ゲルマン

三星堆を作ったのはドイツ人のご親戚?

ネット上で面白い記事を見つけました。

ネタとしても十分楽しめるけど、この仮面が三星堆遺跡から出土した品であることが、私には興味がひかれました。

なぜなら、三星堆を含めた長江一帯の古代遺跡は、近年、日本との関連が注目されているからです。

<サッカー>ドイツ代表のエジルは中国で発掘された青銅の仮面にそっくり、博物館職員の投稿が大反響―中国

Record China 6月19日(木)23時10分配信    

2014年6月17日、W杯のドイツ対ポルトガル戦が行われた。両雄が相見える前の16日午後3時59分、四川省三星堆博物館の公式ミニブログから興味深い写真が投稿された。写真の左側では、三星堆遺跡から発掘された青銅製の仮面に、ドイツの背番号8のユニフォームが組み合わされ、その右側に背番号8のエジルが並べられている。エジルの大きな目は青銅製の仮面の目にそっくりだ。写真には「今夜はがんばってくれ、うちの遺跡の恥さらしにならないように!」という言葉が付された。この投稿内容は17日午後4時までに2万5000回以上転載され、3000件以上のコメントが寄せられた。成都商報が伝えた。

【その他の写真】

投稿者は三星堆博物館でミニブログを管理している女性サッカーファンの朱さんで、特にドイツとイングランドのファンだという。

朱さんは、「三星堆の仮面は目が大きく、ラインがはっきりしていることが特徴で、中央・西アジアもしくは欧州の人に似ている。16日にドイツとポルトガルの試合を見て、エジルと青銅製の仮面、特に目・眉・鼻が似ていると感じた。そこでドイツのユニフォームを画像処理して投稿したが、これほど反響を呼ぶとは思わなかった」と語った。(提供/人民網日本語版・翻訳/YF・編集/武藤)

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クローン病は日本のどんな姿を浮かび上がらせる?

日本とアメリカやヨーロッパの繋がりは、アメリカのケネウィックで見つかったイギリスとアイヌの特徴を持った古代人骨が、フランスとスペインの様式の鏃を伴っていたことから、情報を集めていました。

 すると、家族性地中海熱という遺伝性疾患を持っている人から、こういう情報がありましたね。

 日本人である私と私の親族の遺伝子の中にセファルディ系ユダヤ人、北アフリカのアラブ人をはじめとする地中海沿岸部に暮らす民族と同じ劣性遺伝子が確実に存在している。

地中海沿岸と言う点では、フランスやスペインはまさしく面していますね。

似通った遺伝性疾患として、ヨーロッパ人、特にアイルランド人、スコットランド人に多い家族性アイルランド熱があり、日本にも発症例が報告されています。

 アイルランドやスコットランドといえばケルトの多い地域、ケネウィック人もケルトの多い地域出身のイギリス人との類似が指摘されていたでしょ。

ここで、ケネウィック人に見られたイギリスとフランスやスペインが、遺伝性疾患によって日本と繋がることが見えてきました。

日本とヨーロッパの遺伝性疾患から見える繋がりを見ていたら、高IgD症候群はドイツ、フランス、およびその他の北ヨーロッパ諸国に先祖をもつ小児に集中しており、オランダにも報告例があるようですね。

 ドイツについては、ストーンサークルから繋がりが見えそうな予感がしてきたでしょ。

日本には、ゲルマンの血が流れてると言う人もいるくらい、親近感を感じている人もいるようですね。

 ドイツ人と言っても、いろいろいるから、そうでもなかったと言う声も聞くことはありますけどね。

でも、ヨーロッパや地中海、アメリカなど、日本人のルーツとして興味深いにもかかわらず一般にあまり注目されてこなかった地域が多いでしょ。

日本とアメリカやヨーロッパの繋がりの強さを裏付ける可能性のある遺伝性疾患として、今回注目するのはクローン病です。

1932年に、ニューヨークのマウントサイナイ病院の内科医クローン先生らによって限局性回腸炎としてはじめて報告されました。

クローン病(Crohn's Disease)は、報告者クローン医師の名にちなんだ名前です。

クローン病は、炎症性腸疾患のひとつです。

略称をIBDと呼ぶことの多いD炎症性腸疾患(Inflammatory Bowel Disease)とは、大腸及び小腸の粘膜に慢性の炎症または潰瘍をひきおこす原因不明の疾患の総称です。

世界的にみると地域的には先進国に多く、北米やヨーロッパで高い発症率を示します。

食生活の欧米化によって患者数が増えているといわれ、食物中の物質や微生物が抗原となって異常反応を引き起こすことが、原因のひとつと考えられています。

環境因子、食生活が大きく影響し、動物性タンパク質や脂肪を多く摂取し、生活水準が高いほどクローン病にかかりやすいと考えられています。

喫煙をする人は、喫煙をしない人より発病しやすいと言われています。

とはいえ、クローン病を引き起こす原因と人種や地域によって発症する頻度が異なり、また家系内発症もみとめられることから、遺伝性であることは確かです。

最近の研究では、なんらかの遺伝子の異常を背景にもち、異物を処理する細胞やある種のリンパ球などの免疫を担当する細胞の異常反応が明らかになってきているといいます。

何らかの外来の抗原、つまり食事の成分、異物、病原体などの侵入とそれに対する免疫系の反応異常が想定されています。

 家系内発症も認められる以上、発症しやすい民族は絞れるかもしれないですね。

どの民族に発症しやすいか、気になるところです。

複数の遺伝性疾患が、日本と欧米の遺伝的近さを示しているので、クローン病もその一つに数え上げられるかもしれないのです。

欧米に多く、日本では比較的少ない疾患と見られてきたが、最近患者数が増えています。

現在のところ、単一の遺伝子異常だけで発症するのではなく、いくつかの遺伝子異常と環境因子などが複雑に絡み合って発症していると考えられています。

 アジアの各国と比べるのは、難しいでしょうか。

先進国に多いとなると、比べられる国は少ないのが現状ですね。

とはいえ、興味深いデータもあります。

韓国では、潰瘍性大腸炎についてみると、患者数・有病率共に日本より少ないとはいえ、二桁です。

ところが、クローン病は患者数・有病率共に日本よりはるかに少なく、一桁です。

 これは食生活の差か、遺伝子の差か、どちらでしょう。

様子を見る必要はあるが、日本の方が遺伝性疾患でみる限りでは欧米の飛び地の性格は強いので、遺伝子の差の可能性は考えてもいい気はします。

 世界的に発症が増えているとも言われるので、逆に言えば、その人の家系はどの民族の要素が強いかが、浮かび上がる展開も予想できますね。

 古代イスラエルの民は、世界に散ったでしょ。

 彼らとの血の繋がりの濃さの差が、発症しやすさの差に繋がっているなんてことは…。

可能性としては面白いけど、証拠をさらに集めていく必要はありますからねえ。

クローン病は20代に最も多く発症しているが、ほかの年代にもみられます。

口腔にはじまり肛門にいたるまでの消化管のどの部位にも炎症や潰瘍が起こりえるが、小腸の末端部が好発部位で、非連続性の病変が特徴です。

それらの病変により腹痛や下痢、血便、体重減少などが生じる病気です。

潰瘍とは粘膜が欠損すること、病変とは病変と病変の間に正常部分が存在することを、言います。

 クローン病とはどんな病気でしょうか。

小腸、大腸を中心とする消化管に炎症を起こし、びらん、つまり、ただれや潰瘍を生じる慢性の疾患です。

症状は、腹痛、下痢、下血、体重減少、発熱などです。

潰瘍性大腸炎と似ている点も多く、2つをまとめて炎症性腸疾患と呼びます。

症状としては、下痢、腹痛、発熱、体重減少、全身倦怠感(けんたいかん)がよくみられると言います。

血便はあまりはっきりしないこともあり、下痢や下血が軽度の場合、なかなか診断がつかないことがあるので医師の診断を訊いたが良いでしょう。

口腔粘膜にアフタ(有痛性小円形潰瘍)や小潰瘍がみられたり、痔、とくに痔瘻(じろう)や肛門周囲膿瘍(のうよう)といわれる難治性の肛門疾患を合併したりすることがあります。

