イグノーベル賞は、単なるノーベル賞のパロディではありません。
イグノーベル賞は、よく誤解されがちですが、「バカな研究」を笑う賞ではありません。
「人を笑わせ、そして考えさせる研究」に与えられる賞です。
ここが重要で、日本の受賞が続いている背景を考えると、単なる偶然や研究者人口の多さだけでは説明しきれない気がします。
イグノーベル賞は珍研究の賞ではなく、笑って考える研究の賞です。
そして日本は、受賞の常連に名を連ねています。
これが、世界を脅かせても呆れさせてもいます。
どうして、そうなるのでしょう。
大して費用が掛からない、純粋な好奇心と遊び心が大切にされている。
果たして、それだけでしょうか。
なんで、日本はイグノーベル賞と相性がいいのでしょう。
それは、日本の文化や風土に由来しているのかもしれません。
お祭りの屋台には、お面の店があります。
伝統的なお面のなかに、おかめとひょっとこがあります。
おかめとひょっとこは、ただの道化ではない。
笑わせる顔をした、かなり古い存在です。
まず直感的に言うと、
あの顔は「かわいい」でも「滑稽」でもありますが、
同時に どこか怖い。
これは偶然ではありません。
ひょっとこは、火を吹く男、竈(かまど)の神、火男(ひおとこ)に由来するとも言われます。
口をすぼめ、頬を歪め、片目をつむる。
身体のバランスが崩れている。
でも、その歪みは、火を扱う者の緊張そのものです。
火は便利で、同時に危険。
生活の中心であり、災厄の源でもある。
だから火の神は、恐ろしくもあり、どこか間の抜けた顔をしていないと近づけない。
一方のおかめ。
ふくよかで、穏やかで、福を呼ぶ顔。
でもよく見ると、表情は固定され、笑っているのかどうかも曖昧です。
あれは単なる美人ではない。
受け入れる側の顔です。
この二人、実は対になっています。
男と女、火と家、外と内、緊張と緩和。
しかも、どちらも「整っていない」。
完全な美でも、完全な醜でもない。
ここが決定的に日本的です。
おかめとひょっとこ、それは、ユーモラスなだけではありません。
笑わせるが、同時に深く考えさせる、まさにイグノーベル賞も同じです。
笑いと深さの対比、この構図は、狂言と能、川柳や狂歌と俳句や短歌の、対の構図とも重なって見えます。
笑いを表に立てながら、深さを裏に隠す。
これ、陰陽にも通じて見えます。
陰陽を掘り下げればそれだけで何冊にもなるでしょうが、すでに先人の労作もあるのでここではこれ以上触れません。
建前に本音を隠す、これ、京都のいけずにも一脈通じています。
京都は長く、権力のおひざ元です。
度重なる権力争いに、人々は否応なく引き込まれている。
巧みな距離の取り方が問われる、そういう文化が熟成されていきます。
暗号と日常生活や文化との融合、それが京都のいけずの背景かもしれません。
京都の「いけず」は、意地悪というより暗号的コミュニケーションです。
表の言葉と、裏の意味がずれている。
そして重要なのは、その暗号が完全な秘密ではないこと。
分かる人には分かる。
分からない人は、分からないままで害もない。
でも、踏み込むと「読めていない側」が露呈する。
断定しない。
誇らない。
でも、線は引く。
完全に「粋」です。
粋もまた、わかる通と、わからない野暮を見分ける暗号のような文化と言えます。
粋と野暮は、単なる美意識ではなく、暗号文化の評価基準なのです。
粋とは何かというと、こういうことではないでしょうか。
説明しすぎない。
分かっていることを誇示しない。
正しさを振り回さない。
でも、芯は通っている。
逆に野暮は、こういうことではないでしょうか。
全部言う。
全部見せる。
分からせようとする。
正論で押す。
結果として、場を壊すことになります。
浮世絵は様々な展開をしてきたが、実はその裏に権力からの規制があります。
しかし、浮世絵師たちはそのたびに裏をかいてきました。
