ペルシャ

なんで古代日本にペルシャ人? ――さまよえる古代仏教徒の引っ越し大作戦!?

え? 古代日本にペルシャ人?
しかも仏教徒?

この話、最初に聞いたときは、正直言ってかなり違和感がありました。

古代ペルシャといえば、拝火教やゾロアスター教のイメージ。

そして今はイスラム文化圏。

それなのに、古代ペルシャから仏教徒が来たと言われても

距離が遠すぎる。

時代が早すぎる。

常識的に考えて無理がある。

でも、調べていくと、完全には否定しきれない「痕跡」が、あちこちに残っている。

正倉院に収められたガラス器。
明らかに東アジア製ではない文様。
西域風の顔立ちをした人物像。
出自のよく分からない渡来系の僧や技術者たち。

「シルクロード経由で伝わった」で片づけるには、どこか生々しすぎる。

そもそも、ここで一度立ち止まりたくなる。

当時の移動は、観光でも留学でもない。
ほぼ命がけだ。途中で死ぬ確率の方が高い。

それでも来た。

では、なぜ来たのか。

鍵になるのは、「布教」でも「交易」でもなく、
居場所を探す移動だったのではないか、という視点だ。

仏教はインドで生まれ、
中央アジアを経て中東にも広がった。

しかしその後、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教が台頭し、
仏教は次第に居場所を失っていく。

宗教史を冷静に見ると、
勝った宗教は定住し、
負けた宗教は移動する。

迫害され、押し出され、
それでも教えを捨てきれなかった人たちは、
より「遠く」「干渉の少ない」場所を目指す。

そこで、地図の端に引っかかるのが日本だったのではないか。

当時の日本は、文明的に未成熟だったが、
同時に、異様に懐が深い社会だった。

信仰を一つに決めろとは言わない。
出自を細かく詮索しない。
大事なのは、「何ができるか」。

文字を知っている。
医療を知っている。
天文や暦を知っている。
建築や金属加工の技術がある。

宗教は、その人が持ってきた「荷物の一つ」にすぎない。

こういう社会は、
居場所を失った人たちの目には、
チャンスに見えただろう。

では、日本の風土はどうだったのか。

中東の自然は厳しい。
乾燥し、水は貴重で、
生き延びるために共同体の規律は強くなる。

戒律は、人を縛るためではなく、
生き残るための装置だった。

一方、日本の自然はどうか。

災害は多いが、
水はあり、森は深く、
食べ物は比較的手に入る。

自然は優しいが、気まぐれだ。

だから日本の社会は、
厳密なルールよりも、
その場の融通と空気で回る。

同じ「人に優しい社会」でも、
中東は厳しさで守り、
日本は受け入れで守る。

この違いは、
逃れてきた人たちには、
救いに見えたかもしれない。

近年、人類史の研究は、
古代人の行動範囲を、私たちの想像以上に広く描き直している。

縄文人は、鬼界カルデラ噴火という壊滅的危機を経験し、
太平洋沿岸に広く展開した可能性がある。

貝輪一つを得るために、
命がけで海を渡った人たちがいた。

「女性を喜ばせるためなら危険を冒す」
そんな動機すら、人を遠くへ運ぶ。

となれば、
信仰と居場所を守るために、
地の果てを目指した人たちがいても、
不思議ではない。

もしかすると日本は、
古代世界の中で、
最後まで開いていた「逃げ場」だったのかもしれない。

古代中東の精神文化の、
完全なコピーではないが、
どこか響き合う感覚が残っている理由。

それは、
わざわざ遠回りして辿り着いた人たちの、
静かな痕跡なのかもしれない。

――さまよえる古代仏教徒の引っ越し大作戦。
荒唐無稽に見えて、
案外、人間らしい話ではないだろうか。

 

