アジア

休息と聖書?

毎朝、町を行く人々の顔を見てふと思うのです。

朝だと言うのに、生き生きした表情の人があまりにも少ない国だなあ、日本、と言う事です。

朝から疲れた顔の勤め人が多いのは、慢性化していている残業などの長時間労働に加えて、職場の人間関係を円滑にすると称してのいわゆる飲みにケーションと呼ばれる上司や同僚との付き合いも、疲労蓄積に拍車をかけているのではないでしょうか。

日本もアフター5は個々人の自由な時間であってしかるべきではないでしょうか。

日本も経営者や上司が、残業など長時間労働や社内の付き合い酒などを抜本的に見直した方が良いのではないですか。

個々の社員に早く帰れと啓蒙するより、経営者や上司の意識改革に国や地方自治体が腰を据えて取り組みを進めるべしでしょうね。

過労死問題に取り組んでこそ、医療費抑制や生産性向上につなげることになるのではないでしょうか。

有給消化率最低の日本の労働生産性が17位、ゆるく働いているイメージの強いイタリアの労働生産性が20位だが、実際には差はほとんどないと言えるくらい僅差です。
それってつまり、慢性的に疲れている日本の労働者の生産性が人生エンジョイしてるイタリアの労働者の生産性と大差ないってことです。
 
馬鹿らしいですよね。

人生エンジョイ型のイタリアの労働生産性と日本の労働生産性が大差ないって、どう思いますか。

根が真面目な日本人がイタリア人と同じくらい元気に働いたならもっともっと生産性があがるんじゃないですか。

誰もそんなこと考えられないくらい疲労が蓄積してるんですか、日本人。

だとしたら、悲し過ぎますよ。

本気で過労死問題に取り組んで欲しい、そう思いませんか。

過労死レベルの長時間労働にきちんとメス入れないと、更に労働生産性が落ちてイタリアに抜かれるかもしれないですよ。

イタリアの労働生産性が上がるからじゃないです。

日本の労働生産性はさらに労働者が疲労をため込んだ結果、さらに落ち込んで抜かれる可能性があるってことですよ。

多くの大企業で不正が発覚しました。

まともに考えられるなら、不正は結果として割に合わない、と言う正常な判断ができるはずですよね。

自覚症状がないくらい疲労は慢性化してるんですか、経営者までもが。

忙しいとは、心亡くす、心亡ぶ、って意味がある事さえ経営者も気が付けない位なら、もはや重症じゃないですか。

働くのは、誰のためなの、何のためなの、会社は、誰のためにあるの、何のためにあるのでしょうね。

日本は、そんなこと考えないままに突っ走ってきたのかもしれないですね。

西洋キリスト教文化圏では、人生とは、働くとは、どういう事か真剣に問うた時代があります。

今の人たちは、そんなこと忘れてるかもしれないですけどね。

少なくとも西洋キリスト教圏では、労働は神に課せられた罰であって信仰のために人生の時間の多くを割くべきと言う発想が根底にあるのです。

だからかもしれないが、労働時間の短縮は案外すんなりと合意が成立したようですね。

もちろん労働運動や政治運動の力も、大きかったようですけどね。

東洋、少なくとも日本では、勤勉が美徳とされ休息が取りにくい文化があるとは指摘されています。

休息は勤勉へのご褒美と言った感覚があるとも、指摘されてきました。

しかし、休息は人間らしく働くために必要であり権利である、と言う考えが世界の当たり前になりつつある今、ついていけないとだめになるでしょうね。

つまり、日本で働き方改革をすると言う事は、休息は基本的人権の一つであると言う発想の転換を社会の隅々にまで根付かせると言う事なのではないでしょうか。

意識改革の取り組みを国と地方自治体が本腰を入れて取り組みことに他ならないのではないでしょうか。

休息と怠けは別だと言う、意識改革こそ必要なのではないでしょうか。

ここがきちんとすわらないと、だめなのですよね。

怠けることがいけないのは、世界共通です。

むしろ怠け心が起きるような疲れがたまって抜けない働き方をしてる方が、問題なのです。

ちゃんと休息をとって十分に疲れを取るなら、気力が充実して怠け心など起きないはずです。

逆に言えば日本の働き方は、適当に怠けないと体が悲鳴を上げる働き方と言う事なのです。

キリスト教的倫理では怠け心は悪魔のたぶらかしに負ける事だから、それに勝てる気力と体力をつけて備える必要があるとなるのです。

だから、十分に休息を取らないといけないのですね。

休息を基本的権利として受け入れる文化的素地が、こう言うところにもあるのかもしれないですよ。

日本の労働時間がとかく長くなりやすいのは、休息は勤勉のご褒美だから、より長くよりきつく働いて多くの仕事をこなしたものが多く休めると言う不文律があるからかも知れません。

結果として、適当に怠けないと体が壊れるから長時間で低生産性の労働に必然的になっていくのかもしれないですね。

ここの発想を変えないとだめなのです。

欧米の発想の根底には、聖書とキリスト教がある、ここを踏まえておく必要があるでしょうね。

それは長い歴史の中で、彼らの精神に深く根ざしたものとなりもはや無意識のレベルにまで達していると言って良いです。

彼らに受け入れやすいように、変えられてしまったところもあるようですけどね。

世界の大半は彼らによって植民地化され、程度の差こそあれ、根付かさせられていると見た方が良いでしょうね。

日本人も少しは聖書やキリスト教について知っておかないと、彼らの発想の基本が理解できないってことなのです。

信じろとは言わないけど、知識として知っておいて損はないでしょうね。

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現在のコーランの解釈に誤解はないのか?

