日記・コラム・つぶやき

上に立とうとするならどうある方が良いでしょう。

やはり、上に立とうと言う人は、優しさでも、素直さでも、ぶれてないですよね。
凄いなって人ほど、素直だし、謙虚だし、優しいですよね。
人を馬鹿にしたり、見下したりすることはないですよ。
からかうくらいはご愛敬ですよね。
孤独だからこそ、安らぎが欲しいから、周囲を和ませたいんでしょうね。

でないと、疲れるでしょうから。

逆に言えば、優しさでも、素直さでも、ぶれる人は上に立っちゃ駄目だし立たせちゃ駄目となるでしょう。

間違えて立たせたら、本人も周囲も不幸ではないでしょうか。

人を馬鹿にしたり、見下したりすることと、からかうことの区別もつかない人は駄目でしょうね。

そういう人は、イエスマンや友人知人に囲まれないと、居心地が悪くなるでしょうね。

寂しい人ですよね。

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エジプトの音楽を想像してみました。

「古代エジプトの音楽」という本を読んでいます。

 

古代エジプトの様々な楽器は、残っています。

 

だが、これらの楽器によって奏でられた音楽については、どのようなものであったかを伝える資料はないといいます。

 

ならば、これらの楽器そのものを手掛かりにするしかないでしょう。

 

ハープ、シンバル、トランペット、リュート、リラ、などの他にも、タンバリンや太鼓などが用いられたことがわかっています。

 

音楽の場には、手拍子もあるし、ボディパーカッションを連想できる壁画もあります。

 

大勢の人が列をなして踊る姿も、描かれています。

 

古代エジプト特有の楽器として、シストルムもあります。

他にも、シンバルを鳴らす道具と組み合わせたクロタラのような楽器もありました。

 

これらの楽器や、手拍子、列をなして踊る人々、さらには、ボディパーカッションもあった可能性を考えると、少なくともどのような拍子をとるのが一番自然かが、見えてきます。

 

強弱の入れ子になってる、拍子です。 

前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるのです。 

強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1っていう感じでしょう。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですよ。 

  

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)


実はこれ、ロマ音楽の拍子の取り方なのです。

 

ロマには様々な呼び方があるが、それらを見ると彼らがエジプトから出た民族である可能性が見えてきます。

ロマは、音楽の他、実は金属加工の技能者集団でもあります。

一見すると、何も関係がなさそうです。

 

だが、もしロマが古代エジプトの演奏者集団にルーツを持つ人たちと見たらどうでしょう。

シンバルやシストルムのような、繊細な加工が必要な金属製楽器のメンテナンスを彼らは自らの手でしていたとしたらどうでしょう。

演奏者は、修繕や制作のような特別な技能者の手を借りる必要のあること以外、日常的な手入れを大抵は自らの手でしています。
シンバルやシストルムの最終的な仕上げは、演奏者自らの手でしていたかも知れません。
簡単な修繕くらいなら、自分でしたことでしょう。
そうであれば、金属の加工技術もあっても不自然ではないでしょう。
何らかの理由でエジプトの地を離れた演奏者集団が、ロマの起源かもしれません。
オリエンタルダンスとも呼ばれるベリーダンスの演奏に合わせて、ロマ音楽の拍子で手拍子をうってみました。
ターキッシュのような激しいアップテンポのベリーダンスもあるが、基本的にはロマ音楽の拍子で手拍子をうってついていくことは可能だし、次第にのめり込んで恍惚の世界にはまり込んでいけます。

