宗教

神との和解について考える。


多くのキリスト教の宗派では、神との和解は大きなテーマの一つになっております。
それは、全ての人は禁断の木の実を食べたアダムとイブの子孫として二人の原罪を引き継いでいるとされるからです。

それでマリアのイエスの受胎は「無原罪のお宿り」として、キリスト教芸術の最大の主題の一つになっているのです。


誰が神に許されるのか、どうすれば神に許されるのか、多くの神学者が悩んできました。

誰もが新約聖書でイエスに「あなたの罪は許された」と言われた人達のように、神から「あなたの罪は許された」と言われたいからです。

しかし、神はそう簡単に「あなたの罪は許された」と仰って下さるわけではありません。
では、どうなさるかと言えば忘れて下さるのです。

アダムとイブは、禁断の実を食べたことを忘れて戴けたので皮の衣を頂戴しました。


私達にある罪は、私達自身の判断ミスによるのです。
アダムとイブによって私達は選択の自由を手にした結果、判断ミスを犯してしまう運命も背負っているからです。
御父に忘れて戴くのは、私達自分の判断ミスなのです。
私達は、失敗からたくさんの教訓を得るからなのです。

それでは、私達のミスを御父に忘れて戴くにはどうすればいいのかと言うことになります。
教訓を学ぶことが悔い改めとなるけれど、御父に忘れて戴くにはまだ不十分です。
悔い改めてさらに独り子であるイエスの執り成しを求めて、御父に祈るのです。

イエスの贖罪の死を私の贖罪として受け止めてくださいと、祈るのです。

言ってみれば、私達はみなイエスの贖罪を代わりに受け止めていただくたびに御父に借りを拵えているわけです。

自分の十字架を背負ってついてきなさいと言うのは、これからの全生涯をかけて返済する御父に対する借りを忘れることなくついてきなさいってことだったんですね。

それで疲れたら、イエスのくびきを自分の肩にかけて助けて頂きながらやり方をしっかり学んで少しずつ御父の目にかなう返済方法を覚えていきなさいというわけですね。

なるほど、私達に永遠の命があるわけだわ。
復活した後の体の話ですけどね。
限りのない時間をかけないと返済出来ない借りを、御父に作っちゃうわけだから。

イエスの名によって御父に祈るたびにね。

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神がいるなら、なぜ悪があるのか考えてみましょう。


『神がいるなら、なぜ悪があるのか――現代の神義論』と言うクラウス・フォン・シュトッシュの著作が、加納和寛の訳で出版されています。


「神がいるなら、なぜ悪があるのか」この問いかけは、世の多くの教会では「神義論」という未解決の議論とされているのです。
ではどうして、未解決の議論とされているのでしょう。
彼らは、なぜ神は悪の存在を認めているのかと言う根本的な問いでつまづいているからです。
創世記 1章 26節には、こうあります。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」

神は私達を自らの似姿として造られたとありますが、それは見た目だけではなく能力や可能性と言う点でも自らの似姿とされているのです。
なぜなら人が神の目にかなうようにあらゆるものを治めるには、神の目的を正しく理解している必要があるからです。

だから聖書には、「主イエスを着なさい」「真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい」「新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。」と繰り返されるのです。

私達には、何が善で何が悪か自分で理解でき判断できるようになるだけではなく、なぜ善でなぜ悪なのかも自分で理解でき判断できるようになるようにも求められているのです。

それは、神が私達に自分と同じ能力を身につけることを求めているからなのです。

悪がなければ、何が悪でありそれがなぜ悪なのかも知ることはできません。

だから神は、あえてサタンに堕落したルシファーの企みを許しておられるのです。

サタンの企みを逆手にとって、私達に神のような知恵と知識を授けようとしておられるのです。
そうでなければ、どうしてヨブ記のような記述が残されているのでしょう。
正しいものとされたヨブでさえ、神に対する理解を深めるためにサタンの試しをされているのです。
しかし人は、迷い悩み時として神の御心の真意を見失うのです。

神はそのような人の弱さを許したいので、救いの計画としてイエスの贖罪を用意しておられるのです。
人は誰でも神の目に罪とされることを犯してしまうけれど、イエスの十字架の贖罪を自らの贖いとして御父に許しを求めることができるのです。
人は失敗から多くを学んで、成長するからなのです。
多くの学びを重ね、精神的にも神の似姿に限りなく近づいていくように御父から期待されているのです。

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G7参加のキリスト教国はなぜに神より核抑止力に頼る? Why do Christian nations participating in the G7 rely on nuclear deterrence rather than God?