でも、シルクロードって一体いつからあって、どうできて、なにがあったのか、かえって気になることが増えました。

でも、今のところは、このあたりにしておきましょう。

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日本人の顔の多様さは、古代中東の記憶を映す鏡

鏡の中の日本人の顔。

彫りの深い人、丸顔の人、南方のような柔らかい目元の人――。

どうしてこんなに違うのだろう。

この問いの向こうに、人類の長い旅の記憶が眠っている。

 

古代中東の響きを残す遺伝子

人のY染色体には系統がある。

その中に「ハプログループD」という系統がある。

これは、中央アジアから西アジアで生まれた古い枝のひとつ。

世界の多くの地域では姿を消したが、なぜか日本列島には今も生きている。

とくにアイヌや琉球の人びとに多い。

まるで、古代中東の遺伝的な響きが、海の彼方にまで届いて残ったようだ。

このD系統を持つ人々こそ、旧石器時代の末に日本に到達した最初の住人。

そののち、東方へ旅した人々――のちの縄文人たちがやって来て、彼らと混ざり合う。

争いの痕跡は少なく、むしろ共存の痕が残る。

食べられる木の実、危ないキノコ――土地の知恵を伝えたのは、旧石器の末裔だったのかもしれない。

 

縄文という保存庫

縄文人のDNAを解析すると、驚くことに、どの現代人にも単純に当てはまらない。

アジアでもヨーロッパでもなく、むしろ両者をつなぐ古層のようなモザイク構造をしている。

言い換えれば――失われた旧世界の遺伝子の保存庫

しかも、遺伝子だけではない。

黒曜石、貝輪、土器文様。

それらはシベリアや満洲、朝鮮半島を経由した文化の伝播を示している。

血の記憶と文化の記憶が、二重写しになって列島の中に残ったのだ。

 

なぜか違和感のない“再会の島”

そして――ここが面白いところ。

古代にペルシャ人が来ても、

時代を下って白系ロシア人が来ても、

朝鮮半島からの渡来人がやって来ても、

なぜか日本では大きな違和感がない。

ユダヤやシュメールの神話が、日本神話の奥で響くのも偶然ではないだろう。

みんな、大もとは旧石器時代にユーラシアを横断した“原型人類”の枝葉なのだから。

 

鏡に映る古代

日本列島とは、混血のるつぼというより――

古代ユーラシアの記憶を保存した天然のリザーバー(貯蔵庫)

だから外見の多様さも、民族の融合の柔らかさも、

突き詰めれば、みんな「再会の物語」なのだ。

遠い親戚が、時代を経て訪ねてきた――

それが、この列島の歴史の本質だったのかもしれない。

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日本人のルーツを探ると思いがけない気付きも。

日本人のルーツを探ると、思いがけない国や地域と類似点が見えてきます。

今回は、番外編的な話になるかもしれません。

でも、興味深いですよ。

1. 「ビア」「ニア」「リア」と日本語・日本文化の接点

マケドニア、アルバニア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア――これらはバルカン半島に集中しています。

