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やはり相撲は中東起源。

『相撲』の発祥の地は古代メソポタミアと見られているが、エジプトはベニ・ハッサンのバケト3世岩窟墓にはなんと、相撲の技一覧図としか言いようのない壁画があるのです。

圧巻なのは、王墓の狭い方の面とは言え一つの壁面が丸ごとその一覧図に充てられていること。

狭いと言ったって、壁面にはかなりの広さがあるので、視野が技の一覧図で丸ごと占領されるだけの迫力ある壁画です。

 

まわしをして組み合う二人の取り組みが実に見事に描かれているその壁画は、うっちゃり、外掛け、内掛け、首投げ、足取りなどなど、相撲のほとんど全ての技がそっくりそのままと言っていいほど表現されていると言います。

 

メソポタミアの遺物でも相撲を表現したとしか思えないものはあるが、王墓の壁面一つ丸ごと相撲の技一覧図って、エジプト人どれだけ相撲好きだったんですか。

 

吉村作治教授は神社の原型はピラミッドコンプレックスと言うが、やはり、日本の原点は中東ってことなんでしょうか。

狛犬も元をたどればピラミッドコンプレックスのスフインクスと、吉村作治教授は指摘しています。

そう言えば、日本には古代中東の遺伝子もあるのですよね。

 

神話の体系も、太陽神を頂点とする三神構造と動物を含む八百万の神が織りなす神界を日本と古代エジプトは共有です。

日本人の足に多いのがエジプトタイプで、味の好みも日本とエジプトは似てるのです。

 

バケト3世王墓の壁画がもし相撲であるなら、古代エジプトでも相撲は重要な競技だったことになるでしょうね。

 

韓国人は相撲も自国が起源と言いたいようだが、メソポタミアや古代エジプト発祥の相撲の伝播の中継点の一つと見るのが妥当でしょう。

 

朝鮮半島では高句麗の壁画が確認される最古の相撲を描いたものと言うが、百済、新羅、高句麗はいずれも日本に亡命しているので、その後の新羅滅亡後の高麗壁画にある相撲は亡命しきれないで残っていた人達から伝わったものが記録された可能性があるでしょうね。

 

恐らく天孫族の日本渡来で朝鮮半島を通過した際、行われていた名残が今もかろうじてあるに過ぎないかもしれません。

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ムエタイと相撲の関係を疑ってみると。

格闘技の一種とされるムエタイ(มวยไทย)は、タイの国技です。

 英語で、Muay ThaiとかThai boxingと呼ばれるでしょ。

ムエタイは、両手、両肘、両脚、両膝の八箇所を用いて相手と戦うのです。

日本ではタイ式キックボクシングとも言われるケースがあるが、正しくはタイ式ボクシングなのです。

キックボクシングは空手、ムエタイ、ボクシング等を元に日本で作られ、厳密には違う競技だからです。

ヨーロッパでは、タイ式ボクシングの意味でタイボクシング(Thai boxing、)と呼ばれることが多いです。

日本ではムエタイの語で定着しているが、発音的にはムアイタイが正しいそうです。
 
ムアイタイとは、ムアイはクメール語で1をさし、1対1の格闘のことであるため「タイ式の戦い」となるのです。

ついでにいうと、レスリングはタイ語でプラーンなので、タイ語ではムアイプーランというそうです。

 ムエタイ選手は、試合開始前に踊るでしょ。

ワイクルーと呼ばれる踊りですね。

 そういえば、琉球空手の起源に「田舎の舞方」から発展したと、言う説もあるのよね。

沖縄方言で舞方(メーカタ)は踊りの意味で、田舎の武術的要素をもった琉球舞踊から沖縄空手が生まれたと見られていますね。

 踊りの振りから沖縄固有の武術「手(ティー)」が生まれ、空手へと発展したと見る説よね。

ワイクルーと呼ばれる踊りには、いくつかの目的があるのです。

自分のトレーナーに感謝を捧げる。
神に勝利を願う。
試合前の闘争心を高める。

ムエタイは立ち技世界最強と名高いけど、ボクシングのような打ち合いはあまり期待できないです。

ムエタイの試合は、5ラウンドあるのです

1、2ラウンドは、様子見に終始します。

賭ける客がその様子を見て選手の調子を判断し、どちらに賭けるか決めるという意味合いもあります。

ムエタイは、国技とされる一方で、賭けの対象でもあるからです。

 そういえば、日本の相撲も国技とされる一方で賭けの対象にする人がいると聞きます。

 それで、八百長相撲のうわさは絶えないかしらね。

ムエタイは国技である上、試合は賭けの対象でもあるため八百長に対しては非常に厳しいそうですね。

実際にバンコクの二大殿堂では、スポーツとしてではなく賭けの対象として観戦している観衆が大半を占めるのだそうです。

八百長試合が発覚すれば、当事者はタイ国内法により罰せられるというのですよ。
実際に八百長を疑われる試合では、観客からのブーイングにより試合が成立しないこともあるのですって。
そしてそれ以降のラウンドは、延々と首相撲の攻防が繰り返される試合がほとんどですと。

