ヒマラヤ

モンゴロイド

DNA分析の成果によれば、現生人類発祥の地はアフリカにあるとされます。

人種間の遺伝的距離を計ると、人類集団はアフリカ人であるネグロイドと西ユーラシア人であるコーカソイドのグループ、およびサフール人と呼ばれるオーストラロイドと旧来モンゴロイドとされた東南・東アジア人によって構成される東ユーラシア人と南北アメリカ大陸に住むインディアン、エスキモーのグループの2つのグループに大別することができるとされます。

 そのうちのネグロイドは、現生人類の祖の直系の子孫とされますね。

黄色人種、モンゴル人種とも言うモンゴロイドは、形態人類学上の「人種」概念の一つです。
人種とは、ヒト・人間を分類する用法の1つで、生物学的な種や亜種とは、異なる概念です。
現生するヒトは、遺伝的に極めて均質であり、種や亜種に値する差異も存在しません。

肌の色はヒトという種の集団の分化の過程で選択圧を受けやすく最も短期間に変化する形質の一つであり、肌の色の類似または相違でいわゆる「人種」を区別することはできません。
肌の色を発現させる遺伝子についても、肌の色と同様いわゆる「人種」を区別することはできません。

 人種は混血可能な点で、イエネコのネコ種に近いわけですね。
 ネコ種によって外見の差はあっても、子供が出来ない組み合わせはないですから。

モンゴロイドの身体的特徴としては、目の下に蒙古襞(もうこひだ)というシワがある、鼻が低く獅子鼻、髭が薄い、歯が黄色い、顔以外では、蒙古斑といって乳幼児のお尻が青い、などが挙げられています。
ただし近年、蒙古斑は程度の差こそあれ、コーカソイドやネグロイドにもあることがわかってきたといいます。
コーカソイドの場合は蒙古斑の色が薄いため、ネグロイドの場合は肌の地色が濃いため、確認が難しかったそうです。

黄色人種の名はヨーロッパ人と比較した際のモンゴロイドの肌の色に由来するが、実際のモンゴロイドの肌の色は、淡黄白色から褐色までかなりの幅があります。
ネグロイドやオーストラロイドのような極端に黒い肌はみられないですけど。

近年のDNA分析によれば、モンゴロイドはアフリカからアラビア半島・インド亜大陸を経由し、ヒマラヤ山脈・アラカン山脈以東に移住した人々が、周囲の自然環境により他の「人種」との交流を絶たれ、その結果独自の遺伝的変異及び環境適応を経た結果誕生した「人種」であるとされます。
モンゴロイドの原初の居住地は、ヒマラヤ山脈及びアラカン山脈よりも東及び北側とみられています。

 日本人は、世界でも稀な古代血統とされるY遺伝子D系統を多く持つ人種ですよね。

世界的にも、日本人の他にはチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっていると指摘されます。

 日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名と言うことは、アラビア半島周辺から移動を始めた頃の遺伝子を未だに持ってる人がそれだけ大勢暮らしているのが日本なんですね。

日本人にも、家族性地中海熱という遺伝性疾患の発症例が確認されていますからね。
近年、報告例は増えているそうだけど、認識が深まってきたので分類される場合が多くなった可能性はあるかも知れません。

名前に地中海とあるのは、この病気は地中海沿岸域の人々や、中近東つまり、ユダヤ人特にスペイン・ポルトガル系のユダヤ人であるセファルディ・トルコ人・アルメニア人に現れるからです。
原因遺伝子がわかってからは、イタリア人・ギリシャ人・アメリカ人の中にもこの疾患が見つかるようになりました。

そうなるとチベットは気になるけど、手元にデータがないので、どちらとも言いかねます。

各地域に住む人々のミトコンドリアDNAやY染色体、或いはヒトの核遺伝子を比較することにより、ヒトの移住の時期・系統・経路が推定出来ます。

近隣結合法を用いた斎藤成也による核遺伝子DNAの分析、Ingman et al.、篠田謙一らによるミトコンドリアDNAの分析によるモンゴロイドの出現について示すとこうなると言います。

ただし、特に斎藤はモンゴロイドという名称に異議を唱えていますけど。
またヒトは同一種であるため、用いる遺伝子によって異なる結果がでることもあり、小さなクラスターについては特に顕著となります。

20万〜15万年前、アフリカ大陸において現生人類であるホモ・サピエンスが出現したと言うのが人類のアフリカ単独起源説です。
その後10万年前にはアフリカ大陸の対岸に位置する中東地域に進出し、現在のコーカソイドの前身となります。

中東地域に進出した人類は、その後7万〜5万年前にサフール大陸すなわち現在のオセアニア地域に進出、オーストラロイドの前身となります。

さらに、5万〜4万年前には西方では地中海伝いにヨーロッパへ進出する一方、東方ではヒマラヤ山脈を越え東南アジア・東アジア方面に進出します。

ヨーロッパに進出したグループは、その後も中東地域および北アフリカ地域との交流が保たれたため、これらの地域の人々の間では遺伝的な差異が生じず、現在でも同じコーカソイドである西ユーラシア人に分類されます。

しかし、東南アジア・東アジア方面に進出した人々は、天然の要害であるヒマラヤ山脈・アラカン山脈が障害となり、中東・インド亜大陸の人々との交流を絶たれ、独自の遺伝的変異・環境適応を成し遂げることとなります。

これが、後のモンゴロイドです。

モンゴロイドは、東アジア、中央アジア、東南アジア、東ロシア、北極圏、南北アメリカ大陸、太平洋諸島、南アジアの北東部のほか、アフリカ近辺のマダガスカル島にも分布します。
アメリンドすなわちネイティブ・アメリカンとアイノイドつまりアイヌのどちらか一方もしくは両方を、別人種としてモンゴロイドに含めない用法もあります。

ユーラシア大陸東部のモンゴロイドは、寒冷適応の程度の軽重によって大きく古モンゴロイド・新モンゴロイドに区分されたが、遺伝的に見ると他の集団間の差異に比べて大きな隔たりは存在しないです。

 古モンゴロイドは旧モンゴロイドということもありますね。

モンゴル地域・中国東北部・朝鮮半島には新モンゴロイドが比重として圧倒的に多いのに対し、大陸南部や島嶼部へ行く程古モンゴロイドの比重が高まっているとされました。

DNA分析の結果等から現在は否定されているが、次にあげるような説が展開された時期もありました。

ユーラシア大陸東部に居住したモンゴロイドは、既に絶滅したとされる北京原人やジャワ原人の子孫であるという説。
ユーラシア大陸西部では、現代人の直系の祖先であるクロマニヨン人と既に絶滅したネアンデルタール人とが共存した時代を有することから、現代の欧州人はネアンデルタール人の血を引いているとの説があり、それと同様にモンゴロイドも北京原人やジャワ原人と現生人類との混血であるとする説。

現在の人類学では形質研究よりも遺伝子研究が重視されています。

遺伝子的には南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドと区分する場合もあります。

遺伝的な近縁関係から人類集団を分類する近年の学説では、先述の通り、アジアに居住を続けてのちに一部が太平洋諸島・マダガスカル島に移住した東ユーラシア人と、南北アメリカ大陸で分化した南北アメリカ人に、旧来の狭義の「モンゴロイド」が二分されるとします。

 アメリカ先住民であるネイティブ・アメリカンとアイヌや琉球人を古モンゴロイド、アイヌや琉球人以外のアジアのモンゴロイドを新モンゴロイドに、分けるやり方。

 アジアに居住を続けてのちに一部が太平洋諸島・マダガスカル島に移住した東ユーラシア人と、南北アメリカ大陸で分化した南北アメリカ人に、分けるやり方。

 だから、アメリンドすなわちネイティブ・アメリカンとアイノイドつまりアイヌのどちらか一方もしくは両方を、別人種としてモンゴロイドに含めない用法もあるとなる。

 その場合、新モンゴロイド、東ユーラシア人、に分類される人たちが狭い意味でのモンゴロイドということになる。

古モンゴロイドや新モンゴロイドとは、寒冷地適応を経ているか否かの違いを表したハーバード大学人類学教授William White Howellsによるモンゴロイドの分類で、日本では埴原和郎や尾本恵市らが用いているようです。

中東地域・インド亜大陸方面から東南アジア方面に進出したと考えられるモンゴロイドを、形態人類学では古モンゴロイドと区分しました。

 古モンゴロイドは、アジアではモンゴルの中央と東部地域、および中国北部、華南、東南アジアなどの地域に比較的多く見られるようですね。

日本列島に到達した縄文人は古モンゴロイドとされます。

古モンゴロイドは、熱帯雨林に適応した結果、低めの身長、薄めの肌の色、発達した頬骨、鼻梁が高く、両眼視できる視野が広い等の特徴を持つと考えられています。
他の、彫の深い顔、二重瞼、体毛が多いこと、湿った耳垢、波状の頭髪、厚い唇、多毛等の特徴は新モンゴロイド以外の多くの「人種」と共通します。

なお、現在、北米最古の人骨であるケネウィック人は古モンゴロイドと最も類似し、古モンゴロイドの一部は北米にも進出したと考えられています。

 そういえば、かつてテレビでケネウィック人のほか、メキシコからも日本人によく似た古代人骨が出ていると紹介してましたね。

 メキシコの場合もおそらく、アイヌや琉球人に似てる古代人なのでしょうけど。

ケネウィック人と一緒に、フランスやスペインの様式の鏃も出てますよ。

 フランスと言えば、クロマニヨン人はフランスで見つかった石器時代人で、ケネウィック人との関係を考えたことがありましたね。

それを言ったら、日本に来たケネウィック人の親戚はクロマニヨン人の親戚にもなるでしょ。

 東北弁はフランス語に響きが似てるので、東北弁をフランス語と勘違いするCMもありましたよね。

家族性地中海熱や家族性アイルランド熱、高IgD症候群、クローン病など日本とヨーロッパの意外な繋がりの深さを示す遺伝性疾患が日本でも確認されることを思い起こすと、ケネウィック人は興味深い存在です。

このうち、クローン病はアジアでも、ロシアなどヨーロッパ系の国だけじゃなく日本や韓国や中国、それと台湾にも発症例はまだ少ないが報告はあるようです。

中国・韓国・台湾はもちろん、実はロシアも日本人の成立史にかかわる地域であることがわかってることを考えれば、注目したい遺伝性疾患です。

 ロシアと言えば、秋田美人によく似た美人が見つかる国ですね。

ここで注目したいのは古代アメリカと日本の関係が、ミトコンドリアのDNAの比較から確認できたことです。
ミトコンドリアDNAのタイプのことを、ハプログループといいます。