この地域は、古代インド=ヨーロッパ語の影響を強く受け、音楽や舞踊のリズムも日本の民謡や祭祀歌に似ていると指摘されています。

特にブルガリア音楽の独特な拍の分割は、日本の節回しに近いんですね。

それからハンガリー語。日本語と同じ「SOV型」(主語―目的語―動詞)で、助詞や接辞を多用する特徴があります。

母音調和(ハーモニー)もあるんですよ。

言語学的な接点は確かに存在します。

どうなっているのでしょうか。

気になります。

2. 太陽神信仰とのつながり

ペルシャとペルー、両者とも太陽神を重視していました。

ペルシャではゾロアスター教の「ミスラ神」、ペルーのインカ帝国では「インティ」が最高神です。

「ペル」音と太陽信仰の並立は、偶然とは思えませんね。

ギリシャの太陽神「ヘーリオス」の「ヘー」を、エジプトのラーに重ねるのは大胆ですが、ヘレニズム期にはギリシャとエジプトが深く交流しています。

プトレマイオス朝ではギリシャ語とエジプト信仰が融合し、「セラピス神」も誕生しました。

日本の天照大神も太陽神であり、王権の正統性を支える存在です。

直接の証拠はありませんが、類似点は多いですね。

ただ、ペルシャ人は古代日本に仏教徒として来ているし、中南米と日本の古代の繋がりも古モンゴロイドという以上の関係が注目されているのは面白いです。

3. 「スク」「ツク」と北方文化

北欧・ゲルマン圏の「~スク」地名は「~に属する」という意味です(例:Moskva → Moskovskij)。

「ツク」に近い「-tzuk」「-czuk」もスラブ系地名や姓に見られます。

これも「場所を示す」という点で、「シマ/土地」と似た働きがあります。

さらにストーンサークル文化(日本の環状列石、イギリスのストーンヘンジ、北欧の環状石遺構)は、太陽や季節を測る装置として、太陽信仰と深く関わっています。

どこでどう繋がるか、興味深いです。

 

4. 「アラスカ」と「アラー」

アラスカの語源「Alakshak」は「半島」という意味ですが、仮に「アラ=アラー」「スカ=スク(国)」と見れば、太陽信仰圏の言語連鎖に重ねられます。

これはあくまでも想像に留まりますが、興味は尽きません。
アリューシャン列島の文化はシベリアと結びつき、シャーマン信仰には太陽崇拝が含まれます。

こうして太陽神信仰の大陸的な広がりを感じられるんですね。

 

🔆 まとめ

「ビア」「ニア」「リア」「シア」「シャ」「スク」「ツク」といった接尾辞、起源が同じかは断言できません。

でも共通して、「土地」「人々」「国」を表す働きがあります。

そして、その分布域には太陽信仰・島/土地信仰・ストーンサークル文化が絡む――これは、古代の人類が「太陽と土地」をどう捉えてきたかを映す鏡のようです。

日本人のルーツを考えるうえでも、こうした地域との類似は無視できません。

一体、何があるのでしょう。

いろいろな国や地域に似た顔の見つかる日本、どうなっているのか謎はつきません。

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熊野とシュメールと古代イスラエルと古代ペルシャ 第5章 現代における祈りのかたちを再考する

第5章 現代における祈りのかたちを再考する
祈りは、時代とともにかたちを変える。
かつて祈りは、神に捧げる儀礼であり、共同体の秩序を支える営みだった。
だが現代において、祈りは制度や宗教を超えて、個人の内面に静かに息づいている。
都市の喧騒のなかで、誰かの死を悼むとき、未来への不安に立ちすくむとき、あるいは夕焼けに見とれるとき——そこには、祈りに似た静けさがある。

熊野の風景は、現代の祈りを照らす鏡となる。
その地形は、古代から人々の祈りを受け止めてきた。
だが、熊野の力は過去に閉じられているわけではない。
むしろ、現代の私たちが熊野に立つことで、祈りの普遍性が浮かび上がる。
風景は、時代を超えて身体に語りかける。祈りは、風景との関係性のなかで更新され続ける。

身体は、祈りの器である。
スマートフォンを手にしたままでも、私たちは祈ることができる。
祈りは、姿勢や呼吸、沈黙のなかに宿る。
現代の身体は、情報に晒され、速度に追われている。
だが、身体が風景に触れたとき、祈りの感覚はよみがえる。
それは、縄文人の身体性とも、修験者の儀礼とも響き合う感覚である。

熊野と古代文明との響きもまた、祈りの普遍性を示している。
シュメールの神殿、イスラエルの聖地、ペルシャの火の祭壇——それらは、熊野の風景と不思議な共鳴を持つ。
祈りは、文化や宗教を超えて、身体と風景の交差点に生まれる営みなのだ。
現代においても、私たちはその交差点に立つことができる。

