トルコ

香を楽しむ食文化の数々ーその原風景を想像してみる

いざ、香りの旅へ

さあ、香りや光景を思い浮かべてみよう。

火の上で立ち上る香ばしい匂い。

皮がパリッと焼け、肉や米から甘く香る香り。

私たちは、無意識のうちにその香りに心を惹かれ、口に運ぶ準備をする。

日本の焼きおにぎりの焦げ目、フランスの丸鶏の皮のパリパリ感、北京ダックの香ばしいアヒルの皮、トルコのドネルケバブの回転焼きチキン――その土地の食文化は、香りとともに記憶に刻まれている。

そして、アフリカでも香ばしさ文化は息づいている。

西アフリカの炭火焼きチキンやナイジェリアのスパイシーな鳥の丸焼きは、火の香りとスパイスの香りが混ざり合い、食卓に独特の香ばしさをもたらす。

こうした調理法の一部は、フランスやイギリスの植民地時代に伝わった焼き方やオーブン文化と、現地の食材や香辛料が融合した結果とも考えられる。

南アフリカのブライ(Braai)文化も、屋外の炭火で肉を焼く習慣が植民地期の影響と現地文化の交差点で育まれた例だ。

 

さあ味わってほしい、それぞれの香り

フランス:鶏のクリスティアン

パリの市場や田舎の農家の台所では、丸鶏をじっくり焼き上げ、皮をパリパリにする料理が親しまれてきた。

鶏のクリスティアンはその代表例で、鶏肉のジューシーさと皮の香ばしさを両方楽しめる。

フランス人にとって、焼き方や火加減にこだわるのは、香ばしさを最大限に引き出す技術の結晶だ。

中国:北京ダックと金陵ダック

北京ダックは吊るして密閉炉で焼くことで、皮のパリパリ感を極めた宮廷料理として知られる。

一方、南京の金陵ダックは、さすまたに刺して開口炉で焼く独特の技法を用いる。

どちらも皮の香ばしさを楽しむことが目的で、丸焼きの文化と香りを極める知恵が詰まっている。

日本:焼きおにぎり

家庭の小さな火で表面を焼き、醤油や味噌で香ばしさを引き出す焼きおにぎり。

丸焼きや炭火焼きのような大掛かりな調理法ではないが、香ばしい焦げ目と香りが、日常生活の中で「香ばしさ文化」を育んできた。

トルコ:ドネルケバブ

中東や小アジアでは、羊や鶏を縦に刺して回転させながら焼くドネルケバブが香ばしさの代表。

外側の焼けた皮をそぎ落として食べる方法は、北京ダックと意外な類似性があり、焼き目の香ばしさを最大限に楽しむ知恵が反映されている。

アフリカ:炭火焼きチキンとブライ

西アフリカの炭火焼きチキンやナイジェリアのスパイシーな丸焼き鳥、南アフリカのブライ(Braai)文化も、香ばしさ文化の一環として見ることができる。

現地の香辛料や食材と、植民地時代に伝わった焼き技法が融合して生まれた例だ。

 

香ばしさが結ぶ文化の地図

丸焼き、焼き目、炭火、オーブン……地域や食材、調理法は異なっても、香ばしさを楽しむ感覚は共通している。

火と香辛料、技術、そして食卓に漂う香り――それこそが、世界各地の食文化を結ぶ目に見えない糸のような存在だ。

さて、あなたなら、どんな原風景を思い浮かべますか。

パリの市場で丸鶏の皮がパリッと焼ける匂いと、店先のざわめき、南京の開口炉から立ち上る鴨の香りと炎のゆらめき、家庭の台所で焦げた焼きおにぎりの香ばしい匂い……。

香ばしい香りの余韻を胸に、旅はひとまず幕を閉じる。

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駆け引きでロシアのウクライナ侵攻を解決するというなら、NATO解消とロシアのヨーロッパの自由貿易圏への参加でどうだ。

