言葉

平和な解決に共謀罪はかえって邪魔。

人々の本心からの声、心の奥底からの声は、誰も止めることはできないのです。

それを萎縮させ、人々を物言わぬ奴隷の地位に叩き落す懸念さえあるのが自公政権の共謀罪だから、国連も流石に待ったをかけざるを得ないのです。

それでも賛成する人は、言論の自由を失っても良いのだろうか、そう疑問を持たないわけにはいかないのです。

ルカによる福音書 19 3940

ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。

答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

イエスが、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」と言うのは、弟子達の声が彼ら自身からではなく彼らを導く神から出ているからだれも止めることはできないということです。

 

神に不可能はないと言うことだが、本当に石が叫んだら、もはやホラー映画まがいの光景なのですが

共謀罪の愚かさは、これが憎しみと報復の連鎖を生む戦争やテロと本質が何ら変わらないところにあるのです。

だから、共謀罪のある国でもテロが防げないと言うよりも、戦争やテロと同根の共謀罪で対処しようとしているからテロがなくならないのではないか。

違うでしょうか。

テロも戦争も、原因を平和的手段で取り除くしか手はない。

違うでしょうか。

共謀罪でもテロが防げないのではないのです。

逆です。

共謀罪があるから、かえって個人単位のテロが誘発される。

違いますか。

誰かに話しかけて共謀罪の疑いで捕まるくらいなら、個人的にテロに走った方が手っ取り早い。

違うでしょうか。

問題を生んだ原因を調べて解決しようとしないで弾圧で対処しようとする国家の対応が怒りをよび、次のテロの温床を生むことになる、これが実際に起きていることではないでしょうか。

つまり、共謀罪とは、国家VS民間の戦争であり国家による民間の思想統制思想弾圧の形をとっているに過ぎないと言えないでしょうか。

共謀罪の本質は、国家による民間の思想や言論の自由に対するテロ行為と言って良い、どうでしょうか。

 

テロの定義が難しくなる理由は、戦争を除外しようとするから。

それ以外の説明ができますか。

戦争もテロも、動機では区別不能、なのに無理して戦争やテロとを区別しようとするから、話が難しくなるのではないでしょうか。

 

国家Vs国家のテロが戦争、民間VS民間の戦争がテロ、国家VS民間が国内に向かえば武力弾圧や内戦、国家VS民間が国外に向かえば武力介入、単純でしょ。 ·

 

日本を戦争できる国家に変えると言うことは、日本を国家VS国家のテロである戦争をする国に変えると言うこと、違うでしょうか。

 

実際、戦争をしている国家はテロによる報復に悩まされているのではないでしょうか。

 

テロは民間VS国家の戦争に他ならないからです。

テロの民間VS民間の戦争の構図は、表面的なものに過ぎないのです。

 

テロや戦争の根絶は問題の平和的解決を目指す以外あり得ないのだ。

違いますか。

 

国家VS国家のテロが戦争、実際、局地化すれば紛争や武力衝突、更に局地化すれば暗殺やテロに限りなく近づく、実際そうなっていませんか。

民間VS民間の戦争がテロであるが、民間VS民間は表面的な形であり、動機は民間VS国家と言う点では本質はゲリラと変わらないと言えるでしょう。

テロとの差はゲリラが直接に軍を狙うこと、これくらいではないでしょうか。

 

共謀罪のターゲットが民間なのは、テロを国家の独占的行為にする目的があるから。違うでしょうか。

国家権力にとって都合の悪い行為は、たとえ平和的であっても国家によるテロ行使の妨げとなるから、権力はテロのレッテルを貼ってでも力づくで退けようと企むことになる。

違うでしょうか。

 

権力への敵対行為をすべてテロとみなすのが、共謀罪ではないでしょうか。

それは、共謀罪自体が、国によって差があるとしても、その本質が民衆の心の自由へのテロ攻撃にほかならないからではないでしょうか。

平和が欲しいなら、まず自らが平和を欲するものであることを態度で示すべき。

違うでしょうか。

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現在のコーランの解釈に誤解はないのか?

聖句の背景についての誤解が、実に悲しいことにコーランに関する後の世の解釈で深刻な事態を招いているのではないでしょうか。

 

勿論、これらの議論はどこまでも推論ですのでそのつもりでお付き合い願います。

 

まず、神の子についてです。

 

現在のイスラムでは、この言葉は神の子について否定していると受け止められています。

 

ユーヌス章

 

マッカ啓示109

 

68.かれらは、「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う。かれに讃えあれ。かれは自足なされる御方。天地の凡てのものは、かれの有である。あなたがたはこれに対して、権威はないのである。アッラーに就いて、自分の知らないことを語るのか。

 

この聖句についての背景が伝わっていないので即断はできないが、アッラーの子を名乗る偽預言者が現れて人々を惑わせようとしていたのかも知れません。

 

だが聖書はこう記しています。

 

ヨハネの第一の手紙 4 9

 

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

 

アッラーはマルヤムつまりマリアに御霊によって受胎させ、イエスをこの世につかわしたとコーランは伝えます。

 

イムラーン家章

 

マディーナ啓示 200

 

35.イムラーンの妻がこう(祈って)言った時を思え、「主よ、わたしは、この胎内に宿ったものを、あなたに奉仕のために捧げます。どうかわたしからそれを御受け入れ下さい。本当にあなたは全聴にして全知であられます。」

 

36.それから出産の時になって、かの女は(祈って)言った。「主よ、わたしは女児を生みました。」アッラーは、かの女が生んだ者を御存知であられる。男児は女児と同じではない。「わたしはかの女をマルヤムと名付けました。あなたに御願いします、どうかかの女とその子孫の者を、呪うべき悪霊から御守り下さい。」

 