祈りとは、世界との関係を結び直す行為である。
それは、孤独のなかで世界に「はい」と言うこと。
傷ついた身体が、もう一度立ち上がろうとする瞬間に似ている。
祈りは、制度ではなく、感覚であり、応答である。
現代の祈りは、静かで、個人的で、しかし深く世界とつながっている。

この章では、現代における祈りのかたちを、身体と風景の交差点から再考してきた。
次章では、科学と感性の両方を携えて、祈りの意味をもう一度問い直す。

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熊野とシュメールと古代イスラエルと古代ペルシャ 序章:祈りの地形と文明の記憶

序章:祈りの地形と文明の記憶

 

祈りとは、風景に刻まれる記憶である。 シュメールの神殿都市、古代イスラエルの祭儀、ペルシャの拝火教――それぞれの文明が、祈りの場を「地形」として選び、そこに神と人との交感を刻んできた。

祈りは抽象ではなく、身体と風と光の交差点に宿る。

 

熊野もまた、そのような祈りの地形のひとつである。

日本列島の南端、紀伊半島の奥深くに位置する熊野は、神話と修験、そして民衆の祈りが交差する場として、長く「聖地」とされてきた。

だが、熊野の祈りは単なる日本的な宗教文化ではない。

むしろ、シュメールのジッグラトや、エルサレムの神殿、ゾロアスター教の火の祭壇と響き合う、人類的な祈りの構造を内包している。

 

本書では、熊野という具体的な風景を歩きながら、そこに刻まれた祈りのかたちを探る。そして、その祈りが、いかにして文明を越えて響き合うのかを見ていく。紀州の山道を歩く身体の感覚から、シュメールの神官の儀礼へと跳躍するような思考の旅が、ここから始まる。

 

1章では、縄文人の身体と祈りに注目する。

現代日本人の身体に残る縄文の痕跡を、遺伝子や風景との関係から読み解いていく。

2章では、熊野という場がなぜ祈りを呼び起こすのかを、地形や宗教史の観点から考察する。

3章では、熊野を歩くことが、身体の奥に眠る記憶を呼び覚ます旅であることを描く。

4章では、修験道や神話の語りを通して、熊野の祈りがどのように継承されてきたかを辿る。

5章では、現代における祈りのかたちを、身体と風景の交差点から再考する。

そして終章では、科学と感性の両方を携えて、祈りの意味をもう一度問い直す。

 

ではこれから、熊野の地とシュメールの神殿都市、古代イスラエルの祭儀、ペルシャの拝火教というそれぞれの文明が、どう繋がるのか探索の旅路を歩んでいくことにしたい、

 

さて、どのような光景が見えてくるのでしょう。

よろしければ、ご一緒に歩いてみませんか。

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イランからの亡命者が日本に来た?

