ケルト

日本の太鼓はどこまで響く?

日本の太鼓は、神との交流や臨在と深くかかわっています。

それは、ネイティブアメリカンも共通だと言います。

以前から、日本先住民とアメリカ先住民はともに古モンゴロイドであると言われてきたから、驚くには値しないと言う人も多いかもしれないです。

近年、遺伝子レベルでもアメリカ先住民であるインカやマヤと日本との繋がりが証明されるようになってきたです。

さらに、バルビディアからは縄文土器そっくりと指摘される土器も出土しています。

バルビディアの土器については、エジプトの影響を指摘する声もあるが、日本には古代中東の遺伝子もあれば、国民の7割の足はエジプトタイプと言われています。

食の好みも日本とエジプトは近いし、太陽神を中心とした三神構造の動物神を含む八百万の神々が古代エジプトの神殿と似た構造の神社に祭られています。

前方に二本柱の立つ拝殿と本殿の分かれる構造を共有する神祀りの社殿は、日本と古代のエジプトとイスラエルで共通です。

増田義郎吉村作治共著『インカとエジプト』では、インカとエジプトにはもちろん相違点もあるとしながらも多くの共通点を指摘しています。

ちなみに同書では、マヤとメソポタミアとの共通点にも注目しています。

そういえば、ギザのスフィンクスにまつわる神殿跡地にも大ピラミッドの大回廊にも、そして古代アメリカの神域にも階段状のアーチ構造が見られることも共通です。

それはさておき、アメリカからは、ケネウィックやメキシコから日本人の骨が出てきてるのです。

例えばケネウィックはアイヌに似た骨にフランスとスペインの様式の鏃が刺さっていたのです。

 日本先住民とアメリカ先住民の繋がりは、骨・遺伝子・土器の他に宗教にも見られると言うわけですね。

日本とアメリカ先住民と言えば、興味深いのは色と方位を結びつける思想もまた、共有しています。

日本で色と方位と言えば陰陽道を思い浮かべるが、古代アメリカに陰陽道は伝わっていないはずです。

にもかかわらず、共通なのは興味惹かれるが、面白いことにケネウィックの古代人骨は当初イギリス人と勘違いされていたわけです。

似ていた人物は、イギリスの中でもケルトが多い地域の出身者です。

ケルトにも、方位と色を結びつける思想など陰陽とよく似た発想があると指摘されることがあるのです。

ケルトと言えば、武士道との類似を指摘されることもあるのです。

 日本とイギリス、緑茶と紅茶、武士道と騎士道、妖怪と妖精など、似ている点を面白がる人も多いが、背後にはケルトが関係してる可能性もあり得るってことです。

日本とアメリカ先住民は、ケルトで繋がるのか、さらに情報収集の必要はありそうです。

日本先住民であるアイヌと琉球については、アイヌには生活文物に古代イスラエルとの類似が、琉球には文化と聖書の類似が、指摘されるのです。

 アメリカでも、カホキア遺跡で聖書との類似が、指摘され始めているでしょ。

聖書では、特に旧約聖書で、神の臨在と雷鳴に関する記述は多いです。

面白いのは、神の雲の移動に従って幕屋が移動したことです。

日本の神社の注連縄には下がりと紙垂が下がり、それぞれ、雲と雨と雷光と見られていて、参拝者は鈴を鳴らすのです。

つまり、雲と雨と雷光と雷鳴が日本の神社には揃うことになるのです。

 太鼓は、神との交流であるとともに、神の臨在でもあるのよね。

太鼓は雷神とも結びつくように、雷鳴の象徴でもあるのです。

そして、日本には日ユ同祖論があり、秦氏とクリスチャンを結びつける議論を展開する人も少なくないです。

 その日本と、アメリカ先住民は神との交流や神の臨在の象徴としての、太鼓を共有…。

そして、古代イスラエル人の一派がアメリカに渡ったと主張するモルモン書がでたと主張する宗派まで、アメリカから出てきたのです。

思いつくままに語ってきたら、アメリカと日本が古代イスラエルで繋がると言う、落ちになってしまったのです。

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中秋の名月とハロウィン?

春の彼岸は、毎年3月の春分の日をはさんで前後3日合計7日間です。

秋の彼岸は、毎年9月の秋分の日をはさんで前後3日合計7日間です。

じつは、中秋の名月と呼ばれる八月の十五夜も、秋の彼岸とほぼ、同じころです。

仲秋の名月という表現もあるが、これだと陰暦8月の月を指し、十五夜の月に限定されなくなります。

仲秋とは、秋を旧暦7月の初秋、旧暦8月の仲秋、旧暦9月の晩秋の3つに区分した場合、旧暦8月全体を指します。

それに対して中秋とは、秋の中日である陰暦8月15日のみを指します。

ちなみに、中秋の夜に雲などで月が隠れて見えないことを無月(むげつ)、中秋の晩に雨が降ることを雨月(うげつ)と呼びます。

月が見えないながらも、なんとなくほの明るい風情を賞するものとされます。

また、俳諧では8月14日~15日の夜を待宵(まつよい)、16日~17日の夜を十六夜(いざよい)と称して、名月の前後の月を愛でます。

秋分は北半球では、太陽と月の角度により、地球から見た月の位置が観月に最も適しています。

秋分は旧暦では、旧暦8月にあたります。

実際の新暦での日付は、旧暦の8月15日は、9月23日ごろになることが多いです。

それで、新暦では、秋分の前後半月の1ヶ月の期間の中で変動します。

しかし、日本の関東以西では、この時期、晴天に恵まれる確率は低いですけどね。

十五夜の日は満月の日に近い日だが、必ずしも両者は一致するものではなく、むしろ異なる場合の方が多く、その差は最大で2日です。

中秋の名月は、秋の収穫に感謝する行事とされます。

団子の他にその土地の秋の収穫を捧げることが多いが、芋を捧げる地域が多いことから、別名を芋名月と呼んだりします。

各家に供えてったものは、月見団子や栗、柿、枝豆、芋、の他、かつてはお菓子もありました。

 いまでも、お菓子も供える地域はあるようですね、

かつて中秋の名月には、近所の子どもたちがお供えをこっそり持って行ってよいとする風習があり、神様が持って行かれたとみなしていました。

そして、収穫を祝ったり祈ったりしていたのです。

神様が持って行ったことにしていたので、家の人たちは、持っていく子供たちを見つけても、見ない素振りをしていました。

この風習は、今でも続いている土地があるそうだが、昭和の中ごろまで全国でも行われていたようですね。

 トリックアンドトリート(お菓子くれないと悪戯するぞ)と言いながら、子どもたちが家々を巡るハロウィンに、似てますね。

 時期も、近いでしょ。

ハロウィン(Halloween, Hallowe'en)は、ハロウィーンとも呼ばれますね。

毎年10月31日の晩に行われる、ヨーロッパを起源とする民族行事ですよね。

ケルト人の行う収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされています。

由来と歴史的経緯から、アングロ・サクソン系諸国で盛大に行われていますね。

ケルト人は、自然崇拝からケルト系キリスト教を経てカトリックへと改宗していきました。

カトリックでは、11月1日を万聖節としても知られる諸聖人の日としています。

ハロウィンはその前晩にあたることから、後に諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)、Hallowseveが訛って、Halloweenと呼ばれるようになりました。

