言葉

令和と言う元号から連想したこと…。

日本の元号は、平成から令和に変わったのは皆さんご存知の通りです。

しかし、民俗に興味がある私は、実はオカルトぽいことにも関心があります。

聖書に関係あるオカルトと言えば、カッバーラです。

このカッバーラで私なりに、日本の元号が令和になった意味を解釈してみました。

これはどこまでも、私だったらこう思うという事なので、カッバーラに関心のある人なら誰でもこう解釈するというわけではないとお断りしておきます。

日本の国名は、日出ずる国と言う解釈で間違いありません。

でも、日本の天皇陛下は太陽神天照大御神の子孫とされているので、日本の国名はこうも解釈できるのです。

「日」は「太陽神天照大御神」「本」は「そのおひざ元」で、「太陽神天照大御神のお膝元の国」が日本と言う事になるでしょう。

だがこの天照大御神の岩戸隠れには、天照大御神の死と復活という解釈が成り立つのです。

太陽神のお隠れで世界が暗くなりそのお出ましに女性が立ち会う構図は、実はイエスキリストの死と復活の際の構図とそっくりなので、焼き直し説も出ています。

天照大御神はもともと、男性神天照国輝彦であったのが女性神にすり替えられたという説は根強くあります。

男性神であれば、なおさら焼き直しの可能性は高まります。

そこで、天照国輝彦はイエスキリストが正体と置くとこうなります。

「日」は「義の太陽神イエス」「本」は「木」と「十」で「十字架のイエス」。

つまり、日本は実はキリスト教の国であったとなってしまうのです。

何しろ天孫降臨とは、古代イスラエルの支族が来た事を表すとの説が出ています。

さらに、渡来人の中でも最大級の勢力である秦氏にも原始キリスト教徒説があります。

そして天皇は実は天皇陛下なので「天の神様の預言者」と解釈しても間違いではないのです。

何しろ天照大御神の子孫の位置付けなので、神様の代理人つまり、預言者と言う意味が天皇陛下と言う意味に込められていてもおかしくないのです。

そして、古代イスラエルは預言者に導かれた民族であったことを思えば、その指導者である天皇陛下は天の神様の預言者であってもおかしくないし、むしろ、自然なのです。

そして、令和と言う元号です。

「令」は「従うべき言葉」の意味でつかわれることが多いです。

では、「和」はどうでしょう。

カッバーラとしてみれば、こうなるでしょう。

木の字は「十」と「人」で「生命の樹」、「禾」の「ノ」は罪状版、ここに「口」で「和」。
だから「和」と言うのは「十字架で果てたイエスに従う」ってこと。

合わせて、「令和」は「イエスに従うべき時が近づいた」となるでしょう。

今の世界の状況は、イエスキリストの末日予言を連想できると指摘する人達がいることと重ねると、今後どういう展開になるでしょう。

注意して見ていきたいものです。

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藪医者とはどのような呪術を用いた人達だったのか。

なぜ、少しの風邪でも大袈裟に騒ぐ医者を藪医者と呼ぶのでしょう。

実は「藪医者」は「野巫医者」とも書き、占い、呪術、まじないや悪霊祓いなどを職業とする霊能者の医者であったようです。

下手な医者を意味する言葉になってしまった藪医者だけど、その昔は人々から絶大な人気と信頼を勝ち取っていた呪術医であったはずです。

ちなみに藪医者をねこ医者と呼ぶ地域もあるようですが、「禰子(ねこ)医者」と本来は呼ばれていたのでしょう。

薬を扱っていたからか、「猫薬師」とか「猫の薬師」と呼ばれていた地域もあります。

禰子とは、神職の家系に属する人達をさす言葉です。

元々の意味が忘れられて「猫医者」と勘違いされることもあるようです。

呪術医(じゅじゅつい)は呪医(じゅい)とも言い、医療専従者のうち医療効果の根拠を超自然的なものに求めるもの、もしくは周囲の人間によって超自然的な根拠によって治療する能力があるとされる人々のことです。