37.それで主は、恵み深くかの女を嘉納され、かの女を純潔に美しく成長させ、ザカリーヤーにかの女の養育をさせられた。ザカリーヤ一が、かの女を見舞って聖所に入る度に、かの女の前に、食物があるのを見た。かれは言った。「マルヤムよ、どうしてあなたにこれが(来たのか)。」かの女は(答えて)言った。「これはアッラーの御許から(与えられました)。」本当にアッラーは御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。

 

38.そこでザカリーヤーは、主に祈って言った。「主よ、あなたの御許から、無垢の後継ぎをわたしに御授け下さい。本当にあなたは祈りを御聞き届け下さいます。」

 

39.それからかれがなお聖所で礼拝に立っていた時、天使がかれに呼びかけた。「アッラーからヤヒヤーの吉報をあなたに授ける。その子はアッラーの御言葉の実証者となり、尊貴、純潔で正しい人々の中の預言者となろう。」

 

40.かれは言った。「主よ、どうしてわたしに男の子があり得ましょう。わたしはもう老齢になってしまい、妻は不妊でありますのに。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのことを行われる。」

 

41.そこでかれ(ザカリーヤー)は言った。「主よ、わたしに印を御示し下さい。」かれ(天使)は言った。「あなたは3日の間人間と話すことが出来ず、身振だけで意志を通じさせることになろう。これがあなたに与えられる印である。だから多くあなたの主を念じ、朝にタべに讃えなさい。」

 

42.天使たちがこう言った時を思い起せ。「マルヤムよ、誠にアッラーはあなたを選んであなたを清め、万有の女人を越えて御選びになられた。」

 

43.「マルヤムよ、あなたの主に崇敬の誠を捧げてサジダしなさい。ルクーウ(立礼)するものと一緒にルクーウしなさい。」

 

44.これは幽玄界の消息の一部であり、われはこれをあなたに啓示する。かれらが籤矢を投げて誰がマルヤムを養育すべきかを決めた時、あなたはかれらの中にいなかった。またかれらが相争った時も、あなたはかれらと一緒ではなかった。

 

45.また天使たちがこう言った時を思え。「マルヤムよ、本当にアッラーは直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えられる。マルヤムの子、その名はマスィーフ・イーサー、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(アッラーの)側近の一人であろう。

 

46.かれは揺り籠の中でも、また成人してからも人びとに語り、正しい者の一人である。」

 

47.かの女は言った。「主よ、誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ、『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」

 

マルヤムすなわちマリアの受胎告知の瞬間が生々しく語られています。

 

イーサーはすなわちイエスはアッラーがもうけられた子ではないが、アッラーの命令によってマルヤムが授かった子であることが告げられているのです。

 

アッラーによって選ばれた乙女はマルヤムただ一人であり、アッラーがイーサー以外にこの世に送られた子は存在しない、よってイーサー以外でアッラーのもうけた子と名乗る者がいればそれは偽物だと告げていると解釈することも可能ではないでしょうか。

 

イエスの時代にもイエスの名をかたって悪霊を払うと称する人々がいたと、聖書に記されています。

 

またイエスは、偽預言者が出てきて人々を惑わすとも警告しています。

 

コーランでは、続く聖句にはこう記されています。

 

69.言ってやるがいい。「アッラーに就いて嘘を捏造する者は、決して栄えないであろう。」

 

アッラーの子を名乗る偽預言者が、ムハンマドの時代にいたとしてもおかしくありません。

 

どこまでも推論なので、断定することはできません。

 

だが、あり得ない話ではないのです。

 

ムハンマドには、イーサーつまりイエスがアッラーのアッラーの独り子であったと言いにくい事情があった可能性は十分にあり得るのです。

 

結果的に父と子と聖霊による神会の存在を、ムハンマドは言い出しづらかったのかも知れません。

 

婦人章(アン・ニサー)

 

マディーナ啓示 176

 

171.啓典の民よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。またアッラーに就いて真実以外を語ってはならない。マルヤムの子マスィーフ・イーサーは、只アッラーの使徒である。マルヤムに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯―の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にある凡てのものは、アッラーの有である。管理者としてアッラーは万全であられる。

 

なぜ私がこのような推論をするのか、それには理由があります。

 

イーサーの十字架での死を否定したと、受け取られている次の聖句の存在です。

 

コーランはこう記します。

 

婦人章(アン・ニサー)

 

マディーナ啓示 176

 

157.「わたしたちはアッラーの使徒、マルヤムの子マスィーフ(メシア)、イーサーを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。

 

コーランのこの記述の背景には、聖書の伝えるこのような事情があったのかも知れません。

 

マタイによる福音書 27 62節~65

 

あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、

 

「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。

 

ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。

 

ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。

 

しかしイエスはよみがえり、弟子達に十字架で受けた傷を確かめさせて十字架で死んだのは身代わりなどではなく自分自身であること、確かに肉体を持ってよみがえっていることを、あかしたことは聖書に記されている通りです。

 

だがかたくなとなったユダヤ人たちがどうしたか、聖書は次のように伝えています。

 

マタイによる福音書 28 11節~15

 

女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。

 

祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、

 

「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。

 

万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。

 

そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。

 

ユダヤ人たちはムハンマドに対しても、イエスの生涯はゴルゴダで終わっていると言い募ったのでしょう。

 

そこでムハンマドは、イエスの生涯はゴルゴダで終わってはいないことや今でもイエスは生きていることを、断定的に言い切る必要があったので、コーランに記された言葉となったのかも知れません。

 

コーランは預言者として召されたムハンマドの言葉を中心に編纂されていて、当時の状況まで記録されていないので、時代背景を調べたうえで推論を展開するしか手がありません。

 

だがコーランが聖典でもある以上、推論を展開するのに許される数少ない手がかりは聖書と言うことになるでしょう。

 

「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う一部の人々の言葉をムハンマドが否定せざるを得なかった裏に、アッラーの子と名乗る偽預言者がいた可能性を推測する理由がここにあります。