トルクメンの絨毯は有名だが、トルクメンにもアイヌのむっくりに似た楽器があるのです。

演奏法はもちろん、音も似ています。

トルクメンとアイヌ、何か繋がりがあるのでしょうか。

イランは不思議な国で、日本の建国時にも大勢のイラン人が関わっています。

イランは今でこそイスラムだが、かつては拝火教が盛んだったのです。

なのに、日本に来たイラン人の多くは仏教徒だったと聞きます。

そういえば、仏教にメソポタミア起源説が出ています。

イランにも結構仏教徒がいたのでしょうか。

そういえば、アフガニスタンのイラン系パシュトゥーン人はイスラム化の前は仏教徒だったといいます。

イランにも仏教遺跡が見つかり、少なからず仏教徒がいた証拠になるでしょう。

日本に来た仏教徒イラン人は、亡命者なのでしょうか。

これから建国の日本なら、出番と居場所を確保出来ると遠路はるばるやって来たのでしょうか。

日本で大和朝廷がいつ頃成立したかはっきしないが、中東でイスラムが台頭してきた時期とほぼ重なるのは興味深いです。

今ほとんど、イランに仏教徒はいません。

アフガニスタンのパシュトウーン人に起きたのと同じ事がイランでも起きたとするなら、信仰を守ろうとした人々が安住の地を求めて旅立ったのは不思議ではないでしょう。

彼らは風の便りに、極東で仏教に基づく国家が生まれた、と聞いて一縷の望みを抱いてやって来たのでしょう。

彼らにもはや祖国はなく、新興の仏教国家に骨を埋める覚悟で来たのでしょう。

正倉院にはシルクロードの文物が多いが、特に目立つのはやはり、イランです。

平家にはイラン人が多いと、指摘する人もいます。

平家が束ねたときは一丸となって行動したが、平家が滅ぶと再び地元に帰ったと思われます。

もし日本から大量なイラン人が大陸に渡ったなら痕跡があるはずだが、そんな話を聞いた事はありません。

そもそも、日本で築いてきた生活を捨ててまで危険を冒して大陸に渡るでしょうか。

どっぷりと日本の落ち着いた生活に浸かった彼らが、争いに明け暮れる大陸に帰りたいと考えるでしょうか。

日本の中のイラン、もっと注目されても良いのではないでしょうか。

どうでしょう。

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猿田彦は塩の神様だったのでしょうか。

天孫降臨で、天照大御神が地上に遣わした人物の名ニニギノミコトも日本語としては意味をなさない名前だが、ニニギノミコトを案内した猿田彦も同じように日本語としては意味をなさない名前ではないでしょうか。

 

しかも、猿田彦は猿田彦神社の祭神とされるが、神社に伝わる猿田彦の顔は日本人としては異様なまでに鼻が高いのです。

 

日本語は時代を遡ると二重母音になるが、旧仮名遣いをみるとワ行母音に近かったと思われます。

 

そうなると、サルタヒコのサルタはソルトに近くなりはしないかと想像しました。

 

伊勢志摩は思った通り、塩の産地なようです。

 

時代をどこまでさかのぼれるのか、興味がそそられます。

 

猿田彦と塩の繋がりについて検索をかけたら、面白い情報が出ました。

 

日南海岸の野島神社の塩筒大神(塩槌翁)と猿田彦(白髭大明神)の複合が肥後にも、見えると言うのです。

 

猿田彦を祭る神社の名前に、塩の付くものが結構あるのです。

 

塩釜神社、塩浜神社、塩屋神社、中之塩屋大神宮、など思った通りサルタ彦はソルト彦の転化である可能性が見えてきたのです。

 

猿田彦崇拝は、九州から伊勢志摩に製塩技術と共にもたらされたのかもしれません。

 

そう言えば熊野神社は、九州にもあります。

 

熊野と猿田彦と塩で調べていくと、何か面白いことが見えてくるかもしれません。

 

さらに、猿田彦の異様に高い鼻と、サルタがソルトの転化である可能性をみると、案内されたニニギノミコトも西方出身者であると考える方が自然でしょう。

 

ニニギは、一体何の転化である可能性がある名前なのでしょう。

 

どうも気になります。

 

何とかして、情報を集めてみたいものです。

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日本語とロシア語?!

面白い本を手に入れました。

 

笹谷政子著「日本語の起源」と言うのだが、日本語はロシア語、トルコ語、朝鮮語の接触と混交から生まれたと主張しているのです。

 

朝鮮語と日本語はよく比較されるが、ロシア語とトルコ語とは、意外な顔ぶれと思うかも知れないですね。

 

だが、トルコ語も日本語と似た単語を持つ言語として注目する声があるのです。

 

ここではロシア語に注目したいです。

 

著者は日本語のベースはロシア語にあると、見ているからです。

 

ロシアも、日本先住民の子孫と見られているアイヌが多く住む地域であり、バイカル湖畔が近年日本人の起源で注文されてきているし、シベリアのバイカル湖の方まで行くと日本人そっくりなブリヤート人に出会うそうです。

もちろん秋田美人のそっくりさんも多いです。

 

