チベット

髪が結ぶ、祈りの道 ― 美豆良から中東へ

1. 髪は文化のDNA

髪型は、単なる流行ではなく、文化のもっとも深い層を映す鏡です。

なぜなら「頭」は霊の宿る場所であり、どの民族でも神聖視されてきたから。

髪をどう扱うかには、その民族が「人と神、現世と霊界」をどう結んでいたかが滲み出ます。

2. 日本 ― 美豆良(みずら)の霊性

古代日本では、男性が左右に髪を束ねて垂らす「美豆良」がありました。

これは神職や祭祀の象徴でもあり、「神に仕える者の姿」そのものでした。

髪、鏡、勾玉――どれもが神聖な秩序を象徴する三位一体的なモチーフです。

3. チベット ― 髪を霊と結ぶ文化

チベットや中央アジアでは、修行僧や戦士が髪を結い、額に垂らし、紐や飾りで留める伝統があります。

ボン教では神官が髪を束ねる儀式が定型化しており、「髪=霊力の媒体」とみなされていました。

まるで日本の神職の姿のようにも見えます。

4. 中東 ― ペヨートとターバンの聖域

ユダヤ教徒がもみあげを伸ばす「ペヨート」もまた、頭部を神聖化する行為。

律法に従い、「髪を切らぬこと」で神との契約を身体に刻む。

古代ペルシャやイスラエルでは、預言者や祭司が頭に布を巻く――それは祈りの冠でした。

5. 三つの文化を貫く共通線

日本:神職の美豆良

チベット:僧侶の結髪

中東:ペヨートとターバン

それぞれが、「髪を結ぶ=霊を結ぶ=祈りを結ぶ」という同じ象徴体系を共有している。

つまり“頭髪信仰”こそ、ユーラシアを貫く見えざる文化の糸だったのです。

6. 遺伝の糸 ― 中東からチベット、日本へ

現代の遺伝子研究でも、縄文系日本人にわずかに中東~中央アジア由来の成分が見られます。

それは直接の血縁ではなく、遥かなる古代の人類移動の痕跡。

中東 → イラン高原 → チベット → 東アジア → 日本

このルートの上で、文化もまた旅をした――そう考えると、美豆良は単なる風俗ではなく「人類史の毛細血管」のように思えてきます。

7. 前髪文化の謎

日本の古代男性も、ユダヤ教徒と同じく「前髪」に霊的な意味を見出していました。

それは成人・戦士・祭祀のしるし。

髪の先に、祈りを結ぶ――そんな文化心理が、海を越えて響き合っていたのかもしれません。

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蜀の秘密、長江文明、そして日本――古代世界を繋ぐ見えざる線をたどる

「蜀の文化は、日本と関係があるのでしょうか。」

そう思う方も多いでしょう。

楊貴妃の生まれた蜀、長江文明の発祥地、そして三星堆遺跡――これらの古代文明が、実は日本の文化や人々に影響を与えた可能性があるとしたら、どうでしょうか。

それを考えてみたいのです。

まず蜀とは何でしょう。

蜀は長江上流、現在の四川盆地を中心とする地域です。

ここは四方を山に囲まれ、古くから「四塞・天府の国」と称される肥沃な地でした。

秦の昭襄王は李冰に都江堰の治水を命じ、農業生産力を高めました。

漢王・劉邦もこの地を拠点に天下を治めましたし、劉備は諸葛亮の提言を受け、221年から263年にかけて蜀漢を築いたのです。

では、蜀の人々がどんな文化を持っていたのでしょうか。

ここで注目したいのが三星堆遺跡です。

三星堆は成都北方30kmほどの広漢市外れに広がる遺跡群で、古蜀王朝の中心地と見られています。

放射性同位元素年代測定によれば、出土品の古いものは5000年以上前に遡る可能性があります。

青銅器の縦目仮面、大型の祭祀用具、太陽神鳥などは、精緻な技術だけでなく、宗教的・天文的信仰の深さを示しています。

「でも、どうしてこれが日本につながるのでしょうか。」

ここが面白いところです。

まず地理的に見ても、長江の流域、特に下流の揚州や江南は古くから海路や水路の交易が盛んでした。

揚州は楊貴妃の一族と関連があるかもしれない土地でもありますし、江南地域は日本との文化交流の窓口として機能していました。

実際、鑑真和上の出身地は揚州に近く、日本最古の唐招提寺の建築や仏像彫刻にはこの地域の影響が見られます。

さらに、祭祀の面でも興味深い痕跡があります。金沙遺跡から出土した黄金の太陽神鳥は、鳥が太陽を運ぶ姿で描かれ、古代エジプトの太陽の船と類似しています。

三国時代以前の蜀の文化には、天文や太陽信仰が深く関わっていたことがうかがえます。

この太陽信仰の流れは、稲作文化や祭祀の形を通じて日本へ伝わった可能性があるのです。

「でもそれは、本当に遠い古代中東とつながるのでしょうか。」

実は、ここでY染色体D系統の話が出てきます。

日本人、チベット人、中近東の一部地域の人々が共通して持つこの系統は、古代人の移動や交流の証拠の一つと考えられています。

インダス文明や古代エジプト、メソポタミア文明との交易や文化的交流の可能性を考えると、蜀の文化は単なる中国内陸の独自文化にとどまらず、広域的な古代世界の一部として理解できるのです。

さらに面白いのは、三星堆の青銅器や符号です。

縦目仮面や巨大な耳、口を持つ像、胴体に穴が開いた像などは、古代エジプトやメソポタミアの神々の遺構に共通する特徴があります。

文字のように刻まれた記号は、インダス文字に似ていると指摘する学者もいます。

つまり蜀の文化は、単独ではなく、古代中東やインダス文明を含む広域文明の系譜の中で位置付けられる可能性があるのです。

「それでは、これで日本にどうつながるのでしょうか。」

長江文明から日本へは、稲作技術、祭祀、宮廷文化などを通じて伝わったと考えられます。

揚州や江南の港湾都市が文化交流の窓口となり、稲作や太陽信仰の祭祀、宮廷音楽や舞踊が日本に影響を及ぼしたのです。

また、Y染色体D系統が示す古代人の移動は、日本列島とチベット系民族、さらには中近東とのつながりを物語ります。

こうして蜀の秘密、長江文明、三星堆の出土品、古代中東との接点、そして日本への文化伝播――これらを順にたどると、古代世界を横断する見えざる線が浮かび上がります。

楊貴妃や蜀漢の歴史は、ただの王朝史ではなく、古代文明の広がりと文化のつながりを理解する手がかりになるのです。

最後に問います。

「5000年前の青銅器や太陽神鳥、縦目仮面を前にして、私たちは世界のどこまで文化的に繋がっているのでしょうか。」

皆さんも、蜀の秘密と日本の文化の意外なつながりを想像してみてください。

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カザフ相撲。

カザフ相撲は民族の伝統競技で、本来は裸に帯というから裸に回しの日本の相撲に似ている。
日本の相撲の土俵は時代が下がってできたものなので、土俵のようなものがないカザフ相撲はむしろ原型に近い。
普及のために、道着を着用することも増えたと言うのは時代の流れか。

カザフ人は、中央アジア西北部のカザフステップに広がって居住するテュルク系民族だ。
カザフスタンにおよそ800万人が住んで同国人口の半数を占める他、中国の新疆ウイグル自治区北西部に約130万人が住む。

カザフ人のほとんどは元来遊牧民で、20世紀初頭までは人口のほとんどが遊牧生活を行っていた。
ソ連で1930年代に大規模な定住化が政策として行われた結果、現在は都市民・農耕民となっている。

カザフ人はおそらく15世紀にカザフという名前を使い始めた。
カザフ語またはカザック語の起源については、多くの理論がある。

テュルク語の動詞qaz(放浪者、山賊、放浪者、戦士、自由、独立)から来ている、あるいはテュルク祖語の*khasaq(カザフ人がパオや持ち物を運ぶために使う車輪付きの荷車)に由来すると推測する人もいる。
カザフ語の起源に関する別の説は、8世紀のチュルク語のウユクトゥランの記念碑で最初に言及された古代テュルク語のqazğaqに由来するというものだ。

歴史を通じて、カザフスタンは、サカス(スキタイの一族)、匈奴、西テュルク・ハン国、キメク・キプチャク連邦、モンゴル帝国、黄金の群れ、1465年に設立されたカザフ・ハン国など、ユーラシア草原の多くの遊牧民社会の本拠地だった。

