ロシア

蕎麦と日本人の長いお付き合い。

蕎麦は、日本では、麺として細長く切るだけでなく、蕎麦掻きとして食べることもあります。

蕎麦掻き(そばがき、蕎麦掻)とは、蕎麦粉を使った初期の料理であり、蕎麦が広がっている現在でも、蕎麦屋で酒の肴とするなど広く食されています。

蕎麦切りとも呼ばれる蕎麦のように細長い麺とはせず、塊状で食する点が特徴です。

 

日本の蕎麦の歴史は古く、5世紀の文献にあらわれるが、縄文土器から蕎麦料理を食べていた形跡が発見されている程です。

蕎麦掻きは鎌倉時代には存在し、石臼の普及とともに広がったと見られています。

蕎麦料理は、江戸時代半ばまでは蕎麦掻きとして食べられていたが、江戸中期頃には麺状にした「蕎麦切り」が庶民の生活に広がり、日本全国に広がっていたようです。

なお、17世紀ごろ蕎麦切りが禁じられていた農村が多かったようで、これらの農村では蕎麦掻きや蕎麦もちが食べられていたといいます。

蕎麦もちとは、蕎麦粉を団子にしてたき火で焼いたものです。

今でこそ酒の肴となっている蕎麦掻きは、当時の農村では、ご飯の代わりとして雑穀や根菜を混ぜたり、鍋料理に入れるなど食べごたえのある形に調理されたものが多かったようです。

 

縄文にさかのぼれる蕎麦も、都の上流階層である貴族や僧侶からは食べ物として認識されていなかったらしいです。

鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、藤原道長の甥で平安時代中期の僧・歌人である道命が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記してるといい、鎌倉時代まで都の上流階層には蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言えそうです。

 

この事実は、当時の支配階層となった人々の出自は蕎麦食文化圏ではない可能性を示しているとみえ、興味深いことです。

 

日本や朝鮮や中国では麺として食べられている食材としての蕎麦は、スラブ系の国々ではカーシャとしてお粥のように食べられたり、フランスのガレットとして食べられています。

とはいえ蕎麦は、小麦粉で作られる饂飩などパスタの仲間と違い、他の地域ではあまり食べられていません。

 

スラブ系の国々で食べられているカーシャは、アメリカ合衆国では、面白いことに東欧ユダヤ系のソバの実の料理として知られています。

挽き割りのソバの実をセロリ、タマネギ、卵などと炒めてからスープで炊いたもので、お粥よりも水分が少ないのが特徴です。

蝶ネクタイ型のパスタが入ると、「カーシャ・ヴァーニシュケス」と呼ばれます。

 

ガレットはフランス北西部の郷土料理である料理・菓子の名称で、「円く薄いもの」を意味するが、特にそば粉のガレットを指すことが多いそうです。

ガレット・ブルトンヌ(ブルターニュ風ガレット)は、フランスのブルターニュ地方発祥の、そば粉で作られるガレットであり、主に小麦粉で作られるクレープのもとになった料理です。

そば粉・水・塩などを混ぜて寝かせた生地を熱した平鍋またはガレット調理専用の鉄板に注ぎ、こてで薄い円形に伸ばし、正方形に折りたたんで完成となります。

 

中国が原産の蕎麦は、やせた土地でも冷涼な地域でも乾燥した土地でも育ち、しかも育ちが早いので早く収穫できることから、世界中で作られています。

中国が原産ですが、東アジア・チベットも含め中央アジア・中東さらにはヨーロッパまでが主要な産地です。

生産量で言うと、たぶん世界一はロシア次いで中国、旧ソ連のウクライナで、東欧のポーランドも生産が多いし、フランスでもイタリアでも、南アフリカでも栽培しています。

ただし南アフリカは白人の入植地としてはじまったことを思えば、蕎麦の栽培はヨーロッパ由来の可能性が大きいかもしれません。

 

それとあまり知られていないが、最近ではカナダやアメリカでも栽培がされています。

 

蕎麦の栽培地の多くがやせた土地であることを思えば、平安時代の都の上流階層が蕎麦を知らないということは彼らの出自となった地域が肥沃であったことを物語っています。

 

騎馬民族征服王朝説も含め放牧民が天孫族の正体とする見方と合わせると、放牧は牧草の自生地を渡り歩くことになるので、腰を据えて蕎麦を育てる必要のあるやせた土地を避けてきたことになって、蕎麦を知らないのもある意味当然ということになるでしょう。

 

これは、蕎麦を栽培せざるを得ない地域を通ってきた日本先住民と、肥沃な土地を渡り歩いてきた天孫族という構図が見えてくるということかもしれません。

 

もしそう見てもいいなら、中東から地中海沿岸特にヨーロッパ側を通って、アメリカを横断し太平洋を横切ってきた縄文人が過去にたどってきた地域で知った蕎麦を栽培したのでしょうか。

例外はあるものの、蕎麦食文化は縄文文化の影響が強い東日本に中心に根付いたことは面白いです。

 

蕎麦は、もともと米や小麦が育ちにくい寒冷地で代替食として育てられていたものなので、比較的気候の温暖な関西以南ではうどんが主流になったと考えられるので、縄文と蕎麦を結びつけて論じるのは物事を単純化しすぎた一面的な議論との反論もあるでしょう。

 

だが、縄文とヨーロッパやアメリカの繋がりは見えるが、アジアとの繋がりは弱いように見えるのです。

 

縄文土器は日本とアメリカからは出るが、類似を指摘されるものは今のところ他には古代エジプトくらいのものなのです。

 

縄文の周辺を探れば、アメリカ出土の人骨の傍にフランスとスペインの様式の矢じりがあり、しかも当初イギリス人と見間違えられたエピソードもあります。

実際、縄文人の骨でDNAを見るとヨーロッパ人と別れた頃の原アジア人に近いのです。

現日本人をヨーロッパよりに大きく引っ張っているのが、限りなくヨーロッパ人に近い縄文人なのです。

縄文人がアジアよりヨーロッパに近いことは、日本がヨーロッパの遺伝子病の飛び地であることからも、裏付けられるのです。

 

蕎麦の歴史から、日本人のルーツにまで話が行ってしまいました。

 

蕎麦は調べてみればもっと興味ひかれる話題がありそうですが、長くなりそうなのでひと休みしますか。

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モンゴロイド

DNA分析の成果によれば、現生人類発祥の地はアフリカにあるとされます。

人種間の遺伝的距離を計ると、人類集団はアフリカ人であるネグロイドと西ユーラシア人であるコーカソイドのグループ、およびサフール人と呼ばれるオーストラロイドと旧来モンゴロイドとされた東南・東アジア人によって構成される東ユーラシア人と南北アメリカ大陸に住むインディアン、エスキモーのグループの2つのグループに大別することができるとされます。

 そのうちのネグロイドは、現生人類の祖の直系の子孫とされますね。

黄色人種、モンゴル人種とも言うモンゴロイドは、形態人類学上の「人種」概念の一つです。
人種とは、ヒト・人間を分類する用法の1つで、生物学的な種や亜種とは、異なる概念です。
現生するヒトは、遺伝的に極めて均質であり、種や亜種に値する差異も存在しません。

肌の色はヒトという種の集団の分化の過程で選択圧を受けやすく最も短期間に変化する形質の一つであり、肌の色の類似または相違でいわゆる「人種」を区別することはできません。
肌の色を発現させる遺伝子についても、肌の色と同様いわゆる「人種」を区別することはできません。

 人種は混血可能な点で、イエネコのネコ種に近いわけですね。
 ネコ種によって外見の差はあっても、子供が出来ない組み合わせはないですから。

モンゴロイドの身体的特徴としては、目の下に蒙古襞(もうこひだ)というシワがある、鼻が低く獅子鼻、髭が薄い、歯が黄色い、顔以外では、蒙古斑といって乳幼児のお尻が青い、などが挙げられています。
ただし近年、蒙古斑は程度の差こそあれ、コーカソイドやネグロイドにもあることがわかってきたといいます。
コーカソイドの場合は蒙古斑の色が薄いため、ネグロイドの場合は肌の地色が濃いため、確認が難しかったそうです。

黄色人種の名はヨーロッパ人と比較した際のモンゴロイドの肌の色に由来するが、実際のモンゴロイドの肌の色は、淡黄白色から褐色までかなりの幅があります。
ネグロイドやオーストラロイドのような極端に黒い肌はみられないですけど。

近年のDNA分析によれば、モンゴロイドはアフリカからアラビア半島・インド亜大陸を経由し、ヒマラヤ山脈・アラカン山脈以東に移住した人々が、周囲の自然環境により他の「人種」との交流を絶たれ、その結果独自の遺伝的変異及び環境適応を経た結果誕生した「人種」であるとされます。
モンゴロイドの原初の居住地は、ヒマラヤ山脈及びアラカン山脈よりも東及び北側とみられています。

 日本人は、世界でも稀な古代血統とされるY遺伝子D系統を多く持つ人種ですよね。

世界的にも、日本人の他にはチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっていると指摘されます。

 日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名と言うことは、アラビア半島周辺から移動を始めた頃の遺伝子を未だに持ってる人がそれだけ大勢暮らしているのが日本なんですね。

日本人にも、家族性地中海熱という遺伝性疾患の発症例が確認されていますからね。
近年、報告例は増えているそうだけど、認識が深まってきたので分類される場合が多くなった可能性はあるかも知れません。

名前に地中海とあるのは、この病気は地中海沿岸域の人々や、中近東つまり、ユダヤ人特にスペイン・ポルトガル系のユダヤ人であるセファルディ・トルコ人・アルメニア人に現れるからです。
原因遺伝子がわかってからは、イタリア人・ギリシャ人・アメリカ人の中にもこの疾患が見つかるようになりました。