そもそもキリスト教の教えと、魑魅魍魎が跋扈するハロウィンの世界は相容れるものではなく、聖と俗との習合がハロウィンという名称のみに痕跡を残していると言えるでしょう。

 ケルトは、イギリスにも結構いたでしょ。

 アメリカで見つかったアイヌに似た古代人骨は、始めはあるイギリス人に似ていると思われたのですよね。

 その似ていると思われたイギリス人の土地は、ケルトが昔から多い土地だったでしょ。

そして、北海道や東北にも、子どもたちがろうそくよこせと言いながらお菓子を貰って歩く風習があるのでしたね。

幕末の日本に来た白人たちは、ブリティッシュ的な顔の人々がいると報告しています。

ハロウィンは、ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていたことに由来する行事です。

死者の霊や精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていました。

 行事の位置付けとしては、彼岸に似ていますね。

中秋の名月には、ハロウィンに似た風習があったが、起源は中国に遡ります。

中国、韓国、台湾では中秋節は祝日となっていて盛大に祝うそうです。

 日本では、中秋の名月は祝日になっていませんけどね。

 春分の日や秋分の日を中日とする彼岸があるので、春分の日や秋分の日が祝日になっているからでしょうね。

でも、中国、韓国、台湾といった土地で、ハロウィンに似た風習は、ないようですね。

中国では当日、月餅を食べながら月を観る慣習があったといいます。

近年は月餅はひと月以上前から知人に配るようになったため、中秋当日までに月餅は食べ飽きてしまい、中秋当日には売れ残りを恐れて安売りされるという現象も起きているらしいですね。

台湾では月見をして月餅や柚子を食べる習慣があり、台湾南部ではおもちを食べる風習もあるそうですね。

中秋節当日、屋外でバーベキューをするなどの別の楽しみ方が増えているらしいです。

韓国では、秋夕とその前日と翌日が公休日となるため、多くの企業、施設も休みとなり、帰省する者も多いといいますね。

お供え物は、日本のどの地域より多いかもしれないし、帰省先では、闘牛や闘鶏、綱引きなどの行事があるようです。

中秋の行事と、ハロウィンに似た仕来りは、日本で出会ったのかも知れません。

 やはり、日本はアジアよりヨーロッパに似ている。

なまはげのような行事は、日本各地にみられるけど、アジアでは聞きませんしね。

 ヤマネコも、ヨーロッパやアメリカにいるし、古代日本にもいたけど、アジアでは聞いたことないですよね。

縄文は、アメリカやヨーロッパに遡る可能性は、高そうですね。

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日本人も家族性地中海熱と家族性アイルランド熱に注意したほうが良い。

日本人は西方から来た可能性があると話をしていたら、こんな感想が寄せられました。

『日本人は西方から来た』
私もそうに思います。

私は家族性地中海熱という遺伝性疾患を持っています。

詳しい事は、恐れ入りますが検索して下さい。

医者の話によると、地中海沿岸に暮らす民族に多い疾患で、日本人には稀であると言うことでした。

ですが、日本人である私と私の親族の遺伝子の中にセファルディ系ユダヤ人、北アフリカのアラブ人をはじめとする地中海沿岸部に暮らす民族と同じ劣性遺伝子が確実に存在しています。

ここからは個人的な意見ですがこの遺伝病、本当は日本人に多いんじゃないかな?と思っています。

日本人には起こらないと除外されていたせいで知られていないせいで、正しく家族性地中海熱と診断されずに他の病気の診断がされていたりしている日本人は結構いるのでは?

また、発症しない保因者としての日本人も多く存在しているのでは?と、思っています。

そこで、家族性地中海熱について検索してみました。

詳しいことは、家族性地中海熱で自分で検索してください。

説明すると長くなるからです。

たとえば、家族性地中海熱http://www.printo.it/pediatric-rheumatology/information/Japan/14.htmなどは、比較的よくまとまっています。

私が気になったところだけ、紹介しますね。

名前に地中海とあるのは、この病気は地中海沿岸域の人々や、中近東つまり、ユダヤ人特にセファルディ(スペイン・ポルトガル系のユダヤ人)・トルコ人・アルメニア人に現れるからです。

上記で説明したような地域や人種では、1000人に3人の割で病気がおこるが、他の地域では希です。

しかし、原因遺伝子がわかってからは、それまでこの病気はほとんどないと思われていた様な、イタリア人・ギリシャ人・アメリカ人の中にもこの疾患が見つかるようになりました。

家族性地中海熱は、伝染しません。

気候風土は、病気に影響しません。

家族性地中海熱は 腹部、胸部、関節の疼痛と腫脹を伴う発作性におこる発熱を特徴として、周期的に症状が繰り返される遺伝性の病気です。

家族性地中海熱の治療はシンプルで、コストも安く、大きな副作用も起こしません。

今日、コルヒチンがこの病気治療の唯一の薬です。

診断がついた患児は、一生涯コルヒチンの内服をします。

約60%の患者で、発作が現れなくなります。

30%で、一部効果があります。

5-10%の患者では効果がありません。

インターフェロンガンマや、抗TNF療法やサリドマイドによる治療の報告があるが、薬剤の効果と安全性では、コルヒチンの方が優れています。

患者の約90%が20歳前にこの病気を発症し、その半数以上が10歳前に発症します。

13対10で、男の子が女の子よりややなりやすい傾向にあります。

この病気に関係した遺伝子や、治療につながる遺伝子の解明が進んでいるところです。

家族性地中海熱は、常染色体劣性遺伝の場合です。

性染色体上には、この病気に関係した遺伝子は存在しません。

常染色体劣性遺伝というのは、父親の遺伝子から一つ、母親の遺伝子からひとつ 2つの変異した遺伝子がそろったときに病気が発症してくるということです。

つまり、両親伴にキャリアー、すなわち、病気の素因は持っているが病気にはなっていない場合です。

なので、家族内に たとえば、兄姉弟妹、いとこ、叔父 さらに、血縁関係のある遠い親戚の中に、この病気は散見されます。

この病気で、両親が家族性地中海熱と、キャリアーの組み合わせの時、病気全体の率ではわずかの率ですが、その子供は、2人に一人はこの病気を発症します。

わたしが注目したいのは、発症が報告される民族や地域のほとんどは、これまで日本人の起源との関わりで取り上げてきたところが多いことです。

遺伝子の異常に起因する周期性発熱には、他にも家族性アイルランド熱あるいはTNF受容体関連周期性発熱症候群(TRAPS)があります。

これについても、先に紹介したサイトに説明があります、
http://www.printo.it/pediatric-rheumatology/information/Japan/13.htm