聖句の背景についての誤解が、実に悲しいことにコーランに関する後の世の解釈で深刻な事態を招いているのではないでしょうか。

 

勿論、これらの議論はどこまでも推論ですのでそのつもりでお付き合い願います。

 

まず、神の子についてです。

 

現在のイスラムでは、この言葉は神の子について否定していると受け止められています。

 

ユーヌス章

 

マッカ啓示109

 

68.かれらは、「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う。かれに讃えあれ。かれは自足なされる御方。天地の凡てのものは、かれの有である。あなたがたはこれに対して、権威はないのである。アッラーに就いて、自分の知らないことを語るのか。

 

この聖句についての背景が伝わっていないので即断はできないが、アッラーの子を名乗る偽預言者が現れて人々を惑わせようとしていたのかも知れません。

 

だが聖書はこう記しています。

 

ヨハネの第一の手紙 4 9

 

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

 

アッラーはマルヤムつまりマリアに御霊によって受胎させ、イエスをこの世につかわしたとコーランは伝えます。

 

イムラーン家章

 

マディーナ啓示 200

 

35.イムラーンの妻がこう(祈って)言った時を思え、「主よ、わたしは、この胎内に宿ったものを、あなたに奉仕のために捧げます。どうかわたしからそれを御受け入れ下さい。本当にあなたは全聴にして全知であられます。」

 

36.それから出産の時になって、かの女は(祈って)言った。「主よ、わたしは女児を生みました。」アッラーは、かの女が生んだ者を御存知であられる。男児は女児と同じではない。「わたしはかの女をマルヤムと名付けました。あなたに御願いします、どうかかの女とその子孫の者を、呪うべき悪霊から御守り下さい。」

 

37.それで主は、恵み深くかの女を嘉納され、かの女を純潔に美しく成長させ、ザカリーヤーにかの女の養育をさせられた。ザカリーヤ一が、かの女を見舞って聖所に入る度に、かの女の前に、食物があるのを見た。かれは言った。「マルヤムよ、どうしてあなたにこれが(来たのか)。」かの女は(答えて)言った。「これはアッラーの御許から(与えられました)。」本当にアッラーは御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。

 

38.そこでザカリーヤーは、主に祈って言った。「主よ、あなたの御許から、無垢の後継ぎをわたしに御授け下さい。本当にあなたは祈りを御聞き届け下さいます。」

 

39.それからかれがなお聖所で礼拝に立っていた時、天使がかれに呼びかけた。「アッラーからヤヒヤーの吉報をあなたに授ける。その子はアッラーの御言葉の実証者となり、尊貴、純潔で正しい人々の中の預言者となろう。」

 

40.かれは言った。「主よ、どうしてわたしに男の子があり得ましょう。わたしはもう老齢になってしまい、妻は不妊でありますのに。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのことを行われる。」

 

41.そこでかれ(ザカリーヤー)は言った。「主よ、わたしに印を御示し下さい。」かれ(天使)は言った。「あなたは3日の間人間と話すことが出来ず、身振だけで意志を通じさせることになろう。これがあなたに与えられる印である。だから多くあなたの主を念じ、朝にタべに讃えなさい。」

 

42.天使たちがこう言った時を思い起せ。「マルヤムよ、誠にアッラーはあなたを選んであなたを清め、万有の女人を越えて御選びになられた。」

 

43.「マルヤムよ、あなたの主に崇敬の誠を捧げてサジダしなさい。ルクーウ(立礼)するものと一緒にルクーウしなさい。」

 

44.これは幽玄界の消息の一部であり、われはこれをあなたに啓示する。かれらが籤矢を投げて誰がマルヤムを養育すべきかを決めた時、あなたはかれらの中にいなかった。またかれらが相争った時も、あなたはかれらと一緒ではなかった。

 

45.また天使たちがこう言った時を思え。「マルヤムよ、本当にアッラーは直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えられる。マルヤムの子、その名はマスィーフ・イーサー、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(アッラーの)側近の一人であろう。

 

46.かれは揺り籠の中でも、また成人してからも人びとに語り、正しい者の一人である。」

 

47.かの女は言った。「主よ、誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ、『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」

 

マルヤムすなわちマリアの受胎告知の瞬間が生々しく語られています。

 

イーサーはすなわちイエスはアッラーがもうけられた子ではないが、アッラーの命令によってマルヤムが授かった子であることが告げられているのです。

 

アッラーによって選ばれた乙女はマルヤムただ一人であり、アッラーがイーサー以外にこの世に送られた子は存在しない、よってイーサー以外でアッラーのもうけた子と名乗る者がいればそれは偽物だと告げていると解釈することも可能ではないでしょうか。

 

イエスの時代にもイエスの名をかたって悪霊を払うと称する人々がいたと、聖書に記されています。

 

またイエスは、偽預言者が出てきて人々を惑わすとも警告しています。

 

コーランでは、続く聖句にはこう記されています。

 

69.言ってやるがいい。「アッラーに就いて嘘を捏造する者は、決して栄えないであろう。」

 

アッラーの子を名乗る偽預言者が、ムハンマドの時代にいたとしてもおかしくありません。

 

どこまでも推論なので、断定することはできません。

 

だが、あり得ない話ではないのです。

 

ムハンマドには、イーサーつまりイエスがアッラーのアッラーの独り子であったと言いにくい事情があった可能性は十分にあり得るのです。

 

結果的に父と子と聖霊による神会の存在を、ムハンマドは言い出しづらかったのかも知れません。

 

婦人章(アン・ニサー)

 

マディーナ啓示 176

 

171.啓典の民よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。またアッラーに就いて真実以外を語ってはならない。マルヤムの子マスィーフ・イーサーは、只アッラーの使徒である。マルヤムに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯―の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にある凡てのものは、アッラーの有である。管理者としてアッラーは万全であられる。

 

なぜ私がこのような推論をするのか、それには理由があります。

 

イーサーの十字架での死を否定したと、受け取られている次の聖句の存在です。

 

コーランはこう記します。

 

婦人章(アン・ニサー)

