心と体

独裁者は無意識の行動が呼び寄せる。

マタイによる福音書7章7節には、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」とあるが、これはある意味恐ろしい聖句でもあるのです。

なぜから聖書には、神は求める前から何を求めているかご存知だともあるからです。(マタイによる福音書 6章 8節)

つまりたとえ声に出していなくても、無意識のうちにこれを求めていると神に思われてしまえば神はそれを渡してくるという事でもあるのです。

最悪の場合、結果として独裁者を求めている事になる行動を続けていれば、独裁者が現実にやってきてしまうのです。

民主主義は本気で守らないと、簡単に失われてしまうのです。

誰かがやってくれるだろうではなく、私が守らないと民主主義は永遠に失われるくらいの危機感を持って、みんなが民主主義を守らないと、独裁者は明日にでもやって来るのです。

あなたの味方ですと言う顔をしてやってくるが、丸投げしてしまえば独り善がりで行動をはじめしまい、ついには独裁者になるのです。 

民主主義や、命や、暮らしや、平和など、今すでに行動を起こしている人に向かって「頑張ってください」と声をかける人は多いです。

けれども「頑張りましょう」と連帯の声をかける人は、いくらもいないのです。

行動の仕方は、人の数だけあるのです。

思うだけ、忘れないだけでも、行動なのです。

覚えていて欲しいのです。

行動と言うと、体を動かして何かをする事と人はとかく思いがちです。

体が動けば行動ではない、それは作業です。

行動とは、心が動くことなのです。

例え寝たきりでも、何かを思い、何かを考えていれば、それは立派に行動なのです。

作業は心の行動を形にする手段だが、手段でしかないのです。

機械でも出来るからなのです。

なぜ人は何か作業をしないと、行動と思わないのでしょうか。

心の中は見えないが、作業の結果は見えるからなのです。

だが作業は、いつでもできるわけでも、していいわけでもないのです。

それが可能な場があって、はじめて実行できるのだと、理解した方がいいのです。

大事なものはいつでも見えているとは、限らないのです。

行動の自由を保障するとは、心の自由を保障する事です。

人は思いとは違う作業をさせることはできるかもしれないが、心の自由まで奪う事はできないし、それは絶対してはいけないのです。

独裁者が許されないのは、意に沿わない作業をさせるからでもあるが、それ以上に心の自由を奪うからなのです。

忘れないでいたいものです。

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人はモノじゃない。

行動・行為・作業、違いは何でしょう。

行動は作業と言う行為を通じて、はじめて行動となるのですよ。

つまり心が動いた段階で行動であり、作業はそれを形にする行為に過ぎないのですね。

誰かに唯々諾々と随うだけなんて、行動じゃなくて作業なのですよ。

作業なら機械にでもできるのです。

心の動きを形にしてこそ、人間なのです。

非常事態だから誰かに従えなんて、バカも休み休み言って欲しいものです。

非常事態だからこそ、何が必要か、何が足りないか、伝えるべきなのですよ。

だから人は、心の動きを形にしてこそ行動だと思うようになったのです。

そこに気づいてくださいって、言いたいですね。

赤ちゃんだって、何かして欲しければ行動でそれを伝えるのですから。

黙ってろって、人はものですか。

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藪医者とはどのような呪術を用いた人達だったのか。

なぜ、少しの風邪でも大袈裟に騒ぐ医者を藪医者と呼ぶのでしょう。

実は「藪医者」は「野巫医者」とも書き、占い、呪術、まじないや悪霊祓いなどを職業とする霊能者の医者であったようです。

下手な医者を意味する言葉になってしまった藪医者だけど、その昔は人々から絶大な人気と信頼を勝ち取っていた呪術医であったはずです。

ちなみに藪医者をねこ医者と呼ぶ地域もあるようですが、「禰子(ねこ)医者」と本来は呼ばれていたのでしょう。

薬を扱っていたからか、「猫薬師」とか「猫の薬師」と呼ばれていた地域もあります。

禰子とは、神職の家系に属する人達をさす言葉です。

元々の意味が忘れられて「猫医者」と勘違いされることもあるようです。

呪術医(じゅじゅつい)は呪医(じゅい)とも言い、医療専従者のうち医療効果の根拠を超自然的なものに求めるもの、もしくは周囲の人間によって超自然的な根拠によって治療する能力があるとされる人々のことです。