テュルク系民族の正確な起源の場所は、多くの議論の的となってきた。
中央アジアに移住した中世初期のテュルク系民族は、古代北東アジア人と遺伝的親和性を示し、アムール地方の新石器時代の狩猟採集民の間で最大化された遺伝子プールから祖先の約62%を導き出していた。
また、イラン人、ウラル人、エニセイ人の人々との接触の証拠もあると言う。

カザフ語は19世紀半ばまでアラビア文字で書かれていたが、イスラム教徒のマドラサ出身の多くの教養あるカザフスタンの詩人がロシアに対する反乱を引き起こした。
ロシアの対応は、世俗的な学校を設立しキリル文字でカザフ語を書く方法を考案することだったが、これは広く受け入れられなかった。
1917年までに、カザフスタンのアラビア文字は学校や地方自治体にも再導入された。

1927年、カザフスタンの民族主義運動がソビエト連邦に対抗して勃発したが、すぐに鎮圧された。
その結果、カザフ語を書くためのアラビア文字は禁止され、ラテンアルファベットが新しい書記体系として課された。
カザフ人をロシア化するために、1940年にソビエトの介入主義者によってラテンアルファベットがキリル文字に置き換えられた。現在、ラテン文字に戻す取り組みが行われており、2021年1月には政府がラテン文字に切り替える計画を発表した。

いろいろ変遷があったが、19世紀半ばまでアラビア文字で書かれたと言うのは興味深い。

カザフ人は複数の起源を持つ民族だが、カザフ人のすべてのサンプルにおいて、ハプログループDは主に北東アジア人、日本人、沖縄人、韓国人、満州人、モンゴル人、漢民族、チベット人などに見られるが、最も頻繁に観察されそれらのカザフ人のほぼすべてがD4サブクレードに属している。
2番目に多いハプログループは、Hで主にヨーロッパ人、またはCで主に先住民のシベリア人だが、南北アメリカ、東アジア、北ヨーロッパと東ヨーロッパにいくつかの分岐がある。

以上は主にミトコンドリアDNAで判明した母方の系譜だが、父方はカザフ人でもアルタイ系カザフ人では異なる結果が出ている。

カザフ人の主な父方の血統は、それぞれC(66.7と59.5%)、O(9と26%)、N(2と0%)、J(4と0%)、R(9と1%)となり、NやJやRではアルタイ系カザフ人がほとんどないのが目立っている。

カザフ相撲が相撲の原型に近いということは、様々な系統が入ったとはいえ彼らの起源が中東に近いことを物語る。

ミトコンドリアDNAに日本やチベットと共通の遺伝子が見られることも、それを裏付けるだろう。

カザフ相撲から、面白いことになってきた。

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神道とシンドウとヒンドウ?

「仏教メソポタミア起源説」「『ブッダの謎』─仏教西アジア起源論」と言った興味深い本が出ています。

仏陀と仏教に関する本なのだが、妙な気分になったのです。
日本には古代中東の遺伝子が多く残り、日本語とタミル語は同祖の言語と言う説が唱えられ、日本にはインドや中東と似た顔もよく見られるでしょ。
仏教それ自体の起源は意外と古く、釈尊は歴史の深い仏教における聖者の一人にすぎないともいえますよね。
そして、仏教の起源は西アジアに遡るとなると、気になるのはヒンドウと言う言葉です。
シンドウとも呼ばれるが、濁点を取ればシントウになるでしょう。
日本語は歴史を遡ると、発音のあいまいな二重母音の時代があるのでしたね。
二重母音、特に日本のようなワ行母音に近い二重母音の場合、濁点は落ちやすい訳ですよ。
日本の民族宗教であるシントウの読みが、シンドウの転化だったとしたら、そしてもし、シンドウの民は西アジアに遡るとしたら、どうなりますか。
古代日本の成立期、意外なほど多くのペルシャ人が参加して活躍してるが、古代中東や西アジアの文化が色濃く残る日本で、彼らは自らの理想を実現したかったのだろうかと思えてくるのです。
さらに、ペルシャ人仏教徒が古代日本に多数来ているが、彼らは仏教が少数派となった西アジアを逃れ、安住の地を求めてやってきたのだとしたら、どうなりますか。
ヒンズー教、ヒンヅー教とも呼ばれるヒンドゥー教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教だが、ネパールに近いチベットも日本と同様に古代中東の遺伝子が多く残り、インドもドラビダ語と日本語の近縁性が指摘されるのですよ。
神道はシントウと呼ばれているけれど、シンドウが二重母音の曖昧な発音が原因でそう呼ばれているのに過ぎないとしたら、どうなのでしょうか
考えても見てくださいね、ヒンドウはシンドウとも呼ばれるとしたら、ヒンドゥー教はシンドウ教になまっても良いはずでしょ。
そして、ヒンドゥー教と言う言葉は、他の宗教との比較や区別の必要性から出てきたわけだから、本来の名称はヒンドゥーなわけですよ。
ヒンドゥーの教えに随う民がヒンドゥーであり、神道の教えに随う民が日本人だったと言えるでしょう。
今、日本では多くの宗教が混在しているけれども、八百万の神々を受け入れてそれでいてびくともしないあたり、ある意味、ヒンドゥー教に似ていませんか。
穢れや嫌なことは水に流すと言う言葉があるが、ヒンドゥーの民はまさにいまでも聖なる川で身を清めたいと願っているわけでしょ。
こんなところにも、日本人の西アジア起源の可能性が感じられるのかと、妙な気分になったのでした。

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法輪を考えてみた。

法輪は、仏教の教義、特に釈迦が説いた四諦・八正道の別称です。

 

法輪は、仏教の教義を示す物として八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化されました。

卍と共に仏教のシンボルとして信仰され、寺院の軒飾りにも使用されました。

中国では道教にも取り入れられ、教義を示す用語として使用されています。

 

法輪の「輪」とは古代インドの投擲武器であるチャクラムを指すと見られています。

 

チャクラムは、古代インドで用いられた投擲武器の一種です。

チャクラムは、日本では戦輪、飛輪や、円月輪とも呼ばれ忍者が使用したものです。

ちなみにチャクラとはサンスクリットで「輪」を意味する中性名詞の語幹です。

チャクラムは、投擲武器としては珍しく斬ることを目的としています。

チャクラムの直径は1230cm程で、真ん中に穴のあいた金属製の円盤の外側に刃が付けられています。

 

投げ方は二通りあり、円盤の中央に指をいれて回しながら投擲する方法と、円盤を指で挟み投擲する方法です。

ヒンドゥー教の神であるヴィシュヌも右腕にこの円盤をもつとされています。

 

人々の煩悩が僧侶から説かれた仏教の教義を信じることによって打ち消されるさまを、転輪聖王の7種の宝具の1つであるチャクラムに譬えた表現であるとされます。

 

そこから、仏教では教義である法輪を他人に伝えることすなわち転を転法輪と言うようになりました。

転法輪は別名、転梵輪ともいいます。

 

だが、法輪については、釈尊が説法して人々の迷いを砕く有様を戦車が進んでいって敵を破ることにたとえたものと言う見方もあります。

 

つまり、実際のところ正体が不明なので、古代インドにあった武器で印象の似ているものを、恐らくこれであろうと推論が述べられているのに過ぎないわけです。

 

ならば、新たな説を唱える余地もあると言うことです。

 

実は釈尊には、中東系の可能性があるのです。

何しろ、こんな本が出るくらいです。

「仏教メソポタミア起源説」「『ブッダの謎』─仏教西アジア起源論」。

そうなると、法輪のイメージとして釈尊の思い描いていたものは、中東由来の可能性は否定できないのです。

 

聖書の創世記に、この記述があります。

 

創世記 3 24

神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

 

神は、言いつけに背いて知恵の木の実を食べた結果として死を知る必要が出てきたアダムとイブが罪を得たままで命の木の実を食べて永遠の命を得ることが無いよう、ケルビムと、回る炎のつるぎとで命の木への道を守らせたわけです。

 

このケルビムも輪と関係があります。

エゼキエル書 10 6

彼が亜麻布を着ている人に、「回る車の間、ケルビムの間から火を取れ」。と命じた時、その人ははいって、輪のかたわらに立った。

 

そしてこのケルビムの正体として、グリフィンとスフィンクスが候補に挙がってきたのです。

 

スフィンクスはすでにおなじみでしょうから、グリフィンについて紹介します。

 

グリフィンはグリフォン、グライフ、グリュプスとも呼ばれる伝説上の生物です。

一般的には、鷲あるいは鷹の翼と上半身、ライオンの下半身をもつとされるが、ライオンの頭で表現される場合もあります。

 

