言葉

本当にこれって原罪?

アダムとイブが蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べてしまう話は、聖書を知らない人でも一度は聞いたことがあるでしょう。

 

ここは、創世記の中でも、有名かつ、結構重要な個所です。

 

ある意味、聖書の一番の肝と言える部分でしょう。

 

なぜなら、この出来事がアダムとイブの楽園追放に繋がっていくからです。

カトリック教会のステンドグラスや壁画には、裸でエデンの園を追われる失楽園が描かれ、数々の名作も残っています。

 

多くの教会が原罪と位置づける部分であり、イエス生誕はこのアダムとイブの堕落からの救いとして説いているからです。

 

だが、本当にその解釈で良いのでしょうか。

 

アダムとイブは、皮の着物を与えられてエデンの園を出ているのですよ。

 

創世記 3 21

主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 

 

では、問題の個所を見ていきましょう。

創世記 3 45

4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 

5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 

ここは新共同訳でもこう訳されています。

創世記 3 45

4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 

5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

 

ところが欽定訳(キングジェームスバージョン)ではこう訳されています。

Genesis Chapter 3 verse 4~5

4 And the serpent said unto the woman, Ye shall not surely die:

5 For God doth know that in the day ye eat thereof, then your eyes shall be opened, and ye shall be as gods, knowing good and evil.

5節の訳はほとんど変わりません。

 

問題は4節です。

Ye shall not surely die:

この言葉は神がアダムに告げた“thou shalt surely die” 217節)の“surely die”を受けたものです。

thou shalt surely die”は「あなたに禁ずるよ必ず死ぬからね」と言うことです。

そこでイブも、“lest ye die”33節)「死んではいけないから」と答えています。

surely”は「間違えなく」「確かに」と言う意味です。

また、“shall”は「そうする」「そうなる」「そうするつもりだ」「そうするべきだ」と言う意味です。

そこで” Ye shall not surely die”は「あなたが死ぬと決まってはいない」とも解釈可能となるでしょう。

蛇はこの言葉の裏に、「神が言ったからって、真に受けない方が良いよ。神はあなたたちを脅かしてるだけだから」という気持ちを込めているのです。

蛇は「ここでアダムとイブに死なれちゃ困るという神の本音を私は知ってるよ」とほのめかしたと言えるかもしれません。

でも、神は蛇、つまり、サタンがそこを見透かしてアダムとイブをそそのかすことまで見抜いておられたわけですね。

 

神様の方が一枚上手というか、ある意味ずる賢いというか、でもそれくらいじゃないとサタンの上にいられないですよね。

神様は、わたしたちに「ここまでおいで」と言うのでしょうけど、かなりのむちゃぶりですよね。

マタイによる福音書 5 48

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 

だからこその、救いの計画なのでしょう。

神の深い読みと、深い愛に改めて感謝。

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真の教会はどこに?

聖書には象徴で描かれていて、よくわからない文章が多いですが、これもその一つです。

 

イザヤ書 4 

 

1 その日、七人の女がひとりの男にすがって、「わたしたちは自分のパンをたべ、自分の着物を着ます。ただ、あなたの名によって呼ばれることを許して、わたしたちの恥を取り除いてください」と言う。 

2 その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇、また光栄となる。 

3-4 そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。 

5 その時、主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。これはすべての栄光の上にある天蓋であり、あずまやであって、 

6 昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる。

 

口語訳では3節と4節が合わせて訳されているけど、新共同訳では分けられています。

 

イザヤ書 4

 

1その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。「自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と。

2その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。 

3そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。 

4主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。 

5主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。 

6昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。

 

キングジェームスバージョン(欽定訳)でも、3節と4節は分けられています。

 

Isaiah Chapter 4

 

1 And in that day seven women shall take hold of one man, saying, We will eat our own bread, and wear our own apparel: only let us be called by thy name, to take away our reproach.

2 In that day shall the branch of the Lord be beautiful and glorious, and the fruit of the earth shall be excellent and comely for them that are escaped of Israel.

3 And it shall come to pass, that he that is left in Zion, and he that remaineth in Jerusalem, shall be called holy, even every one that is written among the living in Jerusalem:

4 When the Lord shall have washed away the filth of the daughters of Zion, and shall have purged the blood of Jerusalem from the midst thereof by the spirit of judgment, and by the spirit of burning.

5 And the Lord will create upon every dwelling place of mount Zion, and upon her assemblies, a cloud and smoke by day, and the shining of a flaming fire by night: for upon all the glory shall be a defence.

6 And there shall be a tabernacle for a shadow in the daytime from the heat, and for a place of refuge, and for a covert from storm and from rain.

 

口語訳では「滅亡の霊」と訳された個所は、共同訳では「焼き尽くす霊」、欽定訳では“burning”となっています

burning”とは、「非常に熱い」「燃えるような」と言う事です。

 

そうなると「審判の霊と滅亡の霊」による洗い清めとは「聖霊と火」によるバプテスマの事かもしれません。

 

マタイによる福音書 3 11

 

わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。

 

主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きを…とあります。

もっとも欽定訳では“a cloud and smoke by day, and the shining of a flaming fire by night”とあって、昼は雲と煙で夜は火があることになっていて日本語訳との違いがあるのが少し気になりますが。

 

この箇所は、出エジプトの雲の柱と火の柱を連想できます。

 

出エジプト記 13

 

21主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。 

22昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。

 

イザヤ書では、雲や火に覆われるかの印象を受けます。

口語訳、新共同訳、ともに「天蓋」と訳しています。

そして欽定訳では“defence”となって、守られている事がより強調されています。

 

こうなると神の御霊に包まれ守られない事には、ここにいることもままならないでしょうから、攻めてくる敵はまずないでしょう。

となると気になるのは、一人の男にすがる七人の女です。

 