また消化管以外の症状として、関節炎、結節性紅斑、壊疽性膿皮症(えそせいのうひしょう)など皮膚症状、虹彩炎、ぶどう膜炎など眼症状を合併することがあります。

潰瘍性大腸炎と異なるのは、炎症は口腔から肛門までの消化管全体に起こりえることといいます。

最も病変が生じやすいのは、回盲部(かいもうぶ)と呼ばれる小腸と大腸のつながるところの付近だそうです。

病変が小腸のみにある小腸型、大腸のみにある大腸型、両方にある小腸大腸型に分類されます。

クローン病の病変は、非連続性といわれ、正常粘膜のなかに潰瘍やびらんがとびとびにみられます。

また、 消化管の縦方向に沿ってできる細長い縦走(じゅうそう)潰瘍が特徴的です。

組織を顕微鏡で見ると、非乾酪性類上皮細胞肉芽腫(ひかんらくせいるいじょうひさいぼうにくげしゅ)といわれる特殊な構造がみられます。

大腸内視鏡検査、小腸造影検査、上部消化管内視鏡検査などを行い、このような病変が認められれば診断がつくそうです。

血液検査では炎症反応上昇や貧血、低栄養状態がみられます。

診断はまず、症状からクローン病を疑い、一般的な血液検査、糞便検査、さらに消化管X線造影検査、内視鏡検査をすることによってなされます。

その中でも消化管の病変を見つけだすのに注腸造影、小腸造影などのX線造影検査、大腸内視鏡検査といった消化管の検査が重要です。

クローン病の治療は、いまだ原因が不明であるために根本的な治療法がないのが現状です。

ただし、治療を受けている本人がクローン病を正しく理解し、治療を受ければ多くの場合は「寛解」状態になり、それを維持することが可能とのことです。

寛解とは永続的であるか一時的であるかを問わず、病気による症状が好転または、ほぼ消失し、臨床的にコントロールされた状態を指す言葉です。

一般的な意味で完治せずとも、臨床的に「問題ない程度」にまで状態がよくなる、あるいはその状態が続けば寛解したと見なすわけです。

その基本はあくまでも腸管に生じた炎症を抑えて症状を和らげ、かつ栄養状態を改善するために、急性期や増悪期には栄養療法と薬物療法を組み合わせた内科的治療が主体となります。

内科的には治療できない腸閉塞、穿孔、大量出血などが生じた場合は手術が行われます。

薬物療法として、サラゾピリン、ペンタサなどの5‐アミノサリチル酸製剤、副腎皮質ステロイドや6-MPやアザチオプリンなどの免疫調節薬が用いられます。

寛解を維持するために、5-アミノサリチル酸製剤や免疫調節薬が使われます。

最近では瘻孔合併などの難治の症状がある場合、抗TNFα受容体拮抗薬が比較的早期の段階で使用されるようになってきているそうです。

薬物治療以外では、血球成分除去療法が行われることもあります。

食べ物が原因のひとつとして考えられているため、栄養療法も重要で、最も重症の時には絶食と中心静脈栄養が必要です。

少しよくなってきたら、成分栄養剤(エレンタール)という脂肪や蛋白質を含まない流動食を開始します。

成分栄養剤は栄養状態改善のためにも有効です。

炎症が改善し普通食に近いものが食べられるようになっても、脂肪のとりすぎや食物繊維の多い食品は避けます。

栄養療法には、経腸栄養と完全中心静脈栄養があります。

経腸栄養療法は、抗原性を示さないアミノ酸を主体として脂肪をほとんど含まない成分栄養剤と少量のタンパク質と脂肪含量がやや多い消化態栄養剤やカゼイン、大豆タンパクなどを含む半消化態栄養剤があります。

完全中心静脈栄養は高度な狭窄がある場合、広範囲な小腸病変が存在する場合、経腸栄養療法を行えない場合などに用いられます。

病気の活動性や症状が落ち着いていれば、通常の食事が可能となるが、食事による病態の悪化を避けることが最も重要なことです。

一般的には低脂肪・低残渣の食事が奨められているが、一人一人の病変部位や消化吸収機能が異なっているため、主治医や栄養士と相談しながら自分にあった食品を見つけていくことが大事です。

症状が安定している時には、通常の社会生活が可能です。

腸に狭窄や腸管と腸管、腸管と皮膚などがつながって内容物がもれ出てしまう状態である瘻孔(ろうこう)を生じたり、腸閉塞、穿孔(せんこう)、膿瘍などを合併したりした場合、手術が必要となることがあります。

 内科的治療でコントロールできない場合には、手術が必要となるわけですね。

手術はできるだけ腸管を温存するために、小範囲切除や狭窄形成術が行われます。

インフリキシマブ(レミケード)は、抗TNF‐α抗体製剤といわれる薬剤で、高い活動性が続く場合や瘻孔を合併している場合にとくに有効だそうです。

アザチオプリン(イムラン)などの免疫調節薬も、使用することがあります。

長期にわたって慢性に経過する病気であり、治療を中断しないことが大切です。

近年、抗TNF-α抗体が開発され、その有効性が高いことが明らかにされて以来、クローン病の病態に基づく治療薬の開発が欧米を中心に精力的に進められているといいます。

特にクローン病ではTリンパ球がTh1型に傾き炎症反応を引き起こす物質が過剰に産生されていることから、これを是正するために、インターロイキン12やインターフェロンγなどの抗体の開発が始まっています。

また、抗TNF-α抗体も、抗体反応を起こさないことを期待して、完全ヒト型の抗体製剤アダリムマブ(ヒュミラ)が使用されるようになっています。

 どういう経過をたどるのですか。

再燃・再発を繰り返し慢性の経過をとります。

 再燃とは、どういう状態かと言うと。

一時的または長い期間引き続いて軽快または消失していた疾病が、再び悪化または出現してくることをさします。

再燃は完全には治っていなかったものが悪くなる場合をいい、再発はいったんは完全に治癒したものが悪化した場合をいいます。

現実には、再燃と再発は、必ずしも明確に分けられないことが多いようですね。

クローン病は、完全な治癒は困難であり、症状が安定している時期、つまり寛解をいかに長く維持するかが重要となります。

長い経過の間で手術をしなければならない場合も多く、手術率は発症後5年で33.3%、10年で70.8%と報告されています。

また、定期的に検査を受けることも必要となります

厚生労働省の特定疾患に指定されており、申請すると医療費の補助が受けられます。

 クローン病何て言うから、クローン生物の方を連想していました。

人命由来の病名には、そういうわかり難さが付きまとうのが難点ですね。

 原因が突きとめられたら、もっと分かり易い名前に変わるでしょうけど。

何時の事ですかね。

 でも、背後に何らかの民族名は浮かび上がるかもしれないのでしょ。

他の遺伝性疾患同様、なんらかの民族名は浮かび上がるでしょうね。

このクローン病については、中国語で庫隆氏症(クーロンスーヂェン)と言う名前が付くように、まだまだ、国境を越えて広がる様相を見せているので、注意と注目は必要と感じていますが…。

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カーニバルと盆踊り?

謝肉祭と訳されることの多いカーニバルは、もともとカトリックなど西方教会の文化圏で見られる、四旬節の前に行われる通俗的な節期です。

謝肉祭は、各国で次のように呼ばれます。

英語ではカーニヴァル(Carnival)

ドイツ語ではカーネヴァル(Karneval)、ファシング(Fasching)、ファストナハト(Fastnacht)

スペイン語ではカルナバル(carnaval)

イタリア語ではカルネヴァーレ(carnevale)

フランス語ではカルナヴァル(carnaval)

ポルトガル語ではカルナヴァウ(carnaval)

ハンガリー語ではファルシャング(farsang)

ポーランド語ではカルナヴァウ(Karnawał)

アイスランド語ではキョトクエズユハウティド(kjötkveðjuhátíð)

四旬とはもともとは40日のことだが、日曜日を除いて40日を数えるので、日曜日をくわえると実際は46日となります。

日曜日はイエスの復活を記念する喜びの日なので、四旬節の40日にはカウントされないのです。

四旬節は、カトリック教会などの西方教会において、復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間のことです。