 

マディーナ啓示 176

 

157.「わたしたちはアッラーの使徒、マルヤムの子マスィーフ(メシア)、イーサーを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。

 

コーランのこの記述の背景には、聖書の伝えるこのような事情があったのかも知れません。

 

マタイによる福音書 27 62節~65

 

あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、

 

「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。

 

ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。

 

ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。

 

しかしイエスはよみがえり、弟子達に十字架で受けた傷を確かめさせて十字架で死んだのは身代わりなどではなく自分自身であること、確かに肉体を持ってよみがえっていることを、あかしたことは聖書に記されている通りです。

 

だがかたくなとなったユダヤ人たちがどうしたか、聖書は次のように伝えています。

 

マタイによる福音書 28 11節~15

 

女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。

 

祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、

 

「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。

 

万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。

 

そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。

 

ユダヤ人たちはムハンマドに対しても、イエスの生涯はゴルゴダで終わっていると言い募ったのでしょう。

 

そこでムハンマドは、イエスの生涯はゴルゴダで終わってはいないことや今でもイエスは生きていることを、断定的に言い切る必要があったので、コーランに記された言葉となったのかも知れません。

 

コーランは預言者として召されたムハンマドの言葉を中心に編纂されていて、当時の状況まで記録されていないので、時代背景を調べたうえで推論を展開するしか手がありません。

 

だがコーランが聖典でもある以上、推論を展開するのに許される数少ない手がかりは聖書と言うことになるでしょう。

 

「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う一部の人々の言葉をムハンマドが否定せざるを得なかった裏に、アッラーの子と名乗る偽預言者がいた可能性を推測する理由がここにあります。

 

勿論、あっけなく偽預言者の化けの皮が剝がれ一件落着となって記録に残るまでもなかったのでしょうが、この手の偽物にムハンマドが手を焼いていたことは想像に難くないのです。

 

そうでなければこのような聖句が、コーランに残るでしょうか。

 

だが、こういう疑問を投げかける人もいることでしょう。

 

イエスには、子孫がいたのではないかと。

 

確かに、子と言う言葉には子孫と言う意味もあります。

 

そして、イエスとマグダラのマリアとの間に子があったのではないかと疑う人もいることは、最近でもダビンチコードでネタの一つにされたことで記憶にある方もおられる事でしょう。

 

コーランには、イエスには父はいないという文言もあります。

 

これは、イエスにはしばしば、大工のヨセフの子ではないか、と言う言葉が投げかけていたことに対してアッラーが業を煮やしておっしゃった言葉とも解釈出来るのです。

 

実際マルヤムは、地上の男性をだれ一人知ることもなくイエスを身ごもっているのです。

 

地上の男性にイエスと血のつながった父はいるはずがないので、この言葉には嘘はありません。

 

一方でイエスは常に天の神を父と呼んでいます。

 

だがコーランには、アッラーは子をなしていないとあるではないかと、反論があるかもしれません。

 

地上に今もアッラーの子孫がいると言いふらす人達に対して、アッラーはきっぱりと否定する必要あったと解釈できます。

 

余計な議論に深入りしない方法は、誤解を恐れずに端的に言い切るしかないのです。

 

地上にアッラーの子孫などはいないのだと、きっぱり言い切るしかないのです。

 

コーランには、当時の状況を書き記す説明書きは一切ありません。

 

ムハンマドにアッラーからもたらされた言葉が、記されているだけなのです。

 

コーランは何よりもまず、ムハンマドが聖典に対する正しい理解を守るためにいかに戦ったかの記録の書であったからなのでしょう。

 

記憶が生々しいうちはそれでも良かったが、時代が下り記憶は薄れていくとそうはいきません。

 

ムハンマドは繰り返し聖書を読むことを指示していたと言います。

 

コーランの記録に対する解釈に誤解が出ることを、恐れたからかもしれません。

 

コーランは実践的な指導書であると同時に、論争の記録書でもある以上正しい理解に聖書の学びは欠かせません。

 

だが、コーランの一般的解釈としてイスラム社会に一度広まってしまったものは、軌道修正は容易ではないでしょう。

 

とは言え、解釈に誤解が生まれない為には、絶えず検証していくことが必要ではないでしょうか。

 

そして、それで正しいかどうかは、神に祈って答えを求めるしかないでしょう。

 

聖書にはこうあります。

 

ヤコブの手紙 1 5

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

今回の議論の内容に、もし間違えがあるとすれば、神の声を聞き違えてしまった私に責任があるので、気がついた方は教えて頂ければ幸いです。
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    琉球王国とローマ帝国とオスマン帝国!?

    琉球新報で気になる記事が掲載されていたのです。

    勝連城跡から

    ローマ帝国時代コイン 

    オスマン帝国時代も出土

    ローマ帝国時代のコイン
    オスマン帝国時代のコイン

     【うるま】うるま市教育委員会は26日午後1時半から市役所で会見を開き、市勝連にある世界遺産「勝連城跡」内で、ローマ帝国とオスマン帝国時代のコインが発見されたと発表した。市教育委員会は「中世から近世初期の遺跡からは、国内初になるものだろう」とし、日本史だけでなく世界史研究などに大きく寄与すると分析している。

     調査はエックス線検査や専門家らによる鑑定などの方法で行われた。コインにはローマ文字やアラビア文字、人物像があることが確認された。

     コインが持ち込まれた経緯や使用方法などについては、今後の研究課題としている。

     発見されたコインは鋳造製の銅貨計10枚。そのうち4枚は3~4世紀代のローマ帝国時代、1枚は1669~79年に製造されたオスマン帝国時代のコインと推測される。そのほか5枚の年代については調査が進められている。