「女」も聖書で複数の意味で用いられる言葉の一つですね。文字通りの人としての「女」、教会や町の象徴としての「女」。ここでは教会の象徴と見て解釈しました。

七を「神の象徴」と見たのは創世記で七日目に神が休まれたからです。

それに、一般的な解釈としても七は特別視されることが多い数ですよね。

 

女を教会と見ると、黙示録の七つの教会が連想できます。

七を神の象徴と見れば「七人の女」は「神の教会」ということでしょうか。

「自分のパンをたべ、自分の着物を着ます」も「私たちは自分の報いを自分で受けます」と言う事でしょうか。

 

「ただ、あなたの名によって呼ばれることを許して、わたしたちの恥を取り除いてください」もまたこうなるでしょうか。

 

「主なるイエスの名によって呼ばれることを許して、わたしたちの罪を清めてください」

シオンの娘もまた、教会の聖徒の事かもしれません。

 

そうなると、このイエスの名による神の教会とは何かとなります。

 

神がイエス・キリストによって作られた教会と間違えなくいえるのは、イエスの時代の教会です。

教会の聖徒であると安心するだけではなく、神に守られるにふさわしくあれと言う事でしょうか。

 

自分はそうなれているか、祈りによって導きを求めていくことが求められていると言う事でしょうか。

 

自分の集っている教会はイエス・キリストの教会と名乗るにふさわしい状態か、自分はキリスト者、クリスチャンを名乗るにふさわしい心でいるのか、神に常に問いかけ自らを律している事の大切さを説いている聖文なんでしょうね。

 

マタイによる福音書 7 21

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

 

キリスト・イエスもこうおっしゃっておられますから。


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日本人はもっと議論とは何か、知った方が良い。

日本人の多くは、議論の仕方を知らなすぎるように思えます。

「弁証法」と言う言葉や思想があります。

弁証法とは「対立する立場や要素同士が、対立しつつ相互に依存しあい、相互に依存しあいながら対立しあうことを通じて物事は展開し発展する」と言う考えを表しています。

似た発想は、実は古代思想の陰陽にもあります。

「対立する立場や要素同士が、対立しつつ相互に依存しあい、相互に依存しあいながら対立しあうことを通じで物事は展開し発展する」ありさまを「弁証法」と言うのは建設的な議論はまさにこの様なものだからに、ほかなりません。

 

論破は議論の一つの側面だが、議論のすべてではないのです。

日本人はこれを知らなすぎませんか。

これは日本人の集団の原点が、親子や兄弟に代表される上下関係だからではないでしょうか。

このような関係では、相手を従わせることは相手の意見を論破し封じ込め黙らせるしかない、どうでしょうか。

 

集団の方針を徹底させることが最優先な場では、自由な意見交換は結束を乱すとして排除されてきたのではないでしょうか。

自由に意見を述べさせていると言う人もいるでしょう。

それでは、彼らが出した意見は、どれだけ決定に反映されていますか。

言いたいことは一応言わせたし、聞いてやった、文句あるかという口実にしてるのではないですか。

 

論破か服従が全て、これでは議論するという文化が生まれる余地は少ない、そう思いませんか。

 

欧州世界で弁証法と言う発想が芽生えたのは、社会は独立した個人の集合だったからでしょう。

独立した個人の集合である社会の場合、論破と服従ではかえって新たな対立と混乱の火種を抱える結果となるでしょう。

みんなの納得するより良い意見に議論を収束させ丸く収める必要があったからだ、そう思えます。

そのために弁論術が発展してきたのでしょう。

 

より説得力をつけ主導権を得る事が、議論では大切になってきます。

議論に説得力をつけるには、何よりもまず論理的でなければならないのです。

感情的議論は水掛け論に終わります。

 

哲学は、議論を戦わせる人達に論理と言う便利な道具を与えました。

弁証法と言う発想もこういう世界だから生まれてきたのでしょう。

議論も万物を貫く哲学に従う方が好ましいからです。

議論に普遍性があるかないかで、説得力に大きな差が出てきます。

 

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

18世紀のフランスに生きた哲学者ヴォルテールの言葉です。

言論の自由は、これくらいの覚悟があってはじめて守り通すことができる、違うでしょうか。

多くの人たちがこの気持ちを共有できてこそ、言論の自由は本物になる、違うでしょうか。

 

このような考えが当たり前になれば、意見を言う事も命がけではなくなりますよね。

「私はあなたの意見には反対だ、だからあなたには黙っていていただきたい」

たとえ言葉で言わなくとも、無言の圧力が周囲からかかるようでは、ちょっとした感想でさえ言うのは命がけに近くなる、違うでしょうか。

今、漫才師の村本大輔氏の発言が多くの人たちによって取り上げられて、賛否両論が出ています。

だが、村本大輔氏の意見を批判してる人の多くは、お前の意見を私に押し付けるなと言う立場に見えるのは気のせいですか。

だが、村本大輔氏は自分の思いを言っているだけで誰にも押し付けてはいないのではないでしょうか。

むしろ批判している人たちの方が、自分の意見に村本大輔氏は従えと押し付けているようにさえ思えてくる。

どうでしょうか。

 

あるいは、芸人は芸だけしてればいい、余計なことは言うなと言わんばかりの声もあるようです。

多分その人も、何々の分際でそのような口をきくか、黙って従っていればいいという環境に飼いならされてしまっているのではないか、そんな気がしてなりません。

 

例えば、村本大輔氏の「殺すくらいなら殺される方を選ぶ」と言う発言に賛否があるのです。

私はそれは嫌だという人は、その考えを押し付けるなと言う意見が多いように見えます。

内容の是非以前に、私は従うのまっぴら御免と門前払いして、彼の議論に勝とうとしているとさえ思えるのです。

村本大輔氏は自分はこうしたいと言っただけで、あなたもそうしてくれとは言っていない、違うでしょうか。

 

意見を言うこと=押し付け、ならだれもモノが言えなくなるじゃないですか。

日本人ももっと、議論をするとはどういうことか、一から学びなおす方が良いように思います。

違うでしょうか。

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日本語とロシア語?!