そうなるとチベットは気になるけど、手元にデータがないので、どちらとも言いかねます。

各地域に住む人々のミトコンドリアDNAやY染色体、或いはヒトの核遺伝子を比較することにより、ヒトの移住の時期・系統・経路が推定出来ます。

近隣結合法を用いた斎藤成也による核遺伝子DNAの分析、Ingman et al.、篠田謙一らによるミトコンドリアDNAの分析によるモンゴロイドの出現について示すとこうなると言います。

ただし、特に斎藤はモンゴロイドという名称に異議を唱えていますけど。
またヒトは同一種であるため、用いる遺伝子によって異なる結果がでることもあり、小さなクラスターについては特に顕著となります。

20万〜15万年前、アフリカ大陸において現生人類であるホモ・サピエンスが出現したと言うのが人類のアフリカ単独起源説です。
その後10万年前にはアフリカ大陸の対岸に位置する中東地域に進出し、現在のコーカソイドの前身となります。

中東地域に進出した人類は、その後7万〜5万年前にサフール大陸すなわち現在のオセアニア地域に進出、オーストラロイドの前身となります。

さらに、5万〜4万年前には西方では地中海伝いにヨーロッパへ進出する一方、東方ではヒマラヤ山脈を越え東南アジア・東アジア方面に進出します。

ヨーロッパに進出したグループは、その後も中東地域および北アフリカ地域との交流が保たれたため、これらの地域の人々の間では遺伝的な差異が生じず、現在でも同じコーカソイドである西ユーラシア人に分類されます。

しかし、東南アジア・東アジア方面に進出した人々は、天然の要害であるヒマラヤ山脈・アラカン山脈が障害となり、中東・インド亜大陸の人々との交流を絶たれ、独自の遺伝的変異・環境適応を成し遂げることとなります。

これが、後のモンゴロイドです。

モンゴロイドは、東アジア、中央アジア、東南アジア、東ロシア、北極圏、南北アメリカ大陸、太平洋諸島、南アジアの北東部のほか、アフリカ近辺のマダガスカル島にも分布します。
アメリンドすなわちネイティブ・アメリカンとアイノイドつまりアイヌのどちらか一方もしくは両方を、別人種としてモンゴロイドに含めない用法もあります。

ユーラシア大陸東部のモンゴロイドは、寒冷適応の程度の軽重によって大きく古モンゴロイド・新モンゴロイドに区分されたが、遺伝的に見ると他の集団間の差異に比べて大きな隔たりは存在しないです。

 古モンゴロイドは旧モンゴロイドということもありますね。

モンゴル地域・中国東北部・朝鮮半島には新モンゴロイドが比重として圧倒的に多いのに対し、大陸南部や島嶼部へ行く程古モンゴロイドの比重が高まっているとされました。

DNA分析の結果等から現在は否定されているが、次にあげるような説が展開された時期もありました。

ユーラシア大陸東部に居住したモンゴロイドは、既に絶滅したとされる北京原人やジャワ原人の子孫であるという説。
ユーラシア大陸西部では、現代人の直系の祖先であるクロマニヨン人と既に絶滅したネアンデルタール人とが共存した時代を有することから、現代の欧州人はネアンデルタール人の血を引いているとの説があり、それと同様にモンゴロイドも北京原人やジャワ原人と現生人類との混血であるとする説。

現在の人類学では形質研究よりも遺伝子研究が重視されています。

遺伝子的には南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドと区分する場合もあります。

遺伝的な近縁関係から人類集団を分類する近年の学説では、先述の通り、アジアに居住を続けてのちに一部が太平洋諸島・マダガスカル島に移住した東ユーラシア人と、南北アメリカ大陸で分化した南北アメリカ人に、旧来の狭義の「モンゴロイド」が二分されるとします。

 アメリカ先住民であるネイティブ・アメリカンとアイヌや琉球人を古モンゴロイド、アイヌや琉球人以外のアジアのモンゴロイドを新モンゴロイドに、分けるやり方。

 アジアに居住を続けてのちに一部が太平洋諸島・マダガスカル島に移住した東ユーラシア人と、南北アメリカ大陸で分化した南北アメリカ人に、分けるやり方。

 だから、アメリンドすなわちネイティブ・アメリカンとアイノイドつまりアイヌのどちらか一方もしくは両方を、別人種としてモンゴロイドに含めない用法もあるとなる。

 その場合、新モンゴロイド、東ユーラシア人、に分類される人たちが狭い意味でのモンゴロイドということになる。

古モンゴロイドや新モンゴロイドとは、寒冷地適応を経ているか否かの違いを表したハーバード大学人類学教授William White Howellsによるモンゴロイドの分類で、日本では埴原和郎や尾本恵市らが用いているようです。

中東地域・インド亜大陸方面から東南アジア方面に進出したと考えられるモンゴロイドを、形態人類学では古モンゴロイドと区分しました。

 古モンゴロイドは、アジアではモンゴルの中央と東部地域、および中国北部、華南、東南アジアなどの地域に比較的多く見られるようですね。

日本列島に到達した縄文人は古モンゴロイドとされます。

古モンゴロイドは、熱帯雨林に適応した結果、低めの身長、薄めの肌の色、発達した頬骨、鼻梁が高く、両眼視できる視野が広い等の特徴を持つと考えられています。
他の、彫の深い顔、二重瞼、体毛が多いこと、湿った耳垢、波状の頭髪、厚い唇、多毛等の特徴は新モンゴロイド以外の多くの「人種」と共通します。

なお、現在、北米最古の人骨であるケネウィック人は古モンゴロイドと最も類似し、古モンゴロイドの一部は北米にも進出したと考えられています。

 そういえば、かつてテレビでケネウィック人のほか、メキシコからも日本人によく似た古代人骨が出ていると紹介してましたね。

 メキシコの場合もおそらく、アイヌや琉球人に似てる古代人なのでしょうけど。

ケネウィック人と一緒に、フランスやスペインの様式の鏃も出てますよ。

 フランスと言えば、クロマニヨン人はフランスで見つかった石器時代人で、ケネウィック人との関係を考えたことがありましたね。

それを言ったら、日本に来たケネウィック人の親戚はクロマニヨン人の親戚にもなるでしょ。

 東北弁はフランス語に響きが似てるので、東北弁をフランス語と勘違いするCMもありましたよね。

家族性地中海熱や家族性アイルランド熱、高IgD症候群、クローン病など日本とヨーロッパの意外な繋がりの深さを示す遺伝性疾患が日本でも確認されることを思い起こすと、ケネウィック人は興味深い存在です。

このうち、クローン病はアジアでも、ロシアなどヨーロッパ系の国だけじゃなく日本や韓国や中国、それと台湾にも発症例はまだ少ないが報告はあるようです。

中国・韓国・台湾はもちろん、実はロシアも日本人の成立史にかかわる地域であることがわかってることを考えれば、注目したい遺伝性疾患です。

 ロシアと言えば、秋田美人によく似た美人が見つかる国ですね。

ここで注目したいのは古代アメリカと日本の関係が、ミトコンドリアのDNAの比較から確認できたことです。
ミトコンドリアDNAのタイプのことを、ハプログループといいます。

人のミトコンドリアDNAのタイプであるハプログループには、80パターンがあります。
日本の主なミトコンドリアのDNAは、そのうちの16タイプ。
日本人のルーツ探しに大きくかかわるのは、この16のハプログループだそうです。

 主なということは、少数派も含めれば、もっとあるのでしょう。

16のDNAパターンは、以下の通り。

A、B4、B5、C、D4、D5、F、G、M7a、M7b、M7c、M8a、M10、N9a、N9b、Z

現在のところ科学的な総意としては、アメリカ先住民の大部分は、Y染色体ハプログループCとQ14の分派と、ミトコンドリアDNAハプログループA、B、C、D、とXに属しているというもので、これらすべては東アジアに優勢のものです。

今までまとめられた証拠によれば、アメリカ先住民すなわちネイティブ・アメリカンの大半はアジア系のDNAを持っていることを示唆しています。

これまで、現代のアメリカ先住民に確認されたDNAの大半は東アジアの集団とほぼ類似していると言います。

2013年の研究では、アメリカ先住民のDNAの3分の1が、ヨーロッパまたは西アジアから発祥し、おそらくアメリカ大陸に初期に移住する前に遺伝子プールにもたらされた可能性が高いとしています。

日本と古代アメリカでつながるのは、ハプログループのなかのAグループとDグループ。
古代アメリカでは、先にAグループが多かったのが、次第にDグループが増えたというのです。

近年の遺伝子研究では、アイヌと類似が指摘される沖縄の人々にDグループが多いと報告されています。

また、北海道縄文人集団にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されていると言うから、アイヌはDグループとみた方が自然なのかもしれません。

そうなると、ケネウィック人はどのグループだったのでしょうね。

骨だけでは、調べるのは、骨が折れますねえ。

けれど、最新の研究からすれば、ケネウィック人の傍らにフランスとスペインの様式の鏃があってもおかしくない展開にはなってきていますね。

面白いことに、中近東DNAマーカーが現代のアメリカ先住民のDNAに存在します。

科学者たちが遺伝子マーカーの形状を年代測定するために使う「分子時計」が、移住の時期が数百年前か数千年前かをいつも正確に位置づけることができないという事実のため、時期の特定には使えないとされます。

とはいえ、興味深い遺跡はあります。

カホキアは、イリノイ州、セントルイス郊外にあるアメリカ先住民が築いた大遺跡です。

ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)に、栄えたと推定されています。

北アメリカ初期の歴史を理解する面での重要性を評価して、1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界遺産に登録されました。

