言葉

バリアフリーやユニバーサルデザインを考えてみた。

バリアフリーとか、ユニバーサルデザイン、とか聞いたことがある人、皆さんの中にもいるでしょうね。

 

健常者も障碍者も使い勝手がいい事、それがバリアフリーとか、ユニバーサルデザインの目標であり、目的です。

 

私は出来るだけ「障碍者」の表記を使うつもりです。

 

「障害者」表記が、普通に生きたいだけなのに毎日の生活がまるで「障害物競走」と感じている人、と言う意味で使われているなら、それもありでしょう。


でも現実には、障害物扱いしているようで、あるいは、障害物扱いされているようで、違和感や不快感を覚える人たちもいます。

私もそう感じている一人です。

 

常用漢字表から「碍」の字が外されたために、「障害」の字があてられるようになって、様々な違和感を訴える人達がでたが、当然のながれでしょう。

「障碍者」表記を広めようとする動きがあるのは、嬉しいです。

 

障碍者は、自らの心や体に何らかの障害があるために環境に適応しにくくて困っている人ではなく、周囲の配慮が足りないために普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられている人と考えたらどうでしょうか。

 

障碍者に暮らしやすい環境は、実は誰にとっても暮らしやすい環境と言う事になるでしょう。

 

普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられていると感じている人がほとんどいない、それが当たり前な環境が、実はバリアフリーな環境なのではないでしょうか。

 

そう発想を転換したら、どうなるでしょう。

 

ホワイトな労働環境の職場とは、障碍者に対して働きやすい配慮のある職場、そうなると思いませんか。

 

障碍者であっても能力を最大限に発揮できる配慮のある職場は、健常者にとっても快適な労働環境の職場ではないでしょうか。

 

人手不足と言うなら、障碍者も働きやすい環境を作って彼らの能力を最大限引き出せるようにした方が良いでしょう。

他社に先駆けた方が、あなたの求める人材が集まりやすくなることでしょう。

 

障碍者とは、周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている人と見れば、乳母車の人も、もたつく高齢者も、ある意味障碍者となるでしょうね。

 

子育てや、介護や看病、これらが元で周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている立場になっている人は皆、障碍者的な状態に一時的にせよいると見たらどうでしょう。

 

つまり、障碍者とは特別な人達ではなく、人生のある段階では誰でもなり得る状態なのではないでしょうか。

 

そう考えると、バリアフリーは実は、自分たちのためになる、そう思いませんか。

 

ユニバーサルデザインは、みんなのためになるデザインのことなのです。

でも、無個性、没個性とは違います。

誰もが、使いやすい、使い勝手が良い、そう感じるように工夫する事なのです。

 

その場所や地域の特徴にあった、誰もが使いやすいバリアフリーな施設や設備、システムを考える事がユニバーサルデザインを考える事なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自己責任論よりも支え合いのバトンリレーを。

自己責任論は、才能のある人を潰すためにある呪いの言葉のように思われるのです。

 

人は、成功よりも失敗から多くの事を学ぶ、違うでしょうか。

才能は努力で花開く、違うでしょうか。


努力すればするほど、失敗も山ほどする、違うでしょうか。

自己責任論は失敗を恐れるへっぴり腰の、権力者に都合のいい人間を作る呪いの言葉でしかないのではないでしょうか。

違うでしょうか。


でもそれは、社会の進歩を止める愚挙ではないでしょうか。

 

才能を伸ばし花開かせた人達は、自らの努力とそれを支え見守り励ましてくれた人々との出会いがあった人達ではないでしょうか。

 

どんな天才でも、壁にぶつかって苦悩の日々を送った事は一度や二度ではなかったと思うのです。

ましてや秀才は、推して知るべしではないでしょうか。

 

自己責任論は、努力する人達を押し潰す言葉でしかない、違うでし

ょうか。

 

自己責任論は、言い換えれば、自業自得、更に言い換えれば、身から出た錆、だから言ったじゃないか、身の程知らず、ではないでしょうか。

どうでしょうか。


全部、人の努力を嘲り、人の足を引っ張る、後ろ向きの言葉ではないでしょうか。

どうでしょうか。

 

