聖句の背景についての誤解が、実に悲しいことにコーランに関する後の世の解釈で深刻な事態を招いているのではないでしょうか。
勿論、これらの議論はどこまでも推論ですのでそのつもりでお付き合い願います。
まず、神の子についてです。
現在のイスラムでは、この言葉は神の子について否定していると受け止められています。
ユーヌス章
マッカ啓示109節
68.かれらは、「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う。かれに讃えあれ。かれは自足なされる御方。天地の凡てのものは、かれの有である。あなたがたはこれに対して、権威はないのである。アッラーに就いて、自分の知らないことを語るのか。
この聖句についての背景が伝わっていないので即断はできないが、アッラーの子を名乗る偽預言者が現れて人々を惑わせようとしていたのかも知れません。
だが聖書はこう記しています。
ヨハネの第一の手紙 4章 9節
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
アッラーはマルヤムつまりマリアに御霊によって受胎させ、イエスをこの世につかわしたとコーランは伝えます。
イムラーン家章
マディーナ啓示 200節
35.イムラーンの妻がこう(祈って)言った時を思え、「主よ、わたしは、この胎内に宿ったものを、あなたに奉仕のために捧げます。どうかわたしからそれを御受け入れ下さい。本当にあなたは全聴にして全知であられます。」
36.それから出産の時になって、かの女は(祈って)言った。「主よ、わたしは女児を生みました。」アッラーは、かの女が生んだ者を御存知であられる。男児は女児と同じではない。「わたしはかの女をマルヤムと名付けました。あなたに御願いします、どうかかの女とその子孫の者を、呪うべき悪霊から御守り下さい。」
37.それで主は、恵み深くかの女を嘉納され、かの女を純潔に美しく成長させ、ザカリーヤーにかの女の養育をさせられた。ザカリーヤ一が、かの女を見舞って聖所に入る度に、かの女の前に、食物があるのを見た。かれは言った。「マルヤムよ、どうしてあなたにこれが(来たのか)。」かの女は(答えて)言った。「これはアッラーの御許から(与えられました)。」本当にアッラーは御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。
38.そこでザカリーヤーは、主に祈って言った。「主よ、あなたの御許から、無垢の後継ぎをわたしに御授け下さい。本当にあなたは祈りを御聞き届け下さいます。」
39.それからかれがなお聖所で礼拝に立っていた時、天使がかれに呼びかけた。「アッラーからヤヒヤーの吉報をあなたに授ける。その子はアッラーの御言葉の実証者となり、尊貴、純潔で正しい人々の中の預言者となろう。」
40.かれは言った。「主よ、どうしてわたしに男の子があり得ましょう。わたしはもう老齢になってしまい、妻は不妊でありますのに。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのことを行われる。」
41.そこでかれ(ザカリーヤー)は言った。「主よ、わたしに印を御示し下さい。」かれ(天使)は言った。「あなたは3日の間人間と話すことが出来ず、身振だけで意志を通じさせることになろう。これがあなたに与えられる印である。だから多くあなたの主を念じ、朝にタべに讃えなさい。」
42.天使たちがこう言った時を思い起せ。「マルヤムよ、誠にアッラーはあなたを選んであなたを清め、万有の女人を越えて御選びになられた。」
43.「マルヤムよ、あなたの主に崇敬の誠を捧げてサジダしなさい。ルクーウ(立礼)するものと一緒にルクーウしなさい。」
44.これは幽玄界の消息の一部であり、われはこれをあなたに啓示する。かれらが籤矢を投げて誰がマルヤムを養育すべきかを決めた時、あなたはかれらの中にいなかった。またかれらが相争った時も、あなたはかれらと一緒ではなかった。
45.また天使たちがこう言った時を思え。「マルヤムよ、本当にアッラーは直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えられる。マルヤムの子、その名はマスィーフ・イーサー、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(アッラーの)側近の一人であろう。
46.かれは揺り籠の中でも、また成人してからも人びとに語り、正しい者の一人である。」
47.かの女は言った。「主よ、誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ、『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」
マルヤムすなわちマリアの受胎告知の瞬間が生々しく語られています。
イーサーはすなわちイエスはアッラーがもうけられた子ではないが、アッラーの命令によってマルヤムが授かった子であることが告げられているのです。
アッラーによって選ばれた乙女はマルヤムただ一人であり、アッラーがイーサー以外にこの世に送られた子は存在しない、よってイーサー以外でアッラーのもうけた子と名乗る者がいればそれは偽物だと告げていると解釈することも可能ではないでしょうか。
イエスの時代にもイエスの名をかたって悪霊を払うと称する人々がいたと、聖書に記されています。
またイエスは、偽預言者が出てきて人々を惑わすとも警告しています。
コーランでは、続く聖句にはこう記されています。
69.言ってやるがいい。「アッラーに就いて嘘を捏造する者は、決して栄えないであろう。」
アッラーの子を名乗る偽預言者が、ムハンマドの時代にいたとしてもおかしくありません。
どこまでも推論なので、断定することはできません。
だが、あり得ない話ではないのです。
ムハンマドには、イーサーつまりイエスがアッラーのアッラーの独り子であったと言いにくい事情があった可能性は十分にあり得るのです。
結果的に父と子と聖霊による神会の存在を、ムハンマドは言い出しづらかったのかも知れません。
婦人章(アン・ニサー)
マディーナ啓示 176節