グリフィンには車をひく役割があるとされるほか、面白いことに、ローマ時代になるとシリアやパレスチナ周辺でグリフィンと一つの車輪という図像が突然現れると言います。

 

問題は、ケルビムと炎が深い関係があることです。

 

古代から中東には王家の象徴として太陽をかたどった紋章がありました。

その形はなんと、日本の天皇の象徴である菊花紋とそっくりなのです。

 

エジプトでは宗教改革でアメン神からアテン神へと崇拝の対象が切り換えられたことがあったが、そのアテン神の姿は太陽円盤の周囲に放射線を描くものです。

 

この宗教改革はアクエンアテン一代で挫折したが、アテン神は中東で古来から崇拝の対象であった太陽神と主張されていたのです。

 

もしこの主張が正しかったなら、菊花紋そっくりの太陽神の紋章の正体はアテン神だった可能性が出てきます。

 

現在ではトルコのイスタンブールで博物館となっているアヤソフィアは、東ローマ帝国時代に正統派キリスト教の大聖堂として建設され、トルコがイスラム圏になってからはモスクに転用されたこともあった建築です。

 

アヤソフィアの四角い建物に丸いドームが載っている形は、円で象徴される天と四角で象徴される地をそれぞれ表しています。

 

円で象徴される天の中心に太陽円盤の周囲に放射線を描くアテン神を配すると、見た目は車輪のような形になります。

 

法輪は、八方向に教えを広めるさまを表現する車輪形の法具とされるが、アテン神の周囲に光を放つ太陽神のイメージを重ね合わせることはできないでしょうか。

 

密教では、最高神は太陽の光の象徴とされる大日如来とされています。

 

もし、大日如来の正体はアテン神だとしたらどうでしょう。

 

そして、ケルビムやグリフィンに関係深い輪の正体もまたアテン神だとしたら…。

 

ケルビムもグリフィンも、神の守護者とされています。

 

法輪は、アテン神であり、ケルビムやグリフィンと関係があるのでしょうか。

釈尊中東説がもしも成り立つのであれば、このような解釈もあり得るのではないか、そう思ってまだまだ、証拠集めと検証が必要であることを承知で今回の議論となりました。

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漢字は誰が作ったのか。

漢字は聖書で読み解けるのではないか、そういう議論には何度か出会ってはいました。

何人もの人たちがそう指摘するなら誰かが一冊の本にまとめているのではないか、そう思って探してみたところ、この二冊が見つかりました。

 

旧約聖書は漢字で書かれていた―「創世記」が語る中国古代文明の真実

C.H.カン&エセル.R.ネルソン

 

漢字に秘められた聖書物語

ティモシー.ボイル

 

興味深いことに、著者はいずれも漢字文化圏の人ではありません。

正確に言えば、著者の一部と言うべきですが。

 

「旧約聖書は漢字で書かれていた」の方はオリジナルの研究は中国人牧師だったが、その人と連絡を取り合いながら執筆したのが非漢字文化圏の人でした。聖書と漢字のただならぬ関係に気付いて研究を始めた中国人の仕事に興味ひかれた著者が、協力したと言います。この本はそのようにして集まった数人の人たちが関わったプロジェクトの成果として出されたものです。本書は、この議論が本当に成り立つのかと言う検証に重点を置いているので、その手の話に興味がある人には、こちらをお勧めします。

 

「漢字に秘められた聖書物語」の方は面白いことに、漢字を覚えるのに自分にとって身近な聖書の知識が使えないかとやってみたところ、あまりにも多くの漢字が解釈できてしまうので、どんどん進めてとうとう一冊の本になってしまったと言う事なようです。多くの外国人から漢字学習に使いたいので英語版が欲しいと言う声に応えて、自費出版で英語版まで出してしまったと言うことです。聖書で読み解けると言うなら実例を見せろと仰る方には、解読例の多さでこちらをお勧めします。

 

全く違う動機から漢字を聖書で読み解く仕事をまとめた本が複数執筆されたという事実は、聖書と漢字の関係がただならないものである可能性があると言っているような気がするのです。

 

そこで、白川静の「文字講話」を開いてみました。

 

すると、この記述に目が留まりました。

 

許慎の「説示解字」にこうあると言うのです。

易の八卦を作ったのが文字の起源であると。

 

易は陰陽と深いかかわりがあります。

 

そして、陰陽はタントラなどとならぶ、古代の弁証法思想なのですが、陰陽やタントラとユダヤ教神秘思想であるカッバーラとは、実は深い関連を指摘できるのです。

 

聖書自体の編纂は、漢字の誕生より時代が下ると指摘されます。

 

しかし、やがて聖書に結実することとなる伝承や思想が、その編纂に先立って東方に伝わることは、大いにあり得る事なのです。

ペルシャとインドの民族の起源は極めて近いことは、よく知られていることです。

古代中東の思想がベースとなって、インドではタントラが、中国では陰陽や易が、生まれたことは十分に考えて良い事ではないでしょうか。。

 

日本人の祖先は、東アジアや南アジアの民族が分かれるより前に中東を旅立ち、日本にたどり着きました。

 

実際中国古代の民族の移動を見ると、西方から来た白人的風貌な民がいたことがわかっています。

 

例えば、楼蘭故城の西170㎞で見つかった小河墓です。

集団墓地には眠っていたのは、彫りの深い白人に似た容貌なミイラたちでした。

赤く塗られた棒状の男性を象徴する墓標に女性が、黒く塗られた扇状の女性を象徴する墓標に男性が、葬られているのです。

これは陽の男性原理には陰の女性原理、陰の女性原理には陽の男性原理が配されると言う、陰陽に極めて近い思想が示しています。

大陸内部で彼らの消息を辿ることはできていないが、滅びた痕跡も見つかっていない以上どこかに移住したと見るのは自然であり、その先が日本であることは十分あり得るのです。

 

神道の哲学もまた極めて陰陽に近く、随神(かんながら)の思想は経典こそないがこれまた聖書の教えに奇妙な程似通っているのです。

そして、アイヌの生活文物に古代イスラエルとの類似が、沖縄にいたっては文化と聖書の類似が、指摘されるのです。

 

縄文人のルーツも一筋縄ではいかぬところがあって、複数の集団が合わさっているのではないかと見られています。

そうなれば、そのうちの一つにアジアルートがあると考えるのはごく自然です。

そして、そのルートが古代中東のカッバーラに通じる思想の伝播と深く関わっていたとみても良いのかもしれません。

 

実際、釈迦を生んだ地域と近いチベットも日本人と共通の古代中東の遺伝子が残っているのです。

 

「旧約聖書は漢字で書かれていた」のなかで、キリスト教と驚くほど似通った上帝に注目しています。

もしかすると、この上帝思想も日本の天皇の思想の下敷きになっているかもしれないと考えてみても面白いでしょう。

この上帝思想から、天孫降臨の発想も生まれたのかもしれません。

 

古代中東から東アジア、さらには日本への民族の移動の過程で、やがて聖書に結実することになる伝承が古代中国の地に伝わり、漢字の成立に多くの影響を与えているのかもしれません。

 

彼らは興亡の激しい大陸を逃れ、日本に渡ってきたがやがて自らの出自を忘れ、日本に同化してしまったのかもしれないですね。


漢字を簡単に簡体字に替えてしまった現代中国と、古い字体を伝え続けている日本と台湾。

そう考えてみると、不思議な気がするのです。

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モンゴロイド

DNA分析の成果によれば、現生人類発祥の地はアフリカにあるとされます。

 

人種間の遺伝的距離を計ると、人類集団はアフリカ人であるネグロイドと西ユーラシア人であるコーカソイドのグループ、およびサフール人と呼ばれるオーストラロイドと旧来モンゴロイドとされた東南・東アジア人によって構成される東ユーラシア人と南北アメリカ大陸に住むインディアン、エスキモーのグループの2つのグループに大別することができるとされます。

 

 そのうちのネグロイドは、現生人類の祖の直系の子孫とされますね。

 

黄色人種、モンゴル人種とも言うモンゴロイドは、形態人類学上の「人種」概念の一つです。
人種とは、ヒト・人間を分類する用法の1つで、生物学的な種や亜種とは、異なる概念です。
現生するヒトは、遺伝的に極めて均質であり、種や亜種に値する差異も存在しません。

 

肌の色はヒトという種の集団の分化の過程で選択圧を受けやすく最も短期間に変化する形質の一つであり、肌の色の類似または相違でいわゆる「人種」を区別することはできません。
肌の色を発現させる遺伝子についても、肌の色と同様いわゆる「人種」を区別することはできません。

 