     確認されたコインのうち、ローマ帝国時代のコインは直径最大2センチ、重さ3・6グラム。一方、オスマン帝国時代のコイン直径は2センチ、重さ1・2グラム。

     市教育委の横尾昌樹主任主事は「勝連城が西洋との接点があったことは確かだ。勝連城の廃城後の歴史は分からないことが多々あり、今後の解明につながる貴重な資料になる」とした。

     会見に出席した島袋俊夫市長は「沖縄のグスク時代における勝連の流通、交易を考える上で重要な資料。世界史研究全般の研究に大きく寄与する発見となる」と研究の成果を評価した。
    【琉球新報電子版】


    東アジアの国で、ローマ帝国との強いつながりが指摘されるのは新羅です。

    ローマ文化王国‐新羅 由水 常雄 (著)と言う書を知った時にはびっくりしたけど、今回の記事はそれ以上に驚いてしまったのです。

    百済・新羅・高句麗のいずれも、日本に亡命しているくらい、日本とは繋がりが深いです

    新羅を介してのローマ帝国と琉球の繋がりは、気になるところです。

    さらに、オスマン帝国時代のコインまでと言うことは、貿易立国であった琉球の交易範囲の驚くべき広がりへの想像を掻き立てられます。

    今後の調査は要注目です。

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    日本にとって天皇制はどういう意味を持つか。

    天皇制については、古代から続く前世紀の遺物と見る人も多いです。

     

    確かに古代から続くシステムには違いないが、アジアの多くの国が古代のリフレインから抜け出せなかったのに、なぜ日本は違ったのかと言うことです。

     

    多くのアジア諸国の王との決定的な差は、天皇はいわば日本版教皇ともいうべき立場であったことなのです。

     

    祭政一致的な国家の最高権力と言うなら、アジア諸国の王の多くはそうでした。

     

    だが日本の天皇との決定的な差は、天皇が教皇的な最高祭司に祀り上げられてしまったことなのです。

     

    教皇的な最高祭司に祀り上げられた結果、天皇は執権の任命権者として君臨、時代の変化に応じた執権を自在に任命できたのでした。

     

    執権のおおもとの意味は、政務を執行する者と言うことです。

     

    執権は歴史的な用語として知られているが、ここでは一番基本的な意味で用います。

     

    余談ですが、キリスト教世界の教皇は近代国家成立以降国家の執権に当たる人々を認証する役目から外れてしまったが、日本の天皇は今でも総理大臣や内閣の認証を形式的な儀式だけになってしまったとはいえ続けています。

     

    これは、天皇が日本国成立の時から日本の中心として君臨し続けてきたのに対して、教皇はヨーロッパ諸国がキリスト教化したことによって精神世界の頂点に位置付けられたことやキリスト教世界が東方正教会やカソリックやプロテスタントに分裂したことと、おそらく無関係ではないでしょう。

     

    本題に戻ります。

     

    多くの国々の場合、権力の交代は国全体のリセットとなってしまい国家建設の成果の蓄積は事実上できませんでした。

     

    日本は天皇制が維持できたおかげで、国家の一貫性が保たれ、国家建設の成果の蓄積が可能となったのです。

     

    これは、天皇制の好き嫌いに無関係に認めざるを得ない事実なのです。

     

    天皇制が日本史の展開の上で果たしてきた役割の大きさを思うとき、天皇制の廃止はすなわち、事実上の日本史の断絶となるでしょう。

     

    果たしてそれが、日本にとって吉と出るか凶と出るかは誰にもわかりません。

     

    ただ、天皇制の廃止をすることになれば日本史を貫いてきた大黒柱を失うことは紛れもない事実と言えるでしょう。

     

    日本がもしも天皇制の廃止に踏み切った場合、代わりとなる国家の大黒柱を確固として打ち立てていく事ができるのかが、問われる事態となるかもしれません。

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    生粋の日本人にこだわる意味ってあるのでしょうか。

    生粋の日本人って言う人がいるけど、島国日本は太古に大陸からわたってきた祖先の子孫の国なんですよね。

    先住民の縄文人、最新研究によるとヨーロッパとアジアの人種や民族が分かれる以前の人たちの子孫だと判明したらしいです。

    勿論、縄文人の祖先たちが旅立った場所はその場所は中東のどこかってことになるわけです。

    当然、弥生人も大陸出身です。

    日本には、百済や新羅や高句麗からの亡命者や秀吉が朝鮮出兵で連れてきた朝鮮半島出身者もいるけど、日本人の遺伝子の主流に中国や韓国・朝鮮と同じものはないのです。

    面白いことに、ほとんど中国や韓国を迂回したルートかシルクロードが日本人のアジア横断ルートとして浮かび上がってくるのは興味深いことです。

    シルクロードと言えば面白い伝承が中央アジアのキルギスにあり、肉好きはキルギスに残り魚好きが東に向かって日本人になったと言うが、それくらい彼らは日本人に似ているのです。

    キルギス人はテュルク系民族だが、トルコ人もその一派です。

    キルギスもトルコも、日本人が驚くくらい親日らしいから、面白いんですよね。

    それと、日本はアジアにおけるヨーロッパの遺伝子病の飛び地でもあり、しかも、その広がりは、結構ヨーロッパの広範囲に及ぶのです。

    これも、ヨーロッパとアジアの人種が分かれる以前の人たちの子孫が縄文人と知れば納得できるわけですね。

    何しろ日本人の遺伝子分布をヨーロッパ寄りにした原因は縄文人と判明しているのですから。

    それに、アメリカ大陸の先住民も縄文人とご親戚であることが、遺伝子研究でも裏付けられたし、縄文土器や古代日本人の骨もアメリカ大陸で見つかっているのですよ。

    古来日本人は、ワールドワイドな移住をしてきたことがどんどんわかってきたのです。

    生粋の日本人とかこだわる方が、馬鹿馬鹿しいってことなのですね。

    太古、日本人は世界を股にかけて壮大な旅をしてきた民族であることが、これからもどんどんわかってくることでしょう。

    そのことを世界に積極的に発信して、世界に平和を呼びかけ各地に古代の日本人の足跡探ししようじゃないですか。

    「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と言う憲法前文と、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言している憲法9条はその時、最大のパスポートになるはずです。

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    古代エジプトと古代南米は日本を絡めると繋がりが見える?!