ウクライナが領土を失うことなくロシアの西方の安全保障と不凍港の確保という解決をしたいというなら、方法はある。

ロシアを仮想敵国とするNATOを解消し、欧州安全保障協力機構(OSCE)というロシアと全ヨーロッパの包摂的な枠組みを活性化する。

OSCEの活動目標は、こうなっている。

幅広い安全保障課題の政治的対話を行う場の提供と、個人・社会の生活改善のための共同の行動により、紛争予防、危機管理、紛争後の再建を通じて、参加国間の相違を橋渡しし、信頼醸成を行う。
政治、軍事、経済、環境、人権分野を含む包括的アプローチにより、各種課題(軍備管理、テロ対策、良い統治、エネルギー安全保障、人身売買対策、民主化支援、報道の自由、少数民族保護)に取組む。

共にグローバルな安全保障課題の解決に取組むパートナーとして、これらの課題に取り組むことになっている。

これだけの国が、現在参加している。
アイスランド、アイルランド、アゼルバイジャン、アメリカ合衆国、アルバニア、アルメニア、アンドラ、イタリア、ウクライナ、ウズベキスタン、英国、エストニア、オーストリア、オランダ、カザフスタン、カナダ、北マケドニア、キプロス、ギリシャ、キルギス、ジョージア、クロアチア、サンマリノ、スイス、スウェーデン、スペイン、スロバキア、スロベニア、セルビア、タジキスタン、チェコ、デンマーク、ドイツ、トルクメニスタン、トルコ、ノルウェー、バチカン、ハンガリー、フィンランド、フランス、ブルガリア、ベラルーシ、ベルギー、ポーランド、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ポルトガル、マルタ、モナコ、モルドバ、モンゴル、モンテネグロ、ラトビア、リヒテンシュタイン、リトアニア、ルーマニア、ルクセンブルク、ロシア(全57か国)

日本は、韓国・タイ・アフガニスタン・オーストラリアとともに、OSCEのアジア・パートナー国となっている。

これだけ国が本気で誠実に協調と協力をすれば、ロシアは西方の安全保障という長年の懸案から解放される。

そもそもOSCE は、1975年に創立された全欧安全保障協力会議(CSCE)が、1995年に改称した組織である。
前身のCSCE は、主権平等、領土保全、紛争の平和的解決等を掲げた「ヘルシンキ最終文書」を採択している。
ロシアのウクライナ侵攻も、本来ならばこの合意に基づいて解決されるべきだ。