面白い本を手に入れました。

 

笹谷政子著「日本語の起源」と言うのだが、日本語はロシア語、トルコ語、朝鮮語の接触と混交から生まれたと主張しているのです。

 

朝鮮語と日本語はよく比較されるが、ロシア語とトルコ語とは、意外な顔ぶれと思うかも知れないですね。

 

だが、トルコ語も日本語と似た単語を持つ言語として注目する声があるのです。

 

ここではロシア語に注目したいです。

 

著者は日本語のベースはロシア語にあると、見ているからです。

 

ロシアも、日本先住民の子孫と見られているアイヌが多く住む地域であり、バイカル湖畔が近年日本人の起源で注文されてきているし、シベリアのバイカル湖の方まで行くと日本人そっくりなブリヤート人に出会うそうです。

もちろん秋田美人のそっくりさんも多いです。

 

ロシア語と日本語も比べてみると面白い事がわかりそうだから、スラブ古語と日本語の古語は比べてみる価値があると以前から思っていました。

 

私も日本語とロシア語の関係が因縁浅からぬものである可能性は、否定しないです。

 

だが、スラブ民族の起源については、どうも引っかかることがあります。

 

ミーシャのスラブ叙事詩のなかに、スラブ民族の起源に触れたものもあるのだが、旧約聖書のアダムとイブの伝承を何度見ても連想してしょうがないのです。

 

スラブ民族の起源を知ると、旧約聖書のアダムとイブの伝承を連想したその印象は、無理からぬものである気がしてきます。

 

スラヴ人の多くは、コーカソイド人種の特徴を持っていることは事実です。

今でこそモンゴロイドに分類されるアイヌだが、その外見からコーカソイドと見られていた時期もあります。

言い換えれば、アイヌとコーカソイドはそれくらい見た目が似ていると言う事です。

スラブ民族の原住地は、カルパチア山脈周辺と推定されるというのです。

スキタイ人やサルマタイ人を吸収同化して、同一の言語集団として成立して行ったと見られています。

スキタイと言えば、ユダヤ人の歴史、取り分け日ユ同祖論を語る人たちにはユダヤ人と深く関わった人たちとして論じられる人達なのです。

サルマタイ人もまた、紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団です。

イランもまた、ユダヤ人の歴史を語る上で注目される国なのです。

サルマタイはギリシア語であり、ラテン語ではサルマタエとなる。また、彼らのいた黒海北岸地域をその名にちなんでサルマティアと呼ぶため、サルマティア人とも呼ばれます。

サルマタイ人は、紀元前7世紀末からウラル南部にいたサウロマタイに紀元前4世紀頃東方から移動してきた遊牧民が加わって形成されたとされます。

そしてユダヤ人もまた遊牧の民であった以上、係わりを否定する方が難しいでしょう。

スラブ民族は、その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、67世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていたものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持ちます。

スラヴ民族は、ユーラシア大陸のイラン系遊牧騎馬民族のサルマタイ、トルコ・モンゴル系のフン族、ゲルマン系の一部族ゴート族などの多民族から成り立っています。

東欧やシベリアは後にモンゴル・イラン・トルコ系アヴァール(ハーン)やモンゴロイドのブルガール人が定住、ハーンの侵攻からゲルマン民族が撤退後の土地に定住したのです。

 

スラブ民族成立過程にユダヤ人は直接には登場しないが、ユダヤ人の血が途中で入って来ている可能性はないとは言い切れません。。

 

少なくとも中東文化の影響は受けているはずで、その過程でアダムとイブの伝承が伝わったのかもしれないです。

 

それはさておき、バイカル湖畔起源説を考えるとスラブ古語が日本語のベースの少なくとも一部になっているのは十分にあり得る話です。

 

なぜ一部と見るかと言えば、アメリカ大陸からも縄文の子孫と見られているアイヌの親戚とおぼしき人骨が出ているのです。

その中にフランスとスペインの様式の矢じりとともに見つかったケネウイック人も、います。

 

日本に家族性地中海熱の発症例があることを、著者の議論で説明するのはいささか無理があるように思われます。

 

だが、日本人起源としてロシアとトルコに注目した点は、大いに評価したいのです。

 

もっと言及されても良い地域だからです。

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菅原氏。

菅原氏について調べてみる気になったのは、ひょっとしたら祭司の家系ではないかと言う気になったからです。

菅原氏の祖とされる天穂日命は日本神話に登場する男神で、天之菩卑能命、天菩比神などとも書かれます。

天照大神とスサノオが誓約をしたときに、天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った神とされます。

物事のタネとなるものをさす物実(ものざね)の持ち主である天照大神の第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたります。

ちなみにアメノオシホミミのフルネームであるマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミは、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、正哉吾勝々速日天押穂耳尊などの表記があります。

天穂日命は葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかったのです。

その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされます。

菅原氏の直接の祖とされるのは、天穂日命の子孫で、大相撲の祖として知られる野見宿禰を先祖とする土師氏です。

 大相撲自体すでに神事として営まれているでしょ。

菅原氏は祭祀に関与した一族である可能性が高いですね。

 その上菅原氏は土師氏の流れをくむとなれば、さらに可能性が出てきます。

大相撲の祖とされる野見宿禰はまた、殉死者の代用品である埴輪を発明したことでも知られそれがきっかけで第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われているから、祭祀に関わる一族であると言えるでしょう。