カホキア遺跡が指し示す古代アメリカの社会は、古代エジプトやメソポタミアどころか、聖書の世界を彷彿とさせる内容であることを示す展開になっています。

さらに面白いのは、縄文の末裔と見られるアイヌや琉球人の生活文物や文化と古代イスラエルや聖書との類似が指摘されるのです。

 縄文人は、古モンゴロイドであり、ケネウィック人の親戚であり、ケネウィック人の故郷はヨーロッパ、さらには西アジアに遡れるかも知れないから、確かに興味惹かれますね。

そのカホキア遺跡は、洪水で滅んだことが明らかになってきたが、モルモン書は洪水などによって滅んでいく町のありさまを生々しく語り伝えているのです。

場所は詳しく記されてはいないが、カホキア滅亡の物語の舞台としては矛盾しません。

 モルモン書は古代アメリカにイスラエルの民の一部が来たと、記していますね。

もちろん、モルモン書出版当時にはカホキア遺跡のことは知られていません。

 アメリカ先住民の中近東DNAマーカーがコロンブス以前にもたらされていれば、矛盾のない展開ですね。

たとえコロンブス以前としても、またしても年代の問題は立ちふさがっていますがね。

 精神文化の問題はクリヤーできても、彼らの主張する年代と合うかどうか、問題はそこですね。

一方、かつての形態人類学で新モンゴロイドとされた人々は、北に向かった古モンゴロイドの子孫、及び中東にそのまま留まった集団の子孫がそれぞれ北上し、東ユーラシアの寒冷地域で独自の適応を遂げた集団です。

新モンゴロイドは、寒冷地域に適合した体質として、比較的体格が大きく、凹凸の少ない顔立ち、一重瞼、蒙古襞と呼ばれる目頭の襞、体毛が少なく特に男性のひげの少なさなどの特徴を持っています
さらに、耳垢が湿ったあめ状ではなく乾燥した粉状となり、耳垢の特徴と同じ遺伝子によるわきがの原因となるアポクリン汗腺が少なく、頭髪が直毛であること、といった特徴があります。
一重瞼や蒙古襞は目を凍傷から守るため、乾いた耳垢も耳の凍結を守るため、体毛の少なさも身体に付着した水滴が凍結しないための適応に由来するとみられます。
また、ベルクマンの法則から、大柄でガッチリした体型や凹凸の少ない顔などもなるべく体熱を逃さないための適応だと考えられています。

新モンゴロイドは、おもに現在のカナダ・グリーンランド・アラスカ・モンゴル・カザフスタン・キルギス・シベリア・中国(まれに華南で)・朝鮮半島に多く居住するとされます。

紀元前3世紀の日本列島に到達した新モンゴロイドが渡来系弥生人で、日本列島全体においては、渡来系弥生人と縄文系弥生人の遺伝子が混ざりその後の日本人が形成されたとする説があります。
遺伝子分析の結果、縄文人の遺伝子は日本人の中でもアイヌに強く受け継がれており、本土日本人にはアイヌと比べてその影響が少ないものの、日本列島人であるアイヌ人、琉球人、本土人は皆縄文人の血を受け継いでいるため、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であるという結果が出ています。

遺伝学的には、古モンゴロイドと新モンゴロイドとの差異は小さいとされます。

シベリアは一般に新モンゴロイド系の特徴が強い人々が多いが、東部に限っては古モンゴロイド的な形質が色濃い人がみられると言います。
南北アメリカへはアジアから渡ったのは確かだが、従来のベーリング海峡ルート説は日本とアメリカで見つかる寒さに弱い寄生虫が確認されたことで疑問視されるようになってきました。

日本においては、縄文時代の住民は主に古モンゴロイド系であったと言われます。

 しかも近年、アメリカのバルデビアからは縄文土器そっくりな土器が見つかり環太平洋的な広がりが指摘されるようになりましたね。

バルデビア土器については、エジプトの影響を指摘する声もありますよ。

足指は、三つのタイプに分類されるといいます。

エジプト型と、ギリシャタイプと、スクエアタイプの三つです。

最近の研究では、外反母趾になりやすい足の傾向は、エジプトタイプだとされるようになってきました。

日本人の6割から7割が、このエジプト型タイプと言われています。

エジプト型は、親指が一番長く、小指にむけて短くなる形です。
親指が長い他に、足幅が広めな形です。
親指が側面から圧迫されやすいため、外反母趾になりやすいタイプの足の形です。

 つまり、バルデビア土器は縄文にもエジプトにも似てるけど、日本人の足はエジプトタイプが多いから日本人が作ったとも見て差し支えない。

太陽神を中心にした三神構造で動物を含む八百万の神と言う点でも、エジプトと日本は似てるし、二本柱が前に立ち拝殿と本殿に分かれた構造などエジプト古代神殿も日本の神社と造りが似てますよ。

ちなみに、足指のギリシャ型は、親指より第2指が長い足の形です。

日本では、エジプト型に次いで多いです。

足先の細い靴を履いても、爪先に負担をかけることが少なく、外反母趾になりにくいタイプの足の形です。
ただし、指が曲がりやすく、ハンマートゥになりやすい足でもあります。
ハンマートゥとは足の指が曲がったまま、戻らなくなっている状態です。

スクエア型は、5本の指の長さに差がない足の形です。

日本人では珍しい足です。

幅の狭い靴を履くことで、指にタコやウオノメができやすいタイプの足の形です。

古モンゴロイドの後に中国および北東アジアから渡来した新モンゴロイドと混血をした結果、現在の日本人の新モンゴロイドと古モンゴロイドの特徴が混在する形質が形成されたと考えられました。
遺伝子解析の結果、琉球人、本土人、アイヌ人からなる日本列島人は皆縄文人の血を受け継いでいるため、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であるという結果が出ています。

近年の人類集団を分類する学説では、各人種の原初の居住地を分類名称とすることが多くなっています。
その場合、東アジア並びに東南アジアに居住するモンゴロイドを東ユーラシア人とし、アメリカ大陸で分化したモンゴロイドを南北アメリカ人とします。

東ユーラシア人と言う場合アイヌも含むと見られるので、アメロイドとアイノイドを別人種とする用法と旧モンゴロイドと新モンゴロイドの区別とは、混同しない方が良いかも知れないです。

またオーストラロイドとされたサフール人を含めた旧来の広義のモンゴロイドを全て網羅する定義としては、「環太平洋人」とする説があります。
アジアに住む人々はアジア系民族と呼ぶのが一般的であるが、アジア人にはコーカソイドに属するインド・アーリア人やオーストラロイドに属する南インドのドラヴィダ人も含みます。

 ドラヴィダ語族と日本語との関係を主張する説もあり、とりわけ大野晋による、ドラヴィダ語族のひとつのタミル語との対応関係研究があるが、批判もおおく、まだ学説としては確定していないようですね。

インド人から同胞に間違えられて困った日本人もいますよね。

なお、パプアニューギニアやオーストラリアの先住民は、オーストラロイドという別人種に分類されます。
かつて、オーストラロイドをモンゴロイドの祖先とする考え方があったが、DNA分析により現在では否定されています。
ただし先述の通りモンゴロイドとされた東・東南アジア及び南北アメリカ大陸等の集団には遺伝的に近いです。

モンゴロイドは成立後、1万4000〜1万2000年前にのちのベーリング海峡となるベーリング地峡を渡りアメリカ大陸に進出したとされてきました。

また3000〜2000年前には太平洋の島々にも移住したです。

 南北アメリカ大陸では、「モンゴロイド」の定着以前に人類は全く存在していなかったのでしょうか。

現在までのところ、アメリカ大陸最古の人物として確認されているのも、古モンゴロイドの特徴を持ってますからね。

ケネウィック人は発見当初、イギリス人かと色めきだったけど、結局古モンゴロイドと言うところで落ち着いているようです。

ただし、先住民族の祖先と断定すると彼等から我々の仕来りに沿って埋葬すると言われるので、日本人の骨と言ってアメリカ先住民のものと断定するのを避けているようですが。

 そう言えば、幕末のころアイヌを見た欧州人から、なんで日本に欧州人がいるのかと驚かれたそうですね。

調べた結果、やはりモンゴロイドだと決着がつきましたけどね。

モンゴロイドの一部は、フィリピン群島を経て東南アジアから太平洋に漕ぎ出し、イースター島やニュージーランドにまで到達して今日のポリネシア人、ミクロネシア人となったとみられています。

さらに一部のモンゴロイドは、古代に稲作文化を携えてアフリカのマダガスカル東部地域にも居住地域を拡大したとされます。

途中のインド洋島嶼部の多くは無人島で、且つアフリカ東部や中近東の陸地伝いには彼らによる移動の痕跡がみられないため、反対方向に向かったラピタ人やポリネシア人と同じく、相当高度な航海技術によって海上ルートを進んだと思われます。

ユーラシア大陸のモンゴロイドは、当初はヒマラヤ山脈以東の太平洋沿岸及びその周辺を居住地域としてました。

特に、モンゴル高原を中心とする中央アジアの乾燥帯に居住した遊牧民達は生まれながらの騎兵であり、古代から中世の世界においては強大な軍事力を誇ったのです。

彼らはこの軍事力を武器に、古代はコーカソイドの居住地域であった中央アジア西域に進出します。

その後、一時的にヨーロッパ北東部及び中東・南アジアのインド亜大陸にも進出したのです。

特にモンゴル帝国はユーラシア大陸の東西に及ぶ巨大な勢力圏を築くに至ったのです。

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働くの語源は西方にあり?英語VS日本語 その7

らくと言う言葉について、こう考えてみました。

らくとは、手伝うとか、協力や協働が、元の意味であったのではないか。

  手伝い、協力や協働しあうから、負担は軽くなって心身に苦痛などがなく、快く安らかになるし、一人では大変でもたやすいこと、簡単なことになるし、結果として 生計が豊かにもなる。