アイルランドと言えば、ケルトが多い地域です。

アメリカのケネウィックで見つかった古代人骨は当初、あるイギリス人との類似が注目されました。

その人の出身地は、ケルトが多いことで知られる土地なのです。

後で、アイヌとの類似が見つかりましたけどね。

 古代アメリカの先住民と日本先住民は、起源を同じくするのはほとんど常識になっているので当然過ぎる結果ですね。

幕末の日本に来たヨーロッパ人に中には、日本にはブリティッシュ的な顔の人々がいるという声もあったそうです。

 日本でも家族性アイルランド熱の発症例があるなら、ケルトで日本とアイルランドは繋がっている可能性を疑っても良いかもしれませんね。

遺伝子による病気の情報を戴いたことは、これまでの探求の裏が取れたに等しいので、本当に感謝です。

追記

家族性地中海熱(平成22年度)
http://www.nanbyou.or.jp/entry/707

1997年に家族性地中海熱の責任遺伝子として16番染色体に位置する MEFV (Familial Mediterranean Fever gene)遺伝子が同定された。

患者は変異型MEFVのホモ接合体もしくは複合ヘテロ接合体(compound hetero)となる。MEFV遺伝子のコード蛋白であるPyrinの機能異常が、病因に関連していることが示唆されている。

TNF受容体関連周期性症候群(平成22年度)
http://www.nanbyou.or.jp/entry/917

1999年にTNF受容体1型が責任遺伝子として同定され、その後欧米 を中心に日本、中東でも相次いでTNF受容体1型遺伝子異常が報告された。

常染色体優性の遺伝形式を示すが、家族歴のない孤発例も報告されている。

TNF 受容体1型の細胞外領域の特定のドメインに変異が集中しており、変異に伴う受容体の構造変化が病態形成にかかわっていると考えられている。

すなわち構造変 化をきたした変異受容体が細胞表面あるいは細胞内に過剰にとどまることが周期性に繰り返す炎症の原因であると推測されているが、詳しいメカニズムは不明である。

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スロバキア。

北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接するスロバキア共和国、通称スロバキアは、中央ヨーロッパの共和制国家です。

首都はブラチスラヴァ。

国土の1/3を森林に覆われた緑多きこの国は、かつてはハンガリー王国の一部であり、その伝統は、ハンガリーをはじめ、スラブ、オーストリア、ドイツ、そして1993に分割されたチェコの影響を受けてきました。

古代にはサモ王国・モラヴィア王国として独立を保った期間もありました。

だが、この地のスラブ人は1000年間少数民族としてハンガリー王国の支配下にあったのです。

ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもあります。

 元来スラブ系でしょ。

ハンガリー文化に同化した者も、多いですよ。

スラヴ人は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団です。

ウクライナ人・ベラルーシ人・ロシア人は東スラヴ人、スロバキア人・チェコ人・ポーランド人は西スラヴ人、クロアチア人・セルビア人・ブルガリア人など南スラヴ人に分けられます。

言語の共通性を、何よりのアイデンティティとしています。

スラヴ語の「スラヴ・スロボ」は、言語とか言葉を意味するスラブ語のслово(スローヴォ)から来ています。

スラヴ人の多くは、コーカソイド人種の特徴を持っています。

 アイヌも、コーカソイド人種と見られたことがありましたね。

 いまでは、モンゴロイドに分類されるけど。

こういうことも、日本にロシア人と勘違いされる顔の人がいる理由になっているのでしょうね。

 スラブ人が多い東欧は、日本人に似た人が案外いるということになりますね。

原住地はカルパチア山脈周辺と推定され、その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、6、7世紀頃まで言語としての一体性を持っていました。

 カルパチア山脈は、カルパティア山脈とも発音され、中央ヨーロッパ・東ヨーロッパの山脈でしょ。

次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といったゆるやかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持ちます。

「スラヴ」がギリシア語に入ったときに「奴隷」の意味となり、英語のスレイヴの語源になっていったのは、他の民族もそうであるが、スラヴ人も戦争などで捕らえられると奴隷として扱われたためでしょう。

この時期、捕虜はどの国でも奴隷であり、戦利品に過ぎなかったのです。

さらに、ギリシアの文化を受け継いだローマ帝国のラテン語から西欧諸言語に広まったと考えられています。

現在もスラヴ人の名前にアレクサンドル(アレクサンダー)とかローマ人をさすロマンといったものがあるが、東ローマ帝国と現在のウクライナであるキエフ・ルーシとの戦争における奴隷のなごりではとも考えられます。

