神道

修験道と秦氏。

山岳宗教史研究叢書7に『東北霊山と修験道』が、収められています。

こう言う内容です。

総説 東北霊山と修験道
第1篇 下北・津軽の山岳信仰
第2篇 陸中の修験道と山岳信仰
第3篇 陸前の修験道と山岳信仰
第4篇 羽後の修験道と山岳信仰
第5篇 羽前の修験道と山岳信仰
第6篇 磐城・会津の修験道と山岳信仰

修験道は修験宗とも言い、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教です。

修験道の成立には仏教の行脚や道教の入山修行も影響していると言われ、森羅万象命や神霊が宿るとして神奈備(かんなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立したとされています。

修験道は飛鳥時代に役行者とも呼ばれる役小角が創始したとされるが、役小角は謎の多い人物です。

役小角が属した役氏(えんうじ)あるいは、役君(えんのきみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族です。

葛城流賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君(かものえんのきみ)とも称されます。

役民(えきみん)を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたと言います。

役民とは、都の造営などの際に徴収される労働者のことです。

また、役氏は大和国・河内国に多く分布していたとされます。

賀茂氏は、秦氏の中でも特に祭司の一族と指摘されています。

となると、役小角もまた、秦氏であった可能性が見えてきます。

修験道の行者は、山に詳しい人も多いのです。

修験道の行者となれば、誰にも怪しまれることなく山奥に分け入ることができます。

秦氏の拠点を置いた場所と、何らかの資源の分布を重ねてみると、面白い事に気が付けるかもしれません。

何故に秦氏は、仏教と神道の両方に関わりを持ったのでしょうか。

日本中の資源の情報、そして、大陸の最新情報、この二つを誰にも疑われる事なく調べるのにこの二つは実に好都合です。

殖産豪族秦氏が目をつけない方が、おかしくないですか。

| | コメント (0)

米沢と秦氏と鉱山と?

山形県米沢市の界隈には藤原ゆかりの苗字、例えば佐藤は結構あるようですね。

そして、藤原系の祭司一族である小林一族もいるのです。

秦氏ゆかりの神社である、成島八幡宮もあるのです。

これはひょっとしてと米沢と養蚕のつながりを調べてみると、養蚕は米沢にとって重要な産業なのですね。

藩主上杉景勝の側近だった直江兼続は、藩の収益拡大を図るため、織物の素材となる青苧(あおそ)や絹を生む蚕の餌となる桑、染料となる紅花などの栽培を奨励したのです。

青苧や桑や紅花は藩の特産物として、織物産地に売り出されたのです。

じゃ、養蚕と米沢のつながりはどうなっているのかですね。

米沢の「市」や町人町の発祥地ともいわれる米沢の鎮守、白子神社が面白いです。

米沢の鎮守とされたのは確認される範囲では、平安時代、この地方を鎮めに来た小野良春によって社殿が建替えられた時からと伝えているのです。

白子神社は和同5年(712)の創建と、大変古い由緒を伝えているのです。

白子神社の由緒は、こうです。

神のお告げによって桑林に蚕が生じ、桑を食べている光景は雪が降ったように白一色で、やがてその蚕は繭を作り、この不思議な現象により、この地を白蚕(白子に由来する)村と呼び、和同5年に神社を建て白蚕(白子)明神とした、というものです。