民俗学や文化人類学では、シャーマニズムによるシャーマンドクター(shaman doctor)やウィッチドクター(witch doctor)とも呼ばれます。

彼らはなぜ呪術で治せるかと言えば、誰もが呪術医に絶大な信頼を寄せるからです。

ではどうして野巫医者は、ちょっとの風邪でも大袈裟に叫ぶと呼ばれるようになってしまったのでしょう。

呪術医は病名の診断にトランスや占いを行ったり、治療に際して治療儀礼を施すことがあるからです。

周囲から絶対的な信頼を寄せられているうちは、トランスや治療儀礼は当然なこととして受け入れられていたでしょう。

薬師と呼ばれていた人達も、薬は補助的な手段で治療の中心は呪術だったのかも知れません。

呪術による治療は、人々の信仰が前提となります。

イエスがよく口にしていた言葉があります。

「あなたの信仰があなたを救った」

呪術医しか頼れない時代、人々は信仰が強かろうが弱かろうが皆、禰子医者にお世話になったのでしょう。

だが仏教とともに、信仰の有無や程度を問わずに治してくれる生薬や漢方薬を用いる薬師が来ました。

苦しい時の神頼みや苦しい時のだけの神頼みの人が多いのは、今も昔も大して変わらなかったのでしょう。

いちいち信仰の有無や強さが問われる禰子医者や禰子薬師より、誰でも治してくれる仏師の医者や薬師の方に人々は流れて行ってしまいました。

貧乏でやむを得ない人がたいして信仰もないのにかかっても、禰子医者や禰子薬師の効き目は薄かった事でしょう。

やがて神域であった草深い所にいたこともあって別名として藪医者と呼ばれていた禰子医者や禰子薬師は、下手な医者の代名詞となってしまったのかもしれません。

西洋の魔女のように伝統的な薬の知識をもって治療していたなら今日でも残れたであろう禰子医者や禰子薬師は、不名誉な名前に転落した藪医者としてだけ人々の記憶に残っているのでしょう。

どのような呪術を用いていた集団だったのか、歴史研究に興味があるものとしては多いに興味があります。

アジア各地に残っている呪術医に近かったのでしょうか。

それとも他の地域の呪術医に近かったのでしょうか。

少しでも情報が欲しい所です。

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「死にたい」と聞いたならあなたならどうする?

「死にたい」とメッセージを発信しているうちは、まだ、誰かを信じているのです。

信じたいと思っているのかもしれないのです。

言わなくなったらかえって危ないという人がいるのです。

それは、「誰もわかってくれない」と言う絶望と諦めの結果の可能性があるからでしょう。

思いを気のすむまで聞くしかないのでしょう。

 

「死にたい」とは、「最後まで生きたい」と同じです。

それはある意味「疲れた」と言うのと似ているのです。

目的地に着くまで、課題を解決できるまで、頑張りたいけどしんどいと弱音を言う事で楽になりたいのです。

するべきは励ましではなく、寄り添いでしょう。

 

「死にたい」とは「死んだ方が楽だと思えるくらい心が疲れた」と言う事なのです。

だから、その心に寄り添い、心の疲れを共有しあって乗り越えられるまで共にあなたと歩いてあげるよと言葉と態度で伝えることが大事なのです。

するべきは心を休ませてあげることなのです。

肩を抱き寄り添って気のすむまで泣かせてあげることなのです。

 

このイエスの言葉が、参考になると思うのです。

 

マタイによる福音書 11

29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 

30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 

乗り越えた人はかえって心が強くなるかもしれないのです。

 

コリント人への第二の手紙 12 09

9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 

10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

 

少しでも、この境地に近づけるようになりたいものだと思うのです。

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バリアフリーやユニバーサルデザインを考えてみた。

バリアフリーとか、ユニバーサルデザイン、とか聞いたことがある人、皆さんの中にもいるでしょうね。

 

健常者も障碍者も使い勝手がいい事、それがバリアフリーとか、ユニバーサルデザインの目標であり、目的です。

 

私は出来るだけ「障碍者」の表記を使うつもりです。

 