協力や協働は、分業や協業の結果、一人一人の労力は軽くなる。

 一人一人の労力の軽くなる分業や協業を行うことが、本来のらくであった。

ここで、想い起すのは、日本語はかつて二重母音だったことです。

具体的には、ワ行母音と言って良いでしょう。

旧仮名遣いは、今日のア行母音よりもワ行母音の方が発音しやすいのです。

となると、らくもまたワ行母音であったはずです。

発音してみると感じるのです。

英語のワークに、音が似てくるのです。

 ワークは働くと言う意味だから、音も意味も重なるわけですね。

R音は、巻き舌音として音はかすれて聞こえにくくなる傾向があります。

一方、L音は巻き舌音として音は濁って濁音になる傾向があります。

そうなると、頭のR音は欠落して、さらに音はワークに近づくことは容易に想像できます。

 はたらくの「はた」は周囲の意味とすれば、「らく」だけでワークの意味になる。

 じゃ、はためくは、どう解釈するかです。

はためくとは、こういう意味ですね。

布や紙などが風に吹かれてはたはたと動く。

揺れるように鳴り響く。響きわたる。とどろく。

鳥などが羽ばたきをする。

ひるがえる。

ようするに、はた、つまり周辺が激しく揺れ動いて激しく音を立てる様子を表すのが、はためくと解釈できるでしょう。

音を立てるとは、音が出る状態になることであり、音を発生させる主体になることと、言い換えて良いでしょう。

発生させる主体になるとは、メーカーになると考えることもできるはずです。

ならば、めくは英語のメークに当たると言えないでしょうか。

きらめくとは、輝きを作ること。

ひらめくとは、潜在的だったものを顕在化させて新たな考えを作ること。

 きらめくの「き」は、「木(き)」や息の「き」のように細く放射されるような、イメージ。

 ひらめくの「ひ」は、「火(ひ)」のようにひるがえっていくような、イメージ。

 そして、「ら」は包み込む表面のイメージ。

そう見ていくと、実は日本語の中には、もっと欧州の言語と語源を共有するするものがあるように思えてきます。

 これまでにも、日本語と英語との類似を何回か見てきましたね。

 はたも、案外、フロントと語源が近かったりして。

 フロントも、端っこのイメージがあるでしょ。

 最先端といえば、聞こえは良いけど。

R音とD音とT音は、巻き舌音を介して相互に転訛する可能性はあります。

考える余地はありそうですね。

 じゃ、きらはミラー、ひらはフィルムとか。

フィルムは細い糸の意味だけど、細い糸で作ったように薄い膜も指します。

 それじゃあ、はたらくも、はためくも、きらめくも、ひらめくも、英語になってしまう…。

でも「めく」がつく言葉は多いです。

 一度、形容語句を作る接尾辞として定着すれば、後は応用でいくらでも出来るでしょ。

そのことが、かえってこういう構図を見え難くしてるのでしょうね。

 派生したものと、そうでないものをごちゃまぜにして、全部説明できないとだめなんて考えるから、見えてこなかった。

そうかも知れません。

日本は、欧州の遺伝性疾患のアジアにおける飛び地でもあります。

 格助詞である「てにをは」を省けるということは、日本語最大の特徴が古文、特に太古の古文にはないと言うことなのでしたね。

日本語の起源は、ラテン語だったと主張する『ラテン語と日本語の語源的関係 』(サンパウロ出版)のような書も出ています。

ここには、「こころ」「すめら」「さらば」など、日本古来の単語とラテン語の発音の共通性が、700以上列挙されています。

 アメリカのケネウィックから、イギリス人的であると同時にアイヌ的でもある古代人骨が、フランスとスペインの様式の鏃とともに出土してますね。

縄文人の顔を再現したらフランス人のそっくりさんがいる芸能人に、激しく似てました。

映画テルマエロメオでローマ人役を全員日本人で間に合わせたら、ローマっ子から違和感なしとの太鼓判が押されました。

東北弁がフランス語と勘違いされるCMが流され、今は亡きシャンソン歌手淡谷のり子はあまりにひどい東北訛りを逆手にとってシャンソン歌手になったと言います。

秋田美人の典型顔は、ミロのビーナスという指摘もあります。

 もっと、広い視野で日本語の起源は考えられて良いでしょう。

先入観は、捨てるべきでしょうね。

 ユダヤ人は白人的な顔だから日本に来てるわけがない、と言う人には日本人の白人顔のルーツはユダヤ人だと言いたいのかとの反論で、論破できますしね。

面白いのは、ロシア領に秋田美人としか言いようのない女性たちがいることです。

そして、バイカル湖畔こそ、日本人の起源という研究もあります。

 古代中東のYAP遺伝子が日本にあるが、中東はいまだに日本人のルーツ探しの視野にないようですね。

アカデミズムは、人類史上の通過点くらいにしか、中東を見てないようですね。

 遺伝子情報は、中東から西を指してるのですけどねえ。

家族性地中海熱とか、ですよね。

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大福とエジプト?

大福餅(だいふくもち)とも呼ばれる大福(だいふく)は、小豆でできた餡を餅で包んだ和菓子の一種です。

餅に豆やヨモギを加えたものや、餡の代わりにイチゴやカスタードクリームを入れたものなどさまざまなバリエーションが存在します。

そのまま食べることが多いが、好みによって焼いたり、汁粉に入れたりします。

大福に使われる餅はきめ細かくつかれているものを使い、餡の量は餅と同量以上であることが多いです。

また、食用の粉をまぶしてあることも多いです。

大福を自宅で作る際は、餅に砂糖を混ぜておくと硬くなりにくいといいます。

工場で生産され、流通経路を介して販売される製品も同様の傾向があるそうです。

大福は、江戸時代初期に生まれた鶉餅(うずらもち)が1771年(明和8年)に江戸・小石川の未亡人により小形化され、餡に砂糖を加えられたものが始まりとされます。

大福は、丸くてふっくらしていたので鶉餅と呼ばれたと、されます。

腹持ちがよいことから腹太餅(はらぶともち)、大腹餅(だいふくもち)と呼ばれていたものが、吉字を使った大福餅に変化したといいます。

寛政の改革時には、行商が焼きながら売り歩く熱い大福が流行したそうです。

もっとも、鶉餅については、もっと起源は古いと言う声もあります。

室町後期にまで遡ると、言うのです。

ただ、これについては、まだ裏が取れていないので断言はできません。

鶉餅は、長野県千曲市八幡にある武水別神社の境内に営まれるうずらやと言う店が、元祖らしいです。

この地で茶屋をはじめて200年になるといいます。

看板には、《八幡宮名物元祖うずらもち》とあります。

この店の鶉餅は、丸くてふっくらというより、そこはかとなく鶉に似せた形です。

しおりにはこうあるそうです。

天保十三年に武水別神社八幡宮が消失し、嘉永三年に再建されました。

当時御社の東側の千曲河原は葦藪で、うずらが群棲しておりました。

その群れ遊ぶ姿を、立川和四郎富昌により、本殿の大黒柱の両側に四羽ずつ彫刻されました。

このように、神社とうずらとの関係が深きことから、初代武井音兵衛が創始したのが「うづら餅」です…。

ただし、鶉餅は歴史が古いだけに形も様々と言うから、この店も起源の一つと見た方が良いのかも知れません。

それというのも、鶉餅は別名を鶉焼きと言うのです。

なぜなら、一般的な鶉餅は、もち米で作った薄皮の中に小豆の塩餡を包み、鶉の斑紋のような焦げ目をつけて焼いたものとされるからです。

うずらやの鶉餅は、もち米で作った薄皮の中に小豆の塩餡を包み込んでいるだけで、焼いてあるようには見えません。

 より、鶉に似せるために、他の店が鶉の斑紋のような焦げ目をつけて焼いた鶉餅を始めた可能性もあるのでは。

それは、ありえますね。

また、日持ちをさせるために、どうせ焼くならと鶉の斑紋のような焦げ目をつけて焼いたのかも知れません。

 鶉で思い出すのは、聖書の記述ですよね。

出エジプト記16章ですね。

11節 主はモーセに仰せになった。

12節 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」

13節 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。

 神社は、古代イスラエルの幕屋に似てると言われますよね。

周囲と区別された境内の中に、拝殿と本殿を分けた社があり、前に二本の柱が立ち、賽銭箱がある。

二本の棒で担がれることを基本とする、金で覆われ、羽の付いた像が上に載る輿がある。

裾に房の付いた衣装を纏う神職が、塩で浄め、祓いをする。

その神社の境内に、鶉餅の元祖を名乗る店があるって、出来過ぎでしょ。

 しかも、八幡の語源にはユダヤからイエフダ―、ヤハダ、ヤハタと転訛した説があるでしょ。

こうなると、鶉餅は起源がどこまで遡れるかより、ユダヤと聖書の関係を連想できる場所が元祖を名乗ってること自体が、面白いですね。

 それと、何故鶉だったかですよ。

イスラエルの民は、エジプトで鶉になじんでいたからでしょうね。

紀元前3000年頃のメレルカ王の石室墳墓に彫刻されているものに、古代エジプトのファラオ王朝時代の農民が麦畑で野生の鶉を捕獲している情景が、伝わっています。

これには、網を使って捕獲している様子までが鮮やかに刻まれています。

さらに古代エジプト第6代王朝の頃には、プタヒルクの壁に、現代の句読点にあたるものと解釈される象徴文字として鶉が登場するまでになっています。

その古代エジプト文字のヒエログリフでは、鶉の雛を象り『u』を意味して、フェニックス=不死鳥という伝説も残っているそうです。

日本の神話と類似が指摘されるギリシャ神話には、女神アストリアが、鶉に姿を変えウズラ島となり、太陽神アポロンと月の女神アルテミスの郷となったと伝えられています。

古代中国では、鶉が怪鳥化して鳳凰や不死鳥になったという伝説を残しています。

めでたい事があった時にだけ姿を現す『端鳥』であると、中国最古の辞書に載っているそうですよ。

「鳳」と「凰」はつがいで、仲睦まじく「平和」「善政」「愛」の象徴とされてきました。

日本においても、鶉は古くから重宝されていて、鳴き声が『御吉兆(ゴキッチョー)』と聞こえることから、戦国時代には鶉が出陣前の縁起担ぎに用いられたりしていました。

万葉集にも、鶉についての歌があります。

鶉鳴く 古りにし里の 秋萩を 思ふ人どち 相見つるかも 巻8-1558  沙弥尼等

人言(ひとごと)を 繁みと君を 鶉鳴く 人の古家(ふるへ)に 語らひて遣(や)りつ 巻11‐2799 作者未詳

鶉鳴く 古しと人は思へれど 花橘の にほふこのやど 巻17‐3920 大伴家持

その後も、鶉は歌われてきたが、長くなるので省きます。

鶉自体も、日本へはエジプトから渡来したと見られているのです。

鶉は、キジ目キジ科ウズラ属に分類される鳥類です。

キジ科の中でも個体が小さい鶉は、日本(主に本州中部以北)、モンゴル東部、朝鮮半島、シベリア南部、中華人民共和国北東部などで繁殖し、冬季になると日本(本州中部以南)、中華人民共和国南部、東南アジアなどへ南下し越冬する鳥です。