 派手な殴り合いを期待をして観戦すると、首相撲が頻繁に行われるけど。

 そのために、馴れ合いみたいに見えることもあるかも。

首相撲の攻防には、とても技術的な駆け引きが行われているそうです。
レベルが高くなればなるほど、まず、まともに攻撃を食らうことはないのですって。

 それで、馴れ合っていると勘違いされやすいわけですか。
 
タイ人は基本的に小柄なので、ボクシングの重量級などで見られるような試合でのKOはほとんどないですね。
KOが頻発すると、かえって八百長が疑われてしまうそうです。
 
 じゃあ、判定試合がほとんどになるでしょ。

それでも会場に熱気があるのは、興行が賭けによって成り立ち、またクリンチに見間違える首相撲が、実は高い技術のぶつかり合いだからですって。

 日本で首相撲って言えば、首に紐をかけて引っ張る遊びだからずいぶん違うのね。

文化の違いかも。

 相撲といえば、琉球空手には沖縄相撲であるシマからの発展説もあるのよね。

 沖縄相撲であるシマが、舞方(メーカタ)の振り付けと沖縄空手の双方の起源かも知れないのでしょ。

面白いことにムエタイの村の試合では、ときに日本の相撲の花相撲に演出が加えられたような試合が行われることもあるそうです。

花相撲の由来は、奈良時代に遡ります。
相撲節会(すまひのせちえ)という宮中儀式が、奈良時代から平安時代にかけて行われされました。
東方力士が勝つと朝日を受けて咲く葵(あおい)の花、西方力士が勝つと夕日を受けて咲く夕顔(ひょうたん)の花を自分の髪に差して退場しました。
力士は、その花を食料品や衣類に交換して褒美として受け取ったのです。

江戸時代に入ると、相撲興行が組織化されます。
客は贔屓力士や郷土力士が勝つと、土俵に自分の羽織や煙草盆を投げ入れられました。
力士は、これらを支度部屋に持ち帰り、客は帰りに支度部屋の力士を訪ねて引き換えに祝儀を与えられました。
この祝儀も、纏頭(はな)と呼ばれました。
祝儀すなわち花だけで興行していたため、花相撲とも言われたのです。

 こういう祝儀を送る風習が、ムエタイにあるのも面白いね。

 相撲とムエタイも、どこかでつながっていそうね。

日本人の祖先には、タイやインドシナあたりから来ている人々がいるからありえますね。

格闘技としてのムエタイは、他国の侵攻に対抗するための古式ムエタイに起源を持つのです。

古式ムエタイは、タイ語でมวยโบราณ(ムエボーラン)と言うのです。
タイのムエタイが競技化する前の、素手素足を主とする戦闘技法です。

実際には、手に紐を巻いたりしたようですね。

 それが今では、グローブになっている。

そうですね。

古式ムエタイの名称は、伝統的にはパフユッつまりシャム拳法と呼ばれます。

古式ムエタイがいつ興ったものかは、はっきりしていないそうです。

各民族の戦闘術と関わりながら、徐々に発展していったと見られてるのです。
素手素足の格闘の技術が、古式ムエタイの原型になっているのは確かなようです。

 その素手素足の格闘って、相撲だったりして。

相撲も突きや払いなど、両手両足を使う共通点があるのですよね。

 起源を共有している可能性、あるかもね。

調べたら面白いかも。

でも、琉球空手との関係のほうが強いかも。

 踊りで、つながっているからね。

古式ムエタイは伝説では、『ラーマーヤナ』のラーマ王子を始祖としてるのです。

シャムがミャンマーの属領とされていた1584年頃に、ナレースワン大王がミャンマーのタウングー王朝との戦争に勝って独立を回復しました。

『チュー・バサート(戦勝論)』は、この独立の時に既に古式ムエタイが大きな役割を果たしたと記すといいます。
 
 これが事実なら、少なくとも400年以上の歴史があることになるのね。

一方、琉球空手の中国起源説としては、久米三十六姓導入説があるのです。
1392年、那覇の久米村(クニンダ)に、当時の明の福建省から「ビン人三十六姓」と呼ばれる職能集団が移住があったといいます。

 「ビン人三十六姓」と呼ばれる職能集団は、琉球に先進的な学芸、技能等を齎したと言うのでしょ。

彼らが、空手の起源となる中国拳法も齎したと見られています。

1368年から1644年まで続いた明代には中国南部の福建省にあった南少林寺(福建少林寺)を起源とする、南派少林拳と呼ばれる武術の存在が確認されつつあるのです。

 時期としては、非常に近いね。

 久米村(クニンダ)って、音は違っても久米(クメ)ってあるでしょ。

 久米には、クメール起源説があるのよね。

人のミトコンドリアDNAのタイプであるハプログループには、80パターンがあるのです。
日本の主なミトコンドリアのDNAは、そのうちの16タイプなのです。
日本人のルーツ探しに大きくかかわるのは、この16のハプログループなのです。

 主なということは、少数派も含めれば、もっとあるってことかも知れない。

16のDNAパターンは、以下の通りです。

A、B4、B5、C、D4、D5、F、G、M7a、M7b、M7c、M8a、M10、N9a、N9b、Z

Dグループは、Fグループとともに東南アジアとのつながりも大きいのです。

 つまり、タイの辺りも日本人の先祖と関わりがありそうね。

久米村(クニンダ)が、琉球空手と南派少林拳とムエタイをつなぐ鍵を握っているのかも。

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相撲は日本を守る結界?