飛躍出来た人たちは、自分の可能性を信じ、自分のしていることの意義を信じた人達ではないでしょうか。

違うでしょうか。

 

自己責任は、当たり前過ぎる、どうでしょう。


だが自己責任では負いきれないこともある、違うでしょうか。

才能や可能性を花開かせた人達は、多くの人の支えや励ましに出会えて、困難を乗り越えられた人達ではないでしょうか。


支えてくれた人達もまた、支えられて今の自分があると知っている人達ではないでしょうか。

支え合いのバトンリレーがここにある、そう思いませんか。


どうでしょう。

違うでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

メディアとどう付き合った方が良いでしょうか。

メディアは真実を伝える存在と思わない方が良いのです。

多くの人々は、この事に気が付いていません。

 

断片的な事実や情報は正しい内容を伝えるけれど、本当は何が起きているか、何が本質的か、伝える存在には必ずしもなっていません。

残念ながら、これが現実です。

もっとメディアを疑いましょう。

 

NHKでさえ海外ドキュメンタリーの制作で、再現であったにもかかわらずリアルタイムと誤解を招きかねない編集をしていた事実が発覚したことがありました。

 

伝えた出来事自体は実際にあったことだが、再現であることを伝えなかったために取材の最中に起きたと誤解を招く結果となり、やらせとして問題になったのです。

 

テレビは絵になる映像を撮ろうとするあまり、目の前にある事実は伝えても真実を伝えないメディアになる危険を常に持った存在だと言う事を、視聴者である私たちは知っておいた方が良いでしょう。

 

この能力を高める努力を、怠らないようにしたいものだといつも思っています。

 

それには情報収集を怠らない事です。

 

絵になる場面や瞬間をとらえて伝えようとするのは、テレビに限らずメディアに共通している事と思った方が良いでしょう。

 

本質は何かを使えるには相当深く知識と理解を持つ必要があるが、メディアの現場にいる取材陣は必ずしもこれが出来ているとは限らないのです。

 

むしろ、取材の中で本質に迫っていくのです。

 

つまり、いきなり現場に行って取材している彼らに本質を伝える事を求めても無駄と言う事になるでしょう。

 

彼らに期待できるのは、目の前のリアルな現実を使える事でしょう。

そこから何が本質かを導き出すのは、受け手である私たちの仕事になるでしょう。

 

だからこそ、常日頃の情報収集とそれの理解が必要でしょう。

メディアはそれを助けるべき存在ではないでしょうか。

個々人の努力で情報収集を十分するのは困難です。

 

メディアは判断の資料を提供する努力を怠らないで欲しいのです。

断片的な情報をただまき散らすだけなら、メディアはかえって真実を知るうえで有害な存在に堕落するのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国体護持を考えてみた。

日本国を私物化したい輩にとって、一番厄介な存在は、実は天皇陛下ではないでしょうか。


なぜなら天皇陛下は、公私ともに現行憲法絶対尊重絶対遵守の立場で貫かないと皇室の存続自体を危うくしかねないわけです。


それである意味今の憲法に一番忠実なのは、実は天皇陛下かもしれません。


つまり、改憲論者の議論に巻き込まれることは天皇陛下とって、迷惑行為以外の何物でもないことになり、利用されそうになればなるほど護憲の立場を明白にされることになるでしょう。