ロシア語と日本語も比べてみると面白い事がわかりそうだから、スラブ古語と日本語の古語は比べてみる価値があると以前から思っていました。

 

私も日本語とロシア語の関係が因縁浅からぬものである可能性は、否定しないです。

 

だが、スラブ民族の起源については、どうも引っかかることがあります。

 

ミーシャのスラブ叙事詩のなかに、スラブ民族の起源に触れたものもあるのだが、旧約聖書のアダムとイブの伝承を何度見ても連想してしょうがないのです。

 

スラブ民族の起源を知ると、旧約聖書のアダムとイブの伝承を連想したその印象は、無理からぬものである気がしてきます。

 

スラヴ人の多くは、コーカソイド人種の特徴を持っていることは事実です。

今でこそモンゴロイドに分類されるアイヌだが、その外見からコーカソイドと見られていた時期もあります。

言い換えれば、アイヌとコーカソイドはそれくらい見た目が似ていると言う事です。

スラブ民族の原住地は、カルパチア山脈周辺と推定されるというのです。

スキタイ人やサルマタイ人を吸収同化して、同一の言語集団として成立して行ったと見られています。

スキタイと言えば、ユダヤ人の歴史、取り分け日ユ同祖論を語る人たちにはユダヤ人と深く関わった人たちとして論じられる人達なのです。

サルマタイ人もまた、紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団です。

イランもまた、ユダヤ人の歴史を語る上で注目される国なのです。

サルマタイはギリシア語であり、ラテン語ではサルマタエとなる。また、彼らのいた黒海北岸地域をその名にちなんでサルマティアと呼ぶため、サルマティア人とも呼ばれます。

サルマタイ人は、紀元前7世紀末からウラル南部にいたサウロマタイに紀元前4世紀頃東方から移動してきた遊牧民が加わって形成されたとされます。

そしてユダヤ人もまた遊牧の民であった以上、係わりを否定する方が難しいでしょう。

スラブ民族は、その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、67世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていたものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持ちます。

スラヴ民族は、ユーラシア大陸のイラン系遊牧騎馬民族のサルマタイ、トルコ・モンゴル系のフン族、ゲルマン系の一部族ゴート族などの多民族から成り立っています。

東欧やシベリアは後にモンゴル・イラン・トルコ系アヴァール(ハーン)やモンゴロイドのブルガール人が定住、ハーンの侵攻からゲルマン民族が撤退後の土地に定住したのです。

 

スラブ民族成立過程にユダヤ人は直接には登場しないが、ユダヤ人の血が途中で入って来ている可能性はないとは言い切れません。。

 

少なくとも中東文化の影響は受けているはずで、その過程でアダムとイブの伝承が伝わったのかもしれないです。

 

それはさておき、バイカル湖畔起源説を考えるとスラブ古語が日本語のベースの少なくとも一部になっているのは十分にあり得る話です。

 

なぜ一部と見るかと言えば、アメリカ大陸からも縄文の子孫と見られているアイヌの親戚とおぼしき人骨が出ているのです。

その中にフランスとスペインの様式の矢じりとともに見つかったケネウイック人も、います。

 

日本に家族性地中海熱の発症例があることを、著者の議論で説明するのはいささか無理があるように思われます。

 

だが、日本人起源としてロシアとトルコに注目した点は、大いに評価したいのです。

 

もっと言及されても良い地域だからです。

追記

日本とロシアについては、以前にも記事を書いています。

特に音楽のテンポの類似は今回言及してないので、見ていただけると幸いです。

 

ロシアと日本?

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神道とシンドウとヒンドウ?