古代の都は、東西南北を意識して作られました。

 東西南北といえば、相撲もそうですね。

力士は東西に分かれて、北を正面、南を向こう正面と呼んでいる土俵で戦いますね。

 北と南を結ぶ線で、東西を対照的に配するところも、相撲と都、とりわけ平安京は似ていますよ。

 そういえば、力士を相撲取りとも言いますよ。

 競技者に「取り」を付けるのは、相撲だけ。

 「取り(tori)」は、「鳥(tori)」に音が通じますよね。

モンゴル相撲では勝者が、鳥の羽ばたきを真似するでしょ。

その鳥の真似にも、何か関連しそうですね。

 でしょ。

相撲で、三役の土俵入りも、横綱の土俵入りも、南から北を望む形で行いますね。

都で北と南を結ぶ道を、朱雀大路と呼んだことと関係がありそうというのですね。

 南から北を望むから、朱雀大路でしょ。

 南は、鳥である朱雀が配されるでしょ。

 土俵入りが南から北を望むから、力士は、「鳥(tori)」すなわち「取り(tori)」だったりして。

つまり、土俵は都の雛形としてみなされている可能性はないかと。

 ありえるでしょ。

そうですね。

四股を踏む所作は、禹歩(uho)という陰陽師が怨霊除けに用いた歩き方が元だそうです。

 都の雛形である土俵に、怨霊除けの呪術をしたのでしょうか。

 そういえば、塩も清めでしょ。

 土俵の清めは、都全体の清めだったりして。

力士は、東西に分かれて争いますよね。
 
 相撲(sumou)は、角力(sumou)とも記しますよね。

歌舞伎では、「角力」と書くことの方が多いという声もありますね。

 相撲(sumou)と、角力(sumou)のどちらも、むりやり当ててる気がしますよ。

 とくに、角力(sumou)の角(tuno)は鬼(oni)をさしませんか。

鬼(oni)は、陰(on)がなまったとされますよね。

陰(on)の力(chikara)の意味で、鬼(oni)の力(chikara)である角力(sumou)としたら呪術そのものですね。

相撲(sumou)は、相手を撲る(naguru)わけでしょ。

 直接には相手の力士に見えるけど、撲る相手は怨霊だったりしませんか。

 鬼(oni)の力(chikara)なら、怨霊だって撲れるかもしれない。

それも、面白い解釈ですね。

 「sumou」は「住もう」に、音が通じますね。

 都に「住もう」のは、天皇でしょ。

天皇が住まわれる都を、まるごと怨霊から守る呪術が相撲なのでしょうかね。

 ところで、日本という国名も何か、意味ありげですねえ。

「日いづる処」で、「日ノ本」だから「日本」と思われがちですよね。

 違うの?

それだけでは、ないとみますよ。

日(hi)は、太陽神でもありますよ。

「日ノ本」とは、「太陽神の御膝元」という意味も込められているのかもしれません。

 天皇は、地上における太陽神の代理でしょ。

 「太陽神の御膝元」は、「天皇の御膝元」でもありますね。

天皇は、日本の所有者という位置づけなのでしょうね。

 日本の所有者である天皇の住まう都が無事であれば、日本も無事であるという呪術が相撲なのかなあ。

そうかも。

 ところで、平安京って名前はヘブル語でエルサレムってことでしょ。

 天使との相撲にヤコブが勝って、イスラエルの名をさずかる。

 ヤコブのおじいさんはウルを出立したアブラハムだけど、ウルはスメルの都でしたよね。

 スメルは、シュメールとも発音される。

 アブラハムの子には、イシュマエルもいるでしょ。

 「sumeru」、「shumeeru」、「ishumaeru」、「isuraeru」、こう並べると全部「sumeru」の転化に見えてきます。

そう解釈すると、ヤコブの授かったイスラエルの名前とは、アブラハムの出立したスメルのことになりますよ。

 「sumou」と「sumeru」、音が似てます。

相撲の語源が「sumeru」なら、天皇をさす「sumeramikoto」も「sumeru」の「mikoto」になりますよ。

というより、相撲はイスラエルを守る呪術になっちゃいませんか。

 日本は、ヤコブの名前に守られた極東イスラエル…。

 相撲にそんな関連があったなんて!
 驚きです!

相撲の起源自体、メソポタミア説がありますよね。

 天皇は、ヤコブの後継者なのでしょうかねえ。

相撲は、謎の多い競技ですね。

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相撲をすかすと、どこが見える?