サミット参加7カ国は、またしても核抑止力に頼る。

 

The seven countries participating in the summit will once again be dependent on nuclear deterrence.

 

だが、思い出して欲しい。

 

But remember.

 

7カ国のうちの6カ国は、自らをキリスト教国として位置付けているのではないだろうか。

 

Six of the seven countries may position themselves as Christian.

 

ならなぜ、平和のために核抑止力に頼るのだ。

 

So why do we rely on nuclear deterrence to achieve peace?

 

十戒の初めには、「私の他を神としてはならない」とある。

 

The beginning of the Ten Commandments says, "Thou shalt have no other god besides me."

 

そしてイエスは言う。

 

And Jesus says.

 

幼子のように天の御父を思うものが、御父の国に入るのだと。

 

He said that whoever thinks of the Heavenly Father as a little child thinks of its father will enter the Father's kingdom.

 

幼子のようにというのは、自らを無力であり親に頼らなければ何もできないと自覚すると言う意味である。

 

To be like an infant is to realize that without our Heavenly Father we are helpless, unable to do anything.

 

幼子のうちは、何をするにも親を頼るしかないので何かにつけて親に頼る。

 

As young children, they have no other means of doing anything but to rely on their parents, so they rely on their parents for anything.

 

出来る事が増えると、次第に親を頼らなくなる。

 

As they are able to do more, they gradually stop relying on their parents.

 

何でも自分でやれるし、何でも自分でやらなければならないと思い込むようになる。

 

They come to believe that they can do everything themselves and that they must do everything themselves.

 

それが成長する事であり、大人になる事だと思い込むようになる。

 

They come to believe that this is what growing up and becoming an adult is all about.

 

いつまでたっても親を頼るのは、恥ずかしく思い込むようになる。

 

They are ashamed to rely on their parents for any length of time and assume they cannot rely on their parents.

 

そして、他人に頼るのもまた恥ずかしく思い込むようになる。

 

And they also become ashamed to rely on others to help them.

 

だが、イエスは言う。

 

But Jesus says.

 

何歳になっても、自分でできないと感じるなら助けを求めても良いのだと。

 

He said that no matter how old you are, it's okay to ask for help if you feel you can't do it yourself.

 

そして、一番に頼るべきなのは天の御父なのだと。

 

And that it is our Heavenly Father to whom we should turn first.

 

わかっていないとか見えていないとか感じるなら、真っ先に天の御父に頼るべきであると。

 

He said that if we feel we don't understand or can't see, we should turn first to our Heavenly Father.

 

ならなぜ、神に頼らないのか。

 

Then why not turn to God?

 

イエスに自分には何が足りないのか尋ねた金持ちの若者が、財産をすべて貧しい人に与えて私について来なさいと言われたようになるのが怖いのか。

 

Are you afraid that you will be like the rich young man who asked Jesus what he lacked and was told to give all his wealth to the poor and follow me?

 

イエスは言う。

 

Jesus says.

 

人には出来ない事も神には出来る。

 

What man cannot do, God can do.

 

G7参加の欧米の6カ国よ、あなた方はキリスト教国ではないのか。

 

To the six Western countries participating in the G7, are you not Christian nations?

 

平和実現のために真っ先に頼るべきは、天の御父ではないのか。

 

In order to achieve peace, the first person we should turn to is our Heavenly Father.

 

あなた方はキリスト教国と言うなら、核抑止力などと言わないで天の御父にこそ頼るべきではないのか。

 

If we call ourselves a Christian nation, shouldn't we rely on our Heavenly Father instead of nuclear deterrence?

 

教会で説教を聞くだけで、自分では聖書そのものを読まないのだろうか。

 

Do they just listen to sermons in church and not read the Bible itself?