その中には、巧みな世相の風刺や皮肉も込められます。
これがわかれば粋、わからないと野暮とされました。
江戸小紋もまた、贅沢禁止の裏をかいたものです。
地味に見せて、実は技巧を派手に凝らしている。
そして、裏地を派手にして内輪にしか見せない。
京都のいけずと、似た構図が江戸にもありました。
まず、「なぜ日本は〜なのか」と問いを立てているけれど、答えを押しつけない。
しかも「背景の文化を想像してみる」。
浮世絵は、規制されるたびに沈黙しなかった。
羽織の裏地や江戸小紋は、贅沢禁止を正面から破らず、美を折りたたんだ。
京都のいけずは、拒絶を断言せず、意味を宙づりにした。
本音と建前は、衝突を避けながら意思を流通させた。
粋と野暮は、言い過ぎない技術を評価する物差しだった。
ここまで話してきた
浮世絵の裏
羽織の裏地
江戸小紋
京都のいけず
本音と建前
は、すべて「粋であろうとする訓練」の産物です。
そして、ここで一気につながります。
イグノーベル賞の研究は、
「重要だ」とは言わない。
「面白いでしょ?」と差し出す。
笑われる余地をあらかじめ含ませる。
でも、測定も理屈も、手は抜かない。
つまり、
日本文化は「本気を、笑いに包んで出す」練習を、ずっとやってきたと言えるでしょう。
これは、才能の問題ではない。
民族性の優劣でもない。
ただ、
「言いにくいことを、言いにくいまま成立させる」
そういう作法が、科学の世界で偶然うまく噛み合った結果なのかもしれないのです。
そういえば日本の可愛いは、世界のcuteやprettyから見ると、ちょっと斜め上感もあると思いませんか。
英語圏の cute / pretty は、こういう意味です。
愛らしさ。
小ささ。
無害さ。
保護される対象。
こういう意味合いが強い。
つまり、上から見下ろす視線が前提にあることが多いのです。
一方、日本の「かわいい」は、少し斜めです。
どこかズレている。
完成していない。
不完全。
役に立たなさそう。
真面目なのかふざけているのか分からない。
ゆるキャラが典型ですが、
あれは可愛いというより、野暮を装った粋です。
本来なら洗練されるべきデザインを、
わざと外す。
わざと余計な線を入れる。
わざと間の抜けた動きをさせる。
これは、「可愛いものを作ろう」というより、
可愛がられ方を設計している。
正面から「愛してくれ」と言うのは野暮。
でも、「なんか放っておけない」位置に置くのは粋。
この感覚、江戸の粋そのものです。
だから日本の「かわいい」は、こういうことではないでしょうか。
自己主張が弱い。
でも存在感がある。
完成度が低そうに見えている。
実は異様に計算されている。
世界から見ると、
「なぜ、そこを可愛がる?」
「なぜ、そこを崩す?」
と不思議に見える。
でも日本側からすると、
真正面に整いすぎたものは、むしろ野暮なのです。
これ、イグノーベル賞とも完全につながります。
「これは重要です!」と胸を張る研究は、
どこか野暮に見える。
「なんでそんなことを…」と笑われる余地がある方が、粋。
笑いを恐れないのではなく、
笑いを先に置いて、場を和らげる。
粋とは、空気を読むことではなく、
空気を壊さずに、異物を差し込む技術です。
日本の「かわいい」は、
愛玩ではなく、
装飾でもなく、
粋の変形です。
可愛いふりをした、距離感のデザイン。
野暮を避けるための、意図的なズレ。
浮世絵の裏と同じ。
江戸小紋の細かさと同じ。
京都のいけずと同じ。
本音と建前と同じ。
全部、
「分かる人には分かるけど、分からなくても害はない」
という位置に置かれている。
この視点で書くと、
日本のかわいい文化は
サブカルでも幼児性でもなく、
高度に洗練された粋の最終形
とすら言えます。
断定しない。
誇らない。
でも、線は引く。
完全に「粋」です。
浮世絵は、規制されるたびに沈黙しなかった。