なお、聖公会では「大斎節」と呼び、プロテスタントの教派によっては「受難節」と呼ぶこともあります。

四旬節では伝統的に食事の節制と祝宴の自粛が行われ、償いの業が奨励されてきました。

伝統的に、四旬節の節制は、祈り、断食、慈善の3点を通じた悔い改めの表明と解されます。

現在の多くの西方教会の教派では、神に対しての祈り、自分自身に対しての節制、さらに他人に対する慈善の3つが四旬節の精神であるとして教えられています。

もちろん、伝統的な考え方を否定するわけではないといいます。

現在でも一部の信徒たちが娯楽の自粛や慈善活動への積極的な参加を行っているそうです。

一方、東方教会の諸教派では、現在も、慈善の奨励や四旬節に固有な悔い改めを促す種々の祈りとともに厳格な食事の節制が行われます。

四旬節の日は、年によって一定ではありません。

復活祭は3月22日から4月25日のいずれかの日曜日なので、四旬節は2月4日から3月10日のいずれかの日に始まるのです。

四旬節は、正教会の「大斎(おおものいみ)」に相当します。

もっとも、正教会における大斎の始まりは、日曜日日没であることや、東方教会の復活祭の日付は西方教会と必ずしも一致しません。

ちなみに、教会暦は日没を一日の境目と捉えます。

そこで、日曜日日没から月曜日と数えるのです。

大斎と四旬節は、年によって1週から5週ほどのずれを生じていることなどにより、期間には相違がでてしまうのです。

 40は聖書では、ノアの洪水や、出エジプト、イエスの断食などで出てくる数字ですね。

四旬節の語源は、ラテン語の40を意味するクアドラゲシマで、元は初代教会で復活祭前に行っていた40時間の断食の事だったと言います。

四旬節は本来、復活祭に洗礼を受ける求道者のために設けられた期間だったのです。

復活徹夜祭には成人の洗礼を行うのが初代教会以来の慣習であり、受洗者たちも初聖体に備えて40時間断食を行っていました。

後に、聖金曜日から復活祭までとされたこの40時間は、6日間に延ばされ、さらに延びて6週間の洗礼準備が行われるようになったようです。

4世紀の終り頃のエルサレムでは復活祭前の7週間、毎週3時間の受洗準備が行われていたという記録があるそうです。

4世紀に入ってキリスト教が公認されると、受洗者の数が激増したため、従来、求道者のみに課していた復活祭前の節制の期間を全信徒に対して求めるようになったわけです。

これが四旬節の起源とされます。

四旬節中には厳格な断食をなすという習慣は、古代末期から中世にかけて確立したそうです。

肉はもちろん卵、乳製品の摂取が禁じられており、一日一度しか十分な食事を摂ることができないとされました。

 その四旬節の前の行事だから、カーニバルは謝肉祭と訳される。

そうなるでしょうね。

今日では、社会の変化により、西方教会においてはそのような厳格な実施は求められていないようです。

現代のカトリック教会における四旬節中の節制は、以下のようなものといいます。

まず、教会法1251条によって対象となるのは、18歳から60歳までの健康な信徒である。

教会法1253条は大斎の実施については各国の司教団の決定に従うよう書かれている。

基本的には大斎の日には一日一度十分な食事をとり、あとの2回は僅かに抑える。

大斎の日には肉を摂らないという小斎も同時に行われる。

現行のカトリック教会法では、毎週金曜日と灰の水曜日や聖金曜日に小斎を行うというのが基本的な形式だそうです。

カーニバルの語源は、一説によるとに13世紀のイタリア語などラテン系言語の「肉よ、お別れじゃ」という意味のカルネ・ウァレ(carne vale)に由来するといわれます。

ドイツ語のファストナハトなどは「断食の前夜」の意で、大斎である四旬節の断食の前に行われる祭りであることを意味します。

別の説には、謝肉祭は古いゲルマン人の春の到来を喜ぶ祭りがキリスト教の中に入ってきたと見るものもあります。

ゲルマンの農耕祭に登場する船を仮装した山車carrus navalis(車・船の意)が、カーニバルの語源と見るわけです。

もちろん、断食の前という意味の方が古いという研究者もいます。

ゲルマンの祭りが入ってきた当初は、一週間教会の内外で羽目を外した祝祭を繰り返し、その最後に自分たちの狼藉ぶりの責任を大きな藁人形に転嫁して、それを火あぶりにして祭りは閉幕するというのがその原初的なかたちであったそうです。

 今でも、大きな人形を燃やす祭りはヨーロッパにありますね。

 日本人にもゲルマンの血が入っていると言う人はいるけど、中に明かりを灯す、ねぶたやねぷたの人を描いた大きな山車は、時期は違うけど燃やす人形と起源は似ていますかね。

 ヨーロッパには、なまはげに似た風習もあるし、日本にもハロウィンを連想できる行事があるでしょ。

確かに、行列型盆踊りとカーニバルは、奇妙なほど雰囲気は似ているのですよ。

 目的が違うから、あまり比較されてこなかったけど。

祭りは本来、霊的な世界との交流や交信としてなされてきたことを想えば、時期や表面的な目的の差にとらわれると本質的な類似が見えなくなる点を見落としてしまうでしょうね。

 目的の違いも、無視してはいけないけれど。

仮装したパレードが行なわれたり、菓子を投げる行事などが行なわれてきたことから、現代では宗教的な背景のない単なる祝祭をもカーニバルと称することが少なくないようですからね。

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スェーデンと日本?

スウェーデン人はスウェーデン王国の国民という意味だが、民族としてのスエーデン人とは、スエーデン国民のなかでもゲルマン民族の人々を指します。

主にスウェーデンで使用されるスウェーデン語は、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派北ゲルマン語群のノルド語の一種に分類されている東スカンジナビア諸語に属する言語です。

ノルド語の元となったノルド祖語は、北ゲルマン語族の祖語で、ゲルマン民族の大移動の時代に話されていたと推定されています。

スエーデン人は、北欧スカンディナヴィア半島に分布するゲルマン民族の総称でもあります。

 ゲルマン人と言えば、主に、スエーデン、ノルウェー、デンマークで、スエーデン人と呼ばれているのでしたね。

 そうそう、日本人にはゲルマンの血が入ってるなどという人もいるでしょ。

ゲルマン人と日本人も、細かい違いはいろいろ指摘されながらも、民族性は面白いほど似ているとよく話題にされますね。

 日本と、イギリスと、ドイツは、ストーンサークルで繋がるのかと驚いたけど、スエーデン人ともゲルマンで繋がるなら、ストーンサークルはあるかしら。

スカンディナヴィア南部はゴートランドあるいはイェータランドと呼ばれ、ゴート族を含むゲルマン系民族がポーランド一帯に遺したストーンサークルと類似するものがスカンディナヴィアで発掘されているというのでしたね。

 じゃあ、スエーデンには…。

スエーデン南部にも、3000年は遡れるであろうストーンサークルがあるそうですよ。

ゲルマン人は、はかにも、ドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、オランダ、イングランドのアングロ・サクソン人、ベルギーのフランデレン人、フランスのアルザス人、イタリアの南ティロル人がこの集団の系譜を引いていますよ。

近年の世論調査では、スエーデン王国国民の90%がスウェーデン人を自認しているそうです。

 ゲルマン人とはゲルマニアにちなむ名称で、自らは、アングロ・サクソン人やゴート人という部族名を名乗っていたのでしたね。

疑問視されている説ではあるけれど、ゴート族はスカンディナヴィア半島を発祥とする民族という意見もあるのです。

9世紀ころには、小さなゲルマン人の王国や首長に率いられた小集団となって北欧に暮らしていたようです。

 このあたりが、ゴート族はスカンディナヴィア半島発祥の民族という意見が出る理由の一つなのでしょうね。

古代に北ドイツから移住したスヴェーア人、いわゆるノルマン人が原初スウェーデン人であるといわれますけどね。

ゴート族はスカンディナヴィア半島発祥の民族というのは、550年頃にアリウス派僧侶でゴート人の歴史家であるヨルダネスが、東ゴート王国の学者カシオドロスの著書を要約して著した史書『ゴート人の事跡(De rebus Geticis)』に載ってるそうです。

 スカンディナヴィア南部はゴートランドあるいはイェータランドと呼ばれたのでしたね。

 「ヴィア」とか「ビア」というと、「シア」「シャ」に音が似てます。

 「シア」「シャ」のある地域には、不思議と日本との繋がりが見えますよね。

スカンディナヴィア半島では、フィンランド人と日本人は遠縁の親戚筋にある民族であることを見てきました。

北欧と日本、文化の比較はもっとされても良さそうですね。

スヴェーア人たちは、ヴァイキング活動の最中に纏まりを見せ、10世紀までにスウェーデン王国を形成しました。

なお、東方及び東欧に進出したヴァイキングの中には、ルーシ族ないし、ヴァリャーグと呼ばれ、キエフ・ルーシ等ルーシ諸国家の建設を担ったものもいたが、これもスヴェーア人を含んだゲルマン人だとされています。

 ルーシ、つまり、ロシアと言えば、ロシア民族歌謡と日本の民族音楽との類似が見えましたね。

ルーシ人は、キエフ・ルーシの人民という意味で用いられ、11世紀から20世紀半ばにかけてウクライナ人とベラルーシ人の自称でした。

なお、ルーシ人は、ラテン語で「ルテニア人」と呼ばれます。

 「ニア」も、「シア」「シャ」に音が似てます。

ロマ音楽が大きく影響している国には、よく見ると面白い傾向が見られるでしょ。

インド・トルコ・マケドニア・アルバニア・セルビア・ギリシャ・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ロシア・スペイン・フランス。

 「シア」「シャ」に似た音が名前に入っている国多いですね。

ロシアがルーシから始まっていることを思えば、スエーデンなどスカンディナヴィア半島の国々の音楽も注目した方が良さそうですね。 

 スエーデンに限らず北欧諸国の音楽に特徴はないという指摘もありますね。

 北欧民族音楽にも、強いて言えばどこかの物に似ているとか、ないのですかね。

日本人にはゲルマンの血が間違えなく入っていると見る人もいるので、ゲルマン系の民族と日本はもっと比べてみる必要がありますね。

スヴェーア人、いわゆるノルマン人は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人です。

初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じと言って良い存在でした。

これらのゲルマン人によって、スウェーデン人が形成されたものと思われます。

民族としてのスウェーデン人は、16世紀のデンマークを盟主としたカルマル同盟からの独立によって成立したと言えます。

フィンランドにいるスウェーデン人は、北方十字軍以降に移住したスウェーデン系フィンランド人を指します。

また19世紀から20世紀にかけてアメリカ合衆国に移住したスウェーデン人は、スウェーデン系アメリカ人と言い、主に北部に移住しています。

アメリカ移民と同時期にカナダに移住したスウェーデン人は、スウェーデン系カナダ人を形成しました。

スウェーデン語を母語とするスウェーデン人は、現在、本国スウェーデンの他、フィンランドとフィンランドの自治領オーランド諸島に住む。

南部のスコーネ県はデーン人に由来し、現在もデンマーク語に近い方言を話すが、一般的にはスウェーデン人に含まれます。

なお、スウェーデン国内には、サーミ人やフィンランド人も少数おり、近年は移民も受け入れています。

宗教はプロテスタント系のルター派(ルーテル教会)が多数を占めており、国教(スウェーデン国教会)となっています。

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スロバキア。

北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接するスロバキア共和国、通称スロバキアは、中央ヨーロッパの共和制国家です。