不凍港の確保の課題についても、ロシアをヨーロッパの自由貿易圏に組み込んでヨーロッパの港に自由に立ち寄れるように保障すればいい。

アメリカ合衆国は、ヨーロッパへの揺さぶりの手段としてNATO脱退をほのめかすことがあり得る。

ならば、ヨーロッパもアメリカ合衆国の核の傘に頼らない安全保障の道を探る必要がある。

ヨーロッパの長年の懸案のなかに、ロシアの南下政策への対応があった。

過去には自由に使える港の確保と領土の確保が分かちがたいものだったが、今や自由貿易圏を形成すれば内陸の国も自由に使える港が確保できる時代になった。

ロシアもヨーロッパの自由貿易圏に組み込んでしまえば、ヨーロッパもロシアの資源開発に加わりやすくなるしロシアもヨーロッパの港が使いやすい。

駆け引きでロシアのウクライナ侵攻を解決するというなら、NATO解消とロシアのヨーロッパの自由貿易圏への参加でどうだ。

貿易の懸案は、それは別個の交渉で対応すればいいだけの話だ。

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ギョベクリ・テペ遺跡と三内丸山遺跡の比較

どちらも新石器時代の遺跡ですが、トルコにあるギョベクリ・テペ遺跡と日本の三内丸山遺跡は、作られた時代も役割も大きく異なります。

けれど、人類が暮らす上で「生活」と「儀式」がどう絡み合ってきたかを考えると、意外な共通点も見えてきます。

時代

ギョベクリ・テペ遺跡:紀元前1万年~紀元前8000年頃(先土器新石器時代)。農耕が始まる前の狩猟採集民による世界最古の巨石神殿です。

三内丸山遺跡:紀元前3900年~紀元前2300年頃(縄文時代前期~中期)。およそ1700年間、定住生活が営まれた大規模な縄文集落です。

★これらの遺跡を比較すると、ギョベクリ・テペ遺跡が建てられた紀元前1万年頃、日本ではまだ旧石器時代が終わりを迎え、縄文時代が始まったばかりの時期にあたります。

役割と生活拠点

三内丸山:人々が日常生活を営む集落。竪穴住居や高床式の掘立柱建物が並び、食料の貯蔵や調理、居住が行われていました。

ギョベクリ・テペ:定住のための住居はなく、丘の上に円形の石囲いと巨大T字型石柱が立つ神殿。遠方から人々が集まり、儀式や共同の食事の場として使われました。

★ギョベクリ・テペ遺跡自体には定住住居の痕跡は見つかっていませんが、その周辺地域では同時期(先土器新石器時代)の居住区の痕跡が発見されています。これらの住居は、ギョベクリ・テペの丘の斜面に築かれた、より儀式的な建物とは異なる特徴を持っていたと考えられています。

道具と器

三内丸山:縄文土器や土偶が膨大に出土し、生活と文化の手がかりになります。

ギョベクリ・テペ:土器はまだなく、石灰岩や緑色片岩の石製容器が食器として使われました。大きな桶で穀物を煮る、中型の石器や平たい皿、装飾された緑色片岩製の器もあり、儀式や共同食の場で活用されたと考えられています。

★土器と石製容器、材料は違っても基本的な使い方にそれほどの違いがないのは興味深いです。日本の先土器時代とギョペクリテペ遺跡を比べられれば、もっと面白いことがわかるかもしれません。

周辺住居の存在

ギョベクリ・テペ周辺には同時期の居住区があり、長方形の建物や半地下式住居が確認されています。
→ 神殿での儀式が中心で、生活は丘の斜面や近隣集落で行われていたことを示唆しています。

三内丸山は集落そのものが生活の拠点であり、住居と社会・文化活動が密接に結びついています。

★ギョペクリテペ遺跡と三内丸山遺跡、生活と宗教儀式の関りの差に注目したらもっと見えてくるものがあるでしょう。どちらも狩猟採集を中心に営まれた遺跡、比べてみましょう。

両者の比較ポイント      三内丸山遺跡            ギョベクリ・テペ遺跡
役割    日常生活を営む集落         儀式を行う神殿
住居    竪穴住居・掘立柱建物        定住的住居なし(周辺に居住区あり)
道具・器  土器・土偶             石製容器
時代    縄文時代前期~中期(定住社会)   先土器新石器時代(狩猟採集社会)

この比較から見えてくるのは、人類史において生活拠点と宗教施設は別々に発達してきたということです。

ギョベクリ・テペは宗教的儀式が社会をつなぐ中心となり、三内丸山は日常生活を営む中で文化が育まれました。

両者を比べることで、「生活と言語、宗教と言語の絡み合い」という人類史の時間軸の理解にもつながります。

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トルコ

トルコと通称されるトルコ共和国は、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国です。

 

首都は、アナトリア中央部のアンカラです。

 

領有しているのは、西アジアの小アジアと呼ばれるアナトリア半島と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方です。

 

北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接します。

 

国土の95% はアナトリア半島にあるため、日本の公式見解としては中東の国として分類されています。

 

しかし現代では経済的・政治的にもヨーロッパの一員として参加し、コペンハーゲン基準ではヨーロッパに分類されています。

 

トルコ政府の公式見解では、自国をヨーロッパの国としています。

 