 

勿論、あっけなく偽預言者の化けの皮が剝がれ一件落着となって記録に残るまでもなかったのでしょうが、この手の偽物にムハンマドが手を焼いていたことは想像に難くないのです。

 

そうでなければこのような聖句が、コーランに残るでしょうか。

 

だが、こういう疑問を投げかける人もいることでしょう。

 

イエスには、子孫がいたのではないかと。

 

確かに、子と言う言葉には子孫と言う意味もあります。

 

そして、イエスとマグダラのマリアとの間に子があったのではないかと疑う人もいることは、最近でもダビンチコードでネタの一つにされたことで記憶にある方もおられる事でしょう。

 

コーランには、イエスには父はいないという文言もあります。

 

これは、イエスにはしばしば、大工のヨセフの子ではないか、と言う言葉が投げかけていたことに対してアッラーが業を煮やしておっしゃった言葉とも解釈出来るのです。

 

実際マルヤムは、地上の男性をだれ一人知ることもなくイエスを身ごもっているのです。

 

地上の男性にイエスと血のつながった父はいるはずがないので、この言葉には嘘はありません。

 

一方でイエスは常に天の神を父と呼んでいます。

 

だがコーランには、アッラーは子をなしていないとあるではないかと、反論があるかもしれません。

 

地上に今もアッラーの子孫がいると言いふらす人達に対して、アッラーはきっぱりと否定する必要あったと解釈できます。

 

余計な議論に深入りしない方法は、誤解を恐れずに端的に言い切るしかないのです。

 

地上にアッラーの子孫などはいないのだと、きっぱり言い切るしかないのです。

 

コーランには、当時の状況を書き記す説明書きは一切ありません。

 

ムハンマドにアッラーからもたらされた言葉が、記されているだけなのです。

 

コーランは何よりもまず、ムハンマドが聖典に対する正しい理解を守るためにいかに戦ったかの記録の書であったからなのでしょう。

 

記憶が生々しいうちはそれでも良かったが、時代が下り記憶は薄れていくとそうはいきません。

 

ムハンマドは繰り返し聖書を読むことを指示していたと言います。

 

コーランの記録に対する解釈に誤解が出ることを、恐れたからかもしれません。

 

コーランは実践的な指導書であると同時に、論争の記録書でもある以上正しい理解に聖書の学びは欠かせません。

 

だが、コーランの一般的解釈としてイスラム社会に一度広まってしまったものは、軌道修正は容易ではないでしょう。

 

とは言え、解釈に誤解が生まれない為には、絶えず検証していくことが必要ではないでしょうか。

 

そして、それで正しいかどうかは、神に祈って答えを求めるしかないでしょう。

 

聖書にはこうあります。

 

ヤコブの手紙 1 5

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

今回の議論の内容に、もし間違えがあるとすれば、神の声を聞き違えてしまった私に責任があるので、気がついた方は教えて頂ければ幸いです。
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    聖書は死者の救いのために何をすべきと言っているのか。

    イザヤ書 26 19

    あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。

     

    これはいったい何を意味する聖句なのでしょうか。

     

    イエスは救いの計画の対象は、全ての人々であると明らかにしています。

     

    マタイによる福音書 28 1820

    イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

     

    ならば、死者もその救いの計画の対象なのでしょうか。

     

    ヨハネによる福音書 5 1926

    さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。

    なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。

    すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。 父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。

    それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。

    よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。

    よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

    それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。(以下略)

     

    ここで注目したいのは、この下りです。

     

    よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

    それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

     

    つまり、死者であっても救いの計画の対象となると仰っているのです。

     

    では、死者の救いは具体的にはどのように行われるのでしょう。

     

    コリント人への第一の手紙 15 2529

    なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。

    最後の敵として滅ぼされるのが、死である。

    「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。

    そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

    そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。

     

    注目したいのはコリント人への第一の手紙1529節にある、死者のためのバブテスマです。

     

    キリストが滅ぼされる最後の敵が死であると言っています。

     

    しかし、最後の審判のために、全ての死者がよみがえることが聖書には記されているので、ここで言う死は肉体の死ではないことは明らかです。

     

    とすれば、ここで言う死とは霊的な死と言うことです。

     

    死者のためのバブテスマによって、死者は霊的な死から解放されると言うのです。

     

    ならば、世の教会のどこが、死者のためのバブテスマを行っているのでしょう。

     

    探すべきは、そういう教会であることは、聖書によって示されていますからね。

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    三位一体を疑ってみた。

    創世記では、神が複数であることが示されています。

     

    創世記 1 26

    神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

     

    イエスはこの“われわれ”が“父と子と聖霊”であることを明らかにしました。

     

    マタイによる福音書 28 1820

    イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

     

    多くの教会は、この“父と子と聖霊”は三位一体であると主張しています。

    この三位一体とは、“TRINITY”の訳語であり、三者のごとくに振る舞う一者と言うことなのです。

    三位一体で言う“一体”とは、断じて、夫婦一体とかクラス一体のような言葉に出てくる比喩としての“一体”ではないのです。

    “父と子と聖霊”による“UNITY”とは一言も言っていない点に、くれぐれも注意してください。

     

    三位一体を主張する人たちは主の御使いが神的人格として描かれていると、いくつかの個所を証拠としてあげます。

    例えば、創世記の16713節、18121節、19122節。

     

    だがこれらの記述は、御使いが人と同じ肉体を持っておられることを示しているだけと見る事も出来ます。

    また、聖霊が人格を持っていることも、論証としてあげます。

    例えば、イザヤ書の4816節、6310節。

    これも、聖霊が人格を持っているお方であると証する以上の意味があるとすれば、どういう働きをなさるかを示していることであっても、三位一体を明かしていることにはならないでしょう。