首都はブラチスラヴァ。

国土の1/3を森林に覆われた緑多きこの国は、かつてはハンガリー王国の一部であり、その伝統は、ハンガリーをはじめ、スラブ、オーストリア、ドイツ、そして1993に分割されたチェコの影響を受けてきました。

古代にはサモ王国・モラヴィア王国として独立を保った期間もありました。

だが、この地のスラブ人は1000年間少数民族としてハンガリー王国の支配下にあったのです。

ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもあります。

 元来スラブ系でしょ。

ハンガリー文化に同化した者も、多いですよ。

スラヴ人は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団です。

ウクライナ人・ベラルーシ人・ロシア人は東スラヴ人、スロバキア人・チェコ人・ポーランド人は西スラヴ人、クロアチア人・セルビア人・ブルガリア人など南スラヴ人に分けられます。

言語の共通性を、何よりのアイデンティティとしています。

スラヴ語の「スラヴ・スロボ」は、言語とか言葉を意味するスラブ語のслово(スローヴォ)から来ています。

スラヴ人の多くは、コーカソイド人種の特徴を持っています。

 アイヌも、コーカソイド人種と見られたことがありましたね。

 いまでは、モンゴロイドに分類されるけど。

こういうことも、日本にロシア人と勘違いされる顔の人がいる理由になっているのでしょうね。

 スラブ人が多い東欧は、日本人に似た人が案外いるということになりますね。

原住地はカルパチア山脈周辺と推定され、その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、6、7世紀頃まで言語としての一体性を持っていました。

 カルパチア山脈は、カルパティア山脈とも発音され、中央ヨーロッパ・東ヨーロッパの山脈でしょ。

次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といったゆるやかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持ちます。

「スラヴ」がギリシア語に入ったときに「奴隷」の意味となり、英語のスレイヴの語源になっていったのは、他の民族もそうであるが、スラヴ人も戦争などで捕らえられると奴隷として扱われたためでしょう。

この時期、捕虜はどの国でも奴隷であり、戦利品に過ぎなかったのです。

さらに、ギリシアの文化を受け継いだローマ帝国のラテン語から西欧諸言語に広まったと考えられています。

現在もスラヴ人の名前にアレクサンドル(アレクサンダー)とかローマ人をさすロマンといったものがあるが、東ローマ帝国と現在のウクライナであるキエフ・ルーシとの戦争における奴隷のなごりではとも考えられます。

 でも、スラブ、アラブ、音が似てますね。

 アッラーは、聖書の神であるヤハウエやイエスと同じ神とされるでしょ。

実際はアッラーは、聖書でいう御父だと思うけど、ヤハウエやイエスと同一視しても大まかな議論には影響しませんからね。

そして、言葉は神とともにあった、言葉は神であったと聖書にあります。

 スローヴォが、アッラーの転化と見れば言語や言葉をさすようになっても、おかしくありませんね。

さらに、聖書の民は自らを神の僕(しもべ)の意味で、しばしば聖隷と呼びますよ。

 スラブが奴隷を指す言葉の語源となった背景には、このあたりの事情もありそうですね。

スラブ人の民族発祥に関する言い伝えであるスラブ叙事詩には、どこか聖書を連想できる部分があるのですよ。

 でも、スラブとユダヤの同祖論はあまり聞いたことないですよ。

タタールの軛(くびき)と呼ばれる、モンゴルの支配があった時代が長かったからかも。

 でも、それはルーシの話でしょ。

他のスラブ人も、周辺民族から多くの影響を受けて別々の民族へと、分化していきましたからね。

ユーゴスラビアも、ユーゴスラブ人を纏めようとしたけど、結局民族国家に分かれてしまったでしょ。

 そういえば、白人的なユダヤ人であるアシュケナージは東欧圏に多くなかったですか。

そうですね。

アシュケナージは、アシュケナジーやアシュケナジムとも呼ばれ、ディアスポラのユダヤ人のうち、おもに東ヨーロッパなどに定住した人々やその子孫の呼称の単数形です。

同地からイスラエルに移住したユダヤ人とその子孫の集団も、同様に呼ばれます。

 ロシアや東欧には、アシュケナージを苗字に持つ人は多いですよね。

スロバキアは、第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立しました。

その後幾らかの変遷を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至ります。

ケルト人が先住民であるが、1世紀ごろゲルマン人が、この地を支配していました。

5~6世紀ごろにスラブ人が移住して来、9世紀には、大モラヴィア帝国を創り上げました。

9世紀に現在のスロバキア、モラヴィア、ボヘミア、シレジア地方にモラヴィア王国が成立しました。

モラヴィア王国は、9世紀から10世紀初頭にかけて栄えたスラヴ人の王国で、大モラヴィア王国などとも表記されます。

スロバキアでは、モラヴィア王国がスロバキア人による王国であると主張する者もいます。

けれど、歴史学的には証明できる事実ではないのです。

 確かなのは、スラブ人の王国ということだけですか。

どうも、そのようですね。

この地域のスラブ人が現在のように簡単にチェコ人、スロバキア人などと言うように分類できない面がありましたからね。

10世紀になるとマジャル人の侵入を受け、ハンガリー王国が成立しました。

 ハンガリー王国は、かつて現在のハンガリー共和国を中心とする地域を統治した王国でしょ。

ハンガリー王国は000年頃、イシュトヴァーン1世の即位によって成立しました。

当然、今ではほかの国の領土になった地域もあり、スロバキア全土は北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになります。

ただし、ハンガリーに比べてスラヴ人の多い地域でしたけどね。

ちなみに、ハンガリー王国は最盛期には、スロバキアのほか、クロアチア共和国のクロアチア地方やスラヴォニア地方、セルビア共和国のヴォイヴォディナ、ルーマニアのトランシルヴァニア、オーストリア共和国のブルゲンラント州も領域でした。

更にオスマン帝国がハンガリーに侵入するとプラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、ハンガリーにとっても北部ハンガリーは重要な地域と見なされるようになりました。

この首都移転は北部ハンガリーの人口バランスを狂わせるもので、増加したマジャル人に対して北部ハンガリーのスラヴ人の反感は高まったのです。

19世紀の中ごろに周辺のスラヴ人が民族主義の流れからクロアチアのスラヴ人からクロアチア人、ボヘミアのスラヴ人からボヘミア人と呼び名を変えて行くようになりました。

北部ハンガリーでは自らの地域・北部ハンガリー地域のスラブ語に転化したスロバキアと名づけ、自らをスロバキア人、自分達が話す言語をスロバキア語であると主張するようになりました。

またこの頃、勢力の大きいマジャル人に対して、チェコ人(チェック人)とスロバキア人の連合が主張され始めるようになりました。

オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下においてはチェコ、スロバキアは共に連邦国家構想を支持していたが第一次世界大戦の終了と共にオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。

1918年、独立運動の指導者トマーシュ・マサリクは、チェコスロバキアは民族自決の対象となる単一のチェコスロバキア人国家として独立を宣言しました。

チェコの社会学者・哲学者・政治家であったトマーシュ・マサリクは、チェコスロヴァキア共和国の初代大統領を、1918年から1935年まで務めました。

 トマーシュ・マサリクは、1850年3月7日チェコ共和国の領土となっているモラヴィアのホドニーンに生まれ、1937年9月14日に没したのでしょ。

オーストリア・ハンガリー帝国崩壊の後、更にハンガリーに侵入して北部ハンガリーのほとんどの地域をハンガリーから収奪し、これが現在のスロバキア国家の基本的な領土となっています。

しかしこの行動は、ハンガリー等で領土回復運動が高まるきっかけとなったのです。

 スロバキアの伝統料理は、肉系統を主体としたものでポテトが付け合せで出てくると聞きました。

 歴史的にハンガリーとの関係が強いせいか、ハンガリー料理に似ているそうですね。

ハンガリー料理によく似ていているのが南部で、パプリカを使ったグヤーシュというスープがポピュラーだそうですよ。

 スロバキアの料理は、地方によって特色があるのですね。

オーストリアに近い西部では、シュニッツェル、ソーセージ、サワークラウトがよく食べられているそうです。

 シュニッツェルはカツレツ、サワークラウトは酢漬けキャベツですよね。

 スロバキアには、スープ料理の種類がたくさんあるようですね。

もっとも有名なのは、カプストニカ(Kapustnica)という燻製の豚肉ソーセージ、キャベツ、きのこの入った温かいスープでしょう。

カプストニカは、じゃがいもを主原料にしたハルシュキというお団子や、羊のチーズのお団子と一緒に食されているといいます。

川魚のマスやコイも人気で、クリスマスに肉食を禁じているカトリック教徒が多いため、特にクリスマス・シーズンには、マスやコイの料理が食卓を飾ることが多いらしいです。

 チェコと同様、スロバキアで人気の飲み物といえば、ビールでしょ。

Golden PheasantやTopvar、Corgonといったブランドがあり、輸出もされていますね。

ほかには、ボロヴィッカ(Borovicka)というドライジンに似たジュニパーで風味づけしたブランデーや、スリヴォヴィカ(Slivovica)というプラムのブランデー、また東南部ではワインも造られていて、これも海外に輸出されています。