財団法人日本相撲協会は、文部科学省所管の特例財団法人です。
大相撲の興行、相撲競技の指導や普及、相撲に関する伝統文化の保持のために1925年に設立されました。

寄附行為第3条(目的)では、このように定められています。
「この法人は、わが国固有の国技である相撲道を研究し、相撲の技術を練磨し、その指導普及を図るとともに、これに必要な施設を経営し、もって相撲道の維持発展と国民 の心身の向上に寄与することを目的とする。」

 寄附行為とは、財団法人日本相撲協会寄附行為ですね。

 財団法人日本相撲協会の、綱領や規約にあたる文章でしょ。

さらに、相撲は神事として伝えられてきた歴史も持っています。
さまざまな所作にも、宗教的な意味を持たされてきたのです。

塩を撒くのは、清めです。

 塩が清めであると一目でわかるのは、外国人ではユダヤ人くらいだそうですねえ。

 塩で清めるのは、ユダヤ教と神道の共通する習慣だそうですね。

四股を踏む所作も、怨霊対策の儀礼と言う意味づけがあります。
四股は、陰陽師が行ってきた怨霊除けの所作である禹歩(うほ)が、起源と言います。

手刀も元々、相手に掌を開いてみせることで、自分が武器を持っていないと表しつつ、自分が通ろうとしている道をも示すと言う意味を持っていたとされます。
腰を低めにすることや言葉を言い添えるのも、謙虚さの体現とみられています。
手刀を、結界を切ることで清めをする所作とみることも、祇園祭などから可能かもしれません。

 手刀を、懸賞金を差し出された力士は右手で切りますね。

左、右、真ん中の順番です。

 キリスト教の十字切りは、真ん中、左、右の順でしょ。
 正教会は、真ん中、右、左の順でちょっと違う。

 手刀はちょっと見た目は違うけど、十字切りに似てますねえ。

 順序だって、多少違ったって許容範囲では?

相撲の手刀には勝利の神様に御礼をするという意味があります。

御礼をする神々とは、次の三神です。

左は、神産巣日神(かみむすびのかみ)。
右は、高御産巣日神(たかむすびのかみ)。
真ん中は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。

 キリスト教は、御父、御子、聖霊の三神でしょ。

 三神に勝利を祈ったり感謝したりするのは、共通ですねえ。

 しかも十字切りのような所作まである。

三役揃い踏みも、興味深いですね。

 大相撲における番付上の三役とは、大関・関脇・小結のことをいいますね。

横綱は、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったのです。

横綱は、当初は大関の中で横綱を付けられる者のことを呼んでいたのです。
このことから、横綱になることを「綱を張る」と表現します。

今では、横綱は免許を受けたものがなります。

番付では、大関が最高位です。
現在なら当然横綱に値するような成績を残しながら、横綱免許を受けなかった強豪大関も少なくありません。

 横綱空位もありえるのは、今でも横綱は名誉称号であって地位ではないからと見ることもできますね。

できるでしょうね。

三役揃い踏みは、これより三役、すなわち最後の3番の前に行われる儀式です。

これより三役とは、あくまで最後の3番の取組に出る力士を指すため、横綱も含まれます。

上位陣の人数や取組編成によっては、大関・関脇・小結でも三役揃い踏みに出られない場合があります。
その一方で、平幕力士でも三役揃い踏みに出ることもあります。

休場者が出て不戦勝が生じる場合には、取組の順番を変更して必ず各3人を揃えて三役揃い踏みができるようにします。

 三役揃い踏みでは、東方力士、西方力士、ともに正面とされる北を向いて四股を踏むのですよね。

東方は前に2人、後ろに1人。
西方は前に1人、後ろに2人。

ちょうど東西で、扇の形が逆になるように取り決められているのです。

 扇は奥義に通じますね。

陰陽では、北は天に配されます。

天に向かって、陽に配される東には陰に配される下向きの三角、陰に配される西には陽に配される上向きの三角、とも見えますよね。

四方に配される四神を表す四色の房とともに、陰陽を表すのでしょうね。

 三役もまた、三神を表すとも見えますね。

そうでしょうね。

 三役揃い踏みの形には、イスラエルのシンボルである六芒星だと言う声もあるようですね。

 清めの塩などと合わせ、日ユ同祖論の論拠にあげる人もいるでしょ。

 ヤコブが神の使いとの相撲に勝って、イスラエルの名を与えられた。

 その六芒星が、国技の行われる土俵に現れるのですよ。

しかも、屋根と俵による蛇の目と土俵は、ピラミッドアイを連想できると言うのでしょ。

 さらにいえば、地に配される南と天に配される北が形作る線と東西の力士の線が交わる、といえませんか。

 俵による蛇の目の丸の中に、十字が切られる形でしょ。

 手刀だって、十字切りにも見える。

 丸と十字を合わせれば、古代エジプトのアンク十字ですよ。

それをいったら、蛇の目と徳俵でケルト十字のほうがもっともらしいでしょ。

日本にはブリテン風の顔がいると、幕末に紹介されています。
ストーンサークルだって、ありますよ。

緑茶と紅茶、武士道と騎士道、妖怪と妖精、などの面白い文化の類似も見えます。

 そういえば、緑茶も紅茶もお茶菓子があるでしょ。
 あれ、おいしいですねえ。

そっちが気になりますか。

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日本の拳法の起源を検討すると?