民俗学や文化人類学では、シャーマニズムによるシャーマンドクター(shaman doctor)やウィッチドクター(witch doctor)とも呼ばれます。

彼らはなぜ呪術で治せるかと言えば、誰もが呪術医に絶大な信頼を寄せるからです。

ではどうして野巫医者は、ちょっとの風邪でも大袈裟に叫ぶと呼ばれるようになってしまったのでしょう。

呪術医は病名の診断にトランスや占いを行ったり、治療に際して治療儀礼を施すことがあるからです。

周囲から絶対的な信頼を寄せられているうちは、トランスや治療儀礼は当然なこととして受け入れられていたでしょう。

薬師と呼ばれていた人達も、薬は補助的な手段で治療の中心は呪術だったのかも知れません。

呪術による治療は、人々の信仰が前提となります。

イエスがよく口にしていた言葉があります。

「あなたの信仰があなたを救った」

呪術医しか頼れない時代、人々は信仰が強かろうが弱かろうが皆、禰子医者にお世話になったのでしょう。

だが仏教とともに、信仰の有無や程度を問わずに治してくれる生薬や漢方薬を用いる薬師が来ました。

苦しい時の神頼みや苦しい時のだけの神頼みの人が多いのは、今も昔も大して変わらなかったのでしょう。

いちいち信仰の有無や強さが問われる禰子医者や禰子薬師より、誰でも治してくれる仏師の医者や薬師の方に人々は流れて行ってしまいました。

貧乏でやむを得ない人がたいして信仰もないのにかかっても、禰子医者や禰子薬師の効き目は薄かった事でしょう。

やがて神域であった草深い所にいたこともあって別名として藪医者と呼ばれていた禰子医者や禰子薬師は、下手な医者の代名詞となってしまったのかもしれません。

西洋の魔女のように伝統的な薬の知識をもって治療していたなら今日でも残れたであろう禰子医者や禰子薬師は、不名誉な名前に転落した藪医者としてだけ人々の記憶に残っているのでしょう。

どのような呪術を用いていた集団だったのか、歴史研究に興味があるものとしては多いに興味があります。

アジア各地に残っている呪術医に近かったのでしょうか。

それとも他の地域の呪術医に近かったのでしょうか。

少しでも情報が欲しい所です。

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カムヤマトイワレビコの名前について思うこと。

神武天皇はいたとすれば弥生時代となるとされます。

神武天皇と言うのは後の世の贈り名なので、当時の記録をいくら探してもあるわけがありません。

でも、カムヤマトイワレビコと言う名前はどうでしょう。

これもまた贈り名とされます。

とは言え当然ながら呼び名はあったはずです。

恐らく、イワレビコと呼ばれていたのではないでしょうか。

ちなみにカムヤマトイワレビコを、ヘブル語で読めると唱える人たちもいます。

カム=立ち上がる
ヤマト=神の民
イワレ=ユダヤ
ビコ=初子

しかし、これを日本語として読んでもいいのではないかと思います。

カム=天と結ばれた
ヤマト=神の民←日本では山岳信仰があるので、山の神に従う民と見てもこの訳でいいと思います。
イワレ=(神の)霊とともにある
ビコ=人

五十音図自体は、今の形に整うのはもっと時代が下ります。

それは、日本語の発音の変化がある程度落ち着いてきた頃になるでしょう。

とは言え、一音一音に意味がある日本語の特徴そのものは日本語の成立した正にその時から、あったはずです。

日本人に古代中東の遺伝子があるので、ひょっとするとヤマとは「神であるヤーがおられる場所」あるいは、「神であるヤーが臨まれる場所」が語源の可能性があるかもしれません。

