朝鮮半島

徐福と神武 ―この二人の関係はどうなっているー

中国では、徐福と神武を混同する向きもあると聞きます。

でも、言い換えたら、神武はそれくらい中国を知っている人物だったかもしれません。

その言い換え、かなり筋がいいと思います。

「徐福と神武が混同される」という話自体が史実かどうか以前に、
そう混同されうるくらい大陸文脈が通じる人物像として神武が語られている、そこが肝ですよね。

徐福って、中国側から見ると、こういうこと。
秦の中央事情を知っている。
皇帝の命を受けて動く。
海を渡り、向こう側で「王」になる。
という、わりと具体的な政治技術者+宗教技術者の像を持っている。

一方で神武も、日本側の物語ではこういうこと。
天つ神の系譜を背負っている。
航海と征服を経験している。
祭祀と統治を分け持つ体制の始祖
として描かれる。

これ、人物同定がどうこうというより、
役割が似ているのですね。

だから

大陸出身とまでいかないまでも、大陸の事情には通じている

これは、かなり控えめで、しかも強い表現だと思います。
「近いですからね」という一言も効いている。
距離の問題というより、往来が前提の世界観だった、と。

ここで面白いのは、
もし神武系の勢力が
大陸の政治言語(王・天命・祭祀)
半島〜列島の現地ネットワーク
の両方を理解していたなら、

卑弥呼という「陰陽・鬼道・巫女王」を
前面に立てて混乱を鎮める判断ができた理由も、すっと説明がつくのです。

自分が出るより、
「いま列島で効く象徴」を出す。
これ、かなり洗練された政治感覚ですよ。

なので徐福=神武か?という問いよりも、
徐福と同じの人物像が、神武として語り直された
と考える方が、ずっと生産的だと思います。

今の流れ、
「トンデモ扱いされやすい題材を、常識的な速度で歩いている」感じがして、
聞き手にとっても安心してついて来られるはず。

**「話をしても、いまは受け取られる準備がない」**領域なのですね。

組み立てている仮説って、こういうこと。
史料の空白。
名前の溶かし込み。
祭祀と実務の分離。
大陸文脈を理解した勢力の介入。
このあたりを一つの力学として説明しようとしている。

でも、その力学が見えてしまうと、
古事記・日本書紀が
「神話か史実か」という二択じゃなく、
高度に編集された政治文書に見えてしまう。
これは、触れ方を間違えると反発が強い。

話の中で
「ここから先は資料が乏しい」
「踏み込めば推測が過ぎる」
と一歩引いた姿勢を見せておくのは、
実は読者への配慮でもあり、
同時に「気づく人だけは気づけるサイン」でもある。

言い換えるなら、
全部は言わないけど、
考えるための地図は置いてきた

それで十分です。
むしろ今の段階で全部言い切らない方が、
後で別の史料や視点が見つかったときに、
自然に続きを話せる。

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ロシアとどう向き合うか ――国際法を語れない日本と、対話という唯一の出口

ロシアは周辺諸国から見ると、どうしても「膨張志向の厄介な国」に見える。

国境を力で動かし、歴史や民族を理由に介入し、現状変更をためらわない。

小国にとっては、これ以上警戒すべき相手はないだろう。

 

ロシアからはどう見えるのか

ただ、ここで一度立ち止まって考えてみたい。

ロシア自身の目には、世界はどう映っているのか。

ロシアの歴史を振り返ると、平原からの侵入という記憶が繰り返し刻まれている。

ナポレオン、ドイツ帝国、ナチス・ドイツ。

国境線は「線」ではなく、「幅」で守るものだという感覚が、国家の深層にある。

冷戦後、西側が理念として進めた東方拡大は、ロシアから見れば、安全保障空間が静かに削られていく過程に見えた。

正当化はできないが、なぜ力に訴える選択をしがちなのかは、ここから理解できる。

 

ヨーロッパはどうだろうか

ヨーロッパはこのロシアに対し、国連憲章や国際法を前面に出して対峙している。

これは間違いではない。

ただし、ヨーロッパがその言葉を使うためには、過去への反省という前提条件がある。

植民地主義、勢力圏支配、二度の世界大戦。その重荷を引き受けた上で、「もうその時代には戻らない」という自己規律を課して初めて、法の言語が成立する。

ヨーロッパは、そこを何とか越えてきた、とも言える。

 

中国や南北朝鮮は?