人のミトコンドリアDNAのタイプであるハプログループには、80パターンがあります。
日本の主なミトコンドリアのDNAは、そのうちの16タイプ。
日本人のルーツ探しに大きくかかわるのは、この16のハプログループだそうです。

 主なということは、少数派も含めれば、もっとあるのでしょう。

16のDNAパターンは、以下の通り。

A、B4、B5、C、D4、D5、F、G、M7a、M7b、M7c、M8a、M10、N9a、N9b、Z

現在のところ科学的な総意としては、アメリカ先住民の大部分は、Y染色体ハプログループCとQ14の分派と、ミトコンドリアDNAハプログループA、B、C、D、とXに属しているというもので、これらすべては東アジアに優勢のものです。

今までまとめられた証拠によれば、アメリカ先住民すなわちネイティブ・アメリカンの大半はアジア系のDNAを持っていることを示唆しています。

これまで、現代のアメリカ先住民に確認されたDNAの大半は東アジアの集団とほぼ類似していると言います。

2013年の研究では、アメリカ先住民のDNAの3分の1が、ヨーロッパまたは西アジアから発祥し、おそらくアメリカ大陸に初期に移住する前に遺伝子プールにもたらされた可能性が高いとしています。

日本と古代アメリカでつながるのは、ハプログループのなかのAグループとDグループ。
古代アメリカでは、先にAグループが多かったのが、次第にDグループが増えたというのです。

近年の遺伝子研究では、アイヌと類似が指摘される沖縄の人々にDグループが多いと報告されています。

また、北海道縄文人集団にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されていると言うから、アイヌはDグループとみた方が自然なのかもしれません。

そうなると、ケネウィック人はどのグループだったのでしょうね。

骨だけでは、調べるのは、骨が折れますねえ。

けれど、最新の研究からすれば、ケネウィック人の傍らにフランスとスペインの様式の鏃があってもおかしくない展開にはなってきていますね。

面白いことに、中近東DNAマーカーが現代のアメリカ先住民のDNAに存在します。

科学者たちが遺伝子マーカーの形状を年代測定するために使う「分子時計」が、移住の時期が数百年前か数千年前かをいつも正確に位置づけることができないという事実のため、時期の特定には使えないとされます。

とはいえ、興味深い遺跡はあります。

カホキアは、イリノイ州、セントルイス郊外にあるアメリカ先住民が築いた大遺跡です。

ミシシッピ文化期(A.D.700年~1600年頃)に、栄えたと推定されています。

北アメリカ初期の歴史を理解する面での重要性を評価して、1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界遺産に登録されました。

カホキア遺跡が指し示す古代アメリカの社会は、古代エジプトやメソポタミアどころか、聖書の世界を彷彿とさせる内容であることを示す展開になっています。

さらに面白いのは、縄文の末裔と見られるアイヌや琉球人の生活文物や文化と古代イスラエルや聖書との類似が指摘されるのです。

 縄文人は、古モンゴロイドであり、ケネウィック人の親戚であり、ケネウィック人の故郷はヨーロッパ、さらには西アジアに遡れるかも知れないから、確かに興味惹かれますね。

そのカホキア遺跡は、洪水で滅んだことが明らかになってきたが、モルモン書は洪水などによって滅んでいく町のありさまを生々しく語り伝えているのです。

場所は詳しく記されてはいないが、カホキア滅亡の物語の舞台としては矛盾しません。

 モルモン書は古代アメリカにイスラエルの民の一部が来たと、記していますね。

もちろん、モルモン書出版当時にはカホキア遺跡のことは知られていません。

 アメリカ先住民の中近東DNAマーカーがコロンブス以前にもたらされていれば、矛盾のない展開ですね。

たとえコロンブス以前としても、またしても年代の問題は立ちふさがっていますがね。

 精神文化の問題はクリヤーできても、彼らの主張する年代と合うかどうか、問題はそこですね。

一方、かつての形態人類学で新モンゴロイドとされた人々は、北に向かった古モンゴロイドの子孫、及び中東にそのまま留まった集団の子孫がそれぞれ北上し、東ユーラシアの寒冷地域で独自の適応を遂げた集団です。

新モンゴロイドは、寒冷地域に適合した体質として、比較的体格が大きく、凹凸の少ない顔立ち、一重瞼、蒙古襞と呼ばれる目頭の襞、体毛が少なく特に男性のひげの少なさなどの特徴を持っています
さらに、耳垢が湿ったあめ状ではなく乾燥した粉状となり、耳垢の特徴と同じ遺伝子によるわきがの原因となるアポクリン汗腺が少なく、頭髪が直毛であること、といった特徴があります。
一重瞼や蒙古襞は目を凍傷から守るため、乾いた耳垢も耳の凍結を守るため、体毛の少なさも身体に付着した水滴が凍結しないための適応に由来するとみられます。
また、ベルクマンの法則から、大柄でガッチリした体型や凹凸の少ない顔などもなるべく体熱を逃さないための適応だと考えられています。

新モンゴロイドは、おもに現在のカナダ・グリーンランド・アラスカ・モンゴル・カザフスタン・キルギス・シベリア・中国(まれに華南で)・朝鮮半島に多く居住するとされます。

紀元前3世紀の日本列島に到達した新モンゴロイドが渡来系弥生人で、日本列島全体においては、渡来系弥生人と縄文系弥生人の遺伝子が混ざりその後の日本人が形成されたとする説があります。
遺伝子分析の結果、縄文人の遺伝子は日本人の中でもアイヌに強く受け継がれており、本土日本人にはアイヌと比べてその影響が少ないものの、日本列島人であるアイヌ人、琉球人、本土人は皆縄文人の血を受け継いでいるため、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であるという結果が出ています。

遺伝学的には、古モンゴロイドと新モンゴロイドとの差異は小さいとされます。

シベリアは一般に新モンゴロイド系の特徴が強い人々が多いが、東部に限っては古モンゴロイド的な形質が色濃い人がみられると言います。
南北アメリカへはアジアから渡ったのは確かだが、従来のベーリング海峡ルート説は日本とアメリカで見つかる寒さに弱い寄生虫が確認されたことで疑問視されるようになってきました。

日本においては、縄文時代の住民は主に古モンゴロイド系であったと言われます。

 しかも近年、アメリカのバルデビアからは縄文土器そっくりな土器が見つかり環太平洋的な広がりが指摘されるようになりましたね。

バルデビア土器については、エジプトの影響を指摘する声もありますよ。

足指は、三つのタイプに分類されるといいます。

エジプト型と、ギリシャタイプと、スクエアタイプの三つです。

最近の研究では、外反母趾になりやすい足の傾向は、エジプトタイプだとされるようになってきました。

日本人の6割から7割が、このエジプト型タイプと言われています。

エジプト型は、親指が一番長く、小指にむけて短くなる形です。
親指が長い他に、足幅が広めな形です。
親指が側面から圧迫されやすいため、外反母趾になりやすいタイプの足の形です。

 つまり、バルデビア土器は縄文にもエジプトにも似てるけど、日本人の足はエジプトタイプが多いから日本人が作ったとも見て差し支えない。

太陽神を中心にした三神構造で動物を含む八百万の神と言う点でも、エジプトと日本は似てるし、二本柱が前に立ち拝殿と本殿に分かれた構造などエジプト古代神殿も日本の神社と造りが似てますよ。

ちなみに、足指のギリシャ型は、親指より第2指が長い足の形です。

日本では、エジプト型に次いで多いです。

足先の細い靴を履いても、爪先に負担をかけることが少なく、外反母趾になりにくいタイプの足の形です。
ただし、指が曲がりやすく、ハンマートゥになりやすい足でもあります。
ハンマートゥとは足の指が曲がったまま、戻らなくなっている状態です。

スクエア型は、5本の指の長さに差がない足の形です。

日本人では珍しい足です。

幅の狭い靴を履くことで、指にタコやウオノメができやすいタイプの足の形です。

古モンゴロイドの後に中国および北東アジアから渡来した新モンゴロイドと混血をした結果、現在の日本人の新モンゴロイドと古モンゴロイドの特徴が混在する形質が形成されたと考えられました。
遺伝子解析の結果、琉球人、本土人、アイヌ人からなる日本列島人は皆縄文人の血を受け継いでいるため、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であるという結果が出ています。

近年の人類集団を分類する学説では、各人種の原初の居住地を分類名称とすることが多くなっています。
その場合、東アジア並びに東南アジアに居住するモンゴロイドを東ユーラシア人とし、アメリカ大陸で分化したモンゴロイドを南北アメリカ人とします。

東ユーラシア人と言う場合アイヌも含むと見られるので、アメロイドとアイノイドを別人種とする用法と旧モンゴロイドと新モンゴロイドの区別とは、混同しない方が良いかも知れないです。

またオーストラロイドとされたサフール人を含めた旧来の広義のモンゴロイドを全て網羅する定義としては、「環太平洋人」とする説があります。
アジアに住む人々はアジア系民族と呼ぶのが一般的であるが、アジア人にはコーカソイドに属するインド・アーリア人やオーストラロイドに属する南インドのドラヴィダ人も含みます。

 ドラヴィダ語族と日本語との関係を主張する説もあり、とりわけ大野晋による、ドラヴィダ語族のひとつのタミル語との対応関係研究があるが、批判もおおく、まだ学説としては確定していないようですね。

インド人から同胞に間違えられて困った日本人もいますよね。

なお、パプアニューギニアやオーストラリアの先住民は、オーストラロイドという別人種に分類されます。
かつて、オーストラロイドをモンゴロイドの祖先とする考え方があったが、DNA分析により現在では否定されています。
ただし先述の通りモンゴロイドとされた東・東南アジア及び南北アメリカ大陸等の集団には遺伝的に近いです。