 殉死の代わりに土で作った埴輪で差し支えないと、説得力をもって説き伏せてしまう。

相当神事の奥義に通じていないとできないはずですね。

野見宿禰、かなりの神仙思想の使い手である技能に通じた人物であったと言えそうです。

神仙思想に詳しい技能者と言う事は、メーソンを連想できますね。

メーソンの関与を連想できる遺跡としては、酒船石遺跡があります。

酒船石遺跡とは、酒船石と平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めての総称です。

神仙思想に詳しい腕の立つ石工による工作物、という指摘がされた遺跡ですね。

神仙思想に詳しい腕の立つ石工とは、まさにメーソンの説明そのものにほかならないです。

 野見宿禰がもしメーソンだったとしたら、相撲にその証拠を見ることができますね。

土俵は四角で、そこに蛇の目を指し示す俵の円があります。

つまり、四角の中に円、定規とコンパスはメーソンのシンボルです。

さりげなく見せながら隠すのが、奥義なのです。

メーソンとくればカッバーラだけど、カッバーラとはユダヤ教神秘主義のことですよね。

あなたは土から生まれたから土にかえる、あなたは塵から生まれたから塵にかえる。

有名は聖書の一節ですよ。

野見宿禰がメーソンでありカッバーラの使い手であったなら、あり得る話ですね。

でもこれは、当時の日本のトップにいた人たちが聖書を知っている事が前提ですね。

初代神武天皇からして、実はユダヤだったとしたら、どうでしょうか。

少なくとも神武天皇のバックにいた可能性が高い徐福についてはユダヤ人であったと言う説があります。

日本人のルーツのうちで、どこまでがユダヤ人と言えるかについては、諸説あるようです。

 少なくとも天孫一族については、ユダヤ人説があるでしょ。

 縄文、弥生となると、どうでしょうね。

皇室やその周辺はユダヤ人だった可能性は、見ても良いかもしれないですね。

縄文や弥生についても、可能性は否定しない方が良いでしょうね。

土師氏のうち平安時代初期に大和国菅原邑に住んでいた一族が、以降、菅原氏を名乗ることとなります。

土師氏から分かれた一族としては、菅原氏のほかに大江氏や秋篠氏があります。

菅原古人の子清公、および孫の是善を含め、大江氏と並んで子孫は代々、紀伝道すなわち文章道を家業として朝廷に仕えていました。

そして、古代には政(まつりごと)は祭り事(まつりごと)でもあったから、菅原氏は文章道を家業としていたなら相当に祭祀に通じていた家系であると言えるでしょう。

菅原氏、少なくとも菅原道真は天神を篤く崇拝していたと言います。

天神は雷神として知られるが、菅原氏の祖は天穂日命で、どこでどうやって雷神としての天神と結びつくのかが、謎めいています。

だが、雷神と言えば雷鳴、つまり、雷です。

「かみなり」は「神鳴り」や「神成り」に通じた音と言う事は、雷鳴を神の声と言い換えても良くなるはずでしょう。

地上に神の声を下す存在として雷神を見ると、神にお伺いを立てることを菅原氏は本来生業としていたと見ても良いでしょうね。

相撲もまた、神託伺いの神事の側面があると言えるでしょう。

力士は祭司、あるいは、神の依り代の役を担う存在であったのかもしれないです。

その力士の祖を起源としている菅原氏は、やはり、祭司一族と見て差し支えなさそうです。

とは言え、菅原氏を考察していたら、まともに日ユ同祖論にぶつかってしまったのは興味深いですね。

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平和な解決に共謀罪はかえって邪魔。

人々の本心からの声、心の奥底からの声は、誰も止めることはできないのです。

それを萎縮させ、人々を物言わぬ奴隷の地位に叩き落す懸念さえあるのが自公政権の共謀罪だから、国連も流石に待ったをかけざるを得ないのです。

それでも賛成する人は、言論の自由を失っても良いのだろうか、そう疑問を持たないわけにはいかないのです。

ルカによる福音書 19 3940

ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。

答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

イエスが、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」と言うのは、弟子達の声が彼ら自身からではなく彼らを導く神から出ているからだれも止めることはできないということです。

 

神に不可能はないと言うことだが、本当に石が叫んだら、もはやホラー映画まがいの光景なのですが

共謀罪の愚かさは、これが憎しみと報復の連鎖を生む戦争やテロと本質が何ら変わらないところにあるのです。

だから、共謀罪のある国でもテロが防げないと言うよりも、戦争やテロと同根の共謀罪で対処しようとしているからテロがなくならないのではないか。

違うでしょうか。

テロも戦争も、原因を平和的手段で取り除くしか手はない。

違うでしょうか。

共謀罪でもテロが防げないのではないのです。

逆です。

共謀罪があるから、かえって個人単位のテロが誘発される。

違いますか。

誰かに話しかけて共謀罪の疑いで捕まるくらいなら、個人的にテロに走った方が手っ取り早い。

違うでしょうか。

問題を生んだ原因を調べて解決しようとしないで弾圧で対処しようとする国家の対応が怒りをよび、次のテロの温床を生むことになる、これが実際に起きていることではないでしょうか。

つまり、共謀罪とは、国家VS民間の戦争であり国家による民間の思想統制思想弾圧の形をとっているに過ぎないと言えないでしょうか。

共謀罪の本質は、国家による民間の思想や言論の自由に対するテロ行為と言って良い、どうでしょうか。

 

テロの定義が難しくなる理由は、戦争を除外しようとするから。

それ以外の説明ができますか。

戦争もテロも、動機では区別不能、なのに無理して戦争やテロとを区別しようとするから、話が難しくなるのではないでしょうか。

 