「仏教メソポタミア起源説」「『ブッダの謎』─仏教西アジア起源論」と言った興味深い本が出ています。

仏陀と仏教に関する本なのだが、妙な気分になったのです。
日本には古代中東の遺伝子が多く残り、日本語とタミル語は同祖の言語と言う説が唱えられ、日本にはインドや中東と似た顔もよく見られるでしょ。
仏教それ自体の起源は意外と古く、釈尊は歴史の深い仏教における聖者の一人にすぎないともいえますよね。
そして、仏教の起源は西アジアに遡るとなると、気になるのはヒンドウと言う言葉です。
シンドウとも呼ばれるが、濁点を取ればシントウになるでしょう。
日本語は歴史を遡ると、発音のあいまいな二重母音の時代があるのでしたね。
二重母音、特に日本のようなワ行母音に近い二重母音の場合、濁点は落ちやすい訳ですよ。
日本の民族宗教であるシントウの読みが、シンドウの転化だったとしたら、そしてもし、シンドウの民は西アジアに遡るとしたら、どうなりますか。
古代日本の成立期、意外なほど多くのペルシャ人が参加して活躍してるが、古代中東や西アジアの文化が色濃く残る日本で、彼らは自らの理想を実現したかったのだろうかと思えてくるのです。
さらに、ペルシャ人仏教徒が古代日本に多数来ているが、彼らは仏教が少数派となった西アジアを逃れ、安住の地を求めてやってきたのだとしたら、どうなりますか。
ヒンズー教、ヒンヅー教とも呼ばれるヒンドゥー教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教だが、ネパールに近いチベットも日本と同様に古代中東の遺伝子が多く残り、インドもドラビダ語と日本語の近縁性が指摘されるのですよ。
神道はシントウと呼ばれているけれど、シンドウが二重母音の曖昧な発音が原因でそう呼ばれているのに過ぎないとしたら、どうなのでしょうか
考えても見てくださいね、ヒンドウはシンドウとも呼ばれるとしたら、ヒンドゥー教はシンドウ教になまっても良いはずでしょ。
そして、ヒンドゥー教と言う言葉は、他の宗教との比較や区別の必要性から出てきたわけだから、本来の名称はヒンドゥーなわけですよ。
ヒンドゥーの教えに随う民がヒンドゥーであり、神道の教えに随う民が日本人だったと言えるでしょう。
今、日本では多くの宗教が混在しているけれども、八百万の神々を受け入れてそれでいてびくともしないあたり、ある意味、ヒンドゥー教に似ていませんか。
穢れや嫌なことは水に流すと言う言葉があるが、ヒンドゥーの民はまさにいまでも聖なる川で身を清めたいと願っているわけでしょ。
こんなところにも、日本人の西アジア起源の可能性が感じられるのかと、妙な気分になったのでした。

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法輪を考えてみた。

法輪は、仏教の教義、特に釈迦が説いた四諦・八正道の別称です。

 

法輪は、仏教の教義を示す物として八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化されました。

卍と共に仏教のシンボルとして信仰され、寺院の軒飾りにも使用されました。

中国では道教にも取り入れられ、教義を示す用語として使用されています。

 

法輪の「輪」とは古代インドの投擲武器であるチャクラムを指すと見られています。

 

チャクラムは、古代インドで用いられた投擲武器の一種です。

チャクラムは、日本では戦輪、飛輪や、円月輪とも呼ばれ忍者が使用したものです。

ちなみにチャクラとはサンスクリットで「輪」を意味する中性名詞の語幹です。

チャクラムは、投擲武器としては珍しく斬ることを目的としています。

チャクラムの直径は1230cm程で、真ん中に穴のあいた金属製の円盤の外側に刃が付けられています。

 

投げ方は二通りあり、円盤の中央に指をいれて回しながら投擲する方法と、円盤を指で挟み投擲する方法です。

ヒンドゥー教の神であるヴィシュヌも右腕にこの円盤をもつとされています。

 

人々の煩悩が僧侶から説かれた仏教の教義を信じることによって打ち消されるさまを、転輪聖王の7種の宝具の1つであるチャクラムに譬えた表現であるとされます。

 

そこから、仏教では教義である法輪を他人に伝えることすなわち転を転法輪と言うようになりました。

転法輪は別名、転梵輪ともいいます。

 

