言葉

粘り強く対話するのが平和への一番の近道だ。

アセアンとヨーロッパの差は、地域の大国と周辺諸国との歴史的な関係の違いがありそうだ。
アジアでは古代から地域の大国である中国と周辺諸国は華夷秩序が作られていたが、ヨーロッパでのロシアは祖国防衛の戦いを通じて大国になったので常に周辺諸国とは緊張関係があったのではないか。

中国の文化や文明は交流の中で育まれ、一定の基準ができたら今度は継承と発展の段階をたどっている。

それは王朝が交代しても続いているが、支配の正当性を主張する手段としてつかわれるからだ。

中原の文化的な優越が、やがて周辺諸国との華夷秩序となっている。

それに対して、ロシアの大国への道は覇権のためと言うよりは防衛線を少しでも遠方に設定することが目的になっている。

周辺諸国との距離を取ることが、安心と安全の確保につながるからだ。

それで、確保した地域の離反には常に警戒をすることになる。

何としてでも、獲得した地域は領土にとどめておきたいのだ。

その結果、これらの地域の動きには神経質にならざるを得ない。

ロシアが常に周辺諸国を軍事行動で威嚇や牽制をするのは、周辺諸国との信頼関係がちゃんと作られてこなかったからだ。
まずは、アセアンを見習って対話の習慣つくりを粘り強く進めるしかないのではないか。

相互の理解には時間がかかるのだから、まずは対話の習慣を根付かせる取り組みを粘り強く続けるしかない。
それには、敵意のないことを態度で示すしかない。
だから、握手やハグなどの挨拶のやり方が生まれたのだ。

まずは、周辺諸国の側からロシアとの信頼関係を築く根気強いアプローチが必要なのだ。

手始めに、ロシアの言い分にじっくりと耳を傾けるところから始めるしかない。

辛抱強く、ひたすら聞くのだ。

どうすればいいのか、ロシアが自分で気が付くまでね。

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社会主義や共産主義と労働時間と自由と民主主義とはどういう関係か。

社会主義や共産主義の実現のための運動は、生産を利潤追求から人々の必要を満たすための本来の姿に戻す新たなルネサンスなのです。

人々はそれによって利潤のための労働時間から解放され、自己実現のために使える時間を手に入れるのです。

資本家が共産主義を嫌うのは、利潤追求のために労働させる時間が減らされるからなのです。

資本家にとっての富の源泉は、賃金の支払いに必要な生産のために働く以上の余剰労働だからです。

賃金のために働くのは、必要労働です。

売上に占める利益とは、余剰労働によって生まれた富が目に見える金額となったものです。

社会主義や共産主義は労働時間は賃金のために働く時間で十分だというから、資本家にとってはけしからん思想であり運動なのです。

働くものは生産を利潤追求から本来の姿に戻すことで、自分たちの可能性を実現するために使える時間が手に入るのです。

いま日本では、賃金のための必要労働の時間は8時間労働のうちの半分以下なのです。

資本主義の下では、どんなに労働時間を短縮しても余剰労働の時間は残されます。

この余剰労働の時間で生産される生産物こそ、周期的に景気を変動させる元凶と言えるでしょう。

利潤追求のための生産はどうしても余分な製品と不況と失業を生むが、本来の人々の必要のために行われた生産は人々の求めるものだけが作られるので生み出すのは一人ひとりの自由な時間です。

基本的に生産活動は、人々の必要のために行われるからものだからです。

利潤追求のための生産は一方では飛躍的に科学や技術を発展させるけれども、他方では浪費を産み周期的な不況や大量な余剰生産物もまた生み出し失業も生み出すのです。

自由と民主主義と社会主義や共産主義の関係は、生産を本来の姿に戻そうとすれば人々は誰もが自由に自らの必要のために発言し行動できなければならないのです。

自由で民主的な条件の下で発言や行動がなされてこそ、本当に必要な生産物の量がわかるからです。

だから、自由と民主主義を社会主義や共産主義は目指すのです。

そして、労働の時間は抜本的に見直され大幅に短くなります。

そうしたら、人々は自らの能力と可能性をのびのびと花開かせる時間をたっぷりと手に入れられるのです。

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憲法について考えてみた。

憲法9条で国を守れるかと言う人がいるけど「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と世界に向かって公約している条項なのです。
公約を守らないと、逆に日本は世界から信頼を失うのです。