     

    にも拘らず、三位一体を主張する人たちは、新約聖書において三位一体の教理はより明確に啓示されていると主張しているのです。

     

    三位一体どころか、父と子と聖霊が明らかに独立した存在であることを示す決定的な記述があります。

     

    イエスのバブテスマの光景の記述です。

    イエスがバプテスマを受けてすぐ水から上がられると、天が開け、神の御霊がはとのように下って、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と声がしたのです。

    マタイによる福音書31617節、マルコによる福音書11011節、ルカによる福音書32122節、またヨハネによる福音書12933節も天からの声について記さない事を除けばあとは大筋で一致しています。

     

    また、天からの「私の愛する子」の声は、イエスが高い山にペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちを伴い、旧約の預言者であるモーセとエリヤと語り合いながら白く光り輝く姿を弟子たちに示した時にもありました。

    マタイによる福音書1719節、マルコによる福音書928節、ルカによる福音書92836節。

     

    天からの「私の愛する子」の声の主が、神としての天の父であることは言うまでもないでしょう。

     

    イエスはこう言われました。

     

    ヨハネによる福音書71617

    そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

     

    この「わたしをつかわされたかた」と言う言葉は、マタイによる福音書には繰り返し出てきます。

    434節、524節と30節、63839節、716節と28節、816節と26節と29節、940節、1244~45節、1320節、1521節、165節。

     

    イエスはゲッセマネの園で、祈られました。

     

    「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

    マタイによる福音書2639節、言い回しは多少違ってもマルコによる福音書1436節、ルカによる福音書2242節もこの言葉に触れています。

    ヨハネによる福音書だけは、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」(1811)とゲッセマネの祈りの場面を割愛しているけれど、イエスが御父の御心に随う決意をされていることを記しています。

     

    これ以外にもイエスは天の父の御心を伝えに来たことや実践をしに来たことを述べていたことが、新約聖書の至る所で記されています。

     

    そう言うと、三位一体を主張する人達はヨハネによる福音書1030節の「わたしと父とは一つである」を引用するかもしれません。

     

    けれど、イエスはゲッセマネの祈りでこう仰っておられるのです。

     

    ヨハネによる福音書172223

    わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

     

    ここでイエスの仰る「わたしたちが一つである」とは「わたしと父とは一つである」と同じことです。

    そして「一つ」も同じことを指しています。

     

    ここで言う「一つ」が思いを完全に一致させることを指していることは、誰が見ても明らかでしょう。

     

    さらに言えば、「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」とイエスが述べておられることを見落として良いはずがありません。

     

    「わたしと父とは一つである」、「わたしたちが一つである」と言う言葉がもしも三位一体を指しているとしたら、イエスはイエスご自身に対して「あなたからいただいた栄光」と言っていることになり完全におかしな事となるでしょう。

     

    三位一体の言葉は聖書のどこにも書いてないばかりか、論拠とできる記述自体見つけることは絶望的なまでに不可能なことなのです。

     

    聖書には“父と子と聖霊”の明確に独立した存在として役割分担をしつつも思いを一つにして救いの御業を遂行しておられる姿は繰り返し描かれているが、三位一体を証する明確な言葉は一つとして見いだすことはできないのです。

     

    TRINITY”(三位一体)の論証として彼らの挙げる箇所はことごとく、“父と子と聖霊”の“UNITY”の証であってそれ以上でもそれ以下でもないのです。

     

    “父と子と聖霊”は一つの神会を構成して心ひとつにして、救いの計画を実行しておられると見た方がすっきりします。

     

    絶対三神唯一神会とか、三位三体三体一位と言った方が、ちょっと長ったらしくなるけど、何回聞いても難解な三位一体より、よほどわかりやすくと思いますが、いかがでしょうか。

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    欧米のキリスト教に思うこと若干。

    ネットでイスラムになびいちゃう欧米の若者が結構いると聞いて、へえって思ったことがある。

    モルモンへ改宗する欧米の若者も、ネットでモルモンの会員とやり取りする中で改宗を決意する人が結構いると言う。

    ネットの力、意外と馬鹿にできないって思う。

     

    欧米の若者でイスラムに惹かれる人が出る背景には、欧米のキリスト教に対してコレジャナイ感が大きいことが挙げられるかも。

    既存のキリスト教会からモルモンへの改宗も結構あると聞いたことある。

     

    カトリックもプロテスタントも、魂の救済にとどまらず、生き方を求めて祈る信仰へと軌道修正しない限り、欧米の若者たちの教会離れも止まらないし、ISに足元を掬われてしまう若者たちも引き留めることなんて絶望的なまでに出来ないと思い知った方が良いのではないか。

     

    カトリックの堕落を批判したプロテスタントもまた堕落したが、生き方を求める信仰に軌道修正することは魂の救済に胡坐をかいてきた生き方の全否定であり当然苦痛を伴う。

    すでに得ている魂の救済の既得権益を脅かす輩が、気に入らないと言うわけであると言うことなのか。

    そこに気付こうとしないのだとしかみえないのは、気のせいだろうか。

     

    だが欧米の既存のキリスト教徒の多くは、若者たちをISにとられたこととイスラムにとられたことを短絡的に混同する傾向さえあるように思う。

    彼らはイスラムを知らないばかりか知ろうともしないように思えるのは、とても悲しい。

    キリスト教にいちゃもんをつけて喧嘩を売った、けしからん異教徒としか見ようとしないようだからだ。

    違うだろうか。

     

    旧態依然の欧米のキリスト教は魂の救済は説いたが、どう生きるべきかは説かなかった。

    イスラムもモルモンも仏教も、どう生き、どう考えるべきかを彼らに示した。

    ISに若者を取られたくないなら、既存のキリスト教も生き方を生き方を模索している若者に応えようとするべきだ。

     