スロバキア料理は、日本人にも美味しいものが多いようだけど、ソーセージはものによっては好みにあまり合わないのがあるらしいです。

食べたことないので、どのソーセージが美味しくてどれがそうでもないか、知らないですけどね。

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チェコ。

1993年に、チェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離しました。

今回は、チェコの方を取り上げてみたいと思います。

 スロバキアも、気になりますけど。

そのうち、取り上げましょ。

チェコの正式名称は、チェコ語でČeská republika(チェスカー・レプブリカ)で、チェコ共和国と訳されます。

通称は Česko(チェスコ)、または Čechy(チェヒ)です。

チェコは、地域的には中欧に属するが、第二次大戦後ソ連圏に組み込まれていた時期には政治的に東欧に分類されていました。

 ソ連崩壊後、再び中欧の国として分類されるようになったわけですよね。

まず、大まかに歴史を振り返ってみます。

中世以降は、チェコ民族の形成を振り返るのが目的なので省かせてもらいます。

古代には、チェコの地にケルト人が居住し独自の文化を形成しました。

チェコは、主に古来はケルト系先住民ボイイ人の名によりボヘミアと呼ばれた西部の広大な盆地とモラヴィアの丘陵とからなります。

西スラヴ系のチェック人(Czechs)が定着し、7世紀にはフランクの商人サモがモラヴィアを中心に国家であるサモ国を建設しました。

サモの死後まもなく滅びたが、その基礎は次のモラヴィア王国に受け継がれ、これがマジャル人の進出で衰退すると、ボヘミアには10世紀頃に王国を建てたという流れがチェコ史の初期の展開となります。

 ケルトは、日本とヨーロッパを繋ぐ民族として何度も話題にしてきましたね。

ケルト人は、中央アジアの草原から馬と戦車や馬車など車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族です。

ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化を発展させました。

 ハルシュタット文化は、紀元前1200年から紀元前500年ですよね。

ハルシュタット文化という名称は、オーストリアのザルツブルク州の南東の湖岸の村ザルツカンマーグートにある標式遺跡が出土したハルシュタットに由来します。

標式遺跡は標準遺跡とも呼ばれ、考古学上の、遺構、遺物又はその一連となる関連性の集合として定義される特定の型式、形式、様式、あるいは、年代、文化期、文化層の命名、簡単に言えば時期区分名命名の契機を与えた遺跡、あるいはその基準となる遺構、遺物が検出された遺跡自身のことをいいます。

例えば、弥生文化とは、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町、現在の東京都文京区弥生の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来します。

この、弥生文化の名の由来となった東京の遺跡は弥生文化の標識遺跡と言えます。

ハルシュタット文化は、中央ヨーロッパにおいて紀元前12世紀以降青銅器時代後期の骨壺文化から発展し、紀元前8世紀から紀元前6世紀鉄器時代初期にかけて主流となった文化です。

後に中央ヨーロッパのほとんどは、ラ・テーヌ文化に移行しました。

ラ・テーヌ文化はヨーロッパの鉄器時代の文化で、スイスのヌーシャテル湖北岸にあるラ・テーヌの考古遺跡で1857年 Hansli Kopp が多数の貴重な遺物を発掘したことから名付けられました。

当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット鉄器文明は紀元前500年から紀元前200年ラ・テーヌ鉄器文明に発展します。

ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立しました。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられます。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存しています。

現在のケルトという言葉は言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代~中世において右図で表されている地域の住民が、「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていません。

そのため歴史学などでは「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っています。

彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されています。

紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになりました。

また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを征服しました。

 マケドニア、ロマ音楽の影響を受けた国や地域を取り上げた時出てきた名前ですね。

ロマ音楽も、日本の民族歌謡との類似が大きいですね。

チェコ音楽の形成は、チェコ史を反映して複雑な経過をたどっているので、特徴の比較は簡単にはいかないようです。

チェコは、その地理的位置付けから周辺の国や民族から翻弄されてきました。

政治的には東ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ハンガリー、オスマン帝国、ポーランドといった大国が鎬を削りました。

民族的にはゲルマン系集団、スラヴ系集団、マジャル人に代表される東方由来の遊牧民などが興亡を繰り広げました。

宗教的には正教会、カトリック、フス教徒を含むプロテスタントといったキリスト教諸会派が勢力を争いました。

このため、その音楽にも多様性が生まれ、アントニン・ドヴォルザーク、レオシュ・ヤナーチェクといったユニークな作曲家を生んだのです。

ただ、どんなに周辺の影響を受けようと、チェコの民族性を音楽も反映しているはずなので、なんらかの特徴は見えると思えます。

チェコは、ボヘミアとモラヴィアの2つの地域に大別されます。

ボヘミアとモラヴィアでは、その民俗音楽に大きな特徴があると言われます。

チェコの指揮者・作曲家のヤロスラフ・フォーゲルは、その違いを次のように述べているそうです。 

ボヘミアとモラヴィア西部は、音階は全音階的な長短調、フレーズは相称的な構造、拍節は厳格で規則正しい拍節構造とリズムパターン、起源は舞踊。

モラヴィア東部と南部およびスロヴァキアは、音階は長短調以外でギリシア旋法や教会旋法に近い、フレーズは非相称的な構造、拍節は不規則な長さのフレーズ構造、起源は歌謡。

ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻しました。

 しかし、もとはケルトの地だったので、全体を貫くチェコらしさは何かあるでしょうね。

聞き比べてみると、面白いことがわかるでしょうね。

 ロマ音楽の拍子で、リズムやテンポが取れるかしら。

ロマ音楽のリズムの特徴は、強弱の入れ子になってることでしたね。

 前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるでしょ。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じでしたね。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですね。

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)

どこまで、それが言えるか興味ありますね。

やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになります。

ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服されます。

カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献です。

やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人、フランス語ではゴール人は、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していきます。

その後、チェコの地にはゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となります。

 ゲルマンも、日本やイギリスとストーンサークルで繋がるのでしたね。

 日本人にはゲルマンの血が入っているという人もいるくらい、ゲルマンの末裔と言われるドイツ人も日本人と気質の類似がしばしば言われますね。

 スラブ人は、調べてみないとわからないけど、ロシアには日本人とよく似た人がいると指摘する人もいますね。

7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。

つづいてアバール人が支配者となりました。

 アバールは、アヴァールと発音する人もいますね。

綴りがAvarsですからね。

アバールとは、 5~9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族です。

支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan)と称し可汗の字が当てられるので、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれ、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれます。

フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアバールです。

フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていません。

しかし、アヴァールが東ローマ帝国およびフランク王国と接触し、スラヴ諸民族の形成に大きな影響を与えたことは注目すべき事です。

 遊牧民というと、スキタイが有名ですね。

 そして、スキタイは行方不明となったイスラエル十支族が行動を共にしたという説があるでしょ。

 ロシア人に日本人と似た顔の人がいるのと、なんか関連あるのかしら。

どうなのでしょうね。

9世紀前半に漸く、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設しました。

大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取しました。

907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになりました。

西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国であるチェヒ国を建設しました。

10世紀にはボヘミア王国が建国され、ヴァーツラフ1世が国王に即位しました。

その後オタカル1世の時にボヘミア王の称号と世襲が承認され、13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得しました。

10世紀後半からカトリックが普及し、11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進みます。

14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれました。

ルクセンブルク王朝ではカレル1世が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えました。

首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立されました。

この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にありました。

15世紀にはヤン・フスがプラハ・カレル大学ー現在のカレル大学―学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門されました。

さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアではフス戦争と呼ばれる大規模な反乱がおきました。

その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになりました。

チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発しました。

この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落しました。

18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まりました。

1848年にはパラツキーがプラハでスラヴ人会議を開催し、汎スラヴ主義が提唱されました。

1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになりました。

19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となりました。

 かつて一緒の国を作っていたスロバキアも、自動車産業に見られるように技術は高いですね。

 もっぱら、外資の工場が進出して作っているので、あまり目立ってないけど。

チェコ料理も、一般に日本人好みの味と言われますね。

素朴で、シンプルな料理は、味付けもマイルドで、イタリアやフランスの料理のように、洗練はされていませんが。

 比べてみると、案外日本と似ている国なようですね。

チェコは、昔の火山の名残で温泉も結構あり、温泉文化も息づいていますよ。

お互いをもっと知っていけば、親近感が湧いてくる国の一つではないでしょうか。

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スカンジナビアと日本?「シア」「シャ」のある地域 その3

「シア」「シャ」のある地域には、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアのほかマレーシア、ロシア、ギリシャ、ペルシャがあるのです。

 ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアの「ネシア」は、ギリシャ語によるものだそうで、現地語にはあまり関係が見られないね。