憲法と言うのは、私たちの国はこういう基本的な方針でいきますと国の内外に向けて宣言した公約なのです。
すべての公務員は憲法を守る義務があり、議員もその中に含まれます。

憲法改正をしている国があるというけど、基本的な内容は変えないで部分的な修正をしているだけです。
なぜかというと、法律に書けばいいことまで簡単に変えられないようにするために憲法に書いてしまったからなのです。
日本国憲法は、細かいことは法や政令にゆだねて基本的なことしか書いてないのです。

憲法にはこの国はこれを基本に据えますという内容を書くからこそ、どの国もそういうものとして憲法を作っているのです。
法律にすると時の権力の都合で簡単に変えられてしまうから、それでは困るものをまとめてあるのが憲法と言うこともできます。
基本法とも呼ばれるのは、このためなのです。

憲法は国をこういう方針で動かしますという基本だから、法律も政令も条例も政府のすべての決定は憲法にあっていないと無効とされます。
だから、違憲立法審査権を持つ機関として裁判所が機能を発揮しないといけないのです。
それを監視する権利と義務は、主権者である国民にあるのです。

政府の決定は国であれ地方であれ、憲法にあっていないといけません。
それを日常的にチェックする役目も、議会は持っているのです。
もちろん、国民の声を政治に反映するのが議会の一番の役割です。
だから憲法審査会はこれまで開かれてこなかったのです。
憲法審査会は、改憲のための議論の場だからです。

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神との和解について考える。


多くのキリスト教の宗派では、神との和解は大きなテーマの一つになっております。
それは、全ての人は禁断の木の実を食べたアダムとイブの子孫として二人の原罪を引き継いでいるとされるからです。

それでマリアのイエスの受胎は「無原罪のお宿り」として、キリスト教芸術の最大の主題の一つになっているのです。


誰が神に許されるのか、どうすれば神に許されるのか、多くの神学者が悩んできました。

誰もが新約聖書でイエスに「あなたの罪は許された」と言われた人達のように、神から「あなたの罪は許された」と言われたいからです。

しかし、神はそう簡単に「あなたの罪は許された」と仰って下さるわけではありません。
では、どうなさるかと言えば忘れて下さるのです。

アダムとイブは、禁断の実を食べたことを忘れて戴けたので皮の衣を頂戴しました。


私達にある罪は、私達自身の判断ミスによるのです。
アダムとイブによって私達は選択の自由を手にした結果、判断ミスを犯してしまう運命も背負っているからです。
御父に忘れて戴くのは、私達自分の判断ミスなのです。
私達は、失敗からたくさんの教訓を得るからなのです。

それでは、私達のミスを御父に忘れて戴くにはどうすればいいのかと言うことになります。
教訓を学ぶことが悔い改めとなるけれど、御父に忘れて戴くにはまだ不十分です。
悔い改めてさらに独り子であるイエスの執り成しを求めて、御父に祈るのです。