    古代エジプトと古代南米には、ピラミッドとミイラという文化の共通点が知られています。

     

    奇妙なことに、カフェインがこの共通点に加えられそうになっているというのです。

     

    だが、カフェインと言う共通点が見つかったにもかかわらず古代エジプトと古代南米には、これまで一切、文化や文物の交流の痕跡は見つかっていないというのです。

     

    カフェインは、ミイラ、それも、専門家が本物と認定したミイラの皮膚や髪の毛から検出された以上、生前の摂取以外原因を見いだすことは不可能なのです。

     

    ミイラが発掘された当時のずさんな管理や、横行した偽物に原因を求める試みはことごとく否定されたというのです。

     

    多くの研究者は、納得できる理由をいつになったら見出せるのか、今の時点では見通しを立てられないでいると言います。

     

    ところが、アメリカで奇妙な文献が見つかっています。

     

    神の導きによって奇跡的に見出された書であると主張されている、モルモン書がそれです。

     

    ここには、出エジプト記に記された民であるイスラエルの民の一部が、アメリカ大陸に渡ったと記され、この書は彼らのたどった歴史をほぼリアルタイムで記されていると、主張されています。

     

    実はアメリカには、現在のイリノイ州セントルイス近郊にあたるミシシッピ川の氾濫原カホキアに興味ひかれる遺跡があるのです。

     

    カホキアをある考古学者は,宗教が社会のあらゆる面に浸透していたように思われるところから「北アメリカのエルサレム」と称したそうです。

     

    別の文献は,「最盛期(西暦10001150)に,カホキアは高度に中央集権化した神権政治の本拠地であった」と述べているといいます。

     

    カホキア人にとって宗教と社会が不可分のものであったことを示す、人工遺物も発見されたそうです。

     

    このカホキアは洪水で滅んだとみられているが、このカホキアの最期を生々しく描いたと思いたくなるような記述があるのです。

     

    それを記している書が、モルモン書です。

     

    このモルモン書には、何度かの船出のあと消息を絶った人々の記録もあるが、ヨーロッパやアフリカに彼らの足跡を見いだすことはできていません。

     

    一方、日本先住民とアメリカ先住民には以前から繋がりが指摘されています。

    そして、遺伝子でも繋がりの強さが裏付けられたのです。

     

    さらに、北米やメキシコで古代日本人とみられる人骨も見つかり、南米からは縄文土器や古代エジプト土器との強い類似性が指摘される土器も発見されています。

     

    そして、日本は古代中東の遺伝が多く残る地域の一つであり、先住民とみられる縄文人の段階にもその原因は求められているが、縄文人は環太平洋文化圏を営んでいた可能性があるのです。

     

    しかも、縄文人の血を引くとみられるアイヌの生活文物に古代イスラエルとの類似が指摘されるのです。

     

    そして、日本人の足の多くにエジプトタイプが見られ、味の好みもエジプトに似ているうえに、神道は太陽神を中心に三神構造の神々の世界が動物を含んで展開している点で古代エジプトにそっくりなのです。

     

    傍証でしかないと言えば、その通りです。

     

    だが、ここまで、古代南米と古代エジプトの繋がりを示すとしか思えない事実が日本を交えると見えてくるというのが、なんとも面白いですね。

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    和え物について考えてみた。

    行きつけのお店で、デザートを頼んでみました。
    シェフが挙げた本日のデザートの中に、あれっと思うものがありました。
    イチゴのサラダ...。
     
    気になって頼んでみました。
    日本人の奥さんと結婚して日本に住んでる外人シェフ、どんなもの出してくるんでしょ。
    デザートで、サラダってと思っていたら、スプーンを出してきました。
    しばらくして、おもむろに出てきたのは、ブランデーグラスの中にきれいにカットされて盛り付けられたイチゴ…。
    下はカスタードプディングみたいで、イチゴには、これまた、イチゴのアイスがきれいに丸まって乗っていて、かわいらしくまとまっています。
    自分で和えながら食べてくれというわけです。
    確かに、サラダは和え物です。
    カットした野菜などを、ソースに絡めて食べるのがサラダだから間違ってはいません。
    もちろんのこと、おいしくいただきましたが、ふと、こんな考えが浮かびました。
     
    和え物文化圏ともいえる地域って、あるんでしょうか。
     
    それほどいろんな国の料理食べたことがないので、うっかり断言出来ないけど、ありそうな気がします。
    でも、アジアでは、日本以外で和え物ってあるのかしら。
     
    カットした野菜などを、ソースに絡めて食べるのが、和え物であり、サラダだとしたら、アジアでもあるように感じるけど、ちょっと待ってくださいね。
     
    ウィキペディアでは、調理法の「和える」が独立項目として立てられていますが、゛和える"は英語で゛Dress"なので和える調味料はDressing"になるわけです。
    ところが、項目としての゛Dress"は衣装、とりわけ女性服になってしまうし、゛Dressing"だと調味料になってしまいます。
     
    つまり、調理法の「和える」は日本サラダ史の一ページとして、認識される必要があり、リンクを貼る先の項目は、「サラダ」ということになります。
     
    ところが、サラダに分類される料理は、世界各地のものが認識されているけど、日本の和え物は盛り付け方による見た目の問題でしょうか、それとも、ソースの問題なんでしょうか、サラダとしては認識されてはいないようなのです。
     