国家Vs国家のテロが戦争、民間VS民間の戦争がテロ、国家VS民間が国内に向かえば武力弾圧や内戦、国家VS民間が国外に向かえば武力介入、単純でしょ。 ·

 

日本を戦争できる国家に変えると言うことは、日本を国家VS国家のテロである戦争をする国に変えると言うこと、違うでしょうか。

 

実際、戦争をしている国家はテロによる報復に悩まされているのではないでしょうか。

 

テロは民間VS国家の戦争に他ならないからです。

テロの民間VS民間の戦争の構図は、表面的なものに過ぎないのです。

 

テロや戦争の根絶は問題の平和的解決を目指す以外あり得ないのだ。

違いますか。

 

国家VS国家のテロが戦争、実際、局地化すれば紛争や武力衝突、更に局地化すれば暗殺やテロに限りなく近づく、実際そうなっていませんか。

民間VS民間の戦争がテロであるが、民間VS民間は表面的な形であり、動機は民間VS国家と言う点では本質はゲリラと変わらないと言えるでしょう。

テロとの差はゲリラが直接に軍を狙うこと、これくらいではないでしょうか。

 

共謀罪のターゲットが民間なのは、テロを国家の独占的行為にする目的があるから。違うでしょうか。

国家権力にとって都合の悪い行為は、たとえ平和的であっても国家によるテロ行使の妨げとなるから、権力はテロのレッテルを貼ってでも力づくで退けようと企むことになる。

違うでしょうか。

 

権力への敵対行為をすべてテロとみなすのが、共謀罪ではないでしょうか。

それは、共謀罪自体が、国によって差があるとしても、その本質が民衆の心の自由へのテロ攻撃にほかならないからではないでしょうか。

平和が欲しいなら、まず自らが平和を欲するものであることを態度で示すべき。

違うでしょうか。

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現在のコーランの解釈に誤解はないのか?

聖句の背景についての誤解が、実に悲しいことにコーランに関する後の世の解釈で深刻な事態を招いているのではないでしょうか。

 

勿論、これらの議論はどこまでも推論ですのでそのつもりでお付き合い願います。

 

まず、神の子についてです。

 

現在のイスラムでは、この言葉は神の子について否定していると受け止められています。

 

ユーヌス章

 

マッカ啓示109

 

68.かれらは、「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う。かれに讃えあれ。かれは自足なされる御方。天地の凡てのものは、かれの有である。あなたがたはこれに対して、権威はないのである。アッラーに就いて、自分の知らないことを語るのか。

 

この聖句についての背景が伝わっていないので即断はできないが、アッラーの子を名乗る偽預言者が現れて人々を惑わせようとしていたのかも知れません。

 

だが聖書はこう記しています。

 

ヨハネの第一の手紙 4 9

 

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

 

アッラーはマルヤムつまりマリアに御霊によって受胎させ、イエスをこの世につかわしたとコーランは伝えます。

 

イムラーン家章

 

マディーナ啓示 200

 

35.イムラーンの妻がこう(祈って)言った時を思え、「主よ、わたしは、この胎内に宿ったものを、あなたに奉仕のために捧げます。どうかわたしからそれを御受け入れ下さい。本当にあなたは全聴にして全知であられます。」

 

36.それから出産の時になって、かの女は(祈って)言った。「主よ、わたしは女児を生みました。」アッラーは、かの女が生んだ者を御存知であられる。男児は女児と同じではない。「わたしはかの女をマルヤムと名付けました。あなたに御願いします、どうかかの女とその子孫の者を、呪うべき悪霊から御守り下さい。」

 

37.それで主は、恵み深くかの女を嘉納され、かの女を純潔に美しく成長させ、ザカリーヤーにかの女の養育をさせられた。ザカリーヤ一が、かの女を見舞って聖所に入る度に、かの女の前に、食物があるのを見た。かれは言った。「マルヤムよ、どうしてあなたにこれが(来たのか)。」かの女は(答えて)言った。「これはアッラーの御許から(与えられました)。」本当にアッラーは御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。

 

38.そこでザカリーヤーは、主に祈って言った。「主よ、あなたの御許から、無垢の後継ぎをわたしに御授け下さい。本当にあなたは祈りを御聞き届け下さいます。」

 

39.それからかれがなお聖所で礼拝に立っていた時、天使がかれに呼びかけた。「アッラーからヤヒヤーの吉報をあなたに授ける。その子はアッラーの御言葉の実証者となり、尊貴、純潔で正しい人々の中の預言者となろう。」

 

40.かれは言った。「主よ、どうしてわたしに男の子があり得ましょう。わたしはもう老齢になってしまい、妻は不妊でありますのに。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのことを行われる。」

 

41.そこでかれ(ザカリーヤー)は言った。「主よ、わたしに印を御示し下さい。」かれ(天使)は言った。「あなたは3日の間人間と話すことが出来ず、身振だけで意志を通じさせることになろう。これがあなたに与えられる印である。だから多くあなたの主を念じ、朝にタべに讃えなさい。」

 

42.天使たちがこう言った時を思い起せ。「マルヤムよ、誠にアッラーはあなたを選んであなたを清め、万有の女人を越えて御選びになられた。」

 

43.「マルヤムよ、あなたの主に崇敬の誠を捧げてサジダしなさい。ルクーウ(立礼)するものと一緒にルクーウしなさい。」

 

44.これは幽玄界の消息の一部であり、われはこれをあなたに啓示する。かれらが籤矢を投げて誰がマルヤムを養育すべきかを決めた時、あなたはかれらの中にいなかった。またかれらが相争った時も、あなたはかれらと一緒ではなかった。

 

45.また天使たちがこう言った時を思え。「マルヤムよ、本当にアッラーは直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えられる。マルヤムの子、その名はマスィーフ・イーサー、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(アッラーの)側近の一人であろう。