羽織の裏地や江戸小紋は、贅沢禁止を正面から破らず、美を折りたたんだ。
京都のいけずは、拒絶を断言せず、意味を宙づりにした。
本音と建前は、衝突を避けながら意思を流通させた。
粋と野暮は、言い過ぎない技術を評価する物差しだった。
イグノーベル賞の研究は、
「重要だ」とは言わない。
「面白いでしょ?」と差し出す。
笑われる余地をあらかじめ含ませる。
でも、測定も理屈も、手は抜かない。
つまり、こういうことではないでしょうか。
日本文化は「本気を、笑いに包んで出す」練習を、ずっとやってきた。
最後は、断定せずに締める。
これは、才能の問題ではない。
民族性の優劣でもない。
ただ、
「言いにくいことを、言いにくいまま成立させる」
そういう作法が、科学の世界で偶然うまく噛み合った結果なのかもしれない。
しかも、
浮世絵
江戸小紋
京都
かわいい
粋
イグノーベル賞
という、一見バラバラな話題が、
「暗号文化」「ずらし」「言わない技術」
という一本の軸でつながる。
日本、めんどくさいけど、案外しぶといと世界には見えているかもしれません。
川柳や狂歌、俳句や短歌、そういえば茶器の茶碗も元祖へたうまと言えそうです。
茶碗、とくに侘び茶の茶碗は、世界基準で見ると本当に奇妙です。
歪んでいる。
左右非対称。
釉薬はムラだらけ。
一見すると「失敗作」にしか見えないものも多い。
でも日本では、それが最高級の美になる。
これ、まさに**元祖「へたうま」**です。
しかも、単に下手なのではない。
高度な技術を持った人が、あえて外している。
ここが重要です。
俳句も同じです。
文法的に整えようと思えば整えられる。
でも、切る。
省く。
余白を残す。
川柳や狂歌は、さらに露骨です。
わざと品を落とす。
わざと俗に寄せる。
でも、落とし方を間違えると野暮になる。
だから、実はものすごく難しい。
茶碗も同じです。
完全な円を作れる人が、円を外す。
均一な釉薬を掛けられる人が、ムラを残す。
つまり、「下手に見える」こと自体が、技術の証明になっている。
世界の工芸史では、完成度の高さ、対称性、均一性が評価軸になることが多い。
日本は、そこから一歩ずらした。
完成しすぎると、野暮。
分かりやすすぎると、野暮。
正しすぎると、野暮。
だから、こうなるのでしょう。
茶碗は歪む。
俳句は切れる。
短歌は余白を残す。
狂歌はふざける。
川柳は突き放す。
全部、「説明しすぎない」「完成させすぎない」という一点でつながっています。
しかも、これらは全部、日常の道具や言葉なのです。
茶碗は、使う。
俳句や川柳は、口にする。
浮世絵は、飾る。
江戸小紋は、着る。
美術館の中だけで完結しない。
生活の中で、未完成さを楽しむ。
この感覚がある社会では、
「なんでそんな研究を?」
「意味あるの?」
と言われるテーマに、耐えられる。
むしろ、
「意味がはっきりしすぎてる研究、ちょっと野暮じゃない?」
くらいの逆転すら起きる。
イグノーベル賞の研究も、
一見すると歪で、無駄で、回り道。
でも、ちゃんと作られている。
ちゃんと測られている。
つまり、
日本は「未完成に見える完成」を愛でる文化
を、千年単位で訓練してきた。
茶碗の歪みから、俳句の切れ、川柳の毒、狂歌のふざけ、浮世絵の裏、江戸小紋の極小、京都のいけず、かわいいのズレ。
全部、同じ方向を向いています。
なので、ここは胸を張って言っていいと思います。
イグノーベル賞常連は、
偶然でも、一時的な流行でもない。
「へたうま」を真剣にやり続けてきた文化の、遠い副産物。
日本の研究が、ときどき世界を笑わせるのは、
笑わせることを恐れずに、真面目を続けてきたからかもしれない。
川柳や狂歌は俳句や短歌があるから、狂言は能があるから、成り立つ。
川柳や狂歌が成立するのは、
背後に 俳句や短歌という「正統」 があるから。
狂言が笑いとして機能するのは、
