園芸

単なるペアではなかった右近の桜・左近の橘 ― 実は神殿だった天皇の宮殿

右近の桜、左近の橘というけれど

 

宮廷でよく耳にする「右近の桜、左近の橘」。

子どものころに教わったときは、ただの美しい庭木のペアと思っていました。

でも、よく考えてみると、これは単なる装飾ではないのかもしれません。

 

右近の桜は春に華やかに咲き、やがて散ります。儚く移ろうものの象徴です。

一方、左近の橘は常緑で、四季を通して変わらずそこに立ちます。

永遠や神聖、霊域の象徴とされるのです。

この二本が向かい合うことで、陽と陰、現世と神域、生と永遠の対比が自然に生まれます。

 

実は御神木だった?

 

日本の樹木神格化の特徴を、あげてみましょう。

 

日本では特に、樹木を単なる象徴以上に神聖視し、人格や霊を宿すものとして扱う傾向があります。

 

神社の御神木や山林信仰

 

歴史的建築や庭園での樹木の配置(陰陽や季節の象徴)

 

常緑樹の永遠性への憧れ(橘、松)

 

ここでは、「樹木そのものが時間や命を体現している」という感覚が強いです。

桜や橘を単なる植物としてではなく、文化・宗教・象徴の複合体として扱うのは、この伝統的感覚の延長線上にあります。

 

天皇の正体は祭司王

 

さらに考えると、天皇は正体として祭司王でした。

宮殿は単なる住居ではなく、祭祀や儀式が行われる神聖な空間。桜と橘は、その宮殿が神殿であることを示す象徴装置だったと考えられます。

桜が人間世界の儚さを映し、橘が神聖な永遠性を示すことで、天皇の祭祀権威が空間全体に可視化されていたのです。

 

右近の桜左近の橘のお仲間たち

 

この二本の樹木の意味を思い浮かべると、自然に連想は広がります。

仏教の沙羅双樹、神話に登場する知恵の樹・知識の樹、さらには北欧の世界樹思想。いずれも、二本または中心の樹木で象徴的な意味を示す構造を持っています。

文化や地域は違えど、樹木を通して「無常と永遠」「人間と神」「知と悟り」を語る感覚は、意外なほど普遍的なのです。

 

世界各地の神話の、天地や生命、知恵を象徴する「中心の樹」をまとめてみるとこうなります。

 

北欧:ユグドラシル(世界樹、宇宙の軸)

 

メソポタミア:生命の樹、知恵の樹

 

インド:アシュヴァタ(菩提樹の一種)、神聖な樹木

 

日本:神体として祀られるご神木(例:榊、杉、楠)

 

共通するのは、樹木を媒介に天地や時間、生命の秩序を象徴すること。

右近の桜―左近の橘や沙羅双樹も、象徴的に「時間の流れ」と「永遠性」を表現しているので、世界樹的な思想と同じ根っこに立っています。

 

鎮守の森のミニチュア?

 

右近の桜・左近の橘の配置は、単なる装飾や儀式の演出だけでなく、神域や鎮守の森の象徴として読むこともできます。

 

桜(右近):季節感・移ろい・生命の儚さ。生者の世界を象徴。

 

橘(左近):常緑・永遠・霊的安定。神聖・霊域の象徴。

 

この二本を対置することで、生と霊、現世と神域、陽と陰の境界を自然に示すことができます。

鎮守の森では、中心に神木があり、周囲にさまざまな樹木が配置されます。

桜と橘のペアも、まさに小さな神域・聖域の縮図として読むことができるのです。

 

宮廷の庭は小さな神殿

 

桜が人間の時間感覚や季節感を映し、橘が神聖・永遠・陰陽の調和を体現する。

この二本が揃うことで、「ここは神聖な場であり、同時に人間と神の世界をつなぐ場所」という意味が自然に生まれます。

 

こうして読むと、右近桜・左近橘は単なる宮廷美学ではなく:

 

神聖の可視化

 

時間と永遠の交差点

 

陰陽調和の象徴

 

という多層的な意味を帯びています。

言い換えれば、宮廷の庭は小さな鎮守の森であり、桜と橘は象徴的“門番”なのです。

 

季節の移ろいと永遠の緑が目の前の空間で交差する。

そう考えると、庭の二本の樹が急に意味深く見えてきます。私たちは普段、気づかずに通り過ぎていたのかもしれません。

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桜に似た植物アーモンド ― 花と実から見るその世界

桜に似ている、と言われると、日本人はつい立ち止まってしまう。

感性の話をしたくなるし、日本文化との関係も語りたくなる。

けれど今回は、そこをいったん横に置いて、もっと単純なところから始めたい。

桜に似ているのは、感覚の問題なのだろうか。

それとも、もっと当たり前の理由があるのだろうか。

結論から言えば、似ていて当然である。

アーモンドは、バラ科サクラ属、つまり Prunus 属の植物だ。

桜、ウメ、モモ、アンズと同じ仲間であり、系統的に近縁である以上、花の姿が似るのは不思議でも何でもない。

では、その「似ている花」と「あまり似ていない実」に注目してみると、アーモンドという植物の世界が、少し見えてくる。

 

葉より先に咲く花

アーモンドの花は、春先、葉が出る前に咲く。

これは桜やウメと同じ特徴で、早春に花を咲かせる Prunus 属の典型的な性質だ。

白から淡い桃色の五弁花。

一見すると桜そっくりだが、よく見ると花柄が短く、枝に沿うように花が付く。

遠目には、むしろモモの花に近く見えることもある。

ここで大事なのは、

「人に見せるために咲いているわけではない」

という、ごく当たり前の事実だ。

葉が出る前に咲くのは、光を遮られず、昆虫に見つけてもらいやすいからだ。

つまり、これは生存戦略であって、象徴ではない。

アーモンドは、花の美しさを誇るために咲いているのではない。

受粉し、実を結ぶために咲いている。

 

実は「仁」が主役

では、その実はどうか。

アーモンドの果実は、果肉、殻、そして中の仁から成る。

しかし、この果肉は薄く、食用には向かない。

私たちが食べているアーモンドは、果実の中心にある**種子(仁)**だ。

ここが、桜との決定的な違いでもある。

桜は、実よりも花が注目される植物だ。

一方、アーモンドは、花が咲いたあと、花よりも中身が重要になる植物だと言える。

しかも、その仁には二つの系統がある。

甘いスイートアーモンドと、苦味を持つビターアーモンドだ。

自然界では、むしろ苦味を持つ個体の方が多い。

苦味は、動物に食べられないための防御であり、ここでもまた、生存戦略が顔を出す。

つまり、

アーモンドは「人に都合のよい植物」ではなく、

「たまたま人が利用できた性質を持つ植物」なのだ。

 

花と実が示す、アーモンドの世界

ここまで見てくると、アーモンドという植物の輪郭が、少しはっきりしてくる。

・早春に、葉より先に花を咲かせる

・花は似ているが、目的は装飾ではない

・果肉ではなく、種子が本体

・甘さと毒性という両極を内包する

この木は、最初から「意味」を背負っていたわけではない。

まずあったのは、花と実という構造だった。

この構造が、のちに各地でどう受け取られ、どんな意味を与えられていくのか。

それは、植物そのものよりも、人の側の事情によるところが大きい。

少なくとも、ここまでは植物の話である。

桜に似ているのは、日本人の感性のせいではない。

同じ仲間の植物だから、似ている。

その上で、この木は桜とは違う役割を持ち、違う付き合われ方をしてきた。

その話は、また別の角度から見てみることにしよう。

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花と節句と陰陽と?

