ロマ

エジプトの音楽を想像してみました。

「古代エジプトの音楽」という本を読んでいます。

 

古代エジプトの様々な楽器は、残っています。

 

だが、これらの楽器によって奏でられた音楽については、どのようなものであったかを伝える資料はないといいます。

 

ならば、これらの楽器そのものを手掛かりにするしかないでしょう。

 

ハープ、シンバル、トランペット、リュート、リラ、などの他にも、タンバリンや太鼓などが用いられたことがわかっています。

 

音楽の場には、手拍子もあるし、ボディパーカッションを連想できる壁画もあります。

 

大勢の人が列をなして踊る姿も、描かれています。

 

古代エジプト特有の楽器として、シストルムもあります。

他にも、シンバルを鳴らす道具と組み合わせたクロタラのような楽器もありました。

 

これらの楽器や、手拍子、列をなして踊る人々、さらには、ボディパーカッションもあった可能性を考えると、少なくともどのような拍子をとるのが一番自然かが、見えてきます。

 

強弱の入れ子になってる、拍子です。 

前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるのです。 

強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1っていう感じでしょう。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですよ。 

  

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)


実はこれ、ロマ音楽の拍子の取り方なのです。

 

ロマには様々な呼び方があるが、それらを見ると彼らがエジプトから出た民族である可能性が見えてきます。

ロマは、音楽の他、実は金属加工の技能者集団でもあります。

一見すると、何も関係がなさそうです。

 

だが、もしロマが古代エジプトの演奏者集団にルーツを持つ人たちと見たらどうでしょう。

シンバルやシストルムのような、繊細な加工が必要な金属製楽器のメンテナンスを彼らは自らの手でしていたとしたらどうでしょう。

演奏者は、修繕や制作のような特別な技能者の手を借りる必要のあること以外、日常的な手入れを大抵は自らの手でしています。
シンバルやシストルムの最終的な仕上げは、演奏者自らの手でしていたかも知れません。
簡単な修繕くらいなら、自分でしたことでしょう。
そうであれば、金属の加工技術もあっても不自然ではないでしょう。
何らかの理由でエジプトの地を離れた演奏者集団が、ロマの起源かもしれません。
オリエンタルダンスとも呼ばれるベリーダンスの演奏に合わせて、ロマ音楽の拍子で手拍子をうってみました。
ターキッシュのような激しいアップテンポのベリーダンスもあるが、基本的にはロマ音楽の拍子で手拍子をうってついていくことは可能だし、次第にのめり込んで恍惚の世界にはまり込んでいけます。

あまり夢中になって、踊りださないようにしないといけないです。

何度ものめり込んで、踊りだしそうになったくらいどの曲にもぴったりとついていくことができます。

ロマが作り出した代表的な音楽のジャンルがフラメンコです。

もしかしたら、古代エジプトの音楽は、ベリーダンスやフラメンコに別れる以前の一種独特なテンポやメロディーで演奏されていたのかも知れません。

おそらくそのほとんどが、即興曲だったでしょうから、楽譜など残るはずもありません。

神々やファラオたちを喜ばせるための集団で延々と踊ることのできる即興曲、それが、古代エジプトの音楽だったのかもしれないです。

中には、女性の踊り手によるエロティックなものもあったことでしょう。
男性の踊り手も、あるいはいたかも知れません。

ベリーダンスの踊り手には、かつて男性も少なからずいた記録があるそうですから。

酒、食事、音楽、そして、恍惚に浸った人たちの踊りの群れ。

神々と人々が混然となった恍惚の空間の中で、時を経つのも忘れて音楽によいしれたそんな場面も王宮では、しばしばあったのかもしれません。

これはあくまでも、楽器たちが見せてくれた幻想の世界です。

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チェコ。

1993年に、チェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離しました。

今回は、チェコの方を取り上げてみたいと思います。

 スロバキアも、気になりますけど。

そのうち、取り上げましょ。

チェコの正式名称は、チェコ語でČeská republika(チェスカー・レプブリカ)で、チェコ共和国と訳されます。

通称は Česko(チェスコ)、または Čechy(チェヒ)です。

チェコは、地域的には中欧に属するが、第二次大戦後ソ連圏に組み込まれていた時期には政治的に東欧に分類されていました。

 ソ連崩壊後、再び中欧の国として分類されるようになったわけですよね。

まず、大まかに歴史を振り返ってみます。

中世以降は、チェコ民族の形成を振り返るのが目的なので省かせてもらいます。

古代には、チェコの地にケルト人が居住し独自の文化を形成しました。

チェコは、主に古来はケルト系先住民ボイイ人の名によりボヘミアと呼ばれた西部の広大な盆地とモラヴィアの丘陵とからなります。

西スラヴ系のチェック人(Czechs)が定着し、7世紀にはフランクの商人サモがモラヴィアを中心に国家であるサモ国を建設しました。

サモの死後まもなく滅びたが、その基礎は次のモラヴィア王国に受け継がれ、これがマジャル人の進出で衰退すると、ボヘミアには10世紀頃に王国を建てたという流れがチェコ史の初期の展開となります。

 ケルトは、日本とヨーロッパを繋ぐ民族として何度も話題にしてきましたね。

ケルト人は、中央アジアの草原から馬と戦車や馬車など車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族です。

ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化を発展させました。

 ハルシュタット文化は、紀元前1200年から紀元前500年ですよね。

ハルシュタット文化という名称は、オーストリアのザルツブルク州の南東の湖岸の村ザルツカンマーグートにある標式遺跡が出土したハルシュタットに由来します。

標式遺跡は標準遺跡とも呼ばれ、考古学上の、遺構、遺物又はその一連となる関連性の集合として定義される特定の型式、形式、様式、あるいは、年代、文化期、文化層の命名、簡単に言えば時期区分名命名の契機を与えた遺跡、あるいはその基準となる遺構、遺物が検出された遺跡自身のことをいいます。

例えば、弥生文化とは、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町、現在の東京都文京区弥生の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来します。

この、弥生文化の名の由来となった東京の遺跡は弥生文化の標識遺跡と言えます。

ハルシュタット文化は、中央ヨーロッパにおいて紀元前12世紀以降青銅器時代後期の骨壺文化から発展し、紀元前8世紀から紀元前6世紀鉄器時代初期にかけて主流となった文化です。

後に中央ヨーロッパのほとんどは、ラ・テーヌ文化に移行しました。

ラ・テーヌ文化はヨーロッパの鉄器時代の文化で、スイスのヌーシャテル湖北岸にあるラ・テーヌの考古遺跡で1857年 Hansli Kopp が多数の貴重な遺物を発掘したことから名付けられました。

当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット鉄器文明は紀元前500年から紀元前200年ラ・テーヌ鉄器文明に発展します。

ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立しました。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられます。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存しています。

現在のケルトという言葉は言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代~中世において右図で表されている地域の住民が、「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていません。

そのため歴史学などでは「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っています。

彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されています。

紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになりました。

また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを征服しました。

 マケドニア、ロマ音楽の影響を受けた国や地域を取り上げた時出てきた名前ですね。

ロマ音楽も、日本の民族歌謡との類似が大きいですね。

チェコ音楽の形成は、チェコ史を反映して複雑な経過をたどっているので、特徴の比較は簡単にはいかないようです。

チェコは、その地理的位置付けから周辺の国や民族から翻弄されてきました。

政治的には東ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ハンガリー、オスマン帝国、ポーランドといった大国が鎬を削りました。

民族的にはゲルマン系集団、スラヴ系集団、マジャル人に代表される東方由来の遊牧民などが興亡を繰り広げました。

宗教的には正教会、カトリック、フス教徒を含むプロテスタントといったキリスト教諸会派が勢力を争いました。

このため、その音楽にも多様性が生まれ、アントニン・ドヴォルザーク、レオシュ・ヤナーチェクといったユニークな作曲家を生んだのです。

ただ、どんなに周辺の影響を受けようと、チェコの民族性を音楽も反映しているはずなので、なんらかの特徴は見えると思えます。

チェコは、ボヘミアとモラヴィアの2つの地域に大別されます。

ボヘミアとモラヴィアでは、その民俗音楽に大きな特徴があると言われます。

チェコの指揮者・作曲家のヤロスラフ・フォーゲルは、その違いを次のように述べているそうです。 

ボヘミアとモラヴィア西部は、音階は全音階的な長短調、フレーズは相称的な構造、拍節は厳格で規則正しい拍節構造とリズムパターン、起源は舞踊。

モラヴィア東部と南部およびスロヴァキアは、音階は長短調以外でギリシア旋法や教会旋法に近い、フレーズは非相称的な構造、拍節は不規則な長さのフレーズ構造、起源は歌謡。

ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻しました。

 しかし、もとはケルトの地だったので、全体を貫くチェコらしさは何かあるでしょうね。

聞き比べてみると、面白いことがわかるでしょうね。

 ロマ音楽の拍子で、リズムやテンポが取れるかしら。

ロマ音楽のリズムの特徴は、強弱の入れ子になってることでしたね。

 前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるでしょ。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じでしたね。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですね。

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)

どこまで、それが言えるか興味ありますね。

やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになります。

ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服されます。

カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献です。

やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人、フランス語ではゴール人は、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していきます。

その後、チェコの地にはゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となります。

 ゲルマンも、日本やイギリスとストーンサークルで繋がるのでしたね。

 日本人にはゲルマンの血が入っているという人もいるくらい、ゲルマンの末裔と言われるドイツ人も日本人と気質の類似がしばしば言われますね。

 スラブ人は、調べてみないとわからないけど、ロシアには日本人とよく似た人がいると指摘する人もいますね。

7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。

つづいてアバール人が支配者となりました。

 アバールは、アヴァールと発音する人もいますね。

綴りがAvarsですからね。

アバールとは、 5~9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族です。

支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan)と称し可汗の字が当てられるので、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれ、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれます。

フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアバールです。

フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていません。

しかし、アヴァールが東ローマ帝国およびフランク王国と接触し、スラヴ諸民族の形成に大きな影響を与えたことは注目すべき事です。

 遊牧民というと、スキタイが有名ですね。

 そして、スキタイは行方不明となったイスラエル十支族が行動を共にしたという説があるでしょ。

 ロシア人に日本人と似た顔の人がいるのと、なんか関連あるのかしら。

どうなのでしょうね。

9世紀前半に漸く、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設しました。

大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取しました。

907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになりました。

西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国であるチェヒ国を建設しました。

10世紀にはボヘミア王国が建国され、ヴァーツラフ1世が国王に即位しました。

その後オタカル1世の時にボヘミア王の称号と世襲が承認され、13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得しました。

10世紀後半からカトリックが普及し、11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進みます。

14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれました。

ルクセンブルク王朝ではカレル1世が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えました。

首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立されました。

この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にありました。

15世紀にはヤン・フスがプラハ・カレル大学ー現在のカレル大学―学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門されました。

さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアではフス戦争と呼ばれる大規模な反乱がおきました。

その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになりました。

チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発しました。

この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落しました。

18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まりました。

1848年にはパラツキーがプラハでスラヴ人会議を開催し、汎スラヴ主義が提唱されました。

1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになりました。

19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となりました。

 かつて一緒の国を作っていたスロバキアも、自動車産業に見られるように技術は高いですね。

 もっぱら、外資の工場が進出して作っているので、あまり目立ってないけど。

チェコ料理も、一般に日本人好みの味と言われますね。

素朴で、シンプルな料理は、味付けもマイルドで、イタリアやフランスの料理のように、洗練はされていませんが。

 比べてみると、案外日本と似ている国なようですね。

チェコは、昔の火山の名残で温泉も結構あり、温泉文化も息づいていますよ。

お互いをもっと知っていけば、親近感が湧いてくる国の一つではないでしょうか。

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ロマと演歌とカンツォーネ?