    現在、米国の仏教徒は約3百万人を数え、全米人口の1%に当たる。

    ヨーロッパでも約100万人いる。

    キリスト教徒と比べれば、仏教徒の数はまだマイナーだ。

    しかし、伸び率だけに注目するなら、キリスト教徒をはるかに上回る。

    なぜそうなるのか。

    彼らは生き方を求めているのだ。

     

    モルモンへの改宗者もまた生き方を求めて、既存のキリスト教会に別れを告げた人たちである。

    既存のキリスト教は信ずれば救われると説くが、どう生きるべきか指し示す力がない。

    ただ救いを求めてすがる人たちばかりと、言って良いかもしれない。

    受け身ばかりと言えるだろう。

     

    トリックへの反発からプロテスタントが生まれたが、今欧米では既存のキリスト教への幻滅から宗教離れが深刻と言う。

    維持がままならなくなり、手放される礼拝堂もかなりあると聞く。

    だが、心の支えや拠り所を求める人は実は多い。

    Isの誘いに乗ってくる若者は、心の隙間で足元が掬われてしまった人が結構いると言う。

    さもありなんと言うべしだろう。

     

    欧米では既存のキリスト教への幻滅から宗教離れも多いと聞くが、どう生きるべきかの悩みは多くの若者が普遍的に抱えている課題。

    ISの誘いに乗ってしまう欧米の若者が多いのは、旧態依然の教会の体質に問題があると私は見る。

    だがどっぷり浸かり込んだ人にはそれが見えてないのではないか。

     

    FW・ニーチェの「アンチクリスト」も、欧米のキリスト教の現実への幻滅からキリスト教そのものの否定に走った典型だが、欧米の若者も既存のキリスト教への幻滅から改宗希望者が多いのかも知れない。

    だから、イスラムやモルモン、仏教などに惹かれる人が結構出るのかも。

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    漢字は誰が作ったのか。

    漢字は聖書で読み解けるのではないか、そういう議論には何度か出会ってはいました。

    何人もの人たちがそう指摘するなら誰かが一冊の本にまとめているのではないか、そう思って探してみたところ、この二冊が見つかりました。

     

    旧約聖書は漢字で書かれていた―「創世記」が語る中国古代文明の真実

    C.H.カン&エセル.R.ネルソン

     

    漢字に秘められた聖書物語

    ティモシー.ボイル

     

    興味深いことに、著者はいずれも漢字文化圏の人ではありません。

    正確に言えば、著者の一部と言うべきですが。

     

    「旧約聖書は漢字で書かれていた」の方はオリジナルの研究は中国人牧師だったが、その人と連絡を取り合いながら執筆したのが非漢字文化圏の人でした。聖書と漢字のただならぬ関係に気付いて研究を始めた中国人の仕事に興味ひかれた著者が、協力したと言います。この本はそのようにして集まった数人の人たちが関わったプロジェクトの成果として出されたものです。本書は、この議論が本当に成り立つのかと言う検証に重点を置いているので、その手の話に興味がある人には、こちらをお勧めします。

     

    「漢字に秘められた聖書物語」の方は面白いことに、漢字を覚えるのに自分にとって身近な聖書の知識が使えないかとやってみたところ、あまりにも多くの漢字が解釈できてしまうので、どんどん進めてとうとう一冊の本になってしまったと言う事なようです。多くの外国人から漢字学習に使いたいので英語版が欲しいと言う声に応えて、自費出版で英語版まで出してしまったと言うことです。聖書で読み解けると言うなら実例を見せろと仰る方には、解読例の多さでこちらをお勧めします。

     

    全く違う動機から漢字を聖書で読み解く仕事をまとめた本が複数執筆されたという事実は、聖書と漢字の関係がただならないものである可能性があると言っているような気がするのです。

     

    そこで、白川静の「文字講話」を開いてみました。

     

    すると、この記述に目が留まりました。

     

    許慎の「説示解字」にこうあると言うのです。

    易の八卦を作ったのが文字の起源であると。

     

    易は陰陽と深いかかわりがあります。

     

    そして、陰陽はタントラなどとならぶ、古代の弁証法思想なのですが、陰陽やタントラとユダヤ教神秘思想であるカッバーラとは、実は深い関連を指摘できるのです。

     

    聖書自体の編纂は、漢字の誕生より時代が下ると指摘されます。

     

    しかし、やがて聖書に結実することとなる伝承や思想が、その編纂に先立って東方に伝わることは、大いにあり得る事なのです。

    ペルシャとインドの民族の起源は極めて近いことは、よく知られていることです。

    古代中東の思想がベースとなって、インドではタントラが、中国では陰陽や易が、生まれたことは十分に考えて良い事ではないでしょうか。。

     

    日本人の祖先は、東アジアや南アジアの民族が分かれるより前に中東を旅立ち、日本にたどり着きました。

     

    実際中国古代の民族の移動を見ると、西方から来た白人的風貌な民がいたことがわかっています。

     

    例えば、楼蘭故城の西170㎞で見つかった小河墓です。

    集団墓地には眠っていたのは、彫りの深い白人に似た容貌なミイラたちでした。

    赤く塗られた棒状の男性を象徴する墓標に女性が、黒く塗られた扇状の女性を象徴する墓標に男性が、葬られているのです。

    これは陽の男性原理には陰の女性原理、陰の女性原理には陽の男性原理が配されると言う、陰陽に極めて近い思想が示しています。

    大陸内部で彼らの消息を辿ることはできていないが、滅びた痕跡も見つかっていない以上どこかに移住したと見るのは自然であり、その先が日本であることは十分あり得るのです。

     

    神道の哲学もまた極めて陰陽に近く、随神(かんながら)の思想は経典こそないがこれまた聖書の教えに奇妙な程似通っているのです。

    そして、アイヌの生活文物に古代イスラエルとの類似が、沖縄にいたっては文化と聖書の類似が、指摘されるのです。

     