    和え物は調理法としては、まぎれもなくサラダです。
     
    そして、サラダが食卓でなじんでいる国や地域は現在では、ヨーロッパやアジアを中心に日本を含め、現代では世界に広まっています。
    和え物はサラダという形で世界にあるにもかかわらず、独自の展開ゆえにサラダとして認知されてこなかった日本の和え物。
     
    もっと、ジャパニーズサラダとして日本人も和え物を認識して、世界に紹介していってもいいような気がします。
     
    余談ですが、和え物はいつごろからあるんでしょうね。
     
    御浸し、ひたし、ひたし物とも呼ばれるおひたしとは、調理法の1種で、出しに浸す過程より派生した調理名です。
    出しに浸す工程は省かれることも多く、単に茹でた食材に醤油をかけたものも、おひたしと呼ばれます。
     
    この出しに浸す工程の省かれたおひたしを、醤油にからしや山椒、出しや味醂などを加えて和えたり、醤油と基本的に同じ工程でできる味噌で和えたり、おからや、さらに、ケシの実や大根や青豆などをすったもので和えたりと、変化をつければ和え物になるわけです。
     
    サラダも基本的には塩で和えたものから、多彩に展開したのでしょうか。
    もしかすると、塩ゆでする代わりに、塩で和えたところからサラダは出発したのかも知れないですね。
    塩は貴重なので、軽くふりかけて野菜などがしんなりして食べごろになるまで和えたのかも知れません。
     
    塩といっても、ミネラルを含んだまろやかな甘みのある自然塩ですから、実は醤油と見た目は違っても実際には似たものといっても、間違えないように思えます。
    やがて、多種多様なドレッシングが工夫され、今のようなサラダへとなってきたのでしょう。
     
    ひょっとすると、味噌や醤油とは、自然塩の代用として編み出されやがて独自の展開を遂げたために起源が忘れられているものなのかも知れません。
     
    そうしてみると、実は、サラダも日本のおひたしや和え物も、共通のルーツを持った料理なのでしょうか。
    日本のおひたしや和え物は、日本人のたどってきたどんな歴史の証人なのか、改めて気になります。

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    蕎麦と日本人の長いお付き合い。

    蕎麦は、日本では、麺として細長く切るだけでなく、蕎麦掻きとして食べることもあります。

    蕎麦掻き(そばがき、蕎麦掻)とは、蕎麦粉を使った初期の料理であり、蕎麦が広がっている現在でも、蕎麦屋で酒の肴とするなど広く食されています。

    蕎麦切りとも呼ばれる蕎麦のように細長い麺とはせず、塊状で食する点が特徴です。

     

    日本の蕎麦の歴史は古く、5世紀の文献にあらわれるが、縄文土器から蕎麦料理を食べていた形跡が発見されている程です。

    蕎麦掻きは鎌倉時代には存在し、石臼の普及とともに広がったと見られています。

    蕎麦料理は、江戸時代半ばまでは蕎麦掻きとして食べられていたが、江戸中期頃には麺状にした「蕎麦切り」が庶民の生活に広がり、日本全国に広がっていたようです。

    なお、17世紀ごろ蕎麦切りが禁じられていた農村が多かったようで、これらの農村では蕎麦掻きや蕎麦もちが食べられていたといいます。

    蕎麦もちとは、蕎麦粉を団子にしてたき火で焼いたものです。

    今でこそ酒の肴となっている蕎麦掻きは、当時の農村では、ご飯の代わりとして雑穀や根菜を混ぜたり、鍋料理に入れるなど食べごたえのある形に調理されたものが多かったようです。

     

    縄文にさかのぼれる蕎麦も、都の上流階層である貴族や僧侶からは食べ物として認識されていなかったらしいです。

    鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、藤原道長の甥で平安時代中期の僧・歌人である道命が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記してるといい、鎌倉時代まで都の上流階層には蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言えそうです。

     

    この事実は、当時の支配階層となった人々の出自は蕎麦食文化圏ではない可能性を示しているとみえ、興味深いことです。

     

    日本や朝鮮や中国では麺として食べられている食材としての蕎麦は、スラブ系の国々ではカーシャとしてお粥のように食べられたり、フランスのガレットとして食べられています。

    とはいえ蕎麦は、小麦粉で作られる饂飩などパスタの仲間と違い、他の地域ではあまり食べられていません。

     

    スラブ系の国々で食べられているカーシャは、アメリカ合衆国では、面白いことに東欧ユダヤ系のソバの実の料理として知られています。

    挽き割りのソバの実をセロリ、タマネギ、卵などと炒めてからスープで炊いたもので、お粥よりも水分が少ないのが特徴です。

    蝶ネクタイ型のパスタが入ると、「カーシャ・ヴァーニシュケス」と呼ばれます。

     

    ガレットはフランス北西部の郷土料理である料理・菓子の名称で、「円く薄いもの」を意味するが、特にそば粉のガレットを指すことが多いそうです。

    ガレット・ブルトンヌ(ブルターニュ風ガレット)は、フランスのブルターニュ地方発祥の、そば粉で作られるガレットであり、主に小麦粉で作られるクレープのもとになった料理です。

    そば粉・水・塩などを混ぜて寝かせた生地を熱した平鍋またはガレット調理専用の鉄板に注ぎ、こてで薄い円形に伸ばし、正方形に折りたたんで完成となります。

     

    中国が原産の蕎麦は、やせた土地でも冷涼な地域でも乾燥した土地でも育ち、しかも育ちが早いので早く収穫できることから、世界中で作られています。

    中国が原産ですが、東アジア・チベットも含め中央アジア・中東さらにはヨーロッパまでが主要な産地です。

    生産量で言うと、たぶん世界一はロシア次いで中国、旧ソ連のウクライナで、東欧のポーランドも生産が多いし、フランスでもイタリアでも、南アフリカでも栽培しています。

    ただし南アフリカは白人の入植地としてはじまったことを思えば、蕎麦の栽培はヨーロッパ由来の可能性が大きいかもしれません。

     