護憲派は天皇陛下と皇室を、改憲派の天皇陛下と皇室を自分たちの目的のために利用しようとする陰謀からお守りせねばならない立場に、置かれたと言えるかもしれません。


国体とは、天皇陛下と皇室の存在を日本国の本質の中心に据えると言う事であれば、現行憲法もまた国体護持を最優先させて生まれた憲法と言う事になるでしょう。


現行憲法を全面的に尊重し遵守する限りにおいて、天皇陛下と皇室は自分たちを利用しようとする勢力から国民に守られることになるわけです。


政治的責任を問われるなら、国体護持は危うくなるからです。


これまで天皇は、全権委任する代わりに政治的責任も全て取らせたと言えるでしょう。


国民主権とは、国民が選んだ代表は国民から全権委任された代わりに全ての責任を国民に対して選出された代表は負わねばならないと言う事です。


そして、国民もまた、選出した責任を負わねばなりません。


一方天皇は政治への実権がない、政治的責任は天皇陛下には及ばないことになります。


つまり国民に国体護持は委ねられたと、言えるかもしれません。


共産党でさえ天皇制を含む現行憲法をこれからも守り続けると、明言したことを思えば国体護持のためにこの憲法を受け入れる選択は皇室にとって正しい選択だったのです。


共産党は国民が発議しない限り、天皇制存続の是非が問われることはないと言っています。


皇室は国民から慕われ、敬われる存在であり続ける限り、存在の是非がさしあたっての政治的課題として意識されることはまずないでしょう。


憲法尊重と遵守の立場を繰り返し明らかにし、細やかな心遣いのできる心優しい人格者であり続けるならば、少なくとも存続の是非を問うべき存在として、多くの国民から意識されることはまずありません。


日本国憲法では、天皇は政治への実権を失う代わりに、政治への責任からも解放されたわけです。


象徴天皇の役割に徹しさえすれば、後は祭祀に専念できると言う事になるのです。


そう考えると、明治憲法に逆行しようとする動きは天皇陛下と皇室に政治敵責任がおよびかねない危険にさらされることになるので、国体護持の立場に立てば余計なお世話なのです。


むしろ現行憲法こそ、ある意味で天皇陛下と皇室を古来の位置に戻したものと言えます。


だからこそ、天皇陛下と皇室も受け入れたと言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

性教育の目的を見失っていないでしょうか。

性教育はそもそも、何のためにするのか、皆さんは考えた事がありますか。
 
子供たちが望まないタイミングで親になることがないようにするため、この答えが返ってくる場合が多いかもしれませんね。
 
だったら、そのような状況をどうやったら上手に避けられるか、子供たちと一緒に考えた方が良いのではないでしょうか。
 
闘わずに勝つは、兵法の極意、それに似てるかもしれません。
 
今の性教育は、兵法学習で言えば、個々の場面での戦い方を学習しているのとどう違うのでしょうか。

そうなってしまった時、上手な対処の仕方はどうしたらいいのか、考えていることの方が多いからかもしれません。

 
それは、好きになった人とセックスして何が悪いのと言う問いに、上手に応えられていないからではないでしょうか。
 

どうでしょうか。

だから、寝た子を起こすなと言われてしまうのではないでしょうか。
 
その気はないといくら否定しても、その場しのぎの対処法しか考えていないと言われて、即座に反論できるでしょうか。
 
それは結局、愛の表現としてのセックスをどう考えるのかと言う事ではないでしょうか。
 
愛の表現の中で、セックスをどう位置付けるのか、誰にとっても悩ましい問いかも知れません。
 
でも、性教育の一番の目的は、望まないタイミングで親になって欲しくないことではないでしょうか。

それなのにその場しのぎ、それは人にとって考え方が違うからではないでしょうか。
まともにやったらいつまでたっても、平行線のままではないでしょうか。

 
兵法学習からみれば、実践に即した学習とどう違うのでしょうか。
 
性教育はここが理解できてないから、効果的な反論が出来ない、違いますか。
 
性教育はそもそも、人間性教育を当初の旗印として掲げていたのではなかったでしょうか。
 

それは、何のためだったでしょうか。
子供たちが望まないタイミングで親になる事が無いようになって欲しいという願いから、始まったのではなかったでしょうか。
迷ったら、出来るだけ早く原点に帰った方が良い。
違いますか。

 
そしてその原点は、兵法で言えば、戦わずして勝つ兵法の極意を身につけて欲しいと言うのとどこ違うでしょうか。
 
戦わずして勝つとは、どういう事かでしょうか。
 
まず考えられるのは、戦意喪失を狙う事でしょうね。

でもそれじゃ、この場合どうでしょうか
魅力のない人になれということと、どう違うのでしょうか。

 