春、梅に始まり、桃、桜と続いた赤い花のリレーは、つつじに引き継がれます。

比較的高いところで咲いてきた赤い花は一気に、下界へと舞い降ります。
そのさまはまるで、死の世界であった冬を、まず空で浄め、継いで、地を浄めると言いたげにさえ思えてきます。
この季節はまた、落葉樹たちが芽吹く季節でもあります。
緑は、青とも呼ばれ、一方では黒に準えられる色でもあります。
こう見てくると、五行の青(緑)・紅(赤)・黄・白・玄(黒)のうち、青(緑)・紅(赤)・玄(黒)までが揃うことが見て取れます。
春に咲くのは、赤い花ばかりではないです。
菜の花や山吹、地味ではあるがタンポポもまた、黄色の花を咲かせます。
春に咲く白い花も、こぶし、やまなしのほか、意外と多いです。
春は、植物だけで五行の色が出そろう季節でもあります。
秋もまた、植物だけで五行の色が出そろう季節です。
常緑の青(緑)に混ざって、紅葉や黄葉が彩を添え、さまざまなバリエーションがあるとはいえ緑が目立った山里は、鮮やかな色彩の競演の舞台となります。
葉の色だけで、五行の青(緑)・紅(赤)・黄・白・玄(黒)のうち、青(緑)・紅(赤)・黄・玄(黒)までが揃うことが見て取れます。
唯一揃わない白は、花が提供してくれています。
9月9日の重陽は、菊の節句として知られていたが、新暦のこの頃は菊の季節から外れてしまったので廃れてしまったようです。
実はこの菊こそ、葉の色で唯一揃えられない白だったからこそ、9月9日の重陽は菊の節句だったのではないでしょうか。
こうやって見ると、面白い事に気が付くのです。
1月1日は元旦なので7日にずらされて人日(じんじつ)となって、「七草粥」を食べる日として覚えられているが、花の節句ではないので、今回の考察からは省きます。
3月3日は上巳(じょうし)で、3月の最初の「巳の日」という意味です。
「禊ぎをして穢れを祓い、身代りの人形に汚れをうつして河川・海などへ流す」風習などがあったが、おそらく巳つまり蛇の脱皮にあやかって、汚れを払う縁起が担がれたものと思われます。
冬は、木々も葉を落とし、いくら咲いて彩を添えようと花が頑張ってみても死と眠りの季節の印象は拭えないです。
そして死は穢れともされた事を思えば、汚れの季節から生命の季節である春への脱皮の呪術の流し雛がこの日に行われるのもうなづけます。
流し雛の風習は、江戸時代以降「雛祭り」に姿を変え庶民の間に定着しました。
この日が「桃の節句」でもあるのは、この季節が桃の季節だからでしょう。
桃は赤い花であり、陽の色である赤は炎の色として上巳で脱ぎ捨てた汚れを焼き払う呪術であったのかも知れないです。
5月5日は端午(たんご)で、5月最初の「午の日」という意味です。
古くは「薬草摘みの日」であり薬草としての菖蒲(しょうぶ)が「尚武」の音に通じるとして、男子の立身出世を願う行事へ転化したと見られ、別名「菖蒲の節句」として知られます。
7月7日の(しちせき)の、「笹の節句」とともに、花の節句ではないです
なぜ笹なのかは定かではないです。
中国の「織り姫(織女星)と彦星(牽牛星)」の伝説と、日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説があわさって七夕伝承が生まれたのはよく知られている話です。
9月9日は重陽(ちょうよう)で、「九」という数字は、易によれば「陽数の極」にあたり、これが重なるので非常にめでたいとされました。
中国の風習である、この日に菊の花を飾り、邪気を祓って長寿を祈るというものが元になっており、宮中では重要な節句として位置付けられ、菊を用いることから別名「菊の節句」とも呼ばれます。
白は、陰陽五行では、方位としては西、陰陽としては陰に配されます。
一年と四季の終わりの陰の季節である冬に、同じく陰に配される白の花である菊を対置することでように転化させて、重陽と合わせて幾重にも陽を重ねて邪気を祓って長寿を祈る呪術にしたものでしょう。
もしかすると、菊花紋は古代中東の太陽紋によく似てるから、数ある冬になく花の中から陽の花として菊が選ばれた可能性を考えても面白いです。
こうしてみると、花の節句はたんに美しい花を愛でる日である以上に、汚れや邪気を払いたいという切なる願いの呪術であることがはっきりします。
1月から3月にかけて咲く梅の紅白はかつては、花見の主流であったし、今も多くの人が梅園で花を愛でます。
梅の紅白は、呪術で言えば陽の赤と陰の白で陰陽太極となり、ここから万物が生成するとされる事を思えば、この花が咲く時期が一年の初めの1月に定められたのはただの偶然ではないかもしれないです。
陰陽はカッバーラだとする人たちは、自然界にまでカッバーラが仕掛けられていると言い出すのかも知れないです。

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桜とヤマネコ?