この不思議の背景には、秦氏が関わっていたのではないでしょうか。

どういう繋がりや理由やきっかけがあったのか、それはわからないです。

ただ、米沢の近くには八谷鉱山や滑川鉱山があるのです。

八谷鉱山は、金、銀、銅、鉛、亜鉛などを主に産出した鉱山です。

滑川鉱山は、渇鉄鉱が採掘されました。

殖産に関わりの深いことで知られる秦氏は、これらの鉱山に目をつけていた可能性は考えてもいいかも知れません。

とは言え鉱山経営は、軌道に乗るまでに時間もかかるし、資金も必要ですよね

その資金稼ぎの手段として、養蚕を手掛けたのでしょうか。

養蚕で得た富を背景に、鉱山開発に乗り出す目論見はあったかも知れません。

米沢織は、秦氏の目論見にまで遡るのでしょうか。

じゃ、米沢牛との関わりはどうよって思いますよね。

米沢牛の歴史は、案外浅いようなのです。

岩手県南部から鉄を運ぶのに使われた牛は、米沢地方を通る越後街道沿いの村々に売っていったそうです。

その牛の飼育の歴史の上に、米沢牛はあると言うのです。

じゃあ、米沢の近くの鉱山は秦氏は手をつけなかったのでしょうか。

岩手県には、松尾神社が二つ祀られているのです。

松尾神社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)は、元々は秦氏の神だったそうです。

ちなみに大山咋神は、山に杭を打ちその所有を示す神であるというのです。

じゃあ、岩手県南部の鉄の方が採掘が容易なので米沢の鉱山は後回しになったのでしょうか。

米沢近郊の鉱山と秦氏の関係は、謎のままです。

でも、秦氏と鉱山の関わりはおぼろげながら、見えてきたかも知れません。

米沢と秦氏、何かありそうですね。

| | コメント (0)

秦氏と塩?

猿田彦はソルト彦ではないかと、あたりをつけた事がありました。

そして猿田彦は熊野とも繋がりがあるので、熊野もまた塩で知られます。

和歌山県色川地域で、昔ながらの製法で製塩している業者がいるのです。

どうやら「熊野」の名前は「カムイ」の転訛のようです。

昔の日本語はワ行母音に近い二重母音で、「カムイ」は「クヮムィ」であったのです。

「クヮムィ」が発音の平唇音化で音が明瞭化し、「クヮムノ」「クマノ」「熊野」と転訛したのです。

アイヌの神送りの行事「イヨマンテ」で熊の霊を天に返すのも、熊がカムイの転訛だからかも知れないですね。

それはさておき、熊野を名乗る神社は各地にあるけど、香川にも面白い土地があります。

温泉施設が数多く点在する塩江温泉郷、熊野権現神社や岩部八幡神社があるのです。

塩江温泉郷は約1,300年前の奈良時代に僧行基によって発見され、弘法大師空海が湯治の地として伝えたという由緒正しき温泉地の総称です。

県内最古の温泉郷で「高松の奥座敷」として親しまれています。

塩江温泉の泉質は、単純硫化水素泉です。

硫化水素イオンは硫化水素を水酸化 アルカリなどの塩基性水溶液に溶解することでも発生するのです。

これらは酸化されやすく、還元剤となるのです。

遷移金属塩の水溶液は硫化物 (H 2 S, NaSH, Na 2 S 等) と反応して、固体の塩を沈澱するのです。

この塩が、塩江の名の由来になったのです。

塩が取れるところに熊野神社、どうやら熊野神社自身も塩と縁があるようです。

そして塩が取れる塩江に秦氏ゆかりの八幡神社、流石はビジネス豪族秦氏ですよね。

そう思って見ると、熊野八幡神社は全国各地にあるし、熊野古道の三重県でも熊野神社からそう遠くない地に八幡神社はあるのです。

秦氏と言えば機織りの印象が強いが、秦氏と塩も注目してみても面白そうですね。

| | コメント (0)