 

どうなのだ。

 

How is it?

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祈りは気軽にやりましょう。

「神頼みって本当に効く」って人と「神頼みなんて気休め」って人、どこが違うのでしょうか。

 

一番の違いは、「神様ありがとう」って心から感謝出来ているかどうかにあるようです。

 

驚いたり喜んだりする人は多いけど感謝までする人は少ない、そう思いませんか。

 

感謝されたらまた助けたくなるのは、神様も変わんないってことですよね。

 

でも、神様に感謝するってなんだか堅苦しい言葉を使わなければいけないのでしょうか。

 

祈りの言葉って、なんだか型にはまった言い方がありそうな気がするのはなんでなのでしょうか。

 

それは、儀式のお祈りを連想してしまうからではないでしょうか。

 

確かに、儀式で砕けた言い方をしたら締まらないですよね。

 

だけど、私達は別に儀式をしているわけではないですよ。

 

神様に、ありがとうって言いたいだけでしょ。

 

聖書には、こうあります。

 

マタイによる福音書 18

1 その時、弟子たちがイエスのところに来て、「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と言った。

2 そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、

3 言われた。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。

4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。

5 また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」

 

こうもあります。

 

マタイによる福音書 19

14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

マルコによる福音書 9

36 そして、一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、抱き寄せて言われた。

37 「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」

マルコによる福音書 10

13 イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

14 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

15 よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ルカによる福音書 9

47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子どもを引き寄せ、ご自分のそばに立たせて、

48 言われた。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」

 

要するに、子どもが子どもに言うように私達は神様に感謝すればいいってわけです。

 

もし、もう少しちゃんとした言い方をしたいなら聖書にはこうあります。

 

ヨハネによる福音書 14

13 私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。

14 私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」

 

ヨハネによる福音書 16

23 その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。

24 今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 

これは、イエスの名によって天の神である御父に話しかけるなら必ず気持ちが神様に届くという事です。

 

堅苦しく構えないで拝啓で始めて敬具で締める、手紙の形式のように思えばいいのです。

 

しかも神様への祈りは、子どもと子どもの対話のようにしなさいとあるではないですか。

 

「神様ありがとう、イエスの名によってアーメン」って、これでも構わないわけです。

 

もちろん、心からの言葉じゃないとまずいですけどね。

 

簡単でしょ。

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フランス革命の「自由・平等・友愛」と政教分離の正体。

「自由、平等、友愛(博愛)」はフランス語のLiberté, Égalité, Fraternité «リベルテ、エガリテ、フラテルニテ»の訳だが、友愛とも博愛とも訳されるFraternité≪フラテルニテ≫の元の意味は兄弟愛や男性共同体の意味なのです。

つまり、フランス革命の「自由、平等、友愛(博愛)」の正体とは、男性の自由と平等な共同体となるわけですね。

一方で女性は、家庭を守る存在とされたのです。

フランスの政教分離とは、公的な空間の俗世に生きる男性と私的な空間の宗教生活を担う女性の分離でもありました。

男女とも衣装などで宗教色の薄いフランスの中に、スカーフの当たり前なイスラム圏の女性が入り込んだ結果この壁が揺らぎだしたのです。

欧州だって女性のスカーフが当たり前な文化が、あったのにです。

フランスの政教分離は公的な空間の俗世に生きる男性と私的な空間の宗教生活を担う女性の分離でもあった以上、女性の社会進出とともにとっくの昔に揺らぎ出さないとおかしかったのです。

どの社会での女性の社会進出も、女性の男性社会への順化強制の歴史であってフランスも例外ではなかったのだと見て良いでしょう。

フランスでのムハンマドの風刺漫画が引き起こした軋轢も、ある意味フランスにおける政教分離の原則を揺るがした事件と言えるのです。

私的空間の宗教の担い手女性の社会進出とともに揺るがなければおかしかった杓子定規な政教分離の柔軟な運用を先送りしたつけを、今フランスは払っていると見て良いでしょう。