桜は、バラ科サクラ属サクラ亜属 Prunus subg. Cerasus またはサクラ属 Cerasus に分類される樹木の総称です。

桜(サクラ亜属)は北半球に広く分布し、ヨーロッパから西シベリアにかけて3種が分布しています。

また、東アジアに3種、中国には33種のサクラ亜属が分布してると報告されています。

 米国初代大統領のジョージ・ワシントンが、父親の桜の木を切り倒したことを正直に名乗り出たというエピソードがありますね。

 19世紀はじめの作り話だそうですけど。

北米大陸には、我が国にもあるウワミズザクラに近いような種類や、常緑の種類などはあるが、これらは、日本人の持っている桜の概念からかけ離れた種類ばかりです。

アメリカの桜は、ヨーロッパのものが移植されたと考えるべきでしょう。

ついでにいうと、サクラ属にはサクラ亜属、ウワミズザクラ亜属の他に、スモモ亜属、モモ亜属、ウメ亜属、ニワウメ亜属があります。

ちなみに、ワシントン特別区のポトマック川に植えられている桜は、日本から贈呈されたものなので、「日本の桜」といえます。

 韓国では、桜は済州島起源とする議論が出ていますね。

桜の原産地はヒマラヤ近郊、現在のトルコからイランにかけての地域とされています。

だからこそ、日本語では「サクランボ」ヨーロッパではセイヨウミザクラの果実が、「チェリー」としてもてはやされているのです。

セイヨウミザクラという以上、東洋系のミザクラもあります。

中国には昔から華北・華中を中心に、中国桜桃(シナノミザクラ, Prunus pseudocerasus)や唐実桜(カラミザクラ)があります。

口に含んで食べることから、一名を含桃といいます。

漢の時代に編纂された礼記『月令』の仲夏(旧暦5月)の条に、「是月也,天子乃以雛嘗黍,羞以含桃,先薦寢廟」との記述があるから、桃よりは新しいのでしょう。

もっとも、花を鑑賞する品種の桜では、実は大きくなりませんけどね。

イランやトルコが原産だから、遠隔地である上に島国の日本に桜があることのほうが、むしろおかしいのです。

いったい、何が原因で、日本に桜が伝来したのかは分かりません。

一方サクランボの方は、何時頃伝わったか、わかっています。

江戸時代に清から日本に伝えられ、西日本でわずかに栽培されています。

これは、材が家具、彫刻などに使われ、暖地桜桃とも呼ばれます。

「桜桃」という名称は、中国から伝えられたものでです。

日本で食べられているサクランボの大半は、セイヨウミザクラです。

セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルによって北海道に植えられたのが始まりだとされます。

その後、北海道や東北地方に広がり、各地で改良が重ねられました。

 サクランボ、おいしいですよね。

サクランボは、桜の実という意味の「桜の坊」の「の」が撥音便となり、語末が短母音化したと考えられています。

果実をサクランボ、木を桜桃と呼び分ける場合もありますね。

生産者は桜桃と呼ぶことが多く、商品化され店頭に並んだものはサクランボと呼ばれます。

サクランボは有史以前から食べられていました。

桜桃の一種である甘果桜桃(セイヨウミザクラ, Prunus avium)はイラン北部からヨーロッパ西部にかけて野生していました。

また別の品種である酸果桜桃(スミノミザクラ, Prunus cerasus)の原産地は、アジア西部のトルコ辺りだそうです。

アントン・チェーホフの戯曲「桜の園」の舞台はロシア南西部だが、この「桜の園」は「サクランボの農園」です。

サクランボの果実は丸みを帯びた赤い実が多く、中に種子が1つあります。

品種によって、黄白色や葡萄の巨峰のように赤黒い色で紫がかったものもあります。

生食用にされるのは主にセイヨウミザクラ(Prunus avium)の実であり、調理用に酸味が強いスミミザクラ(Prunus cerasus)の実もよく使われます。

 スミミザクラとスミノミザクラは、どこが違いますか。

スミノミザクラという場合には、園芸関係が多いようですね。

 サクラ亜属の、私たちが知っているような桜は北半球に広く分布しているということですね。

ヨーロッパから西シベリアにかけて3種が分布、東アジアに3種、中国には33種のサクラ亜属が分布してると報告されています。

 これ、ヤマネコの分布と重なる部分、多くないですか。

ユーラシアオオヤマネコ、ヨーロッパリンクスとも呼ばれるヨーロッパオオヤマネコには、ヨーロッパ北部からシベリアまでを生息域とするシベリアオオヤマネコを同種とするかどうかという議論があります。

カナダオオヤマネコは、アメリカ大陸にヨーロッパから渡った可能性があります。

日本にもオオヤマネコの骨が見つかるが、現在ほとんど見かけないところを見ると、イエネコと交雑し吸収された可能性があります。

今でも、ごくまれに先祖帰りしたとみられるヤマネコ的な特徴を多く残した猫がみられるそうです。

 海に隔てられているはずの、アメリカや日本にウワミズザクラがある。

 海に隔てられているはずの、アメリカや日本にオオヤマネコがいる。

 どちらも人為的に渡っている可能性がありますね。

ウワミズザクラ(Padus grayana)は上溝桜と書く、バラ科ウワミズザクラ属の落葉高木です。

和名のウワミズザクラは、古代の亀卜、つまり亀甲占いで波波迦と呼ばれる溝を彫った板に使われた事に由来します。

北海道西南と本州、四国、九州の山野に自生し、日照と小川沿いなど湿潤した環境を好みます。

花は、北海道では6月、本州より南では5月頃に咲き、長さ10cmほどの白い総状花序は雄蘂が目立ち、ブラシのように見えます。

よく似たイヌザクラとは、花序枝に葉がつく事などで区別できます。

樹高は、約10~15mで、樹皮は、灰~褐色です。

枝は、小枝の多くは落葉後に落ち、葉は、長さ6~9cm、幅3~5cmで楕円形で先が急に細くなり、縁には鋸歯があります。

果実は、直径約8mmの卵円形の核果を付け、初夏にかけて赤から黒く熟します。

ウワミズザクラは軽くねばり強い事から建材のほか、彫刻細工、版木、道具の柄などに利用されます。

香りのよい、若い花穂と未熟の実を塩漬にした杏仁子(あんにんご)が、新潟県を中心に食用とされ、黒く熟した実は果実酒に使われます。

ウワミズザクラは古代からあったところを見れば、縄文人が持ち込んだかもしれないですね。

ウワミズザクラ属の樹皮には青酸配糖体が含まれ、ヨーロッパ諸国や米国では、この植物の樹皮を鎮咳薬などに用いるそうですよ。

アイヌ民族は、臭気のある枝を戸口に立てて、病魔を防いだといいます。

 サクラ亜属の方の桜は、何時頃でしょうね。

韓国が済州島起源を言いだしたということは、朝鮮半島経由の線が強いのかも知れません。

ただ、弥生人なのか、天孫一族なのか、そのあたりを特定するには、もっと情報が欲しいですね。

オオヤマネコの分布、とりわけ、シベリアオオヤマネコの分布とサクラ亜属の分布の妙に重なるあたり、確かに、気になります。

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伝統土木工法から中東が見える?