大日本帝国は神の国などではない。

国家神道は、日本本来の神道を歪めてしまったのです。

神道に偶像崇拝はなかったのに、天皇の写真を拝ませる偶像崇拝に変質させたのです。

天皇と呼ばれているお方は実は陛下であって、天の皇帝と地上の仲立ちをする最高祭司なのです。

つまり天皇陛下は人間であって、神ではないのです。

皇祖天照大御神の子孫という立ち位置ではあるが、天皇陛下は人間なのです。

天皇は人間宣言で、本来の立ち位置の人間に戻ったのです。

日本本来の神道を歪めた大日本帝国は、断じて復活させてはならないのです。

天皇は京都の御所にお戻りになられ、最高祭司のお勤めに励まれるべきお方なのです。

象徴天皇制はある意味、天皇をもとの立ち位置に近づけたといえるでしょう。

天皇はお言葉を述べ、民を導くのがお役目のお方なのです。

民は天皇のために死ねなどという、教育勅語など復活させてはならないのです。

民は神に仕え神は民を守る、これが本来の神道です。

民が神にささげるべきは、感謝であって自らの命ではないのです。

神の大御心に殉じたための死はあっても、神のために死んではならないのです。

神は民を守るためにおられるのが、神道なのです。

神に随い神に倣う随神の道が、神道なのです。

だから民は神に随い神は民を守るのです。

随うべきは神の道であって、偶像ではないのです。

神の道から外れてしまった大日本帝国に神風など吹くはずはなかったのです。

神が守る相手は神が決めるのです。

だから大日本帝国は、守ってもらえる自分であろうとするべきだったのです。

日本は神の国と自覚し神の御心に背かぬよう言動を慎むならいいが、高慢になってはならなかったのです。

神の道に随う教えに忠実ならば、高慢はあってはならないのです。

高慢に日本を堕落させた大日本帝国は、断じて復活させてはならないのです。

神道に教義がないのではありません。

随神の道(かんながらのみち)という名前に、神道の教えのすべてが込められているのです。

文書は失われたり改ざんされたりするのです。

人は完全ではないからです。

だから神道は、あえて教義を文面にあらわさなかったのです。

神に尋ねるべきなのです。

| | コメント (0)

大嘗祭

大嘗祭では、わざわざ内部の作りが同じ悠紀殿と主基殿が作られます。

悠紀殿と主基殿は簡素な材料で質素に作られ、古い時代の神社の形はこうであっただろうと連想出来ます。

大嘗祭で見落とされがちなのは、悠紀殿と主基殿が大社造りな事です。

大社造りと言えば、大国主命を祀る出雲大社の様式ですね。

しかも、それが二つ並べて作られ、それぞれの千木が内そぎの女千木と外そぎの男千木なのです。

女千木と男千木、つまりこれは陰陽を意識して悠紀殿と主基殿が作られていると言う事なのです。

具体的には、東西南北、上旬下旬、春夏秋冬、午前午後、前後左右、などを表し森羅万象をつかさどる八百万の神々を表しているのです。

森羅万象の八百万の神々と天皇が会食する儀式が、大嘗祭なのです。

天皇が悠紀殿と主基殿で神々と会食するのは大社造りの本殿に当たる場、伊勢神宮の方角に向かって神々と会食するのが大嘗祭なのです。

天皇の神々と会食をする場所の傍らには、寝座があります。

寝座はさまざまな憶測を生んでいるけれども、寝座は神座に通じ、この空間が神の場である事を示しているのです。

神道は基本的に偶像は作らない、そこで何らかの象徴で暗示するわけです。

霊の世界に入る事は、しばしば眠りに例えられます。

安らかにお眠りくださいなども、その一例ですよね。

それで寝座は、神座ともなるわけです。

新嘗祭も収穫を喜ぶ天皇と神々の会食だが、大嘗祭は新任天皇が神々と初顔合わせする儀式のようなものと言えるのではないでしょうか。

もちろんシンボルだから、他の解釈もあり得るでしょうけども。

なお天皇が神社をかたどった悠紀殿と主基殿の本殿にあたる場で神々と会食出来るのは、天皇が祭司それも最高祭司だからなのです。

大嘗祭とは、最高祭司としての天皇の座にこれから就く際の神々に対する就任パーティーのようなものではないでしょうか。

| | コメント (0)

御所と太陽の船?

京都御所の紫宸殿、内部は一間で天井板は無く屋根裏は船底天井なのです。

これ、ひょっとしたら船を現すのでしょうか。

気になるのは皇祖天照大御神を祀る伊勢神宮に、御船代がある事なのです。

これ、偶然でしょうか

神社は、たいてい屋根は板葺です。

鳥居、拝殿、本殿、祀られるのは太陽神を頂点とした神々です。

まるで神社が、太陽神の船に見えて来ませんか。

神道と古代エジプトの似ているのは、太陽神を頂点に動物神を交えた三神構造で神々が祀られるところです。

日本の神社の配置は古代エジプトの神殿に似るが、神像が無く賽銭箱がある点が違うだけなのです。

ファラオも天皇も、太陽神の末裔とされるのでしたね。

紫宸殿は右近の橘と左近の桜の背後にあり、一番奥に玉座の高御座、この構図は神社に似てないでしょうか。

紫宸殿の前の右近の橘と左近の桜は、鳥居に見立てても良いのでないでしょうか。

そうなると気になるのは、紫宸殿は大きな一間の船底天井の内部に拝殿と本殿が配されるのはなぜかなのです。

紫宸殿は、太陽の船を現すのではないでしょうか。

菊花紋の正体は、古代中東の太陽神紋でありアクエンアテンが復活させようとしたアテンなのでしょうか。

古代エジプトでとん挫したアテン信仰を、古代エジプトの神話大系でカモフラージュしたのが日本の神話の神々だったのでしょうか。

もっと探索が必要なのは、確かですけどね。

古代エジプトとの奇妙な類似、これが指し示すのはなになのでしょう。

天孫一族の正体は、亡命してきたファラオの一族だったのでしょうか。

| | コメント (0)