あるイタリア人が、はじめて演歌を聞いて思ったことを知って面白かったですね。

「なんでナポリの歌を日本語で歌ってるの」。

確かに森進一が「帰れソレントへ」を熱唱したなら、あまりの切なさに号泣してしまうかも知れません。

 ナポリと言えば、カンツォーネでしょ。

 カンツォーネは、まさに演歌よね。

カンツォーネは、一般的にはイタリアの太陽や国民性を思わせるような明るく、朗々と歌い上げられる曲を指すのですけどね。

 演歌だって、基本的には明るく歌い上げているのよ。

 歌詞自体は、切ないものが多いけど。

確かに、どちらも、どんなに悲しく切ない歌でも、明るく、朗々と歌い上げられますね。

 泣かせようと歌うと、かえって押し付けがましくなりますね。

カンツォーネ(Canzone)は イタリア語で文字通り"歌"、複数形はカンツォーニ(canzoni)ですよ。

ジャンルとしては、バラードにあたるのです。

バラードは、仏語でballade、英語でballadeと呼ばれている、古いヨーロッパの詩形の一つです。

英語でいうバラッド(ballad)は、物語や寓意のある歌のことです。

通常は詩の語りや、語るような曲調を含む、過去の出来事についての韻文による歴史物語です。

武勇伝やロマンス・社会諷刺・政治がテーマとなるが、バラッドの内容はほとんど必然的に破局が訪れます。

イタリアのカンツォーネや演歌の歌詞は、この英語でいうバラッドに近いですね。

一方、フランス語でいうバラード(ballade)は、とりわけ中世(14~15世紀)フランスにゆかりのある詩形の一つです。

たいていは3連ないしは5連からなり、各連最終行には脚韻が、また短めの最終連(アンヴォワ)においてはたいてい貴公子への呼びかけが含まれています。

カンツォーネは、5連から7連で構成されることが多いので、曲の構成としてはフランスのバラードに近くなるのです。

イタリア人が演歌を日本語で歌われたカンツォーネにしか思えなかったということは、演歌もフランスのバラードに近いと言えるのでしょうね。

 そういえば、演歌は切ない女心を詠ったものが多いね。

 男心を詠った場合でさえ、惚れた気持ちを歌い上げる。

 その意味では、演歌は基本的に恋歌ね。

そして、慕い憧れる相手という点では、自分にとっての貴公子的な存在に呼びかけているといえるのでしょうね。

 演歌も、カンツォーネも、ここが共通。

おそらく、そうでしょうね。

地域としては、イタリアやプロバンスで、よく歌われています。

プロヴァンス(la Provence は、フランス南東部の地域です。

「プロヴァンス」の名称は、ローマ帝国の属州(プロウィンキア、Provincia)であったことにちなみます。

プロヴァンス語で、 Provènço や Provença などとも呼びます。

地域の区分としては、ローヌ川の左岸(東岸)とヴァール川の右岸とデュランス川の南側で区切られた一帯であり、現在の地域圏でいえばプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の大部分に当たるのです。

文化的、歴史的にはこの地域圏に含まれる各県のほか、アルデシュ県とドローム県の各南部、およびガール県の東部もプロヴァンス的であるといえるのです。

 カンツォーネといえば、イタリア、それもナポリをイタリア人でさえ思い出すのでしょ。

 なんで、プロヴァンスが出てくるわけ。

カンツォーネは、プロヴァンスキャンソ(Provençal canso)、つまりプロヴァンス歌謡から派生したと見られています。

カンツォーネは、16世紀末と17世紀初頭の主要なイタリアの器楽の様式を指す名前としても使用されます。

しかし、日本国内においては主に19世紀末から20世紀初頭に書かれたイタリアの大衆歌曲、特にナポリのもの(カンツォーネ・ナポレターナ、Canzone napoletana)を指すことが多いです。

これらはイタリア民謡とよばれることもあるが、古くより伝承された作者不詳の歌ではなく、近代において専門的な作曲家によって作曲された流行歌であるため、「民謡」と呼ぶのは適切ではないとする意見もあるのです。

 このイタリア民謡に対する意見は、ロシア民謡のときも出てきましたね。

日本人にとって、ロシアの歌曲も親近感を覚えるものが多いですよね。

ところで、イタリア人が、なんで演歌をカンツォーネと聞き間違えたと思いますか。

 来てすぐに、日本語がわかる外国人の方が少ないでしょ。

 習ってから来たなら、別だけど。

つまり、旋律が似ているわけですよ。

日本の民謡は、ほとんどロマ音楽のリズムと同じ拍子で手拍子が打てます。

 ロマ音楽のリズムには、強弱の入れ子になっています。

前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるのです。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じでしたね。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですね。

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)

日本の民謡も、その多くはこの拍子を変形したリズムでできているようです。

 これを覚えれば、たいていの日本民謡に合わせて手拍子が打てるのは、驚きでした。

そして、イタリアにもロマはいます。

つまり、カンツォーネもロマ音楽と同じ拍子で出来ているのは偶然ではないのです。

イタリア人に、日本人と似た顔の人が多く、イタリアの料理と日本の料理も、実によく似ていることも、今まで何度も話題にしてきました。

 さらに、音楽まで好みが似ている。

カンツォーネが歌われている地方があるフランスもまた、アメリカで出たアイヌに似た人骨と一緒にあったフランスやスペインの鏃という形で出てきました。

 縄文人の特徴を再現したら、フランスにそっくりな人がいる芸能人にあまりに似ていると、テレビでも話題にしてましたね。

さらに、秋田美人の美白はヨーロッパの血が入っていると見ないと説明できないことも、取り上げましたね。

 東北弁をフランス語と聞き間違えるコマーシャルも、あるよね。

こう見てくると、カンツォーネと演歌の類似は、単なる偶然とはいえないでしょ。

 日本に、ロマ、あるいは、ロマの血を引いた人たちが来ていると言うことかしら。

そこなんですよ。

決定的な証拠がないことには、そうかも知れないとしか言えないのです。

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スカンジナビアと日本?「シア」「シャ」のある地域 その3

「シア」「シャ」のある地域には、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアのほかマレーシア、ロシア、ギリシャ、ペルシャがあるのです。

 ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアの「ネシア」は、ギリシャ語によるものだそうで、現地語にはあまり関係が見られないね。

でも、古代日本を語るうえで避けて通れない地域でもあるのですよ。

マレーシア、ロシア、ギリシャ、ペルシャのうちで、マレーシアは東アジアなので日本に関係があっても不思議はないです。

ロシア、ギリシャ、ペルシャについても、日本との類似や繋がりが見えるです。

 ロシアからヨーロッパ全域に渡って、「スク」や「ツク」のつく地域が多いね。

 ロシアのスクやツクのつく地域は、ロシアと日本を繋ぐ接点かもしれないね。

ヨーロッパのスクやツクのつく地域は、ドイツのプロイセンとも呼ばれるプロシアが関連していそうです。

 ドイツと日本を、ゲルマンから眺めたら意外なことが見つかりましたね。

ストーンサークルだったですね。

 日本と、イギリスと、ドイツは、ストーンサークルで繋がるのよね。

ゲルマンの一族であるゴート族は、スカンディナヴィア半島を発祥とする民族かもしれないのです。

ストーンサークルと類似するものが、ゴート族を含むゲルマン系民族がポーランド一帯に遺したスカンディナヴィアで発掘されているというのです。

スカンディナヴィア南部は、ゴートランドあるいはイェータランドと呼ばれる地域です。

 スクやツクのつく地域と、ゲルマンの関係は探る必要がありそうね。

今回は、「ビア」「ニア」「リア」の付く地域を含めて考えてみたいのです。

ロマ音楽は、奇妙なほど日本の音楽と似た特徴があるのです。

ロマ音楽が大きく影響しているといわれる国には、よく見ると面白い傾向が見られるのです。

 インド・トルコ・マケドニア・アルバニア・セルビア・ギリシャ・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ロシア・スペイン・フランスなどね。