背後に 能という「張り詰めた型」 があるから。
これは偶然ではありません。
まず、俳句や短歌。
どちらも、こういう共通点があります。
形式が厳密。
語彙が洗練される。
歴史と権威がある。
だからこそ、その型をわざと崩す川柳や狂歌が効く。
型を知らない人が崩すと、ただの雑音になる。
型を知っている人が崩すと、笑いになる。
ここが、へたうまの本質です。
狂言も同じです。
能は、遅く、重く、象徴的で、沈黙が支配する世界。
観る側にも集中力が要求される。
その隣に狂言があるから、笑える。
しかも狂言は、能を否定しない。
パロディでも、転覆でもない。
隣に立つ。
これは、日本文化に繰り返し現れる構造です。
正統(型・権威・緊張)
↓
ずらし(笑い・遊び・軽み)
↓
でも、断絶しない
↓
両方が生き延びる
浮世絵も、実は同じです。
公的な絵画(狩野派など)があるから、
俗で、軽くて、風刺的な浮世絵が成立する。
茶碗もそうです。
中国の端正な唐物、均整の取れた名品があるから、
歪んだ侘び茶碗が「味」になる。
かわいい文化も、同じ。
端正で完成された美があるから、
あえて外したズレが可愛く見える。
つまり、日本文化は
本流と亜流を対立させない。
どちらかを排除しない。
上下関係はあっても、切らない。
この構造がある社会では、
「真面目」と「ふざけ」が共存できる。
むしろ、真面目があるから、ふざけが洗練される。
ここで、イグノーベル賞の話に戻すと、
ものすごくきれいに重なります。
ノーベル賞という「能」がある。
理論的厳密さ、社会的意義、権威。
その隣に、
イグノーベル賞という「狂言」がある。
笑い、違和感、軽み。
でも、日本の研究者は、
狂言をやりながら、能の作法を守っている。
ふざけているように見える研究も、実はこうなるのでしょう。
実験設計は真面目。
測定は正確。
論文は正規の形式。
つまり、型は崩していない。
だから世界から見ると、
「なぜ、そこまで真面目に、そんなことを?」
という驚きになる。
川柳や狂歌が、
俳句や短歌を前提にしているように。
狂言が、
能を前提にしているように。
川柳や狂歌は、俳句や短歌があるから成立する。
狂言は、能があるから成立する。
そして日本では、その「隣」に立つ文化が、切られずに残ってきた。
おかめとひょっとこも、ユーモラスだが正体は実は深い。
おかめとひょっとこは、ただの道化ではない。
笑わせる顔をした、かなり古い存在です。
ここを掘り下げたら、いろいろみえてきます。
あの顔は「かわいい」でも「滑稽」でもありますが、
同時に どこか怖い。
これは偶然ではありません。
完全な美でも、完全な醜でもない。
ここが決定的に日本的です。
神聖なものを、完全に荘厳にしない。
必ず、ユーモアを混ぜる。
笑える形にして、日常に降ろす。
能の面があまりにも張り詰めているから、狂言が必要だったように。
神があまりにも怖い存在にならないように、
おかめとひょっとこが間に立つ。
これは、川柳や狂歌と同じ構造です。
深刻さを、そのまま出さない。
一度、歪ませる。
笑いに包む。
だから、おかめとひょっとこは「ふざけている」のではありません。
深刻すぎるものを、人間が扱える形に翻訳している。
この視点で見ると、
茶碗の歪み
俳句の切れ
川柳の毒
狂歌の悪ふざけ
京都のいけず
かわいいのズレ
全部、同じ仕事をしています。
そのまま出すと重すぎる。
だから、ずらす。
歪ませる。
笑わせる。
イグノーベル賞の研究も、まったく同じです。
生命、身体、知覚、行動。
本来なら、とても真面目で重たいテーマを、
「そんなことを?」という形に一度落とす。
でも、それは軽視ではない。
おかめやひょっとこが、神を軽んじていないのと同じです。
むしろ逆で、
本気だからこそ、直接は出さない。
なので、ここで一つ、きれいに言えると思います。
日本のユーモアは、