イエスの贖罪の死を私の贖罪として受け止めてくださいと、祈るのです。

言ってみれば、私達はみなイエスの贖罪を代わりに受け止めていただくたびに御父に借りを拵えているわけです。

自分の十字架を背負ってついてきなさいと言うのは、これからの全生涯をかけて返済する御父に対する借りを忘れることなくついてきなさいってことだったんですね。

それで疲れたら、イエスのくびきを自分の肩にかけて助けて頂きながらやり方をしっかり学んで少しずつ御父の目にかなう返済方法を覚えていきなさいというわけですね。

なるほど、私達に永遠の命があるわけだわ。
復活した後の体の話ですけどね。
限りのない時間をかけないと返済出来ない借りを、御父に作っちゃうわけだから。

イエスの名によって御父に祈るたびにね。

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神がいるなら、なぜ悪があるのか考えてみましょう。


『神がいるなら、なぜ悪があるのか――現代の神義論』と言うクラウス・フォン・シュトッシュの著作が、加納和寛の訳で出版されています。


「神がいるなら、なぜ悪があるのか」この問いかけは、世の多くの教会では「神義論」という未解決の議論とされているのです。
ではどうして、未解決の議論とされているのでしょう。
彼らは、なぜ神は悪の存在を認めているのかと言う根本的な問いでつまづいているからです。
創世記 1章 26節には、こうあります。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」

神は私達を自らの似姿として造られたとありますが、それは見た目だけではなく能力や可能性と言う点でも自らの似姿とされているのです。
なぜなら人が神の目にかなうようにあらゆるものを治めるには、神の目的を正しく理解している必要があるからです。

だから聖書には、「主イエスを着なさい」「真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい」「新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。」と繰り返されるのです。

私達には、何が善で何が悪か自分で理解でき判断できるようになるだけではなく、なぜ善でなぜ悪なのかも自分で理解でき判断できるようになるようにも求められているのです。

それは、神が私達に自分と同じ能力を身につけることを求めているからなのです。

悪がなければ、何が悪でありそれがなぜ悪なのかも知ることはできません。

だから神は、あえてサタンに堕落したルシファーの企みを許しておられるのです。

サタンの企みを逆手にとって、私達に神のような知恵と知識を授けようとしておられるのです。
そうでなければ、どうしてヨブ記のような記述が残されているのでしょう。
正しいものとされたヨブでさえ、神に対する理解を深めるためにサタンの試しをされているのです。
しかし人は、迷い悩み時として神の御心の真意を見失うのです。

神はそのような人の弱さを許したいので、救いの計画としてイエスの贖罪を用意しておられるのです。
人は誰でも神の目に罪とされることを犯してしまうけれど、イエスの十字架の贖罪を自らの贖いとして御父に許しを求めることができるのです。
人は失敗から多くを学んで、成長するからなのです。
多くの学びを重ね、精神的にも神の似姿に限りなく近づいていくように御父から期待されているのです。

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憲法第九条は、憲法の条文である以上国民が自国の政府に守らせるものである。 憲法第九条で国が守れるかと言う設問は、問題の立て方が間違っている。

日本国憲法の「前文」にはこうあります。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」したのでどう具体化するかを定めたのが、第九条です。
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
つまり、日本国の政府は「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」している日本国民の意思を具体化するために内政も外交もすることが主権者である国民から求められていると憲法に書かれているわけではないでしょうか。
憲法第九条で国が守れるかじゃなくて、主権者である国民はこれからも憲法第九条を内政や外交の原則として保っていくかどうかみんなで考えようと言うべきなのではないでしょうか。