でも、古代日本を語るうえで避けて通れない地域でもあるのですよ。

マレーシア、ロシア、ギリシャ、ペルシャのうちで、マレーシアは東アジアなので日本に関係があっても不思議はないです。

ロシア、ギリシャ、ペルシャについても、日本との類似や繋がりが見えるです。

 ロシアからヨーロッパ全域に渡って、「スク」や「ツク」のつく地域が多いね。

 ロシアのスクやツクのつく地域は、ロシアと日本を繋ぐ接点かもしれないね。

ヨーロッパのスクやツクのつく地域は、ドイツのプロイセンとも呼ばれるプロシアが関連していそうです。

 ドイツと日本を、ゲルマンから眺めたら意外なことが見つかりましたね。

ストーンサークルだったですね。

 日本と、イギリスと、ドイツは、ストーンサークルで繋がるのよね。

ゲルマンの一族であるゴート族は、スカンディナヴィア半島を発祥とする民族かもしれないのです。

ストーンサークルと類似するものが、ゴート族を含むゲルマン系民族がポーランド一帯に遺したスカンディナヴィアで発掘されているというのです。

スカンディナヴィア南部は、ゴートランドあるいはイェータランドと呼ばれる地域です。

 スクやツクのつく地域と、ゲルマンの関係は探る必要がありそうね。

今回は、「ビア」「ニア」「リア」の付く地域を含めて考えてみたいのです。

ロマ音楽は、奇妙なほど日本の音楽と似た特徴があるのです。

ロマ音楽が大きく影響しているといわれる国には、よく見ると面白い傾向が見られるのです。

 インド・トルコ・マケドニア・アルバニア・セルビア・ギリシャ・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ロシア・スペイン・フランスなどね。

マケドニア・アルバニア・セルビア・ルーマニア・ブルガリアのように、「ビア」「ニア」「リア」の付く地域が含まれているのです。

ハンガリーについては、「リア」がつくハンガリアのような言い方もあるけれど、「ハンガリーの」「ハンガリー風」という意味合いが多いです。

ハンガリー語の語順が日本語と似ているなど接点があるので、多少強引だけど、「ビア」「ニア」「リア」の付く地域に含めて考えてみたいです。

「ビア」「ニア」「リア」は、「シア」「シャ」の転化である可能性は、十分にあるのですし。

「ビア」「ニア」「リア」「シア」「シャ」「スク」「ツク」、これらはみな「~の国」「~の土地」を指す接尾辞です。

これらの語源は、「シマ」である可能性が強いのです。

川崎真治著
「世界最古の文字と日本の神々―全アジア共通の数詞トーテムによる解明 」

本書の中に、「シマ」の語源はスメルだという説が展開されているのです。

ウ・ニル(シュメール語)人口築造・丘状の神殿台閣
ダガル(シュメール語)大きく膨張した。方言ダマル。ダバル

つまり、出っ張った状態が、「ダガル」あるいは「ダマル」や「ダバル」というのです。

川崎氏は、議論をここからさらに展開するのです。

ウ・ニル・ダバル(インダス語)島
  ニル・デムマ(ドラヴィダ語)島
     デムマ(ドラヴィダ語)島。丘状の土地も含む  
     ル・マ(沖縄の波照間)島
     ロ・マ(沖縄の加計呂間)島
     ラ・マ(沖縄の慶良間)島
     シ・マ(倭人語・日本語)島

私は、発音が平唇音的か丸唇音的かの差が、これらの違いを生んだと見たいです。

 そうそう、アラスカも「スカ」が付きますよ。

アラスカは、アメリカ大陸ですね。

「アラスカ」の名は、アレウト族の言葉で「半島」を意味する"Alakshak(アラクシャク)"から来ているのです。

 川崎氏の展開した転化の延長線上に、乗りそうね。

アレウト族(Aleut) は、アリュートとも呼ばれるアラスカとカムチャツカの間にあるアリューシャン列島の先住民族です。

アレウト族自身は、Unangaxと名乗っているそうです。

アレウトの祖先は、氷河期に北東アジアから渡ってきたとされるです。

 北東アジアといえば、当然ロシアも入るでしょ。

マレーシア、ロシア、ギリシャ、ペルシャ、の名前でこんな議論を展開したことがあったです。

「シア」「シャ」を接尾辞とみると、語幹はそれぞれこうなるです。

「マレー」、「ロ」、「ギリ」、「ペル」

面白いのは「ペル」で、南米に「ペルー」があるのですね。

共通するのは、ともに太陽神信仰をしたことです。

太陽神に、ギリシャ神話の「Ἥλιο?(ヘーリオス)」がいるのですね。

ギリシャ語の「オス」は「(なんとか)人」「(なんとか)教徒」という意味です。

となると、ヘーリオスとは「ヘーの民」と解釈してもいいのかもしれないです。

もしそれが言えるのなら、こういっていいことになるのかです。

「ギリシャに「へーの神」つまり、「ヤハウエの神」をあがめる人々がいた」

しかし、「へー」を「ラー」の転化とみたらどうでしょう。

ギリシャとエジプトの交流の深さからいえば、ラー信仰がわたっていても不思議ではないです。

そう思うと「ギリシャ」の「ギリ」は、「ラー」の転化とみてもいいのかです。

そこで、アラスカの「アラ」を、「アラー」と見ると面白いことになるのです。

アラスカの意味は、「アラー(崇拝者)の国」である。

アラーは、もともとは太陽神ラーなのです。

 ペルーも太陽神崇拝で、「ペルー」は「ヘー」の転化で、「へー」を「ラー」の転化で、「アラー」は「ラー」の転化とみれば…。

 繋がりますね。

「ビア」「ニア」「リア」「シア」「シャ」「スク」「ツク」のつく地域名は、太陽神で繋がっていくのかもしれないですね。

 そして、その太陽神は、ラーだとしたら。

日本の太陽神信仰も、古代エジプトとそっくりである以上、ラー崇拝であると言って良いかもしれないですね。

 「ビア」「ニア」「リア」の付く地域と日本、具体的に接点が見つかってくると面白いね、

情報が、欲しいですね。

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フィンランド語と日本語

フィンランド人は、日本に文化的な類似を見て親近感を覚えていると言いますね。

 フィンランドは妖精で日本は妖怪、干しキノコを含むキノコ料理が好き、森を地域の共有財産とする文化も似ている。

森を地域の共有財産というのは、日本でいう入り会いですね。

 森だけではなく、海にも入り会いはありますよね。

キノコも、トリュフのようではなく、日本のものに似てますね。

さらには、熊を神の使いと見て、熊送りの儀式を100年位前までしていたそうですよ。

熊送りの儀式といえば、日本先住民のアイヌにもあるでしょ。

 そういえば、フィンランド語で酔っ払いは Juoppolalliで、非常に日本語に類似してる という記事を見ますね。

フィンランド人とハンガリー人は、系統が同じだと言われますよ。

ついでにいうと、ハンガリー人も文法の似た言葉を話す日本に親近感を持っていますよね。

 系統が同じというのは、言葉の上では、でしょ。

ええ、そうですね。

これは、フィンランド語がエストニア語やハンガリー語などとともに属しているウラル諸語と言われる親戚の言語グループの共通の祖先の言語が、ウラル山脈のあたりで話されていた言語で、それが、トルコ語やタタール語などチュルク諸語やモンゴル諸語などの祖先の言語と親戚であるとされるところから来ています。

アジア系の言語だの、母音・促音、膠着語の点で日本語に似てるだの言われて、変に親近感を持つ人もいるようです。

買うはドイツ語でkaufenというように、日本語とドイツ語は、音はかぶってます

同じようなことが、フィンランド語と日本語にもあるわけですよ。

juoppalalliは日本語の酔っぱらいと近似していて、何となく有名です。

これが偶然なのか、何か言語的なつながりがあるのかどうか、気になるでしょ。

フィンランドのこの言葉は、飲むという動詞、juodaの派生語で、酔うを意味する動詞、juopuaから来ているのです。

類似の言葉が、バルトフィン語(itämeren suomalaiset kielet)である、本カレリア語、リューディ語、ヴォート語、エストニア語などに見られます。

もっと遠くの親戚言語であるハンガリー語にも、ivóという形で見られます。

とするともっと遡ってウラル原語にも見られたのでないかと思いたくなります。

 アルタイ語では、どうだろうという疑問さえ湧いてきますね。

現在の定説では、ウラル系の言語とアルタイ系の言語は相互の連携関係が言語としては否定されています。

 個別の言葉に連携があったのでしょうか。

そこまではわかりません。

フィンランド系の言葉には、酔っ払うあるいは酔っ払いという表現がおよそ1000個ぐらいあるそうです。

juopua系等のjuoppolalliもその一つですが、この系統の言葉は5000年以上の古い言葉と言われています。

もう一つのhumala系の言葉で酔っぱらいは、例えばhumalainenというのがあるが、ホップHumulus lupulusから来ている植物起源のことばです。

こちらはゲルマン系の起源の言葉と言われています。

ビールに入れるホップには、カーナビスのような麻薬的な効果も少しあるのです。

膠着語といってもウラル語族の系統にあるフィンランド語とアルタイ語族の系統に相関関係をもつ日本語族とでは、地理的な距離が遠いと言うこともあってかなりの隔たりを感じます。