日本における拳法の代表的なものには、少林寺拳法と日本拳法があります。
スポーツ化した一面も持つと言われており、いずれもテレビで技を見せるなどの活動もあります。

少林寺拳法は仏教系新興宗教を背景として幅広い層に普及し、日本拳法は大学拳法部を中心にいくつかの団体に分かれて広がって来たと言います。
少林寺拳法と日本拳法ともに、日本の武術を元に作り上げられた武道・格闘技であり、日本古来の武術の特徴をよく表現しているともされます。

 少林寺拳法は、宗(中野)道臣(みちおみ・後のどうしん)が香川を拠点にしたのでしょ。
 日本拳法は、澤山宗海(さわやまむねおみ・本名 澤山勝)が大阪から全国に広めた。

 少林寺拳法と日本拳法は、全く別の拳法と聞いています。

ええ、同じ日本の拳法でも成り立ちが違うのです。

「拳法(けんぽう)」は、柔術の一部であったので「やわら」と言う読み方もあります。

 一方で、日本の柔術には中国風の異称である拳法を名乗る流派もあるのでしょ。

 12世紀以降の武家社会の中で、武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立したのでしょ。

 武芸十八般に柔術は含まれると、全柔連教育普及委員長、講道館資料館部長はコメントしていますね。

ええ、柔道が韓国起源であると言う主張への反論です。

 柔術は、柔道の起源でもあるけど、拳法の起源でもありますからね。
 つまり、日本の拳法は韓国起源とする主張への実質的な反論でもありますね。

そう思っても、良いでしょうね。

 でも、日本拳法には中国の影響もあるでしょ。

ええ、沖縄の空手などまさにそうと言われています。

琉球王国時代に沖縄で発祥した空手道(からてどう)は、単に空手(からて)とも言われます。

 空手について書かれた琉球王国時代の文献は、確認されているわけではないでしょ。
 主に、明治時代の空手の古老たちが伝え聞いた話でしょ。

ええ。

武道、格闘技としての空手道(からてどう)は、拳足による打撃技を特徴とします。

大正時代にまず沖縄県から他の道府県に伝えられ、さらに第二次大戦後は世界各地に広まったのです。

 もし仮に沖縄空手まで、韓国起源と言い出すと中国拳術まで論争に巻き込む事になりませんか。

なるでしょうね。
でも、沖縄空手と韓国の接点はおろか、中国の影響で生まれたと言う説も怪しいと言う声もあるようです。

中国起源説としては、久米三十六姓導入説があります。
1392年、那覇の久米村(クニンダ)に、当時の明の福建省から「ビン人三十六姓」と呼ばれる職能集団が移住があったと言うのです。

 「ビン人三十六姓」と呼ばれる職能集団は、琉球に先進的な学芸、技能等を齎したと言いますね。

彼らが、空手の起源となる中国拳法も齎したと見ています。

 韓国の韓の字もないですね。

その上、今日では14世紀の中国は、拳法が未発達だったことが知られているそうです。

 沖縄の空手は大陸起源そのものが、疑問ねえ。

ただし、1368年から1644年まで続いた明代には中国南部の福建省にあった南少林寺(福建少林寺)を起源とする、南派少林拳と呼ばれる武術の存在が確認されつつあります。

 じゃあ、久米三十六姓導入説に優位に働く展開になりそうね。

 でも、久米村(クニンダ)って、音は違っても久米(クメ)との関連はどうなのかなあ。

気になりますね。

「田舎の舞方」から発展したと、言う説もあります。
沖縄方言で舞方(メーカタ)は踊りの意味で、田舎の武術的要素をもった琉球舞踊から沖縄空手が生まれたと見ていますね。
踊りの振りから沖縄固有の武術「手(ティー)」が生まれ、空手へと発展したと見ます。

 沖縄相撲であるシマからの発展説も、ありますよね。

沖縄相撲であるシマが、舞方(メーカタ)の振り付けと沖縄空手の双方の起源かも知れないですね。

 本土から柔術が伝来した説も、あるけど。

武芸十八般が12世紀以降と言うから、それも可能性は捨て切れないですけどね。

 そうそう、少林寺拳法は中国の少林拳法と関係ありそうだけど。

嵩山少林寺の少林拳と混同されがちだが、まったく別の技法体系をもつと言いますね。
護身術を中心とした技術体系を持ち、「自己確立」と「自他共楽」、「強さを競わない」などの理念を掲げています。