全長20センチメートル、翼長9.1-10.4センチメートル、上面の羽衣は淡褐色です。

繁殖期のオスは顔や喉、体側面の羽衣が赤褐色で、冬季になると羽衣が淡色がかります。

草原、農耕地などに生息する[4]。秋季から冬季にかけて5-50羽の小規模から中規模の群れを形成することもあります。

和名は「蹲る(うずくまる》」「埋る(うずる》」のウズに接尾語「ら」を付け加えたものとする説があります。

食性は雑食で、種子、昆虫などを食べます。

繁殖形態は卵生で、配偶様式は一夫一妻です。

5-10月に植物の根元や地面の窪みに枯れ草を敷いた巣に、7-12個の卵を産み、メスのみが抱卵し、抱卵期間は16-21日です。

雛は孵化してから20日で飛翔できるようになり、1-2か月で独立する[4]。生後1年以内に性成熟します。

 鶉、何時頃どうやって、日本に来たのでしょうね。

まさか、エジプトから飛んできたとも思えないから、シルクロードでしょう。

徐福や神武か、少なくとも、古事記や日本書紀、万葉集よりは前、どうゆうルートか、気になる鳥ですね。

 まさか、大福から、エジプトに話が飛ぶとは…。

 エジプトから鶉が来なかったら、大福はなかったのかしら。

餅と肉の食感の類似から、何か動物が関係するとは思ってましたが。

鶉とは、ちょっと意外でした。

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日本の極東外交を考えてみた。

3位に落ちたとはいえ、4位以下を多くく引き離している日本の経済力を最大の武器として使わないでどうするのでしょう。

いつかやらなきゃ、なんて言ってる間に、経済で周辺国に追いつかれてきたらどうします。

経済力を有効に使って外交するなら、いまをおいてない位のことは考える方が良いでしょうね。

ようは、極東アジアに一国でも多くの友を作るための外交こそ、やるべきってことですよ。

 発想転換のイニシアティブは断然、日本がとるべしというわけですね。

北朝鮮と拉致問題を解決して国交正常化したら、次の段階は南北朝鮮の緊張緩和に日本が積極的に関与することではないでしょうか。

分断の過去に責任があるから、友好国として、南北融和に協力したいといえば、断る理由はないはず。

別の国が良いと言えば、快く協力してあげたらいい。

 どうするかですよ。

拉致問題さえ解決してくれたら、明日にでも国交正常化交渉に応じると北朝鮮に向かって明言すればいいのではないでしょうか。

 北朝鮮にとっても、日本の高度な技術と市場は魅力的でしょうね。

中露を牽制する、日本が外交の足場を朝鮮半島に置く格好になりますよ。

 北朝鮮にとっても、中露を牽制する後ろ盾ができたことになるでしょうね。

外交とは、相手があることである以上、相互に利益がないと、建設的で友好的な関係は築けないはずでしょ。

 自分の立場ばかり考えないで、相手の立場も考えたうえで、双方に利益がある道を提案してこそ、お互いの国内で理解が得られる。

ロシアには、サンフランシスコ講和条約2条c項の千島の項目廃棄通告と同時に全千島を返還させて、平等互恵の平和友好条約を結んで、日露間の海を含めた往来の自由を保証してあげればいいのではないでしょうか。

中米を牽制できますよ。

 ロシアにとっても、中米は牽制したいでしょうからね。

ロシアが千島に行った設備投資は、そのなりの対価を払って買い取れば良いでしょう。

両国間関係が良好でさえあれば、設備に利用に関してロシアに対してそれなりに便宜を払ってあげればいい。

 ロシアにしてみれば、自分が整備したのに日本に取られたと受けられる協定や条約は締結できないでしょうからね。

各国の間の関係をよく保つうえで、どこがイニシアティブをとるかですよ。

 事を荒立てずに、八方丸く無難におさめたがる日本こそ、適役。

和をもって尊しとなすの精神で、日本が大きく役割を果たしてほしいですね。

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猫と犬に引かれた先はエジプト?

これまでにも、何回か触れてきたけどアイヌ語では猫を“チャペ”と呼ぶようです。

“チャペ”は、ローマ字だと“Chape”となるのでないでしょうか。

これを“Chap”と書き換えて見ます。

こう書いてみると、妙なことに気づくのです。

猫は、英語で“Cat”、フランス語で“Chat”、ドイツ語で“Katze”、オランダ語で“Katten”、ロシア語で“Koshika”、イタリア語で“Gatto”、スペイン語やポルトガル語で“Gato”、ハンガリー語で“Macska”などです。

 以前、フランス語との類似に注目したけど、綴りだけ見れば英語の“Cat”も何となく似てますね。

“ねこ”の呼び方はヨーロッパ全体を通して、明らかに一つの語源から、展開しているのが見て取れるでしょ。

 そういえば、エジプトでは、猫を“マウ”とも“オッタ”とも呼んでましたね。

今ではもっぱら、“オッタ”を使うようですね。

 ということは、“マウ”の方が古いのでしょうかね。

エジプシャンマウという、ネコ種の名前に名残をとどめているだけのようですね。

 そうなると、“オッタ”と猫を呼んでいた人たちが、ヨーロッパにもたらし、転化によって各国語に変化したと見て取れますね。

驚くほど、発音の雰囲気や綴りが似てますからね。

 こうやってみると、アイヌ語の“チャペ”はフランス語に近いことがよくわかりますね。

そういえば東北弁なまりまくりのシャンソン歌手、今は亡き淡谷のり子は、ある番組で、なんでシャンソンでなまらないのかと訊かれるとこう答えると言ってましたね。

“東北弁とフランス語は発音が似ている”と…。

 でも、語順は似てないのは、面白いですね。

語順まで似ていたら、もっと早くみんなが気が付いたでしょうけどね。

 英語も、アイヌ語の“チャペ”に綴りだけ見ると微妙に似てるけど。

こうしてくらべてみると、改めて、アメリカのケネウィックから出たアイヌとイギリスに二股かけた古代人骨とともにフランスやスペインの様式の鏃が出た意味が、大きいとわかりますね。

 特徴を抑えて書いた縄文人の顔が、フランス人女性にそっくりさんがいる男性タレントに激しく似ていて、しかもその縄文人も女性の顔でしたね。

男の顔は母親に似ることが多いとは聞くけど、描かれた似た顔がどちらも女性って、出来過ぎでしょ。

 でも、アイヌの生活文物が古代イスラエルに似ていて、イスラエル人は一時エジプトにいたでしょ。

“ねこ”は、エジプト語で“オッタ”、フランス語で“Chat”、アイヌ語で“チャペ”ですね。

 丸唇音から平唇音への変化が原因で、発音が変化したと見て、エジプト語からフランス語への転化は説明できそうですね。

フランス語からアイヌ語へは、こうしてみると、わずかな差に見えますね。

それに対しアイヌ語の犬は“セタ”で、ローマ字表記は“Seta”ですね。

面白いことに、古代エジプト語で犬は“セセム”だったそうです。

 現代エジプト語では、どうなのでしょ。

さあ、そういえば。

 調べてない。

うかつでしたね。

 でも、“セタ”と“セセム”、こうやって見るとほとんど変わってないことに驚きますね。

犬は、英語で“Dog”、フランス語で“Chien”、ドイツ語で“Hund”、オランダ語で“Hond”、ロシア語で“Sobachka”、イタリア語で“Cane”、スペイン語やポルトガル語で“Perro”、ハンガリー語で“kutya”などです。

つまり、ヨーロッパの言葉で言うと西欧の言葉に案外近い呼び方なのです。

 犬の呼び方でも、フランス語は比較的近くないですか。

 よくみると、“いぬ”のほうも“セセム”から転化していったと感じられそうですね。

 新人と呼ばれるクロマニヨンの名称が、発見されたフランスの地名に由来することをあわせて考えると、興味深いですね。

クロマニヨンも後期旧石器時代だから、ケネウィック人とともに見つかったフランスとスペインの様式の石器と、基本的には矛盾しないと見て良いでしょうね。

 定説で考えている時期との差の問題があるから、猫や犬との間に見える接点は偶然にしか感じ取れないかも、知れないけど。

特に問題となるのは、猫でしょうね。

ただ、2004年8月、キプロス島のシルロカンボス遺跡(shillourokambos)からおよそ9500年前の、人間の遺骨から距離が40センチしか離れていない猫の遺骨が発見されている点は注目して良いでしょう。

人間と共に埋葬されたこと、貝殻や磨かれた火打ち石、斧などの人工装飾品も同じ場所に埋められていたことなどから、この猫は偶然人間の墓場に迷い込んだのではなく、意図的に埋葬されたものだと考えられています。

後期旧石器時代は4万から1万3千年前と見れられているけれど、およそ9500年前となるとどちらも推定の域を出ない年代である事を思えば、ほぼ重なると言って良いかもしれないですよ。

ちなみに発掘された猫の遺骨は、現代のイエネコよりはリビアヤマネコに近い骨格をしていたといいます。

クロマニヨンは、主流派の学説ではそのまま現代人へと遺伝的に繋がっているとされています。

そして、現代人、特に欧州の人種とよく似ていると言うから、キプロス島の遺骨をクロマニヨンでなかったと判断する方が困難でしょう。

縄文時代は、年代でいうと今から約1万6,500年前というから紀元前145世紀から約3,000年前つまり紀元前10世紀、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代です。