闘わない方が双方の利益になる落としどころを、上手に相手に示すことではないでしょうか。

先手を打って示したら、どうでしょうか。
この場合、どういう事になるでしょうね。

 
望まないタイミングで親になるよりも、もっと良い事がある、早期が付いてもらう事ではないでしょうか。
 
先手を打って、上手に提示出来るようになることが必要な場合もあるでしょう。


相手が提示するように、巧みに誘導することが必要な場合もあるでしょう。

 
相手によって、どちらが良いかは決めた方が良いかも知れませんね。
 

素直な人なら、先手を打って示したら良いかも知れません。

プライドが高い人なら、相手が気が付いて提案したように仕向けたら良いかも知れません
 

それが基本だし、理想です。

でも、みんながみんなすぐにそうなれるわけじゃないですよね。

そこで、対処法も必要になる、そういう事ではないでしょうか。

そこがきちんとわかっていて欲しいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人間性教育としての性教育こそ必要ではないでしょうか。

娘はかわいいし、幸せ。なのに苦しい。 産後うつと強迫性障害に苦しんだ2年半の記録 https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/13/zange-nikki1_a_23526706/
「検索」が、子育て中の親を追い詰める。不安なママはどうすればいいのか https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/14/zange-nikki2_a_23526757/
この記事は保育園の園長のさり気ない一言、「この子、人見知りしないね」が気になってあれこれネットで調べたら「発達障害」「自閉症」という検索結果がたくさん出てきて、不安になってしまった自らの産後うつから抜け出るまでの記録を一冊にまとめた母親へのインタビュー記録です。
この子、人見知りしないね」、園長は褒め言葉のつもりだったかもしれません。
でもここは保育園、赤ちゃんを預かる施設です。
なかにはまったく人見知りをしない子もいますが、赤ちゃんにとっての人見知りは大切な発達段階のひとつとされるので、人見知りしないと成長が遅いのではと心配することもあるわけです。
人見知りしないのは、「ママやパパがいてくれる」「守ってもらえている」という安心感を人一倍感じやすいからかもしれないので、“発達が遅れている”と安易に判断しないことが必要です。
そういう子でも、ある日突然人見知りがはじまることはよくあることといいます。
でも、子育て真っ最中で、それもはじめての子供だった場合、みんながみんなそのような知識を持っているわけではないのです。
近くに相談や質問が気楽にできる親戚や親、友人知人がほとんどない状態の中で孤軍奮闘せざるを得ない母親が増えている今、ネットや本が数少ない貴重な情報元な人も多いわけです。
それだけに、保育園の園長や保育士はわが子の成長が順調に進んでいるのか常に気になる保護者の気持ちに寄り添った気配りが求められると言えるでしょう。
私は、「性教育はまず人間性教育でなくてはならない」と考えています。
それは、人が人として幸せでいられるには、愛や思いやりや細やかな気遣いが出来ることが大切と感じているからです。
性は何よりも子孫を残すためにあるのです。
子供が、なかなか出来ない人もいれば、すぐに出来て子だくさんな人もいますが、性が子孫を残すためにあることに変わりはないのです。
好きになったから、その場の雰囲気がよかったから、中には、酔った勢いで、などという人もいるでしょう。
でも、仮に子供が出来たらその子と幸せに暮らせるならともかく、そうでなければ、親子とも不幸ではないでしょうか。
愛と思いやりと細やかな気遣いの中で育ってきた人なら、言葉遣い一つにもさり気なく気配りが出来ることでしょう。
望まないタイミングでの妊娠や、不幸にして起こる性病感染も、お互いの幸せのために防ぎたいと細やかな心遣いが出来る人が増えるなら大幅に減らせることでしょう。
正しい性に関する知識や情報も必要でしょうが、何のために学ぶのか理解できていなければ適切に生かすことは難しいでしょう。
家庭や学校の学習の場で、親子や、先生と生徒、生徒間の話し合いを十分に時間をかけて愛と思いやりと細やかな気遣いとは何か、どのように考え、どのように行動した方が良いのか、大人の意見や価値観を押し付けるのではなく大人も子供も一緒になって考えてほしいのです。