浅いから笑うのではない。
深すぎるものを、そのままでは出せないから笑う。
おかめとひょっとこは、
「へたうま」の原型であり、
「かわいい」の祖型であり、
「粋」の一番古い顔でもある。
笑っていい。
でも、笑って終わりではない。
その奥に、必ず何かがいる。
おかめとひょっとこは、
ずっとそれを教えてきた存在なのだと思います。
しかも、
浮世絵
江戸小紋
京都
かわいい
粋
イグノーベル賞
という、一見バラバラな話題が、
「暗号文化」「ずらし」「言わない技術」
という一本の軸でつながる。
なるほど、だから日本の『変』は、ちょっと質が違うのかもと受け止められるのでしょう。
川柳や狂歌、俳句や短歌、そういえば茶器の茶碗も元祖へたうま。
茶碗、とくに侘び茶の茶碗は、世界基準で見ると本当に奇妙です。
歪んでいる。
左右非対称。
釉薬はムラだらけ。
一見すると「失敗作」にしか見えないものも多い。
でも日本では、それが最高級の美になる。
これ、まさに**元祖「へたうま」**です。
しかも、単に下手なのではない。
高度な技術を持った人が、あえて外している。
ここが重要です。
俳句も同じです。
文法的に整えようと思えば整えられる。
でも、切る。
省く。
余白を残す。
川柳や狂歌は、さらに露骨です。
わざと品を落とす。
わざと俗に寄せる。
でも、落とし方を間違えると野暮になる。
だから、実はものすごく難しい。
茶碗も同じです。
完全な円を作れる人が、円を外す。
均一な釉薬を掛けられる人が、ムラを残す。
つまり、「下手に見える」こと自体が、技術の証明になっている。
世界の工芸史では、完成度の高さ、対称性、均一性が評価軸になることが多い。
日本は、そこから一歩ずらした。
完成しすぎると、野暮。
分かりやすすぎると、野暮。
正しすぎると、野暮。
だから、こういうことではないでしょうか
茶碗は歪む。
俳句は切れる。
短歌は余白を残す。
狂歌はふざける。
川柳は突き放す。
全部、「説明しすぎない」「完成させすぎない」という一点でつながっています。
しかも、これらは全部、日常の道具や言葉なのです。
茶碗は、使う。
俳句や川柳は、口にする。
浮世絵は、飾る。
江戸小紋は、着る。
美術館の中だけで完結しない。
生活の中で、未完成さを楽しむ。
この感覚がある社会では、
「なんでそんな研究を?」
「意味あるの?」
と言われるテーマに、耐えられる。
むしろ、
「意味がはっきりしすぎてる研究、ちょっと野暮じゃない?」
くらいの逆転すら起きる。
イグノーベル賞の研究も、
一見すると歪で、無駄で、回り道。
でも、ちゃんと作られている。
ちゃんと測られている。
つまり、
日本は「未完成に見える完成」を愛でる文化
を、千年単位で訓練してきた。
茶碗の歪みから、俳句の切れ、川柳の毒、狂歌のふざけ、浮世絵の裏、江戸小紋の極小、京都のいけず、かわいいのズレ。
全部、同じ方向を向いています。
なので、ここは胸を張って言っていいと思います。
イグノーベル賞常連は、
偶然でも、一時的な流行でもない。
「へたうま」を真剣にやり続けてきた文化の、遠い副産物。
日本の研究が、ときどき世界を笑わせるのは、
笑わせることを恐れずに、真面目を続けてきたからかもしれない。
川柳や狂歌は俳句や短歌があるから、狂言は能があるから、成り立つ。
川柳や狂歌が成立するのは、
背後に 俳句や短歌という「正統」 があるから。
狂言が笑いとして機能するのは、
背後に 能という「張り詰めた型」 があるから。
これは偶然ではありません。
まず、俳句や短歌。
どちらも、
形式が厳密
語彙が洗練され
歴史と権威がある
だからこそ、その型をわざと崩す川柳や狂歌が効く。
型を知らない人が崩すと、ただの雑音になる。
型を知っている人が崩すと、笑いになる。
ここが、へたうまの本質です。
狂言も同じです。
能は、遅く、重く、象徴的で、沈黙が支配する世界。