約1万6,500年前から約3,000年前といえば、クロマニヨンとも十分重なります。

世界史では、中石器時代ないし新石器時代に相当する時代なので、後期旧石器時代は直前に当たり、日本でさらに発展させたと見ても問題はないでしょう。 

 味の好みは、日本とエジプトはほとんど変わらない。

 宗教の基本的構図も、太陽神を中心とした三神構造で、しかも動物神を含む多神教であることまで似てる。

 日本人の足で最も多いのは、エジプトタイプ。

さらに、犬や猫の呼び方まで、アイヌとエジプトで似ている可能性があるでしょ。

 特に犬。

顔立ちまで、濃い顔の人たちは日本とそっくりな可能性が大きいとくれば、日本とエジプトを親戚関係ありと見ないわけにいかないですね。

 トンカラリン遺跡と、大ピラミッドの内部構造の類似まで、吉村作治教授は指摘してますよね。

日本の神社建築は、建築様式を秦氏が持ち込んだとはいえ、あまりに古代エジプトに構成が似てます。

宗教の基本的構造の類似から言っても、違和感は全くない。

強いて言えば、偶像を置いてないくらいでしょうね。

建築素材の差を除けば。

 それと、賽銭箱もでしょ。

そうでしたね。

 日本の天皇さえも、地上の太陽神という構図はそっくりですよ。

天皇即位の儀式に立ち会う女性が居るけれど、古代エジプトのファラオの即位にも女性の存在が欠かせなかったでしょ。

 こうしてみると、古代エジプトから引っ越してきた人々が、日本人の祖先に見えてきますね。

日本とエジプトの親戚論まで、言いたくなりますね。

追記

津軽弁でも猫は “チャペ” と言うとの、情報を戴きました。

残念なことに、若い人はあまり使わないとか。

こうやって、貴重な言葉の情報は消えていくのですね。

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桜とヤマネコ?

桜は、バラ科サクラ属サクラ亜属 Prunus subg. Cerasus またはサクラ属 Cerasus に分類される樹木の総称です。

桜(サクラ亜属)は北半球に広く分布し、ヨーロッパから西シベリアにかけて3種が分布しています。

また、東アジアに3種、中国には33種のサクラ亜属が分布してると報告されています。

 米国初代大統領のジョージ・ワシントンが、父親の桜の木を切り倒したことを正直に名乗り出たというエピソードがありますね。

 19世紀はじめの作り話だそうですけど。

北米大陸には、我が国にもあるウワミズザクラに近いような種類や、常緑の種類などはあるが、これらは、日本人の持っている桜の概念からかけ離れた種類ばかりです。

アメリカの桜は、ヨーロッパのものが移植されたと考えるべきでしょう。

ついでにいうと、サクラ属にはサクラ亜属、ウワミズザクラ亜属の他に、スモモ亜属、モモ亜属、ウメ亜属、ニワウメ亜属があります。

ちなみに、ワシントン特別区のポトマック川に植えられている桜は、日本から贈呈されたものなので、「日本の桜」といえます。

 韓国では、桜は済州島起源とする議論が出ていますね。

桜の原産地はヒマラヤ近郊、現在のトルコからイランにかけての地域とされています。

だからこそ、日本語では「サクランボ」ヨーロッパではセイヨウミザクラの果実が、「チェリー」としてもてはやされているのです。

セイヨウミザクラという以上、東洋系のミザクラもあります。

中国には昔から華北・華中を中心に、中国桜桃(シナノミザクラ, Prunus pseudocerasus)や唐実桜(カラミザクラ)があります。

口に含んで食べることから、一名を含桃といいます。

漢の時代に編纂された礼記『月令』の仲夏(旧暦5月)の条に、「是月也,天子乃以雛嘗黍,羞以含桃,先薦寢廟」との記述があるから、桃よりは新しいのでしょう。

もっとも、花を鑑賞する品種の桜では、実は大きくなりませんけどね。

イランやトルコが原産だから、遠隔地である上に島国の日本に桜があることのほうが、むしろおかしいのです。

いったい、何が原因で、日本に桜が伝来したのかは分かりません。

一方サクランボの方は、何時頃伝わったか、わかっています。

江戸時代に清から日本に伝えられ、西日本でわずかに栽培されています。

これは、材が家具、彫刻などに使われ、暖地桜桃とも呼ばれます。

「桜桃」という名称は、中国から伝えられたものでです。

日本で食べられているサクランボの大半は、セイヨウミザクラです。

セイヨウミザクラが日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルによって北海道に植えられたのが始まりだとされます。

その後、北海道や東北地方に広がり、各地で改良が重ねられました。

 サクランボ、おいしいですよね。

サクランボは、桜の実という意味の「桜の坊」の「の」が撥音便となり、語末が短母音化したと考えられています。

果実をサクランボ、木を桜桃と呼び分ける場合もありますね。

生産者は桜桃と呼ぶことが多く、商品化され店頭に並んだものはサクランボと呼ばれます。

サクランボは有史以前から食べられていました。

桜桃の一種である甘果桜桃(セイヨウミザクラ, Prunus avium)はイラン北部からヨーロッパ西部にかけて野生していました。

また別の品種である酸果桜桃(スミノミザクラ, Prunus cerasus)の原産地は、アジア西部のトルコ辺りだそうです。

アントン・チェーホフの戯曲「桜の園」の舞台はロシア南西部だが、この「桜の園」は「サクランボの農園」です。

サクランボの果実は丸みを帯びた赤い実が多く、中に種子が1つあります。

品種によって、黄白色や葡萄の巨峰のように赤黒い色で紫がかったものもあります。

生食用にされるのは主にセイヨウミザクラ(Prunus avium)の実であり、調理用に酸味が強いスミミザクラ(Prunus cerasus)の実もよく使われます。

 スミミザクラとスミノミザクラは、どこが違いますか。

スミノミザクラという場合には、園芸関係が多いようですね。

 サクラ亜属の、私たちが知っているような桜は北半球に広く分布しているということですね。

ヨーロッパから西シベリアにかけて3種が分布、東アジアに3種、中国には33種のサクラ亜属が分布してると報告されています。

 これ、ヤマネコの分布と重なる部分、多くないですか。

ユーラシアオオヤマネコ、ヨーロッパリンクスとも呼ばれるヨーロッパオオヤマネコには、ヨーロッパ北部からシベリアまでを生息域とするシベリアオオヤマネコを同種とするかどうかという議論があります。

カナダオオヤマネコは、アメリカ大陸にヨーロッパから渡った可能性があります。

日本にもオオヤマネコの骨が見つかるが、現在ほとんど見かけないところを見ると、イエネコと交雑し吸収された可能性があります。

今でも、ごくまれに先祖帰りしたとみられるヤマネコ的な特徴を多く残した猫がみられるそうです。

 海に隔てられているはずの、アメリカや日本にウワミズザクラがある。

 海に隔てられているはずの、アメリカや日本にオオヤマネコがいる。

 どちらも人為的に渡っている可能性がありますね。

ウワミズザクラ(Padus grayana)は上溝桜と書く、バラ科ウワミズザクラ属の落葉高木です。

和名のウワミズザクラは、古代の亀卜、つまり亀甲占いで波波迦と呼ばれる溝を彫った板に使われた事に由来します。

北海道西南と本州、四国、九州の山野に自生し、日照と小川沿いなど湿潤した環境を好みます。

花は、北海道では6月、本州より南では5月頃に咲き、長さ10cmほどの白い総状花序は雄蘂が目立ち、ブラシのように見えます。

よく似たイヌザクラとは、花序枝に葉がつく事などで区別できます。

樹高は、約10~15mで、樹皮は、灰~褐色です。

枝は、小枝の多くは落葉後に落ち、葉は、長さ6~9cm、幅3~5cmで楕円形で先が急に細くなり、縁には鋸歯があります。

果実は、直径約8mmの卵円形の核果を付け、初夏にかけて赤から黒く熟します。

ウワミズザクラは軽くねばり強い事から建材のほか、彫刻細工、版木、道具の柄などに利用されます。

香りのよい、若い花穂と未熟の実を塩漬にした杏仁子(あんにんご)が、新潟県を中心に食用とされ、黒く熟した実は果実酒に使われます。

ウワミズザクラは古代からあったところを見れば、縄文人が持ち込んだかもしれないですね。

ウワミズザクラ属の樹皮には青酸配糖体が含まれ、ヨーロッパ諸国や米国では、この植物の樹皮を鎮咳薬などに用いるそうですよ。

アイヌ民族は、臭気のある枝を戸口に立てて、病魔を防いだといいます。

 サクラ亜属の方の桜は、何時頃でしょうね。

韓国が済州島起源を言いだしたということは、朝鮮半島経由の線が強いのかも知れません。

ただ、弥生人なのか、天孫一族なのか、そのあたりを特定するには、もっと情報が欲しいですね。

オオヤマネコの分布、とりわけ、シベリアオオヤマネコの分布とサクラ亜属の分布の妙に重なるあたり、確かに、気になります。

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千島列島を取り巻く歴史を考えてみた。

日本政府の言う北方四島、つまり択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の島々は日露和親条約のときの国境です。

日本とロシアとは安政元年(1855年)の日露和親条約において、国境を千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に定められたが樺太は日露混在でした。

 この時点に戻せと言う議論では、あまりに非現実。

日本政府自身は、樺太には触れていませんけどね。

でも、この時代は樺太の日本人とロシア人の雑居が、現実だったのです。

それで、線引きは非常に困難だったのです。

サンフランシスコ講和条約で千島列島を放棄したが、日本政府の見解では放棄した千島列島に択捉国後を含んだいわゆる北方領土は含まれないと説明されます。

このさい放棄した千島列島の定義として、樺太・千島交換条約第二款によるクリル列島とはシュムシュ島からウルップ島とされていることを根拠の一つとすることがあります。

しかし、この文言解釈による主張は、条約として効力の無い日本語訳文をもとにしており、複数の学者がフランス語正文からはこのような解釈は成り立たないとの指摘を行っているといいます。