自分で納得出来てこそ、身についてごく自然に言葉や行動に表せるからです。

教育の現場や家庭の中だけではなく、社会生活の中で成果が出る性教育が当たり前になって欲しいと心から願っています。

そうすれば、いじめやパワハラやセクハラ問題なども、自然と減っていくことでしょう。

日本では道徳教育というと、特定の価値観の押し付けにたいする警戒が先立ってなかなか普及してこなかったし、道徳教育の始まった今でもその懸念は消えていません。

そのような中で道徳教育を強行するくらいなら、性教育の時間や国語はもちろん、社会科や理科など様々な機会をとらえて、愛と思いやりと細やかな気遣いの大切さを子供たちと一緒に考えた方が良いのではないかと思います。

理科でというと、どうやってと思う人もいるでしょうが、子を守るための親たちの時として命がけな行動は本能だけで片付けられないものを感じられることでしょう。

また、一つ一つの命の大切さを具体的な知識として学ぶことが出来る機会でもあります。

そのような教育が当たり前になれば、不用意な言葉で人の心が傷つくようなことも減らせるのではないでしょうか。
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

神とどう付き合いますか。

日本は、先例様・前例様・慣例様が絶対三神として祀られている感じが半端じゃなくするのです。

日本の持っている知識・技術・ノウハウが、なんで世界をリードできる可能性やポテンシャルを持ちながらグローバルスタンダードを取れないのでしょうか。

 

日本の先例様・前例様・慣例様の絶対三神への絶対的な服従に近い思考と行動のパターンが、妨げになっている感じが半端じゃなくするのです。

多くの日本人がこの先例様・前例様・慣例様の三例絶対神崇拝にとらわれていると十分に気付いているとは言い難い程に、日本人の思考と行動パターンに染み込んでいるようです。

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神崇拝は自然の脅威からは守ってくれたかもしれないが、今は違うのです。

ここに気が付けないと危ないでしょう。

 

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神に従うなと言うのではないです。

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神からの学びを、知識としてではなく知恵として身につけて活用出来るかどうか問われているのです。

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神の知識を知恵として生かせるだけの成長が、出来ているかが問われるのです。

 

安全神話と言う言葉を聞くたびに、違うだろと言う感じを強くします。

安全は私たちを守ってくれないのです。

安全は結果であって、原因ではないからです。

これがあるからここまでは安全とは言えるが、人のすることに絶対はない以上、人の手に頼る限り絶対安全はあり得ないのです。

絶対安全は神だけが保証できるのです。

 

言い換えれば、安全神話とは無力な偶像を崇拝する愚かな選択と言うことになります。

人の手によって確保される安全の限界を自覚し、それを超えた時自分の身をどう守るのか守れるのか、考える発想が日本人には求められています。

限界を超えた事態を想定外にしない発想が、求められているのです。

 

神には、二通りあります。

生れながらの神と、祀り上げられた神です。

祀り上げた神が存在するのは、生れながらの神が存在するからです。

生れながらの才能の人がいるから、努力して近づく人がいます。

生れながらの美があるから、努力して表現される美があります。

同じように、はるか太古から存在する神がいるのです

 

生れながらの神は、しばしば祀り上げた神になります。

だが、祀り上げた神が全て生れながらの神ではないのです。

ここを混同すると、神を見失うことになります。

太古からの神は決して廃れることはないのです。

廃れるのは、祀り上げたに過ぎない神であり偶像に過ぎなかった神もどきです。

ここを見誤ってはいけないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

パブリックとリパブリックを考える。

洋風居酒屋はパブなどと呼ばれるが、パブリックハウスの略です。

パブリックの主な意味は、国民一般の、国民全体の(ための)、大衆の、公共の、公衆の、公衆用の、公開の、公立の、(政府の仕事をする意味での)公務の、公事の、などがあります。