 人種は混血可能な点で、イエネコのネコ種に近いわけですね。
 ネコ種によって外見の差はあっても、子供が出来ない組み合わせはないですから。

 

モンゴロイドの身体的特徴としては、目の下に蒙古襞(もうこひだ)というシワがある、鼻が低く獅子鼻、髭が薄い、歯が黄色い、顔以外では、蒙古斑といって乳幼児のお尻が青い、などが挙げられています。
ただし近年、蒙古斑は程度の差こそあれ、コーカソイドやネグロイドにもあることがわかってきたといいます。
コーカソイドの場合は蒙古斑の色が薄いため、ネグロイドの場合は肌の地色が濃いため、確認が難しかったそうです。

 

黄色人種の名はヨーロッパ人と比較した際のモンゴロイドの肌の色に由来するが、実際のモンゴロイドの肌の色は、淡黄白色から褐色までかなりの幅があります。
ネグロイドやオーストラロイドのような極端に黒い肌はみられないですけど。

 

近年のDNA分析によれば、モンゴロイドはアフリカからアラビア半島・インド亜大陸を経由し、ヒマラヤ山脈・アラカン山脈以東に移住した人々が、周囲の自然環境により他の「人種」との交流を絶たれ、その結果独自の遺伝的変異及び環境適応を経た結果誕生した「人種」であるとされます。
モンゴロイドの原初の居住地は、ヒマラヤ山脈及びアラカン山脈よりも東及び北側とみられています。

 

 日本人は、世界でも稀な古代血統とされるY遺伝子D系統を多く持つ人種ですよね。

 

世界的にも、日本人の他にはチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっていると指摘されます。

 

 日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名と言うことは、アラビア半島周辺から移動を始めた頃の遺伝子を未だに持ってる人がそれだけ大勢暮らしているのが日本なんですね。

 

日本人にも、家族性地中海熱という遺伝性疾患の発症例が確認されていますからね。
近年、報告例は増えているそうだけど、認識が深まってきたので分類される場合が多くなった可能性はあるかも知れません。

 

名前に地中海とあるのは、この病気は地中海沿岸域の人々や、中近東つまり、ユダヤ人特にスペイン・ポルトガル系のユダヤ人であるセファルディ・トルコ人・アルメニア人に現れるからです。
原因遺伝子がわかってからは、イタリア人・ギリシャ人・アメリカ人の中にもこの疾患が見つかるようになりました。

 

そうなるとチベットは気になるけど、手元にデータがないので、どちらとも言いかねます。

 

各地域に住む人々のミトコンドリアDNAやY染色体、或いはヒトの核遺伝子を比較することにより、ヒトの移住の時期・系統・経路が推定出来ます。

 

近隣結合法を用いた斎藤成也による核遺伝子DNAの分析、Ingman et al.、篠田謙一らによるミトコンドリアDNAの分析によるモンゴロイドの出現について示すとこうなると言います。

 

ただし、特に斎藤はモンゴロイドという名称に異議を唱えていますけど。
またヒトは同一種であるため、用いる遺伝子によって異なる結果がでることもあり、小さなクラスターについては特に顕著となります。

 

20万〜15万年前、アフリカ大陸において現生人類であるホモ・サピエンスが出現したと言うのが人類のアフリカ単独起源説です。
その後10万年前にはアフリカ大陸の対岸に位置する中東地域に進出し、現在のコーカソイドの前身となります。

 

中東地域に進出した人類は、その後7万〜5万年前にサフール大陸すなわち現在のオセアニア地域に進出、オーストラロイドの前身となります。

 

さらに、5万〜4万年前には西方では地中海伝いにヨーロッパへ進出する一方、東方ではヒマラヤ山脈を越え東南アジア・東アジア方面に進出します。

 

ヨーロッパに進出したグループは、その後も中東地域および北アフリカ地域との交流が保たれたため、これらの地域の人々の間では遺伝的な差異が生じず、現在でも同じコーカソイドである西ユーラシア人に分類されます。

 

しかし、東南アジア・東アジア方面に進出した人々は、天然の要害であるヒマラヤ山脈・アラカン山脈が障害となり、中東・インド亜大陸の人々との交流を絶たれ、独自の遺伝的変異・環境適応を成し遂げることとなります。

 

これが、後のモンゴロイドです。

 

モンゴロイドは、東アジア、中央アジア、東南アジア、東ロシア、北極圏、南北アメリカ大陸、太平洋諸島、南アジアの北東部のほか、アフリカ近辺のマダガスカル島にも分布します。
アメリンドすなわちネイティブ・アメリカンとアイノイドつまりアイヌのどちらか一方もしくは両方を、別人種としてモンゴロイドに含めない用法もあります。

 

ユーラシア大陸東部のモンゴロイドは、寒冷適応の程度の軽重によって大きく古モンゴロイド・新モンゴロイドに区分されたが、遺伝的に見ると他の集団間の差異に比べて大きな隔たりは存在しないです。

 

 古モンゴロイドは旧モンゴロイドということもありますね。

 

モンゴル地域・中国東北部・朝鮮半島には新モンゴロイドが比重として圧倒的に多いのに対し、大陸南部や島嶼部へ行く程古モンゴロイドの比重が高まっているとされました。

 

DNA分析の結果等から現在は否定されているが、次にあげるような説が展開された時期もありました。

 

ユーラシア大陸東部に居住したモンゴロイドは、既に絶滅したとされる北京原人やジャワ原人の子孫であるという説。
ユーラシア大陸西部では、現代人の直系の祖先であるクロマニヨン人と既に絶滅したネアンデルタール人とが共存した時代を有することから、現代の欧州人はネアンデルタール人の血を引いているとの説があり、それと同様にモンゴロイドも北京原人やジャワ原人と現生人類との混血であるとする説。

 

現在の人類学では形質研究よりも遺伝子研究が重視されています。

 

遺伝子的には南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドと区分する場合もあります。

 

遺伝的な近縁関係から人類集団を分類する近年の学説では、先述の通り、アジアに居住を続けてのちに一部が太平洋諸島・マダガスカル島に移住した東ユーラシア人と、南北アメリカ大陸で分化した南北アメリカ人に、旧来の狭義の「モンゴロイド」が二分されるとします。

 

 アメリカ先住民であるネイティブ・アメリカンとアイヌや琉球人を古モンゴロイド、アイヌや琉球人以外のアジアのモンゴロイドを新モンゴロイドに、分けるやり方。

 

 アジアに居住を続けてのちに一部が太平洋諸島・マダガスカル島に移住した東ユーラシア人と、南北アメリカ大陸で分化した南北アメリカ人に、分けるやり方。

 

 だから、アメリンドすなわちネイティブ・アメリカンとアイノイドつまりアイヌのどちらか一方もしくは両方を、別人種としてモンゴロイドに含めない用法もあるとなる。

 

 その場合、新モンゴロイド、東ユーラシア人、に分類される人たちが狭い意味でのモンゴロイドということになる。

 

古モンゴロイドや新モンゴロイドとは、寒冷地適応を経ているか否かの違いを表したハーバード大学人類学教授William White Howellsによるモンゴロイドの分類で、日本では埴原和郎や尾本恵市らが用いているようです。

 

中東地域・インド亜大陸方面から東南アジア方面に進出したと考えられるモンゴロイドを、形態人類学では古モンゴロイドと区分しました。

 

 古モンゴロイドは、アジアではモンゴルの中央と東部地域、および中国北部、華南、東南アジアなどの地域に比較的多く見られるようですね。

 

日本列島に到達した縄文人は古モンゴロイドとされます。

 

古モンゴロイドは、熱帯雨林に適応した結果、低めの身長、薄めの肌の色、発達した頬骨、鼻梁が高く、両眼視できる視野が広い等の特徴を持つと考えられています。
他の、彫の深い顔、二重瞼、体毛が多いこと、湿った耳垢、波状の頭髪、厚い唇、多毛等の特徴は新モンゴロイド以外の多くの「人種」と共通します。

 

なお、現在、北米最古の人骨であるケネウィック人は古モンゴロイドと最も類似し、古モンゴロイドの一部は北米にも進出したと考えられています。

 

 そういえば、かつてテレビでケネウィック人のほか、メキシコからも日本人によく似た古代人骨が出ていると紹介してましたね。

 

 メキシコの場合もおそらく、アイヌや琉球人に似てる古代人なのでしょうけど。

 

ケネウィック人と一緒に、フランスやスペインの様式の鏃も出てますよ。

 

 フランスと言えば、クロマニヨン人はフランスで見つかった石器時代人で、ケネウィック人との関係を考えたことがありましたね。

 