171.啓典の民よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。またアッラーに就いて真実以外を語ってはならない。マルヤムの子マスィーフ・イーサーは、只アッラーの使徒である。マルヤムに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯―の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にある凡てのものは、アッラーの有である。管理者としてアッラーは万全であられる。
なぜ私がこのような推論をするのか、それには理由があります。
イーサーの十字架での死を否定したと、受け取られている次の聖句の存在です。
コーランはこう記します。
婦人章(アン・ニサー)
マディーナ啓示 176節
157.「わたしたちはアッラーの使徒、マルヤムの子マスィーフ(メシア)、イーサーを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。
コーランのこの記述の背景には、聖書の伝えるこのような事情があったのかも知れません。
マタイによる福音書 27章 62節~65節
あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、
「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。
ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。
ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。
しかしイエスはよみがえり、弟子達に十字架で受けた傷を確かめさせて十字架で死んだのは身代わりなどではなく自分自身であること、確かに肉体を持ってよみがえっていることを、あかしたことは聖書に記されている通りです。
だがかたくなとなったユダヤ人たちがどうしたか、聖書は次のように伝えています。
マタイによる福音書 28章 11節~15節
女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、
「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。
そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。
ユダヤ人たちはムハンマドに対しても、イエスの生涯はゴルゴダで終わっていると言い募ったのでしょう。
そこでムハンマドは、イエスの生涯はゴルゴダで終わってはいないことや今でもイエスは生きていることを、断定的に言い切る必要があったので、コーランに記された言葉となったのかも知れません。
コーランは預言者として召されたムハンマドの言葉を中心に編纂されていて、当時の状況まで記録されていないので、時代背景を調べたうえで推論を展開するしか手がありません。
だがコーランが聖典でもある以上、推論を展開するのに許される数少ない手がかりは聖書と言うことになるでしょう。
「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う一部の人々の言葉をムハンマドが否定せざるを得なかった裏に、アッラーの子と名乗る偽預言者がいた可能性を推測する理由がここにあります。
勿論、あっけなく偽預言者の化けの皮が剝がれ一件落着となって記録に残るまでもなかったのでしょうが、この手の偽物にムハンマドが手を焼いていたことは想像に難くないのです。
そうでなければこのような聖句が、コーランに残るでしょうか。
だが、こういう疑問を投げかける人もいることでしょう。
イエスには、子孫がいたのではないかと。
確かに、子と言う言葉には子孫と言う意味もあります。
そして、イエスとマグダラのマリアとの間に子があったのではないかと疑う人もいることは、最近でもダビンチコードでネタの一つにされたことで記憶にある方もおられる事でしょう。
コーランには、イエスには父はいないという文言もあります。
これは、イエスにはしばしば、大工のヨセフの子ではないか、と言う言葉が投げかけていたことに対してアッラーが業を煮やしておっしゃった言葉とも解釈出来るのです。
実際マルヤムは、地上の男性をだれ一人知ることもなくイエスを身ごもっているのです。
地上の男性にイエスと血のつながった父はいるはずがないので、この言葉には嘘はありません。
一方でイエスは常に天の神を父と呼んでいます。
だがコーランには、アッラーは子をなしていないとあるではないかと、反論があるかもしれません。
地上に今もアッラーの子孫がいると言いふらす人達に対して、アッラーはきっぱりと否定する必要あったと解釈できます。
余計な議論に深入りしない方法は、誤解を恐れずに端的に言い切るしかないのです。
地上にアッラーの子孫などはいないのだと、きっぱり言い切るしかないのです。
コーランには、当時の状況を書き記す説明書きは一切ありません。
ムハンマドにアッラーからもたらされた言葉が、記されているだけなのです。
コーランは何よりもまず、ムハンマドが聖典に対する正しい理解を守るためにいかに戦ったかの記録の書であったからなのでしょう。
記憶が生々しいうちはそれでも良かったが、時代が下り記憶は薄れていくとそうはいきません。
ムハンマドは繰り返し聖書を読むことを指示していたと言います。
コーランの記録に対する解釈に誤解が出ることを、恐れたからかもしれません。
コーランは実践的な指導書であると同時に、論争の記録書でもある以上正しい理解に聖書の学びは欠かせません。
だが、コーランの一般的解釈としてイスラム社会に一度広まってしまったものは、軌道修正は容易ではないでしょう。
とは言え、解釈に誤解が生まれない為には、絶えず検証していくことが必要ではないでしょうか。
そして、それで正しいかどうかは、神に祈って答えを求めるしかないでしょう。
聖書にはこうあります。
ヤコブの手紙 1章 5節
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
今回の議論の内容に、もし間違えがあるとすれば、神の声を聞き違えてしまった私に責任があるので、気がついた方は教えて頂ければ幸いです。
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