だが、法輪については、釈尊が説法して人々の迷いを砕く有様を戦車が進んでいって敵を破ることにたとえたものと言う見方もあります。

 

つまり、実際のところ正体が不明なので、古代インドにあった武器で印象の似ているものを、恐らくこれであろうと推論が述べられているのに過ぎないわけです。

 

ならば、新たな説を唱える余地もあると言うことです。

 

実は釈尊には、中東系の可能性があるのです。

何しろ、こんな本が出るくらいです。

「仏教メソポタミア起源説」「『ブッダの謎』─仏教西アジア起源論」。

そうなると、法輪のイメージとして釈尊の思い描いていたものは、中東由来の可能性は否定できないのです。

 

聖書の創世記に、この記述があります。

 

創世記 3 24

神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

 

神は、言いつけに背いて知恵の木の実を食べた結果として死を知る必要が出てきたアダムとイブが罪を得たままで命の木の実を食べて永遠の命を得ることが無いよう、ケルビムと、回る炎のつるぎとで命の木への道を守らせたわけです。

 

このケルビムも輪と関係があります。

エゼキエル書 10 6

彼が亜麻布を着ている人に、「回る車の間、ケルビムの間から火を取れ」。と命じた時、その人ははいって、輪のかたわらに立った。

 

そしてこのケルビムの正体として、グリフィンとスフィンクスが候補に挙がってきたのです。

 

スフィンクスはすでにおなじみでしょうから、グリフィンについて紹介します。

 

グリフィンはグリフォン、グライフ、グリュプスとも呼ばれる伝説上の生物です。

一般的には、鷲あるいは鷹の翼と上半身、ライオンの下半身をもつとされるが、ライオンの頭で表現される場合もあります。

 

グリフィンには車をひく役割があるとされるほか、面白いことに、ローマ時代になるとシリアやパレスチナ周辺でグリフィンと一つの車輪という図像が突然現れると言います。

 

問題は、ケルビムと炎が深い関係があることです。

 

古代から中東には王家の象徴として太陽をかたどった紋章がありました。

その形はなんと、日本の天皇の象徴である菊花紋とそっくりなのです。

 

エジプトでは宗教改革でアメン神からアテン神へと崇拝の対象が切り換えられたことがあったが、そのアテン神の姿は太陽円盤の周囲に放射線を描くものです。

 

この宗教改革はアクエンアテン一代で挫折したが、アテン神は中東で古来から崇拝の対象であった太陽神と主張されていたのです。

 

もしこの主張が正しかったなら、菊花紋そっくりの太陽神の紋章の正体はアテン神だった可能性が出てきます。

 

現在ではトルコのイスタンブールで博物館となっているアヤソフィアは、東ローマ帝国時代に正統派キリスト教の大聖堂として建設され、トルコがイスラム圏になってからはモスクに転用されたこともあった建築です。

 

アヤソフィアの四角い建物に丸いドームが載っている形は、円で象徴される天と四角で象徴される地をそれぞれ表しています。

 

円で象徴される天の中心に太陽円盤の周囲に放射線を描くアテン神を配すると、見た目は車輪のような形になります。

 

法輪は、八方向に教えを広めるさまを表現する車輪形の法具とされるが、アテン神の周囲に光を放つ太陽神のイメージを重ね合わせることはできないでしょうか。

 

密教では、最高神は太陽の光の象徴とされる大日如来とされています。

 

もし、大日如来の正体はアテン神だとしたらどうでしょう。

 

そして、ケルビムやグリフィンに関係深い輪の正体もまたアテン神だとしたら…。

 

ケルビムもグリフィンも、神の守護者とされています。

 

法輪は、アテン神であり、ケルビムやグリフィンと関係があるのでしょうか。

釈尊中東説がもしも成り立つのであれば、このような解釈もあり得るのではないか、そう思ってまだまだ、証拠集めと検証が必要であることを承知で今回の議論となりました。

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