神武東征とは、卑弥呼亡き後乱れた倭国を九州の秦王国から出発したイワレビコが卑弥呼の後継者として台与を立てたことかもしれません。

ついでに言うと、邪馬台国は中国人が当時の日本人の二重母音の発音のために、ヤマトをヤマタイと勘違いして聞き取った結果かもしれません。

もっとも当時の日本人は中国人にヤマタイと発音されたとしても、それ程違和感を感じなかった事でしょう。

中国には、秦から日本に渡った徐福が神武となったとみる人々がいるそうです。

丁度時期が近いからでしょう。

しかしながら徐福は、中国から渡った陰陽道に通じる方士であったとされるので、卑弥呼や台与の鬼道に関わったとみる方が自然でしょう。

秦氏にはユダヤ人説がついて回ります。

少なくとも中東由来の民である可能性はあり得ます。

となると、自らを神の民=ヤマトとする思想の持ち主であってもおかしくないでしょう。

九州のヤマトである秦王国からでたイワレビコが、畿内でヤマトの国の王に収まるとしても邪馬台国連合が再び結束を取り戻せばよしとされたのでしょう。

更に邪馬台国連合が結束を強めるために、王の権限を強めることへの異論は出しにくかった事でしょう。

そして、神武は「天下を初めて治めた天皇」という意味で始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)への一歩を歩みだしたのかもしれません。

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音楽は政治と無縁でいられるのか。

音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、音楽はそもそも、演奏者と聞き手がいて成り立つ営みです。
聞き手は良いねと思わなければ、最後まで聞いてくれないでしょうね。
音楽は聞き手という名の同志がいてくれて、初めて成立する行為なのです。
演奏者も複数いてはじめて成立する曲は共演者という同志が必要、場合によっては作詞作曲の同志も必要になります。
つまり、音楽は何人もの同志に支えられて成立する社会的な営みと言えます。
その意味では、音楽は一種の党派性を持つとも言いえるでしょうね。
フアンという支持者獲得も、時として必要となるのです。
協力者や共演者や聴衆という同志や支持者を獲得する行為は、政治活動と本質的にどう違うのでしょうか。
政治的メッセージを盛り込むか否かの差なのですよ。

音楽に政治を持ち込むなという人は、アリストテレスの人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」という言葉を知っているのでしょうか

アリストテレスは著書『政治学』において、人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」と述べました。
「ポリス」とは、都市、都市国家、市民権または市民による政体を指すギリシャ語です。
つまり、「人間は政治的な営みをする動物である」のです。
社会的な営みは、複数の協力者=同志の存在無しにはあり得ないのです。
そして、限られている時間や場所、時として資源をめぐって協力し合うことも競い合うこともあるのです。
ここで言う資源とは、目的を実現するのに必要な人・モノ・金と思ってもらえば良いでしょう。

これらはまさに「政治的営み」に他ならないでしょう。
いわゆる政治的課題が絡む行為は、人の行う政治的営みのごく一部でしかないのです。
つまり、音楽もまた人間の営む政治的営みの一つに過ぎないと言えるでしょう。
音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、本質的に無理なのです。
人の営みは、政治的営みだらけなのだからです。
逆に言えば政治的課題は、人の政治的営みの中の緊急的対応が求められているものと言えるでしょう。
いわゆる政治的課題が厄介なのは、立場や利害が絡むからなのです。
何らかの立場や利害の無い人は、ほとんどないでしょ。
違いますか。

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なぜ、卑弥呼と邪馬台国が日本の史書にないのか?

なぜ、卑弥呼と邪馬台国が日本の史書にないのでしょうか。

中国は意味よりも音を優先させて、自らの史書に記したことは多いにあり得ることなのに、日本の史家は日中の発音の差を無視しまくっているのではないでしょうか。

「日本」は中国語の発音では「リーペン」、当然ながら「巫女」も中国人が言えば発音が変わるはずです。 「日巫女」を中国人が言いやすいように音訳したのが、「卑弥呼」なのでしょう。
「邪馬台」国は音の近さから「ヤマト」国であろうとされてきたが、類推の範囲をでなかったのです。 言語学研究の到達点からやむを得なかったと言えるが、昔と今では到達点が違います。 古代の日本語は、二重母音であったことが、明らかになっています。 「邪馬台国」も「卑弥呼」も、中国人は当時の日本人の発音に近い中国語の文字を探して音訳したと考えるのが、自然なはずです。 「大和(ヤマト)」も当時の日本は二重母音なので強いて言えば「ヤマタィ」に聞こえてもおかしくないから、「邪馬台」国と中国人聞こえてその通りに記したとみる方が自然なのです。
「日巫女」は役職名なので、それを担当したと思われる女性を探せば良いのではないでしょうか。
太陽神の言葉を地上に取り次ぐ巫女である「日巫女」に就任できるのは、一人だけだったことでしょう。 中国人が「日巫女」を個人の名と取り違えても、無理はなかったでしょう。
当時の日本は「日巫女」空位の混乱を、トヨの「日巫女」就任によって収拾したと見ても良いでしょう。 「邪馬台国」も「卑弥呼」も、「大和国」や「日巫女」を中国人が呼びやすいように音訳した名前なので、真に受けて探すだけ時間の無駄なのです。 日本はもっと、歴史的な研究や考察を学際的に行うことが、当たり前になって欲しいものです。