それを言ったら、日本に来たケネウィック人の親戚はクロマニヨン人の親戚にもなるでしょ。

 

 東北弁はフランス語に響きが似てるので、東北弁をフランス語と勘違いするCMもありましたよね。

 

家族性地中海熱や家族性アイルランド熱、高IgD症候群、クローン病など日本とヨーロッパの意外な繋がりの深さを示す遺伝性疾患が日本でも確認されることを思い起こすと、ケネウィック人は興味深い存在です。

 

このうち、クローン病はアジアでも、ロシアなどヨーロッパ系の国だけじゃなく日本や韓国や中国、それと台湾にも発症例はまだ少ないが報告はあるようです。

 

中国・韓国・台湾はもちろん、実はロシアも日本人の成立史にかかわる地域であることがわかってることを考えれば、注目したい遺伝性疾患です。

 

 ロシアと言えば、秋田美人によく似た美人が見つかる国ですね。

 

ここで注目したいのは古代アメリカと日本の関係が、ミトコンドリアのDNAの比較から確認できたことです。
ミトコンドリアDNAのタイプのことを、ハプログループといいます。

 

人のミトコンドリアDNAのタイプであるハプログループには、80パターンがあります。
日本の主なミトコンドリアのDNAは、そのうちの16タイプ。
日本人のルーツ探しに大きくかかわるのは、この16のハプログループだそうです。

 

 主なということは、少数派も含めれば、もっとあるのでしょう。

 

16のDNAパターンは、以下の通り。

 

A、B4、B5、C、D4、D5、F、G、M7a、M7b、M7c、M8a、M10、N9a、N9b、Z

 

現在のところ科学的な総意としては、アメリカ先住民の大部分は、Y染色体ハプログループCとQ14の分派と、ミトコンドリアDNAハプログループA、B、C、D、とXに属しているというもので、これらすべては東アジアに優勢のものです。

 

今までまとめられた証拠によれば、アメリカ先住民すなわちネイティブ・アメリカンの大半はアジア系のDNAを持っていることを示唆しています。

 

これまで、現代のアメリカ先住民に確認されたDNAの大半は東アジアの集団とほぼ類似していると言います。

 

2013年の研究では、アメリカ先住民のDNAの3分の1が、ヨーロッパまたは西アジアから発祥し、おそらくアメリカ大陸に初期に移住する前に遺伝子プールにもたらされた可能性が高いとしています。

 

日本と古代アメリカでつながるのは、ハプログループのなかのAグループとDグループ。
古代アメリカでは、先にAグループが多かったのが、次第にDグループが増えたというのです。

 

近年の遺伝子研究では、アイヌと類似が指摘される沖縄の人々にDグループが多いと報告されています。

 

また、北海道縄文人集団にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されていると言うから、アイヌはDグループとみた方が自然なのかもしれません。

 

そうなると、ケネウィック人はどのグループだったのでしょうね。

 

骨だけでは、調べるのは、骨が折れますねえ。

 

けれど、最新の研究からすれば、ケネウィック人の傍らにフランスとスペインの様式の鏃があってもおかしくない展開にはなってきていますね。

 

面白いことに、中近東DNAマーカーが現代のアメリカ先住民のDNAに存在します。

 

科学者たちが遺伝子マーカーの形状を年代測定するために使う「分子時計」が、移住の時期が数百年前か数千年前かをいつも正確に位置づけることができないという事実のため、時期の特定には使えないとされます。

 

とはいえ、興味深い遺跡はあります。

 

カホキアは、イリノイ州、セントルイス郊外にあるアメリカ先住民が築いた大遺跡です。

 

ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)に、栄えたと推定されています。

 

北アメリカ初期の歴史を理解する面での重要性を評価して、1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界遺産に登録されました。

 

カホキア遺跡が指し示す古代アメリカの社会は、古代エジプトやメソポタミアどころか、聖書の世界を彷彿とさせる内容であることを示す展開になっています。

 

さらに面白いのは、縄文の末裔と見られるアイヌや琉球人の生活文物や文化と古代イスラエルや聖書との類似が指摘されるのです。

 

 縄文人は、古モンゴロイドであり、ケネウィック人の親戚であり、ケネウィック人の故郷はヨーロッパ、さらには西アジアに遡れるかも知れないから、確かに興味惹かれますね。

 

そのカホキア遺跡は、洪水で滅んだことが明らかになってきたが、モルモン書は洪水などによって滅んでいく町のありさまを生々しく語り伝えているのです。

 

場所は詳しく記されてはいないが、カホキア滅亡の物語の舞台としては矛盾しません。

 

 モルモン書は古代アメリカにイスラエルの民の一部が来たと、記していますね。

 

もちろん、モルモン書出版当時にはカホキア遺跡のことは知られていません。

 

 アメリカ先住民の中近東DNAマーカーがコロンブス以前にもたらされていれば、矛盾のない展開ですね。

 

たとえコロンブス以前としても、またしても年代の問題は立ちふさがっていますがね。

 

 精神文化の問題はクリヤーできても、彼らの主張する年代と合うかどうか、問題はそこですね。

 

一方、かつての形態人類学で新モンゴロイドとされた人々は、北に向かった古モンゴロイドの子孫、及び中東にそのまま留まった集団の子孫がそれぞれ北上し、東ユーラシアの寒冷地域で独自の適応を遂げた集団です。

 

新モンゴロイドは、寒冷地域に適合した体質として、比較的体格が大きく、凹凸の少ない顔立ち、一重瞼、蒙古襞と呼ばれる目頭の襞、体毛が少なく特に男性のひげの少なさなどの特徴を持っています
さらに、耳垢が湿ったあめ状ではなく乾燥した粉状となり、耳垢の特徴と同じ遺伝子によるわきがの原因となるアポクリン汗腺が少なく、頭髪が直毛であること、といった特徴があります。
一重瞼や蒙古襞は目を凍傷から守るため、乾いた耳垢も耳の凍結を守るため、体毛の少なさも身体に付着した水滴が凍結しないための適応に由来するとみられます。
また、ベルクマンの法則から、大柄でガッチリした体型や凹凸の少ない顔などもなるべく体熱を逃さないための適応だと考えられています。

 

新モンゴロイドは、おもに現在のカナダ・グリーンランド・アラスカ・モンゴル・カザフスタン・キルギス・シベリア・中国(まれに華南で)・朝鮮半島に多く居住するとされます。

 

紀元前3世紀の日本列島に到達した新モンゴロイドが渡来系弥生人で、日本列島全体においては、渡来系弥生人と縄文系弥生人の遺伝子が混ざりその後の日本人が形成されたとする説があります。
遺伝子分析の結果、縄文人の遺伝子は日本人の中でもアイヌに強く受け継がれており、本土日本人にはアイヌと比べてその影響が少ないものの、日本列島人であるアイヌ人、琉球人、本土人は皆縄文人の血を受け継いでいるため、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であるという結果が出ています。

 

遺伝学的には、古モンゴロイドと新モンゴロイドとの差異は小さいとされます。

 

シベリアは一般に新モンゴロイド系の特徴が強い人々が多いが、東部に限っては古モンゴロイド的な形質が色濃い人がみられると言います。
南北アメリカへはアジアから渡ったのは確かだが、従来のベーリング海峡ルート説は日本とアメリカで見つかる寒さに弱い寄生虫が確認されたことで疑問視されるようになってきました。

 

日本においては、縄文時代の住民は主に古モンゴロイド系であったと言われます。

 

 しかも近年、アメリカのバルデビアからは縄文土器そっくりな土器が見つかり環太平洋的な広がりが指摘されるようになりましたね。

 

バルデビア土器については、エジプトの影響を指摘する声もありますよ。

 

足指は、三つのタイプに分類されるといいます。

 

エジプト型と、ギリシャタイプと、スクエアタイプの三つです。

 

最近の研究では、外反母趾になりやすい足の傾向は、エジプトタイプだとされるようになってきました。

 

日本人の6割から7割が、このエジプト型タイプと言われています。

 

エジプト型は、親指が一番長く、小指にむけて短くなる形です。
親指が長い他に、足幅が広めな形です。
親指が側面から圧迫されやすいため、外反母趾になりやすいタイプの足の形です。

 

 つまり、バルデビア土器は縄文にもエジプトにも似てるけど、日本人の足はエジプトタイプが多いから日本人が作ったとも見て差し支えない。

 

太陽神を中心にした三神構造で動物を含む八百万の神と言う点でも、エジプトと日本は似てるし、二本柱が前に立ち拝殿と本殿に分かれた構造などエジプト古代神殿も日本の神社と造りが似てますよ。