サッカー協会やオリンピック委員会などでは、ヨーロッパの統一団体に属しています。

 

また、NATO、欧州評議会、西欧同盟、南東欧協力プロセス、南東欧協力イニシアティヴ、欧州安全保障協力機構など諸々のヨーロッパの地域機関に加盟しています。

 

 トルコは、欧州安全保障協力機構の前身である、全欧安全保障協力会議の原加盟国の一つですよね。

 

ヘルシンキ宣言にも署名し、現在欧州連合(EU)へ加盟申請中です。

 

 宗教がイスラムなので、EU加盟はトルコの片思いになりそうだけど。

 

成り行きを注目しましょ。

 

トルコ語による正式国名は、 Türkiye Cumhuriyeti(テュルキエ・ジュムフリイェティ)、通称 Türkiye(テュルキエ)です。

 

公式の英語表記は、Republic of Turkeyで、Turkeyと通称されます。

 

Turkey(ターキー)は、七面鳥を意味する単語と全く同じ綴りおよび発音だが、文章の場合、国名の頭文字は大文字、七面鳥は文頭に来ない限り小文字のため区別されます。

 

 七面鳥が文頭にきたら、文脈で区別…。

 

当然でしょ。

 

英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、Turkey, Turquie など、「トルコ人(Turk, Turc)の国」を意味する名で呼んでました。

 

でも、トルコ共和国の前身で、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」、「オスマン家の王朝」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかったといいます。

 

トルコ語で「トルコ人」を意味する Türk にアラビア語起源の抽象名詞化語尾 -iye を付した Türkiye は近代になってヨーロッパから「トルコ人の国」概念を逆輸入して考案された名詞だそうです。

 

第一次世界大戦後、国土が列強に分割され、ほぼアナトリア半島のみに縮小したオスマン帝国に代わって新しい政権を打ち立てた人々は、初めて Türkiye を国名としました。

 

かつてのオスマン国家は、他称においても自称においても「トルコ人の国」であるトルコ共和国となったのです。

 

Türk(テュルク)は、語源は明らかではないといいます。

 

 Türk(テュルク)、巻き舌音でr音が出たと見たら、シァ、シャ、スカ、スキ、ニァ、ニャ、などと元の音が似ていたかも。

 

 まさか、巻き舌音で破裂音化して頭のt音が出たので、実はアスカだったとか…。

 

 太陽神ラーの国で、ラーシァだったのが、南米でナスカとなり、日本でアスカとなり、ユーラシアの北方でロシアに転化したとか…。

 

想像するのは、自由ですよ。

 

アジアの語源自体が、太陽神ラーの国を指すラーシァの転化だった、なんて説も立ってしまうでしょう。

 

 フェニキア語で日の出の方角を意味するアスが、アジアの語源と言われるけど。

 

ちなみにフェニキア語で日没の方角を意味するエレブはヨーロッパの語源ですね。

 

 巻き舌で発音されるrは、子音が消えて母音のaが残り、アスは、アスアと転化しアジアと濁った…。

 

かつてエジプトにいた失われた十支族は、シルクロードに沿うようにしてアジア各地に散っているわけだから。

 

 そういえば、古代イスラエルでは聖書にアダムとイブの名前がある。

 

 イブには、エバと呼ぶ場合もあるけど。

 

アダムはラーダムで太陽神ラーの国、イブは陰に音が通じ日没を指すのだったりして。

 

それで、アダム=東、イブ=西となり、フェニキア語の東を指すアサと西を指すエレブになったのでしょうかね。

 

フェニキア人も、レバノン辺りからでた民族と見られていますからね。

 

 エジプトにいた失われた十支族は、シルクロードに沿うようにしてアジア各地に散っているわけだから…。

 

 アジアが太陽神ラーの世界に見えていても、不思議はないということでしょうかねえ。

 