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猫は侮れません。

今回は、ちょっと寄り道です。
興味のある方だけ、どうぞ。
欧米で猫をイエスのメタファーと見る文化があるのを、ご存知でしょうか。
Jesus cat で検索すると結構色々出てきます。
メタファーとは、あるものの性質を丸ごと使って例える事です。
古代エジプトで猫は、様々な形で最高神とされた太陽神ラーと結び付けられました。
聖書の神エロヒムのヘブライ語の綴りはアラーとも読めますが、コーランではアラーは唯一神とされます。
これ、偶然でしょうか。
ちなみにイスラム圏で猫は大事にされるが、ムハンマドが大のネコ好きだっだからだそうです。
それはさておき、聖書での犬に関する記述は芳しくないものが多いのにお気付きでしょうか。
イエスのメタファーが猫なら、御父は親猫って事になりませんか。
そう思って読むと、なるほどねと妙に頷きそうになります。
口語訳聖書を使っている皆さんは知らないでしょうけど、聖書協会から出ている共同訳や新共同訳には旧約聖書続編として「エレミヤの手紙」が収録されています。
その中で猫は、「猫さえ」「猫まで」と記されます。
事態の及ぶ範囲がある限界にまで達することを表すのが、「さえ」や「まで」です。
偶像崇拝の場に様々な動物が登場しますが、その最高位として猫が現れるのです。
旧約聖書続編扱いという事は、この文章の時点ではイエスはまだ明かされていないでしょうから「神の言葉としての」つまり預言者としてのイエスのメタファーとなるでしょう。
もちろん、このイエスの代理に成りすました猫は偽預言者となるでしょうが最高位の預言者の成りすましである点に注目です。
黙示録には獣とありますが、その獣はイエスに匹敵する大預言者に成りすましたとんでもない輩です。
エレミヤの手紙に出てくる獣は皆、メタファーです。
黙示録の偶像崇拝の場面は、ひょっとしたらこんな光景なんでしょうか。
お暇な方や、興味のある方は、図書館やネットで「エレミヤの手紙」読んでみてください。
短いので、すぐ読めます。

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これがカルトの本質。

カルトの特徴はあれこれ挙げられるが、一番の本質は思考停止に追い込み洗脳する事にあります。

他のあれこれの特徴は、むしろ派生的なものなのです。

あるいは、先入観や思い込みなどがある人々が狙われると見て良いでしょう。

先入観や思い込みは一種の思考停止に近い状態なのに、自覚が無いからなのです。

高慢の誤りの隙が、危ないのです。

思考停止に追い込み洗脳すると言うが、実際はまるで分っていないのに凄い真実や真相をしてしまったと言うある種の快感や恍惚の快感に浸って思考停止になってしまうから厄介なのです。

一種の脳内麻薬依存症と言って良いでしょう。

これがカルトの怖さなのです。

脳内麻薬のご褒美欲しさに、のめり込むからです。

カルトの洗脳を解くには、自分がいかに勘違いや思い込みで知ったつもりわかったつもりの快感に浸っていたのかを自分自身で気が付いてもらうしかないのです。

時間はかかるが、いったん解けてしまえばあとは心の傷のフォローとなります。

とにかく支えるしかないのです。

それと、カルトは何も宗教に限りません。

実際はまるで分っていないのに凄い真実や真相をしてしまったと言うある種の快感や恍惚の快感に浸って思考停止になってしまう、そう言う状態に人々の心理状態をしてしまうものは基本的にカルトなのです。

それと、カルトに陥ると言うのは一種の偶像崇拝になりやすいのです。

安心させてくれる、何らかの拠り所が欲しくなるからです。

手元におけるかどうかに関係なく、あれば安心できるものが欲しくなるのです。

それは、小さな物ではお金から、大きな物では軍備まで、実に様々です。

説明出来るかどうかは関係なく、あれば安心出来さえすればいいのです。

カルトは結局、いつかは様々な形で失われてしまう偶像すがる愚かな行為です。

心から信頼できる普遍的で不滅な価値あるものとは、一体何か。

謙虚な心と確かな批判力で、探してみてください。

真剣に求めるなら、見つかるでしょう。

この聖句で締めくくりましょう。

マタイによる福音書 7章
7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
8 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。

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軍拡と言う名の暴力団の論理とカルトの手口に目覚めよ。Wake up to the logic and cult tricks of gangsters called militarization.