「障害者」表記が、普通に生きたいだけなのに毎日の生活がまるで「障害物競走」と感じている人、と言う意味で使われているなら、それもありでしょう。


でも現実には、障害物扱いしているようで、あるいは、障害物扱いされているようで、違和感や不快感を覚える人たちもいます。

私もそう感じている一人です。

 

常用漢字表から「碍」の字が外されたために、「障害」の字があてられるようになって、様々な違和感を訴える人達がでたが、当然のながれでしょう。

「障碍者」表記を広めようとする動きがあるのは、嬉しいです。

 

障碍者は、自らの心や体に何らかの障害があるために環境に適応しにくくて困っている人ではなく、周囲の配慮が足りないために普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられている人と考えたらどうでしょうか。

 

障碍者に暮らしやすい環境は、実は誰にとっても暮らしやすい環境と言う事になるでしょう。

 

普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられていると感じている人がほとんどいない、それが当たり前な環境が、実はバリアフリーな環境なのではないでしょうか。

 

そう発想を転換したら、どうなるでしょう。

 

ホワイトな労働環境の職場とは、障碍者に対して働きやすい配慮のある職場、そうなると思いませんか。

 

障碍者であっても能力を最大限に発揮できる配慮のある職場は、健常者にとっても快適な労働環境の職場ではないでしょうか。

 

人手不足と言うなら、障碍者も働きやすい環境を作って彼らの能力を最大限引き出せるようにした方が良いでしょう。

他社に先駆けた方が、あなたの求める人材が集まりやすくなることでしょう。

 

障碍者とは、周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている人と見れば、乳母車の人も、もたつく高齢者も、ある意味障碍者となるでしょうね。

 

子育てや、介護や看病、これらが元で周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている立場になっている人は皆、障碍者的な状態に一時的にせよいると見たらどうでしょう。

 

つまり、障碍者とは特別な人達ではなく、人生のある段階では誰でもなり得る状態なのではないでしょうか。

 

そう考えると、バリアフリーは実は、自分たちのためになる、そう思いませんか。

 

ユニバーサルデザインは、みんなのためになるデザインのことなのです。

でも、無個性、没個性とは違います。

誰もが、使いやすい、使い勝手が良い、そう感じるように工夫する事なのです。

 

その場所や地域の特徴にあった、誰もが使いやすいバリアフリーな施設や設備、システムを考える事がユニバーサルデザインを考える事なのです。

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罪を憎んで人を憎まずが問われる時代。

渋谷のハロウィンが過激を通り越して、ほとんど暴動に近くなってきたことが問題となっています。

 

もちろん、ルールやマナーを守って、ハロウィンを楽しんでいる人達もたくさんいるし、おそらく、その人達の方が多数派でしょう。

 

余りにも暴走してしまった一部の人たちのために、圧倒的多数の参加者がとばっちりを受けてしまうとしたら、気の毒としか言いようがありません。

 

渋谷のハロウィンで傍若無人な行動を起こしていたような人達は、自分がやっていることが悪いとわかっていないと思うのです。

 

どういう事を、どういう場所や場面でやって良いのか悪いのか、まずその判断が出来るような再教育をしてからでないと、いくら罰しても時間と労力のむだでしょう。

 

刑は、とにかく罰すれば良いと言うのではなく、再教育に重点が移ってきたのではないかと思うのです。

 

近年、依存症や疾病など刑の前に治療が必要な場合があると理解が広まってきました。

 

そして現代、刑の前に再教育が必要な人達が増えてきていないでしょうか。

 

或いは、刑即ち再教育にするべきか、悩ましい事ではあります。

 

私が懸念するのは、犯罪に対する苛立ちから厳罰化を望む動きが強まる事です。

 

刑の目的が再犯防止であり、その手段として再教育の重要性と有効性が確かめられつつあるように思えます。

 

再教育と人道的な扱いと、厳罰を求める世間との意識の落差をどう縮めていくのかいけるのか、要注目でしょう。

 

刑が再教育の性格を強めれば強めるほど、社会復帰支援プログラムの充実も必要となります。

 

それには、地域住民の理解と協力が必要であるとともに、受刑者の再教育に取り組む施設と地域の取り組みへの社会全体の理解も不可欠でしょう。

 