今、被災地の治水とガレキ処理が一気に進む技術として、吉工園の開発したブランチブロック工法が注目されています。

ブランチ(branc)hとは、枝、支流、支店、支線、分岐、などの意味、ブロック(block)とは塊などの意味します。

ブランチブロック(branchblock)とは、枝分かれした塊のことなのです。

 ブランチブロックは、論理を組み立てる場合も使いますね。

吉工園の開発したブランチブロック工法は、量産されたブランチブロックを組み上げて自然石を間に入れていくのです。

 この自然石を用いることが、今注目される理由の一つでしょ。

被災地には処分に困るほど、大量なガレキがあります。

今、沿岸被災地の多くは地盤沈下に悩む一方で、大量のガレキにも苦しんでいます。

ブランチブロック工法とは、RC2次製品「ブランチブロック」と自然石を用いて河川護岸、盛土擁壁、河川護床を構築する工法です。

RCとは、Reinforced-Concreteの略で、直訳すると「補強されたコンクリート」です。

つまり、RC構造とは、コンクリートを鉄筋で補強した構造、つまり鉄筋コンクリートのことです。

元々はヨーロッパの植木職人が植木鉢を作るときに、針金で補強したのが最初だと言われています。

そして、今注目のブランチブロックを用いた工法もまた、造園業者によって生み出されたのです。

治水とガレキ処理の両立が、本質的に可能なブランチブロック工法は、今回の大災害で活躍が大いに期待されます。

むしろ、従来の近代工法に政府がこだわるならその方が問題でしょう。

なぜなら、地元の土木や園芸の業者を大量動員して一気に仕上げることが容易な工法だからです。

 ブランチブロックさえ、納期に間に合えばいい。

費用対効果からいっても、採用しない選択の方がありえないと見えますが、いかがでしょう。

今回注目したのは、ブランチブロックで用いられた工法なのです。

 枝分かれしたブロックと自然石と言えば、日本にも聖牛(せいぎゅう)という伝統的な土木工法があるでしょ。

これらの伝統的土木工法も、長い歴史に耐え試されずみの手法です。

 しかも、適度な隙間ができるので、自然にも馴染みやすい。

単なるコンクリート護岸では、木や草が生えると脆くなっていきます。

伝統的土木工法は、自然に馴染むほど、強度が増すのです。

その上、伝統的土木工法は地面を近代的土木工法ほど神経質に均したりしない。

だが、木組みには熟練の技が求められ、短期に大規模な工事を行うには向いていませんでした。

その点、工業的に量産されたブランチブロックなら、工期の短縮は十分に容易でしょう。

伝統的土木工法は、大量の自然石を用いるので、大量にあるガレキの不規則な形はむしろ好都合なのです。

伝統的土木工法に用いられる聖牛は、牛類の一種です。

三角錐に木を組み合わせた形状で、その形が牛の角に似ていることから、聖牛と名付けられたと言われるといいます。

聖牛は主に、急流河川における水衝部に複数個配置されました。

減勢効果、導流効果が期待される透過性の水制です。

水制とは、水の流れを変えたり、勢いを弱めるために設置される河川構造物のことです。

聖牛は、川の流れを変えるために用いられる工法で、特に、河川の上流部から中流部の瀬替え、取水堰周辺、河岸部の保護に利用しました。

聖牛は、その大きさにより、大聖牛、中聖牛などがあります。

地域によっては、聖牛を「川倉(かわくら)」と呼ぶところもあります。

 たとえば山梨市では、以前は聖牛というより、「川倉」の名称で親しまれてきた。

明治初期の土木工法を記した「土木工要録」によると、川倉は大聖牛より小ぶりというから中聖牛の別名と見ても良いでしょう。

特に小河川での流れを変える時に用いられるのが、材木を四角錐に組んだ菱牛(ひしうし)です。

さらに、枠を用いることから枠類と呼ばれる構造物があります。

片枠(かたわく)は、木枠の中に玉石を入れた工法です。

河岸等の浸食を防ぐために用いられたものです。

沈枠(しずみわく)は、陸上で木枠を組み立てて、施工場所に運び、詰め石をして水中に沈める工法です。

このため沈枠と名付けられたと言われ、牛類と組み合わせて河岸部の保護などに用いるほか、水制としても利用しました。

合掌枠(がっしょうわく)は、木枠を三角形に組み詰め石をした枠です。

安定性、透水性に優れ、砂利河川や砂河川の水制に適しています。

この一連の工法、聖牛・川倉・菱牛・方枠・沈み枠・合掌枠は、信玄堤に多用されています。

そもそも、これらの伝統的水防工法には、武田信玄が創案したと言う伝承があるのです。

武田氏は、平安時代末から戦国時代の武家で、本姓は源氏とされます。

家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家なのです。

安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国には庶流がありました。

河内源氏の名族の一つとして、戦国時代には戦国大名化しました。

武田信玄として知られる晴信の頃には領国拡大し、中央の織田・徳川勢力に対抗しました。

だが、勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代にはわずかに庶家が残ったのです。

 源氏の源と言えば、水源(みなもと)の意味でしょ。

 源氏とは、治山治水に長けた人々を束ねる氏(うじ)だったという議論をしましたね。

自らを源氏の流れと名乗った徳川家康もまた、湿地帯であった江戸で一大土木工事を敢行したことは有名です。

今では系譜の信憑性を疑う議論も多いけど、当時の人々に源氏の流れを納得させた出来事の一つが、おそらく江戸の大規模な治水事業でしょう。

そして、武田氏、徳川氏、ともに出自を辿ると宗教がらみなのです。

徳川氏は、徳川家康が創始した苗字で、系図によると、ルーツは今の愛知県、かつての三河国の在地領主の松平氏に婿養子に入った時宗の遊行僧と伝えられる徳阿弥です。

武田氏も、代々諏訪大社の大祝を務めてきた諏訪氏の傍系を配下にしました。

だが、武田氏と諏訪氏も元を辿れば清和源氏の可能性があり、しかも隣国である以上、武田氏の起源に諏訪氏が全く関わっていないとは言い切れない気はします。

 武田氏と諏訪氏の争いの背後に、同族の主導権争いがあったと。

今回の話題の中心ではないので深入りしないけど、疑うのも面白いでしょ。

この源氏についても、ユダヤ人であったのではないかと言う議論をしましたね。

 源氏と八幡宮、義経と虎の巻。

 八幡宮は秦氏と繋がりが深く、秦氏にユダヤ説。

 虎の巻はユダヤ教のトーラーの巻物で、当然それを貰った義経もユダヤ。

聖牛と呼ばれる「牛枠」とは、はるか奈良時代が起源という伝統的な水防工法の一つだそうですね。

聖牛のような工法は、長江流域にまで遡るのではないかと論ずる人もいますよ。

 長江文明と言えば、中東にまで遡るのではないか、古代イスラエル人が関わっていそうだ、などと話題にしてきたでしょ。

聖なる牛の発想は古代中東に遡れるので、聖牛の名はここに由来があると説を立てる人もいます。

 もしそうなら、信玄堤も家康の江戸の治水もユダヤ人が齎した古代中東に遡る知識と技術が可能にした。

 まさか、有力大名って、元を辿ればレビだったとか。

そうだったら、面白過ぎでしょ。

証拠を固めないと。

かなり難しいけど。

追記

一つ一つのブランチブロックの形から聖牛を連想したが、六角形が連続するハニカム構造で石を包むという点から言えば蛇篭の方が近いです。

蛇籠とも書かれる蛇篭は、鉄線などを用いかごを作り、砕石を詰め込んだもので、積み上げて河川工事の護岸などに使用されます。

ちなみに、昔の蛇篭は竹を編んで作られていました。

聖牛はむしろ、用法はテトラポットに近いですね。

ブランチブロックは、石組み全体を巨大な蛇篭で包んだものと見なしたほうが良かったかもしれません。

吉工園のHPより、詳しいブランチブロック工法の説明がここ↓でみられます。

ブランチブロック工法とは ~吉村隆顕さんを囲んでの勉強会~

http://www.tml.co.jp/jv/2011/pdf/bb-yoshimura-learn-2.pdf#search=' ブランチブロック ダム'

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アサガオやムクゲやキキョウと古代イスラエル?

アサガオは、日本で最も発達した園芸植物で、古典園芸植物のひとつです。

つる性のヒルガオ科サツマイモ属の一年性植物で、葉は広三尖形で細毛を有します。

真夏に開花し、花は大きく開いた円錐形で、おしべ5、めしべ1を有します。

 でも、アサガオって、秋の季語なのよねえ…。

 なんで?