    それとあまり知られていないが、最近ではカナダやアメリカでも栽培がされています。

     

    蕎麦の栽培地の多くがやせた土地であることを思えば、平安時代の都の上流階層が蕎麦を知らないということは彼らの出自となった地域が肥沃であったことを物語っています。

     

    騎馬民族征服王朝説も含め放牧民が天孫族の正体とする見方と合わせると、放牧は牧草の自生地を渡り歩くことになるので、腰を据えて蕎麦を育てる必要のあるやせた土地を避けてきたことになって、蕎麦を知らないのもある意味当然ということになるでしょう。

     

    これは、蕎麦を栽培せざるを得ない地域を通ってきた日本先住民と、肥沃な土地を渡り歩いてきた天孫族という構図が見えてくるということかもしれません。

     

    もしそう見てもいいなら、中東から地中海沿岸特にヨーロッパ側を通って、アメリカを横断し太平洋を横切ってきた縄文人が過去にたどってきた地域で知った蕎麦を栽培したのでしょうか。

    例外はあるものの、蕎麦食文化は縄文文化の影響が強い東日本に中心に根付いたことは面白いです。

     

    蕎麦は、もともと米や小麦が育ちにくい寒冷地で代替食として育てられていたものなので、比較的気候の温暖な関西以南ではうどんが主流になったと考えられるので、縄文と蕎麦を結びつけて論じるのは物事を単純化しすぎた一面的な議論との反論もあるでしょう。

     

    だが、縄文とヨーロッパやアメリカの繋がりは見えるが、アジアとの繋がりは弱いように見えるのです。

     

    縄文土器は日本とアメリカからは出るが、類似を指摘されるものは今のところ他には古代エジプトくらいのものなのです。

     

    縄文の周辺を探れば、アメリカ出土の人骨の傍にフランスとスペインの様式の矢じりがあり、しかも当初イギリス人と見間違えられたエピソードもあります。

    実際、縄文人の骨でDNAを見るとヨーロッパ人と別れた頃の原アジア人に近いのです。

    現日本人をヨーロッパよりに大きく引っ張っているのが、限りなくヨーロッパ人に近い縄文人なのです。

    縄文人がアジアよりヨーロッパに近いことは、日本がヨーロッパの遺伝子病の飛び地であることからも、裏付けられるのです。

     

    蕎麦の歴史から、日本人のルーツにまで話が行ってしまいました。

     

    蕎麦は調べてみればもっと興味ひかれる話題がありそうですが、長くなりそうなのでひと休みしますか。

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    日本人は原アジア人に意外と近い?

    2014年、縄文人の核DNAの解析に成功しました。

     

    縄文人の細胞からは、これまでミトコンドリアのDNAしか解析されてこなかったために、母方の遺伝情報が手に入っていただけだったが、これで両親の遺伝情報が手に入ることになります。

     

    現代日本人の遺伝子分布は、東アジアや東南アジアの分布から大きく離れていることがわかっています。

     

    弥生人の核DNAに関する情報はまだないが、おそらく、東アジアや東南アジアの分布からはそう遠くないと見られてるので、現代日本人の遺伝子分布がアジアの離れ小島になった原因は縄文人にあると見られていました。

     

    縄文人の遺伝子分布は、現代日本人よりもさらに東アジアや東南アジアの分布から遠くにあることがわかり、これまでの推測が裏付けられました。

     

    縄文人の核DNAを比較検討して決着がついたのは、縄文人の系統樹上での位置付けだったのです。

     

    縄文人は東アジアと東南アジアのどちらの特徴も見つかるので分類は困難を極めていたが、核DNAは何と原アジア人の生き残りが縄文人であったことを明らかにしました。

    縄文人は東アジアと東南アジアが分かれる以前に、原アジア人から分かれていたことが分かったからです。

     

    DNAはまた、縄文人がウェービーヘアの二重瞼で耳垢が湿っていたことも、示していました。

    これはどちらかと言えば、ヨーロピアンやアフリカンに近い特徴と言えます。

     

    そしてこれは、遺伝子間の距離からも裏付けられました。

     

    現代日本人の遺伝子はアジアの中でもヨーロピアンに近いが、縄文人はさらにヨーロピアンに近いのです。

     

    ヨーロピアンやアフリカンの祖先よりも東に向かったグループが原アジア人となったと見られていたが、縄文人が原アジア人の生き残りの可能性が見えてきたことで、それが確からしいことがさらにはっきりしてきました。

     

    縄文人と一口に言っても多様性も一方で見つかるので、複数の場所から来たか、複数の回数来たか、という二通りの解釈が可能となります。

     

    けれど、縄文人はあまりにも現代の東アジアや東南アジアとは違い過ぎるので、アジアルートを想定するとしたら原アジア人から東アジア人や東南アジア人が分かれるはるか以前に日本に渡っている必要があり、可能性はかなり低いと見た方が自然でしょう。

     

    むしろアメリカ先住民と日本先住民はともに古モンゴロイドと見られてきたが、近年のDNA調査でも裏が取れつつあり、さらにアメリカのケネウィックやメキシコから古代日本人の骨が見つかり、縄文土器も南米から見つかります。

    ケネウィック人はフランスとスペインの様式のやじりを用いていたこともわかっているし、南米の縄文土器にエジプトの影響が強いと指摘する声もあります。

     

    縄文人の多様性は環太平洋縄文文化圏がもたらしたと見る方が無理がないし、縄文人の祖先は仲間の原アジア人が東に向かったのに対して西に向かい、地中海世界を横断、大西洋を渡ってアメリカ大陸経由でさらに太平洋を航海して日本に来たと見るのがこれまでの情報から照らしても一番無理が無いように思えます。

     

    何しろ日本は、アジアにおけるヨーロッパの遺伝子に由来する病気のほとんど唯一ともいえる飛び地なのですから。

     

    おまけに日本は、古代中東の遺伝子が大量に残っている土地だが、原アジア人の生き残りである縄文人の遺伝子を少なくとも2割は受け継いでいるのが日本人とすれば、全ての辻褄があってきます。             

     

    日ユ同祖論やスメル渡来説は、ノアの洪水を史実と認めて、はじめてタイムスケールがあってくる説と言えます。

     

    日ユ同祖論の言い出しっぺがキリスト教圏の人物であったことを思えば、面白い事ではあります。

    もっとも、はじめは失われた十支族が日本に来ていると言う説から始まっているので、ユダヤ人が日本人のルーツとまでは、言ってなかったですが。

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    花と節句と陰陽と?