モンゴロイドは成立後、1万4000〜1万2000年前にのちのベーリング海峡となるベーリング地峡を渡りアメリカ大陸に進出したとされてきました。

また3000〜2000年前には太平洋の島々にも移住したです。

 南北アメリカ大陸では、「モンゴロイド」の定着以前に人類は全く存在していなかったのでしょうか。

現在までのところ、アメリカ大陸最古の人物として確認されているのも、古モンゴロイドの特徴を持ってますからね。

ケネウィック人は発見当初、イギリス人かと色めきだったけど、結局古モンゴロイドと言うところで落ち着いているようです。

ただし、先住民族の祖先と断定すると彼等から我々の仕来りに沿って埋葬すると言われるので、日本人の骨と言ってアメリカ先住民のものと断定するのを避けているようですが。

 そう言えば、幕末のころアイヌを見た欧州人から、なんで日本に欧州人がいるのかと驚かれたそうですね。

調べた結果、やはりモンゴロイドだと決着がつきましたけどね。

モンゴロイドの一部は、フィリピン群島を経て東南アジアから太平洋に漕ぎ出し、イースター島やニュージーランドにまで到達して今日のポリネシア人、ミクロネシア人となったとみられています。

さらに一部のモンゴロイドは、古代に稲作文化を携えてアフリカのマダガスカル東部地域にも居住地域を拡大したとされます。

途中のインド洋島嶼部の多くは無人島で、且つアフリカ東部や中近東の陸地伝いには彼らによる移動の痕跡がみられないため、反対方向に向かったラピタ人やポリネシア人と同じく、相当高度な航海技術によって海上ルートを進んだと思われます。

ユーラシア大陸のモンゴロイドは、当初はヒマラヤ山脈以東の太平洋沿岸及びその周辺を居住地域としてました。

特に、モンゴル高原を中心とする中央アジアの乾燥帯に居住した遊牧民達は生まれながらの騎兵であり、古代から中世の世界においては強大な軍事力を誇ったのです。

彼らはこの軍事力を武器に、古代はコーカソイドの居住地域であった中央アジア西域に進出します。

その後、一時的にヨーロッパ北東部及び中東・南アジアのインド亜大陸にも進出したのです。

特にモンゴル帝国はユーラシア大陸の東西に及ぶ巨大な勢力圏を築くに至ったのです。

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納豆。

納豆は、大豆を納豆菌によって発酵させた日本の食品です。

 納豆は、栄養面でも注目されているようね。

総務省統計局の全国物価統計調査の調査品目にも、採用されています。

血液凝固因子を作るのに不可欠なビタミンKや大豆由来のタンパク質も豊富であり、現在でも重要なタンパク質源となっています。

食物繊維は、100グラム中に4.9~7.6グラムと豊富に含まれます。

食物繊維はオリゴ糖等と共にプレバイオティクスと呼ばれる腸内環境に有用な成分であり、納豆菌はプロバイオティクスと呼ばれ、これも腸内環境に有用と考えられています。

O157を抗菌することがわかっています。

納豆には血栓を溶かす酵素が含まれており、納豆から単離したナットウキナーゼを経口投与したイヌで血栓の溶解が観察されたという報告があります。

納豆をかき回して食するのは、納豆のねばりの中にあるグルテンの構造が一定の方向になると美味しく感じるという経験を持つことによります。

途中から逆方向にまぜるとこの構造が壊れて味が損なわれます。

納豆に含まれるビタミンK2は骨たんぱく質の働きや骨形成を促進することから、ビタミンK2を多く含む納豆が、特定保健用食品として許可されています。

また、ポリグルタミン酸にはカルシウムの吸収促進効果があるため、納豆から抽出されたポリグルタミン酸が特定保健用食品特として許可されています。

納豆菌の一部には、安定した芽胞のまま腸内まで生きて到達してビフィズス菌を増やし腸内環境を正常化する効果があることから、そのような効果を持つ納豆が特定保健用食品として認可されています。

 結構なことが多いね。

ビタミンK2は抗凝血薬(ワルファリン)の作用を弱めることから、ワルファリンの服用中は、納豆は避けるべきとされているなど注意点もありますけど。

 「納豆(なっとう)」は、「納豆(のうとう)」の転化でしょうね。

古代から中世の日本語は、発音のあいまいなウ+ア行の二重母音の言葉であったと考えられます。

やがて発音の明瞭化していく過程で、「納豆(なっとう)」に転化した可能性はありますね。

大豆を原料とした発酵食品であり、特有の臭いを持ちます。

日本全国の食品売り場で容易に手に入れることができ、現在多くの日本人に食べられています。

 茨城県を中心とした関東地方では、郷土料理としても親しまれているね。

「納豆」という語句の確認できる最古の書物は、11世紀半ば頃に藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』だそうです。

同作中に「腐水葱香疾大根舂塩辛納豆」という記述があり、平安時代には納豆という言葉が既に存在していたことが確認できるといいます。

この記述の納豆には、「舂塩辛」「納豆」、「舂塩」「辛納豆」、「大根舂」「塩辛納豆」など諸説あります。

「辛納豆=唐納豆」など、本来の意味の納豆、つまり現在の「塩辛納豆」を指すものであろうという意見が多いです。

なお、「塩豉」のほかに「淡豉」という名のものがあったらしいが、これは平安時代以降姿を消しています。

 現在では、「納豆」といえば納豆菌を発酵させたいわゆる糸引納豆を指すのが一般的ですね。

糸引納豆が登場したのは、中世以降のことです。

平安時代には、「納豆」という名でも呼ばれるようになりました。

それ以前の定義では、「納豆」とは麹菌を使って発酵させたのち乾燥・熟成させたもの、寺納豆とも呼ばれるいわゆる塩辛納豆のことです。

なお、塩辛納豆もしくは寺納豆・浜納豆とは、現在一般的な糸引納豆との区別をつける為の便宜上の名称です。

塩辛納豆は、風味としては味噌やひしおに近いです。

塩辛納豆は古い漢語では豉(し)と呼ばれ、中国では紀元前2世紀頃の遺跡からも出土があり、今なお豆豉(トウチ)と呼ばれ、中華料理の重要な調味料です。

 つまり、納豆は魚醤と起源を共有する食品ね。

アジアでも、納豆類似の食品がありますよ。

ヒマラヤ麓のネパールなど南アジア、中国雲南省からベトナムをはじめとする東南アジアにかけた地域です。

タイやラオスでは、トゥア・ナオという食品があります。

朝鮮半島でも、清麹醤が作られています。

インドネシアなど東南アジア諸国にも、大豆などをテンペ菌で発酵させる醗酵食品テンペがあります。

 みな、日本人の先祖がやってきたと見られている国や地域ねえ。

納豆類似の食品の起源は、さらに西方へ遡れるとみている人もいますよ。

 そういえば、ケチャップと醤油を比べたこともありましたよね。

 エジプトやイタリアやギリシャなどの、地中海の国々も日本との類似がいくつもありましたね。

日本人自体、古代中東の遺伝子が多く残っていることがわかっていますよ。

日本では奈良時代頃には醤(ひしお)の一種として伝来したのではないかとされ、古い史料では「久喜」(くき)の名で言及されています。

 あるいは、魚介の塩辛と同じ起源を考えて良いでしょうね。

塩蔵品としてのアンチョビは、三枚に下ろして内臓を取り除いた小魚を塩漬けにして、冷暗所で熟成及び発酵させたものです。

オリーブオイルを加え、缶詰や瓶詰にするもので、主にイタリアやスペイン、モロッコで生産されていますね。

 イタリアは、日本の食材と似たものが多いよね。

ええ。

塩辛納豆も、魚介の塩辛も塩漬けされた食材が、麹菌によって発酵して生まれた食品と言う共通点がありますね。

本来好気性である麹菌が、空気から遮断された嫌気性の環境におかれることで塩漬けされた食材を発酵させました。

室町時代頃になると、日本独自の食品として登場した糸引納豆が広く知られるところとなり、やがて製法の簡単さなどから塩辛納豆よりも多く作られ、日常食として消費されるようになるとともに、「納豆」という言葉もまず糸引納豆を意味するように変化していったとされます。