マケドニア・アルバニア・セルビア・ルーマニア・ブルガリアのように、「ビア」「ニア」「リア」の付く地域が含まれているのです。

ハンガリーについては、「リア」がつくハンガリアのような言い方もあるけれど、「ハンガリーの」「ハンガリー風」という意味合いが多いです。

ハンガリー語の語順が日本語と似ているなど接点があるので、多少強引だけど、「ビア」「ニア」「リア」の付く地域に含めて考えてみたいです。

「ビア」「ニア」「リア」は、「シア」「シャ」の転化である可能性は、十分にあるのですし。

「ビア」「ニア」「リア」「シア」「シャ」「スク」「ツク」、これらはみな「~の国」「~の土地」を指す接尾辞です。

これらの語源は、「シマ」である可能性が強いのです。

川崎真治著
「世界最古の文字と日本の神々―全アジア共通の数詞トーテムによる解明 」

本書の中に、「シマ」の語源はスメルだという説が展開されているのです。

ウ・ニル(シュメール語)人口築造・丘状の神殿台閣
ダガル(シュメール語)大きく膨張した。方言ダマル。ダバル

つまり、出っ張った状態が、「ダガル」あるいは「ダマル」や「ダバル」というのです。

川崎氏は、議論をここからさらに展開するのです。

ウ・ニル・ダバル(インダス語)島
  ニル・デムマ(ドラヴィダ語)島
     デムマ(ドラヴィダ語)島。丘状の土地も含む  
     ル・マ(沖縄の波照間)島
     ロ・マ(沖縄の加計呂間)島
     ラ・マ(沖縄の慶良間)島
     シ・マ(倭人語・日本語)島

私は、発音が平唇音的か丸唇音的かの差が、これらの違いを生んだと見たいです。

 そうそう、アラスカも「スカ」が付きますよ。

アラスカは、アメリカ大陸ですね。

「アラスカ」の名は、アレウト族の言葉で「半島」を意味する"Alakshak(アラクシャク)"から来ているのです。

 川崎氏の展開した転化の延長線上に、乗りそうね。

アレウト族(Aleut) は、アリュートとも呼ばれるアラスカとカムチャツカの間にあるアリューシャン列島の先住民族です。

アレウト族自身は、Unangaxと名乗っているそうです。

アレウトの祖先は、氷河期に北東アジアから渡ってきたとされるです。

 北東アジアといえば、当然ロシアも入るでしょ。

マレーシア、ロシア、ギリシャ、ペルシャ、の名前でこんな議論を展開したことがあったです。

「シア」「シャ」を接尾辞とみると、語幹はそれぞれこうなるです。

「マレー」、「ロ」、「ギリ」、「ペル」

面白いのは「ペル」で、南米に「ペルー」があるのですね。

共通するのは、ともに太陽神信仰をしたことです。

太陽神に、ギリシャ神話の「Ἥλιο?(ヘーリオス)」がいるのですね。

ギリシャ語の「オス」は「(なんとか)人」「(なんとか)教徒」という意味です。

となると、ヘーリオスとは「ヘーの民」と解釈してもいいのかもしれないです。

もしそれが言えるのなら、こういっていいことになるのかです。

「ギリシャに「へーの神」つまり、「ヤハウエの神」をあがめる人々がいた」

しかし、「へー」を「ラー」の転化とみたらどうでしょう。

ギリシャとエジプトの交流の深さからいえば、ラー信仰がわたっていても不思議ではないです。

そう思うと「ギリシャ」の「ギリ」は、「ラー」の転化とみてもいいのかです。

そこで、アラスカの「アラ」を、「アラー」と見ると面白いことになるのです。

アラスカの意味は、「アラー(崇拝者)の国」である。

アラーは、もともとは太陽神ラーなのです。

 ペルーも太陽神崇拝で、「ペルー」は「ヘー」の転化で、「へー」を「ラー」の転化で、「アラー」は「ラー」の転化とみれば…。

 繋がりますね。

「ビア」「ニア」「リア」「シア」「シャ」「スク」「ツク」のつく地域名は、太陽神で繋がっていくのかもしれないですね。

 そして、その太陽神は、ラーだとしたら。

日本の太陽神信仰も、古代エジプトとそっくりである以上、ラー崇拝であると言って良いかもしれないですね。

 「ビア」「ニア」「リア」の付く地域と日本、具体的に接点が見つかってくると面白いね、

情報が、欲しいですね。

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アッラーと感嘆?

「あら」「ああ」「まあ」という感嘆詞は、物事に感動したり、驚いたり、意外なことに気がついたりしたときに発し、現代では主に女性が使いますよね。

 「あら、お久しぶり」など、言いますよね。

面白いことに、ロシア語の感嘆詞に、「ウラー」があります。

突撃のときに、または歓喜を表して発っし、万歳と訳されることもあります。

ロシアといえば、“シア”や“シヤ”の付く国と日本の間には、なんらかの繋がりが見えると議論した国の一つです。

バイカル湖畔に、一部の日本人は遡れるという研究もあります。

 ロシア人に似ているって言われる人も、日本にはいますよね。

 ロシア歌謡と日本の伝統的音楽の類似も、話題にしたでしょ。

ドイツ語にも、「ナ・ヤ」という間投詞や、感嘆詞の「アッハ、ヤー!」とか「アッハ、イェー!」があるそうですね。

 ドイツ語っていえば、今のドイツ領ではないけれどゲルマン人がいた土地にストーンサークルがありましたね。

 東京の下町の巻き舌で発音すると、見事なドイツ語になるという面白い話もありましたね。

スペインのバスク人は顔が似ている日本人がいるばかりか、気質の近さを指摘されることもあります。

ロマの踊りに由来するスペインのフラメンコと、日本のエイサーや阿波踊りの振り付け、さらにはロマ音楽と日本音楽の拍子のとり方の類似もみてきましたね。

そのスペインも、「オーレ」とか「オレ」と闘牛士やフラメンコの踊り手などへの賞賛・激励に声をかけます。

「見事だ」「しっかり」「いいぞ」などという意味で使われる、感嘆詞ですね。

アメリカからは、スペインやフランスの様式の鏃と一緒のアイヌ的な古代人骨がでました。

東北弁が発音が似ているので、フランス語と勘違いされるコマーシャルが流れたりしましたね。

 フランスにも、日本人と似た顔の人がいたでしょ。

フランスは、興味深いですよ。

「ああ、嬉しい」と言いたければ「オージョワ」、「ばんざい」ならば「ブラヴォー」です。

「ああ、びっくりした」は「オーケルスュルプリーズ」で、「おや」は「ティヤン」。

「あいた」ならば「アイ」、「ちぇっ」が「フィ」。

「おい」は「オラー」、「なあんだ」は「アロン ドン」。

「オーララ」は、日本の「あーららー」「おーやまあ」と音も似てれば用法も似てます。

「おいおい・・・。」とか「あちゃーっこれだもんなぁやってらんないよー」というふうです。

 中国語の「アイヤー」も、結構日本語に通じるところがあるような気がします。

確かに「アイヤー」は、「あらまー」に音も意味も似てますね。

 定説から言えば、中国は日本人のルーツにもっとも関わると見られている地域を抱える国でしょ。

 なんが、ありそうですね。

 ほかの言葉も、調べたらありそう。

情報が、入らないことには話そうにも話せないですけどね。

日本と多くの類似がみられるイタリアですが、ちょっと興味深いことがあるのです。

イタリアの「ブラヴォー」も、フランスの「ブラヴォー」に音は似ているが、もともとの用法が違ったのです。

イタリア語の「ブラヴォー」は、古典ギリシア語由来の「野蛮な」を意味するラテン語 “barbarus" と「悪い・ゆがんだ」を意味するラテン語“pravus” が混ざった言葉で、もとは「野蛮な」「狂暴な」といった意味の形容詞だったのです。