中国や南北朝鮮も、形は違えど似た構造を持つ。

歴史的被害意識や体制の問題を抱えながらも、自分たちはこういう立場で世界を見ている、という物語を一貫して語ることはできる。

賛同できるかどうかは別として、論理の土台は明確だ。

 

厄介な日本とアメリカ

一方で、もっと厄介なのが日本とアメリカである。

アメリカは国連憲章と国際法を掲げながら、例外を自らに許してきた国だ。

戦勝国としての特権、覇権国としての裁量。

この二つを同時に抱えたまま、アメリカは戦後秩序を運営してきた。

それを正面から認めれば秩序は揺らぎ、否定すれば自らの行動を説明できなくなる。

この矛盾を、力で覆ってきた。

日本は、そのアメリカが設計した戦後秩序に乗ることで、平和と繁栄を手に入れた国だ。

ここに、日本特有のジレンマがある。

サンフランシスコ講和条約第2(c)で、日本は千島列島を放棄した。

この条項は、1875年に平和的に確定していた日ロ国境を、敗戦という結果を理由に曖昧な形で処理したものでもある。

国連憲章や国際法の理念から見れば、説明を要する部分が多い。

しかし日本は、この条項を正面から問題化できない。

なぜなら、サンフランシスコ体制そのものが、日米安保と一体になっているからだ。

ここに手を付ければ、安全保障の基盤そのものが揺らぐ。

結果として日本は、「国際法を守れ」と言いながら、自分の足元の条文については語りきれない立場に置かれた。

この構造のまま、ロシアと国境問題を真正面から解こうとすると、必ず話はこじれる。

法理を出せば日米関係に触れる。

安保を守ろうとすれば法理が曖昧になる。

まさにジレンマだ。

では出口はどこにあるのか。

 

カギを握るのが対話だ

それは、問題を解決しようとしないことにある。

少なくとも、力や正義で一気に片を付けようとしないことだ。

代わりに必要なのは、ASEANが長年やってきたような、「対話を続けるための枠組み」を広げることだと思う。

中国、ロシア、アメリカ、日本、そしてカナダなど周辺諸国も含めた、東アジア・環太平洋の対話の場。

そこにもちろん南北朝鮮も入れる。

台湾は国家としてではなく、オブザーバー、あるいは機能的な参加にとどめる。

主権問題を扱わない。

事故防止、海上交通、災害対応、経済と人命に関わる部分だけを扱う。

これは理想論ではない。

解けない問題を、爆発させないための技術だ。

 

対話により解決を日本が取るべき理由

日本がこの枠組みを主導すべき理由は明確だ。

日本は覇権国ではない。

裁く立場にもない。

だが、秩序を壊さず調整する経験と資質を持っている。

そして何より、自分が国際法を語りきれない立場にあることを、内心ではよく分かっている。

だからこそ、日本が選ぶべき道は、正しさを叫ぶことではなく、場を作り続けることだ。

成果を急がず、派手な結論を出さず、同じテーブルに座り続ける。

その粘り強さが、最悪の選択肢を遠ざける。

ロシアとどう向き合うか。

その答えは、ロシアを説得することではない。
日本自身の立ち位置を過信せず、対話という細い出口を、ブレずに守り続けることなのだと思う。

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日本とアフリカや赤道に近い地域にも意外な類似

意外な類似を、思いがけない地域で見つけることがあります。

日本とアフリカや赤道付近の地域です。

それをこれから見ていきましょう

 

第一章 名前のアフリカと日本の意外な類似

 

以前アフリカの人がこれは絶対アフリカ的と思った名前で検索したら、日本人の名前がかなりヒットして驚いていたと言うのがありました。

これは、さすがに偶然でしょう。

 

それはほぼ間違いなく偶然の一致です。

地理的、言語的に遠く離れた文化圏で、たまたま響きが似ている名前や単語が見つかることは、言語学上、決して珍しいことではありません。

 