 でも、スラブ、アラブ、音が似てますね。

 アッラーは、聖書の神であるヤハウエやイエスと同じ神とされるでしょ。

実際はアッラーは、聖書でいう御父だと思うけど、ヤハウエやイエスと同一視しても大まかな議論には影響しませんからね。

そして、言葉は神とともにあった、言葉は神であったと聖書にあります。

 スローヴォが、アッラーの転化と見れば言語や言葉をさすようになっても、おかしくありませんね。

さらに、聖書の民は自らを神の僕(しもべ)の意味で、しばしば聖隷と呼びますよ。

 スラブが奴隷を指す言葉の語源となった背景には、このあたりの事情もありそうですね。

スラブ人の民族発祥に関する言い伝えであるスラブ叙事詩には、どこか聖書を連想できる部分があるのですよ。

 でも、スラブとユダヤの同祖論はあまり聞いたことないですよ。

タタールの軛(くびき)と呼ばれる、モンゴルの支配があった時代が長かったからかも。

 でも、それはルーシの話でしょ。

他のスラブ人も、周辺民族から多くの影響を受けて別々の民族へと、分化していきましたからね。

ユーゴスラビアも、ユーゴスラブ人を纏めようとしたけど、結局民族国家に分かれてしまったでしょ。

 そういえば、白人的なユダヤ人であるアシュケナージは東欧圏に多くなかったですか。

そうですね。

アシュケナージは、アシュケナジーやアシュケナジムとも呼ばれ、ディアスポラのユダヤ人のうち、おもに東ヨーロッパなどに定住した人々やその子孫の呼称の単数形です。

同地からイスラエルに移住したユダヤ人とその子孫の集団も、同様に呼ばれます。

 ロシアや東欧には、アシュケナージを苗字に持つ人は多いですよね。

スロバキアは、第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立しました。

その後幾らかの変遷を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至ります。

ケルト人が先住民であるが、1世紀ごろゲルマン人が、この地を支配していました。

5~6世紀ごろにスラブ人が移住して来、9世紀には、大モラヴィア帝国を創り上げました。

9世紀に現在のスロバキア、モラヴィア、ボヘミア、シレジア地方にモラヴィア王国が成立しました。

モラヴィア王国は、9世紀から10世紀初頭にかけて栄えたスラヴ人の王国で、大モラヴィア王国などとも表記されます。

スロバキアでは、モラヴィア王国がスロバキア人による王国であると主張する者もいます。

けれど、歴史学的には証明できる事実ではないのです。

 確かなのは、スラブ人の王国ということだけですか。

どうも、そのようですね。

この地域のスラブ人が現在のように簡単にチェコ人、スロバキア人などと言うように分類できない面がありましたからね。

10世紀になるとマジャル人の侵入を受け、ハンガリー王国が成立しました。

 ハンガリー王国は、かつて現在のハンガリー共和国を中心とする地域を統治した王国でしょ。

ハンガリー王国は000年頃、イシュトヴァーン1世の即位によって成立しました。

当然、今ではほかの国の領土になった地域もあり、スロバキア全土は北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになります。

ただし、ハンガリーに比べてスラヴ人の多い地域でしたけどね。

ちなみに、ハンガリー王国は最盛期には、スロバキアのほか、クロアチア共和国のクロアチア地方やスラヴォニア地方、セルビア共和国のヴォイヴォディナ、ルーマニアのトランシルヴァニア、オーストリア共和国のブルゲンラント州も領域でした。

更にオスマン帝国がハンガリーに侵入するとプラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、ハンガリーにとっても北部ハンガリーは重要な地域と見なされるようになりました。

この首都移転は北部ハンガリーの人口バランスを狂わせるもので、増加したマジャル人に対して北部ハンガリーのスラヴ人の反感は高まったのです。

19世紀の中ごろに周辺のスラヴ人が民族主義の流れからクロアチアのスラヴ人からクロアチア人、ボヘミアのスラヴ人からボヘミア人と呼び名を変えて行くようになりました。

北部ハンガリーでは自らの地域・北部ハンガリー地域のスラブ語に転化したスロバキアと名づけ、自らをスロバキア人、自分達が話す言語をスロバキア語であると主張するようになりました。

またこの頃、勢力の大きいマジャル人に対して、チェコ人(チェック人)とスロバキア人の連合が主張され始めるようになりました。

オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下においてはチェコ、スロバキアは共に連邦国家構想を支持していたが第一次世界大戦の終了と共にオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。

1918年、独立運動の指導者トマーシュ・マサリクは、チェコスロバキアは民族自決の対象となる単一のチェコスロバキア人国家として独立を宣言しました。

チェコの社会学者・哲学者・政治家であったトマーシュ・マサリクは、チェコスロヴァキア共和国の初代大統領を、1918年から1935年まで務めました。

 トマーシュ・マサリクは、1850年3月7日チェコ共和国の領土となっているモラヴィアのホドニーンに生まれ、1937年9月14日に没したのでしょ。

オーストリア・ハンガリー帝国崩壊の後、更にハンガリーに侵入して北部ハンガリーのほとんどの地域をハンガリーから収奪し、これが現在のスロバキア国家の基本的な領土となっています。

しかしこの行動は、ハンガリー等で領土回復運動が高まるきっかけとなったのです。

 スロバキアの伝統料理は、肉系統を主体としたものでポテトが付け合せで出てくると聞きました。

 歴史的にハンガリーとの関係が強いせいか、ハンガリー料理に似ているそうですね。

ハンガリー料理によく似ていているのが南部で、パプリカを使ったグヤーシュというスープがポピュラーだそうですよ。

 スロバキアの料理は、地方によって特色があるのですね。

オーストリアに近い西部では、シュニッツェル、ソーセージ、サワークラウトがよく食べられているそうです。

 シュニッツェルはカツレツ、サワークラウトは酢漬けキャベツですよね。

 スロバキアには、スープ料理の種類がたくさんあるようですね。

もっとも有名なのは、カプストニカ(Kapustnica)という燻製の豚肉ソーセージ、キャベツ、きのこの入った温かいスープでしょう。

カプストニカは、じゃがいもを主原料にしたハルシュキというお団子や、羊のチーズのお団子と一緒に食されているといいます。

川魚のマスやコイも人気で、クリスマスに肉食を禁じているカトリック教徒が多いため、特にクリスマス・シーズンには、マスやコイの料理が食卓を飾ることが多いらしいです。

 チェコと同様、スロバキアで人気の飲み物といえば、ビールでしょ。

Golden PheasantやTopvar、Corgonといったブランドがあり、輸出もされていますね。

ほかには、ボロヴィッカ(Borovicka)というドライジンに似たジュニパーで風味づけしたブランデーや、スリヴォヴィカ(Slivovica)というプラムのブランデー、また東南部ではワインも造られていて、これも海外に輸出されています。

スロバキア料理は、日本人にも美味しいものが多いようだけど、ソーセージはものによっては好みにあまり合わないのがあるらしいです。

食べたことないので、どのソーセージが美味しくてどれがそうでもないか、知らないですけどね。

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チェコ。

1993年に、チェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離しました。

今回は、チェコの方を取り上げてみたいと思います。

 スロバキアも、気になりますけど。

そのうち、取り上げましょ。

チェコの正式名称は、チェコ語でČeská republika(チェスカー・レプブリカ)で、チェコ共和国と訳されます。

通称は Česko(チェスコ)、または Čechy(チェヒ)です。

チェコは、地域的には中欧に属するが、第二次大戦後ソ連圏に組み込まれていた時期には政治的に東欧に分類されていました。

 ソ連崩壊後、再び中欧の国として分類されるようになったわけですよね。

まず、大まかに歴史を振り返ってみます。

中世以降は、チェコ民族の形成を振り返るのが目的なので省かせてもらいます。

古代には、チェコの地にケルト人が居住し独自の文化を形成しました。

チェコは、主に古来はケルト系先住民ボイイ人の名によりボヘミアと呼ばれた西部の広大な盆地とモラヴィアの丘陵とからなります。

西スラヴ系のチェック人(Czechs)が定着し、7世紀にはフランクの商人サモがモラヴィアを中心に国家であるサモ国を建設しました。

サモの死後まもなく滅びたが、その基礎は次のモラヴィア王国に受け継がれ、これがマジャル人の進出で衰退すると、ボヘミアには10世紀頃に王国を建てたという流れがチェコ史の初期の展開となります。

 ケルトは、日本とヨーロッパを繋ぐ民族として何度も話題にしてきましたね。

ケルト人は、中央アジアの草原から馬と戦車や馬車など車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族です。

ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化を発展させました。

 ハルシュタット文化は、紀元前1200年から紀元前500年ですよね。

ハルシュタット文化という名称は、オーストリアのザルツブルク州の南東の湖岸の村ザルツカンマーグートにある標式遺跡が出土したハルシュタットに由来します。

標式遺跡は標準遺跡とも呼ばれ、考古学上の、遺構、遺物又はその一連となる関連性の集合として定義される特定の型式、形式、様式、あるいは、年代、文化期、文化層の命名、簡単に言えば時期区分名命名の契機を与えた遺跡、あるいはその基準となる遺構、遺物が検出された遺跡自身のことをいいます。

例えば、弥生文化とは、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町、現在の東京都文京区弥生の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来します。

この、弥生文化の名の由来となった東京の遺跡は弥生文化の標識遺跡と言えます。

ハルシュタット文化は、中央ヨーロッパにおいて紀元前12世紀以降青銅器時代後期の骨壺文化から発展し、紀元前8世紀から紀元前6世紀鉄器時代初期にかけて主流となった文化です。

後に中央ヨーロッパのほとんどは、ラ・テーヌ文化に移行しました。

ラ・テーヌ文化はヨーロッパの鉄器時代の文化で、スイスのヌーシャテル湖北岸にあるラ・テーヌの考古遺跡で1857年 Hansli Kopp が多数の貴重な遺物を発掘したことから名付けられました。

当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット鉄器文明は紀元前500年から紀元前200年ラ・テーヌ鉄器文明に発展します。

ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立しました。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられます。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存しています。

現在のケルトという言葉は言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代~中世において右図で表されている地域の住民が、「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていません。

そのため歴史学などでは「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っています。

彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されています。

紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになりました。

また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを征服しました。

 マケドニア、ロマ音楽の影響を受けた国や地域を取り上げた時出てきた名前ですね。

ロマ音楽も、日本の民族歌謡との類似が大きいですね。

チェコ音楽の形成は、チェコ史を反映して複雑な経過をたどっているので、特徴の比較は簡単にはいかないようです。

チェコは、その地理的位置付けから周辺の国や民族から翻弄されてきました。

政治的には東ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ハンガリー、オスマン帝国、ポーランドといった大国が鎬を削りました。

民族的にはゲルマン系集団、スラヴ系集団、マジャル人に代表される東方由来の遊牧民などが興亡を繰り広げました。

宗教的には正教会、カトリック、フス教徒を含むプロテスタントといったキリスト教諸会派が勢力を争いました。

このため、その音楽にも多様性が生まれ、アントニン・ドヴォルザーク、レオシュ・ヤナーチェクといったユニークな作曲家を生んだのです。

ただ、どんなに周辺の影響を受けようと、チェコの民族性を音楽も反映しているはずなので、なんらかの特徴は見えると思えます。

チェコは、ボヘミアとモラヴィアの2つの地域に大別されます。

ボヘミアとモラヴィアでは、その民俗音楽に大きな特徴があると言われます。

チェコの指揮者・作曲家のヤロスラフ・フォーゲルは、その違いを次のように述べているそうです。 

ボヘミアとモラヴィア西部は、音階は全音階的な長短調、フレーズは相称的な構造、拍節は厳格で規則正しい拍節構造とリズムパターン、起源は舞踊。

モラヴィア東部と南部およびスロヴァキアは、音階は長短調以外でギリシア旋法や教会旋法に近い、フレーズは非相称的な構造、拍節は不規則な長さのフレーズ構造、起源は歌謡。

ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻しました。

 しかし、もとはケルトの地だったので、全体を貫くチェコらしさは何かあるでしょうね。

聞き比べてみると、面白いことがわかるでしょうね。

 ロマ音楽の拍子で、リズムやテンポが取れるかしら。

ロマ音楽のリズムの特徴は、強弱の入れ子になってることでしたね。

 前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるでしょ。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じでしたね。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですね。

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)

どこまで、それが言えるか興味ありますね。

やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになります。

ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服されます。

カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献です。

やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人、フランス語ではゴール人は、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していきます。

その後、チェコの地にはゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となります。

 ゲルマンも、日本やイギリスとストーンサークルで繋がるのでしたね。

 日本人にはゲルマンの血が入っているという人もいるくらい、ゲルマンの末裔と言われるドイツ人も日本人と気質の類似がしばしば言われますね。

 スラブ人は、調べてみないとわからないけど、ロシアには日本人とよく似た人がいると指摘する人もいますね。

7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。

つづいてアバール人が支配者となりました。

 アバールは、アヴァールと発音する人もいますね。

綴りがAvarsですからね。

アバールとは、 5~9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族です。

支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan)と称し可汗の字が当てられるので、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれ、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれます。

フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアバールです。

フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていません。

しかし、アヴァールが東ローマ帝国およびフランク王国と接触し、スラヴ諸民族の形成に大きな影響を与えたことは注目すべき事です。

 遊牧民というと、スキタイが有名ですね。

 そして、スキタイは行方不明となったイスラエル十支族が行動を共にしたという説があるでしょ。

 ロシア人に日本人と似た顔の人がいるのと、なんか関連あるのかしら。

どうなのでしょうね。

9世紀前半に漸く、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設しました。

大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取しました。

907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになりました。

西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国であるチェヒ国を建設しました。

10世紀にはボヘミア王国が建国され、ヴァーツラフ1世が国王に即位しました。

その後オタカル1世の時にボヘミア王の称号と世襲が承認され、13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得しました。

10世紀後半からカトリックが普及し、11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進みます。

14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれました。

ルクセンブルク王朝ではカレル1世が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えました。

首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立されました。

この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にありました。

15世紀にはヤン・フスがプラハ・カレル大学ー現在のカレル大学―学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門されました。

さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアではフス戦争と呼ばれる大規模な反乱がおきました。

その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになりました。

チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発しました。

この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落しました。

18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まりました。

1848年にはパラツキーがプラハでスラヴ人会議を開催し、汎スラヴ主義が提唱されました。

1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになりました。

19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となりました。

 かつて一緒の国を作っていたスロバキアも、自動車産業に見られるように技術は高いですね。

 もっぱら、外資の工場が進出して作っているので、あまり目立ってないけど。

チェコ料理も、一般に日本人好みの味と言われますね。

素朴で、シンプルな料理は、味付けもマイルドで、イタリアやフランスの料理のように、洗練はされていませんが。

 比べてみると、案外日本と似ている国なようですね。

チェコは、昔の火山の名残で温泉も結構あり、温泉文化も息づいていますよ。

お互いをもっと知っていけば、親近感が湧いてくる国の一つではないでしょうか。

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縄文の犬とイスラエルの犬はどこかでつながる?