同じ頃、北宋・南宋に渡航した僧たちが塩辛納豆を持ち帰り、再度国内に紹介しました。

寺院内でも盛んに生産したことから、これらは寺納豆とも呼ばれるようになりました。

こうした伝統を持つものが今でも大徳寺納豆で知られる京都の大徳寺や、天竜寺、一休寺や浜松の大福寺などで作り続けられており、名物として親しまれています。

納豆誕生自体は、原料から推測するに、日本で大豆や米が食されるようになってから以降であると思われます。

 日本の大豆栽培が、どこまで遡るかよね。

米は、縄文時代には乾田栽培してました。

当然、米から酒を造ってしましたよね。

 魚醤も古くから、作っていたかもしれないとすると、はじめに意図して作ったのは麹菌を使って発酵させたのち乾燥・熟成させたものだったと見る方が自然ね。

一方、糸引き納豆は食用に保存するために加熱処理した大豆を藁苞で包んで保存していたら偶然出来たのかも。

現在の主流の納豆、つまり糸引き納豆は、「煮豆」と「藁」の菌がたまたま作用し、偶然に糸引き納豆が出来たと考えられています。

弥生時代の住居には、藁が敷き詰められていたし、また炉がある為に温度と湿度が菌繁殖に適した温度になったと見られています。

ほかにも、起源や時代背景については様々な説があり定かではないです。

そのため、意識して作られるようになったのが遅れたのかも。

 豆の腐った物と見られて、始めは省みられなかったかも。

確かに糸引き納豆に対する外国人の第一印象は、腐った豆ですからね。

しかし、いったん意図して作られるようになると、製法の簡単な糸引き納豆は一気に普及したのかも。

糸引き納豆の一種であるひきわり納豆は、秋田県など北東北で古くから作られていたからです。

普通の納豆より発酵が早く、消化が良いとされます。

 古くからって、何時頃でしょう。

わかっていないところを見ると、少なくても弥生時代まで行くかもしれないですね。

ひきわり納豆、碾き割り、即ち砕いた大豆を発酵させることによって作られます。

ひきわり納豆に対し、通常の割っていない大豆を使った納豆は「粒納豆」と呼ばれます。

 糸引き納豆が、もし弥生時代に遡るとしたら、なぜ中世以降に一般的になったかしらね。

中世は武士の台頭した時期であり、関東の鎌倉幕府成立をひとつの区切りとみれば、説明ができるかも。

 鎌倉幕府の実行支配する地域の拡大とともに、糸引き納豆は広まったのかしら。

茨城県特産に、干し納豆があります。

元来は保存食だったとされるが、現在は納豆の入手できない日本国外へ旅行に行く際に持っていく場合があるといいます。

納豆を天日干しすることにより長期保存可能にしたものです。

なお納豆を乾燥させても、納豆菌は死滅しません。

食べ方としてはそのまま食べるほか、湯につけて戻す、お茶漬けにするなどがあります。

 干し納豆であれば、確かに各地に広げるのは楽ね。

納豆は、戦国時代において、武将の蛋白源やスタミナ源ともなっていました。

干し納豆に近いものに、揚げ納豆があります。

これは納豆を油で揚げ、粘り気を取り去ったものです。

納豆を良くかき混ぜると、たっぷり引いた糸で箸を動かしにくくなるくらい硬くなります。

それを揚げる訳です。

納豆独特の臭いも、目立たないです。

そのまま酒のつまみとして食べる事が多いです。

しょうゆ・塩・梅・一味唐辛子などの味が、つけられています。

日本航空の国際線機内でも、酒肴として提供されています。

おそらく、東日本から広まったのだろうけど、何時頃からあるのかはわからないです。

ついでにいうと、茨城県特産におぼろ納豆、しょぼろ納豆とも呼ぶそぼろ納豆があります。

納豆に刻んだ切り干し大根を混ぜ込み、醤油等の調味料で味をつけたものです。

そのまま酒のつまみとして食べたり、ご飯にかけて食べたりします。

江戸時代には商品として出回るようになり、京都や江戸において「納豆売り」が毎朝納豆を売り歩いていました。

戦時中は軍用食として、戦後は日本人を救う栄養食として食べられ、日本に納豆が普及していったです。

納豆には、大豆の粒の大小による区別もあり、概して東北地方は大粒が目立つ傾向があります。

また、山形県酒田市の塩納豆、熊本県の金山寺納豆などローカル色に富んだ納豆もあります。

消費量は、特に北関東から南東北にかけて多いです。

生産量日本一は茨城県、消費量日本一は福島県で、消費量最下位は和歌山県です。

様々な種類が存在するが、現在一般的には糸引き納豆の事を指します。

納豆発祥伝承は、日本各地にあります。

糸引き納豆の一種であるひきわり納豆は、秋田県など北東北で古くから作られていたことから、秋田県横手市の金沢公園に「納豆発祥の地」の碑があります。

 秋田音頭に能代市桧山地区の「桧山納豆」が、秋田名物の一つとして謳われているね。

冬の保存食にしょうとして乾かして藁苞に入れていた大豆の煮豆が、竈などの熱で発酵したがもったいないので食べたら美味かったのが始まりだったというのは可能性としては十分あるかも。

伝統的な納豆の作り方は、蒸した大豆を稲の藁で包み、40度程度に保温し約1日ほど置いておくのです。

稲藁に付着している納豆菌が大豆に移行し、増殖することによって発酵が起こり、納豆ができあがるのです。

秋田などの雪国では、すぐ取りにいけるよう調理場所の傍で保存されていただろうから、発酵に必要な温度まで熱せられる条件はあったと考えられます。

 でも、7月10日は「納豆の日」とされているね。

これは1981年、関西での納豆消費拡大のため、関西納豆工業協同組合がなっ(7)とう(10)の語呂合わせで制定したものです。

1992年、全国納豆工業協同組合連合会が改めて「納豆の日」として制定しました。

しかし「納豆」「納豆汁」などが冬の季語である事や、「納豆時に医者要らず」という諺があったように、元々納豆の時期は冬とされています。

 けど、秋田美人の顔と古代ギリシャのミロのビーナスの顔の類似を思い出すと、納豆秋田起源説はかなり有力かも。

裏を取れる情報が欲しいですね。

 でも、ひきわり納豆の歴史の古さを考えると、最有力だと思えるけど。

茨城県水戸市は、明治以降、鉄道の水戸線の開通に伴い、土産品として売られたのをきっかけに、産地としてもっとも知られています。

 天狗納豆が、発祥とされるとか。

今では毎年水戸の日の3月10日に、「納豆早食い大会」が開催されていますね。

九州では熊本県で、例外的に古くから普及しています。

熊本には全国規模の納豆製造会社である丸美屋があり、スーパーマーケットで普通に売られていて、消費量も多いです。

製法や菌の改良などで匂いを少なくしたり、含まれる成分の内「ナットウキナーゼ」の健康増進効果がテレビなどのメディアで伝えられるようになり、この40年間を見ても一番少ない近畿中国四国と、福島水戸など一番多い地域との差など国内各地域での消費量の差は大きく縮まっているようですね。

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ウッドサークルを考えてみる。

縄文の環状木柱列、つまりウッドサークルは、縄文後期から晩期の北陸地方に集中する謎の遺構です。

代表的な金沢市のチカモリ遺跡の木柱列は、入口が白山山系を向いた構造だそうです。

 白山の大崩壊から千数百年後に建てられたこの木柱列には、口承で語り継がれたであろう大崩壊の衝撃が込められている気がする。

ウッドサークルは、イギリスが有名ですね。

縄文日本とイギリスが何らかの接点があったことになるのです。

 そういえば、ストーンサークルもイギリスと共通ですね。

アメリカのケネウィック出土の古代人骨はイギリスと日本に二股かかってるそうです。

ケネウィック出土の古代人骨は、縄文人の血を濃く引いているアイヌに似ているというのです。

 そういえば、栃木の大谷石の採掘場に行って、南米と同じ葬り方の1万1千年前の縄文人の骨を見た。

南米は、縄文とそっくりの土器も出てるでしょ。

 なぜ、縄文後期・晩期の北陸にのみ、ウッドサークルが出現するのか。

 白山大崩壊の衝撃が神話的に受け継がれ、山の神を鎮める祭祀表現だったからでは。

 そう推測すると、チカモリ遺跡や真脇遺跡など北陸の木柱列が、諏訪の御柱を考えるヒントになる気がするの。

 山の神が背景にある、御柱祭だけに。

諏訪の御柱は、聖書を連想できる名前のモリヤ山を背景に聖書が連想できる展開をすることが有名で、日ユ同祖論が注目しているのです

 北陸の環状木柱列で、10本の柱が円形に並べられた構造が気になるの。

 思い出すのは、十一面観音よ。

 色んな造形はあるが、十面十一面で表現され、十の顔が前後左右に配された木彫は、まるで環状木柱列。

 白山神の本地が十一面観音とされたのも、北陸人の集合的無意識に潜む元型的イメージが投影されたのかも…。

十面十一面なら、飛鳥昭雄と三神たけるは、生命の樹と即座に言うでしょうね。

 確かに、木の宇宙観で、縄文とケルトがつながる気がするの。

 その根底となる巨木文明には生命樹や宇宙樹という古代の宇宙観が関わってそうですね。

まさに、そうですね。

 またセフィロトとの関連も、興味深いね。

セフィロトは、生命の樹の十の節のことですよね。

 残る一つの節は、人々から隠された、ダートと呼ばれる神の段階への入り口に当たる存在ですよね。

陰陽も、ケルトと日本の接点ですよ。

 白山は、地球規模の聖なる山ね。

 韓国の太白山や小白山、中国と北朝鮮の国境は長白山とも呼ばれる白頭山でしょ。

 シルクロードの天山が、旧・白山ね。

 ヒマラヤのダウラ・ギリ、アルプスのモン・ブラン、スペインと北米のシエラ・ネバダ、ハワイのマウナ・ケアも白山と訳せます。

どれも、日本人のルーツにかかわる土地です。

 中国や朝鮮半島は、大陸からの通り道というのは、わかる。

ヒマラヤは、日本と古代中東の遺伝子を共有するチベット。

 スペインは、バスク人のそっくりさんが日本にいるでしょ。

アメリカは、さっきも触れた古代人骨や縄文文様の共有、さらに遺伝子も繋がりが見えます。

日本の御神木文化にも、根底となる巨木文明には生命樹や宇宙樹という古代の宇宙観があるのかもしれません。

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シュリーヤントラと吉祥と。

シュリーヤントラは、ヒンドゥー教で用いられる神聖な図形です。

 シュリーは、吉祥のことね。

ええ、シュリーは吉祥天、ヤントラは図形、目に見えるものと言うことです。

 ヤントラは、仏教のマンダラに相当するものなのね。

シュリーヤントラのスタイルは、男性神シヴァを象徴する上向き三角形と、妃のカーリー女神を象徴する下向き三角形の合成からなるのです。

 シヴァって、破壊と創造の神でしょ。

 カーリー女神は、「黒き者」とも呼ばれる血と酒と殺戮を好む戦いの女神ね。

吉祥天の持ち物の中で本来一番重要なのは、蓮の葉なのです。
日本の吉祥天像では、左手に如意宝珠を持ち右手は施無畏印を結ぶことが多いようです。

吉祥天は一説には、インドの女神マハーデービィであって、三大主神の一人シヴァの妃であるとされています。
ただシヴァの妃の名は普通は、パールヴァティーと呼ばれているのです。

パールヴァティーはシヴァにつくし、優しく恵み深い女神として信仰を集めるのです。
パールヴァティーもまた「山の娘」という名の由来の通り、ヒマラヤを神格化した女神であったとも言われています。
破壊神としてカーリーやドゥルガー、救済・再生主としてはウマーやガウリーなどに姿を変えるとされるのです。
このカリーに化身したパールヴァティーが、ヤントラに描かれているのです。

しかし、こんな説もあるのです。
シヴァ自身が「吉祥」という意味だというのです。

 そういえばシュリーヤントラといいながら、吉祥天に当たる女神がでてこない。
 それで、シヴァが吉祥か。

不思議でしょ。

吉祥天の正体とも、関係を持つのかもしれませんね。

シヴァも四臂で三叉戟・斧を持ち、恩恵を与える印と恐怖を取り除く印を結んでいます。
シヴァの姿で特徴的なものは、額の第三眼です。

シヴァの目は元は、2つしかなかったのです。
ある時妃のパールヴァティがいたづらして後ろから手を回して両目を隠してしまったところ、世界が真っ暗になって、神々は困ってしまいました。

その時額にもうひとつ目が現れて、そこからまばゆい光が放たれたといわれます。

 まるで、アマテラスの岩戸隠れみたいね。

民衆に人気の高い神には一般にそういう傾向があるが、ジヴァの異名は一説では1000以上あるともいわれます。
マヘーシュヴァラ(大自在天)、マハーデーヴァ(大天)、イシャーナ(伊舎那天)、マハーカーラ(大黒天)、などは有名です。

 マハーデーヴァと、マハーデービィって似てますね。
 マハーデーヴァとは、マハーデービィの男性形ではないのかなあ。

さあ、ヒンズー語に詳しい人に伺って見ないとなんともいえないです。
一般的には、ありがちな変化ですけどね。
 
 仏様や神様にはあまり性別がないのに、吉祥天は女神とハッキリ決まっているよ。
 マハーデーヴァの妃が、マハーデービィというのはなぜでしょ。
 シヴァ自身も、吉祥とされる点と無関係ではないね。