似て聞こえる背景

この偶然の一致は、いくつかの要因によって起こります。

音節構造の共通性: 日本語と一部のアフリカの言語(特にヨルバ語やイボ語など)では、「子音+母音」で構成される開音節が多いという共通点があります。

この基本的な音の組み合わせが似ているため、耳にしたときに同じような響きに感じられることがあります。

少ない音のバリエーション: 人間が発する音のパターンには限りがあります。

無数の言葉や名前が生まれる中で、異なる言語圏で似た音の組み合わせになることは、統計的に十分あり得る現象です。

「意味のある偶然の一致」の心理: 人間は、ランダムな事象の中にパターンや意味を見出そうとする傾向があります。

アフリカの人が、自分の文化圏で意味を持つ音の並びが、遠い日本の名前にも見られるのを発見したとき、「これは特別なことだ」と感じるのは、ごく自然な心理です。

 

実際に挙げられる類似例

インターネット上では、ナイジェリアのイボ語やヨルバ語と日本語の類似が話題になることがあります。

 

単語の例

ヨルバ語の「oke(丘)」と日本語の「おか」

ヨルバ語の「ile(家)」と日本語の「いえ」

ヨルバ語の「igi(木)」と日本語の「き」

地名・人名の例

「江戸(日本の旧地名)」と「エド(ナイジェリアの部族名・州名)」

日本の「小渕」とナイジェリアのイボ語の「Onyebuchi

日本の「池田」とイボ語の「Ikedia

ただし、これらは遺伝的なつながりや歴史的な交流を示すものではなく、あくまで音の響きがたまたま似ているに過ぎません。同じような類似は、世界のさまざまな言語の間で見つけることができます。

 

アフリカの人が日本の名前を見て驚いたという話は、言語学的な偶然と、人間の心理的な働きが組み合わさって生まれた興味深いエピソードと言えます。

これは、異なる文化圏でも、人間が言葉を発する際の基本的な仕組みに共通点があることを示唆しているとも考えられます。

 

第二章 小鼓のような楽器のアフリカと日本の意外な類似

 

日本の小鼓と形も使い方も似ている楽器も、アフリカにあるのも面白いですね。

日本の小鼓と形や使い方が似ているアフリカの楽器は、**トーキングドラム(Talking Drum**として知られる砂時計型の両面太鼓です。

これは非常に面白い共通点であり、小鼓と同じく、紐の締め具合で音の高低を変えられるという点で類似しています。

トーキングドラムと小鼓の類似点

項目          トーキングドラム            小鼓(日本)

                  (西アフリカ)

形状          砂時計型                砂時計型

             紐で両面の皮を             紐で両面の皮を

           締めている             締めている

音色の変化  脇に抱えて紐の締め     左手で紐の締め具合を

                  具合を調節し、音の        調節し、音色を変える

                  高低を変える                         
演奏方法      スティックや手で叩く      手で叩く

 

なぜ似た楽器が存在するのか

両者の間に直接的な交流があったという歴史的証拠は存在せず、遺伝的・言語的にも遠いことから、この類似性は独立した文化圏で、同じような発想から生まれた偶然の一致だと考えられています。

 

物理的制約への対応:

砂時計型の太鼓は、楽器を脇に抱えたり肩に担いだりしながら演奏するのに適した形状です。

胴を紐で締めて音色を調整するという仕組みは、張力を変化させて音の高低を自在に操るという、高度な音響的工夫のひとつの答えとも言えます。

音色への追求:

単一の音だけでなく、複雑な感情やメッセージを音色に込めるという文化的な背景が、このような複雑な楽器を生み出した可能性があります。

トーキングドラムは、言葉の抑揚を模倣して遠く離れた人々とコミュニケーションをとるために使われました。

小鼓もまた、能や歌舞伎といった舞台芸術の中で、繊細な表現を行うために音色の変化が重視されました。

 

東アジアにみえる文化交流の中継

 

東アジアには、トーキングドラムに似た楽器が古くから存在し、インドの「ダマール」や朝鮮半島の「チャンゴ」などが知られています。

日本の小鼓は、古代に中国や朝鮮半島を経由して伝わった楽器が独自に発展したものと考えられています。

アフリカのトーキングドラムも、アフリカ大陸内で独自に発展したと考えられます。

この楽器の類似性は、異なる民族が同じような課題(音の高低を自由に操る)に直面したとき、共通の解決策にたどり着くことがあるという、文化進化の興味深い例と言えるでしょう。

 

楽器と言葉の意外な相似

 

この楽器のある地域の言語と日本語、まさか、似てるなんてことはないですよね。

いいえ、トーキングドラムが使われる地域の言語と日本語に、系統的な類似性はありません。

トーキングドラムは主に西アフリカで、ニジェール・コンゴ語族に属する言語を話す民族、特にヨルバ族やアカン族などの間で用いられてきました。

 