藪医者とはどのような呪術を用いた人達だったのか。

なぜ、少しの風邪でも大袈裟に騒ぐ医者を藪医者と呼ぶのでしょう。

実は「藪医者」は「野巫医者」とも書き、占い、呪術、まじないや悪霊祓いなどを職業とする霊能者の医者であったようです。

下手な医者を意味する言葉になってしまった藪医者だけど、その昔は人々から絶大な人気と信頼を勝ち取っていた呪術医であったはずです。

ちなみに藪医者をねこ医者と呼ぶ地域もあるようですが、「禰子(ねこ)医者」と本来は呼ばれていたのでしょう。

薬を扱っていたからか、「猫薬師」とか「猫の薬師」と呼ばれていた地域もあります。

禰子とは、神職の家系に属する人達をさす言葉です。

元々の意味が忘れられて「猫医者」と勘違いされることもあるようです。

呪術医(じゅじゅつい)は呪医(じゅい)とも言い、医療専従者のうち医療効果の根拠を超自然的なものに求めるもの、もしくは周囲の人間によって超自然的な根拠によって治療する能力があるとされる人々のことです。

民俗学や文化人類学では、シャーマニズムによるシャーマンドクター(shaman doctor)やウィッチドクター(witch doctor)とも呼ばれます。

彼らはなぜ呪術で治せるかと言えば、誰もが呪術医に絶大な信頼を寄せるからです。

ではどうして野巫医者は、ちょっとの風邪でも大袈裟に叫ぶと呼ばれるようになってしまったのでしょう。

呪術医は病名の診断にトランスや占いを行ったり、治療に際して治療儀礼を施すことがあるからです。

周囲から絶対的な信頼を寄せられているうちは、トランスや治療儀礼は当然なこととして受け入れられていたでしょう。

薬師と呼ばれていた人達も、薬は補助的な手段で治療の中心は呪術だったのかも知れません。

呪術による治療は、人々の信仰が前提となります。

イエスがよく口にしていた言葉があります。

「あなたの信仰があなたを救った」

呪術医しか頼れない時代、人々は信仰が強かろうが弱かろうが皆、禰子医者にお世話になったのでしょう。

だが仏教とともに、信仰の有無や程度を問わずに治してくれる生薬や漢方薬を用いる薬師が来ました。

苦しい時の神頼みや苦しい時のだけの神頼みの人が多いのは、今も昔も大して変わらなかったのでしょう。

いちいち信仰の有無や強さが問われる禰子医者や禰子薬師より、誰でも治してくれる仏師の医者や薬師の方に人々は流れて行ってしまいました。

貧乏でやむを得ない人がたいして信仰もないのにかかっても、禰子医者や禰子薬師の効き目は薄かった事でしょう。

やがて神域であった草深い所にいたこともあって別名として藪医者と呼ばれていた禰子医者や禰子薬師は、下手な医者の代名詞となってしまったのかもしれません。

西洋の魔女のように伝統的な薬の知識をもって治療していたなら今日でも残れたであろう禰子医者や禰子薬師は、不名誉な名前に転落した藪医者としてだけ人々の記憶に残っているのでしょう。

どのような呪術を用いていた集団だったのか、歴史研究に興味があるものとしては多いに興味があります。

アジア各地に残っている呪術医に近かったのでしょうか。

それとも他の地域の呪術医に近かったのでしょうか。

少しでも情報が欲しい所です。

| | コメント (0)

なぜ、卑弥呼と邪馬台国が日本の史書にないのか?