アナトリアへの移住以前、Türk(テュルク)は中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いた6世紀ころにはすでに使われていた民族名だそうですけどね。

 

日本語名のトルコは、ポルトガル語で「トルコの」を意味する形容詞turcoに、漢字表記の土耳古は、この音を中国語で音訳した「Tǔ'ěrgǔ」に由来します。

 

面白いことにトルコ語と日本語に、共通語彙が複数あると指摘する人はいますね。

 

 一番有名なのが、イイ=(いい、良い)だとか。

 

外にもテペ(てっぺん、天辺)、ス(すい、水)、ヤク(焼く)などが、あげられると言いますよ。

 

あとトルコ語の母音は8個なんだけど、奈良時代の日本語も母音が8個で似てるそうですね。

 

 アジアの最西端と最東端で、ここまでの共通性があるのは決して偶然じゃないので、トルコ人は日本に親近感を持つのですかね。

 

語彙の異同は後代の文化圏によって異なるので、むしろ基本文法の異同に着目すべきでしょうけどね。

 

 トルコ語と日本語の文法の共通点は、感動的でさえあると言う人もいるようですね。

 

特に助詞、助動詞の用法などに、多くの類似が指摘できるという声もありますね。

 

日本語とトルコ語は、全品詞の並び方がほぼ一致してるらしいです。

 

 トルコ語と日本語の語順は、ほぼ同じなのですか。

 

 日本人がトルコ語を話す時は、日本の単語をそのままトルコ語の単語に置き換えていけば、一応ちゃんとした文になる。

 

そうらしいですよ。

 

ナラ=Nara=納刺という単語があるそうです。

 

ナラは、原トルコ語で『国』『邑』を意味するそうです。

 

 日本の奈良も、それが転訛した地名なのかその名残らしいと見る人もいますね。

 

最後に動詞が来るという特徴は、トルコ語、中央アジア諸語、モンゴル語、満州語、朝鮮語、日本語のウラル・アルタイラインは全部そうだという指摘もあります。

 

 ウラル・アルタイラインと十支族の足取り、重なって見えるのが面白いですね。

 

インドの印欧語族も、最後に動詞が来る順というから、歴史と照らしあわせると興味深いですよ。

 

現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国を以って「トルコの建国」と考えています。

 

歴史的にも、セルジューク朝のころから、イラクやペルシャと呼ばれた時代からイランの影響が強かったのです。

 

 イランとインドも、歴史を遡ると繋がりますね。

 

ペルシャは古代日本に深く関わる国だし、インドにも日本語の語源の一つとされる地域があります。

 

 現代の日本人の顔にも、ペルシャ系やインド系と現地人から見ても思われてしまう場合があるでしょ。

 

 どこかトルコ人が連想できる顔の日本人も、時折見かけるし。

 

古代から、ヒッタイト・フリュギア・リディア・東ローマ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地ですよ。

 

 トルコの国土の大半を占めるアジア側の小アジアと呼ばれるアナトリア半島と、トルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブルは、古い歴史を持つのでしたね。

 

アナトリアは世界的にも歴史の古い土地で、紀元前18世紀にはインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト王国が建国されました。

 

鉄器を最初に使用したというヒッタイトは紀元前14世紀には全盛期を迎えるが、紀元前1200年頃には海の民によって滅ぼされます。

 

紀元前9世紀にはフリュギア王国、紀元前7世紀にはリュディア王国がこの地に建国されました。

 

当時のエーゲ海沿岸地方は、ギリシア人によってミケーネ文明が開かれ、「トロイア戦争」で有名なイリオスは紀元前1200年頃までには繁栄していました。

 

 紀元前7世紀の地中海各地への植民が行われたマグナ・グレキアの時代には各地に植民都市が建設され、ボスポラス海峡に建設されたビザンティウムもその一つですよね。

 