しかし遺伝子的には2万年前に、モンゴルあたりから日本に流れた民族もいるようです。

フィンランド人の中にもこの民族の遺伝子が含まれる人がいるそうなので、赤の他人とはいえないのかもしれませんね。

フィンランド人を遺伝的にみると、面白いことになるそうです。

遺伝子研究が世界的に盛んだが、フィンランドではとくに盛んで、このほど「フィンランド遺伝子地図」の新版が出たそうです。

40000人のフィンランド人の遺伝子に関するデータが、集められているといいます。

地図をみると、遺伝子の比較では、フィンランド人は言語的に同系とされるハンガリー人よりも、オランダ人の方により近いということがはっきりわかるそうです。

フィンランド人が、遺伝子的にゲルマン系の言語を話す人々と意外に近いということは、実はかなり以前から言われていたので、とくに驚く結果ではないといいます。

ところが一方で、こんな結果も出ているそうです。

フィンランド語が東の方から西の方にやってきたという考え方も、それほど間違いではないかもしれないと言えるものなのですよ。

今のフィンランド人のもつ遺伝子の一部が、東の方から現在のフィンランドの地にやってきた人々によってもたらされた可能性は大いにあるというのです。

東方からの移住者たちが話していた言語は、今のフィンランド語やエストニア語の祖先の言語だったろうと考えられています。

フィンランド人は、モスクワの東のムロム地域のロシア人と遺伝子的に近い関係にあるそうです。

ムロム地域には、かつてフィン・ウゴル語系の部族が住んでいたことが地名から明らかだそうです。

フィン・ウゴル語派は、ウラル語族に属する言語群です。

ハンガリー語、フィンランド語、エストニア語などを含みます。

このほかにロシア連邦などに分布する多数の少数民族の言語を含むが、すでに絶滅した言語、現在危機に瀕する言語も多いそうです。

シベリア北部のサモイェード語派とともにウラル語族を構成するが、人種的にはサモイェード語派と比較すると、モンゴロイドよりもコーカソイドに近いのです。

フィン・ウゴル系の言語を話す人々が、「ヨーロッパ・ロシア」と呼ばれるウラル山脈の西側には、かつてひろく広がって住んでいたということも定説になっています。

 じゃあ、言語学の結果とほぼ重なるじゃないですか。

ウラル山脈の西側のフィン・ウゴル系の人々は、遅くとも10世紀くらいにはロシア語化したようですけどね。

ここで注目したいのは、フィン・ウゴル語派と近いとされるサモイェード語派です。

サモイェード語派またはサモエード語派は、ロシア連邦北部に住むモンゴロイドに属するネネツ人を含むサモエード人の話す言語群です。

 サモイェード語派は、ウラル山脈から西方で話される言語的にフィンランド語やハンガリー語を含むフィン・ウゴル語派とともにウラル語族に属すのでしたね。

原住地はウラル山脈以東、アルタイ山脈以西にあるカニン半島からタイミル半島からオビ川・エニセイ川流域のミヌシンスク盆地からサヤン山脈におよぶ広大な地域と伝わります。

最も多いネネツ語話者は3万人ほどいるが、その他の言語の話者は数十人から千人程度です。

ネネツ語話者は、ほとんどがテュルク諸語、モンゴル諸語またはツングース諸語と同化したグループがいたため、すでに死語となってしまった言語も多いですね。

サモイェード語派はフィン・ウゴル語派とは早期に分かれたと考えられているが、母音調和など共通の性質を多く持ちます。

基本的には膠着語で、名詞の格や、動詞の法・時制、主語および目的語の数と人称による変化は接尾辞で示されます。

数には単数・双数・複数の区別があり、また名詞の後につける所有接尾辞で所有を表します。

これらの変化に伴うフィンランド語などと似ている子音階梯交替も、一部の言語にあるそうです。

階梯交替というのはpappi(牧師)から papin(牧師の)にかわるように閉音節になると重子音が短子音になる、 つまり pp と p とが交替するという現象のことです。

ネネツ人は大きく経済基盤を異にする2グループにわかれます。

極北のツンドラネネツと森林ネネツです。

また、フィン・ウゴル語派で、人種はコーカソイドに近いコミ人グループに属するイズマ(Izhma)族との混血によるコミ人と同化したネネツ人(Yaran people)が第3グループとして現れてきています。

紀元前200年頃に、故地のオビ川・エニセイ川流域のミヌシンスク盆地からサヤン山脈付近から移動して、アルタイ語族に合流し、テュルク系またはモンゴル系と同化した一派もいました。

ヨーロッパに残ったグループは、1200年頃にロシアの支配下に入ったが、より東方に居住していたグループは14世紀まで、ロシアとの交流を持たなかったのです。

17世紀初頭に全てのネネツ人は、ロシアの支配下に入ることになりました。

ネネツ語はエネツ語、ガナサン語、セリクプ語とともにサモイェード諸語に含まれます。

サモイェード語派はウラル語の小分岐であり、大分岐はフィン・ウゴル諸語で、言語学的にも、ウラル語とフィン・ウゴル語を比較する上で非常に重要なことです。

サモイェード語派はウラル語の小分岐というと、気になるのが日本人のルーツの一つとして近年注目を集めているバイカル湖畔のブリヤート人です。

 ロシアの秋田美人ですね。

 北米先住民であるネイティブ・アメリカンや縄文人の遺伝子に、近い特徴を持つといわれるでしたね。

ブリヤート人は、ロシアやモンゴル、中国に住む民族です。

ロシア連邦内の人口は436,000人で、とりわけブリヤート共和国に多く共和国の全人口の約4分の1を占めます。

居住地域は、ロシア連邦内ではブリヤート共和国を中心にウスチオルダ・ブリヤート自治管区、アガ・ブリヤート自治管区などです。

そのほかモンゴル国の北部、中華人民共和国内モンゴル自治区のハイラル近辺のシネヘンにも居住しています。

古来からメルキト族と同様に元来はウラル語派に属する南サモイェード諸族であり、シベリアから南下してテュルク化し、最終的にはモンゴル化したといいます。

そういう意味では、現在もテュルク諸族に属する自らをサハと名乗るヤクート人に近いといえる種族といえます。

ブリヤート人も、バイカル湖の東に住む者と、西に住む者とでは、かなりの違いがあります。

東に住む者は、固有の文化を維持し、ロシア人との混血が進んでいないのに対し、西に住む者は、生活がロシア化され、ロシア人との混血が進んでいます。 

サモイェード語派はウラル語の小分岐であり、大分岐はフィン・ウゴル諸語ということは、こういえるのではないでしょうか。

フィンランド人の属するフィン・ウゴル語派とサモイェード語派を含むウラル語がまず分かれ、サモイェード語派から南サモイェード語派であるブリヤート人は分かれている。

そして、ブリヤート人が日本人のルーツの一部であるならば、フィンランド人は日本人の遠い親戚にあたる。

フィンランドに住む人々の主体は、スウェーデンなどとよく似た北欧系のヨーロッパ人であることは、フィンランド人のたどった歴史を見れば何の不思議もないわけでしょ。

 フィンランド人が日本人の遠縁だから、日本人のフィンランド人がアジア系だという思い込みがなくならないのは不思議でもなんでもない。

そうでしょうねえ。

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ゲルマンと日本を角度を変えて比べてみた。

両国国技館は、東京都墨田区横網(よこあみ)一丁目にある大相撲の興行のための施設です。

 ボクシングなどの格闘技の試合に、使われることもあるでしょ。

番付では、旧字体で國技館と表記しているのです。

“両国国技館”とは一般向け通称であり、正式名称は『國技館』だからです。

毎年2月の第3又は第4日曜日に行われている両国国技館の5000人の第九は、両国国技館落成、また国技館の両国復帰を祝して開催されたのが始まりです。

 現在の建物は、1985年1月場所から使用されているのでしたね。

でも、国技館の足取りをたどろうというのはないです。

両国国技館で5000人の第九をしようとなったとき、問題になったのはまったく未経験のドイツ語の歌詞をどう覚えるか、だったそうです。

そこでカナに直したドイツ語を、さらに漢字かな混じりに変換して、頓珍漢でも良いから日本語に直して覚えようというアイディアがでたそうです。

この語呂合わせドイツ語で歌う下町の第九、なんとドイツ語の専門家も合格点を出す本格的発音だそうです。

そこで気が付いたのは、とっても面白いことです。

平唇音的発音をする言語の典型ともいうべきドイツ語の巻き舌音を、下町の人々は見事に発音できていたのです。

 東京の下町といえば、べらんめい言葉よね。

 そういえば、下町言葉は、巻き舌がすごいって印象があります。

 一方ドイツ語は、なんかすごく硬い印象があるけど、そんなに巻き舌がすごい言葉だったのか。

ドイツ語の発音は濁音ばかりと、感じる人は多いでしょ。

これは、ドイツ語がものすごい巻き舌音だらけの言葉だからですよ。

 巻き舌音がすごいっていえば、ローマもかなりすごいの。

 巻き舌で、東京の下町とローマとドイツは繋がるのか。

今のドイツとイタリア、それからオランダ、スイス、オーストリア、フランスの東部あたりまで、神聖ローマ帝国領と見なされていたのです。

 そうか、ローマ帝国つながりか。

 でも、なんで巻き舌音という特徴を共有してるのかしら。

神聖ローマ帝国領といっても、実際に統治していたのは、今のドイツとオーストリア、ボヘミア、オランダくらいだそうです。

ローマ帝国は、イタリアのローマから興って古代ヨーロッパを支配していたのはご存知でしょ。

ローマ皇帝位は西ローマ帝国が滅びたあと、しばらくしてフランク王国のカール大帝に与えられるのです。

フランク王国はその後すぐに分裂してしまい、今のドイツあたりにできたのが東フランク王国です。

これがやがて、ドイツ王と呼ばれるようになったらしいのです。

「ドイツ」というのは当時のドイツに住んでいたゲルマン人の言葉で、「我々の民族」「俺たち」みたいな意味だそうです。

現代ではフランク人の王が続いていた頃を東フランク王国、それにかわってゲルマン人の一派であるザクソン人が王様になってからをドイツ王国と言って区別しているようですね。