 

46.かれは揺り籠の中でも、また成人してからも人びとに語り、正しい者の一人である。」

 

47.かの女は言った。「主よ、誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ、『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」

 

マルヤムすなわちマリアの受胎告知の瞬間が生々しく語られています。

 

イーサーはすなわちイエスはアッラーがもうけられた子ではないが、アッラーの命令によってマルヤムが授かった子であることが告げられているのです。

 

アッラーによって選ばれた乙女はマルヤムただ一人であり、アッラーがイーサー以外にこの世に送られた子は存在しない、よってイーサー以外でアッラーのもうけた子と名乗る者がいればそれは偽物だと告げていると解釈することも可能ではないでしょうか。

 

イエスの時代にもイエスの名をかたって悪霊を払うと称する人々がいたと、聖書に記されています。

 

またイエスは、偽預言者が出てきて人々を惑わすとも警告しています。

 

コーランでは、続く聖句にはこう記されています。

 

69.言ってやるがいい。「アッラーに就いて嘘を捏造する者は、決して栄えないであろう。」

 

アッラーの子を名乗る偽預言者が、ムハンマドの時代にいたとしてもおかしくありません。

 

どこまでも推論なので、断定することはできません。

 

だが、あり得ない話ではないのです。

 

ムハンマドには、イーサーつまりイエスがアッラーのアッラーの独り子であったと言いにくい事情があった可能性は十分にあり得るのです。

 

結果的に父と子と聖霊による神会の存在を、ムハンマドは言い出しづらかったのかも知れません。

 

婦人章(アン・ニサー)

 

マディーナ啓示 176

 

171.啓典の民よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。またアッラーに就いて真実以外を語ってはならない。マルヤムの子マスィーフ・イーサーは、只アッラーの使徒である。マルヤムに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯―の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にある凡てのものは、アッラーの有である。管理者としてアッラーは万全であられる。

 

なぜ私がこのような推論をするのか、それには理由があります。

 

イーサーの十字架での死を否定したと、受け取られている次の聖句の存在です。

 

コーランはこう記します。

 

婦人章(アン・ニサー)

 

マディーナ啓示 176

 

157.「わたしたちはアッラーの使徒、マルヤムの子マスィーフ(メシア)、イーサーを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。

 

コーランのこの記述の背景には、聖書の伝えるこのような事情があったのかも知れません。

 

マタイによる福音書 27 62節~65

 

あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、

 

「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。

 

ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。

 

ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。

 

しかしイエスはよみがえり、弟子達に十字架で受けた傷を確かめさせて十字架で死んだのは身代わりなどではなく自分自身であること、確かに肉体を持ってよみがえっていることを、あかしたことは聖書に記されている通りです。

 

だがかたくなとなったユダヤ人たちがどうしたか、聖書は次のように伝えています。

 

マタイによる福音書 28 11節~15

 

女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。

 

祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、

 

「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。

 

万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。

 

そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。

 

ユダヤ人たちはムハンマドに対しても、イエスの生涯はゴルゴダで終わっていると言い募ったのでしょう。

 

そこでムハンマドは、イエスの生涯はゴルゴダで終わってはいないことや今でもイエスは生きていることを、断定的に言い切る必要があったので、コーランに記された言葉となったのかも知れません。

 

コーランは預言者として召されたムハンマドの言葉を中心に編纂されていて、当時の状況まで記録されていないので、時代背景を調べたうえで推論を展開するしか手がありません。

 

だがコーランが聖典でもある以上、推論を展開するのに許される数少ない手がかりは聖書と言うことになるでしょう。

 

「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う一部の人々の言葉をムハンマドが否定せざるを得なかった裏に、アッラーの子と名乗る偽預言者がいた可能性を推測する理由がここにあります。

 

勿論、あっけなく偽預言者の化けの皮が剝がれ一件落着となって記録に残るまでもなかったのでしょうが、この手の偽物にムハンマドが手を焼いていたことは想像に難くないのです。

 

そうでなければこのような聖句が、コーランに残るでしょうか。

 

だが、こういう疑問を投げかける人もいることでしょう。

 

イエスには、子孫がいたのではないかと。

 

確かに、子と言う言葉には子孫と言う意味もあります。

 

そして、イエスとマグダラのマリアとの間に子があったのではないかと疑う人もいることは、最近でもダビンチコードでネタの一つにされたことで記憶にある方もおられる事でしょう。

 

コーランには、イエスには父はいないという文言もあります。

 

これは、イエスにはしばしば、大工のヨセフの子ではないか、と言う言葉が投げかけていたことに対してアッラーが業を煮やしておっしゃった言葉とも解釈出来るのです。

 

実際マルヤムは、地上の男性をだれ一人知ることもなくイエスを身ごもっているのです。

 

地上の男性にイエスと血のつながった父はいるはずがないので、この言葉には嘘はありません。

 

一方でイエスは常に天の神を父と呼んでいます。

 

だがコーランには、アッラーは子をなしていないとあるではないかと、反論があるかもしれません。

 

地上に今もアッラーの子孫がいると言いふらす人達に対して、アッラーはきっぱりと否定する必要あったと解釈できます。

 

余計な議論に深入りしない方法は、誤解を恐れずに端的に言い切るしかないのです。

 

地上にアッラーの子孫などはいないのだと、きっぱり言い切るしかないのです。

 

コーランには、当時の状況を書き記す説明書きは一切ありません。

 

ムハンマドにアッラーからもたらされた言葉が、記されているだけなのです。

 

コーランは何よりもまず、ムハンマドが聖典に対する正しい理解を守るためにいかに戦ったかの記録の書であったからなのでしょう。

 