アナトリア地域は紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシアの支配を受け、紀元前4世紀のダレイオス2世の頃に、マケドニア王国のアレクサンドロス大王に征服されます。

 

アレクサンドロス大王死後はセレウコス朝シリア、ペルガモン王国などの支配を経て、紀元前2世紀にはローマの属州となりました。

 

現在のイスタンブルとなるコンスタンティノポリスの名は、330年にローマ帝国の首都となったときビザンティウムが改名された時のものです。

 

コンスタンティノポリスは、395年にはローマ帝国が東西に分裂すると東ローマ帝国の首都として前代未聞の繁栄を見せます。

 

6世紀のユスティニアヌス1世の頃に、東ローマ帝国はローマ帝国の版図の大半を回復することに成功します。

 

その後、サーサーン朝との抗争やユスティニアヌス時代の征服戦争などによる財政破綻などから急激に衰退しますけどね。

 

7世紀初頭の皇帝ヘラクレイオスはサーサーン朝ペルシャに勝利したものの、勃興してきたイスラム帝国やスラヴ人の侵攻を受けて版図は急激に縮小し、守勢に転じることになります。

 

 現代のトルコ建国とされる突厥の登場は、アナトリアで、東ローマ帝国がイスラーム帝国と覇権を争っているころでしたね。

 

東方のアルタイ山脈の麓では突厥が柔然を滅ぼし、中央アジアに大帝国を築いたが東西に分裂し滅亡しました。

 

柔然(じゅうぜん)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家です。

 

『魏書』・『北史』・『南史』などでは蠕蠕(ぜんぜん)、『宋書』・『南斉書』・『梁書』などでは苪苪(ぜいぜい)、『周書』・『隋書』などでは茹茹(じょじょ)、『晋書』では蝚蠕と表記されます。

 

突厥は、その柔然の領土を中心に帝国を築いたのです。

 

突厥は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家です。

 

もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事していました。

 

 トルファンは、現在でも石油、天然ガス、塩、石炭(煤)、芒硝、鉄、銅、アスベスト(石棉)などの鉱物資源が豊富ですね。

 

 アルタイ山脈も、金・銀・鉄・石炭・銅などの重要な鉱物資源の埋蔵で古くから知られている。

 

 突厥は、鉄の技術をどこで手に入れたのでしょうね。

 

遊牧民と金属加工技術は、スキタイもそうだけど、繋がりは深いですね。

 

552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥帝国と呼ばれることもある突厥可汗国を建て、中央ユーラシアの覇者となったが、582年には内紛によって東西に分裂しました。

 

7世紀にイスラムの捕虜となったトュルク族はイスラム圏で遊牧生活を営むとともに、マムルークとして浸透していきました。

 

その中のオグズ族のセルジュークが、部族を糾合します。

 

一方で、西欧諸国やローマ・カトリック教会とも対立を深めます。

 

それまでの地中海周辺全体を支配する大帝国から、当時ギリシア人が多数を占めていた現在のギリシャ・トルコ周辺を中心とする国家へと変貌し、公用語もラテン語からギリシア語へと改められました。

 

この時代、現在のトルコに当たる小アジアは対イスラムの前線として、そして穀倉地帯として重要な役割を果たしていたのです。

 

9世紀から10世紀になると、東ローマ帝国は国力を回復させて再攻勢に出るようになり、11世紀初頭にはバルカン半島全土や北シリア、南イタリア、アルメニアなどを支配する大帝国として復活します。

 

しかし、11世紀半ば頃になると再び国力が衰え、東からテュルク民族の侵攻を受けるようになるのです。

 

 11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下だったでしょ。

 

1038年には、ホラサーンの支配を確立しセルジューク朝を樹立しました。

 

1055年にはトゥグリル・ベクがバグダッドに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの地位を授かりました。

 

セルジューク朝はスンナ派の庇護者としての正当性を得ると、西アジアのイスラーム圏の主導的立場となったのです。

 