 もともとのイタリアの「ブラヴォー」に近いフランス語は、「オーララ」ですね。

 「オーララ」は、「おいおい・・・。」とか「あちゃーっこれだもんなぁやってらんないよー」の意味ですもの。

イタリアの「ブラヴォー」も16世紀以降、フランス語の用法の影響を受けて「勇敢な」「有能な」といった意味に変化していきましたけどね。

 いい意味だったはずの言葉も、悪い意味だったはずの言葉も、日常会話で使っているうちに、反対の意味や感じに変わっていくでしょ。

 それで、呆れたとか、驚いたという意味で使われていた言葉も、ほめ言葉になってきたのでしょうね。

そして、次第に「良い」、「素晴らしい」、「偉大な」、「優秀な」、「賢い」といった英語の “good” に相当する幅広い語義を持つようになってきたのでしょうね。

ここで思い出すのは、呆れたとか驚いたという意味で、キリスト教の神の名前が叫ばれることです。

 「オーマィ、ゴッド!」「ジーザス、クライスト!」でしょ。

今まで挙げてきた感嘆詞や間投詞、何か気づきませんか。

 日本語の「あら」「ああ」「まあ」に、音や意味が近い言葉を並べてきたでしょ。

 あ!そうか!

 アッラーに、音が近い。

日本の古代との繋がりを考えたくなる国の言葉に、アッラーを連想できる音があるのは偶然でしょうか。

日本には古代中東の遺伝子があり、先住民であるアイヌの生活文物に古代イスラエルとの類似、神話や顔などで類似が見えるギリシャ、味の好みや神話の構造が近いエジプトを、これまで論じてきました。

 日ユ同祖が論じられるくらいみつかる、旧約時代のイスラエルと日本の文化の類似…。

十支族の来た可能性が見えるシルクロードの端にある日本、やはりなんかありますね。

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ロマとケルトとねんねんころり?ロマと日本?その2。

ロマ音楽は、音階の上では、和声的短音階の第4音を半音高くして二つの増二度音程を持つ独特の音階が用いられることが多いのも特徴です。

和声的短音階の第4音を半音高くして二つの増二度音程を持つ独特の音階は、ハンガリー音階などと呼ばれることもあるのです。

短音階とは、別名、マイナースケールと呼ばれる全音階の一種です。

もっとも基本的な短音階は自然的短音階といい、ほかにも、和声的短音階、旋律的短音階が存在するのです。

この、和声的短音階が、ロマ音楽の特徴に挙げられているわけです。

 一般的に、短音階は、陰気、悲しさといった感情を引き起こすでしょ。

必ず、そうなるわけでもないのですよ。

例えばユーロビートなどは、短音階で作られる曲が多いです。

テンポが速いため、陰気さはあまり感じられないことが多いです。

一方で短音階は、荘重な表現や、勇敢・ワイルドな表現、冷淡・恐怖感の表現にも適しているのです。

ロマの音楽の大きな特徴として、テンポや強弱の激しい変化や交替、細やかなリズムや奔放な修飾、ソウルフルなヴォーカル、そして音高をすべるように移動するグリッサンドの多用などが挙げられるのです。

 この表現の多彩さを支えているのが、短音階なのかしら。

ロマ音楽の情熱あふれる印象は、面白いことに短音階が陰気、悲しさといった感情を引き起こすことと関係が深いのですよ。

陰気とか悲しさといった感情も、行き着くところまで行くと、かえって笑いに転化するのです。

 そういえば、あんまり悲しいと、泣いてるのか笑っているのか、分からない顔になるのね。

 だから、ソウルフルなヴォーカルにも、なる。

 ところで、今回はどういう話題にする気。

子守唄ですよ。

子守唄は、日本のは妙に物悲しいでしょ。

それでいて、悲しいだけじゃあない。

心揺さぶられる、日本のソウルフルな音楽、そう思えるのでしょ。

悲しいけど、生きていかないといけない、生きていかないといけないけど、悲しい。

だけど、恨み節ではない、どこか、底知れない優しさがある。

 悲しみを湛えた優しさ、慈愛に通じる心ねえ。

 日本宣教の過程でフランシスコ・ザビエルは、当時の日本社会に一種独特なキリスト教的な雰囲気を感じ、昔、日本にキリスト教が伝わったと思ったのでしょ。

 でも、ザビエルは、自らの直感を裏付ける証拠を色々探したけれども見つけられなかった。

 悲しみを湛えた優しさ、慈愛、これは、どこかキリストの愛の心に通じますね。

 だから、ザビエルは当時の日本社会に一種独特なキリスト教的な雰囲気を感じたのかしら。

面白い推理ですね。

でも、今考えたいのは、日本の子守唄はなぜ物悲しさに中に、底知れない優しさを湛えられるのか、です。

日本各地に採取された子守唄、どこか似た旋律を感じるのでしょ。

ロマ音楽のリズムは、強弱の入れ子になってるです。

前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるのです。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じね。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですよ。

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字は手拍子の強弱に対応)

日本の民謡も、その多くはこの拍子を変形したリズムでできているようです。

そして、日本の子守唄も大半がこの拍子を変形したリズムでできているようです。

 子守唄は、しばしば、守子(もりこ)と呼ばれた子どもたちによって歌われ、歌い継がれたようね。

 そうなると、子守唄には、これらの歌が生まれた時代背景は当然反映されているのでは。

日本全国の子守唄に見られるロマ音楽と通じる特徴は、どうやって広まったのでしょうね。

 「ねんねんころりよ」の変形とみられる子守唄は、各地に広がっているのね。

でも、明らかに異なる歌詞でも、強い順に4・2・3・1って感じで拍子が取れるのですよ。

例えば北海道のアイヌの言葉にでも遡れそうな歌詞の子守唄も、この傾向は見て取れそうなのです。

アイヌと琉球の類似、東日本とケルト、西日本とロマの対応が見えそうなことと合わせると、ますます、ロマとケルトの関係は気になるのです。

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ロマ音楽と日本音楽は、どこまでつながりが見えるか。ロマと日本?その1。