    縄文人のルーツも一筋縄ではいかぬところがあって、複数の集団が合わさっているのではないかと見られています。

    そうなれば、そのうちの一つにアジアルートがあると考えるのはごく自然です。

    そして、そのルートが古代中東のカッバーラに通じる思想の伝播と深く関わっていたとみても良いのかもしれません。

     

    実際、釈迦を生んだ地域と近いチベットも日本人と共通の古代中東の遺伝子が残っているのです。

     

    「旧約聖書は漢字で書かれていた」のなかで、キリスト教と驚くほど似通った上帝に注目しています。

    もしかすると、この上帝思想も日本の天皇の思想の下敷きになっているかもしれないと考えてみても面白いでしょう。

    この上帝思想から、天孫降臨の発想も生まれたのかもしれません。

     

    古代中東から東アジア、さらには日本への民族の移動の過程で、やがて聖書に結実することになる伝承が古代中国の地に伝わり、漢字の成立に多くの影響を与えているのかもしれません。

     

    彼らは興亡の激しい大陸を逃れ、日本に渡ってきたがやがて自らの出自を忘れ、日本に同化してしまったのかもしれないですね。


    漢字を簡単に簡体字に替えてしまった現代中国と、古い字体を伝え続けている日本と台湾。

    そう考えてみると、不思議な気がするのです。

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    聖書は誰の目線で書かれているか。

    聖書に猫が出てこないと言う人もいます。

    外典に位置付けられるエレミヤの手紙に、聖書では珍しく猫がでてきます。

    エレミヤの手紙はバルク書の第6章として含まれることもあり、哀歌の後続の小編として位置づけられています。

    偶像崇拝の馬鹿らしさを述べる文脈の中で、21節に゛その体や頭の上を、こうもりやつばめ、小鳥が飛び交い、猫までやって来ます。゛とあるようにバビロニアにも猫はいました。

    ならば、古代のイスラエルやユダの王国に、猫はいなかったのでしょうか。

    イスラエルの民は猫が大好きなエジプトに長い事住んでいた以上、猫の存在も、財産を守る猫の大切な役割も、知らなかったはずはありません。

    エジプトを去る際、多くの財産とともに出発したことでしょう。

    ならば、彼らの傍らに猫がいなかったと考える方が不自然ではないでしょうか。

    にも拘らず、聖書にはエレミヤの手紙以外に猫の出番がありません。

    しかし、ねずみはレビ記、サムエル記上、イザヤ書、ゼカリヤ書に登場します。

    ねずみは地を荒す穢れた生き物として嫌われている事を思えば、大切な祭具や貯えや諸々の道具類を守るために猫を同伴していたか、ヤマネコの来訪を待ち望んでいた可能性があります。

    ならば、なぜに猫の出番が聖書で巡ってこないかと言えば、答えはただ一つです。

    聖書は歴史の記録書である以前に、聖典だからなのです。

    古代イスラエルやユダヤに人たちがどんなに猫の可愛さにぞっこんになろうが、めろめろになろうが、ちゃんとした生活さえできていれば何の問題もないわけです。

    これでもし、猫の可愛さにかまけて仕事がおろそかになった人が続出して由々しき事態にまで発展していたなら、神様も猫の構い方について説教をしたことでしょう
    今でも猫はマイペースで、邪魔になると思えば自分から落ち着ける居場所を求めて避難します。

    まして聖書の時代、猫の一番の任務はねずみ退治であり、猫の生活は縄張りの巡回か寝ているかのどちらかであったし、人々もまた日々の営みで忙しかったことでしょう。

    人々の古代からの友として賞賛する人の多い犬でさえ、人々との係わりはほとんど記述はありません。

    まして猫はマイペースで、人々のプライベートな寛ぎの時間の遊び相手になることが多いわけです。

    町を歩いていて思いがけない場所で出会えれば運が良いと言える存在である猫に、聖書での出番が沢山ある方がおかしいのです。

    聖書に猫の出番が少ない理由に、わざわざエジプトの事を持ち出すまでのことなどないと言えるでしょう。

    聖書で犬の出番は確かに多いです。

    出エジプト記、士師記、サムエル記上、サムエル記下、列王紀上、列王紀下、ヨブ記、詩編、箴言、伝道の書、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、ミカ書、マラキ書、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ピリピ人への手紙、ペテロの第二の手紙、ヨハネの黙示録と、犬の出番のない書を上げた方が早いくらいです。

    だが、犬と犬好きに気の毒なくらい、聖書での扱いは芳しいものがありません。

    それは、当時の犬は野犬が多く、家畜や旅人にとって危険な存在だったという事情もあるかもしれません。

    けれど思い起こしてください。

    今の私たちの諺でも、犬が出てくるもので犬の評価が高いものはどれだけあるでしょう。

    それに比べれば、猫に関する諺の愉快で笑えるものは多いです。

    それは猫が寛ぎの時間の遊び仲間だからでしょう。

    出番が多い割に可哀想な扱いの多い犬に対して、エレミヤの手紙以外の出番はないが゛猫まで″と猫は並みいる動物たちの中で別格扱いです。

    聖書は、人々に対して神への絶対的な服従を求める書の印象が強いかもしれません。

    だが、神は人々にサタンではなく神である私を選びなさいと求めているのです。

    神への服従は、神の命令ではなく、神の勧告なのです。

    自由な猫と、服従の犬。

    そう思って聖書を見れば、人々の自由な選びによる自らへの服従を粘り強く待ち続けておられる神の目線は、果たして猫と犬、どちらに近いでしょう。

    コーランの神であるアッラーは、聖書の神と同じですが、古代エジプトの猫神ラーが正体かも知れません。

    猫神ラー=アッラー=聖書の神エロヒムの構図に、神の子イエスを並べて見れば、親のエロヒムが猫神ならイエスは子猫ではないでしょうか。

    エレミヤの手紙で゛猫まで″と猫は並みいる動物たちの中で別格扱いなのは、猫は別格な神の化身あるいは使者に準えて皮肉られているのではないでしょうか。

    猫は象徴ではあっても、神の化身あるいは使者の当人ではないからです。

    聖書を選択の自由を説く書として見るなら、自由な存在としての猫目線で書かれているからこそ不自由な選択の余地のない服従の象徴としての犬は可哀想なくらい評価が低いのかもしれません。