縄文時代の遺跡から、犬を抱いて葬られた人骨が見つかっています。

縄文時代は、年代でいうと今から約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀です。

イスラエルにある1万2000年前の遺跡から、人と一緒に埋葬された子犬の骨が発見されています。

縄文時代から日本にいると見られるアイヌに、生活文物が古代イスラエルと似るという声があります。

 だからって、犬と一緒の埋葬まで似るとは面白いにもほどある。

 そういえば、日本に残る中東の遺伝子は、いつごろに遡れるのでしょ。

 アイヌと古代イスラエルの生活文物が似ていることを思えば、縄文かしら。

エジプトと日本の、味の好みと宗教の構造の類似から言っても、縄文に遡る可能性は大きいですね。

 吉村作治の話ですね、エジプトと日本の味の好みが似てるって。

 太陽神を中心にした三神、動物神を含む八百万の神が共通。

 問題は、辿った道ね。

アメリカからは縄文土器にあまりに似た土器が出土し、考古学者たちをドキ!っとさせているのです。

そのなかには最近注目を浴びている、ボリビアの古代モホス文明遺跡も入っています。

カナリヤで有名なカナリヤ諸島には、かつて白い人が来たという言い伝えがあり、白い人のミイラが見つかっています。

ボリビアでは、アンデスの東側斜面にあたるユンガス地方でイランやインドの女性を表現したと見える銅製の頭部がでています。

 インド人からインド人に間違えないと断言されて困った人も、いるからね。

 中東のどこかの出身でしょうと、自信たっぷりに聞かれた人もいるし。

チチカカ湖畔からは、古代シュメール文字の一種かもしれない文字が刻まれた石製の大皿が見つかってるのです。

 日本スメル渡来説があるけど、ヨーロッパ・アメリカ経由かもしれない。

少なくともアメリカで出会っていないとは、言いきれないですね。
 
縄文の遺跡から、オオヤマネコの骨が出ています。

オオヤマネコは、ヨーロッパとアメリカのネコなのです。

 アメリカとの繋がりは、縄文を探れば探るほど出てきますね。

秋田犬の血液型パターンがヨーロッパに似ているというのがアメリカ経由なのか、気になるところですけどね。

 あの水が苦手なネコでさえ、ヨーロッパからアメリカを経て日本の可能性あるのでしょ。

オオヤマネコは、縄文人と海を渡ったと見ないと、ヨーロッパからアメリカや日本にいないのです。

 人との付き合いが長いイヌが、縄文人と一緒に来ない方が、不自然だと思うけど。

やはり、縄文人はヨーロッパを経て中東にまで、遡る議論が必要になるのかもです。

アメリカから見つかった、フランスやスペインの様式の鏃と一緒に、アイヌに似た骨が出ています。

そのアイヌに似た骨は、イギリス人の特徴を持っていました。

幕末に日本を訪れたヨーロッパ人の中には、日本にブリティッシュ的な顔がいると言っています。

ストーンサークルも、日本とイギリスから見つかっています。

 ヨーロッパ先住民のケルトと、日本先住民のアイヌ、似ているって比べたことありましたね。

アメリカで見つかったイギリス人に似た古代人骨、連想された人はケルトが多かった土地の人なのですよね。

 そのイギリスでケルトが多かった土地の人が、アイヌに似ている。

イギリスも、日本と似た文化の国ですね。

そのイギリスにも、ブリティッシュイスラエルを本気で考えている人がいますからね。

 縄文の遺跡の犬、イスラエルの遺跡の犬と、関係あるのかしら。

さあ、遺伝子で誰かが比べてくれないことには、どっちともいえないですね。

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ロマとケルトとねんねんころり?ロマと日本?その2。

ロマ音楽は、音階の上では、和声的短音階の第4音を半音高くして二つの増二度音程を持つ独特の音階が用いられることが多いのも特徴です。

和声的短音階の第4音を半音高くして二つの増二度音程を持つ独特の音階は、ハンガリー音階などと呼ばれることもあるのです。

短音階とは、別名、マイナースケールと呼ばれる全音階の一種です。

もっとも基本的な短音階は自然的短音階といい、ほかにも、和声的短音階、旋律的短音階が存在するのです。

この、和声的短音階が、ロマ音楽の特徴に挙げられているわけです。

 一般的に、短音階は、陰気、悲しさといった感情を引き起こすでしょ。

必ず、そうなるわけでもないのですよ。

例えばユーロビートなどは、短音階で作られる曲が多いです。

テンポが速いため、陰気さはあまり感じられないことが多いです。

一方で短音階は、荘重な表現や、勇敢・ワイルドな表現、冷淡・恐怖感の表現にも適しているのです。

ロマの音楽の大きな特徴として、テンポや強弱の激しい変化や交替、細やかなリズムや奔放な修飾、ソウルフルなヴォーカル、そして音高をすべるように移動するグリッサンドの多用などが挙げられるのです。

 この表現の多彩さを支えているのが、短音階なのかしら。

ロマ音楽の情熱あふれる印象は、面白いことに短音階が陰気、悲しさといった感情を引き起こすことと関係が深いのですよ。

陰気とか悲しさといった感情も、行き着くところまで行くと、かえって笑いに転化するのです。

 そういえば、あんまり悲しいと、泣いてるのか笑っているのか、分からない顔になるのね。

 だから、ソウルフルなヴォーカルにも、なる。

 ところで、今回はどういう話題にする気。

子守唄ですよ。

子守唄は、日本のは妙に物悲しいでしょ。

それでいて、悲しいだけじゃあない。

心揺さぶられる、日本のソウルフルな音楽、そう思えるのでしょ。

悲しいけど、生きていかないといけない、生きていかないといけないけど、悲しい。

だけど、恨み節ではない、どこか、底知れない優しさがある。

 悲しみを湛えた優しさ、慈愛に通じる心ねえ。

 日本宣教の過程でフランシスコ・ザビエルは、当時の日本社会に一種独特なキリスト教的な雰囲気を感じ、昔、日本にキリスト教が伝わったと思ったのでしょ。

 でも、ザビエルは、自らの直感を裏付ける証拠を色々探したけれども見つけられなかった。

 悲しみを湛えた優しさ、慈愛、これは、どこかキリストの愛の心に通じますね。

 だから、ザビエルは当時の日本社会に一種独特なキリスト教的な雰囲気を感じたのかしら。

面白い推理ですね。

でも、今考えたいのは、日本の子守唄はなぜ物悲しさに中に、底知れない優しさを湛えられるのか、です。

日本各地に採取された子守唄、どこか似た旋律を感じるのでしょ。

ロマ音楽のリズムは、強弱の入れ子になってるです。

前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるのです。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じね。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですよ。

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字は手拍子の強弱に対応)