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「迷惑をかけるな」と言う言葉を考えて見る。

あなたは「迷惑をかけるな」と言う言葉を、どういう意味で使っているだろうか。

もし、「甘えるな」という気持ちで言っているとしたらどういう場合に使っているだろうか。

「安易に頼るな」という気持ちで使っているなら、認識が足りない。

昔から言われる「迷惑をかけるな」と言うのは、治山治水などで技能不足で足を引っ張るなとか人から後ろ指刺されるまねをするなという事。

「村八分」が厳しい制裁になるのは、肩を寄会って互いに助け合っていなければ生きて行くのが容易ではないからだ。

だから「お陰様で」が、挨拶になるのだ。

誰もが、何らかの形で相互扶助のネットワークに繋がる。

つまり、誰かは誰かのお世話にどこかでなっている。

だから「お互い様」なのだ。

「迷惑をかけるな」とは、余計な負担をかけないように相手を気遣えと言う事。

「村八分」と「迷惑をかけるな」は、セットなのだ。

「迷惑をかけた」から、「村八分」になるのだ。

技能不足や後ろ指刺される事で迷惑をかけて、村八分になる。

技能は皆同じではないから、助け合って支え合って生きていく。

だから、助けは求めても良いが甘え上手になる必要があるのだ。

助けて欲しいなら、日頃から真面目に頑張っているとみんなに思われている方が良い。

そして、円滑な人間関係を持っている方が良い。

もし、まだ出来ていないならそういう関係を築こうと試みる方が良い。

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サタンは心の隙間に忍び寄る。

マタイによる福音書 16章
23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」
イエスは「必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに告げた。
ペテロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめた。
その時のイエスの返事が、この言葉だ。
ペテロはイエスの言葉の真意を思うよりも、あとに残される自分の事が心配になったのだ。
イエスは、なぜこの言葉を言ったのかこそ尋ねて欲しかったのだ。
ちなみに、サタンとは妨げるものの意味なのでイエスはペテロに邪魔をするなとたしなめた事になる。
サタンは期待させておいて、決定的な瞬間で裏切ることが多い。
この時のペテロが、まさにそうだったのだ。
人はしばしば、自分の事ばかり考えて他人の気持ちを理解できない。
それに気が付けたなら、この言葉を呟く方が良いかも知れない。
「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」

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G7参加のキリスト教国はなぜに神より核抑止力に頼る? Why do Christian nations participating in the G7 rely on nuclear deterrence rather than God?

サミット参加7カ国は、またしても核抑止力に頼る。

 

The seven countries participating in the summit will once again be dependent on nuclear deterrence.

 

だが、思い出して欲しい。

 

But remember.

 

7カ国のうちの6カ国は、自らをキリスト教国として位置付けているのではないだろうか。

 

Six of the seven countries may position themselves as Christian.

 

ならなぜ、平和のために核抑止力に頼るのだ。

 

So why do we rely on nuclear deterrence to achieve peace?

 

十戒の初めには、「私の他を神としてはならない」とある。

 

The beginning of the Ten Commandments says, "Thou shalt have no other god besides me."

 

そしてイエスは言う。

 

And Jesus says.

 

幼子のように天の御父を思うものが、御父の国に入るのだと。

 

He said that whoever thinks of the Heavenly Father as a little child thinks of its father will enter the Father's kingdom.

 

幼子のようにというのは、自らを無力であり親に頼らなければ何もできないと自覚すると言う意味である。

 

To be like an infant is to realize that without our Heavenly Father we are helpless, unable to do anything.

 

幼子のうちは、何をするにも親を頼るしかないので何かにつけて親に頼る。

 

As young children, they have no other means of doing anything but to rely on their parents, so they rely on their parents for anything.

 

出来る事が増えると、次第に親を頼らなくなる。

 

As they are able to do more, they gradually stop relying on their parents.

 

何でも自分でやれるし、何でも自分でやらなければならないと思い込むようになる。

 

They come to believe that they can do everything themselves and that they must do everything themselves.

 

それが成長する事であり、大人になる事だと思い込むようになる。

 

They come to believe that this is what growing up and becoming an adult is all about.

 

いつまでたっても親を頼るのは、恥ずかしく思い込むようになる。

 

They are ashamed to rely on their parents for any length of time and assume they cannot rely on their parents.

 

そして、他人に頼るのもまた恥ずかしく思い込むようになる。

 

And they also become ashamed to rely on others to help them.

 

だが、イエスは言う。

 

But Jesus says.

 

何歳になっても、自分でできないと感じるなら助けを求めても良いのだと。

 

He said that no matter how old you are, it's okay to ask for help if you feel you can't do it yourself.

 

そして、一番に頼るべきなのは天の御父なのだと。

 

And that it is our Heavenly Father to whom we should turn first.