    聖書が猫目線で書かれた書とすれば、猫の出番が聖書にほとんどないどころか、猫の聖典が実は聖書なのかもしれません。

    ヨハネによる福音書1章1節にこうあります。

    初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

    この言葉とは、イエスの事です。

    面白いことに、実際に猫はイエスのメタファーなのです。

    これ、偶然でしょうか。

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    日本の国名に隠された意味?

    日本と言う国名に、実は日本の正体が隠されているのではないでしょうか。

    文字通り読めば、日出ずる處の天子云々とあった聖徳太子の国書にあった、日出ずる處に由来する国名と言うことで、はいお仕舞でしょうね。

    日本は、「日ノ本の国」と解釈をされているわけです。

    ()、つまり太陽は昔から多くの国で神として祀られているけれども、日本でも天皇の祖先神として祀られているわけです。


    では、本(もと)とは何かです。

    本には、草木の根や茎、植物という意味もあるが、もっと広い内容が込められています。

    物事の根源。もと。

    中心となる部分。主となる。

    当の。この。わが。

    正式の。本当の。

    もとにすべきもの。てほん。

    これらの意味をひっくるめて解釈すると、日本の国名の意味は大変なことになります。

     

    わが日ノ本は、天皇の祖先である太陽神を存立の根源の中心として頂く世界の手本となるべき本当の国である。

     

    なんとも、凄いことになっています。

     

    さらに、「本」と言う字には、「夲」と言う書き方もあるのです。

    「夲」と言う字は「大」と「十」に分解できるが、「大」の字は手を広げた人の姿が元になっています。

    そうなると、「夲」と言う字は「人」と「十」を組み合わせて作ったものと見る事ができます。

     

    「人」と「十」を組み合わせとなると、歴史上の有名人は二人しかいません。

     

    十戒のモーセと、十字架のイエスです。

     

    イエスは、モーセに十戒を授けたのは私であると指摘しているから、イエス1人に集約できます。

     

    人々に十戒を授け、贖罪の子羊として十字架に架かったイエスと言う解釈が、「夲」と言う字から出てきます。

     

    さらには、イエスは光の象徴であり、太陽に準えられるお方なので、「日ノ本の国」は「真のイエスの道に随う国」と読み替えることもできます。

     

    日本の民俗宗教は神道だが、随神(かんながら)の道をその名の解釈としています。

    神に付き随う事を求めるのが、神道なのです。

     

    聖書では、神に随う人々は神の子羊と表現されるが、求められている心は「幼子のように神を慕う心」です。

     

    面白いのは、日本には童児祭祀の風習が各地に伝わっているのです。

     

    これは、「七歳までは神のうち」と言う考えによるものとみられるが、明治期以前の日本人の生命観では「七つまでの子供」は「神の子」とされていました。

    「七つまでの子供」は、「この世」と「あの世(黄泉)」の中間のどちらかというと「あの世」の所属、つまり「神の世」の所属と見られていたことになり、神の臨在または神の依り代として、祭祀に加わっていたと言う訳ですね。

    童児祭祀に参加することは、神とともに祭祀に加わることであるとともに、幼子のように神を慕うものであると神に認めて戴くことでも、あったのです。

    随神は、同じ音の惟神にも通じるが、惟(ゆい)とは「思う」とか「はい(承諾の返事)」と言う意味です。

    惟の実践とは、よく考えながらよく随う、となるでしょう。

    イエスは、「蛇のように賢く、鳩のように素直に 」と求めています。

    まさにその実践は、惟神の一言で表わせるわけです。

    そうなると、神道の実践とは、「幼子のように神を慕う心」で神を思いながらも、「蛇のように賢く、鳩のように素直に 」神に付き随う事となり、キリスト教の実践の心得そのものずばりとなってしまいます。


    日本には至る所で聖書を連想できる風習や文化が残り、大災害でさえパニックにならずにお互いを思いやる行動で世界を驚かせた側面があります。

    そう言えば、聖書には麦と毒麦の譬えもあります。

    抜いて焼かれる毒麦ではなく、豊かに実る麦のようになりなさいと言うことです。

    本には、草木の根や茎、植物という意味もある事を思えば、なんとも妙な気分になります。

    日本と言う国名と、神道と言う民族宗教を考えてみたら、キリスト教にまで行きついてしまいました。

    なんとも、日本とは不思議な国です。

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    預言者としての詩人。

    詩人の“詩”は、“私”ではなく“師”。

     

    だから、イメージを”降りてくる”ものとしばしば表現する。

     

    “詩”の表現手段は言葉に限らない。

     

    人によって、音楽であったり絵画や造形であったりする。

     

    普遍のメッセージが表現された“詩”を感じられる芸術は、時代を超える。

     

    普遍の“詩”は、“師”に対して素直で謙虚でへりくだった心に降りてくる。

     

    普遍の“詩”を私たちに降ろしてくれる詩人は、永遠の子供として生きている人達なので限りなく純粋であり、それだけに、大きな賛美も大きな無理解も、受けざるを得ない。

     

    なんだこれはが芸術ではなく、芸術がなんだこれは。

     

    “なんだこれは”が即ち芸術ではない。

     

    だが、芸術は“なんだこれは”が付き物。

     