 シヴァ自身が吉祥と言う説があるばかりか、女神と一体の姿でも表現されるのよ。
 女神との和合と言う意味ばかりではなく、女神と一つの体と言う意味でも、一体。
 
ええ、シヴァは、女神と一体で表現されるのですね。

タントラでは、女性原理(ヨーニ)の影に、男性原理(リンガ)が隠れるとされるのです。
それでシヴァは、ヨーニに包まれたリンガの姿としても祀られていますね。

 シヴァの象徴はリンガなので、正に定式通りね。

 アマテラス(女性神)アマテル(男性神)、イザナミ(女性神)イザナギ(男性神)を、思わず連想してしまったなあ。

吉祥天の正体については、いろいろ説があります。
その中でも最も有力なのは、吉祥天は実はマハーシュリーで、三大主神の別の一人ヴィシュヌの妃であるラクシュミーと言う説です。

ラクシュミーは元々幸福の神であり、不幸の神であるアラクシュミーの妹です。
富と豊饒の神、そして家庭の神でもあります。

ただしラクシュミーとアラクシュミーは、同じ神の別の面という説もあります

ラクシュミーについては、仏教の中では、毘沙門天(クペーラ)の妹あるいは妻との説や、鬼子母神の娘という説などもあります。

 カーリー女神と不幸の神であるアラクシュミーって、黒暗天に似てますね。

黒暗天そのものかも。

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河童巻き。河童。その2

海苔巻きのお寿司に、胡瓜(きゅうり)を巻いて「河童巻き」となずけられたものがあります。
河童が胡瓜を好き、と言う俗説に基づきます。

 何で河童は胡瓜が好きなの?

意外と思われるかもしれないけど、胡瓜は牛乳より柔らかいのです。
これは、体積中の水分量を比べるとそうなっちゃうのです。

 つまり、胡瓜はまるごと食べられる水筒ってわけですね。

でも、どうも理由はそれだけではない、っていうより別にありそうです。

俗に木瓜(ぼけ)の花や、胡瓜の切り口の図案化といわれる紋とされている、木瓜(もっこう)から来ているとわたしは見ます。
この木瓜紋と言う呼び名は、日唐貿易の際、唐から輸入された御簾(みす)や御帳(みちょう)の周囲にめぐらした絹布の帽額(もこう)に付けられていた文様であったところから出たのです。
帽額は、帷(かたびら)のように表面に襞をとりながら掛ける、御簾の上部、上長押(うえなげし)などで横に長く引きまわされている一幅の布で、額(ひたい)の部分に当たる横幕のことです。

帽額に付けられたところから、帽額くわ紋(もこうかもん)で略してモコウと呼ばれていて、 この横幕に付けられていた文様が「窼(カ)紋」です。
「窼(カ)紋」とは、本来は「窼(カ)」と呼ばれる鳥の巣を象ったものといわれます。
「窼(カ)」とは地上に巣を作る鳥の巣で、樹上に作られたものを巣と書き表しました。
奈良朝期モダンな文様として衣服や輿車に用いられているのが、絵巻物などに見うけられます。

河童の正体の一つは、厄除けの人形(ひとがた)である案山子のような姿をした天児(あまがつ)が、両腕のつながった木の人形と言う言い伝えから想像できます。
河童は、おそらく沙良双樹(さらそうじゅ、または、しゃらそうじゅ)のような霊的な樹を加工して作られた天児が宗教的ルーツです。
それに、木瓜自体も「きうり」とも読めます。

木工=もっこう=木瓜=きうり=胡瓜

そう、河童は胡瓜が好きなのは、河童が木工の人形だと言っているのです。
それも、樹から出来ているばかりか、生きている人形が、河童だというのです。
これは余談ですけど、生きている、つまり生命を持っている樹とくれば、生命の樹と言い換えても良いかも知れないです。

 生命の樹といえば、カッバーラ。
 河童の語源だったりして。

飛鳥昭雄や三神たけるは、カッバーラが河童の語源といってますね。
 
河童の正体に厄除けの人形(ひとがた)である天児を想定した理由の一つが実は、「胡瓜封じ」や「胡瓜祭」です。
「胡瓜封じ」は、弘法大師が唐から伝えられた秘法で、免疫を胡瓜に封じて、不動尊に祈願すると疫病除けになると、大師が説いた事が始まりとされているのです。

弘法大師は一切衆生の病苦、悪業の根を断ち切って、病苦を和らげ、業病、難病からのがれ、丈夫で長生きし、安楽に往生できるようにとその願を込め不動尊を祀りはじめました。
そして、胡瓜封じの秘法を残したのです。
これは、薬では治せない病気を治してしまうとされているのです。

胡瓜封じを行うには、まずお寺で胡瓜をいただいて、お加持が済んだら胡瓜をいただきます。
いただけるのは、一人一本なようですね。
胡瓜に護符を埋め、加持をしてもらった胡瓜を家に持ち帰り、自分の悪いところを三日間その胡瓜でご真言を唱えながら撫でます。
そして、4日目の朝に疫を移しとった胡瓜を、川に流すか、人の踏まない清浄な土に埋めるかして悪いものを祓うのです。

ま、それはともかく天児などが河童の両腕が繋がっていると言われるモデルの可能性は高いと思えるのです。
天児を連想したわけは、実はもう一つあるのです。
河童のモデルになった生き物がカエルに似た両生類とすれば、水に全身をつけて禊をしたり、相撲をとったりしてるように見えるのです。

相撲も、本来は神前に奉納された行事です。
つまり河童自体が意外と宗教的性格を帯びた、妖怪だと言うことです。

皿についても、思い当たることがあります。
ちょっと話は前後するけど、仏教の象徴の中に、紗羅双樹があります
紗羅双樹は、「二本で一本・一本で二本」の樹で、天児の腕そっくりです。
この紗羅が、皿の元かも知れないです。
その上、水に関係ある聖なる獣とされる生き物にスッポンがいます。
このスッポンから甲羅を、それからしばしば描かれる嘴も、受け継いだのかも。
これは、どこまでも私の意見ですけど…。
でも、カエルに似た生き物から、皿のある姿に、そして甲羅のある現在の河童へとイメージが展開したのは確かなようです。

カエルの親のような生き物が、河童の生物学的正体とすれば、一方では河童にも、社会的な正体もあると思うのです。
すなわち、社会の片隅に生きる人々もまた、河童の姿に投影されていると見えます。
これはまだまだ、歴史の霞に覆われています。

 面白いですね。

面白がってくれて、ありがとう。

 河童て、天狗の変り種と思ってました。

河童と天狗の関連は、疑ってます。
情報を探してるのですけどねえ。

 河童と天狗の関連も、期待してます。

 カエルも河童も胡瓜も、緑ですねぇ・・・。
 天狗は・・・ありゃ…?

河童の起源にまつわる話のなかに、天狗との接点はあるのかも。

 河童巻き一つでも、こんな歴史的背景があるなんて… 。

 ちなみにあたしは河童巻きはマヨネーズとポン酢を混ぜたものにつけて食べるのがお好みです。
 それが、美味しいのなんのって、美味しいの!

ま、これが正解かどうかはともかく、いろんな情報から連想は膨らんだのはたしかですね。

 仮説って、こうやってたてていくんですね。
 すごいです!! 

 その柔軟な考えは、やっぱり引き出しをたくさんもっていなければ出来ない技ですよね。

 特に胡瓜封じのお話は、とても興味深いです。

 胡瓜って殺菌作用があるんでしたっけ? 
 女性の場合って私だけ?
 美白効果もあったりするので、お顔にペタペタ貼ってパックなんてしたりしますよね。
 
 魔よけと殺菌作用と、結びついてしまった私です。

 やだ、恥ずかしい…。

ヒマラヤ山麓周辺原産といわれる胡瓜は、 ビタミンBとCが豊富で、カリウム、カルシウムなども含みますよ。
成分の約95%が水分で、体の熱をとったり、利尿作用もあります。

効能としては、浄血作用、利尿、むくみ、消炎などです。
日焼け後の炎症の場合、輪切りにしたものを湿布すると効果的ですね。

この浄血や利尿作用は、体内の浄化につながるので、魔除けを連想されることはありえるかも。

美容効果としては、胡瓜の養分には肌の健康を保つ効力があるとして知られます。
その含水性、収斂性、栄養分には驚くべき美肌効果が認められ、しかも、冷却性もあるので、特に日焼け後のお肌のほてりや乾燥したお肌に効果的だそうですよ。

その他にも胡瓜には、保湿作用や美白効果があります。
お肌に水分を与え、皮膚の表面の熱を吸収してくれるので、日焼け後の肌やニキビの鎮静に特に効果的だそうです。

 胡瓜を買いこんで、体内浄化で魔よけをしようかしら。
 横道にそれてしまって、ごめんなさい。

鮮度には、注意してくださいね。

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義経とキリスト教?