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謙虚ってどう言うことか。

人の貰っているお金を高すぎないかと言う前に、自分が貰っているお金は安すぎないかを、考えた方がいいのではないでしょうか。

 

私はこれだけなのにあの人はこんなに、ではなく、あの人があれだけなら私はもっともらえても良いと思える仕事を、あなたはしていないのでしょうか。

 

していると思えば、私の価値はもっとあるぞと声を上げた方が良いのではないでしょうか。

 

自信とは、自分の能力や可能性を信じることではないでしょうか。

 

高慢とは、自分の能力や可能性を信じてないことではないでしょうか。

 

高慢とはったりと卑下と卑屈は紙一重ではないでしょうか。

 

高慢もはったりも、張子の虎と紙一重ではないでしょうか。

 

謙虚と言う言葉は、向上心がある人にふさわしいのではないでしょうか。

 

向上心なき謙虚は、たんなる卑屈であり、卑下でしかないのではないでしょうか。

 

違うでしょうか。

 

価値に値する対価は、払われて当然ではないでしょうか。

 

価値あるものになるには誰でもそれだけの事はしているのではないでしょうか。

 

私達はちゃんとそれを評価しよう、そう思いませんか。

 

価値をちゃんと評価できる人は、人からもちゃんと評価してもらえるではないでしょうか

 

謙虚は結構だが、謙虚が向上心と結びつけばもっと結構なものになるのではないでしょうか。

 

そもそも謙虚は向上心と一体、違うでしょうか。

 

向上心を、忘れないでいたいものです。

 

そうすれば、謙虚が似合う人になれるのではないでしょうか。

 

卑下や卑屈、高慢やはったりくらいむなしいものはないでしょうから。

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生き様の美意識といじめは相容れない。

いじめは時として、犯罪にまでエスカレードします。

 

とは言え、犯罪はすべていじめではないし、いじめが全て犯罪ではありません。

 

いじめは、何よりもまず人権や人格を無視しているという点で、倫理や道徳、モラルの問題です。

 

倫理や道徳、モラルの問題を踏み外した先に、犯罪行為があるのは確かですが。

 

いじめには、犯罪レベル、グレーゾーン、倫理や道徳やモラルの問題と段階があります。


いじめは、何よりもまず倫理や道徳やモラルの問題であるので、その人の価値観や生き様の美意識が問われると言って良いでしょう。

 

いじめ問題の構図をわかりやすく図にするなら、一番大きな丸の中に倫理や道徳やモラルの問題、次に大きな丸の中にグレーゾーンの問題、そしてグレーゾーンの丸の中に犯罪レベルの問題の丸となる、同心円モデルを考えると良いでしょう。

 

集合論に親しんだ人には、犯罪レベルの問題はグレーゾーンの問題の部分集合であり、グレーゾーンの問題は倫理や道徳やモラルの問題の部分集合である、という方がわかりやすいかもしれません。

 

そこで、一人一人の、倫理や道徳やモラルの段階を正す必要性があるとなるでしょう。

 

いじめをなくす問題は、倫理や道徳やモラルの間の闘いであり、価値観の間の闘いだとなるでしょう。

 

だから厄介であり、なかなかなくせないと言う事になるのです。

 

そこで、生き様の美意識を磨き鍛える必要性があるとなるでしょう。

 

誰だって醜いのは、嫌でしょうから。

 