 

ちなみに、足指のギリシャ型は、親指より第2指が長い足の形です。

 

日本では、エジプト型に次いで多いです。

 

足先の細い靴を履いても、爪先に負担をかけることが少なく、外反母趾になりにくいタイプの足の形です。
ただし、指が曲がりやすく、ハンマートゥになりやすい足でもあります。
ハンマートゥとは足の指が曲がったまま、戻らなくなっている状態です。

 

スクエア型は、5本の指の長さに差がない足の形です。

 

日本人では珍しい足です。

 

幅の狭い靴を履くことで、指にタコやウオノメができやすいタイプの足の形です。

 

古モンゴロイドの後に中国および北東アジアから渡来した新モンゴロイドと混血をした結果、現在の日本人の新モンゴロイドと古モンゴロイドの特徴が混在する形質が形成されたと考えられました。
遺伝子解析の結果、琉球人、本土人、アイヌ人からなる日本列島人は皆縄文人の血を受け継いでいるため、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であるという結果が出ています。

 

近年の人類集団を分類する学説では、各人種の原初の居住地を分類名称とすることが多くなっています。
その場合、東アジア並びに東南アジアに居住するモンゴロイドを東ユーラシア人とし、アメリカ大陸で分化したモンゴロイドを南北アメリカ人とします。

 

東ユーラシア人と言う場合アイヌも含むと見られるので、アメロイドとアイノイドを別人種とする用法と旧モンゴロイドと新モンゴロイドの区別とは、混同しない方が良いかも知れないです。

 

またオーストラロイドとされたサフール人を含めた旧来の広義のモンゴロイドを全て網羅する定義としては、「環太平洋人」とする説があります。
アジアに住む人々はアジア系民族と呼ぶのが一般的であるが、アジア人にはコーカソイドに属するインド・アーリア人やオーストラロイドに属する南インドのドラヴィダ人も含みます。

 

 ドラヴィダ語族と日本語との関係を主張する説もあり、とりわけ大野晋による、ドラヴィダ語族のひとつのタミル語との対応関係研究があるが、批判もおおく、まだ学説としては確定していないようですね。

 

インド人から同胞に間違えられて困った日本人もいますよね。

 

なお、パプアニューギニアやオーストラリアの先住民は、オーストラロイドという別人種に分類されます。
かつて、オーストラロイドをモンゴロイドの祖先とする考え方があったが、DNA分析により現在では否定されています。
ただし先述の通りモンゴロイドとされた東・東南アジア及び南北アメリカ大陸等の集団には遺伝的に近いです。

 

モンゴロイドは成立後、1万4000〜1万2000年前にのちのベーリング海峡となるベーリング地峡を渡りアメリカ大陸に進出したとされてきました。

 

また3000〜2000年前には太平洋の島々にも移住したです。

 

 南北アメリカ大陸では、「モンゴロイド」の定着以前に人類は全く存在していなかったのでしょうか。

 

現在までのところ、アメリカ大陸最古の人物として確認されているのも、古モンゴロイドの特徴を持ってますからね。

 

ケネウィック人は発見当初、イギリス人かと色めきだったけど、結局古モンゴロイドと言うところで落ち着いているようです。

 

ただし、先住民族の祖先と断定すると彼等から我々の仕来りに沿って埋葬すると言われるので、日本人の骨と言ってアメリカ先住民のものと断定するのを避けているようですが。

 

 そう言えば、幕末のころアイヌを見た欧州人から、なんで日本に欧州人がいるのかと驚かれたそうですね。

 

調べた結果、やはりモンゴロイドだと決着がつきましたけどね。

 

モンゴロイドの一部は、フィリピン群島を経て東南アジアから太平洋に漕ぎ出し、イースター島やニュージーランドにまで到達して今日のポリネシア人、ミクロネシア人となったとみられています。

 

さらに一部のモンゴロイドは、古代に稲作文化を携えてアフリカのマダガスカル東部地域にも居住地域を拡大したとされます。

 

途中のインド洋島嶼部の多くは無人島で、且つアフリカ東部や中近東の陸地伝いには彼らによる移動の痕跡がみられないため、反対方向に向かったラピタ人やポリネシア人と同じく、相当高度な航海技術によって海上ルートを進んだと思われます。

 

ユーラシア大陸のモンゴロイドは、当初はヒマラヤ山脈以東の太平洋沿岸及びその周辺を居住地域としてました。

 

特に、モンゴル高原を中心とする中央アジアの乾燥帯に居住した遊牧民達は生まれながらの騎兵であり、古代から中世の世界においては強大な軍事力を誇ったのです。

 

彼らはこの軍事力を武器に、古代はコーカソイドの居住地域であった中央アジア西域に進出します。

 

その後、一時的にヨーロッパ北東部及び中東・南アジアのインド亜大陸にも進出したのです。

 

特にモンゴル帝国はユーラシア大陸の東西に及ぶ巨大な勢力圏を築くに至ったのです。

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三星堆遺跡はだれが作った?

週刊プレイボーイ2014年2月16日号の表紙に驚いて思わずレジに走ったのです。

御目当ては、「中国共産党と考古学会が大論争!四川省5000年前宇宙人遺跡現地ルポ」。

四川省は、三星堆遺跡のある省ですよ。

三星堆遺跡は、三国志の劉備玄徳や諸葛孔明で有名な蜀の都があったことで知られる四川省の西都から北へ30kmほど離れた広漢市の外れに点在する遺跡群の総称です。

三星堆の名は、月型の大地に寄り添うような3つの円丘と言う地形から、「太古の時代に3つの星が落ちてきた」という伝説が生まれたことに由来します。

三星人という、独自な技術や文化、“7つの符合”を用いる人々が暮らしていたと言います。

日本の稲作の起源として近年注目されている長江文明のある省です。

 そこで宇宙人遺跡って、ちょっと待ってください。

これは、すごく気になったのです。

かえってさっそく、そのページを開きました。

問題の場所は、胸騒ぎが的中で、 三星堆遺跡に考古学者や労働者が集められているというのです。

放射性同位元素年代測定で、古い物では5000年以上前とさえ言われる調査結果まで出ているからです。

中国4000年と言われてきたのは、漢民族が黄河領域に興した夏王朝から数えてのことで、長らく伝説と見られてきた夏王朝が実在すると見られる証拠が出始めたと注目されています。

ところがそこへ、古くからチベット系少数民族が多く住んできた長江上流の四川の奥地で5000年以上前とさえみられる高度文明が見つかったのです。

日本人は、世界でも稀な古代血統とされるY遺伝子D系統を多く持つ人種です。

 日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名 です。

世界的にも、チベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっていると指摘されます。

 もし、チベット人の文明であるなら、三星堆は日本人の親戚が作ったことになるでしょう。

 いくら、起源についてはっきりしていない漢民族とは言え、チベット系ではないのでこの文明は果たしてどの民族のものか、いそいで調べる必要があるということでしょう。

ドイツやフランスも本格的調査に乗り出す動きを示しています。

長江文明は黄河文明より先に存在したことはほぼ確実で、夏王朝に1000年以上古い古蜀王朝の遺跡の可能性が高いからです。

  蜀の字は目と屈んだ姿と虫で、 「聖なる神権の鍵の言葉」を象徴するホルスの目を差し出すとされる 蛇神ネヘブカウが連想できます。

 そして三星人とくれば、ギザの三大ピラミッドにオリオンの三星説を唱える人もいる事を思えば、興味惹かれます。

古代エジプトと三星堆の類似は、結構面白いです。

 宇宙人遺跡かどうかで、考古学会と中国共産党が激論ってどういうことでしょう。

中国共産党は漢民族による中国支配を正当化したいから、中華文明の発祥は少数民族となるのは、非常に困るからと見られています。

 宇宙人遺跡というなら、その宇宙人はどこから来てどこへ行ったのか、論じないといけなくなるはずなのに、そこまでして中華文明少数民族起源説を否定したいのでしょうか。

彼等の街は、今でも 三面を6m近い高さのある城壁で一面を川に囲まれ、王宮や工房など4エリアに分かれていたようです。

精巧な青銅器や5000年も形をとどめる土塀の技術、黄河文明とは大きく異なる文字のような記号である符合、これらはどこから来たのかと言うことになります。

三星堆博物館のメイン展示の一つは、有名な青銅器である目の大胆に飛び出た大型縦目仮面です。

大型縦目仮面は古蜀の蚕叢(さんそう)がモデルと言うのが通説です。

蚕叢は天文に通じていたと見られています。

飛び出た目と巨大な耳と口、天文に関する伝説に加え、硬い石や球を切ったり穴をあける技術は、フランスの学者も指摘する、古代エジプトやマヤの神々の遺構と共通する特徴です。