    春、梅に始まり、桃、桜と続いた赤い花のリレーは、つつじに引き継がれます。

    比較的高いところで咲いてきた赤い花は一気に、下界へと舞い降ります。
    そのさまはまるで、死の世界であった冬を、まず空で浄め、継いで、地を浄めると言いたげにさえ思えてきます。
    この季節はまた、落葉樹たちが芽吹く季節でもあります。
    緑は、青とも呼ばれ、一方では黒に準えられる色でもあります。
    こう見てくると、五行の青(緑)・紅(赤)・黄・白・玄(黒)のうち、青(緑)・紅(赤)・玄(黒)までが揃うことが見て取れます。
    春に咲くのは、赤い花ばかりではないです。
    菜の花や山吹、地味ではあるがタンポポもまた、黄色の花を咲かせます。
    春に咲く白い花も、こぶし、やまなしのほか、意外と多いです。
    春は、植物だけで五行の色が出そろう季節でもあります。
    秋もまた、植物だけで五行の色が出そろう季節です。
    常緑の青(緑)に混ざって、紅葉や黄葉が彩を添え、さまざまなバリエーションがあるとはいえ緑が目立った山里は、鮮やかな色彩の競演の舞台となります。
    葉の色だけで、五行の青(緑)・紅(赤)・黄・白・玄(黒)のうち、青(緑)・紅(赤)・黄・玄(黒)までが揃うことが見て取れます。
    唯一揃わない白は、花が提供してくれています。
    9月9日の重陽は、菊の節句として知られていたが、新暦のこの頃は菊の季節から外れてしまったので廃れてしまったようです。
    実はこの菊こそ、葉の色で唯一揃えられない白だったからこそ、9月9日の重陽は菊の節句だったのではないでしょうか。
    こうやって見ると、面白い事に気が付くのです。
    1月1日は元旦なので7日にずらされて人日(じんじつ)となって、「七草粥」を食べる日として覚えられているが、花の節句ではないので、今回の考察からは省きます。
    3月3日は上巳(じょうし)で、3月の最初の「巳の日」という意味です。
    「禊ぎをして穢れを祓い、身代りの人形に汚れをうつして河川・海などへ流す」風習などがあったが、おそらく巳つまり蛇の脱皮にあやかって、汚れを払う縁起が担がれたものと思われます。
    冬は、木々も葉を落とし、いくら咲いて彩を添えようと花が頑張ってみても死と眠りの季節の印象は拭えないです。
    そして死は穢れともされた事を思えば、汚れの季節から生命の季節である春への脱皮の呪術の流し雛がこの日に行われるのもうなづけます。
    流し雛の風習は、江戸時代以降「雛祭り」に姿を変え庶民の間に定着しました。
    この日が「桃の節句」でもあるのは、この季節が桃の季節だからでしょう。
    桃は赤い花であり、陽の色である赤は炎の色として上巳で脱ぎ捨てた汚れを焼き払う呪術であったのかも知れないです。
    5月5日は端午(たんご)で、5月最初の「午の日」という意味です。
    古くは「薬草摘みの日」であり薬草としての菖蒲(しょうぶ)が「尚武」の音に通じるとして、男子の立身出世を願う行事へ転化したと見られ、別名「菖蒲の節句」として知られます。
    7月7日の(しちせき)の、「笹の節句」とともに、花の節句ではないです
    なぜ笹なのかは定かではないです。
    中国の「織り姫(織女星)と彦星(牽牛星)」の伝説と、日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説があわさって七夕伝承が生まれたのはよく知られている話です。
    9月9日は重陽(ちょうよう)で、「九」という数字は、易によれば「陽数の極」にあたり、これが重なるので非常にめでたいとされました。
    中国の風習である、この日に菊の花を飾り、邪気を祓って長寿を祈るというものが元になっており、宮中では重要な節句として位置付けられ、菊を用いることから別名「菊の節句」とも呼ばれます。
    白は、陰陽五行では、方位としては西、陰陽としては陰に配されます。
    一年と四季の終わりの陰の季節である冬に、同じく陰に配される白の花である菊を対置することでように転化させて、重陽と合わせて幾重にも陽を重ねて邪気を祓って長寿を祈る呪術にしたものでしょう。
    もしかすると、菊花紋は古代中東の太陽紋によく似てるから、数ある冬になく花の中から陽の花として菊が選ばれた可能性を考えても面白いです。
    こうしてみると、花の節句はたんに美しい花を愛でる日である以上に、汚れや邪気を払いたいという切なる願いの呪術であることがはっきりします。
    1月から3月にかけて咲く梅の紅白はかつては、花見の主流であったし、今も多くの人が梅園で花を愛でます。
    梅の紅白は、呪術で言えば陽の赤と陰の白で陰陽太極となり、ここから万物が生成するとされる事を思えば、この花が咲く時期が一年の初めの1月に定められたのはただの偶然ではないかもしれないです。
    陰陽はカッバーラだとする人たちは、自然界にまでカッバーラが仕掛けられていると言い出すのかも知れないです。

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