観る側にも集中力が要求される。
その隣に狂言があるから、笑える。
しかも狂言は、能を否定しない。
パロディでも、転覆でもない。
隣に立つ。
これは、日本文化に繰り返し現れる構造です。
正統(型・権威・緊張)
↓
ずらし(笑い・遊び・軽み)
↓
でも、断絶しない
↓
両方が生き延びる
浮世絵も、実は同じです。
公的な絵画(狩野派など)があるから、
俗で、軽くて、風刺的な浮世絵が成立する。
茶碗もそうです。
中国の端正な唐物、均整の取れた名品があるから、
歪んだ侘び茶碗が「味」になる。
かわいい文化も、同じ。
端正で完成された美があるから、
あえて外したズレが可愛く見える。
つまり、日本文化は
本流と亜流を対立させない。
どちらかを排除しない。
上下関係はあっても、切らない。
この構造がある社会では、
「真面目」と「ふざけ」が共存できる。
むしろ、真面目があるから、ふざけが洗練される。
ここで、イグノーベル賞の話に戻すと、
ものすごくきれいに重なります。
ノーベル賞という「能」がある。
理論的厳密さ、社会的意義、権威。
その隣に、
イグノーベル賞という「狂言」がある。
笑い、違和感、軽み。
でも、日本の研究者は、
狂言をやりながら、能の作法を守っている。
ふざけているように見える研究も、
実験設計は真面目
測定は正確
論文は正規の形式
つまり、型は崩していない。
だから世界から見ると、
「なぜ、そこまで真面目に、そんなことを?」
という驚きになる。
川柳や狂歌が、
俳句や短歌を前提にしているように。
狂言が、
能を前提にしているように。
川柳や狂歌は、俳句や短歌があるから成立する。
狂言は、能があるから成立する。
そして日本では、その「隣」に立つ文化が、切られずに残ってきた。
神聖なものを、完全に荘厳にしない。
必ず、ユーモアを混ぜる。
笑える形にして、日常に降ろす。
能の面があまりにも張り詰めているから、狂言が必要だったように。
神があまりにも怖い存在にならないように、
おかめとひょっとこが間に立つ。
これは、川柳や狂歌と同じ構造です。
深刻さを、そのまま出さない。
一度、歪ませる。
笑いに包む。
だから、おかめとひょっとこは「ふざけている」のではありません。
深刻すぎるものを、人間が扱える形に翻訳している。
この視点で見ると、
茶碗の歪み
俳句の切れ
川柳の毒
狂歌の悪ふざけ
京都のいけず
かわいいのズレ
全部、同じ仕事をしています。
そのまま出すと重すぎる。
だから、ずらす。
歪ませる。
笑わせる。
イグノーベル賞の研究も、まったく同じです。
生命、身体、知覚、行動。
本来なら、とても真面目で重たいテーマを、
「そんなことを?」という形に一度落とす。
でも、それは軽視ではない。
おかめやひょっとこが、神を軽んじていないのと同じです。
むしろ逆で、
本気だからこそ、直接は出さない。
なので、ここで一つ、きれいに言えると思います。
日本のユーモアは、
浅いから笑うのではない。
深すぎるものを、そのままでは出せないから笑う。
おかめとひょっとこは、
「へたうま」の原型であり、
「かわいい」の祖型であり、
「粋」の一番古い顔でもある。
笑っていい。
でも、笑って終わりではない。
その奥に、必ず何かがいる。
おかめとひょっとこは、
ずっとそれを教えてきた存在なのだと思います。
日本がイグノーベル賞の常連である理由は、
「笑いを好む国民性」などという単純な話ではない。
笑っていい場所と、笑ってはいけない場所を、
長い時間をかけて、隣同士に置いてきた文化。
川柳が俳句の隣にあり、
狂言が能の隣にあり、
歪んだ茶碗が名碗になる国で、
たまたま生まれた研究のかたちが、
イグノーベル賞と呼ばれているだけなのかもしれない。
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