罪を憎んで人を憎まず、この立場に私達がどれだけ立てるかも問われるでしょう。

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長時間労働を見直さないと子供たちの知能に悪影響があるかも。

この頃、子供たちのご飯離れが進んでいるといいます。
 
味がしないという理由が多いそうだが、噛む回数が半減していることが主な原因とされます。
 
だが、背景には家族団らんの時間が欧米の50%以上あるのに対し、日本は2割を切っていることがあると指摘されます
だとしたら、両親がご飯を味わってよく噛んでいる姿を見せるべきでしょう。
 
家族団らんの時間が少ない上に父親不在の食卓が当たり前となってないでしょうか。
それじゃ、てんてこ舞いな母親が、ご飯をよく噛んで美味しそうな顔で食べる姿を子供たちに見せることは絶望的に難しいのではないですか。
 
ご飯職を本気で守ろうと言うなら、今のうちに長時間労働を改めて父親も参加した家族団らんの食卓を復活させた方が良いでしょう。
ただし、食卓の支度や片付けを母親だけにしわ寄せするのではなく父親も参加した家族のイベントとして定着させる取り組みも必要でしょう。
今時の父親であれば、家族との触れ合いの時間として喜んで加わる人は多いかもしれません。
 
多少の手際の悪さを大目に見て回数を重ねれば、家族の一体感だって深めると思うのです。
 
よく噛むことは、知能の発達にも良い事はよく知られています。
 
子供たちの噛む回数の半減の背景に、父親不在な上に十分な時間が取れない個食化した食生活があるとしたら、日本の長時間労働は長い目で見れば子供たちの知能の発達にまで悪影響を及ぼす悪弊になっていると言う事ではないですか。
 
もっと危機感を持って欲しいのです。
 
日本で好まれているパンは、欧米に比べて柔らかすぎます。
ヨーロッパのパンは、フランスパンのようにもっと噛み応えのあるものが結構あるのです。
本場フランスのフランスパンは日本のものよりも歯ごたえがしっかりしているし、肉だってそうです。
 
噛む回数が減っていると言う事は、日本の知能の発達の危機でもあるはずです。
 
さらには、個食の増加を含めた家族団らんの時間の減少も、子供たちの知能に対する刺激を偏らせる事につながりかねない危険性をはらんでいるのです。
 
噛む回数の減少と重ねると、子供たちの知能に良いわけがないでしょう。
 
忙しいなんて言ってる場合じゃないですよ。
危機的状況になってからじゃ、遅いのです。
たかが食生活、されど食生活なのですから。
 
食べるという行為を、甘く見ちゃいけないです。
 
十分な睡眠と並んで、心と体づくりの基本中の基本なのです。

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性教育の目的を見失っていないでしょうか。

性教育はそもそも、何のためにするのか、皆さんは考えた事がありますか。
 
子供たちが望まないタイミングで親になることがないようにするため、この答えが返ってくる場合が多いかもしれませんね。
 
だったら、そのような状況をどうやったら上手に避けられるか、子供たちと一緒に考えた方が良いのではないでしょうか。
 
闘わずに勝つは、兵法の極意、それに似てるかもしれません。
 
今の性教育は、兵法学習で言えば、個々の場面での戦い方を学習しているのとどう違うのでしょうか。

そうなってしまった時、上手な対処の仕方はどうしたらいいのか、考えていることの方が多いからかもしれません。

 
それは、好きになった人とセックスして何が悪いのと言う問いに、上手に応えられていないからではないでしょうか。
 

どうでしょうか。

だから、寝た子を起こすなと言われてしまうのではないでしょうか。
 
その気はないといくら否定しても、その場しのぎの対処法しか考えていないと言われて、即座に反論できるでしょうか。
 
それは結局、愛の表現としてのセックスをどう考えるのかと言う事ではないでしょうか。
 
愛の表現の中で、セックスをどう位置付けるのか、誰にとっても悩ましい問いかも知れません。
 
でも、性教育の一番の目的は、望まないタイミングで親になって欲しくないことではないでしょうか。

それなのにその場しのぎ、それは人にとって考え方が違うからではないでしょうか。
まともにやったらいつまでたっても、平行線のままではないでしょうか。

 
兵法学習からみれば、実践に即した学習とどう違うのでしょうか。
 
性教育はここが理解できてないから、効果的な反論が出来ない、違いますか。
 
性教育はそもそも、人間性教育を当初の旗印として掲げていたのではなかったでしょうか。
 

それは、何のためだったでしょうか。
子供たちが望まないタイミングで親になる事が無いようになって欲しいという願いから、始まったのではなかったでしょうか。
迷ったら、出来るだけ早く原点に帰った方が良い。
違いますか。