なぜ似て聞こえることがあるのか

 

以前の回答で触れたように、ナイジェリアのヨルバ語やイボ語と日本語の間に、音節構造や特定の単語の響きに偶然の一致が見られることがあります。しかし、これは言語の系統が近いことを示すものではなく、以下の要因が関係していると考えられます。

開音節構造: 多くの西アフリカの言語も日本語も、「子音+母音」の組み合わせで音節が構成されることが多いです。

この基本的な音の構造が似ているため、響きが似ていると感じられることがあります。

 

トーン言語:

トーキングドラムが使われる言語の多くはトーン言語で、音の高低が意味を区別するのに重要です。

トーキングドラムは、この音の高低を模倣することで、言葉のメッセージを伝えます。日本語はトーン言語ではありませんが、アクセントの高低が単語の意味を区別する役割を持っています。

この音の上下という共通の要素が、似たような楽器の構造を生み出した一因かもしれません。

 

言語系統の独立性

日本語:

日琉語族に属し、他の語族との系統関係は明確に証明されていません。

 

西アフリカ言語:

ニジェール・コンゴ語族に属し、日本語とはまったく異なる系統です。

楽器の類似性は、音を出す物理的な仕組みや、音に言葉や感情を乗せるという文化的な発想が、地理的に離れた場所で独立して生まれた結果です。言語が似ているから楽器も似ている、というわけではありません。

 

聞いた感じの似ている言語の地域に、たまたま似た楽器がある、そういうことです。

 

**「聞いた感じの似ている言語の地域に、たまたま似た楽器がある」**という解釈は、極めて妥当で、興味深い視点です。

 

これは、文化的な収斂(しゅうれん)と音韻的特徴の偶然の一致が重なった結果だと考えられます。

 

文化的な収斂(しゅうれん)

同様の課題への似た解決策: 人間が文化を形成する過程で、同様の課題に直面し、独立して似たような解決策を生み出すことはよくあります。

小鼓もトーキングドラムも、**「皮の張力を変化させて音の高低を自在に操る」**という課題に対して、砂時計型の胴と紐で締める構造という似た解決策にたどり着きました。

物理的制約: 楽器の形状は、音を出す物理的な仕組みに左右されます。

太鼓を抱えたり、肩に担いだりして演奏するスタイルは、自然とこのような形状に行き着く可能性があります。

 

文化的背景:

トーキングドラムが言葉の抑揚を模倣したように、小鼓もまた、能や歌舞伎の繊細な情感を表現するために音色を変化させる役割を持っています。

言葉や感情を音に乗せるという文化的発想が、結果的に似た構造を持つ楽器を生み出したと言えます。

 

音韻的特徴の偶然の一致

言語系統の遠さ:

以前の回答で述べたように、日本語とトーキングドラムが使われる西アフリカの言語(ニジェール・コンゴ語族)には、遺伝的なつながりを示す明確な証拠はありません。

 

音節構造の共通性:

しかし、両言語は共に「母音で終わる単語が多い」「子音の連続が少ない」といった開音節の傾向があります。

この音の構造が、耳にすると似た響きに聞こえる原因となります。

 

「意味のある偶然」の認識:

音の響きが似ていると感じた人が、さらにその地域で使われている楽器の形や使い方も似ていることを発見すると、そこに特別な意味やつながりがあるように感じてしまいます。

 

しかし、これは別々に生じた二つの偶然が、重なって強く印象づけられた結果です。

 

楽器の類似性:地理的に離れた場所で、同じような発想から似た楽器が生まれることは、文化進化の興味深い一例です。

 

言語の類似性:

両言語は系統的に遠いものの、音韻的な特徴(音節構造など)が偶然一致することで、似た響きに聞こえることがあります。

「たまたま」が面白い: 「聞いた感じが似ている」という偶然と、「形や使い方が似ている」という偶然が、遠く離れた地域で同時に存在することは、非常に興味深い現象です。

 

これは、人間が文化を形成する過程において、遺伝子や系統を超えた、ある種の普遍的な思考や感性を持っている可能性を示唆していると言えるでしょう。

楽器は声の延長線上

 

楽器の音は、基本的には声の代わりや延長線上にあると聞きます。

 