鞍馬寺の兜跋毘沙門天像は、刀八とも書かれ、軍陣に望む姿である八本の手全部に刀を持つ姿です。

牛若丸は、様々な叡智と技術、それに格闘術を、天狗から伝授されたと伝えられているのです。
八は、「ヤ」とも読まれるけど、「ヤー」は「ヤハウエ」の略としてしばしば使われるのです。

 毘沙門天の、四天王の中で単独に信仰されるようになるのは、この鞍馬寺の存在が大きいのでしたね。

のちに源九郎判官義経を名乗る牛若丸は、鞍馬寺の山奥で天狗から、兵法を習い「虎の巻」を授かったと言う話を御存知な方も多いですろね。

天狗の「虎の巻」は、ユダヤ教会で使用される「トーラーの巻」の「トーラー」に「虎」の字を当てたものと言う説もあるのです。

 「虎の巻」は、今日でも、奥義書やあんちょこの意味で使われているのよね。

天狗に、古代イスラエル説まで出されるようになってきたのです。
その鞍馬の毘沙門の八本の腕がある姿形まで、何か関連ありかと疑いたくなるのです。

毘沙門天の信仰は、日本3大霊場といわれる次の寺社があるのです。

1.信貴山朝護孫子寺(奈良県)
寅年、寅月、寅の日、寅の刻に毘沙門天が出現したことから寅の日が縁日になったと言います。

2.鞍馬寺(京都)
牛若丸の修行や鞍馬天狗、10月22日の火祭りなどが有名。

3.毘沙門堂(京都)
大宝3年(703年)に奈良に建てられた。
平安遷都のときに京都洛北に移され、最澄が自刻の毘沙門天を安置したといわれているです。
江戸時代に安祥寺の旧跡に移って現在に至っているのです。

ここで気になるのは、奈良県の信貴山朝護孫子寺です。
毘沙門天が出現したのは、寅年、寅月、寅の日、寅の刻であったことから寅の日が縁日になったと言うのです。

毘沙門自体に、寅とのかかわりが深いことを暗示しているようです。

毘沙門天の像の一般的特徴は、頭に鳥形の冠(三面だての宝冠で、その正面に翼を広げた鳥の姿を表す)、身に甲冑、左手に塔(もしくは腰に手を当てる)、右手に宝棒(もしくは戟)を持っているのが普通です。
左手の宝塔は八万四千の法蔵、十二部経の文義を具し、右手の宝棒は悪霊を退散させ財宝をさずけると言うのです。

こう見ると、奇妙に思えるのです。

 「虎」「寅」「鳥」
 音が、似てますねえ。

十二部経の文義を具し、三面だての鳥形の宝冠。

トラとトリ、トーラーを意識している可能性は十分ありえます。

十二は十二支族、三面は三神、頭上の鳥は聖霊…。

 まるでイエス…。

幸福の神である吉祥天を妻とした毘沙門天も、福をもたらす神とした説もあるのです。
軍神的性格から、貧乏神を退散させてくれると言う説まであるのです。

吉祥天はもともと、インドの美と豊穣と幸運を司る女神ラクシュミーだったのです。
なおラクシュミーは、アラクシュミーと言う不幸を司る女神を姉に持つともされます。
ここが、黒暗天と姉妹とされるもとなのです。

ラクシュミーが、ヴィシュヌの妻になる際にこう請願しました。
「私があなたの妻になる条件として姉にも配偶者を付けるように」
そこでヴィシュヌはある聖仙(リシ)とアラクシュミーを結婚させ、晴れてヴィシュヌとラクシュミーは一緒になったと言う神話も一方で残っているのです。
黒暗天もともに引き受けるよう求める起源は、ここにあるようですね。

 黒暗天には、貧乏神と言う説があるのでしたね。

しかし、吉祥天は姉妹である黒暗天と、二人一緒で受け入れる相手でないと、福の神としての仕事をしないはずです。

退散される貧乏神が黒暗天なら、なぜ吉祥天は貧乏神をかばわないのでしょうか。
つまり、黒暗天の正体は貧乏神などではないといっているようなもの。
黒暗天は、みすぼらしく格好が悪いけど、貧乏ななりをしているけど、人の足を引っ張る貧乏神なんかじゃないと言うことなのでしょうか。

 毘沙門天が退散させる貧乏神とは、こうなるのでしょ。

 ねたむもの、うらむもの、さまたげるもの…。

ええ。
毘沙門天が退散する貧乏神とは、転落してサタンとなったルシファーのような存在かもしれないですね。

 イエスは、悪魔に試されたときこう言っているのですよね。

 「サタンよ立ち去れ」

毘沙門天は、インド古代叙事詩「マハーバーラタ」では、宇宙の創造主プラチャーバティの孫とされます。

 ここだけ見ると、確かにイエスを連想したのは間違えないと見えますねえ。

ところが一方で、全世界の富と不老不死の命を与えられ、スリランカにあるランカーの宮殿に住み、空飛ぶ乗り物プシュパカを走らせる暗黒界の悪霊の長だったのです。

ヒンドゥー教では、ヒマラヤから産出された富を自在に扱う神となり、クーベラと呼ばれ、財宝福徳を司る神となるのです。
さらに、後には夜叉・羅刹を支配して国土を守護する武神とされたのです。
だから、正確に言えば、インドの神ではなく、スリランカつまりセイロン島の神ということなのです。

 見方を変えると、スサノヲも連想できますね。

ここに、興味深い話があるのです。

スサノヲは「スサ」ノ「ヲ」であり「スサ」ノ「男」であると、この神を祭る神社は証言するのです。

「スサ」ノ「男」は、「イッサ」という男と言い換えられるかも知れないです。

 「イエス」のアラム語である「イッサ」は、日本で別の神名に変化してると言いたいのでしょ。

さらに、あらぶる神であったころのスサノヲを、旧約のヤハウエに見立てたらどうなるでしょうか。

軍陣に望む姿である八本の手全部に刀を持つ姿である、鞍馬寺の兜跋毘沙門天像は、刀八とも書かれます。

 「八」は「ヤ」であり「ヤー」であれば、「ヤハウエ」。
 「刀八」の「刀」は、「トウ」であり「トーラー」であったなら。

そう、トーラーの神であるヤハウエから、源九郎判官義経を名乗る牛若丸は「トーラー」を授かったとなるのです。

 もし、毘沙門天がイエスに対応するとしたら、源九郎判官義経はキリスト教徒…。

 まさか…。

でも、そう言う論理になってしまいました。

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これも、かんなび?

日本でも、これがピラミッドだと騒ぐ人が出るまでピラミッド伝説がなかった山なんて、いっぱいありますよね。

 そして、神奈備の山とされてきたところも多いですよ。

 読みは、「かんなび」とも「かむなび」ともされる御神体として崇められたのです。

 三角の山は、神、あるいは神の使いや化身とされる蛇を象徴するのではと言う説もありますね。

ええ。

 「かんなび」とも「かむなび」とも言うのは、「かみのへび」が元でしょうかね。

それも、ありえますね。

 「かみのへび」は「かむぃぬへび」と発音されたと見れば、「かんなび」や「かむなび」と転化した可能性は高いですね。

沖縄の発音から見れば、十分考えられますね。

ただし、アイヌ語や日本語の古語で「蛇」は「かか」でした。

「かみのへび」は「かむぃぬかか」であったかも、知れません。

 でも、「かか」は「へび」に転化してますし、丸唇音とすれば「ぬ」と「か」から「な」になる事は十分ありえるでしょ。
 
そうですね。

そう見ると、中国でも、ピラミッド状の山が神聖視されてきたのは興味深いですね。

 それって、チベットのピラミッド発見と言う記事にあった話ですか。
 衝撃的な話題が、短期間に世界を巡ったのを覚えていますよ。

当時の記事そのものを確認できる本やサイトは、今少ないと思います。
それで、中国で当時報道された内容で、振り返ってみたいです。

長いけど、ちょっと我慢してくださいね。

問題の場所であるカイラス山は、おおよそチベット南西部、中国・ネパール・インドの3つの国境が交わる所の近くです。
カイラス山は現地名ではカンリンボチェ山、6714メートルの山です。

ヒマラヤ山脈、もっと詳しく言うとガンジセ山脈と呼ばれる所です。

 口火を切ったのが、ロシアの科学者でしたね。

この記事で言う昨年は、1999年の事です。

このピラミッド郡は、1999年の8月から10月の間に、ロシアの科学者によって発見されたとされています。
その報告が、2000年6月9日のロシア雑誌で発表されたとのことです。

2000年6月15日付の《天津日報》は、こう伝えました。

《天津日報》専門付録――百科の窓――第14版

ロシアの科学者がチベットに世界最大のピラミッド(金字塔)群を発見と主張
李倫摘

原編者によれば――1999年8月、ロシアの科学者の一隊がチベットを訪れ、伝奇的「上帝の城」を探索した。
今回の実地調査では、世界最大のピラミッド群を発見した。
実地調査隊隊長のムアルダシャフ(穆爾達舍夫)は本紙記者の取材インタビューを受け、今回の実地調査の成果を語った。

我々はチベットに世界上最大のピラミッド群があることを確信している。
ここでの厳格な数学規律は、まさにチベットのこの塔群とエジプトのピラミッド、メキシコのピラミッド、そしてイースター島(復活節島)、ソールズベリ(索爾茲伯里)の先史巨石との連係を思わせる。

我々は100以上のピラミッドと各種遺跡を発見した。
それらは海抜6714メートルの岡仁波斉(カン・リンポチェ)峰(カイラス山)の周囲に分布している。
ピラミッドの形状はそれぞれ異なっており、規模の大きさは人を驚嘆せしめてやまない。
おおざっぱな統計では、それらの高さは約100メートルから1800メートル(180メートルの誤り?)とまちまちだが、エジプト最大のクフ王(奇阿普斯)のピラミッドでも146メートルである。
ピラミッド群全体が非常に古く、そのために損傷が非常にはなはだしい。
しかし、仔細な観察によってピラミッドの輪郭をはっきりさせることができ、それらが石で組み立てられており、凹面や平面になっているのがはっきりと見て取れる。
我々はさらに、巨大な石の人体彫塑を発見した。
このため、完全な根拠をもって、チベットには主にピラミッドを中心とする古い建築群が存在している、といえる。

チベットの山をピラミッドとしているのではないか、という人もいるかもしれない。
実在性については、これはまさに我々が心配したことで、所有している写真、図、録画映像をすべて研究するにあたって、この考えは我々から離れることがなかった。
間違いを犯さないように、我々は山の輪郭をとる方法を採用した。
こうして、我々はコンピューターにピラミッドと山の図(見取り図)をインプットし、それからその主要な輪郭を取り出すことで、どれが山でどれがピラミッドかという区別をできるようにした。

ピラミッドについては、我々は習慣的にエジプトのクフ王のピラミッドの外形を連想する。
実際のピラミッドは形状も異なっており、メキシコのピラミッド、それほど有名でないエジプトのサッカラ(左塞)ピラミッドとはいずれも階段式である。
チベットで我々が主に見たのは、この階段式ピラミッドで、周囲の自然山峰はすべてこの種の構造を有していなかった。
このため、まさに山をピラミッドと見間違えることはないのである。

現地調査において多くの図版を作成したが、これは我々にとって非常に助けとなった。
ピラミッドの各種詳細、写真、録画映像を容易に反映することができるようにするには、非常に難しい点があった。
さらに仔細にそれぞれのピラミッドを観察して、完全に整った構図を完成するのに、我々は何度も何度もはい上がっては下りなければならず、さらに近隣の地を観察した。
あるピラミッドは保存がよく、あるものは破損が極めて激しかったので、一枚作成するのが大変であった。
我々はその逐一の区分を必要としていたのであり、このような研究によって容易に多くのことを知ることができた。(李倫摘・編)