居酒屋=パブリックハウスとは、大衆の家と言う事になります。

居酒屋=パブリックハウスと言う事は、様々な議論をしあう場でもあります。

日本でこのようなオープンな場があるでしょうか。

いくら格好だけまねても、仏作って魂入れずになっているそんな場所が日本は多くないでしょうか。
公園や広場だってそうではないでしょうか。

公園や広場は本来パブリックスペースなのです。

誰もが気軽に立ち寄って交流しあう場、様々な議論をしあう場です。

パブはそのような空間の一部なのです。

このような空間は、歴史的な背景の違う日本ではなかなか根付かないようです。

70年安保やベトナム戦争反対運動盛んな時、そう言う場が出来かけたが広がらず定着しなかったですし。

だが今、日本でも市民の連帯の輪が広がりつつあります。

日本の文化や風土に合ったパブリックスペースの作り方の模索は、いつ、どのような風に始まり、広まっていくのでしょうか。

しばらくは試行錯誤が続くでしょう。

どのような形、どのような展開になるか、気になるし、楽しみでもあります。

パブリックの前に、再びと言う意味の”リ”を付けるとリパブリックになります。 再びと言う意味の”リ”が、リユース・リデュース・リサイクルの頭の”リ”と同じ意味の接頭辞だと気が付くと、面白いことがわかってくるのです。
       リパブリックの主な意味は、共和国、共和政体、(フランスの)共和制、(共通の目的を持つ人の)…社会、…界などとされます。

パブリックの主な意味は、国民一般の、国民全体の(ための)、大衆の、公共の、公衆の、公衆用の、公開の、公立の、(政府の仕事をする意味での)公務の、公事の、などです。
ここに「再び」を意味する”リ”が付くと、リパブリックになるのです。
政治を、国民みんなの手に、大衆の手に取り戻すのがリパブリックだ、ということでないでしょうか。

リパブリックが政治を、全ての国民の手に、大衆の手に取り戻すことであるなら、まずそこには政治を取り戻す主体としてのパブリックが無ければならないでしょう。
国民みんなが政治を自分の手に取り戻してこそ、本来のリパブリックになる。 違うでしょうか。
参加しないのは自らを余所者や客人の位置に置くのと、どう違うのでしょう。

リパブリックとは、国民全体のために政治を行うために国政の主導権を国民がみんなの手・みんなの力で取り戻すことであり、そのような国を守り抜くことではないでしょうか。
国作りに参加しないのは、自らを余所者や客人の位置に置くことにほかならない。 そう思いませんか。
自らの意思表示をして、参加してこそリパブリックの国民。 そう思いませんか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

言わないと何も変わらない。

従来の人々の感性や意見に異論を唱えるのは、勇気がいります。

だが、それが自分にとってどうしても必要なら、声を上げる方が良いでしょう。

そうでないと、何も変わらないです。

気が付いた人が声を上げる、これしかないでしょう。

気が付いてない人が言うわけないのは、当たり前すぎる話です。

日本人は人と違うことを恐れすぎませんか。

確かに歴史的には、人海戦術で対処した方が良い自然の脅威への対応は別行動は危険だったかもしれないです。

だが今は変化が激しい時代ですよ。

多様性こそが生き延びる上で優位になる時代ではないでしょうか。

多様性の担い手になることこそ、日本の未来を保障すると自信をもって行動すべきでしょう。

素直に感じたことは感じたままに言った方が良いでしょう。

それがたとえ、多くの人からとんでも扱いされようが、多くの人が声を上げていけば無視する方がやがて非常識になっていくでしょう。
特に今はネットがあります。

どこかに共感者は何時かは見つかるでしょう。

一人出れば、その背景にはもっといるはずです。


 
諦めないことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

上に立とうとするならどうある方が良いでしょう。

やはり、上に立とうと言う人は、優しさでも、素直さでも、ぶれてないですよね。
凄いなって人ほど、素直だし、謙虚だし、優しいですよね。
人を馬鹿にしたり、見下したりすることはないですよ。
からかうくらいはご愛敬ですよね。
孤独だからこそ、安らぎが欲しいから、周囲を和ませたいんでしょうね。

でないと、疲れるでしょうから。

逆に言えば、優しさでも、素直さでも、ぶれる人は上に立っちゃ駄目だし立たせちゃ駄目となるでしょう。

間違えて立たせたら、本人も周囲も不幸ではないでしょうか。

人を馬鹿にしたり、見下したりすることと、からかうことの区別もつかない人は駄目でしょうね。

そういう人は、イエスマンや友人知人に囲まれないと、居心地が悪くなるでしょうね。

寂しい人ですよね。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