なんで多くの人が、軍拡と言う名のカルトと気がつかないのでしょうか。

カルトは宗教の形をとると、思い込んでいるからです。

カルトの本質は、人の不安につけ込んで目に見える物にすがらせそれを失う事への恐怖をあおって思考停止に追い込み洗脳するところにあるのです。

なぜ、多くの人が軍拡の呪縛から抜け出せないのでしょう。

軍拡の論理は力で威嚇して周辺国を黙らせよう点で暴力団と同質、軍拡の手口は不安と恐怖心につけ込んで人々の心をとらえて洗脳しここから抜けたら危険だと思い込ませる点でカルトと同質だからです。

「軍拡」が恐怖で人を思考停止に追いやって洗脳していく点でカルトそのものなのに、宗教の形をとっていないので多くの人がその危険性に気が付いていない分余計に危険な状態と言えます。

力による恫喝は、周辺国だけでなく軍拡と言う名のカルトに洗脳されている自国民までも黙らせてしまうからなのでしょう。

軍拡と言う名のカルトの洗脳が解けない限り、軍拡と戦争の悪循環からの脱出は絶望的だと気が付いて欲しいのです。

Why are so many people unaware of this cult called militarization?

He believes that cults take the form of religion.

The essence of cults is to take advantage of people's anxiety, cling to things that they can see, and incite the fear of losing them, driving them to stop thinking and brainwashing them.

Why are so many people unable to break free from the curse of military expansion?

The logic of military expansion is to silence neighboring countries by threatening them with force, which is similar to gangsters. Because it is the same as a cult.

Although it is a cult itself in that "arms expansion" drives people to stop thinking and brainwashes people with fear, it does not take the form of religion, so many people are not aware of the danger, so it can be said that it is an extra dangerous situation. increase.

This is probably because intimidation by force silences not only neighboring countries but also its own citizens, who are brainwashed by a cult called military expansion.

I want you to realize that unless the brainwashing of the cult called military expansion is solved, it is hopeless to escape from the vicious cycle of military expansion and war.

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蓮華座の仏像と陰陽魚太極図。

日本の仏像では、半跏思惟像など一部の例外を除けば台座に腰掛ける姿はほとんどないのです。

日本の仏像はほとんどが蓮華座の上に、表現されます。

日本では仏教は神道と習合しているので、本来は太陽神紋である菊花紋に対応して蓮華座なのかと連想していました。

ところが偶然西上ハルオ著『世界文様事典』を見かけ、さりげなく眺めていてはっとしたのです。

「蓮華は、太陽の恵みをうけて聖なる神を誕生させる」「インドでは聖なる仏陀の座となり、霊力をもつ生命を誕生させる花」とされて、「仏教の場合…蓮華は清浄心、仏尊の功徳、涅槃思想を表すとされ」るのですが、注目したのは“聖なるもの神や霊力をもつ生命を誕生させる花”とされる点です。

蓮華はヒンズー教でも「聖なる神を生む花」「産むことのできる女性の象徴」とされるのですが、ヒンズー教のタントラと神道の陰陽道は極めて似たと言うよりも本質的に同一と言えるほど似ているのです。

日本の仏教は、そう言う神道と習合しているのです。

陰陽道の基本は陰陽合一の思想で、「陰には陽」「陽には陰」を配して、合一して万物を生みだす太極となるのです。

そしてもちろん、生み出す女性に見立てられた蓮華座は陰で生み出された仏は陽に配されているのです。

蓮華座の上の仏は万物を生む陰陽合一の太極を表していた、つまり、陰陽道の象徴である陰陽魚太極図と同じ意味を表していたのです。

陰陽魚太極図を仏教に持ち込んだので日本では仏像は蓮華座が定番となったのかと、気が付いたのです。

偶然の出会いに感謝。

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改めてイスカリオテのユダの裏切りについて考えてみる。Think again about the betrayal of Judas Iscariot.