なぜ、卑弥呼と邪馬台国が日本の史書にないのでしょうか。

中国は意味よりも音を優先させて、自らの史書に記したことは多いにあり得ることなのに、日本の史家は日中の発音の差を無視しまくっているのではないでしょうか。

「日本」は中国語の発音では「リーペン」、当然ながら「巫女」も中国人が言えば発音が変わるはずです。 「日巫女」を中国人が言いやすいように音訳したのが、「卑弥呼」なのでしょう。
「邪馬台」国は音の近さから「ヤマト」国であろうとされてきたが、類推の範囲をでなかったのです。 言語学研究の到達点からやむを得なかったと言えるが、昔と今では到達点が違います。 古代の日本語は、二重母音であったことが、明らかになっています。 「邪馬台国」も「卑弥呼」も、中国人は当時の日本人の発音に近い中国語の文字を探して音訳したと考えるのが、自然なはずです。 「大和(ヤマト)」も当時の日本は二重母音なので強いて言えば「ヤマタィ」に聞こえてもおかしくないから、「邪馬台」国と中国人聞こえてその通りに記したとみる方が自然なのです。
「日巫女」は役職名なので、それを担当したと思われる女性を探せば良いのではないでしょうか。
太陽神の言葉を地上に取り次ぐ巫女である「日巫女」に就任できるのは、一人だけだったことでしょう。 中国人が「日巫女」を個人の名と取り違えても、無理はなかったでしょう。
当時の日本は「日巫女」空位の混乱を、トヨの「日巫女」就任によって収拾したと見ても良いでしょう。 「邪馬台国」も「卑弥呼」も、「大和国」や「日巫女」を中国人が呼びやすいように音訳した名前なので、真に受けて探すだけ時間の無駄なのです。 日本はもっと、歴史的な研究や考察を学際的に行うことが、当たり前になって欲しいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

やはり日本の神社はただものではない?!

日本の神社は古代イスラエルの神殿とは、構造、神職の衣装、参拝法があまりにも似ているとは指摘されます。

 

だが、ここに驚くべき記録があります。

 

その一部を紹介します。

 

毎日新聞 2004521

 「明治神宮の森にキリスト教の賛美歌 創建以来初」

 

明治神宮の森に21日、創建以来初めてキリスト教の賛美歌が響きわたった。

米国ブリガム・ヤング大ハワイ校の合唱団50人が奉納した。

アロハシャツ姿で神道の儀礼に従ってお祓いをし、学長夫妻らが本殿で玉串をささげた。

団員は中庭で2拝2拍手1拝して2曲を歌い、参拝客も驚いて足を止めた。

2年前、明治神宮の関係者が、同校を経営する教会の視察に訪れ、交流が深まった。

外山勝志宮司は「歌をささげることは世界平和を祈ることと同じです」と述べた。

 

産経新聞 2007430

 「書評」

 

末日聖徒イエス・キリスト教会の十二使徒定員会会員、ヘンリー・B・アイリング長老が、4月26日に明治神宮を表敬訪問した。

教会の十二使徒が公式に明治神宮を表敬訪問をしたのは、教会歴史の中で初めてのことだ。

アイリング長老は七十人定員会会長のD・トッド・クリストファーソン長老、アジア北地域会長のデビッド・F・エバンズ長老と共に、明治神宮の外山勝志宮司と会談を行った。

会談に先立ち、アジア北地域会長会夫妻、日本、韓国、ミクロネシアのすべての伝道部会長夫妻、日本宣教師訓練センター所長夫妻らが共に参詣した。

明治神宮側より歓待された一行は、明治神宮の歴史に触れ、神楽を鑑賞し、日本文化を学ぶ機会を持った。

 

そして、当の明治神宮の公式ホームページは、こう記します。

 

20.3.1更新

 

218日、アメリカ・ソルトレイクからモルモン教十二使徒・オークス氏が表敬されました。

 

お祓いを受けた後、内拝殿で玉串を捧げて正式参拝。

 

その後、巫女による神楽「倭舞(やまとまい)」を観賞し、神道文化に触れられました。」

 

末日聖徒イエス・キリスト教会は、自らをイエスキリスト時代の教会が回復されたとしています。

 

自らをイエスキリスト時代の教会が回復された組織と位置付けている末日聖徒イエス・キリスト教会の指導者達が、明治神宮でお祓いを受けた後、内拝殿で玉串を捧げて正式参拝と言う滅茶苦茶大変なことをしたのです。

 

末日聖徒イエス・キリスト教会は、現代の生ける預言者である大管長に導かれた教会であるといいます。

 

末日聖徒イエス・キリスト教会、初代大管長ジョセフスミスは御父と御子から直々に教会の組織をするように召されたといいます。

 