1071年マンジケルトの戦いでセルジューク朝が東ローマ帝国を破ると、アナトリアに進出し、ルーム・セルジューク朝が誕生します。

 

ルーム・セルジューク朝の支配のもとでアナトリアのトルコ化、イスラム化が進行しました。

 

 1243年にはモンゴル族がイル・ハン国を樹立したのをうけて、セルジューク朝はアナトリアに中心を移したのでしたね。

 

首都をタブリースに置いたイルハン朝は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権です。

 

1256年あるいは1258年から1335年あるいは1353年まで、あったと見られています。

 

ムスリム、つまりイスラム教徒のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していったのです。

 

 彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブルを都としたのでしょ。

 

セルジューク朝が滅ぶとアナトリアは、いくつかの君公国に分かれていました。

 

1299年にオスマンが開いたオスマン朝は順調に勢力を拡大し、3代スルタンのムラト1世はアドリアノポリスを占領し、ブルサから遷都したのです。

 

その後コソボの戦いでセルビア、ブルガリア、ルーマニアを支配下に置いた時期もありました。

 

さらにニコポリスの戦いでは、オスマン朝は神聖ローマ皇帝ジギスムント率いる十字軍を破っています。

 

バヤズィト1世は初めてコンスタンティノポリスの包囲を敢行したが、1402年アンカラの戦いで、東方からの征服者ティムールに敗れます。

 

オスマン朝は崩壊の危機に見舞われたが、その後メフメト2世の頃には国力を回復します。

 

コンスタンティノポリスを包囲1453年にこれを陥落させ、東ローマ帝国を滅亡させました。

 

さらに1517年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、イスラム教スンニ派世界の主導的地位を獲得したのです。

 

スレイマン1世の頃には1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国を滅ぼし、征服しました。

 

1529年には第一次ウィーン包囲を敢行し、神聖ローマ帝国に肉薄しました。

 

1522年にはプレヴェザの海戦でキリスト教国連合を破り、地中海を「オスマンの海」としたのです。

 

 スレイマン1世の頃はオスマン帝国の絶頂期で、法制の整備、イェニチェリの改革や教育政策の充実、学芸の振興などが進んだのでしょ。

 

東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てたのです。

 

19世紀になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆきました。

 

スレイマン1世の死後、1571年にはレパントの海戦でスペイン艦隊に敗れ、オスマン朝はキリスト教勢力に初めて敗北を喫します。

 

レパントの海戦でスペイン艦隊に敗れたことをもって、オスマン帝国の衰退といわれるが、実際は地中海の制海権を維持していました。

 

しかし1683年の第二次ウィーン包囲の失敗後にはスレイマン1世以来の制度の変質が顕在化し、衰退に向かったのです。

 

18世紀初頭には西欧諸国との間で、良好な関係が形成されます。

 

チューリップ時代と呼ばれる平和な時代が到来したが、やがて、ハプスブルク君主国やロシア帝国などの中東欧諸国との戦争で弱体化を余儀なくされます。

 

18世紀後半には露土戦争の結果、クリミア半島をエカテリーナ2世のロシア帝国に割譲しました。

 

このような帝国の衰えに対し、セリム3世のように改革を実行しようとするスルタンも現れました。

 

改革の動きもイェニチェリの介入で失敗し、政局は混乱しました。

 

それでも、19世紀のはじめにはタンジマートと呼ばれる改革が実行され、さらに1876年にはオスマン帝国憲法が制定されるなど近代化が試みられます。

 

ところが、アブデュル・ハミト2世が専制君主制を復活させ反動化してしまいます。

 

この中で、バルカン半島の諸民族の独立運動とそれに対する列強の介入やロシアの南下政策などで領土は縮小します。

 

産業革命にも西欧の後塵を拝し、対外債務の増大や国民経済の窮乏化など国力は疲弊して行ったのです。

 