ロマ音楽が大きく影響している国には、よく見ると面白い傾向が見られるのです。

影響が見られる国々は次のとおりです。

インド・トルコ・マケドニア・アルバニア・セルビア・ギリシャ・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・ロシア・スペイン・フランス。

そのうち、古代日本とのなんらかのつながりや類似が見えているのは次の国です。

インドは、タミル語が日本語の起源のひとつにあげられているのです。

ギリシャは、神話や和裁のはさみ、足の形、さらには秋田美人とのつながりも見えるのです。

スペインやフランスは、アメリカで見つかったアイヌ的な古代人骨からこの地域の様式の矢尻が見つかっているのです。
スペインについては、バスク人と日本人の気質が似ているなどの指摘もあるのです。

 フラメンコやフラダンスと阿波踊りが、どこか似てるのも興味あるね。

ロシアについても、日本人のルーツの一つと見られるバイカル湖があったり、シベリアにアイヌがいるのです。
ロシア的な顔立ちの人々がいるなど、何らかのつながりは考えても良いかもです。

 ロシアも、大衆音楽と日本音楽に拍子の類似が見えますよね。

トルコは、日本に親近感を抱く人が多く、古代にどのようなつながりがあったか調べる価値はあるかも。

ハンガリーは、どのようにつながるか不明だが、語順が似ているという接点が見えるのです。

今のところ日本とのつながりや類似が不明なのは、マケドニア・セルビア・ルーマニア・ブルガリアなのです。

 つまり、ロマ音楽の影響が見られる国の多くに、日本とのなんらかのつながりや類似がみえる。

ええ。

 ロマ、ジプシーの歴史と音楽、踊りはベリーダンスと、とても深く結びついていると言っている人も多いですよね。

面白いのは、古代からベリーダンスが踊られているエジプトが、ロマ音楽の影響を受けたとされる国から外れていることなのです。

 それでいて、ロマについている各国の名称にはエジプトから来た人々という意味があるでしょ。

ロマは、北インドのロマニ系に由来する、中東欧に居住する移動型民族であるとされているのに、エジプト由来をさす名前が多い不思議な民族です。

 さらに、ロマ音楽の特徴とされる拍子で、日本の民謡は大半手拍子が打てる。

 日本の神話や神々の体系や神社、さらには食の好みまで、エジプトに似てる。

 地上の太陽神が治める国、ここも日本と古代のエジプトはそっくり。

ロマの周辺は、さらに見ていく必要がありそうですね。

顔が日本人っぽいのは、スラブ系にも多いって声があったです。

 そういえば、東欧はスラブ系が多いですね。

 セルビア・ルーマニア・ブルガリアも、日本とのつながりありそうですかね。

マケドニアも、歴史をたどってみる価値がありそうですね。

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ロシアと日本?

アイヌの衣装に描かれるいわゆるアイヌ文様との類似性は、擦文文化に継承された続縄文時代の土器の文様にはあると指摘されます。

 擦文とは、土器の表面に付けられた刷毛目でしょ。

土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来ですね。

しかし、アイヌ文様は黒竜江流域や樺太中部から北部の諸民族の文様とも類似しており、その発生・系統を実証することは困難とみられています。

オホーツク海南沿岸にあったオホーツク文化には、アイヌ文化と共通する熊を特別視する世界観がありました。

 でも、擦文文化の遺跡からは、熊を特別視する世界観をうかがわせる遺物は検出されていないようですね。

アイヌにとって重要な祭祀であるイオマンテという熊送りが、オホーツク文化に由来する可能性も、示唆されています。

 オホーツク文化の担い手であったという説もあるニヴフに連なる集団によって担われたと、推定されているのでしょ。

ニヴフ(Nivkh)は、ロシア語での複数形はニヴヒ(Nivkhi)と呼ばれる樺太中部以北及び一部シベリアに住む少数民族ですね。
古くは、ギリヤーク(Gilyak)ロシア語での複数形はギリヤーキ(Gilyaki)と呼ばれたようです。

岩波新書『日本人はどこから来たか』の中で考古学の加藤晋平は、東日本を覆ったクサビ型細石核をもつ細石刃文化を担った人類集団の技術伝統は、バイカル湖周辺から拡散してきたとします。

 1万2千年前から1万3千年前と、言ってますね。

細石刃はバイカル湖近辺から、日本地域へ人の移動とともに技術が広がったと推測しています。

革新的技術であり、各地で自然発生したとは考えにくいからだそうです。

加藤の考古学からの仮説と全く同じ結果を示したのが、大阪医科大学名誉教授松本秀夫の研究です。

 日本人の起源は基本的に北アジアであり、特にシベリアのバイカル地方の可能性が高いとした説でしょ。
 加藤晋平は、「恐ろしいほどの一致といわざるを得ない。」と述べているのでしょ。

ええ。

日本民族に高頻度に見られるGm遺伝子パターンの特徴は、バイカル湖畔のブリアートをピークとして四方に流れており、蒙古、朝鮮、日本、アイヌ、チベット、イヌイットに高頻度で、その源流はバイカル地方とするのが妥当であると推定したのです。

松本秀雄は、東アジアから東南アジアを中心に130の集団から約20,000人の血清資料を採集調査しました。

シベリアの少数民族の血清は、当時のソ連科学アカデミーから提供されたものだそうです。

抗体を形成する免疫グロブリンを決定するGm遺伝子の頻度が民族ごとに固有の値となり、民族を示すマーカーとなるという仮定に基づいた調査でした。
遺伝子の決定は、血清に対する抗原抗体反応によって行われました。

Gm遺伝子の分布によって、モンゴロイドは、「南方系」と「北方系」に大別されます。

日本人は、北海道から沖縄に至るまで、基本的に北方型の遺伝子を持ちました。
南方系モンゴロイドとの混血率は低く、7~8%以下でした。

 Gm遺伝子に関する限り、アイヌと島嶼を除き、顕著な等質性を示したのでしょ。

アイヌと沖縄・宮古の人々は、その両者は特に等質性が高いそうです。
他の日本人集団よりも北方型遺伝子の一つの頻度が高く、南方型遺伝子の一つの頻度が低い等、幾分の相違を示したといいます。

一方、台湾の土着の民族や約300年前に南中国から移住した人々の子孫である台湾人は、沖縄やアイヌの人々とは高い異質性を示したのです。
典型的な、南方系モンゴロイドのパターンだったのです。

