でも治してくれる仏師の医者や薬師の方に人々は流れて行ってしまいました。

貧乏でやむを得ない人がたいして信仰もないのにかかっても、禰子医者や禰子薬師の効き目は薄かった事でしょう。

やがて神域であった草深い所にいたこともあって別名として藪医者と呼ばれていた禰子医者や禰子薬師は、下手な医者の代名詞となってしまったのかもしれません。

西洋の魔女のように伝統的な薬の知識をもって治療していたなら今日でも残れたであろう禰子医者や禰子薬師は、不名誉な名前に転落した藪医者としてだけ人々の記憶に残っているのでしょう。

どのような呪術を用いていた集団だったのか、歴史研究に興味があるものとしては多いに興味があります。

アジア各地に残っている呪術医に近かったのでしょうか。

それとも他の地域の呪術医に近かったのでしょうか。

少しでも情報が欲しい所です。

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