美は、真善美の最後に来ます。

 

真善美の最後に来る事は、美の位置付けが一番低いと言う事ではありません。

 

むしろ逆なのです。

 

美意識を鍛えるためには、善い事・より善い事・最も善い事のうちで最も善い事を選べる心を鍛え上げる必要があります。

 

最も善い事を選べる心を持ってこそ、確かな審美眼があると言えるでしょう。

 

最も善い事を選べる心を持つには、自分はどのように生きたいか、その選択が関わってきます。

 

自分が一生かけて歩むに値する道を、選び取らなければならないのです。

 

そこにたどり着ける真の道を見出せる判断力を養う、日々の努力が求められるのです。

 

いったん美意識を磨ければ、最も善い事を選ぶのは容易になり、目的にたどり着ける道を見つけるのも容易になるでしょう。

 

もしも迷うようなら、何度でも何度でも、美意識に磨きをかければいいのです。

 

美意識は、一生をかけて磨くに値するのです。

 

生き様の美意識を磨く努力を競い合い励まし合い、共に学びあって一緒に高みを目指すなら、いじめは馬鹿らしいこと、自分の成長を妨げる事になるでしょう。

 

お互いがお互いの、師となり弟子となって教え合い学びあって美意識を磨き合って心の高みを目指す人生を歩もうではありませんか。

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バリアフリーやユニバーサルデザインを考えてみた。

バリアフリーとか、ユニバーサルデザイン、とか聞いたことがある人、皆さんの中にもいるでしょうね。

 

健常者も障碍者も使い勝手がいい事、それがバリアフリーとか、ユニバーサルデザインの目標であり、目的です。

 

私は出来るだけ「障碍者」の表記を使うつもりです。

 

「障害者」表記が、普通に生きたいだけなのに毎日の生活がまるで「障害物競走」と感じている人、と言う意味で使われているなら、それもありでしょう。


でも現実には、障害物扱いしているようで、あるいは、障害物扱いされているようで、違和感や不快感を覚える人たちもいます。

私もそう感じている一人です。

 

常用漢字表から「碍」の字が外されたために、「障害」の字があてられるようになって、様々な違和感を訴える人達がでたが、当然のながれでしょう。

「障碍者」表記を広めようとする動きがあるのは、嬉しいです。

 

障碍者は、自らの心や体に何らかの障害があるために環境に適応しにくくて困っている人ではなく、周囲の配慮が足りないために普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられている人と考えたらどうでしょうか。

 

障碍者に暮らしやすい環境は、実は誰にとっても暮らしやすい環境と言う事になるでしょう。

 

普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられていると感じている人がほとんどいない、それが当たり前な環境が、実はバリアフリーな環境なのではないでしょうか。

 

そう発想を転換したら、どうなるでしょう。

 

ホワイトな労働環境の職場とは、障碍者に対して働きやすい配慮のある職場、そうなると思いませんか。

 

障碍者であっても能力を最大限に発揮できる配慮のある職場は、健常者にとっても快適な労働環境の職場ではないでしょうか。

 

人手不足と言うなら、障碍者も働きやすい環境を作って彼らの能力を最大限引き出せるようにした方が良いでしょう。

他社に先駆けた方が、あなたの求める人材が集まりやすくなることでしょう。

 

障碍者とは、周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている人と見れば、乳母車の人も、もたつく高齢者も、ある意味障碍者となるでしょうね。

 

子育てや、介護や看病、これらが元で周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている立場になっている人は皆、障碍者的な状態に一時的にせよいると見たらどうでしょう。

 

つまり、障碍者とは特別な人達ではなく、人生のある段階では誰でもなり得る状態なのではないでしょうか。

 

そう考えると、バリアフリーは実は、自分たちのためになる、そう思いませんか。

 

ユニバーサルデザインは、みんなのためになるデザインのことなのです。

でも、無個性、没個性とは違います。

誰もが、使いやすい、使い勝手が良い、そう感じるように工夫する事なのです。

 