世界の古代遺跡の神々と似ているが、中国では三星堆で初めて見つかったと言います。

  マヤやインカの人々と言えば、遺伝子的にも日本人の親戚筋の当たることが確かめられています。

日本人の辿った道は、相当、世界的な広がりを持っているということでしょう。

宇宙人遺跡という議論の元になっているのが、宇宙服や宇宙人を連鎖させる青銅器の数々です。

首の部分頭を通すような穴の開いた胴体の像、後ろにチャックのような模様のあるヘルメット形、アーモンド形の大きな目の青銅人面具、などがそれです。

青銅器や土器には、漢字のルーツと言うより、古代エジプトの神聖文字であるヒエログリフや、メソポタミアのスメルの象形文字に近い文字が刻まれています。

 そうみてくると、蜀の字が 「聖なる神権の鍵の言葉」を象徴するホルスの目を差し出すとされる 蛇神ネヘブカウを連想できるのは、偶然どころか意図的に採用された文字に見えてきます。

ただ、文字については、インダス文明のインダス文字に似ていると言う声もあります。

インダス文明とは、ドラヴィダ人が現在のパキスタンやインドやアフガニスタンの辺りで営んでいた文明のことで、メソポタミア、エジプト、インダスの各文明は互いに距離も近く、交流もあったことが 分かっています。

北回帰線の南北に沿って連なる乾燥地帯に位置し、大河の氾濫を利用した灌漑農業など、共通点も多いと指摘されています。

 マヤ、長江、スメル、そしてインド、いずれも日本人や日本の文化の起源で注目されてきた地域が並ぶのは、非常に興味深いです。

太陽崇拝の民と文化は、エジプトからメソポタミア、インダスと渡り、チベットを超えて四川へと辿り着いた可能性が見えてきます。

 そして長江は、日本の稲作文化の起源と見られ、チベット人と日本人は Y染色体DNAのD系統を中近東の人々と共有している。

 ここを利用して、日ユ同祖論やスメル渡来説を唱える人が出てるわけです。

日ユ同祖論は聖書も引用しまくってますけどね。

2001年には、成都近郊の金沙(きんさ)村で約3000年前とされる金沙遺跡が発見され、土器や青銅器の多くに三星堆遺跡と同じ符号が刻まれていると言います。

金沙遺跡では、数万店の出土品の中に、太陽を鳥が運ぶ姿が描かれた黄金の太陽神鳥が太陽信仰の証拠として見つかったというのです。

漢民族の黄河文明には、太陽信仰を示すような痕跡は今までの時点では見つかっていません。

古代エジプトの太陽の船にも鳥が乗っている事を見ても、 太陽神鳥の発見は三星堆文明と古代エジプト文明との繋がりを物語ると言えるでしょう。

ついでにいうと、金沙遺跡博物館の驚くべき展示の中に、何千頭もの象の牙や骨があるそうです。

金沙遺跡博物館は、遺跡を丸ごと120×63mの巨大な屋根に覆われたドームです。

かつてこの地にたくさんの象がいた証拠だが、今居ないのは、三星人が象を食べつくしたからと言う伝説も残っているらしい。

いくらなんでも、気候変動でいなくなったと思いたいが、実際、当時の成都の気候は今より4℃程高かったようで、今も四川の山岳部には手つかずの原生林が残っています。

現在はインドやタイに生息する象が、当時は四川辺りまで来ていたとなると、三星人はエジプトやインドからの移住民族の可能性は否定できなくなるなるでしょう。

 チベット人中近東起源は十分にありえ、日本人の世界でも稀な古代血統とされるY遺伝子D系統も、その延長線上で説明可能にあるかも知れないです。

青銅器の年代にしても、海外の研究者の鑑定では5000年以上となっているが、中国側はすべて一緒くたに5000年前としているから、中国の起源をなんとしても漢民族にしたがっていると思われてしまうのでしょう。

さて、この記事のタイトルの宇宙人説だが、嬉々として話すのは漢民族だそうです。

少数民族に歴史を塗り替えられるくらいなら宇宙人のほうがまし、とでも思っているのだろうか、その背後には中国共産党が歴史的発見にフタをしたがってるのか、と言うのがこの記事の落ちでした。

科学や歴史の雑誌じゃない週刊プレイボーイがこの手の記事を書くには、それなりの切り口が欲しいんでしょうね。

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古代中国のネコはどこから来た?

興味深い記事を見つけました。

泉湖村と呼ばれる地域は、浙江省や湖南省にもあるが、本文にある泉湖村は、おそらく、甘肃省酒泉市肃州区と思われます。

甘肃省は中国大陸の北西に位置し、西に新疆ウイグル自治区、青海省、北に寧夏回族自治区、内モンゴル自治区、南に四川省、東に陝西省と接しています。

黄河が省中央部を横断し、省域は西北に向かって長く延び、これを河西回廊といいます。

河西回廊は中国から西域への通路であり、唐代には中国の領域は嘉峪関で尽きるとされました。

嘉峪関は嘉峪関市の南西6kmに位置する河西回廊西寄りの最も狭隘な地にあります。

そこは2つの丘に挟まれた土地で一つは嘉峪山といいます。

城壁の一部はゴビ砂漠を横切っています。

嘉峪関市は中華人民共和国甘肅省西北部に位置する地級市で、市名は嘉峪関から命名されました。

嘉峪関の南は祁連山脈、北は龍首山と馬鬃山に面し、その地理的特色から秦漢代以後の歴代王朝はこの地域に兵力を集中させました。

甘粛省の辺りは、地理的にはシルクロードに沿った地域であり、5,300年前の中国に西方からネコとともに人々が来ていたことを示す興味深い資料となります。

 そうなると、この遺跡のイヌも当然、西方由来と考えられますね。

甘肃省は寧夏と同様、イスラム教徒の回族が多く、最大の都市である省都の蘭州はイスラム都市の観を呈しています。

チベット人の自治州が南部に、自治県が西北部にあります。

 チベットは日本とともに、古代中東の遺伝子であるYAP遺伝子があるのですよね。

この文章では、泉湖村のネコについては血統を突き止められるだけのDNAを見つけることができなかったとして、時期的には可能性があるとしながらもリビアヤマネコの血統に属していたという確信は得られていないと述べています。

だが、古代中東の遺伝子を持つ民族の地である以上、リビアヤマネコに属するネコの骨が今後見つかるかも知れません。

イヌについても、DNAを調べてもらいたいものです。

2013.12.18 WED

5,300年前の中国遺跡で「飼いネコ」を発見

ネコが人間に飼われるようになったプロセスを示す最古の証拠とされるものが、中国で見つかった。

老齢になるまで人間がエサを与えていたネコもいたようだ。

TEXT BY AKSHAT RATHI
TRANSLATION BY RYO OGATA/GALILEO

ARS TECHNICA (US)

http://wired.jp/wp-content/uploads/2013/12/a67f656d105df5e2e7f7746a6a54cf47.jpg

イエネコの祖先とされるリビアヤマネコ。画像はWikimedia Commons

ネコと人間の結びつきを示す最古の記録は、地中海のキプロス島で見つかっている。

キプロスで約9,500年前、幼いヤマネコが人間と一緒に埋葬されていたのだ。

また、エジプトの芸術作品やネコのミイラから、4,000年前までにはネコが人間の大事なペットになっていたことがわかっている。

しかし、それがどのように行われていたかを示す直接的な証拠はこれまでなかった。

「特にネコのような、単独で行動し、遺跡で発見されるのが極めてまれな動物については、人間に飼われるようになったプロセスを明らかにすることがこれまではできなかった」と、