1024年にドイツ王ハインリッヒ2世が、「うちの国はこれからローマ帝国と呼ぶ」といったのが神聖ローマ帝国の始まりです。

 このころはまだ、神聖は付いてなかったのね。

ここで、神聖ローマ帝国史を詳しく振り返るつもりはないです。

ゲルマン人であるドイツ王ハインリッヒ2世の「うちの国はこれからローマ帝国と呼ぶ」という主張が、なぜ通ったのかという疑問を考えてみたいのです。

ゲルマン人(German)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンジナビア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ系を祖先としインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を話す諸集団の事を指すのです。

 ゲルマン人は、民族とはいえないの。

インド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を話す諸集団であって、民族というほどのまとまりはないようですね。

民族とは、一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいうのです。

土地、血縁関係、母語としての言語の共有や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるのです。

ただし、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いようです。

それで、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもあります。

 しいていえば、ゲルマンへの帰属意識を持つ人の集合。

ゲルマンの名は、古代ローマ時代の地名であったゲルマニア(Germania) に由来するのです。

ゲルマニアは、おおよそライン川の東、ドナウ川の北の地域で、現在のドイツとほぼ重なる一帯を指するのです。

主にゲルマン人が居住した地域で、ライン川をはさんでガリアと隣接しています。

ローマ帝国はライン川の西側の属州を上流と下流に分け、それぞれ高地ゲルマニア属州と低地ゲルマニア属州の名を与えていたのです。

ゲルマン人は、古代時代にはローマ帝国を脅かす蛮族として活動したのです。

中世には、ラテン人であるローマ人やキリスト教文化との混合によって中世ヨーロッパ世界を形成したのです。

中世は、西洋史では、一般に西ローマ帝国の滅亡した476年から15世紀末までをさすのです。

 なんだあ、ラテン人であるローマ人やキリスト教文化との混合くらいしか、ゲルマンとローマとの接点は見えないの。

いまのところ、この程度です。

なお、中世には、1453年の東ローマ帝国の滅亡を以って終わりとする見方もあります。

ルネサンス以降あるいは宗教改革以降を近代とするが、ルネサンスを中世に含めるかどうかは議論があります。

ゲルマンは、現代においては、ドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク等に住む人々、イングランドのアングロ・サクソン人、ベルギーのフランデレン人、フランスのアルザス人、イタリアの南ティロル人がこの集団の系譜を引いているのです。

何れの勢力も長い歴史の中で複数の部族間の離合集散や異民族との混血を繰り返しているので、古代のゲルマン人とは同質ではないです。

 じゃあ、古代ゲルマン人はどういう人々か、わかっていない。

ゲルマン人とは、ローマ帝国によるゲルマニア地方に居住する諸部族に対する他称だったのです。

彼ら自身は、同じコーカソイド人種に属し、ゲルマン語派の言葉を用い、文化面において一定の共通性が存在したが、同時代のスラヴ人やケルト人と同様ゲルマン人としての同族意識を持つ民族共同体を形成していたわけではないのです。

 ゲルマン人というのは、それらゲルマニア地方出身の諸民族を総称する際に用いられた用語に過ぎなかった。

 離合集散は、ほかの民族も同様。

そうですね。

アングロ・サクソン人やゴート人という部族名こそ、かれらにとっての民族名だったのです。

また、フランスはその国名がフランク王国に由来するように、少なくとも支配層の流れはゲルマン系であるが、ラテン、ケルトと完全に混成化しており、ゲルマン人国家と呼ばれることはまずないです。

ただ、ゴート人には面白い指摘があるのです。

疑問視されている説ではあるけれど、ゴート族はスカンディナヴィア半島を発祥とする民族という意見もあるのです。

550年頃にアリウス派僧侶でゴート人の歴史家であるヨルダネスが、東ゴート王国の学者カシオドロスの著書を要約して著した史書『ゴート人の事跡(De rebus Geticis)』に載ってるそうです。

スカンディナヴィア南部はゴートランドあるいはイェータランドと呼ばれ、ゴート族を含むゲルマン系民族がポーランド一帯に遺したストーンサークルと類似するものがスカンディナヴィアで発掘されているというのです。

 ストーンサークルといえば、イギリスばかり思い出していたけど…。

日本にも、あります。

イギリスといえば、アングロ・サクソン人(Anglo-Saxons)の一派のサクソン人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いたため、アングロ・サクソン人は単にサクソン人と呼ばれることもあったでしょ。

ちなみにアングロサクソン人は、5世紀頃、現在のドイツ北岸、デンマーク南部よりグレートブリテン島に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称です。

 日本と、イギリスと、ドイツは、ストーンサークルで繋がる…。

 ドイツにストーンサークルがないので、すっかり見落としていた接点ね。

ドイツのプロイセンとも呼ばれるプロシアと日本の関係に、どうも気になっていたのでちょっと調べてみました。

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ケルトとアイヌ?

ケルトとアイヌには、いくつか似たところがあると言いますよね。

 まず、渦巻き模様でしょ。
 celtic knotと言われる結び目文様と、アイヌの渦巻き文様に類似を指摘する人がいますね。

「熊祭り」は、西洋の古代においても行われてきました。
熊はヨーロッパの最初期の農耕民たる南東ヨーロッパの新石器時代に「産む神」として崇拝され、土偶にかたどられてきました。

 エーゲ海地方では、キリスト教時代になっても「熊の聖母」の祭祀が行われてきたのでしょ。

この熊の聖母とは、ケルトの女神アルティオの事ですね。
アルティオは、ケルト語で「熊」の意味です。

 アルテイオ女神は、しばしば果物のかごや皿を手にした姿で現されますね。

「果物かご」は彼女が豊穣と多産の女神である事、熊を表すアルティオは「熊の守護神」である事を示しています。

 スイスのベルン市など、今でも「熊祭り」を祝う都市として有名ですね。

「熊の女神像」が、スイスのベルン市の近郊ムリから出土したそうです。
女神像の台座には、「女神アルティオにささげる」と記されていました。

「熊祭り」の儀式も、ケルトとアイヌの共通点なのです。

 日本のアイヌの熊祭りを知ると、西洋人は、「自分たちと同祖ではないか」と感じるとか。

間接的で良ければ、もっと挙げる事が出来ます。

アイヌを先住民とする日本と、ケルトを先住民とするイギリスの文化は似ています。

 妖怪と緑茶の日本、妖精と紅茶のイギリス。

また、五芒星や五色の文化、陰陽の影響を窺える思想の共有も挙げられます。

戦いの文化にも、一対一の対戦を好んだなどの類似が見られるようです。

アイヌと古代ゲルマンには、首長選びの基準と言う共通点があるのです。
両者とも、まず第一に器量がよい事、次に勇敢である事、そして雄弁である事が指導者の条件だったそうです。

ケルトと古代ゲルマンは違うと、言うかも知れないのです。

 ケルトは、他の民族との混血を嫌ったらしいね。

アイヌもまた、よほどの事がないと混血しなかったと言う指摘もあるのです。

また、ゲルマンとの混血はガリアではないかと疑問を持つかも。
古代ローマ人は、ローマ側による呼称「ガリア人」 (Gallī)と「ケルト人」(Celtae)をおおむね同義として扱っていました。

 小アジアに移住したガラティア人と呼ばれたケルト人や、ブリテン島の諸部族に対してガリア人は明らかに区別出来ると言う声もあるの。

同時代の人達には、両者の区別が付かなかったのも事実なのです。

それに、アメリカで見つかったアイヌに似た人骨の傍からはフランスやスペインの様式の石器が出ています。
白人系フランス人は、ガリア人を自分たちのルーツあるいは祖先として意識しているそうです。

なぜ、白人に絞るかと言うと、フランスには植民地時代に来た黒人の子孫もいるからです。

 タロットあるいはタローと呼ばれる、カードを使った占いがあるね。

タロットには、ケルト起源説を言う人たちがいるのですよ。
神秘主義者の間では、タロットの起源についてはケルト起源説の他にも、エジプト、ヘブライ、ロマなどさまざまな説があるそうです。

 タロットを通じてケルトとロマを結び付けて良ければ、面白い事になりますね。

もっとも、O型の多いケルト、B型の多いロマと言う違いも無視は出来ません。
ただ、O型は他の血液型に隠れてしまう性質があるので、それほど気にしないでも良いと言える点もあるのです。

 ロマの影響を受けて生まれたフラメンコは、振り付けの特徴が似た踊りってあるのよね。
 フラダンスや阿波踊り、カチューシャ、ガムランなど、そうでしょ。

ロマ音楽の拍子のとり方も、日本の民謡と似ていますよね。

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