その教会の指導者達が、明治神宮でお祓いを受けた後、内拝殿で玉串を捧げて正式参拝したのです。

 

日本の神社は、二本の柱が立つ鳥居、一般の参拝所、拝殿、本殿からなります。

 

古代イスラエルの神殿は、二本の柱、一般の参拝所、聖所、至聖所からなります。

 

どちらも、神職は房の付いた衣装を着て木の枝を参拝に用います。

 

清めに塩を用います。

 

古代イスラエルの神殿には契約の聖櫃アークがありましたが、日本の神社にある神輿はアークにあまりにも似ています。

 

聖書の教えも神道も、神の道を説きます。

 

世界の始まりを、神道は三柱の神からといい、聖書は御父と御子と聖霊のお三方と言います。

 

現世にかかわる神を、神道は太陽神である天照大御神とし、キリスト教はイエスとするが義の太陽として太陽神的な扱いです。

 

面白いことに女神天照大御神に対して男伸天照国輝彦こそが、本来の太陽神であったという指摘があります。

女神天照大御神は、男伸天照国輝彦の巫女であったのかもしれません。

 

あまりにも似ている神道とキリスト教、あまりにも似ている神社と古代イスラエルの神殿、その日本の神社でイエスの時代の教会を復活したという教会の指導者達が玉串を捧げて正式参拝、榊を聖書の時代のヒソブの代わりとして正式参拝したというのです。

 

明治神宮で正式参拝した末日聖徒イエス・キリスト教会の指導者達は、日本の神社を古代イスラエルの神殿の代わりに使って差し支えないと宣言したに等しい行為なのです。

 

これ、ある意味、日ユ同祖論より強烈なメッセージです。

 

自らをイエスキリスト時代の教会が回復された組織と位置付けている末日聖徒イエス・キリスト教会の指導者達が、日本の神社はイエス・キリストの神殿と事実上認定したに等しいのです。

 

神輿は契約の聖櫃アークのレプリカと見ても差し支えないと、宣言したに等しいのです。

 

神社の神職は古代イスラエルの神殿で仕えていた神職と見ても差し支えないと、宣言したに等しいのです。

 

そして末日聖徒イエス・キリスト教会の指導者達は、やがて日本に大いなる時がくると預言しているのです。

 

えらいことになりました。

 

全国に何万とある神社が、キリスト教の神殿扱いですよ。

 

しかも、古い時代神仏習合であったことを思えば、思いがけない寺社がある日突然ってことも考えておいたほうがいいかもしれません。

 

古い寺にはしばしば神仏習合時代の名残りがあります。

 

これから先、何が起こるかわかりませんよ。

 

キリスト教には日本布教の初期、イエスを大日になぞらえようとして、大日が皇祖神天照大御神と習合しているので慌てて撤回した過去がありますから。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

神社の境内はだてに広くなかった。

古くからの神社は、たいていその地域で最も安定的な地盤に建てられています。
 
つまりその境内は、災害時の一時避難場所として最適だったはずなのです。
 

本来の広さの境内が保たれていたら、一体どれだけの人達の避難場所になったでしょうね。

借り受けて避難場所や公園の維持管理費として、最低限の費用で確保されていたらとため息が出るのです。
 
神社の祭りや日々の参拝は、ある意味日常的な避難場所への避難経路の確認にもなっていたはずです。
 
災害時人々は我先に神社に集ってご加護を求めて祈った事でしょう。
 
それは結果として、災害時の避難行動にもなっていたはずです。
 
神のご加護やご利益の多くは、経験的知識の応用や活用の演出だったのです。
 
つまり、神社の信徒獲得と引き留めに活用や応用されていた経験的知識は、神がいたから非科学的に見えてきただけと言えます。
 
古くからの神社の境内はだてに広かったのではないです。
 
神社は災害時の避難施設として多くの命を救ってきたのです。
 
人々はそれを神のご加護として心から感謝し、その広さの維持を認めてきたのです。
 
今の避難場所確保の苦労は、避難場所としての神社の価値を軽く見てきたつけを払っていると言えなくもない気がするのです。
 
今のご時世、あれだけの土地をあれだけの安全性の高い場所に再び確保するのは不可能に近いでしょう。
 
当時の人々がそのことに気が付けていなかったことは、今思えば実にもったいないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