なんででしょうね。

学名をIpomoea nilまたはPharbitis nilと呼ぶアサガオは、日本原産の植物ではないのです。

日本への到来は、今から1200年ほど前、奈良時代末期に遣唐使がその種を薬として持ち帰ったものが初めとされます。

朝顔の種の芽になる部分には、下剤の作用がある成分がたくさん含まれています。

朝顔の種を乾燥させたものは、漢名では「牽牛子(けんごし)」と呼ばれ、奈良時代、平安時代には薬用植物として扱われていたです。

中国の古医書「名医別録」では、牛を牽いて行き交換の謝礼したことが「牽牛子」の名前の由来とされているそうです。

和漢三才図絵には、4品種が紹介されているとのことです。

アサガオの別名は、牽牛花、蕣(しゅん)です。

 牽牛花は、漢方の牽牛子からね。

蕣(しゅん)は、ムクゲのことです。

 アサガオの花は大きく開いた円錐形でしょ。

 ムクゲの花は、一見似ているけど一重だったり八重だったりするじゃないの。

ところが、古代はアサガオもムクゲも、混同されていたことが分かっています。

そこで、遣唐使が初めてその種を持ち帰ったのは、奈良時代末期ではなく、平安時代であるとする説もあります。

この場合、古く万葉集などで「朝顔」と呼ばれているものは、今で言うアサガオではなく、キキョウあるいはムクゲを指しているとされます。

 そういえば、キキョウには、万葉集のなかで秋の七草と歌われている「朝貌の花」であると言う説があると聞いた覚えがある。

ムクゲも、アジアと日本に分布がまたがっているあたりアサガオに似てます。

キキョウは多年性草本植物で、山野の日当たりの良い所に育つのです。

キキョウは、日本全土、朝鮮半島、中国、東シベリアに分布するので、アジアでの分布は、ほぼアサガオと重なりますね。

アサガオの異なる系統間の雑種第一代は、青い丸咲きで並葉とも呼ばれる3つの尖った翼片をもつ常葉になるそうです。

このような青い丸咲きの特徴は、日本に渡来した当初のアサガオに近いと考えられています。

日本のアサガオの起源を探る試みは、様々な人によって行われています。

世界中から地域品種が、採集されたというのです。

そして中国で採集された北京天壇系統が、最近の遺伝子解析によって日本のアサガオに最も近いという結果だったのです。

 中国からもたらされたとされる記録とも、一致しているね。

さらに、アフリカ系アサガオは、どの系統よりもアサガオ近縁の植物に近いことも明らかになってきたと言うのです。

アサガオは本来アフリカなどの熱帯起源であり、これがアジアなど全世界に広がっていったと考えられるそうです。

 アフリカから出てアジアなど全世界に広がっていったあたり、エジプトを出てからアジアなど全世界に広がっていった古代イスラエルに似てますね。

ただ、日ユ同祖論とからめるには、弥生時代や古墳時代にまで日本のアサガオは遡れる証拠が出土しないことには難しいですね。

 特に古墳時代は、天孫一族が失われた十支族という議論がある以上、その時代の遺跡から見つからないことには、ちょっときついかもね。

でも、失われた十支族とアサガオの関連がもし見つかれば、確かに面白いですね。

 ムクゲやキキョウも、失われた十支族となんらかの繋がりは、ないのかしら。

アサガオやムクゲやキキョウ、古代イスラエルに繋がる情報が見つかったら興味深い展開になるかもしれないですね。

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弥生人はやはり神武東征と関係あり?