 少林拳はもちろん中国武術の流れを汲むし、少林寺拳法も少林梅花拳の一派である義和拳に学んだと言う解説も見ました。

確かに宗同臣は、各種の中国拳法を戦前から戦中にかけて中国で特務機関の活動をしている際に学んでいるそうです。
しかし、幼少のころ学んだ日本の柔術を加味し創始したと言います。

柔道との結びつきは、日本拳法の方が強いです。
柔道家であった澤山宗海が、柔道形に当身技があるのに練習されていないので、空手道などを参考にして当身技の練習用に創始したのです。
大日本拳法として創始したが、戦後に日本拳法と改称したです。
その後も、空手などと影響しあいながら技術体系が整えられていったのです。

特徴は、独自の防具を用い実際に加撃することです。

 そして、柔道は韓国が主張するより前から日本にある。
 日本の拳法も、中国の影響は認められるけど、韓国との関係は見えてこない。

拳法とは、現代では、打つ、突く、捻る、蹴るなどの当身技(あてみわざ)による徒手武術を意味します。

当身技(あてみわざ)は、当身(あてみ)とも呼ばれます。
当て身、中身(あてみ)とも書きます。
日本古来から伝承される、古武術や武道で急所を「突く・殴る・打つ・蹴る・当てる」などの技術の総称です。

流派によっては砕き(くだき)、活殺術とも言い、時代劇などで、腹部を打って気絶させる技も当身の一つです。

 それらの流派が、特に当身技が多いわけではないでしょ。
 当身技の多い少ないは名称と、関係ない場合が多い。

 日本の徒手武術は、古代からあった相撲の技を取り入れて成立したと見る方が自然では。

ええ、拳法と相撲と言うと意外かも知れないけど、突きや足技など案外と拳法と共通する技は多いですよ。

 そう言えば、「相撲(すもう)」は「相撲る(あいなぐる)」とも読めますね。

と言うより、知らないと「すもう」とは読めないのはないでしょうか。

 ええ。
 知ってるから、読めると言えば、そうですね。
 
 ところで、「相撲(すもう)」の語源は、「すめる」だったりしませんか。

確かに、イスラエルの祖になるアブラハムはスメルの都ウルを出立してます。

 そして相撲の起源が、メソポタミアと言われますね。

 ヤコブの相撲の場所も、スメルの領土だったのでしょうかね。
 
可能性は、あるかも。

 沖縄相撲の呼び名である「シマ」も、「スメル」と「スモウ」を結び付けているようにも思えます。

古代日本の丸唇的発声法であった事を見れば、言って良いかも知れないですね。

 「拳法」と称するものは、現代世界に普及しているようね。

一般には、アジア起源のものが多くを占めると思われていますよ。

 やっぱり、ヤコブの相撲に遡るのかなあ。

どうでしょ。

 空手は、琉球からなのかぁ。
 勉強になります。

相撲は、拳法や柔道を生んだ柔術の起源ではないかと言う、どうもそんな気がするのですよ。

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柔道の起源を考える。

「柔道(じゅうどう)」は、正式名称を「日本伝講道館柔道」と言います。
講道館の名は、柔道創始者である嘉納治五郎が東京下谷の永昌寺に創設した講道館にちなみます。
柔道は、格闘技、スポーツ、武術にも分類されます。

基本理念は、「精力善用」「自他共栄」、真髄は、「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」とされます。
道の一言に示されるように、精神鍛錬を目的とし、単なる勝利至上主義ではないです。

柔道そのものは、明治15年(1882年)に嘉納治五郎によって創始された意外と最近成立した武道です。
しかし、起源をさかのぼると、正式名称に「日本伝」と称するくらいでかなり古いです。

柔道の元となった、「柔術(じゅうじゅつ)」は、徒手武術全般を指します。
柔術は、日本古来の徒手武術です。

一方韓国は、柔道をYudoの名で海外で普及活動を行っています。
Yudoは、「ユド」と発音し、柔道の朝鮮語音です。

 韓国は、秀吉の朝鮮出兵後が日本の柔術の始めと言ってるようですが。

全米ユド協会(United States Yudo Association)はその公式ホームページにおいて、柔道の起源を朝鮮半島にあるとし、「豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本に伝わりその後朝鮮半島では柔道は廃れ、20世紀になって日本から再輸入された」と主張しています。

 秀吉の一回目の朝鮮出兵は、日本の文禄元年、明や朝鮮の万暦20年、つまり1592年の3月12日でしたよね。

 ちなみに二回目は、日本は慶長2年、明や朝鮮は万暦26年、西暦でいえば1597年の2月。

12世紀以降の武家社会の中で、武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立します。

武芸十八般に柔術は含まれるとして、柔道韓国起源説に対して全柔連教育普及委員長、講道館資料館部長は否定コメントを出しています。

 朝鮮出兵よりも、前ですね。

 全く何もないところから、柔術が始まったとは考えられませんが。

ええ、そうですね。

 日本の徒手武術は、古代からあった相撲の技を取り入れて成立したと見る方が自然では。

 でも、相撲にも韓国は自国が起源と言ってますねえ。

相撲の起源は、メソポタミアと言う説もありますよ。

 そう言えば、相撲にそっくりな出土品が見つかっていますね。

日ユ同祖論は、相撲を国技とする事を論拠の一つに挙げています。

 韓国人はメソポタミアから来たと証拠を示すか、メソポタミア以前に相撲の朝鮮から出た証拠を示さないといけませんね。

1690年に来日したドイツ人エンゲルベルト・ケンペルは著書「日本誌」で、日本神話の高天原はバビロニアにあったと主張したと言います。
日本スメル起源説も含め一連の日本中東起源説は、ここに始まると言って良いでしょう。