村山七郎の『クリル諸島の文献学的研究』(1987年8月)や、和田春樹が1987年5月と1988年5月と1988年11月に『世界』(岩波書店)で展開した議論、また、長谷川毅の『北方領土問題と日露関係』(2000年)などはその例だそうです。

なお、第7回衆議院外務委員会で、当時外務省条約局長であった西村熊雄政府委員はこう説明していました(国会議事録第7回衆議院外務委員会7号昭和25年03月08日発言者番号141)。

「明治八年の交換條約で言う意味は、いわゆる日露間の国境以外の部分である千島のすべての島という意味でございましよう。ですから千島列島なるものが、その国境以北だけがいわゆる千島列島であつて、それ以南の南千島というものが千島列島でないという反対解釈は生れないかと思います」。

この説明は国内的に1956年2月に正式に取り消され、その後は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としています(国会議事録第24回衆議院外務委員会4号昭和31年02月11日(発言者番号5-23))。

だが、政府の言い分に一貫性も国際的な道理もないことは明らかでしょう。

 ロシアが日本政府の北方領土の言い分を無視するのも、当たり前すぎますね。

なお、日本政府が返還実現を事実上諦めている千島列島は、日本とロシアとの間の平和的交渉によって結ばれた条約によって日本領となった島々です。

千島列島が正式に日本領となった 樺太・千島交換条約 は、明治8年(1875年)5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約です。

千島・樺太交換条約や、署名した場所からとってサンクトペテルブルク条約と呼ぶ場合もあります。

ちなみに、日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求しています。

1874年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴きました。

榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められました。

樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結したのでした。

千島・樺太交換条約が結ばれるきっかけは、樺太の雑居状態から来た、さまざまな不都合でした。

 その中に、戦争は入ってない。

紛争の段階に止まっていたのであって、戦争にまでは発展していません。

というより、戦争にまで発展する事態を避けるために締結された条約が千島・樺太交換条約だったのです。

日本にとっても、本格的な日露戦争はぜひとも避けたかったのです。

幕府にとっては、帝国ロシアは、とてもかなう相手ではありませんでした。

明治維新後の近代国家建設を急ぐ維新政府にとっても、国力の充実こそ急務でした。

ロシアにとっても、日露戦争は避ける必要がありました。

1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化したからです。

クリミア戦争は、1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争です。

クリミア戦争は、フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャとロシアが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争でした。

勢力が衰えつつあったオスマン帝国を巡る利権争いに原因を見るのが、日本国外では一般的です。

 日本では、汎スラヴ主義を掲げるロシアのイデオロギーや南下政策がもたらした対立の一環であるとの見方が定着しているけど、世界の見方は違うのですね。

もちろん、汎スラヴ主義を掲げるロシアのイデオロギーや南下政策も、背景にはあるでしょうね。

ロシアでは、この戦争により後進性が露呈し、抜本的な内政改革を余儀なくされました。

外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも、急速に国際的地位を失いました。

一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになりました。

また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至ったのです。

この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まり、その影響は中国や日本にまで波及したのです。

 なるほど、樺太開発に本腰を入れたいロシアにとって、日本との紛争は困った事態ですね。

ロシアにとっては、日本との紛争は早急に解決し樺太開発に専念したいと言う切実な事情があったわけです。

箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言しました。

徳川幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内、現在のイリンスキーで国境を確定することとし、1867年石川利政・小出秀実をペテルブルクに派遣し、樺太国境確定交渉を行いました。

しかし、樺太国境画定は不調に終り、日露間樺太島仮規則にあるように樺太はこれまで通りとされたのです。

日露間樺太島仮規則では、樺太に国境を定めることができなかったため、明治に入っても、日露両国の紛争が頻発しました。

こうした事態に対して、日本政府内では、樺太全島の領有ないし樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める副島種臣外務卿の意見と、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる黒田清隆開拓次官の2つの意見が存在していたのです。

その後、副島が征韓論で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となったのでした。

 日本側の、樺太に対するこだわりが、交渉を長引かせた。

長年営まれた現地の人々の生活がある以上、そう簡単には譲れないでしょ。

ロシア領になれば日本の住民たちは、ロシアに帰化するか、日本に撤退するか、選ばないといけません。

 大国ロシアとの戦いは、時期が早すぎたから避けたかったのは事実ですよね。

後の日露戦でさえ、あれ以上長引かせるわけにいかないから、アメリカに仲介してもらって終戦に持ち込んだので負けなかっただけだったことを思えば、一つの英断でしょうね。

 千島列島は、第二次大戦のような戦争で手に入れたわけでも、台湾や朝鮮のような植民地でもない。

サンフランシスコ講和条約2条c項で放棄させられた千島の扱いは、領土不拡大の原則に照らして不当と言えるでしょう。

 ヤルタ会談での密約という日本が関与できなかった会合で、千島のロシアへの譲渡が決まったのは、領土不拡大の原則に照らして不当。

当然でしょ。

こういう、歴史を無視した交渉を続ける相手は、ロシアから見れば相手にしない方が得なのです。

何を言いだすかわからず、しかも道理がないのでは、そんな相手に譲歩したら国内は納得しないのは、だれが見たってわかるでしょ。

それもわからないようじゃ、外交する資格が疑われると言うのは、言い過ぎでしょうか。

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エストニア

エストニア語でEesti Vabariikと名乗るエストニア共和国の略称は、Eestiです。

 ちなみにエストニアの公式の英語表記はRepublic of Estoniaで、略称Estoniaですね。

通称をエストニアといい、ヨーロッパ北東部の共和制国家で、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の一つです。

南にラトビア、東にロシアと国境を接し、西はバルト海、フィンランド湾に面しています。

エストニア・ソビエト社会主義共和国だったが、ソ連からの独立後、国内に残ったロシア人の問題と国境問題を抱えています。

エストニアの首都は、タリンです。

タリンとは、エストニア語で「デンマーク人の都市」という意味です。

タリンの名は、エストニアの歴史を反映しています。

現在のエストニアにあたる土地には、紀元前500年頃にはウラル語族のエストニア族と呼ばれる民族集団が居住していました。

東方から到来したスラヴ人と混血し、さらにはヴァイキングの襲来によってノルマン人とも混血が進み、10世紀までにはいまのエストニア民族が形成されていきました。

13世紀に入るとドイツ騎士団がバルト海沿岸に進出し、デンマーク王国の協力を得てこの地を征服し、エストニア人をキリスト教化しました。

デンマークの支配のもとタリンはハンザ同盟に加盟し、海上交易で栄えました。

エストニア語で「デンマーク人の都市」を意味するタリンとなった経緯はこうです。

1050年に、トームペアに最初の要塞が建設されます。

13世紀初頭には、ドイツ騎士団とデンマーク王らによる北方十字軍により、ロシアとスカンジナビア結ぶ軍事戦略地点として大いに着目され、ノヴゴロドと西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築きます。

1219年、デンマーク王バルデマー2世が十字軍を率いて侵攻し、ここにトームペア城を築きます。

これにより、タリンというエストニア語で「デンマーク人の都市」を指す名前で呼ばれることになるのです。

タリンは、1285年にはハンザ同盟に加わりました。

ハンザ同盟都市としては、最北に位置します。

1346年デンマークは、タリンなどバルト海東海岸地域の植民地を銀貨13,000マルクでドイツ騎士団に売却し引き上げます。

 そして、タリンの名前だけが残った。

20世紀になるまでドイツ人の影響が残るが、1561年、ドイツ騎士団は解体されます。

1583年、エストラントに営まれるエストニアはスウェーデンに割譲され、その後、現エストニアのリヴォニア北部も支配下に入ります。

1710年、大北方戦争によりロシア帝国の支配下に入ります。

その後はバルト海の要衝としてポーランド王国の支配を受け、さらにスウェーデンがこれを退け、新たな支配者となります。

1560年代から1711年までを「バルト帝国」時代と後年呼ばれるけど、1561年にはエストニア公国が建国、1721年のニスタット条約で解体するのです。

大北方戦争の結果、1712年にはロシア帝国がこのエストニアを獲得し、「南下政策」を標榜するロシアにとっては重要な「バルト海の窓」となっていきます。

19世紀には、アレクサンドル3世のもと「ロシア化」が推し進められました。

独立をレーニンのロシア革命で手にするも、スターリンによって再びソ連邦編入と言う形で失いました。

現在は独立を取り戻しているけど、今回はエストニア人とは何かを考える心算なのでこれ以上深入りしません。

「シア」「シャ」のある地域から始まって、“ia”“iya”の音が入る国名や地域名、民族名や部族名と日本との奇妙な繋がりを注目してきました。

エストニアもエストニア語でEesti Vabariikだけれど、公式の英語表記はRepublic of Estoniaなので気になっていました。

現在のエストニアにあたる土地には、紀元前500年頃にはウラル語族のエストニア族と呼ばれる民族集団が居住しています。

ウラル語族の多くの言語の特徴として、これらがあげられます。

母音調和を行うこと。

膠着語であること。

後置詞言語である。

双数がある。

語順は東部は主にSOV型、西部は主にSVO型。

双数形は両数形とも呼ばれる、印欧語またその他の言語において、語形の変化によってとりうる名詞の諸種の形のうち、名詞が二つのものを表す場合にとる形です。

その二つのものを表す名詞が主語である場合に、その名詞に呼応してとる動詞の形でもあります。

印欧語では、一般に名詞は性、数、格の三つの属性を持ち、数と格によって形を変えます。

そのとき数について、言語によっては名詞が1つのものを表す単数形、名詞が2つのものを表す双数形、単数・双数以上つまり3つ以上のものを表す複数形という3つのパターンがあります。