神武に率いられた天孫一族の東征のたどった道と、弥生人となった渡来人のたどった道は、面白いほど重なってくることが考古学によって明らかにされてきたようです。

しかも、東に向かおうとする弥生人となった渡来人と先住民であった縄文人の間で、争いがあったことを示す人骨も見つかっているといいます。

 でも、争った後のある人骨はほとんどが西日本でしょ。

東日本には生い茂る森林にはばまれて、手前で止まらざるを得なかったと見られています。

東日本の縄文人たちは、今見ても優れた伐採能力を持つ石斧で木々を伐採していました。

硬い木の枝と幹の部分をたくみに生かし、石斧を木をくりぬいてソケット状にして取り付けていたのです。

しかも、わざとソケット状にくりぬいた一部を欠けた形にしたり、石斧との段差を極力なくす加工を施していたのです。

 縄文人たちは、その優れた石斧と、大きな石を加工して作った石の鍬でどんどん木々の生い茂る土地を開墾していたのでしょ。

ええ、弥生人はそういう土地を切り開くための道具や技術を持ってなかったのです。

そこで、東日本への進出は現地の縄文人を味方につけざるを得なかったのです。

 一方、東日本の縄文人たちも、水田の高い生産力に魅力を感じていたのでしょ。

弥生人たちの土地へと、東日本の縄文人たちは距離をものともせずに進出して、水田技術を身につけようとしていた痕跡は数多く見つかっているのですって。

 その水田の技術は、長江の下流域で生まれたのでしょ。

そう考えられていますね。

そして、中国が春秋から戦国時代のころ、多くの人々は国外に脱出し、その一部が日本に来て弥生時代を開くことになる。

 当然、森林を切り開く道具や技術を手にしてない人たちよね。

だから深い森に囲まれた東日本の縄文人たちの世界は、弥生人にとってまったくお手上げだったのかも。

長江下流域から朝鮮半島にかけて、海を越えてやってきた人たちの集合体から、弥生人は成立したようですから。

 そうなると、徐福が不老不死の仙薬を求めて蓬莱山を目指して船出したころと、近くありませんか。

中国から徐福が神武になったと言う説が出ても、おかしくないのは事実かもね。

東日本縄文人たちの技術水準の高さを知って、弥生人たちは味方につけた方が得と判断したのかもしれませんね。

 そういえば、縄文時代も末期になると、朝鮮半島南端の地域から水田技術を持ち帰った人たちがいたとか。

ええ、ごく一部にとどまったようですけどね。

 稲作をしていた縄文人の多くは、熱帯ジャポニカを焼畑に直播きだったわけでしょ。

弥生人と西日本縄文人は、農地を巡って争ったのかも知れないですね。

 焼畑と水田、農地の利用法はまったく違うわけですからね。

それに対して、東日本では 弥生人たちは西日本のときと異なり、ほとんど争おうとはしていなかったようなのです。

そこで、こういう疑問が起きます。

神武とは、弥生人の指導者であったのではないか。

縄文人と弥生人の和解こそ、ニギハヤヒと神武の和解の正体だったのではないか。

 可能性はありますね。

さらに、『古事記』では倭建命と表記される日本武尊は、西日本ではさまざまに策を巡らして戦った記述があるのに、東日本では奇妙なほど戦いの記述が減るのです。

これも、弥生人の東日本進出が平和的に縄文人の協力を取り付けてなされていった考古学の情報と、面白いほど重なっていくのです。

 縄文人は、野焼きしたあとに熱帯ジャポニカを直播きしていたと見られているね。

米を作った証拠はあるのに、水田は見つかっていないですからね。

東日本への温帯ジャポニカの進出は、熱帯ジャポニカとの雑種から生まれた早稲によって可能になったことが分かって来たといいます。

熱帯ジャポニカも水田で育てられ温帯ジャポニカとの雑種ができることは、実験で確かめられています。

 熱帯ジャポニカの栽培に慣れた東日本縄文人の協力なくして、実行は難しかったかも。

記紀の記述に従えば、神武は弥生時代に遡ってしまうのだけれど、最新考古資料と照らし合わせると、神話と笑い飛ばせなくなってくるのです。

神武に始まる弥生王朝の存在は、事実と考えるべき方向に向かっていくのではないでしょうか。

 じゃあ、神武王朝最後の天皇は、だれかしら。

仁徳以前に、神の付く名前の天皇が三人もいるのに、仁徳以降はいないのはなぜでしょうか。

 そういえば、皇后にも、仁徳以降には神が付く名前は見えないかも…。

ここから想像できる弥生王朝最後の天皇は、応神であったのかもしれないですよ。

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お茶について思ってみた。

日本語や中国語で茶と呼ばれるチャノキの葉や茎を加工して作られる飲み物は、世界的に広まっているのです。

 英語でtea、イタリア語やスペイン語でTé、フランス語でThé、などの名前で知られているでしょ。

チャノキの原産地は中国南部とされているが、確かなことはわかっていないのです。

世界で茶を意味する語の起源は、「チャ」系統のものと「テー」系統のものがあるとされるのです。

「チャ」は、主に陸路で伝わったです。

大航海時代以降の伝播では、中国語のうち、広東語での呼び名であるチャ(ch'a または ts'a )とかチャーまたはツァーに由来するものと、福建省厦門(アモイ)地方の方言(ミン南語)での呼び名のテー(te または tei )に由来すると考えられるのです。

ポルトガルが広東省のマカオから茶を運んだため、ポルトガル語でも「チャ」の発音が見られるのです。

ただし、ポルトガル語でchá の発音は「シャ」なのですけど。

また、オランダがアモイから茶を運んだため、オランダから茶を輸入した国では「テ」の発音が定着し、テは海路で伝わったと言われます。

茶を意味する単語をもつ言語で、この両者の系統に属さないものは極めて珍しいですね。

日本語の茶の字音は呉音「ダ」、漢音「タ」、唐音「サ」ですね。

「チャ」という音は院政時代の『色葉字類抄』から見られ、漢音と唐音の間の時期に流入したと考えられるのです。

また、朝鮮語漢字音も「タ」と「チャ」があるが、植物・飲料の茶だけを指す場合、「チャ」を用いるのです。

チャノキ以外の植物の葉、茎、果実、花びら、等の部位や真菌類・動物に由来する加工物から作られる飲み物にも、「茶」もしくは「○○茶」と称するものが数多くあるのです。

 広義では、それらは全て「茶」に分類されるのね。

そうですね。

チャの木、あるいは茶樹とも記されるチャノキ(茶の木)は、学名をCamellia sinensisといい、ツバキ科ツバキ属の常緑樹です。

単にチャ(茶)と呼ぶこともあるのです。

漢字の「茶」は、中唐以後に成立した字です。

中唐までは、「荼(ト)」と表記されていたのです。

「荼」は草本植物を表す草冠と、「苦い」ことを意味する「余」からなり、本来は苦い味のする植物であるニガナを指す字です。

ニガナ(苦菜)は学名をIxeris dentataといい、キク科の多年草です。

路傍や田畑や山野にごく普通に生え、環境によりさまざまな形になるようです。

日本全土、東アジアの温帯から亜熱帯にかけてみられるのです。

沖縄県ではホソバワダン(細葉海菜)の葉をニガナ(ンジャナ)の名で食用としているから、混同しそうですね。

ホソバワダン(細葉海菜)の学名はCrepidiastrum lanceolatumで、ニガナと同じキク科の多年草だから勘違いされそうですね。

近縁種のワダン(C. platyphyllum)より葉が細いことから、ホソバワダンの名があるのです。

ホソバワダンは、島根県や山口県の日本海側から沖縄、朝鮮半島南部さらに中国の海岸の岩場から山裾にかけて生育するのです。

 「荼(ト)」は、苦い味の植物一般をさしたのかしら。

そうでしょうね。

おもしろいのは、茶もニガナも、日本人の祖先と関わりが深い地域の植物なのですね。

茶は、原産地の雲南方面から四川・江南へと長江流域に広まるにつれ、デャあるいはテャのような発音に荼字を当てて使うようになったと推定されているのです。

 雲南方面から四川や江南へと長江流域、弥生文化の源流と考えられている地域ね。

陸羽が『茶経』を著して、「荼」を1画減らして区別することが広まったと言われます。

『茶経』には「茶」「檟(カ)」「蔎(セツ)」「茗(メイ)」「荈(セン)」の5種の名の他にも当て字もあって、それらも合わせると10種以上の字が使われていたというのです。

「茗」に関しては、現代中国語でも茶を総称する「茗茶」という言い方が残っているそうですね。

 中唐といえば、中国唐代の皇妃の一人に、玄宗皇帝の寵姫として有名な楊貴妃がいるのね。

姓は楊、名は玉環で、貴妃は皇妃としての順位を表す称号です。

中国の暦で開元7年から至徳元載(元年)6月16日の人というから、西暦で言えば719年から756年7月15日にあたります。

 楊貴妃の出身の蜀は、まさに弥生文化の源流と考えられている雲南方面から四川や江南へと長江流域とある程度重なるでしょ。

漢字の「茶」が中唐以後に成立した字であること、チャノキの原産地は中国南部とされていることと、ほぼ重なるのは注目して良いでしょうね。

ただ、雲南においては茶は多くの場合に草として調理され食べられるものであり、湯に入れてだし汁を飲むように改良したのは、煎じ薬の伝統を持つ漢人であろうと見られているのです。

 そういえば、茶葉を食べてる人、今の日本にもいるのね。

 苦い植物で、草として調理して食べられたといえば、蓬(よもぎ)があるのね。

蓬は、日本全国で自生している学名をArtemisia indica var. maximowicziiという、キク科の多年草ですね。

 別名はモチグサ(餅草)、草餅にして食べるからかしら。

蓬は、春につんだ新芽を茹で、おひたしや汁物の具、天ぷらにして食べることもできます。

 ヨモギといえば、聖書のニガヨモギを連想するのね。

 日本人の遺伝子に残る古代中東の特徴と、日本人のお茶好き、関係あるのかな。

どうでしょうね。

 そういえば、蜀について古代エジプトと関係ありそうだと考察したことありましたね。

 蜀に火偏で燭台の燭になるところから、火を灯す前の燭台であるユダヤの象徴とされるメノラーも連想できた。

日本のお茶好きは、ユダヤのニガヨモギに遡るのではと、言いたいのですか。

日ユ同祖論が、食いつきそうですね。

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ジャック・オ・ランタンを考える。 猫とカボチャの不思議な関係 その2