朝鮮民族は、朝鮮半島の韓国の人々と中国の朝鮮族とは高い等質性が認められました。

日本人と同じように北方系モンゴロイドに属するGm遺伝子パターンを持つが、日本人以上に南方遺伝子の頻度が高かったのです。

朝鮮民族は当初は日本民族と非常に近い遺伝子パターンを持っていたが、中国と朝鮮とのあいだの、相互移民や侵入などによって、海で隔てられた日本に比べ、北方少数民族や漢民族との混血をする機会がはるかに多く、これが民族の形成に影響したと考えられます。

中国の場合は、Gm遺伝子の頻度分布に、南北方向の勾配がみとめられました。
漢民族の場合は、「北方型」と「南方型」の二つの型の存在を考えないと、分布パターンの説明が難しいようです。

 で、今回はどんな話をしたいわけ。

ロマ音楽のリズムには、強弱の入れ子になっている特徴があります。

 前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があったでしょ。

 強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1って感じでしたね。

Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)

日本の民謡も、その多くはこの拍子を変形したリズムでできているようです。

 これを覚えれば、たいていの日本民謡に合わせて手拍子が打てるのでしたね。

はい、おそらく大半の曲で合うかも。

実は、ロシアの民謡のリズムには、ロマ音楽や日本の民謡と似た特徴があるようなのです。

 日本の民謡の歌詞は、ロシア民謡のリズムで歌えるわけ。

 逆に、ロシア民謡の歌詞は、日本の民謡のリズムで歌えるわけ。

そう。

共通の拍子を持っているから、歌詞を交換しても歌えるのです。

あなたの知っている日本とロシアの民謡で、歌詞を交換してやってみてください。

手拍子してみれば、対応がしやすいと思いますよ。

これは、余談かもしれないけど…。

 なに?

いわゆるロシア民謡は、帝政ロシア時代からソ連時代に生まれた大衆歌曲のうち、戦後日本で広く歌われるようになったジャンルを指します。

大衆歌曲が「民謡」と勘違いされて定着してしまったため、実際は労働歌、革命歌、愛国歌、恋の歌、子守歌、軍歌、英雄を称える歌などが混ざっていると指摘されます。

そのため、ロシアの本当の民族音楽は日本ではほとんど認知されていないという声もあります。

 でも、広く大衆に受け入れられてきた以上、ロシア人の音楽的嗜好が反映されているわけだから今回の議論に大きな影響はないと。

日本でも、年齢を超えて愛された曲の多くは民謡と極めて似通った拍子を持っていますからね。

 日本人の、少なくともアイヌや琉球の人たちと、ロシアとはなんらかの繋がりがあるのでしょうかね。

どこでどう繋がったかは、 わかりません。

でも、シアやシヤのつく多くの国や地域同様に、日本とロシアにはなにかがあるのかも。

 ロシア革命後、ロシア国外に脱出あるいは亡命した非ソヴィエト系旧ロシア帝国国民の中には、日本に亡命した人もいたでしょ。

ロシア帝国から日本に亡命した人の中には、民族的なロシア人の他にかなり多くの非ロシア人、つまりポーランド人やウクライナ人が含まれていました。

非ロシア人の多くも日本において通用しがたいウクライナ語やポーランド語を用いる代わりに、それよりは通じやすいロシア語を用いたのです。
それで、日本では彼らは「ロシア人」であると誤解されました。

 かつてのロシア帝国国民では、あったけど。

亡命ロシア帝国国民の多くは革命後、戦前は日本領だった南樺太に亡命したが、戦後南樺太もソ連領となってからは、北海道を中心とした日本本土に再亡命したのです。

 日本に亡命した白系ロシア人の中には、しばらくしてからオーストラリアなどに再移住した人もいる。

でも、日本人の中には、それでは説明の付かないロシア人に似た顔の人もいます。

 日本とロシアの民謡に、拍子の類似をもたらした人々の子孫ですかね。

可能性は、ありそうですね。

 ちょっと話がそれますが、かつてポーランド語をかじっていました。

 ポーランド語は字こそローマ字ですが、ロシア語と近いと言われる言葉ですよね。

同じスラブ語ですからね。

 で、ロシア語のことはわからないのですが、 「ポーランド語と日本語は言語として一番遠い」という話も聞いたことがあります。

 でもねえ。
 綿(わた)が同じ「WATA」です。
 発音はヴァタになります。

 あとお婆ちゃんの俗語が「ババ」なんですよ。

 こういう発見は言葉を学んでいて楽しくなりますわ。

スラブ語と日本語、特に古語の段階で比較すると案外面白いかも。

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ケルトとアイヌ?

ケルトとアイヌには、いくつか似たところがあると言いますよね。

 まず、渦巻き模様でしょ。
 celtic knotと言われる結び目文様と、アイヌの渦巻き文様に類似を指摘する人がいますね。

「熊祭り」は、西洋の古代においても行われてきました。
熊はヨーロッパの最初期の農耕民たる南東ヨーロッパの新石器時代に「産む神」として崇拝され、土偶にかたどられてきました。

 エーゲ海地方では、キリスト教時代になっても「熊の聖母」の祭祀が行われてきたのでしょ。

この熊の聖母とは、ケルトの女神アルティオの事ですね。
アルティオは、ケルト語で「熊」の意味です。

 アルテイオ女神は、しばしば果物のかごや皿を手にした姿で現されますね。

「果物かご」は彼女が豊穣と多産の女神である事、熊を表すアルティオは「熊の守護神」である事を示しています。

 スイスのベルン市など、今でも「熊祭り」を祝う都市として有名ですね。

「熊の女神像」が、スイスのベルン市の近郊ムリから出土したそうです。
女神像の台座には、「女神アルティオにささげる」と記されていました。

「熊祭り」の儀式も、ケルトとアイヌの共通点なのです。

 日本のアイヌの熊祭りを知ると、西洋人は、「自分たちと同祖ではないか」と感じるとか。

間接的で良ければ、もっと挙げる事が出来ます。

アイヌを先住民とする日本と、ケルトを先住民とするイギリスの文化は似ています。

 妖怪と緑茶の日本、妖精と紅茶のイギリス。

また、五芒星や五色の文化、陰陽の影響を窺える思想の共有も挙げられます。

戦いの文化にも、一対一の対戦を好んだなどの類似が見られるようです。

アイヌと古代ゲルマンには、首長選びの基準と言う共通点があるのです。
両者とも、まず第一に器量がよい事、次に勇敢である事、そして雄弁である事が指導者の条件だったそうです。

ケルトと古代ゲルマンは違うと、言うかも知れないのです。

 ケルトは、他の民族との混血を嫌ったらしいね。

アイヌもまた、よほどの事がないと混血しなかったと言う指摘もあるのです。

また、ゲルマンとの混血はガリアではないかと疑問を持つかも。
古代ローマ人は、ローマ側による呼称「ガリア人」 (Gallī)と「ケルト人」(Celtae)をおおむね同義として扱っていました。