記憶が生々しいうちはそれでも良かったが、時代が下り記憶は薄れていくとそうはいきません。

 

ムハンマドは繰り返し聖書を読むことを指示していたと言います。

 

コーランの記録に対する解釈に誤解が出ることを、恐れたからかもしれません。

 

コーランは実践的な指導書であると同時に、論争の記録書でもある以上正しい理解に聖書の学びは欠かせません。

 

だが、コーランの一般的解釈としてイスラム社会に一度広まってしまったものは、軌道修正は容易ではないでしょう。

 

とは言え、解釈に誤解が生まれない為には、絶えず検証していくことが必要ではないでしょうか。

 

そして、それで正しいかどうかは、神に祈って答えを求めるしかないでしょう。

 

聖書にはこうあります。

 

ヤコブの手紙 1 5

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

今回の議論の内容に、もし間違えがあるとすれば、神の声を聞き違えてしまった私に責任があるので、気がついた方は教えて頂ければ幸いです。
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    聖書は死者の救いのために何をすべきと言っているのか。

    イザヤ書 26 19

    あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。

     

    これはいったい何を意味する聖句なのでしょうか。

     

    イエスは救いの計画の対象は、全ての人々であると明らかにしています。

     

    マタイによる福音書 28 1820

    イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

     

    ならば、死者もその救いの計画の対象なのでしょうか。

     

    ヨハネによる福音書 5 1926

    さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。

    なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。

    すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。 父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。

    それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。

    よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。

    よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

    それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。(以下略)

     

    ここで注目したいのは、この下りです。

     

    よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

    それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

     

    つまり、死者であっても救いの計画の対象となると仰っているのです。

     

    では、死者の救いは具体的にはどのように行われるのでしょう。

     

    コリント人への第一の手紙 15 2529

    なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。

    最後の敵として滅ぼされるのが、死である。

    「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。

    そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

    そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。

     

    注目したいのはコリント人への第一の手紙1529節にある、死者のためのバブテスマです。

     

    キリストが滅ぼされる最後の敵が死であると言っています。

     

    しかし、最後の審判のために、全ての死者がよみがえることが聖書には記されているので、ここで言う死は肉体の死ではないことは明らかです。

     

    とすれば、ここで言う死とは霊的な死と言うことです。

     

    死者のためのバブテスマによって、死者は霊的な死から解放されると言うのです。

     

    ならば、世の教会のどこが、死者のためのバブテスマを行っているのでしょう。

     

    探すべきは、そういう教会であることは、聖書によって示されていますからね。

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    三位一体を疑ってみた。

    創世記では、神が複数であることが示されています。

     

    創世記 1 26

    神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

     

    イエスはこの“われわれ”が“父と子と聖霊”であることを明らかにしました。

     

    マタイによる福音書 28 1820

    イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

     

    多くの教会は、この“父と子と聖霊”は三位一体であると主張しています。

    この三位一体とは、“TRINITY”の訳語であり、三者のごとくに振る舞う一者と言うことなのです。

    三位一体で言う“一体”とは、断じて、夫婦一体とかクラス一体のような言葉に出てくる比喩としての“一体”ではないのです。

    “父と子と聖霊”による“UNITY”とは一言も言っていない点に、くれぐれも注意してください。

     

    三位一体を主張する人たちは主の御使いが神的人格として描かれていると、いくつかの個所を証拠としてあげます。

    例えば、創世記の16713節、18121節、19122節。

     

    だがこれらの記述は、御使いが人と同じ肉体を持っておられることを示しているだけと見る事も出来ます。

    また、聖霊が人格を持っていることも、論証としてあげます。

    例えば、イザヤ書の4816節、6310節。

    これも、聖霊が人格を持っているお方であると証する以上の意味があるとすれば、どういう働きをなさるかを示していることであっても、三位一体を明かしていることにはならないでしょう。

     

    にも拘らず、三位一体を主張する人たちは、新約聖書において三位一体の教理はより明確に啓示されていると主張しているのです。

     

    三位一体どころか、父と子と聖霊が明らかに独立した存在であることを示す決定的な記述があります。

     

    イエスのバブテスマの光景の記述です。

    イエスがバプテスマを受けてすぐ水から上がられると、天が開け、神の御霊がはとのように下って、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と声がしたのです。

    マタイによる福音書31617節、マルコによる福音書11011節、ルカによる福音書32122節、またヨハネによる福音書12933節も天からの声について記さない事を除けばあとは大筋で一致しています。

     

    また、天からの「私の愛する子」の声は、イエスが高い山にペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちを伴い、旧約の預言者であるモーセとエリヤと語り合いながら白く光り輝く姿を弟子たちに示した時にもありました。

    マタイによる福音書1719節、マルコによる福音書928節、ルカによる福音書92836節。

     

    天からの「私の愛する子」の声の主が、神としての天の父であることは言うまでもないでしょう。

     

    イエスはこう言われました。

     

    ヨハネによる福音書71617

    そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

     

    この「わたしをつかわされたかた」と言う言葉は、マタイによる福音書には繰り返し出てきます。

    434節、524節と30節、63839節、716節と28節、816節と26節と29節、940節、1244~45節、1320節、1521節、165節。

     

    イエスはゲッセマネの園で、祈られました。

     

    「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

    マタイによる福音書2639節、言い回しは多少違ってもマルコによる福音書1436節、ルカによる福音書2242節もこの言葉に触れています。

    ヨハネによる福音書だけは、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」(1811)とゲッセマネの祈りの場面を割愛しているけれど、イエスが御父の御心に随う決意をされていることを記しています。

     

    これ以外にもイエスは天の父の御心を伝えに来たことや実践をしに来たことを述べていたことが、新約聖書の至る所で記されています。

     