 
そしてその原点は、兵法で言えば、戦わずして勝つ兵法の極意を身につけて欲しいと言うのとどこ違うでしょうか。
 
戦わずして勝つとは、どういう事かでしょうか。
 
まず考えられるのは、戦意喪失を狙う事でしょうね。

でもそれじゃ、この場合どうでしょうか
魅力のない人になれということと、どう違うのでしょうか。

 

闘わない方が双方の利益になる落としどころを、上手に相手に示すことではないでしょうか。

先手を打って示したら、どうでしょうか。
この場合、どういう事になるでしょうね。

 
望まないタイミングで親になるよりも、もっと良い事がある、早期が付いてもらう事ではないでしょうか。
 
先手を打って、上手に提示出来るようになることが必要な場合もあるでしょう。


相手が提示するように、巧みに誘導することが必要な場合もあるでしょう。

 
相手によって、どちらが良いかは決めた方が良いかも知れませんね。
 

素直な人なら、先手を打って示したら良いかも知れません。

プライドが高い人なら、相手が気が付いて提案したように仕向けたら良いかも知れません
 

それが基本だし、理想です。

でも、みんながみんなすぐにそうなれるわけじゃないですよね。

そこで、対処法も必要になる、そういう事ではないでしょうか。

そこがきちんとわかっていて欲しいのです。

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人間性教育としての性教育こそ必要ではないでしょうか。

娘はかわいいし、幸せ。なのに苦しい。 産後うつと強迫性障害に苦しんだ2年半の記録 https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/13/zange-nikki1_a_23526706/
「検索」が、子育て中の親を追い詰める。不安なママはどうすればいいのか https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/14/zange-nikki2_a_23526757/
この記事は保育園の園長のさり気ない一言、「この子、人見知りしないね」が気になってあれこれネットで調べたら「発達障害」「自閉症」という検索結果がたくさん出てきて、不安になってしまった自らの産後うつから抜け出るまでの記録を一冊にまとめた母親へのインタビュー記録です。
この子、人見知りしないね」、園長は褒め言葉のつもりだったかもしれません。
でもここは保育園、赤ちゃんを預かる施設です。
なかにはまったく人見知りをしない子もいますが、赤ちゃんにとっての人見知りは大切な発達段階のひとつとされるので、人見知りしないと成長が遅いのではと心配することもあるわけです。
人見知りしないのは、「ママやパパがいてくれる」「守ってもらえている」という安心感を人一倍感じやすいからかもしれないので、“発達が遅れている”と安易に判断しないことが必要です。
そういう子でも、ある日突然人見知りがはじまることはよくあることといいます。
でも、子育て真っ最中で、それもはじめての子供だった場合、みんながみんなそのような知識を持っているわけではないのです。
近くに相談や質問が気楽にできる親戚や親、友人知人がほとんどない状態の中で孤軍奮闘せざるを得ない母親が増えている今、ネットや本が数少ない貴重な情報元な人も多いわけです。
それだけに、保育園の園長や保育士はわが子の成長が順調に進んでいるのか常に気になる保護者の気持ちに寄り添った気配りが求められると言えるでしょう。
私は、「性教育はまず人間性教育でなくてはならない」と考えています。
それは、人が人として幸せでいられるには、愛や思いやりや細やかな気遣いが出来ることが大切と感じているからです。
性は何よりも子孫を残すためにあるのです。
子供が、なかなか出来ない人もいれば、すぐに出来て子だくさんな人もいますが、性が子孫を残すためにあることに変わりはないのです。
好きになったから、その場の雰囲気がよかったから、中には、酔った勢いで、などという人もいるでしょう。
でも、仮に子供が出来たらその子と幸せに暮らせるならともかく、そうでなければ、親子とも不幸ではないでしょうか。
愛と思いやりと細やかな気遣いの中で育ってきた人なら、言葉遣い一つにもさり気なく気配りが出来ることでしょう。
望まないタイミングでの妊娠や、不幸にして起こる性病感染も、お互いの幸せのために防ぎたいと細やかな心遣いが出来る人が増えるなら大幅に減らせることでしょう。
正しい性に関する知識や情報も必要でしょうが、何のために学ぶのか理解できていなければ適切に生かすことは難しいでしょう。
家庭や学校の学習の場で、親子や、先生と生徒、生徒間の話し合いを十分に時間をかけて愛と思いやりと細やかな気遣いとは何か、どのように考え、どのように行動した方が良いのか、大人の意見や価値観を押し付けるのではなく大人も子供も一緒になって考えてほしいのです。