    それは降りてきた“詩”に心が痺れを感じた瞬間。

     

    それは、感動。

     

    ここを取り違えると、神を見失ったのと大差がなくなる。

     

    ここをはき違えると、いつまで経っても芽が出ない独り善がりの自称芸術家に堕落する。

     

    普遍を感じられる“詩”のある作品は、降りてきた存在という点で、その作品の表現者はある意味では“預言者”と言える。

     

    作品と呼ばれるものは山ほどあるが、多くの人が心を痺れさせる感動を得られる“詩”のある作品は、それ程多くない。

     

    “預言者”は召された者がなれるからだ。

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    重国籍批判を放置していては危ないことになる。

    民進党代表選をきっかけにして、重国籍批判の動きが広まっています。

     

    それは、日本の国籍法が重国籍を認めていないからです。

     

    だが、現実にはすでに、かなりの数で重国籍の人はいるはずです。

     

    例えばブラジル国籍は、自らの選択で抜けることは制度上不可能と指摘されています。

     

    ブラジル国籍者は自ら又は国家の意思でブラジル国籍を剥奪又は放棄される事をブラジル憲法は認めていません。

     

    つまりブラジル国籍は一生消えないという事です。

     

    移民受け入れの上で制度的な制約がまだ多い日本は、ブラジルから多くの日系人を受け入れることで制度上の制約を回避しようとしました。

     

    もし彼らから帰化が出れば、重国籍になる可能性は多いはずです。

     

    この課題をどう扱ったのでしょう。

     

    日本の国籍法には国籍選択を行わなかった場合は、自らの意思で日本国籍を選択したものと見なすという規定があります。

     

    日本国籍とブラジル国籍との重国籍の人たちを中心に受け入れて、帰化の際の難問を回避したのでしょうか。

     

    もしそうなら、重国籍を認めないと言う規定は事実上空文化していることになります。

     

    アメリカ生まれの日本人の子供たちは殆ど国籍選択をしてないから、大人になっても事実上の日米の二重国籍者となって日米双方のパスポートを有している若者が大勢いると言います。

     

    二重国籍を認めている国で生まれた日本人の子供たちの多くが国籍選択をしないまま、日本との二重国籍を持っている可能性は十分にあり得ます。

     

    そして事実、自民党議員の中にアメリカとの重国籍の人がいました。

     

    これまで国籍法上何の問題にもならないで、その人はこれまで生きてきたことになります。

     

    穴だらけの国籍法のおかげで、重国籍が問題にされなかった人は今でも相当数いるはずではないでしょうか。

     

    日本が国際化すればこういう子供たちが増えて、重国籍禁止は実態や実情に合わなくなるでしょう。

    日本の国際化が進めば、重国籍保有者も増えるはずです。

     

    有名無実化している穴を放置して、重国籍を認めないと言ってもダブルスタンダードではないでしょうか。

     

    特に問題を起こしていない人の帰化を認める際、すでに持っている国籍の放棄は当人の自由意思に任せることや、在外日本人の外国籍取得の際日本国の放棄をするかどうかも当人の自由意思に任せることを、法的に定めて重国籍禁止の原則を廃止した方が良いのではないでしょうか。

     

    その後仮に問題行動があったとしても、個別の法規で対応すれば良いだけの話だと思います。

     

    重国籍排除の動きは、言ってみれば国籍浄化の動きではないでしょうか。

     

    ナチスがアーリア人種の優越を叫んで反ユダヤを行った時代を彷彿させる展開に思えるのです。

     

    ニーメラーの詩は、他人事と思っているとやがて自分が危ないと言うのがメッセージと思うのです。

     

    ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった

    私は共産主義者ではなかったから

     

    社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった

    私は社会民主主義ではなかったから

     

    彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった

    私は労働組合員ではなかったから

     

    そして、彼らが私を攻撃したとき

    私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

     

    共産主義者を重国籍と読み替えてニーメラーの詩を書き換えて見れば良いでしょう。

     

    次は生活保護で読み替えて見るとかでも良いかもしれません。

     

    勿論今も反共は根強いから、元の詩のままで読んでも十分、教訓を得られると思うのです。

     

    重国籍排除の次は、どこへ排除の動きが広がるかわからないです。

     

    私は重国籍じゃないから関係ないと言わないで、今、彼らを擁護しないと危ない展開が待っているのではないでしょうか。

     

    反共攻撃への警戒を避けて迂回している可能性が大きいのではないでしょうか。

     

    ハードルが低そうなところから狙うのが常套手段と覚えておいた方が良いのではないでしょうか。

     

    重国籍狩りにストップをかける国民的な動きを早急に広めた方が良いのではないでしょうか。

     

    相手は、「反日」「非国民」「売国奴」のレッテルはってくるかもしれないが、ひるんではいけないと思うのです。

     

    彼らの挑発的な言動にのっても怯んでもいけないと思うのです。

     

    自由と人権と民主主義と平和の旗を、高く掲げ守り抜く声を上げようではないですか。

     

     

    重国籍批判の本当の狙いは、国民の中に混乱と分断を持ち込み、改憲勢力に対する反対の動きを牽制することにあると、見ておいた方が良いと思うのです。

     

    重国籍批判の顔ぶれの中心的メンバーと改憲勢力の中心的メンバーは、ほぼ重なっていることが見て取れるはずと思うのです。

     

    重国籍批判の人たちは、反論する人たちに「反日」「非国民」「売国奴」のレッテルはってくるでしょう。

     

    彼らの真の狙いはこれらのレッテルで改憲勢力に反対する動きを牽制することにこそあるのは、これからの重国籍批判の展開を見れば明らかになるはずだと思うのです。

     

    重国籍批判に安易に乗ってはいけないと思うと思うのです。

     

    それは後で、自分を窮地に追い込むことになるでしょうから。

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