 小アジアに移住したガラティア人と呼ばれたケルト人や、ブリテン島の諸部族に対してガリア人は明らかに区別出来ると言う声もあるの。

同時代の人達には、両者の区別が付かなかったのも事実なのです。

それに、アメリカで見つかったアイヌに似た人骨の傍からはフランスやスペインの様式の石器が出ています。
白人系フランス人は、ガリア人を自分たちのルーツあるいは祖先として意識しているそうです。

なぜ、白人に絞るかと言うと、フランスには植民地時代に来た黒人の子孫もいるからです。

 タロットあるいはタローと呼ばれる、カードを使った占いがあるね。

タロットには、ケルト起源説を言う人たちがいるのですよ。
神秘主義者の間では、タロットの起源についてはケルト起源説の他にも、エジプト、ヘブライ、ロマなどさまざまな説があるそうです。

 タロットを通じてケルトとロマを結び付けて良ければ、面白い事になりますね。

もっとも、O型の多いケルト、B型の多いロマと言う違いも無視は出来ません。
ただ、O型は他の血液型に隠れてしまう性質があるので、それほど気にしないでも良いと言える点もあるのです。

 ロマの影響を受けて生まれたフラメンコは、振り付けの特徴が似た踊りってあるのよね。
 フラダンスや阿波踊り、カチューシャ、ガムランなど、そうでしょ。

ロマ音楽の拍子のとり方も、日本の民謡と似ていますよね。

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タミル語と日本語

学習院大学名誉教授であった国語学者で文学博士の大野晋は、日本語と南部インドの特にタミルの言葉が似ているとしているです。

 タミル語は、ドラヴィダ語族の中で書かれた言語としては最も古いそうね。

現在残る文献の最も古いものの起源は、紀元前後までさかのぼるといわれるです。

ドラヴィダ人(Dravidian)は、アーリア人の侵入以前にインド北部を支配していたと考えられる民族群です。
 
 インダス文明は、ドラヴィダ人によるものだとされているのでしょ。

同文明の遺跡から発見された未解読のインダス文字により記された言語が、ドラヴィダ語族の言語である可能性が高いためです。

日本語の起源を古代タミル語にあるとした、クレオールタミル語説です。

クレオール言語とは、異なる言語を話す商人などの間で自然に作り上げられた言語が、その言語の使い手達の子供によって母語として話されるようになった言語を指すです。

大野晋は、インド南方やスリランカで用いられているタミル語と日本語との基礎語彙を比較し、タミル語が日本語の起源であるとするです。
 
 大野はタミル語との関係で系統論を放棄し、日本語はクレオールタミル語であるとする説を唱えたのでしょ。

弥生時代に稲作・金属器の使用、機織りという文明が南インドから渡来し、それらは日本人の生活の基礎になり、またその時に、日本語の基礎文法もタミル語からとりいれられたと主張してたのです。

  ところで、ロマってインド北部から出たって説あるけど、もとはタミル語が属するドラビダ語族も北部だったなら、関係あるのかなあ。

さあ、注目してる研究者ほとんどいないのじゃないかです。
情報が少ないから、断定は避けたいけどです。

 でも、ロマも気になる人々ですね。

そうですね。

タミル語との日本語とを比較すると、ただ単に言葉の対応だけでも、重要な単語約500に渡る例があげられているのですね。

tambo(田んぼ)→タミル語のtampal、 naru(成る)→naru、fatake(畑)→pat-ukar、fa(歯)→palなどで、ほかにも、眉、切るなども音と意味が似ているのです。

加えて語順(文法)が非常に似ていたり、日本的心情をあらわす「アハレ」(af-are)という言葉にも、対応する語があり、タミル語のav-alam(アヴァラム)は、日本語の語感に非常に近いですね。

日本の和歌と同じ57577の形式が、タミルの古い歌集「サンガム」にも数多くあったりするらしいです。

インド北部とは服装や建築、食べ物や人種も異なる南インドの文化はドラビダ文化と呼ばれ、言葉の他にも、なぜか日本とそっくりの物が使われています。

甕棺、ドルメン、子持壺、小正月の習慣、弥生土器とよく似た模様のある土器、米が主食(北部はナン)、南インドの寺院の祭りのクライマックスに日本とそっくりに登場する御祭の山車…etc。

 例えば小正月だと、日本では、1月14日夕方、ドンド焼きをする。

 注連縄をはり、それに紙を垂らす。

 門松を立てる。

 15日、若水を汲む。

 三河万歳、大和万歳が家々を回り、めでたい言葉を述べ小銭をもらう。

 南インドでは、1月14日に古いものを集めて焼く。

 15日、縄にマンゴーの葉を吊るす。

 バナナの木を切って門に立てる。 

 新しい壷で水を汲む。

 神の使者という少年が家々を回り、寿詞を述べ、鐘を鳴らし太鼓をたたき、歌を歌って小銭をもらう。    
      
こうみてくると、この説は、もっと注目されて良いですよね。

 ところで以前、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」って歌にタントラを連想するって言ってたでしょ。
 
 インドと日本、なにかあるのかな。

 ほかには、日本語の起源に関係ありそうな言葉あるの?

関係がありそうとされる言語は、いくつかあるです。

アルタイ起源説、高句麗語同系説や朝鮮語同系説、オーストロネシア語起源説、アルタイ系言語と南島語の混合言語説、さらには、ラテン語やギリシャ語などと同系なんてものまでです。

 日本人の先祖って、いろんなとこから来てる可能性がありそうね。
 縄文・弥生時代はかなりの長さ。
 その間にどんな交易があったのかは想像の域をでませんが、色々と想像できて楽しいですね。

いろいろ説が出ていても、絞れないって事はそうですね。

だから面白いのですね。
「島国根性」なんていえないですよね。

日本人の顔だって、多民族国家と思えるくらい変化に富んでますし。

最近半世紀間に中国、日本、南インド・タミル、チベット、チャガタイ・トルコ、ペルシャなどの各文明における古典学が、相当に進展してるそうですから。
特に、「原典」の校訂・注解・翻訳・研究・方法論など、進んでいるらしいです。

まだまだ、日本人の起源にはさまざまな議論が出そうですね。

 日本語の語源って、本当になぞですね・・・・。
 タミル語ですか。
 タミル文化なんて、本当に久しぶりに聞いたなあ。
 世界史を思い出して懐かしいです。
 まさか日本語とつながりがあるとは思いませんでした。
 研究が進むほど謎が深まったりして。

ここに、トンデモ扱いされがちなヘブル語説やスメル説までいれたら、本当にぎやかです。

でも、これだけ説が出てくるってことは、起源説に登場する地域の間にもなんか関係あるのじゃないか、なんて議論立てることも面白いかも。

だってそうでしょう。

日本にどこか似ているという、共通点を持っているわけですもん。

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