    そう言うと、三位一体を主張する人達はヨハネによる福音書1030節の「わたしと父とは一つである」を引用するかもしれません。

     

    けれど、イエスはゲッセマネの祈りでこう仰っておられるのです。

     

    ヨハネによる福音書172223

    わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

     

    ここでイエスの仰る「わたしたちが一つである」とは「わたしと父とは一つである」と同じことです。

    そして「一つ」も同じことを指しています。

     

    ここで言う「一つ」が思いを完全に一致させることを指していることは、誰が見ても明らかでしょう。

     

    さらに言えば、「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」とイエスが述べておられることを見落として良いはずがありません。

     

    「わたしと父とは一つである」、「わたしたちが一つである」と言う言葉がもしも三位一体を指しているとしたら、イエスはイエスご自身に対して「あなたからいただいた栄光」と言っていることになり完全におかしな事となるでしょう。

     

    三位一体の言葉は聖書のどこにも書いてないばかりか、論拠とできる記述自体見つけることは絶望的なまでに不可能なことなのです。

     

    聖書には“父と子と聖霊”の明確に独立した存在として役割分担をしつつも思いを一つにして救いの御業を遂行しておられる姿は繰り返し描かれているが、三位一体を証する明確な言葉は一つとして見いだすことはできないのです。

     

    TRINITY”(三位一体)の論証として彼らの挙げる箇所はことごとく、“父と子と聖霊”の“UNITY”の証であってそれ以上でもそれ以下でもないのです。

     

    “父と子と聖霊”は一つの神会を構成して心ひとつにして、救いの計画を実行しておられると見た方がすっきりします。

     

    絶対三神唯一神会とか、三位三体三体一位と言った方が、ちょっと長ったらしくなるけど、何回聞いても難解な三位一体より、よほどわかりやすくと思いますが、いかがでしょうか。

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    欧米のキリスト教に思うこと若干。

    ネットでイスラムになびいちゃう欧米の若者が結構いると聞いて、へえって思ったことがある。

    モルモンへ改宗する欧米の若者も、ネットでモルモンの会員とやり取りする中で改宗を決意する人が結構いると言う。

    ネットの力、意外と馬鹿にできないって思う。

     

    欧米の若者でイスラムに惹かれる人が出る背景には、欧米のキリスト教に対してコレジャナイ感が大きいことが挙げられるかも。

    既存のキリスト教会からモルモンへの改宗も結構あると聞いたことある。

     

    カトリックもプロテスタントも、魂の救済にとどまらず、生き方を求めて祈る信仰へと軌道修正しない限り、欧米の若者たちの教会離れも止まらないし、ISに足元を掬われてしまう若者たちも引き留めることなんて絶望的なまでに出来ないと思い知った方が良いのではないか。

     

    カトリックの堕落を批判したプロテスタントもまた堕落したが、生き方を求める信仰に軌道修正することは魂の救済に胡坐をかいてきた生き方の全否定であり当然苦痛を伴う。

    すでに得ている魂の救済の既得権益を脅かす輩が、気に入らないと言うわけであると言うことなのか。

    そこに気付こうとしないのだとしかみえないのは、気のせいだろうか。

     

    だが欧米の既存のキリスト教徒の多くは、若者たちをISにとられたこととイスラムにとられたことを短絡的に混同する傾向さえあるように思う。

    彼らはイスラムを知らないばかりか知ろうともしないように思えるのは、とても悲しい。

    キリスト教にいちゃもんをつけて喧嘩を売った、けしからん異教徒としか見ようとしないようだからだ。

    違うだろうか。

     

    旧態依然の欧米のキリスト教は魂の救済は説いたが、どう生きるべきかは説かなかった。

    イスラムもモルモンも仏教も、どう生き、どう考えるべきかを彼らに示した。

    ISに若者を取られたくないなら、既存のキリスト教も生き方を生き方を模索している若者に応えようとするべきだ。

     

    現在、米国の仏教徒は約3百万人を数え、全米人口の1%に当たる。

    ヨーロッパでも約100万人いる。

    キリスト教徒と比べれば、仏教徒の数はまだマイナーだ。

    しかし、伸び率だけに注目するなら、キリスト教徒をはるかに上回る。

    なぜそうなるのか。

    彼らは生き方を求めているのだ。

     

    モルモンへの改宗者もまた生き方を求めて、既存のキリスト教会に別れを告げた人たちである。

    既存のキリスト教は信ずれば救われると説くが、どう生きるべきか指し示す力がない。

    ただ救いを求めてすがる人たちばかりと、言って良いかもしれない。

    受け身ばかりと言えるだろう。

     

    トリックへの反発からプロテスタントが生まれたが、今欧米では既存のキリスト教への幻滅から宗教離れが深刻と言う。

    維持がままならなくなり、手放される礼拝堂もかなりあると聞く。

    だが、心の支えや拠り所を求める人は実は多い。

    Isの誘いに乗ってくる若者は、心の隙間で足元が掬われてしまった人が結構いると言う。

    さもありなんと言うべしだろう。

     

    欧米では既存のキリスト教への幻滅から宗教離れも多いと聞くが、どう生きるべきかの悩みは多くの若者が普遍的に抱えている課題。

    ISの誘いに乗ってしまう欧米の若者が多いのは、旧態依然の教会の体質に問題があると私は見る。

    だがどっぷり浸かり込んだ人にはそれが見えてないのではないか。

     

    FW・ニーチェの「アンチクリスト」も、欧米のキリスト教の現実への幻滅からキリスト教そのものの否定に走った典型だが、欧米の若者も既存のキリスト教への幻滅から改宗希望者が多いのかも知れない。

    だから、イスラムやモルモン、仏教などに惹かれる人が結構出るのかも。

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