危機感を募らせた青年将校たちが統一と進歩委員会を結成し、「青年トルコ人革命」として知られる「憲法復活」などをスローガンに革命を起こしました。

 

この革命によって「汎トルコ主義」による近代化が推進されることになります。

 

「統一と進歩委員会」のエンヴェル・パシャは、ドイツ帝国と提携しロシアに対抗します。

 

第一次世界大戦では中央同盟側に参戦し、敗戦。オスマン帝国は崩壊することになるのです。

 

帝国は、第一次世界大戦の敗北により完全に解体されていきます。

 

帝国解体のとき、戦勝国の占領を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル・アタテュルクのもとに結集して戦い、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取りました。

 

1923年、アンカラ政権は共和制を宣言すると、翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国したのです。

 

 中華料理、フランス料理、トルコ料理は、世界三大料理と言われますね。

 

 いずれも、宮廷料理の伝統がある。

 

トルコ料理は、中央アジアにひろがるトルコ民族の伝統料理の要素と、ギリシャ、グルジア、シリア地方の料理の要素とが混じり合って独特の発展を遂げました。

 

中央アジアからアナトリア半島へ移動した歴史や、14世紀から20世紀の初めまではオスマン帝国として地中海周辺を支配していた歴史を反映した要素もあると言います。

 

現在のトルコを含め、バルカン半島、ギリシア、レバノン、イスラエル、エジプト、チュニジアなど地中海東部地域の国々は、おおむね共通した料理をもっています。

 

それでもトルコ料理の影響は、歴史を反映して、ギリシャ料理、レバノン料理、ブルガリア料理、ルーマニア料理などに顕著です。

 

トルコ料理の影響は、周辺のアラビア半島などのオスマン帝国が支配した地域にとどまりません。

 

モロッコ料理など北アフリカやロシアの料理、近年ではトルコ系移民の多いイギリス、ドイツにまで及んでいるといいます。

 

特徴として、中央アジアの食文化である羊を中心とした肉料理があります。

 

また、ヨーグルトやナッツ類を料理に使うこと、黒海、地中海などの海産物を利用すること、地中海周辺で取れるオリーブオイルを使用すること、アラビア周辺からひろがった小麦粉とアジアの主食である米の両方を使うなど、東西の食文化を融合させた多彩な素材、味、調理法を持つことも挙げられます。

 

もっとも、トルコの国内でも地域ごとに異なる特徴をもつ郷土料理もあるといいます。

 

北部黒海沿岸地域ではトウモロコシやアンチョビをよく使い、南東部ではトウガラシの風味が強いケバブ類を発展させており、西部では、特産のオリーブオイルの風味を活かした料理が多く、中央部の中央アナトリア地方では、パスタ料理が名高いそうです。

 

 トルコ料理も、日本人の好みに合うという話題は結構ありますね。

 

味の好みは、近いのかも知れないですね。

 

 地中海料理、全体として日本人好みの味なのでしょうかね。

 

少なくともこれまで見た地域は、日本人の好みに合うようですね。

 

トルコ料理を象徴するものに、メゼと呼ばれる前菜があります。

 

メゼの文化は、東地中海一帯に広く見られます。

 

ヨーグルトやチーズを使ったものから、オリーブオイルで作られた冷菜のメゼなど、いろいろあるけれど、素材のおいしさを生かしたものが多いと言います。

 

 素材のおいしさを生かす、日本料理に近いものがありますね。

 

非常に美味だそうで、特に魚料理レストランや居酒屋のメゼは種類の多さに定評があるそうですよ。

 

食事の作法としては、かつては手を使って料理を食べていたが、スープやプディングを口に運ぶためのスプーンは古くから存在したといいます。

 

 インドもそうだけど、ロシアも西欧化を取り入れるまで手で食べていたでしょ。

 

現在では西洋式のテーブルマナーの普及にともない、ナイフやフォークが使われるそうですね。

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