また双数形のない言語もあります。

ウラル語族の中にはサーミ語、およびサモイェード語派の言語では、人称代名詞、所有接辞、動詞の活用に双数形があり、ウラル祖語にも同様の双数形があったとみられています。

この双数が見つかる言語とそれを話す民族については、改めて考える必要がありそうです。

 気になる民族が、あるわけですね。

そういうことです。

ウラル語と言えば、日本語も分類されるのではと言う議論が出たことがあります。

 フィン・ウゴル語派に属するバルト・フィン諸語であるフィンランド語を話すフィンランド人は、日本人と遠縁の可能性が見つかりますね。

エストニアには、エストニア人から始まり、デンマーク人、ドイツ人、スエーデン人、ポーランド人、ロシア人と様々な国や民族が関わってきました。

そのため、エストニアの文化を日本と比べるにはかなり注意が要ります。

 食文化は生活の木本なのでどういう好みなのか、比べると面白いでしょうね。

バルト沿岸諸国としてドイツ料理の影響を強く受けているが、後の支配者であるスウェーデン料理の影響も強く、長くスウェーデンの支配下にあった同じフィン・ウゴル語派の隣国フィンランドと似通った食文化を共有しているといいます。

フィンランド料理との相違点としては、ドイツの影響を受けてビールを使った料理が好まれることがあげられています。

料理の嗜好にとどまらず、フィンランド人に比べてエストニア人は酒好きと考えられています。

エストニアと他のバルト沿岸の国家との違いは、魚類を好んで料理に使うことで、特に、イワシは主要な食材の一つだそうです。

 魚好きですか。

バルト海に面しているため、ニシンやウナギ、カレイ、ヒラメなどの魚の料理も食べられているそうです。

 そして酒好き、これは、気になりますね。

 日本全国酒飲み音頭なんて流行ったこと、あったでしょ。

煮込む料理が多く、牛乳とジャガイモは欠かせないというのも、面白いですね。

エストニアは、冬が長く寒い、北ヨーロッパのバルト三国のひとつなので、ロシアなど周辺の国と同じように、シチューや、ローストした肉など、比較的こってりとした食べ物が多いそうです。

ローストと言うと洋風に聞こえるけど、炙り焼きや蒸し焼きのことです。

炙り焼きや蒸し焼きは、日本でも歴史が古い調理法ですよ。

炙り焼きと言えば、日本では七輪だけど、原型は古代にまで遡ります。

土間や野外などに直接置いて火床を囲う程度の持ち運び可能な土師製の炉は古代よりあったものと考えられるが、高床式木造建築の内部に持ち込み、屋内での使用に堪えうる「置き炉」としては平安時代のものが確認できるようです。

元は香炉や祭壇など宗教的祭具として屋内に持ち込まれたものが、手あぶりなど採暖用途として、そして屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものと考えられるといいます。

蒸し焼きも、土鍋のような器があれば基本的に可能だし、いざとなれば地面を多少掘り下げて葉などで覆っても出来ます。

そうそう、きのこも好きな食材だそうです。

お菓子では、カマという、日本のきなこのような粉を使った"カマ・チョコレート"、アーモンドで作る"マジパン"などもあるといいます。

カマは、夏場に、ケーフィルに溶かして飲んだりするそうです。

ケーフィルとは、サワーミルクの一種です。

乳製品としては、ほかにも、コテージチーズの一種コフピーム、サワークリームハプコールなどがあります。

ハプコールは、ロシアのスメタナのように、あらゆるエストニア料理の添え物として活躍しているそうです。

スメタナはロシアのサワークリームで、ボルシチをはじめ、様々なロシア料理に使われます。

スメタナは乳脂肪分の高いクリームを乳酸きんで発酵させたものを言います。

このクリームは、日本で言う生クリームに近いそうです。

昔は、酸化して固まった牛乳の上にできる「うわずみ」で作られていました。

 日本でいえば、味噌や醤油。

そう思えば、エストニア料理は日本人の、日本料理はエストニア人の好みにけっこう合いそうですね。

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スェーデンと日本?

スウェーデン人はスウェーデン王国の国民という意味だが、民族としてのスエーデン人とは、スエーデン国民のなかでもゲルマン民族の人々を指します。

主にスウェーデンで使用されるスウェーデン語は、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派北ゲルマン語群のノルド語の一種に分類されている東スカンジナビア諸語に属する言語です。

ノルド語の元となったノルド祖語は、北ゲルマン語族の祖語で、ゲルマン民族の大移動の時代に話されていたと推定されています。

スエーデン人は、北欧スカンディナヴィア半島に分布するゲルマン民族の総称でもあります。

 ゲルマン人と言えば、主に、スエーデン、ノルウェー、デンマークで、スエーデン人と呼ばれているのでしたね。

 そうそう、日本人にはゲルマンの血が入ってるなどという人もいるでしょ。

ゲルマン人と日本人も、細かい違いはいろいろ指摘されながらも、民族性は面白いほど似ているとよく話題にされますね。

 日本と、イギリスと、ドイツは、ストーンサークルで繋がるのかと驚いたけど、スエーデン人ともゲルマンで繋がるなら、ストーンサークルはあるかしら。

スカンディナヴィア南部はゴートランドあるいはイェータランドと呼ばれ、ゴート族を含むゲルマン系民族がポーランド一帯に遺したストーンサークルと類似するものがスカンディナヴィアで発掘されているというのでしたね。

 じゃあ、スエーデンには…。

スエーデン南部にも、3000年は遡れるであろうストーンサークルがあるそうですよ。

ゲルマン人は、はかにも、ドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、オランダ、イングランドのアングロ・サクソン人、ベルギーのフランデレン人、フランスのアルザス人、イタリアの南ティロル人がこの集団の系譜を引いていますよ。

近年の世論調査では、スエーデン王国国民の90%がスウェーデン人を自認しているそうです。

 ゲルマン人とはゲルマニアにちなむ名称で、自らは、アングロ・サクソン人やゴート人という部族名を名乗っていたのでしたね。

疑問視されている説ではあるけれど、ゴート族はスカンディナヴィア半島を発祥とする民族という意見もあるのです。

9世紀ころには、小さなゲルマン人の王国や首長に率いられた小集団となって北欧に暮らしていたようです。

 このあたりが、ゴート族はスカンディナヴィア半島発祥の民族という意見が出る理由の一つなのでしょうね。

古代に北ドイツから移住したスヴェーア人、いわゆるノルマン人が原初スウェーデン人であるといわれますけどね。

ゴート族はスカンディナヴィア半島発祥の民族というのは、550年頃にアリウス派僧侶でゴート人の歴史家であるヨルダネスが、東ゴート王国の学者カシオドロスの著書を要約して著した史書『ゴート人の事跡(De rebus Geticis)』に載ってるそうです。

 スカンディナヴィア南部はゴートランドあるいはイェータランドと呼ばれたのでしたね。

 「ヴィア」とか「ビア」というと、「シア」「シャ」に音が似てます。

 「シア」「シャ」のある地域には、不思議と日本との繋がりが見えますよね。

スカンディナヴィア半島では、フィンランド人と日本人は遠縁の親戚筋にある民族であることを見てきました。

北欧と日本、文化の比較はもっとされても良さそうですね。

スヴェーア人たちは、ヴァイキング活動の最中に纏まりを見せ、10世紀までにスウェーデン王国を形成しました。

なお、東方及び東欧に進出したヴァイキングの中には、ルーシ族ないし、ヴァリャーグと呼ばれ、キエフ・ルーシ等ルーシ諸国家の建設を担ったものもいたが、これもスヴェーア人を含んだゲルマン人だとされています。

 ルーシ、つまり、ロシアと言えば、ロシア民族歌謡と日本の民族音楽との類似が見えましたね。

ルーシ人は、キエフ・ルーシの人民という意味で用いられ、11世紀から20世紀半ばにかけてウクライナ人とベラルーシ人の自称でした。

なお、ルーシ人は、ラテン語で「ルテニア人」と呼ばれます。

 「ニア」も、「シア」「シャ」に音が似てます。

ロマ音楽が大きく影響している国には、よく見ると面白い傾向が見られるでしょ。

インド・トルコ・マケドニア・アルバニア・セルビア・ギリシャ・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ロシア・スペイン・フランス。

 「シア」「シャ」に似た音が名前に入っている国多いですね。

ロシアがルーシから始まっていることを思えば、スエーデンなどスカンディナヴィア半島の国々の音楽も注目した方が良さそうですね。 

 スエーデンに限らず北欧諸国の音楽に特徴はないという指摘もありますね。

 北欧民族音楽にも、強いて言えばどこかの物に似ているとか、ないのですかね。

日本人にはゲルマンの血が間違えなく入っていると見る人もいるので、ゲルマン系の民族と日本はもっと比べてみる必要がありますね。

スヴェーア人、いわゆるノルマン人は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人です。

初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じと言って良い存在でした。

これらのゲルマン人によって、スウェーデン人が形成されたものと思われます。

民族としてのスウェーデン人は、16世紀のデンマークを盟主としたカルマル同盟からの独立によって成立したと言えます。

フィンランドにいるスウェーデン人は、北方十字軍以降に移住したスウェーデン系フィンランド人を指します。

また19世紀から20世紀にかけてアメリカ合衆国に移住したスウェーデン人は、スウェーデン系アメリカ人と言い、主に北部に移住しています。

アメリカ移民と同時期にカナダに移住したスウェーデン人は、スウェーデン系カナダ人を形成しました。

スウェーデン語を母語とするスウェーデン人は、現在、本国スウェーデンの他、フィンランドとフィンランドの自治領オーランド諸島に住む。

南部のスコーネ県はデーン人に由来し、現在もデンマーク語に近い方言を話すが、一般的にはスウェーデン人に含まれます。

なお、スウェーデン国内には、サーミ人やフィンランド人も少数おり、近年は移民も受け入れています。

宗教はプロテスタント系のルター派(ルーテル教会)が多数を占めており、国教(スウェーデン国教会)となっています。

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