イスカリオテのユダは、金貨30枚でイエスを売ってしまったのです。

なぜでしょうか。

おそらくユダの心には、ヨセフの前例があったのではないかと思われるのです。

イスラエルの民の苦難を救うヨセフのような役割をイエスは果たすために来られたと、イスカリオテのユダは勘違いしているのかもしれません。

あるいは、出エジプトのモーセのような存在と思ったのかもしれません。

それは多くのイスラエルの民の勘違いでもあったはずです。

しかし実際には、予想に反してイエスは十字架にかかってしまうのです。

弟子達に合わせる顔がないと感じたユダは、自ら死を選んだのでしょう。

謝ろうにも当のイエスは、十字架にかかって死んでしまうからです。

ユダにとって会うことがかなわない場所におられる十字架の刑を控えているイエスは、死んだも同じなのですから。

もはや弟子達に自分を取り成してくださると期待できる存在は、この世にいないとユダは悲しんだのでしょう。

イスカリオテのユダは、心から懺悔して自らの命を自らの贖罪のために差し出すのです。

犯してしまった過ちの大きさ、取り成してくれる存在の見えない絶望の中で、ユダは自ら命を絶ったのでしょう。

十字架の上で、自分が何をしているかわかっていないのだから許してくださいとイエスが御父に執り成した中に当然イスカリオテのユダも入っているのです。

そう言えば、イエスはイスカリオテのユダについて、生まれてこなかった方が良かったとおっしゃっています。

自分が人の子として生まれた目的の一番大きなものが、全人類のために御父に対して贖罪の子羊として自らを捧げものとする事なのです。

そのためには、誰かが裏切ってイエスを処刑したがっている人達に渡す必要があるのです。

イスカリオテのユダがイエスに抱いていた勘違いしているイメージが、あだになってしまった事をイエスは嘆かれたのではないでしょうか。

ヨセフのようにローマで奴隷になり、その能力を買われてユダヤ人のために働く人になると期待したのでしょう。

イエスはそれがわかっているのでしょう。

イエスはそんなイスカリオテのユダの弱さを、嘆かれたのではないでしょうか。

そしてもはや私達は、自らの過ちの償いのためにイスカリオテのユダの真似はしないで良いのです。

改めて御父が救いの計画を立ててくださった御心に、感謝です。

今回は、十分に理解されているとは言い難いイスカリオテのユダの裏切りについて考えてみました。

Judas Iscariot sold Jesus for 30 gold coins.

 

Why.

 

Perhaps there was Joseph's precedent in Judas's heart.

 

Judas Iscariot may have misunderstood that Jesus came to play a role like Joseph to save the suffering of the Israelites.

 

Or maybe you thought you were like Moses in Exodus.

 

It must have been a misunderstanding of many Israelites.

 

But in reality, contrary to expectations, Jesus is crucified.

 

Judas, who felt that he had no face to match his disciples, probably chose to die himself.

 

To apologize, Jesus will die on the cross.

 

Jesus, who is about to be sentenced to the cross in a place that Judas cannot meet, is the same as he died.

 

Judas would have been sad that there was no one in the world who could expect his disciples to take over himself.

 

Judas Iscariot repents from the bottom of his heart and offers his life for his atonement.

 

Judas would have died himself in the magnitude of the mistakes he had made and the invisible despair of the existence that would make up for it.

 

On the cross, Judas Iscariot is naturally included in Jesus' intercession with his Father, asking him to forgive him because he does not know what he is doing.

 

By the way, Jesus said that Judas Iscariot should not have been born.

The greatest purpose of being born as a child of man is to dedicate himself as a lamb of atonement to the Father for all mankind.

 

To do that, someone needs to betray and give Jesus to those who want to be executed.

 

Perhaps Jesus lamented that the misunderstood image that Judas Iscariot had in Jesus had become a nickname.

 

He would have expected to be a slave in Rome, like Joseph, to be bought for his abilities and to work for the Jews.

 

 

Jesus knows that.

 

Maybe Jesus lamented Judas Iscariot's weakness.

 

And we no longer have to imitate Judas Iscariot to atone for our mistakes.

 

I am grateful to the Father for making a plan of salvation again.

 

This time, I thought about the betrayal of Judas Iscariot, which is hard to understand.

 

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