日ユ同祖論を言い出したスコットランド人ノーマン・マクラウドは、韓国にも相撲があるならユダヤ人が伝えたのだと主張するでしょうね。

 日本も韓国も、メソポタミアに遡るとノーマン・マクラウドなら言うだろうと。
 
そうかも知れないですね。

 ノーマン・マクラウドは、韓ユ同祖論も出してますもの。

飛鳥昭雄と三神たけるは、日本人と現在の韓国・朝鮮人は別の起源と言ってるようですけどね。

 同時代の半島にあった国、百済、新羅、高句麗はいずれも日本に亡命してますね。

日本に亡命者がいるという点では、そうですね。
細かい点では、いろいろ説があるので深入りしませんけど。

戦国時代後、江戸時代なると武術の一つとして柔術が発展しました。
幕末までには、百を越える流派が生まれていたとされます。

戦国時代の合戦用に工夫された、「甲冑武術(鎧組討ち)」と江戸時代になってから発展した「素肌武術」に大別されます。
相手を負傷させずに捕らえることを重視する流儀の多さは、他国の武術に類を見ない大きな特徴です。

その異称は数多いです。
柔・和・和術(やわら)・拳法・腰廻・小具足術・活殺術・体術・胎術(たいじゅつ)・座術・挫術・坐術・体座術・体挫術・体坐術・白打・組討・組打・組討術・組打術(くみうち)・鎧組討術・鎧組打術・取捨術・捕手・捕縛、などがあります。

柔術から生みだされた武道として、柔道・合気道などがあります。

柔術は、広く研究され流派が多数存在しました。

 柔術は、古くは、12世紀に遡れると見て良いと。

 12世紀と言えば、平安末期から鎌倉初期にあたりますね。

武家社会の中で、武芸十八般と言われる武士の武術の一つとして江戸時代の柔術である素肌武術が発展しました。
素肌武術としての柔術には、幕末までに、百を越える流派が生まれていたとされます。

嘉納治五郎は柔道を、百を越える流派の中から起倒流・天神真楊流などを元に創始しました。
柔術の技法から、当身技や武器術も含む技法を網羅した武道を目指したものが柔道でありました。

嘉納治五郎は、当身技、固技、絞め技を中心とする天神真楊流柔術、投げ技を中心とする起倒流柔術の技を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化しました。
「崩し」とは、対戦相手のバランスを崩すことです。
そして、修身法、練体法、勝負法として今までの修行面に加えて人間教育の手段として柔道と名付けました。

しかし、乱取りが競技化したことにより、組み付いた状態での投げ技と寝技に専門化したものとなります。
それで、前期柔道として現代柔道と区別する者もいます。
 
さあ、あなたは柔道の起源をどう見ますか。

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相撲

相撲は、神前奉納された呪術的祭礼です。

土俵は、屋根と併せて神社の社殿を構成します。

飛鳥昭雄と三神たけるは、土俵と屋根と勝負俵を合わせてピラミッドアイをなすという説を展開してます。

 三角屋根と四角い土俵の間から、“蛇の目”と呼ばれる勝負俵が覗く構図ですね。
 確かに、ピラミッドアイに見えなくもないけどね。
 いかにも、あの二人が言い出しそうなことですね。

“蛇の目”と呼ばれる土俵の勝負俵ですが、回しも蛇の目ですよ。
陰陽で民俗を研究した吉野裕子氏の指摘によれば、蛇は祖霊とされるのです。
 
 相撲とは、祖霊の目の中で行われる呪術なのですか。

祖霊である蛇神の象徴が、神前に奉納されている事になりますね。

 蛇神は、神のシンボルでしょ。
 神と蛇って言えば、出エジプトでモーゼが掲げた杖に絡まる青銅の蛇は十字架のイエスの予形、つまり予言した形って言う話もありますね。

蛇と神なら、ミトラス神にはしばしば蛇が絡んだ青年の姿で表されることがあるし、弁才天だって蛇を伴っている場合が多いですよ。

「四房(しぶさ)」は、吊り屋根の四隅を飾る四色の房のことで、それぞれの色が四季と天の四神獣を表わし五穀豊穰を祈念しているともいわれてます。
◯正面東側(東北)青房 ◯向正面東側(東南)赤房 ◯向正面西側(西南)白房 ◯正面西側(西北)黒房