ワシントン大学の研究者フィオーナ・マーシャルは語る。

同氏は、このほど中国中央部の遺跡である泉湖村(Quanhucun)で、その過程を示す証拠を見つけたと発表した研究チームのひとりだ。

マーシャル氏が中国科学院のヤオウー・フーらとともに『PNAS』に発表した論文によると、泉湖村では、約6,000年前から人間が定住していた。

考古学者らはここで、住居や貯蔵穴、陶器、そして植物や動物などの痕跡を発見した。

動物は、ネコやイヌ、シカなどだった。

骨の中の同位体から、その骨がどのくらい前のものであるかがわかる。

さらに、炭素と窒素の同位体の割合から、その動物の食生活がわかる。

見つかった骨は約5,300年前のものだった。

そして、食生活の分析から、イヌ、ブタ、およびネズミはもっぱら穀類を食べており、ネコは、穀類を食べる動物を狩っていたことがわかった(おそらくネズミだろう)。

遺跡の発掘では、ネズミが貯蔵穴の近くに住んでいたことがわかった。

これは、農民がネズミ問題を抱えていたということであり、その問題には、ネコたちが役に立ったかもしれない。

狩りよりも穀類で栄養を得ていたことを示すネコの骨も見つかっている。

これは、人間がネコに餌を与えていたと考えることができる。

また、老齢まで生き延びたネコの骨も見つかっている。

これもまた、人間がネコの世話をしていて、だから野生のネコよりも長く生きたということを示すと見られる。

現在のネコは、基本的にリビアヤマネコ(学名:Felis silvestris lybica)の子孫だとされている。

しかし、泉湖村のネコについては、血統を突き止められるだけのDNAを見つけることができなかったため、彼らがこの血統に属していたという確信は得られていない。

※米英独等の国際チームによる2007年の研究では、世界のイエネコ計979匹をサンプルとしたミトコンドリアDNAの解析結果により、イエネコの祖先は約13万1,000年前に中東の砂漠などに生息していたリビアヤマネコだとされた。

現在のリビアヤマネコは、アフリカ北部、中近東、アラル海までの西アジアに生息している。

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十戒―仏教と聖書を比べて見た。

十戒には、十誡という表記もあります。

 でも、ごんべんの十誡は、最近見かけませんね。

かつての漢語訳では日本でも中国でも、仏教のものを「十戒」、ユダヤ教・キリスト教のものを「十誡」と書き分けたのですよ。

今では、どちらも「十戒」を使いますけどね。

ちなみに仏教の十戒は、仏教において沙弥および沙弥尼が守らなければならないとされる10ヶ条の戒律をいいます。

沙弥(しゃみ、zraamaNera)や沙弥尼(しゃみに、zraamaNerikaa)は、式叉摩那(しきしゃまな、zilSamaaNa)とともに出家者の仲間ではあるが、比丘や比丘尼ではない人のことです。

式叉摩那・沙弥・沙弥尼は、出家者としてやがて比丘・比丘尼となるべき人か、その試錬期にある者とされます。

仏教でいう10ヶ条の戒律とは、五戒に、別の5つを加えたものです。

五戒とは、仏教において在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒のこと。で、より一般的には在家の五戒などと呼ばれます。

不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を殺してはいけない。

不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。

不邪淫戒(ふじゃいんかい) - 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。

不妄語戒(ふもうごかい) - うそをついてはいけない。

不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。

付け加えられるのは、この5つです。

不塗飾香鬘(ふずじきこうまん) - 首飾りを著けたり香を塗ったりしない。

不歌舞観聴(ふかぶかんちょう) - 歌舞音曲をしたり聞きに行くこと。をしない。

不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう) - 高広の大床に坐すこと。をしない

不非時食(ふひじじき) - 正午から翌日の日の出までは食事をしない

不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう) - 金銀宝石などに執著せず持ち込まない。

仏教で十戒という場合、十善戒(じゅうぜんかい)を指す場合もあります。

十善戒とは、仏教における十悪を否定形にして、戒律としたものです。

江戸時代後期の徳僧、慈雲尊者によって広く宣揚されました。

 十悪は、これですね。

 殺生(vihiṃsā) 偸盗(theyya) 邪淫(kāmamicchācāra) 妄語(musāvāda) 綺語(samphappalāpa) 粗悪語(pisuṇāvācā) 離間語(pharusāvācā) 妄貪(abhijjhā) 瞋恚(byāpāda) 邪見(micchādiṭṭhi)

十善、十の善き戒めは、これです。

不殺生(ふせっしょう) - 故意に生き物を殺しません。

不偸盗(ふちゅうとう) - 与えられていないものを取りません。

不邪淫(ふじゃいん) - みだらな性的関係を持ちません。

不妄語(ふもうご) - 嘘をつきません。

不綺語(ふきご) - 無駄な噂話をしません。

不悪口(ふあっく) - 乱暴な言葉を使いません。

不両舌(ふりょうぜ) - 他人を仲違いさせるような言葉をいいません。

不慳貪(ふけんどん) - 異常な欲を持ちません。

不瞋恚(ふしんに) - 異常な怒りを持ちません。

不邪見(ふじゃけん) - (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持ちません。

仏教の十戒をみると、聖書の十戒とよく似ていることに気づきます。

 でも、宗派によって多少違いがあるのでしょ。

微妙なようですが、意外に大きな差かもしれません。

正教会やルーテル教会以外のプロテスタントの場合はこうです。

1.主が唯一の神であること。

2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)。

3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと。

4.安息日を守ること。

5.父母を敬うこと。

6.殺人をしてはいけないこと。

7.姦淫をしてはいけないこと。

8.盗んではいけないこと。

9.偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)。

10.隣人の家をむさぼってはいけないこと。

1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目と同時に刑法の根幹です。

ユダヤ教の安息日は土曜日であるが、キリスト教会ではイエスの復活の日である日曜日を主の日と呼び、日曜日を聖日として礼拝しています。

それにたいして、カソリック教会やルーテル教会の場合はこうです。

わたしはあなたの主なる神である。

1.わたしのほかに神があってはならない。

2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

4.あなたの父母を敬え。

5.殺してはならない。

6.姦淫してはならない。

7.盗んではならない。

8.隣人に関して偽証してはならない。

9.隣人の妻を欲してはならない。

10.隣人の財産を欲してはならない。

カソリック教会・ルーテル教会は、偶像崇拝禁止の代わりに、隣人の妻を欲してはならないという項目が入ります。

夫は家長として一家を取り仕切り、妻も子も家長に服従しないといけない時代が長く続きました。

カソリックやルーテル派の十戒は、そういう時代背景で生まれたという側面を見た方が良いかもしれません。

 じゃあ、カソリック教会やルーテル教会では隣人に関して偽証してはならないっていうけど、隣人は隣の家だから、家族には良いのかしら。

偽証してはいけないのは、誰に対してもでしょ、当然。

 やっぱりねえ。

注目したいのが、偶像崇拝禁止なのですよ。

正教会はイコンを作るけど、これを偶像として拝んではいけないのです。

これは、仏教でいえば写経に近い修行と言えるでしょう。

 イコンは飾るけれど、仏典の引用句を掲げるのに等しい。

そういうことでしょう。

カソリックは、異教徒への布教の方便としてイエスやマリアの偶像を利用してしまったので、十戒から偶像崇拝禁止を外してしまったようですね。

 正教会は、どこの国でも組織は別でも、同じ正教会でしたよね。

いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有しているので、教派名はあくまで正教会です。

ロシア正教会・ルーマニア正教会・ギリシャ正教会・ブルガリア正教会・セルビア正教会・グルジア正教会・日本正教会などは組織名であって教派名ではないですね。

なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗るが、ギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属します。

これらの教会は、英語では"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれますね。

 仏教とキリスト教、十戒が似ているのは偶然ではない。

釈迦のいた釈迦族とは、サカ族のことだと指摘する人もいます。

ヘロドトスの『歴史』、プトレマイオスの『地理学』、メガステネスの『インド誌』などによると、サカ族はチベットとも関わりが深いという説もあります。

 ペルシア人はすべてのスキタイ人をサカ人と呼ぶという指摘もありますね。

 スキタイは、古代イスラエル人が行動を共にしたとも言われますね。

古代中東の遺伝子は、チベットと日本に多く残ります。

離れた土地で、故郷の文化が強く残るのはよくあることですよ。

そのため、日ユ同祖論や日本スメル起源説が出たりします。

 それって、チベットユダヤ同祖論や、チベットスメル起源説に通じませんか。

当然、言ってる人はいるようです。

 釈迦はユダヤだった…。

釈迦はスメルだった、という議論もありますよ。

実際は、釈迦族はアーリヤ系のサンスクリットでSuurya-vaMzaと呼ばれる日種(にっしゅ)に属し、甘庶王(かんしょおう、オッカーカ)系といわれています。

「日種」とは「太陽の末裔」という意味で、太陽と光を表す「スヴァスティカ」を勝利の太陽神シンボルとしたのがアーリア人です。

 「スヴァスティカ」は仏教のシンボルで、万字としてお馴染みですね。

「アーリア人」は、今ではインドに移住してきたインド・アーリア人、イランに移住してきたイラン・アーリア人およびそれらの祖先のみを指す場合が多いです。

そして面白いことに、インドもイランも日本人のルーツを考えるときに意外と避けて通れない地域なのです。

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