 

わかっていないとか見えていないとか感じるなら、真っ先に天の御父に頼るべきであると。

 

He said that if we feel we don't understand or can't see, we should turn first to our Heavenly Father.

 

ならなぜ、神に頼らないのか。

 

Then why not turn to God?

 

イエスに自分には何が足りないのか尋ねた金持ちの若者が、財産をすべて貧しい人に与えて私について来なさいと言われたようになるのが怖いのか。

 

Are you afraid that you will be like the rich young man who asked Jesus what he lacked and was told to give all his wealth to the poor and follow me?

 

イエスは言う。

 

Jesus says.

 

人には出来ない事も神には出来る。

 

What man cannot do, God can do.

 

G7参加の欧米の6カ国よ、あなた方はキリスト教国ではないのか。

 

To the six Western countries participating in the G7, are you not Christian nations?

 

平和実現のために真っ先に頼るべきは、天の御父ではないのか。

 

In order to achieve peace, the first person we should turn to is our Heavenly Father.

 

あなた方はキリスト教国と言うなら、核抑止力などと言わないで天の御父にこそ頼るべきではないのか。

 

If we call ourselves a Christian nation, shouldn't we rely on our Heavenly Father instead of nuclear deterrence?

 

教会で説教を聞くだけで、自分では聖書そのものを読まないのだろうか。

 

Do they just listen to sermons in church and not read the Bible itself?

 

どうなのだ。

 

How is it?

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お互いを知ろうとする忍耐と寛容のいる取り組みを馬鹿にして平和が作れるわけがないと気が付く方が良い。

東南アジア諸国は軍事ブロックを解消したばかりか中国も含む対話の枠組みを作りそれなりに維持しているのに対し、ヨーロッパ諸国は軍事ブロックを残しロシアも含む対話の枠組みを作りながら形骸化させてしまったのはなぜだろうか。
考えてみたい。
面白いのは東アジアでは古代に政治的にも経済的にも中華文化圏があったが、ヨーロッパではスラブ文化圏という形はあったが政治的や経済的なロシア文化圏は古代から現代まで一度もなくロシア大国主義との距離を模索する歴史ばかりだったように見える事だ。
そしてスラブ文化圏は、ほぼ東欧圏と重なる。
ロシア大国主義の厄介なところは、ロシア民族はスラブの民族の一部である事、ある意味政治的に切り取られた国土の産物という側面がある事だろう。
ロシア民族とは、輪郭線が非常に曖昧な民族と言える。
そのために周辺諸国と軋轢を生みやすいともいえるが、だから絶え間ない対話でガス抜きがいる。
ロシアとヨーロッパの平和は、絶え間ない相互理解のための対話でしか確保できない。
聞きたい事があれば間髪入れないで質問出来る関係は、絶え間ない対話の場があってこそ可能だ。
軍事的な意図が無いならば、平和的で開放的な施設や設備であると相互の交流を受け入れて示さなければならない。
ロシアから見れば、アメリカとの軍事同盟であるNATOと事実上一体に感じられるEUの拡大は、アメリカの銃が目の前に突き付けられたのと大差ないのだ。
平和を望むなら、ヨーロッパとロシアは対話の場を一切の条件抜きで作るしかない。
誤解を解くための、終わりなき対話の継続だけが平和を作る。
信頼して欲しいなら、疑いを晴らすための努力を惜しまない事しかない。
納得できると言うのは相手の判断であり、自分ではない。
説明は、あなたが信頼できるとわかった疑って悪かったと相手が言うまでやめてはならない。
平和とは、忍耐と寛容の産物なのだ。
一方戦争は、不信と不寛容の産物だ。
そもそも、人と人は過去の歴史も経験も違う以上完全に分かり合えるなんて幻想に過ぎない。
忍耐と寛容で相互の信頼を築き合った関係の中でこそ、平和的な関係は作れる。
国と国も、基本は同じだ。
背景となる歴史も文化も言語も違うから、相互の理解がより難しくなっているだけなのだ。

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