 四房が下げられる前は、四本柱といって土俵の四隅に柱が立ち、その上に屋根が置かれていたのでしょ。
 ○青柱○赤柱◯白柱◯黒柱と呼ばれた柱には、四色の布がそれぞれ巻いてあったけど、その色の意味は四房と同じよね。

 吊り屋根は、昭和27年、つまり1952年9月の場所からね。
 取り組みが、周りからよく見えるようにって…。

天の四神獣は、奈良県明日香村で発掘された飛鳥時代の高松塚古墳の壁画にも描かれてますが、土俵を守る意味で四隅に祀られてます。
○東方の守護神 青龍神(青い龍) 春○南方の守護神 朱雀神(赤い鳥) 夏○西方の守護神 白虎神(白い虎)秋 ○北方の守護神 玄武神(黒い亀)冬

見ていただくとわかるけど、陰陽五行が下敷きにされてます。
○五行 木 火 土 金 水 ○五色 青 赤 黄 白 黒 ○五方 東 南 中央 西 北 ○五時 春 夏 土用 秋 冬

 土気だけが、見えないようですけど。

土俵が、土気です。
土気は滅びと生成を司り、西=陰=滅び、東=陽=生成に対応します。
さらに、吉野氏は、人は土気に当たると指摘してます。

 さらに日本人力士は、肌の色からも中央の黄を表すのかもしれませんね。

人々はここに、種まきと実りを重ね合わせ五穀豊穰を祈念したのでしょうか。

 司る神は豊受大神であったのでしょうか。

天照大神が太陽なら、豊受大神は月であるのかも。

月は食糧生産に関わる神だったです。

土俵は、北を正面とします。
 
 天の中心として北極星太一であり、陰陽合一の太極でもある太陽に表を向けマナを献げる豊受大神を指すのかな。

太陽神であるオス猫の光を反射した目で太陽神お隠れの時代を見つめる月神のメス猫の目でもあるのかも。
 
 そしてこのメス猫が、女神アマテラスに対応するのでしょうか。

どうでしょうね。

土俵は北が正面、天とともに水を表します。

 脱線しちゃうけど、水と天っていえば、水天宮(すいてんぐう)ってありますよね。

水天宮は、日本全国にあるのです。
久留米水天宮っていうのが、福岡県久留米市にあって総本社ですね。

「水天」は、もともとは古代のイラン・インドのヴァルナという最高神。
バラモン教の聖典「ヴェーダ」の神話にも登場し、ゾロアスター教ではこの神をアフラマズダとして称えます。

「水天」は、仏教の神のうち天部に属し、神仏習合時代には「水」の字つながりで「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していたのです。
神仏分離以後は、ヴァルナ神は記紀神話でいえば天御中主神にあたると解釈されたのです。

ミクマリノカミは、本来は子供とは関係なかったようです。
「みくまり」の発音が「みこもり」(御子守り)に通じるというので、「子育て」の神、子供の守り神として信仰されるようになったようですね。

天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮であった建礼門院と平徳子、二位の尼であった平時子を祀るが、これとは異なる祭神の水天宮もあるようです。

そろそろ、話戻しましょうか。

 ええ、そうね。
 ところで、水は、禊の水でありましょうか。

向う正面は南で、火を表します。

 来るべき聖霊による清めを示唆するのでしょうか。

聖書にこだわますね。

 ノアの洪水の清めの次は、神とサタンのハルマゲドンで火の清めになるのかってね。

江戸時代の土俵の直径は、13尺つまり3メートル94センチだったです。
昭和6年、西暦の1931年4月29日の天覧相撲から、現在の15尺、センチで言えば4メートル55センチとなったです。

 十三は、十二使徒とイエスを表したのでしょうか。

確かに十一なら観音って思うけど、十三じゃそういう連想になるでしょうか。
  
 あ、そうか。
 普通は、十三って言えば金曜日か…。

 でも、それじゃ雰囲気合わないでしょ。
 
 十五に変えたのは、九星(きゅうせい)図を暗示するためでしょうか。

九星は、古代中国から伝わる民間信仰で、一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫の9つですね。

 一から九までを縦横斜め、どう足しても十五になるように配した魔法陣が基本ですよ。

「九星」は、一から九に白・黒・碧・緑・黄・赤・紫の7色と木・火・土・金・水の五行、十干・十二支、易の八卦を配当し、この数字が順次場所を変えた場合を考え、それに解釈を加えたものです。

陰陽がらみという点からは、今の十五尺の方があってるかも。

あげ俵は四隅を欠く四角、勝負俵は東西南北に徳俵のある円ですよね。

 あげ俵と勝負俵を四角と丸とみなすと、日の丸に見えますね。
 あげ俵を八角、勝負俵を丸と十字を合わした形と見たらどうでしょう。

八は“や”で、ヤハウエとヤソともいわれるイエス、丸と十字はアンク十字であると共にこれだけでコンパスと定規を表し、日の丸とでしょうか。
  
 それも、面白いでしょ。

想像するだけなら、どうとでも言えますけどねえ。
どうなのでしょうか。

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