このロシアの言い分に対する中国の反論が、2000年7月4日付《中国青年報》に掲載されたのです。

チベットにピラミッド群はあるか?
本紙記者 董月玲

■ロシア科学者は語る:チベットに世界最大のピラミッド群を発見

6月9日の「参考消息」(※新華社)は一つの重大ニュースを報じた。
「チベットに世界最大のピラミッド群が発見された」。
そのニュースソースは、ロシアの週刊誌「論拠と事実」の第18号の一つのニュース「チベットの神秘のピラミッド」である。

この文章によれば、昨年8月から10月、ロシアの科学者の一隊がチベットを訪れ、世界最大のピラミッド群を発見したというのである。
現地調査隊長ムアルダシャフはこう語っている。

「我々は全部で100以上のピラミッドと各種遺跡を発見した。
それらは海抜6714メートルのカン・リンポチェ峰の周囲に分布している。ピラミッドの形状はそれぞれ異なっており、規模の大きさは人をして驚嘆させずにやまない。
おおざっぱな統計では、それらの高さは100メートルから1800メートル(※?)とまちまちだが、エジプト最大のクフ王のピラミッドでも146メートルである。
ピラミッド群全体が非常に古く、そのために損傷が非常にはなはだしい。
しかし、仔細な観察によってピラミッドの輪郭をはっきりさせることができる。
それらが石で組み立てられており、凹面や平面になっているのがはっきりと見て取れる。
我々はさらに、巨大な石の人体彫塑を発見した。
このため、完全な根拠をもって、チベットには主にピラミッドを中心とする古い建築群が存在している、といえる」

さらに、記事はこう述べている。
チベットの山をピラミッドと見間違えている可能性については、ピラミッドと山の図版をコンピューターに入力し、その後、主要な輪郭を取り出すことによって、どれが山であり、どれがピラミッドかを区別できる。
その他、彼らが発見したピラミッドは階段式であって、周囲の山峰にはこの種の構造は見られないため、山をピラミッドと見間違えるはずはない。

ロシアの科学者がチベットで発見したのが本当に世界最大のピラミッド群であったとすれば、これは大変なことだ。
チベットの歴史を改める必要があるだけでなく、アジアの歴史をも改めなければならないだろう。
しかし、どのような人が、海抜6000メートル以上もの鉱山に登り、1800メートルもの高さのピラミッドを建造するような力量を持っているというのだろうか?
このように大規模な歴史遺跡を、どうして中国の科学者や、先祖代々高原上で生活してきたチベット人民が発見できなかったのだろうか?

■中国専門家は驚愕し、その理由を述べた

この疑問を抱いて我々は、これまで何度もチベットを訪問してカン・リンポチェ峰を実地調査した中国科学院の地理学者・楊逸畴を訪問した。

彼は、ここ数日自宅の電話が絶えることなく、この件について尋ねられたのだという。
この件について初めて聞いたとき、彼が最初に感じたのは驚愕だった!

岡底斯(ガンディス)山は喜馬拉雅(ヒマラヤ)山脈に平行する重要な山脈で、その主峰が普蘭(ブラン)県内のカン・リンポチェ峰である。
この山はチベット人の心の中では“神山”であり、山の下の[王馬]旁雍錯(マパム・ユムツォ/マナサロワール湖)は“聖湖”と呼ばれ、毎年、朝神転山の人が絶えない。
山の周囲にはラマ塔、マニ堆、石刻経文などの文化的景観がある。
カン・リンポチェ峰はチベットの最高峰ではないが、極めて有名である。
もしほんとうに大規模なピラミッドが存在するなら、現在まで発見されなかったはずはない。

■ハイテク重ね技術が事実の真相を誤らせた

楊教授は1974年、雅魯藏布(ヤルンツァンポ)河源流を実地調査したとき、この峰にも足を運んだ。
実地調査の結果、カン・リンポチェ峰は軟硬それぞれの性質をもつ礫岩の組成となっており、異なる岩性の地層が一層一層平らに積み重なっている。
カン・リンポチェ峰は強烈に上昇する単独峰であり、氷雪・暴雨などの寒冷風化侵食と洗い流しのもと、山地は一系列の階段状ピラミッド形、錘状形、四角錐山形、テーブル状形などの地形を作り出す。
これらは、彼らの出版した専門書「チベットの氷河地形」の中ですべて論述されている結論である。

ロシアの科学者がピラミッドと山の図像をコンピューターに入力し、画像を重ねて輪郭を取り出した点について、楊教授はこう説明する。
「図版上では雪に覆われた山というのが真実なのに、問題は、山地の輪郭に想像上のピラミッドの恣意的な輪郭を重ねて根拠にするところにあります。
ハイテク重ね技術を用いて描いたものは、あまりに牽強付会であり、事実真相を混乱させてしまいます。
ここには主観・憶測の部分が多すぎる。
仔細に発見したものを見ればわかるが、いわゆるピラミッド建築の正面門あるいは窓というのは、実は水平地層がくぼんで剥落したために作られた黒い影像である。

■ピラミッドは特定の歴史文化意義を有している

この「チベットの神秘のピラミッド」報道に対して、楊逸畴の結論はこうである。
「ピラミッドは特定の歴史文化意義を有しているものであり、四角錐形の古建築物は文化的なものです。ロシアの科学者がチベットで発見したのはピラミッドではなく、ピラミッドの形をした地形であって、これは純粋に自然の産物です」

彼は最後に笑って言った。
「もし不満に思う人がいるなら、一番いいのは、カン・リンポチェ峰に行って、典型的な“ピラミッド”を発掘して、考古学的証明をなすことです。もし本当にピラミッドならば、必ずや世界の歴史文化を驚愕させるだけのものが集まるでしょう。そうでなければ、山は山だ!」

この中国側の反論で、一気に騒ぎが萎んでしまった感じはありますね。

 ええ、衝撃から、落胆に急降下でした。

 なかなか、分りにくいものなのですねえ。
 
この辺は、高所の山岳地帯で、もしピラミッドとしたらどう作ったかが問題でしょうね。

 年代も、いつ頃なら、ありえるかが気になりますよね。

ピラミッドは疑えても、巨大な石像はどうでしょ。

 いくら、彫刻っぽい自然石があるといってもねえ。
 巨大な石像が、どんなに損傷がひどくても、わざとらしい形だな…ぐらい思わなかったんでしょうかねえ…。

 よほど、壊れ方が大きいのでしょうか?

だとすると、ロシアの調査隊は、よくわかったですねえ。

それと、巨大な石像は、最低でもいくつ見つかったのでしょうね。

 謎だ…。

この100以上は、ピラミッドと巨大な石像の合計ですかねえ。

 巨大な石像だけで、100以上とすると、今までわからなかった方が、よけい不思議ですねえ。

まあ、中国は奇岩が多いので、ここもその類と思われやすいかも。

 それと、もし人工としたらの話だけど。
 どの民族、どの人種に巨大な石像の特徴は、似ているんでしょうね…。

 マヤ?…インカ?…オルメカ?

さあ、見てないからなんとも言いようがないです。

確か、あの地帯は、ユーラシア大陸と、インド亜大陸の、衝突で出来た地形ですね。

 大陸大衝突で、一気に持ち上げられた。
 そのあと、侵食で遺跡の立ってる場所だけが残って、山になった。
 構造物をしっかりした地盤に作るならば、これは、理論的には可能です。

それなら、標高6714メートル地点に分布する、1800メートル級のピラミッドの存在もありかも、知れないですねえ。

現行の解釈では、長期にわたる隆起や侵食を想定していますからね。
こんな場所にユーラシア大陸と、インド亜大陸の、衝突以前の遺跡はありえないとなるでしょうけど。

 でも、あんまり長期でヒマラヤのような険しい地形になりますかね。

もっと、丸い穏やかな地形になるはずではと、言いたいのですね。

 インカのマチュピチュより、コンディションは相当悪いでしょうね。

中国側の言い分から見れば、奇岩地帯程度の状態ではないかと想像出来ますね。

 それでも、こんな奇岩地帯なら写真や映像が見たいですねえ。

チベット人にとって、山は“神山”で山の下にある湖は“聖湖”と言いますからね。
興味本位の撮影は控えて欲しいと言われれば、引き下がるしかないのかも。

でも、写真で良いから、見たいですねえ。

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胡桃で知られる笠間稲荷

稲荷大神は、日本人に最も身近な神さまで「お稲荷さん」と親しまれ、殖産興業、開運招福、火防(ひぶせ)の守護神として、広大無辺のご神徳を慕って多くの人々に崇敬されています。

日本三大稲荷とは、『大日本史』等の歴史書や稲荷信仰事典によれば、総本社の伏見稲荷大社のほか祐徳稲荷神社、豊川稲荷ですね。

ただし、総本山である伏見を除けば、どこを入れるかは諸説あるようです。

稲荷は語源については俗に、稲の生い茂るように「稲生り」とも、稲光と豊作を結び付けて「稲鳴り」とも、いわれるように農耕と関連付けて語られるです。
稲荷の語源には、ほかにも、「イネカリ(稲刈)」の「刈」が「荷」に誤られた、「イナニ(稲荷)」が「イナリ」に転訛した、などがあります。
そして、三大稲荷は申し合わせたように、豊かな水の傍にあります。

今回はそのひとつ、笠間稲荷を取り上げたいです。
笠間神社には、東北自動車道で行ったのです。
当日は、運良く富士山が見えたのです。
やっぱり大きいですね、富士山!