その場所や地域の特徴にあった、誰もが使いやすいバリアフリーな施設や設備、システムを考える事がユニバーサルデザインを考える事なのです。

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自己責任論よりも支え合いのバトンリレーを。

自己責任論は、才能のある人を潰すためにある呪いの言葉のように思われるのです。

 

人は、成功よりも失敗から多くの事を学ぶ、違うでしょうか。

才能は努力で花開く、違うでしょうか。


努力すればするほど、失敗も山ほどする、違うでしょうか。

自己責任論は失敗を恐れるへっぴり腰の、権力者に都合のいい人間を作る呪いの言葉でしかないのではないでしょうか。

違うでしょうか。


でもそれは、社会の進歩を止める愚挙ではないでしょうか。

 

才能を伸ばし花開かせた人達は、自らの努力とそれを支え見守り励ましてくれた人々との出会いがあった人達ではないでしょうか。

 

どんな天才でも、壁にぶつかって苦悩の日々を送った事は一度や二度ではなかったと思うのです。

ましてや秀才は、推して知るべしではないでしょうか。

 

自己責任論は、努力する人達を押し潰す言葉でしかない、違うでし

ょうか。

 

自己責任論は、言い換えれば、自業自得、更に言い換えれば、身から出た錆、だから言ったじゃないか、身の程知らず、ではないでしょうか。

どうでしょうか。


全部、人の努力を嘲り、人の足を引っ張る、後ろ向きの言葉ではないでしょうか。

どうでしょうか。

 

飛躍出来た人たちは、自分の可能性を信じ、自分のしていることの意義を信じた人達ではないでしょうか。

違うでしょうか。

 

自己責任は、当たり前過ぎる、どうでしょう。


だが自己責任では負いきれないこともある、違うでしょうか。

才能や可能性を花開かせた人達は、多くの人の支えや励ましに出会えて、困難を乗り越えられた人達ではないでしょうか。


支えてくれた人達もまた、支えられて今の自分があると知っている人達ではないでしょうか。

支え合いのバトンリレーがここにある、そう思いませんか。


どうでしょう。

違うでしょうか。

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メディアとどう付き合った方が良いでしょうか。

メディアは真実を伝える存在と思わない方が良いのです。

多くの人々は、この事に気が付いていません。

 

断片的な事実や情報は正しい内容を伝えるけれど、本当は何が起きているか、何が本質的か、伝える存在には必ずしもなっていません。

残念ながら、これが現実です。

もっとメディアを疑いましょう。

 

NHKでさえ海外ドキュメンタリーの制作で、再現であったにもかかわらずリアルタイムと誤解を招きかねない編集をしていた事実が発覚したことがありました。

 

伝えた出来事自体は実際にあったことだが、再現であることを伝えなかったために取材の最中に起きたと誤解を招く結果となり、やらせとして問題になったのです。

 

テレビは絵になる映像を撮ろうとするあまり、目の前にある事実は伝えても真実を伝えないメディアになる危険を常に持った存在だと言う事を、視聴者である私たちは知っておいた方が良いでしょう。

 

この能力を高める努力を、怠らないようにしたいものだといつも思っています。

 

それには情報収集を怠らない事です。

 

絵になる場面や瞬間をとらえて伝えようとするのは、テレビに限らずメディアに共通している事と思った方が良いでしょう。

 

本質は何かを使えるには相当深く知識と理解を持つ必要があるが、メディアの現場にいる取材陣は必ずしもこれが出来ているとは限らないのです。

 

むしろ、取材の中で本質に迫っていくのです。

 

つまり、いきなり現場に行って取材している彼らに本質を伝える事を求めても無駄と言う事になるでしょう。

 

彼らに期待できるのは、目の前のリアルな現実を使える事でしょう。

そこから何が本質かを導き出すのは、受け手である私たちの仕事になるでしょう。

 

だからこそ、常日頃の情報収集とそれの理解が必要でしょう。

メディアはそれを助けるべき存在ではないでしょうか。

個々人の努力で情報収集を十分するのは困難です。

 

メディアは判断の資料を提供する努力を怠らないで欲しいのです。

断片的な情報をただまき散らすだけなら、メディアはかえって真実を知るうえで有害な存在に堕落するのではないでしょうか。

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