日本の民謡も、その多くはこの拍子を変形したリズムでできているようです。

そして、日本の子守唄も大半がこの拍子を変形したリズムでできているようです。

 子守唄は、しばしば、守子(もりこ)と呼ばれた子どもたちによって歌われ、歌い継がれたようね。

 そうなると、子守唄には、これらの歌が生まれた時代背景は当然反映されているのでは。

日本全国の子守唄に見られるロマ音楽と通じる特徴は、どうやって広まったのでしょうね。

 「ねんねんころりよ」の変形とみられる子守唄は、各地に広がっているのね。

でも、明らかに異なる歌詞でも、強い順に4・2・3・1って感じで拍子が取れるのですよ。

例えば北海道のアイヌの言葉にでも遡れそうな歌詞の子守唄も、この傾向は見て取れそうなのです。

アイヌと琉球の類似、東日本とケルト、西日本とロマの対応が見えそうなことと合わせると、ますます、ロマとケルトの関係は気になるのです。

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ウッドサークルを考えてみる。

縄文の環状木柱列、つまりウッドサークルは、縄文後期から晩期の北陸地方に集中する謎の遺構です。

代表的な金沢市のチカモリ遺跡の木柱列は、入口が白山山系を向いた構造だそうです。

 白山の大崩壊から千数百年後に建てられたこの木柱列には、口承で語り継がれたであろう大崩壊の衝撃が込められている気がする。

ウッドサークルは、イギリスが有名ですね。

縄文日本とイギリスが何らかの接点があったことになるのです。

 そういえば、ストーンサークルもイギリスと共通ですね。

アメリカのケネウィック出土の古代人骨はイギリスと日本に二股かかってるそうです。

ケネウィック出土の古代人骨は、縄文人の血を濃く引いているアイヌに似ているというのです。

 そういえば、栃木の大谷石の採掘場に行って、南米と同じ葬り方の1万1千年前の縄文人の骨を見た。

南米は、縄文とそっくりの土器も出てるでしょ。

 なぜ、縄文後期・晩期の北陸にのみ、ウッドサークルが出現するのか。

 白山大崩壊の衝撃が神話的に受け継がれ、山の神を鎮める祭祀表現だったからでは。

 そう推測すると、チカモリ遺跡や真脇遺跡など北陸の木柱列が、諏訪の御柱を考えるヒントになる気がするの。

 山の神が背景にある、御柱祭だけに。

諏訪の御柱は、聖書を連想できる名前のモリヤ山を背景に聖書が連想できる展開をすることが有名で、日ユ同祖論が注目しているのです

 北陸の環状木柱列で、10本の柱が円形に並べられた構造が気になるの。

 思い出すのは、十一面観音よ。

 色んな造形はあるが、十面十一面で表現され、十の顔が前後左右に配された木彫は、まるで環状木柱列。

 白山神の本地が十一面観音とされたのも、北陸人の集合的無意識に潜む元型的イメージが投影されたのかも…。

十面十一面なら、飛鳥昭雄と三神たけるは、生命の樹と即座に言うでしょうね。

 確かに、木の宇宙観で、縄文とケルトがつながる気がするの。

 その根底となる巨木文明には生命樹や宇宙樹という古代の宇宙観が関わってそうですね。

まさに、そうですね。

 またセフィロトとの関連も、興味深いね。

セフィロトは、生命の樹の十の節のことですよね。

 残る一つの節は、人々から隠された、ダートと呼ばれる神の段階への入り口に当たる存在ですよね。

陰陽も、ケルトと日本の接点ですよ。

 白山は、地球規模の聖なる山ね。

 韓国の太白山や小白山、中国と北朝鮮の国境は長白山とも呼ばれる白頭山でしょ。

 シルクロードの天山が、旧・白山ね。

 ヒマラヤのダウラ・ギリ、アルプスのモン・ブラン、スペインと北米のシエラ・ネバダ、ハワイのマウナ・ケアも白山と訳せます。

どれも、日本人のルーツにかかわる土地です。

 中国や朝鮮半島は、大陸からの通り道というのは、わかる。

ヒマラヤは、日本と古代中東の遺伝子を共有するチベット。

 スペインは、バスク人のそっくりさんが日本にいるでしょ。

アメリカは、さっきも触れた古代人骨や縄文文様の共有、さらに遺伝子も繋がりが見えます。

日本の御神木文化にも、根底となる巨木文明には生命樹や宇宙樹という古代の宇宙観があるのかもしれません。

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東北訛りとイギリス?

東北訛りは、イングランド北部訛りが似てる気がするという人がいるのです。

 東北の先住民であるアイヌは、縄文人の直系子孫と見られているから。

ええ。

アメリカのケネウィックで見つかったアイヌに似た古代人骨は、イギリス人的だったのですよ。

その古代人骨と傾向が似ている人物の出身地は、ケルトの多い地域です。

グレートブリテン島北部は、ケルトの多い地域ですよ。

 秋田と津軽と下北は、別言語っぽい。
 秋田で、津軽人の通訳使えないようだし。

東北内でも、通じないんですか。

 ええ。

東北も、歴史をたどると結構ややこしいのですよ。

今は青森県にふくまれる津軽と下北は、明治まで別の藩だったですから。

詳しく言うと青森県史だけで、話が終わっちゃいそうだから省きますけど。

 そういえば、秋田も別の藩…。

東北は、なかなか大和政権に従わなかったですからねえ。

大和政権は、西日本から大勢つれていって東北の押さえにしたからです。

 その人たちの言葉が、東北に入って変化させている…。

そう見るのは、自然でしょうね。

さらに、京言葉が地方に伝わっていくわけですよ。

 京言葉の変化のあとは、方言に年輪のように残っているというわけ。

国の境を浮かび上がらせるように、年輪状の分布が見られます。

 そういう歴史が、東北の言葉とヨーロッパのつながりを見えにくくしているのね。

 でも、幕末の日本を見たヨーロッパ人が日本人にブリテンと似た人々がいるという声と、みごとに対応しますね。
  
 東北訛りとイングランド北部訛りが、古代から千年以上たっているのに似てる気がするというのは。

あらためて、イギリスが東北とストーンサークルを共有する事実が日本古代史研究に持つ意味の大きさを感じますね。

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ジャック・オ・ランタンを考える。 猫とカボチャの不思議な関係 その2