自分で納得出来てこそ、身についてごく自然に言葉や行動に表せるからです。

教育の現場や家庭の中だけではなく、社会生活の中で成果が出る性教育が当たり前になって欲しいと心から願っています。

そうすれば、いじめやパワハラやセクハラ問題なども、自然と減っていくことでしょう。

日本では道徳教育というと、特定の価値観の押し付けにたいする警戒が先立ってなかなか普及してこなかったし、道徳教育の始まった今でもその懸念は消えていません。

そのような中で道徳教育を強行するくらいなら、性教育の時間や国語はもちろん、社会科や理科など様々な機会をとらえて、愛と思いやりと細やかな気遣いの大切さを子供たちと一緒に考えた方が良いのではないかと思います。

理科でというと、どうやってと思う人もいるでしょうが、子を守るための親たちの時として命がけな行動は本能だけで片付けられないものを感じられることでしょう。

また、一つ一つの命の大切さを具体的な知識として学ぶことが出来る機会でもあります。

そのような教育が当たり前になれば、不用意な言葉で人の心が傷つくようなことも減らせるのではないでしょうか。
 

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性教育は知識の前に伝えるべきことがあるはず。

性教育と言うと、何歳から何をどう教えたらいいか、悩む人は多いと思われます。 

 

軽はずみなセックスはして欲しくはないが、特定の宗派の教義や特定の思想で縛りたくないし、縛られたくない。 

そう考える人は少なくないのではないですか

 

だったら、子供たちにこう聞いたらいいのではないですか。

 

あなたたちはどんな親になりたいですか。 

それはなぜですか。 

そうなるには、どうしたらいいと思いますか。 

 

あなたたちはどんな親になりたくないですか。 

それはなぜですか。 

そうならないためには、どうしたらいいと思いますか。 

 

子供たちには、思っている通りに素直に話してもらい、大人の考えを押し付けることなく一緒に考えた方が良いでしょう。 

 

子供たちに体の性差について聞かれたらパニックにならないで、あなたのような可愛い子供に会うためにあると、言えば良いでしょう。 

あなたに会うために、お父さんに命の元をもらったのとか、お母さんに産んでもらったんだよ、とか言えば良いでしょう。 

 

違うでしょうか 

 

その後は、その子の理解力に応じて話せば良いでしょう。 

 

違うでしょうか 

 

あなたが子供たちと普段からどれだけ話しているか、お互いの理解を深める話し合いがどれだけ出来ているか、問われるのでないでしょうか

 

幸せな家庭、愛のある家庭、お互い思いやりのある家庭、そのためには、私は、私たちは、何を考えてどうしたらいいかを、普段から当たり前のように考えられる子供たちに育って欲しい。 

 

そう思う事に、宗派や思想は関係あるでしょうか。 

これに異論を唱える人は、どれだけいるでしょうか。 

性教育は、この想いをどうやって子供たちに伝わるかを基本に据えて創り上げていく方が良いのではないでしょうか。 

 

性教育の基本は、まず、大人たちから子供たちに、あなた方を愛している、あなた方を大切に思っている、その気持ちを伝える事からはじめるべきではないでしょうか。 

 

それには、普段から子供たちにその思いが伝えるように接していないとだめではないでしょうか。 

 

そうでなければ子供たちに、大人はずるいと思われて警戒されるだけではないでしょうか。 

 

何をどう教えたら良いか悩む前に、まず、心のボタンをかけなおした方が良いのではないでしょうか。 

 

話はそれからではないでしょうか。

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