猫とカボチャの不思議な関係を、以前考えたことがありました。

 猫を殺して埋めたら、その猫の口から毒のある南瓜が生えたという話で、殺した者に喰わすために猫の執念から生えたものだという話でしょ。

ええ。
口や目など、猫の頭からという話が多いようです。
このパターンは、猫南瓜という怪異のジャンルの一つにまでなっていたのです。

同様の話は、和歌山県西牟婁郡など各地方に見られるというのです。

調べていくと神奈川県横須賀市浦賀には、南瓜ではなく胡瓜がなったという話があるそうです。

 南瓜、胡瓜、どっちも瓜科ねえ。

胡瓜には、胡瓜封じの風習があるでしょ。

 そして、胡瓜と言えば河童。

南瓜には、ハロウィンのジャック・オ・ランタン(Jack-o'-Lantern)に使う風習があるでしょ。

 ジャック・オ・ランタンは“ランタン持ちの男”を意味し、ジャックランタンとも呼ばれますね。

ジャック・オ・ランタンは、アイルランドやスコットランドに伝わる鬼火のような存在だそうです。

普通の火の玉の姿の他、光る衣装を身に纏うカボチャ頭の男の姿であらわれる事もあるというのですよ。

 生前に堕落した人生を送ったまま死んだ者の魂が、死後の世界への立ち入りを拒否された姿と聞きましたが。

悪魔からもらった石炭を火種にして、萎びて転がっていたカブをくり貫いて作ったランタンに入れたと言うのが元の話だそうです。

そのカブのランタンを、片手に持って彷徨っている姿だとされているのですね。

こんな話もあります。

悪賢い遊び人が悪魔を騙し、死んでも地獄に落ちないという契約を取り付けました。
ところが死後、生前の行いの悪さから天国へいくことを拒否され悪魔との契約により地獄に行くこともできず、カブに憑依し安住の地を求めこの世を彷徨い続けている姿だともされているのです。

 この話は、ウィル・オ・ザ・ウィスプと呼ばれる世界各地に存在する、鬼火伝承の名の一つとされますよね。

ウィル・オ・ザ・ウィスプ(Will o' the wisp)は、ウィルオウィスプとも呼ばれる世界各地に存在する、鬼火伝承の名の一つですね。
「一掴みの藁のウィリアム」の意味で、この藁は松明に使われたところから「松明持ちのウィリアム」と訳されることもあるのです。

 ウィル(Will)は、ウィリアム(William)の通称ね。

ウィル・オ・ザ・ウィスプは墓場などに出没し、近くを通る旅人を危険な道へと誘うとされます。

 日本の人魂みたいねえ。

ウィル・オ・ザ・ウィスプの正体は、死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続ける、ウィリアムという名の男の魂だというのです。

ウィルの生前は、極悪人だったそうです。

遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きをいい渡されそうになった所を、言葉巧みに聖ペテロを説得し、再び人間界に生まれ変わるのです。
しかし、第二の人生もウィルは悪行三昧で、また死んだとき死者の門で、聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかり通らん」と煉獄の中を漂うことになるのです。

それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィルに明かりとして渡したのです。
この時にウィルは、この石炭の燃えさしを手に入れるのです。
そして、その石炭の光は人々に鬼火として恐れられるようになったそうです。

 ジャックはよくある男の名前なので、アイルランドやスコットランドではジャック・オ・ランタンとなったのかしら。

どうでしょうねえ。

ジャック・オ・ランタンの話がアメリカに伝わったのち、カブのランタンは、移民したアイルランド人によりアメリカでの生産が高かったカボチャのランタンに変化したというのですね。

スコットランドでは、現在もルタバガというカブを使っているそうですよ。

この他、毎年10月31日のハロウィンの日に作るカボチャのロウソク立てをジャックランタンと呼び、善霊を引き寄せ、悪霊達を遠ざける効果があるといわれているのです。

ジャックランタンは、旅人を迷わせずに道案内をする事もあるというのです。

 罪人と炎と言えば、火車(かしゃ)を連想するのよね。

火車には、猫又が正体という説があるのですね。

 猫と南瓜は、火車が間に入って繋がっていくのかしらね。

可能性は、疑う余地がありそうですね。

ここで気になるのは、ウィル・オ・ザ・ウィスプの火には水面の上にしか現れないとする伝承もあるそうなのですよ。

 水面で火が現れると言えば、キジムナーがいるのよね。

 キジムナーは、河童の仲間。

天狗火(てんぐび)もあるのですよ

天狗火は、神奈川県、山梨県、静岡県、愛知県に伝わる怪火です。

主に水辺に現れる、赤みを帯びた怪火です。

その名が示すように、天狗が超能力によってもたらす怪異現象のひとつとされるのです。
神奈川県や山梨県では川天狗の仕業とされるのです。
夜間に山から川へ降りて来て、川魚を捕まえて帰るとも、山の森の中を飛び回るともいうのです。

人がこの火に遭遇すると、必ず病気になってしまうといわれているのです。
そのため、土地の者はこの火を恐れているそうです。

出遭ってしまったときは、即座に地面にひれ伏して天狗火を目にしないようにするか、もしくは頭の上に草履や草鞋を乗せることでこの怪異を避けられるというのです。

 近くを通る旅人を危険な道へと誘うとされる、ウィル・オ・ザ・ウィスプと似てますね。

一方、天狗火が人を助けたという民話もあるのです。

天狗火が人を助けた話は、愛知県豊明市などに伝わっているのです。

昔、尾張国東部のある村で、日照り続きで田の水が枯れそうなとき、川から田へ水を引くための水口を夜中にこっそり開け、自分の田だけ水を得る者がよくいたそうです。

村人たちが見回りを始めたところ、ある晩から炎の中に天狗の顔の浮かんだ天狗火が現れ、水口を明るく照らして様子をよく見せてくれるようになりました。

水口を開けようとする者もこの火を見ると、良心が咎めるのか、明るく照らされては悪事はできないと思ってか、水口を開けるのを思い留まるようになり、水争いは次第になくなったというのです。

また、こんな話もあります。

愛知県春日井市の民話では、ある村人が山中で雷雨に遭い、身動きできずに木の下で震え上がっていました。
すると、どこからか天狗火が現れ、おかげで暖をとることができた上、道に迷うことなく帰ることができたというのです。

 旅人を迷わせずに道案内をする事もある、ジャックランタンと似てますね。

しかしこの村では天狗火が見える夜に外に出ると、その者を山へ連れ去ってしまうという伝承もあるのです。
ある向こう見ずな男が「連れて行けるものならやってみろ」とばかりに天狗火に立ち向かったところ、黒くて大きな何かがその男を捕まえ、山の彼方へ飛び去っていったというのです。

 アイルランドやスコットランドといえば、ケルトの土地でしょ。

 そのケルトの地と日本に似た話があって、ブリテッシュに似た顔がいると幕末の日本を知る欧州人が報告してる。

 アメリカで、イギリスと日本両方に似た顔の古代人骨が出た。

 偶然にしては、出来過ぎ。

そうですね。

私が気になるのは、猫南瓜の話に河童と天狗が絡んでいそうに見えることですけどね。

 さらに、ウィル・オ・ザ・ウィスプやジャック・オ・ランタンも絡んでいそうよ。

想像以上に、猫南瓜は奥が深そうですね。

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胡瓜封じ

夏の暑い盛りに行われる「胡瓜封じ」は、病気・病弱の人や、病気予防に病の邪気を、真言密教の法にて加持祈祷し胡瓜に封じ込めるという「夏越しの祈祷会」です。 

 日本で始めたのは、弘法大師でしたね。

弘法大師は一切衆生の病苦、悪業の根を断ち切って、病苦を和らげ、業病、難病からのがれ、丈夫で長生きし、安楽に往生できるようにとその願を込め不動尊を祀りはじめたのです。