日本三大稲荷のひとつである笠間稲荷神社のご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、正一位という最高の位をもつ神様です。

三大稲荷には諸説あるけど、そのひとつに数えられるということは、それなりの由緒が認められているといえます。

宇迦之御魂神は倉稲魂神とも書き、須佐之男神(すさのおのかみ)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)との間に生まれた神さまです。

五穀の起源の神さまとして、「古事記」の大気津比売神(おおげつひめのかみ)や「日本書紀」の保食神(うけもちのかみ)と同神です。
豊受大神と同様、「稲に宿る神秘的な精霊」を表し、五穀をはじめ一切の食物を司る神さま、生命の根源を司る「いのち」の根の神さまともされます。
宇迦之御魂神は、御自身が食物を司る神さまなので、一族に流通や稲に関わる神を持つ、人間の生活にとって根源的な役割を司る神さまです。
宇迦之御魂神の兄神の大年神は、「大年(おおとし)」すなわち「大稲(おおとし)」の神さまで、私たちがお正月に「歳神さまを迎える」という時の「歳神さま」に当たります。
暦と農業の神としては、月読神と同様です。

笠間稲荷神社は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉2年(651年)の創建とされる歴史のある神社です。
「胡桃下稲荷」(くるみがしたいなり)と呼ばれたのは、昔から胡桃の密林であったところに稲荷大神をお祀りしていたからです。
胡桃の木のあったところに建てられたとされ「胡桃下稲荷」とも言われるので、門前に胡桃稲荷の、お店があったです。
白い狐が目印です。
胡桃稲荷って、 稲荷寿司の中に胡桃が入ってるのです。
ちょっと甘めだけど、美味しかったです。

江戸時代には特に、歴代笠間藩主の崇敬が篤かったといいます。

松平(戸田)康長は、慶長17年(1612年)に笠間藩主として入封した笠間時代はもちろん、後に信州松本藩に転封になってからも深い崇敬を寄せ、松本城内に笠間稲荷大神(かさまいなりのおおかみ)のご分霊を勧請しました。

井上正賢は、城主であったときの寛保3年(1743年)には、夢に笠間稲荷大神が現れ、いっそう深く霊験を感じて笠間稲荷神社を歴代藩主の祈願所と定め、社地社殿の拡張に努めたのです。

牧野家は、延亨4年(1747年)に入封した牧野貞道以後、累代にわたって篤く崇敬し、大神のご神威の宣揚に力を尽くしたです。

また江戸時代の藩主の一族に、笠間稲荷神社への信仰が篤かったそうです。

笠間稲荷が「お稲荷さんの門三郎」と評判になったのは、門三郎という人がいて、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施したことからだそうです。
いつしか神社も、「紋三郎稲荷」とも呼ばれるようになったのです。
今日では関東はもとより、全国から年間350万余の人々が参拝に訪れます。

稲荷大神のご神名である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の、「ウカ」とは「貴い食物」を意味します。
「ウカ」も蛇をあらわし、食物の「ウカ」と合体して宇賀神とされたという説もあります。
もしそうなら、宇迦之御魂神は穀物の守護神の蛇としても祭られているのかも。

宇迦之御魂神は、須佐之男神と神大市比売神との間に生まれた神さまです。

父の須佐之男神は、天照大神の弟神として有名です。
母の神大市比売神は、ご神名の「市」に示されるように「市場」や「流通」の神さまです。

食物の神、農業の神として崇敬された宇迦之御魂神は、民間の工業や商業が盛んになると広大無辺な御神徳を慕われて、殖産興業の神としての信仰が広がっていくです。
近世になると農家だけでなく、商家、町家、大名にいたるまで稲荷大神への崇敬が広がり、ご分霊を屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りする人々が増えてきたのです。

山門には豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・奇岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神像が、また、門の裏手には、一対の神馬の像が安置されています。
第四代藩主の永井直勝公は古河藩へ移動後もご分霊をお祀りし、その領民たちが奉納した神馬像が現在の楼門にある神馬像だと言われています。

笠間稲荷には観光ツアーで行ったら、事故情報が入ったという事でルート変更になり、到着が遅くなりゆっくり参詣出来なかったです。
私自身もメモを忘れると言うドジをしたので、本殿裏の社に奉られている神々を記録出来なかったのが心残りです。
笠間稲荷には、大国主命のほか、白山神社の神々や、菅原道真公も奉られていたとまでは覚えているけど。

山門には豊岩間戸命・奇岩間戸命の二神像があったばかりか、山門の内側には石で作った鏡の模型が比較的最近の奉納とはいえ、ありました。
なんとも、岩戸開きを連想させられる配置です。

“胡桃”は、“包み”に通じ神の御子をほのめかしている様に思えます。
ただ、五穀の起源の神さまとして、「古事記」の大気津比売神(おおげつひめのかみ)や「日本書紀」の保食神(うけもちのかみ)と同神ですね。
無理に対応を見ると、イエスの母マリアにいっちゃいそうですけど。
それに、胡桃の殻は「韓」や「唐」に通じているのかも?
韓櫃や、唐櫃、辛櫃なんてのが、あるそうですよ。
韓櫃や、唐櫃、辛櫃とは、脚のない和櫃(やまとびつ)に対し,四本または六本の脚のついた唐風の櫃のこと。

 まさか、「聖櫃」?

その連想も、面白いですね。

さらに、神馬は養蚕との関わり、つまり関東も秦氏の一大勢力圏だったので、背後の秦氏=賀茂氏を指しているのでしょうか。

 「お稲荷さん」と親しみを込めて呼ぶ割にはね。
 あんまり詣でた覚えがありませんねぇ…。
 神社、稲荷神社の違いもそういえばあんまり意識したことが 無かったです。
 「おいなりさん」はいつも美味しく頂いているのにね。

そうそう、稲荷社は数多い神社のひとつ、違いはその程度です。

 笠間へは、一度行ったことがあるけどね。
 その時の目的は、笠間日動美術館と笠間焼の窯元でした。
 とてもいいところだったけど、笠間稲荷が日本三大稲荷と知っていたら、行ったのになぁ~失敗しました。

 ところで、胡桃入りとは。。。
 ちょっと個性的なおいなりさんですね。
 今度ぜひ行って、胡桃稲荷も食べたいです。

胡桃稲荷、もし、機会があったら試してみてくださいね。

「胡桃」を、「包み」と解釈すると、おもしろいことに、「猫三昧」 という兵庫県の一部で、嬰児または胞衣(えな)を埋める共同墓地が連想できますよね。

胡桃の殻を、韓櫃や、唐櫃、辛櫃と見ると、箱から生まれた話を持つ民族の祖がいるとされるアジアの国々に、思いが行ってしまうです。

胡桃の原産地域は、ヒマラヤ山脈と南西中国、バルカン諸国などにまたがっているようで、最大の森はキルギスタンにあると見られています。

胡桃は原種は、コモンクルミ、ペルシャグルミまたはセイヨウグルミと言われる種に、さかのぼれるらしいです。

またしても、日本とペルシャは不思議な縁で繋がったです。

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毘沙門天 その一

毘沙門天の起源はヒンズー教やバラモン教の中に見いだすことができ、極めて古いものです。
1000年間の苦しい修行を、積んだとされてるのです。

毘沙門天は、梵名のバイシュラマナ(Vaisravana)を訳したもので、仏の教えをよく聞くという意味で、多聞・普聞・遍聞などとも訳されるのです。
また中国で、吠室羅末拏(べいしらまぬ)・毘舎羅門などと音写され、それが変化し毘沙門となるのです。

今では、七福神の一神として有名です。
もともとはインドの神から、仏教の神に採り入れられた神です。
日本では吉祥天が毘沙門天の奥様ということになっているのです。

インド古代叙事詩「マハーバーラタ」では、宇宙の創造主プラチャーバティの孫とされるのです。
全世界の富と不老不死の命を与えられ、スリランカにあるランカーの宮殿に住み、空飛ぶ乗り物プシュパカを走らせる暗黒界の悪霊の長だったのです。

ヒンドゥー教では、ヒマラヤから産出された富を自在に扱う神となり、クーベラと呼ばれ、財宝福徳を司る神となるのです。
さらに、後には夜叉・羅刹を支配して国土を守護する武神とされたのです。
だから、正確に言えば、インドの神ではなく、スリランカつまりセイロン島の神ということなのです。

インドとスリランカは、宗教上仲が悪く、大概は、インドの善神はスリランカで悪神となり、スリランカの善神はインドで悪神ということです。
このクーベラは、どういう訳か、善神となるのです。
仏教の神となるに当たっては、その前に、同じくインドの鬼神ヤクシャの神格も付加されたという説もあります。

毘沙門天は、仏教では四天王、または十二天の最強の神となるのです。
その経緯はこうです。
毘沙門天は、大宇宙の創造主の孫で、全世界のすべての富と不死の命を授けられて、世界の王として君臨していたです。
それを強く嫉妬した異母弟のラクシャーサとも呼ばれる羅刹の王であるラーヴァナに追い出されるのです。

けれども、追われる途中で、宝の山であリ世界の中心であるとてつもない大きな山、須弥山(しゅみせん)を見つけたのです。

そして山の中腹の北側7300キロメートルのところに、七重の荘厳と七宝で飾られた絢爛豪華な大きな城を、3つ建てたのです。

財力によって大軍をそろえ、須弥山中腹の北側に住し、夜叉を率いて、憤怒の姿で岩座に立ち、須弥山第4層の水精宮に住む、北方を守護する神となるのです。
像によっては、岩座の代りに、足元に悪業煩悩の鬼を押さえつけていることもあります。

また十二天の一神ともなりました。
財宝富貴を掌り、仏法護持の善神としてです。

四天王は次のとおり。

持国天 - 東勝身洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
増長天 - 南瞻部洲を守護する。鳩槃茶、薜茘多を眷属とする。
広目天 - 西牛貨洲を守護する。龍神、毘舎闍を眷属とする。
多聞天 - 北倶廬洲を守護する。音訳が毘沙門天。原語の意訳が多聞天、夜叉、羅刹を眷属とする。

十二天の十二尊は次のとおり。

方位の八尊
伊舎那天(東北) (Isana)
帝釈天(東) (Indra)
火天(東南) (Agni)
焔魔天(南) (Yama)
羅刹天(西南) (Raksasa、あるいは、Nirrti)
水天(西) (Varuna)
風天(西北) (Vayu)
毘沙門天(北) (Vaisravana)

天地の二尊
梵天(天) (Brahman)
地天(地) (Prithivi)

日月の二尊
日天(Surya、あるいは、Aditya)
月天(Candra)

『法華義疏』第12に、「毘沙門は、是れ北方の天王なり。此に多聞と云ふ。恒に仏の道場を護り、常に説法を聞くが故に多聞と云ふ」とあります。
その姿は冷静沈着を示し、悪を挫く勇気、清く正しく強く生きることをさとしてもいるというのです。

また率いている夜叉には、八大薬叉大将、二十八使者という眷属と説明のものもあります。

願うところに随ってその名前を呼ぶと所願ことごとく成就する、と言われているのです。

毘沙門天の二十八使者とは、つぎのとおりです。

読誦、論義、聴明多智、伏蔵、説法、龍宮、隠形、禁呪、奇方、博識、勝方、興生利、田望利、高官、右司命、左司令、北斗、五官、太山、金剛、神通、坐禅、多魅、神山、香王、自在、大力、持斉門

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