猫とカボチャの不思議な関係を、以前考えたことがありました。

 猫を殺して埋めたら、その猫の口から毒のある南瓜が生えたという話で、殺した者に喰わすために猫の執念から生えたものだという話でしょ。

ええ。
口や目など、猫の頭からという話が多いようです。
このパターンは、猫南瓜という怪異のジャンルの一つにまでなっていたのです。

同様の話は、和歌山県西牟婁郡など各地方に見られるというのです。

調べていくと神奈川県横須賀市浦賀には、南瓜ではなく胡瓜がなったという話があるそうです。

 南瓜、胡瓜、どっちも瓜科ねえ。

胡瓜には、胡瓜封じの風習があるでしょ。

 そして、胡瓜と言えば河童。

南瓜には、ハロウィンのジャック・オ・ランタン(Jack-o'-Lantern)に使う風習があるでしょ。

 ジャック・オ・ランタンは“ランタン持ちの男”を意味し、ジャックランタンとも呼ばれますね。

ジャック・オ・ランタンは、アイルランドやスコットランドに伝わる鬼火のような存在だそうです。

普通の火の玉の姿の他、光る衣装を身に纏うカボチャ頭の男の姿であらわれる事もあるというのですよ。

 生前に堕落した人生を送ったまま死んだ者の魂が、死後の世界への立ち入りを拒否された姿と聞きましたが。

悪魔からもらった石炭を火種にして、萎びて転がっていたカブをくり貫いて作ったランタンに入れたと言うのが元の話だそうです。

そのカブのランタンを、片手に持って彷徨っている姿だとされているのですね。

こんな話もあります。

悪賢い遊び人が悪魔を騙し、死んでも地獄に落ちないという契約を取り付けました。
ところが死後、生前の行いの悪さから天国へいくことを拒否され悪魔との契約により地獄に行くこともできず、カブに憑依し安住の地を求めこの世を彷徨い続けている姿だともされているのです。

 この話は、ウィル・オ・ザ・ウィスプと呼ばれる世界各地に存在する、鬼火伝承の名の一つとされますよね。

ウィル・オ・ザ・ウィスプ(Will o' the wisp)は、ウィルオウィスプとも呼ばれる世界各地に存在する、鬼火伝承の名の一つですね。
「一掴みの藁のウィリアム」の意味で、この藁は松明に使われたところから「松明持ちのウィリアム」と訳されることもあるのです。

 ウィル(Will)は、ウィリアム(William)の通称ね。

ウィル・オ・ザ・ウィスプは墓場などに出没し、近くを通る旅人を危険な道へと誘うとされます。

 日本の人魂みたいねえ。

ウィル・オ・ザ・ウィスプの正体は、死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続ける、ウィリアムという名の男の魂だというのです。

ウィルの生前は、極悪人だったそうです。

遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きをいい渡されそうになった所を、言葉巧みに聖ペテロを説得し、再び人間界に生まれ変わるのです。
しかし、第二の人生もウィルは悪行三昧で、また死んだとき死者の門で、聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかり通らん」と煉獄の中を漂うことになるのです。

それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィルに明かりとして渡したのです。
この時にウィルは、この石炭の燃えさしを手に入れるのです。
そして、その石炭の光は人々に鬼火として恐れられるようになったそうです。

 ジャックはよくある男の名前なので、アイルランドやスコットランドではジャック・オ・ランタンとなったのかしら。

どうでしょうねえ。

ジャック・オ・ランタンの話がアメリカに伝わったのち、カブのランタンは、移民したアイルランド人によりアメリカでの生産が高かったカボチャのランタンに変化したというのですね。

スコットランドでは、現在もルタバガというカブを使っているそうですよ。

この他、毎年10月31日のハロウィンの日に作るカボチャのロウソク立てをジャックランタンと呼び、善霊を引き寄せ、悪霊達を遠ざける効果があるといわれているのです。

ジャックランタンは、旅人を迷わせずに道案内をする事もあるというのです。

 罪人と炎と言えば、火車(かしゃ)を連想するのよね。

火車には、猫又が正体という説があるのですね。

 猫と南瓜は、火車が間に入って繋がっていくのかしらね。

可能性は、疑う余地がありそうですね。

ここで気になるのは、ウィル・オ・ザ・ウィスプの火には水面の上にしか現れないとする伝承もあるそうなのですよ。

 水面で火が現れると言えば、キジムナーがいるのよね。

 キジムナーは、河童の仲間。

天狗火(てんぐび)もあるのですよ

天狗火は、神奈川県、山梨県、静岡県、愛知県に伝わる怪火です。

主に水辺に現れる、赤みを帯びた怪火です。

その名が示すように、天狗が超能力によってもたらす怪異現象のひとつとされるのです。
神奈川県や山梨県では川天狗の仕業とされるのです。
夜間に山から川へ降りて来て、川魚を捕まえて帰るとも、山の森の中を飛び回るともいうのです。

人がこの火に遭遇すると、必ず病気になってしまうといわれているのです。
そのため、土地の者はこの火を恐れているそうです。

出遭ってしまったときは、即座に地面にひれ伏して天狗火を目にしないようにするか、もしくは頭の上に草履や草鞋を乗せることでこの怪異を避けられるというのです。

 近くを通る旅人を危険な道へと誘うとされる、ウィル・オ・ザ・ウィスプと似てますね。

一方、天狗火が人を助けたという民話もあるのです。

天狗火が人を助けた話は、愛知県豊明市などに伝わっているのです。

昔、尾張国東部のある村で、日照り続きで田の水が枯れそうなとき、川から田へ水を引くための水口を夜中にこっそり開け、自分の田だけ水を得る者がよくいたそうです。

村人たちが見回りを始めたところ、ある晩から炎の中に天狗の顔の浮かんだ天狗火が現れ、水口を明るく照らして様子をよく見せてくれるようになりました。

水口を開けようとする者もこの火を見ると、良心が咎めるのか、明るく照らされては悪事はできないと思ってか、水口を開けるのを思い留まるようになり、水争いは次第になくなったというのです。

また、こんな話もあります。

愛知県春日井市の民話では、ある村人が山中で雷雨に遭い、身動きできずに木の下で震え上がっていました。
すると、どこからか天狗火が現れ、おかげで暖をとることができた上、道に迷うことなく帰ることができたというのです。

 旅人を迷わせずに道案内をする事もある、ジャックランタンと似てますね。

しかしこの村では天狗火が見える夜に外に出ると、その者を山へ連れ去ってしまうという伝承もあるのです。
ある向こう見ずな男が「連れて行けるものならやってみろ」とばかりに天狗火に立ち向かったところ、黒くて大きな何かがその男を捕まえ、山の彼方へ飛び去っていったというのです。

 アイルランドやスコットランドといえば、ケルトの土地でしょ。

 そのケルトの地と日本に似た話があって、ブリテッシュに似た顔がいると幕末の日本を知る欧州人が報告してる。

 アメリカで、イギリスと日本両方に似た顔の古代人骨が出た。

 偶然にしては、出来過ぎ。

そうですね。

私が気になるのは、猫南瓜の話に河童と天狗が絡んでいそうに見えることですけどね。

 さらに、ウィル・オ・ザ・ウィスプやジャック・オ・ランタンも絡んでいそうよ。

想像以上に、猫南瓜は奥が深そうですね。

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