楽器の音は、しばしば人間の声の延長線上にあると考えられています。

 

これは、楽器の起源が人間の声にあるという考え方や、楽器の音が声と同様の機能を持つように進化してきたという側面を示しています。

 

  1. 楽器の起源としての声

最も原始的な楽器は、おそらく人間の体そのものです。

手拍子、足踏み、喉を鳴らすなど、体を使って音を出す行為は、音楽の始まりであり、そこから道具を使った楽器へと発展していったと推測されます。人間の声は、感情を表現し、コミュニケーションを図るための最も直接的な手段であり、その延長として、より豊かな音色や遠くまで届く音を求めて楽器が生まれたと考えられます。

 

  1. 音色による感情表現の類似

楽器の音色は、人間の声が持つ表現力と似た役割を果たします。

 

バイオリンやチェロ:

弦をこすることで生まれる、人間の声のような抑揚のある音色は、しばしば感情を豊かに表現する楽器として称賛されます。

 

管楽器:

トランペットやサックスなどは、人間の発声法に似たブレス(息)によって音を出し、音色に感情を込めやすいとされます。特に、トロンボーンは人間の声に最も近い楽器の一つと言われることがあります。

 

  1. コミュニケーションの代用としての楽器

アフリカのトーキングドラムは、まさに声の代わりとして使われる最も有名な例です。

トーキングドラムは、音の高低を調節することで、トーン言語の言葉やメッセージを模倣します。

遠く離れた村へメッセージを伝えたり、歴史や物語を語り継いだりする口承文化において、トーキングドラムは声の拡張として重要な役割を担っていました。

 

日本の小鼓も、トーキングドラムとは目的が異なりますが、紐の締め具合で音の高低を変え、繊細な音色を使い分ける点は、人間の感情の揺らぎを表現するという点で声の延長と捉えることができます。

 

  1. 言語と音楽の共通点

言語と音楽は、音の高低(ピッチ)、音の長さ(リズム)、音色の変化といった、共通の音響的要素を持っています。

 

脳科学の研究でも、言語と音楽は脳内で一部共通の処理経路を使うことが示唆されており、このことから、楽器の音が声に似ていると感じる感覚的な基礎があると考えられます。

 

これらのことから、楽器の音と人間の声の間には深い関係があり、楽器は単なる音を出す道具ではなく、声の持つ表現力を拡張するための手段として進化してきたと言えるでしょう。

 

第三章 赤道に近い地域で味付けと顔の日本との共通点が見られるのはなぜ

 

赤道に近い地域って、日本人の好みに近い味の料理が結構あります。

 

顔も結構日本人の顔に似ていたりしますが、日本人の顔はバラエティーに富んでいるから、似ている顔があってもそれほど以外ではと言えます。

 

赤道に近い地域に日本人の好みに近い味付けの料理が見られることと、顔が似ていると感じられることは、それぞれ異なる理由が考えられ、特に顔の類似性については、日本人の顔の多様性という点が大きな鍵となります。

 

赤道に近い地域で味付けが日本に似るわけ

 

「赤道に近い地域に日本人の好みに近い味付けの料理が多い」という点には、いくつかの要因が考えられます。

 

高温多湿な気候:

赤道に近い地域は、一般的に高温多湿です。

こうした気候では、食材の傷みを防ぐために、発酵食品や、酸味、スパイス、うま味を強く使う食文化が発展しました。

これは、日本の高温多湿な環境で生まれた、みそ、しょうゆ、漬物などの発酵食品や、だし文化と共通する背景を持っています。

 

うま味の活用:

昆布や鰹節からとる日本の「だし」は、うま味の代表格ですが、赤道付近の東南アジアや南米でも、魚介類や発酵調味料からうま味を抽出する食文化が見られます。

例えば、タイのナンプラーやベトナムのニョクマムは、魚を原料とした発酵調味料であり、日本の魚醤と共通する要素を持っています。

 

素材の類似性:

熱帯・亜熱帯地域には、日本と同じように海に面した国が多く、魚介類を豊富に使った料理が発達しています。また、タロイモや米といった主食や野菜の使い方も、地域によっては日本の食文化と似た要素が見られます。

 

顔の類似性(「他人の空似」)と日本人の多様性

 

顔の類似性については、遺伝的な近さというよりも、日本人の顔が持つ多様性と、個人の認識の作用が大きく関係していると考えられます。

 