そして、胡瓜封じの秘法を残したのです。
これは、薬では治せない病気を治してしまうとされているのです。

 恋の病は、無理でしょ。

当然ですね。

胡瓜は、一本が一人分です。

 家族が多いと、何本も要るのでしょ。

祈祷してほしい人数分だけ、要るのです。

胡瓜封じを行うには、まずお寺で胡瓜をいただいて、お加持が済んだら胡瓜をいただくのです。

 食べるわけではない。

食べないですよ。

「胡瓜封じ」は、胡瓜を我々の身代わりに見立て、我々の邪気や病根を護符と共に胡瓜に封じ込み、胡瓜に持ち去って頂こうとする呪術です。

胡瓜に護符を埋め、加持をしてもらった胡瓜を家に持ち帰り、自分の悪いところを3日間その胡瓜でご真言を唱えながら撫でるのです。
そして、4日目の朝に疫を移しとった胡瓜を、川に流すか、人の踏まない清浄な土に埋めるかして悪いものを祓うのです。

川に流すか土に埋めるかして封じた胡瓜は、速やかに消滅し、病気や邪気が消滅することを願う呪物なのです。

 流し雛と似てる。

 流し雛は、埋めないけど。

人形(ひとがた)は、意識しているでしょうね。

胡瓜が人間の立った姿に似ていることと、胡瓜を輪切りにした切り口が転法輪に似ていることから、胡瓜に封じると言われるのです。

「転法輪」とは、仏具の一種で、仏陀とされる釈迦が法を転じる教えを説法している姿をシンボライズしたものです。
胡瓜の中に転法輪が有ると言うことは、胡瓜が仏陀そのものであり、我々の身代わりとしてはこれ以上のものはないとされているのです。

また、仏陀に救いを求める意味も大きいと言われるのです。

 胡瓜には、お盆にも出番があるでしょ。

茄子の牛とともに胡瓜の馬が、そなえられるのですよね。

彼岸より胡瓜の馬で早く来て、此岸より茄子の牛でゆっくり帰ってほしい、そういう思いの表現とされているのです。

 でも、胡瓜封じでは胡瓜を人に見立てたでしょ。

一説には、「精霊が胡瓜の馬に乗り、牛には荷物を乗せて楽に帰れるように」という意味が込められているとも言われているのです。
確かに、定説がないですね。

 厄払いの人形(ひとがた)には、案山子のような天児(あまがつ)と這い這いする赤子を模った布の人形(ひとがた)の這子(ほうこ)があるでしょ。

 茄子の牛と胡瓜の馬というけど、実は這子と天児とではないでしょうか。

 盆は、霊の彼岸と生の此岸の境が開くでしょ。

そういえば、精霊馬といって胡瓜や茄子で動物を模るけど、精霊牛とは言わないですね。

 つまり、茄子も胡瓜も、本当に意味しているのは、馬ではないのかしら。

茄子の色は紫だけど黒にもみたてられ、胡瓜の色は緑だけど黒のほか青にもみたてられるのです。

牛は丑に通じて、ほぼ北に近い解釈をされるのです。

馬は午に通じて、南に配されるのです。

もし、茄子も胡瓜も馬、つまり南に配される午とすれば、まさに子午線を表すですね。

 西に配される白は、陰の色でしょ。

 茄子も胡瓜も、切れば中は白が見える。
 陰に配される白も、あるでしょ。

となると、胡瓜封じは陽の青と陰の白で、滅びと復活の呪術である禊になるのです。

 禊は、清めの儀式でしょ。

ええ。

さらに、茄子と胡瓜の精霊馬は東西南北の十字が表現されるのです。

 茄子の紫と胡瓜の緑が北の黒、また、胡瓜の緑は東の青でもあり、茄子と胡瓜の切り口の白が西、精霊馬の馬は午に通じ南、ですね。

陰陽で陰の厄払いの呪術とされる、十字切りが隠された儀式が精霊馬なのかも。
 
 悪しき霊を退けながら、祖霊を安心して向かえる呪術が精霊馬の目的なのかしら。

 厄を精霊馬に乗せて、祖霊や神仏に持ち去ってもらいたいという思惑もあるのでは。

ありえるですね。

 人の苦しみを背負って犠牲になり、十字を切られる、まるでイエスでしょ。

イエスも、胡瓜にたとえられたら苦笑してるかも。

 そういえば、昔の胡瓜は苦味が強かったと聞きますよ。

果柄に近い肩の部分、胡瓜のヘタにククルビタシンと言う配糖体である炭水化物が含まれるのです。
このククルビタシンが酵素・エステラーゼによってアグリコンと言う物質になり、苦みをだすと言われます。

ククルビタシンはいくつかの 種類があるが、その中の一種は抗腫瘍作用があり、毒性も少ないことが知られてます。

今の胡瓜にはこのククルビタシンが含まれていないので、昔の様に苦い胡瓜が姿を消したのです。

なお、窒素肥料を多くやり過ぎたり、成熟期に高温で乾燥した気候が続くと、時には、昔懐かしの苦い胡瓜にお目にかかれます。

 この苦さで思い起こすのが、ニガヨモギですね。

ヨハネによる黙示録には、こうあるのです。

第三の御使いが、ラッパを吹き鳴らした。
すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。
そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。
この星の名は、ニガヨモギと言い、水の三分の一がニガヨモギのように苦くなった。
水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ…。

もっとも聖書に出てくるニガヨモギは、どうやら学名Artemisia judaica だとする説が有力です。

Artemisia absinthiumと近縁の植物だが、別種です。

こんな胡瓜に、厄除け呪術があるのは面白いですね。

 胡瓜属するウリ科の食物は、薬膳では利尿作用があるでしょ。
 
 それに、熱を取り除く作用がある。

 つまり、暑気あたりに効くの。

 そう言った薬効と胡瓜封じの祈祷は、少なからず関係しているのじゃないかしら。
 
 人の形に似ている野菜は、他にもあるもの。

なぜ、大根や人参でなく、胡瓜かってのは、確かに不思議です。

 胡瓜は河童にも絡む、奇妙な作物ですねえ。

木瓜(もっこう)紋は、その名のとおり木瓜(ぼけ)の花の図案化とされるほか、胡瓜の切り口の図案化といわれます

実際は木瓜紋の名は日唐貿易の際、唐から輸入された御簾(みす)や御帳(みちょう)の周囲にめぐらした絹布の帽額(もこう)に付けられていた文様だったことによるそうです。

帽額は、帷(かたびら)のように表面に襞をとりながら掛ける、御簾の上部、上長押(うえなげし)などで横に長く引きまわされている一幅の布で、額(ひたい)の部分に当たる横幕のことです。

 胡瓜の切り口は、さまざまな宗教などにかかわる文様と似てますね。

どっちが先かはともかく、こんなところも、胡瓜と厄除けがつながる理由になっているのかも。

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