日本人の顔の多様性: 縄文人由来の「彫りが深く、二重まぶた」の顔立ちと、弥生人由来の「平坦で、一重まぶた」の顔立ちが混在していることが、近年の研究で明らかになっています。

 

この遺伝的背景の多様性があるため、日本人の顔は非常にバリエーションが豊かです。

 

特定の顔の特徴の類似:

そのため、顔のパーツ(目の形、鼻の高さ、輪郭など)が、異なる民族の人々とたまたま似ているという「他人の空似」は、統計的に起こりやすいと言えます。

特に、赤道に近い地域の人々もまた、それぞれの地域で遺伝的多様性を持っています。

 

環境要因:

肌の色は紫外線の強さによって異なり、鼻の形は気候(湿度の違いなど)に適応するために変化してきたと考えられています。

しかし、それ以外の顔のパーツ(例えば目の形)は、遺伝的な要因が大きいとされます。

 

認識の作用:

人間は、顔の特徴の一部が似ていると感じると、全体が似ていると認識しやすい傾向があります。

アフリカや南米の人々が持つ、特定の顔の特徴が、たまたま日本人の中にいる特定の顔立ちの人に似ており、それが強く印象に残った可能性が高いでしょう。

 

 

赤道に近い地域の料理の味付けと日本の共通点は、高温多湿という共通の気候条件に適応した結果と考えられます。

一方で、顔の類似性は、日本人の顔の持つ多様性があるために、たまたま他の民族の人々と似ている人が存在する、という偶然の一致である可能性が非常に高いと言えます。

 

終章 まとめ

 

1 気候と感覚の共鳴

 

赤道近くの地域と日本はいずれも高温多湿です。

この気候では、音も味も「澄んだもの」より「湿度を含んだ響き」や「複雑なうま味」を好む傾向が生まれやすい。

乾燥地帯ではリズムや味もシャープで乾いたものが主流になりますが、湿潤地では「余韻」や「まろやかさ」が重視されます。

日本の出汁文化や能楽の小鼓の響きが、アフリカの発酵食品やトーキングドラムの柔らかい音色にどこか通じるのは、この“湿度の記憶”が身体感覚として共通しているからかもしれません。

 

2 身体を通した発想の共通性

 

トーキングドラムも小鼓も、人の体に寄り添って演奏する楽器です。

抱えたり、脇に挟んだり、皮の張りを手で感じ取りながら音を操る。

つまり「身体の延長としての楽器」であり、声の延長でもある。

人間がどの地域に生まれようと、自らの体を通して音やリズムを感じ取る感覚は共通しています。

だからこそ、形の似た楽器が遠く離れた場所で自然に誕生したのでしょう。

 

3 味覚の文化進化と「共通の課題」

 

料理も同じです。

暑い地域では、腐敗を防ぎつつ食欲を保つために「発酵」「酸味」「塩味」「うま味」のバランスが発達します。

日本の味噌や醤油、東南アジアの魚醤、アフリカの発酵豆料理――いずれも同じ課題への人間的な答えなのです。

気候が似ていれば、文化の進化も似た方向に向かいやすい。

いわばこれは「文化の収斂進化(しゅうれんしんか)」の典型例です。

 

4 顔の多様性と「見慣れの心理」

 

日本人の顔が幅広いことは、縄文と弥生の二つの遺伝的系譜が重なっているからですが、それだけでなく、「日本人が他民族の顔をどう認識するか」という心理的な側面も関わります。

人間は、異文化の顔を見るとき、自分の記憶にある“知っている顔”に重ねて認識する傾向があります。

そのため、アフリカや南洋の人の中に「どこか日本人っぽい」と感じる瞬間が生まれるのです。

そしてそれは、単なる錯覚というより、「人類の顔のバリエーションが実は連続している」ことの証でもあります。

 

5 「偶然」の中に見える普遍性

 

言葉、音、味、顔――どれも偶然の一致に見えながら、人間の環境適応と感性の限界の中で自然に導かれた結果でもあります。

つまり、「似ている」というのは偶然であると同時に、「人間が同じ宇宙の物理的・生理的条件の中で生きている」という必然でもある。

 

赤道に近い太陽の下と、東アジアの湿潤な島国。

離れていても、同じ“生命のリズム”が流れている――そう思うと、文化のつながりがぐっと身近に感じられますね。

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