あまり夢中になって、踊りださないようにしないといけないです。

何度ものめり込んで、踊りだしそうになったくらいどの曲にもぴったりとついていくことができます。

ロマが作り出した代表的な音楽のジャンルがフラメンコです。

もしかしたら、古代エジプトの音楽は、ベリーダンスやフラメンコに別れる以前の一種独特なテンポやメロディーで演奏されていたのかも知れません。

おそらくそのほとんどが、即興曲だったでしょうから、楽譜など残るはずもありません。

神々やファラオたちを喜ばせるための集団で延々と踊ることのできる即興曲、それが、古代エジプトの音楽だったのかもしれないです。

中には、女性の踊り手によるエロティックなものもあったことでしょう。
男性の踊り手も、あるいはいたかも知れません。

ベリーダンスの踊り手には、かつて男性も少なからずいた記録があるそうですから。

酒、食事、音楽、そして、恍惚に浸った人たちの踊りの群れ。

神々と人々が混然となった恍惚の空間の中で、時を経つのも忘れて音楽によいしれたそんな場面も王宮では、しばしばあったのかもしれません。

これはあくまでも、楽器たちが見せてくれた幻想の世界です。

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言わなくて済むものなら人を馬鹿と言わない方が良いかも。

マタイによる福音書 7章 1~2節
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
 
この聖句見るたびに、「馬鹿と言う方が馬鹿」と言う俗語を思い出すのです。
「こいつ馬鹿だな」と思ったら、「馬鹿」とは言わないでしょ。
だって、馬鹿を相手に言い合いしたってしょうがないでしょ。
しょうがないのに、「馬鹿」と口に出してしまうのが馬鹿だと思えるのです。
 
馬鹿な人たちとは、まともに論議はできないのですから。
馬鹿だと思ったら、もう相手にしない事が賢いってことなのかもしれません。
 
なるほどその通りですね。
 
つまり、人を見下し上から目線で馬鹿呼ばわりしながら絡んでくる人に対しては、無視して相手にしない方が賢い対応ってことかもしれません。
 
相手にするだけ、時間と労力の無駄でしょうね。
 
何言っても、自分の考えに凝り固まって見下して罵詈雑言返してくるだけなのは目に見えてますからね。
 
この手の人たちのようにならないために、聖書にはこれらの聖句があるのでしょうか。
 
ヤコブの手紙 4章 11節
兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。
 
ルカによる福音書 6章 37節
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
 
ルカによる福音書 6章 41~42節
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。

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とりとめのない話でしょうか。

ふと、思ったのです。
日本では、最後の締めを「とり」といいます。
最後とは、最高や頂点と言う意味も込められています。
そして、神輿の上には鳳凰と言う鳥がまさしく「とり」を務める構図です。
これが偶然なはずがないです。
神輿は移動神社であり、神社のとりは「鳥」が務めて「取り仕切る」構図であると言ってるようなものです。
日本は神仏混交だが、飛鳥時代はまさに過渡期だったはず。
飛鳥時代の仏像の裏のメッセージは、「日本の仏教は鳥が取り仕切る」であると言わんばかりに、見事なまでに鳥です。
外見に惑わされちゃダメというわけなのです。
飛鳥時代の仏像のシルエットは、まさに鳥そのものです。
私は気が付いた時、愕然としました。
もはや、飛鳥時代の仏像が全て、鳥にしか見えなくなったからなのです。
残念ながらほとんどの人が、飛鳥時代の仏像の裏モチーフの鳥であることに気が付いていないのです。
神職の衣の裾に房があるが、そのわけはほとんどの人が説明できないでしょう。
もしかしたら、神職の衣のモチーフは「鳥」かもしれません。
そして、神職の持つのは榊だが、仮に神職の真の姿が鳥なら、携えるべきはオリーブでしょう。
神社の裏モチーフは古代エジプトの太陽の船かも知れません。
だから鳥居があるのでしょう。

神社の裏モチーフは古代エジプトの太陽の船だとしても、神社には神輿があります。
神輿の正体がアークと言う指摘があります。
アークは方舟もさしますが、神職の真の姿がオリーブを携えた鳥だとしたら、神社の真の姿はアークとなってしまいます。
日本にはアークがあると、神社の姿は白状しまくりの構図と言う事なのです
日本には古代イスラエルの遺伝があることがわかっています。
その日本の神社の正体が、オリーブを携えた鳥が乗ったアークだとしたら、どうなるでしょう。
後は、聖書の預言を紐解いていくしかないでしょうね。
日本人こそ、聖書を読むべきなのです。
果たして、これは単なる白昼夢のようなものなのか、それとも真実なのでしょうか。
答えは、神様がご存知なのかもしれません。
 

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目覚めた市民が命を与えない民主主義は無力な偶像に堕落する。

本気でこの国の主人公として目覚めた市民がいったいどれだけいるのか、今、冗談抜きで問われているのではないでしょうか。

 

違いますか。

 

民主主義では市民が主人公、政党はそのための道具に過ぎない、そう思いませんか。

 

主人公は国民であり政党はそのための道具に過ぎないことを忘れてしまった政党は、使い物にならないからさっさと捨てようではありませんか。

 

市民が主人公、この自覚が私たちの側にあるのでしょうか。

今、私たち市民もまた問われているのでないでしょうか。

思い出して欲しいのです。

私たち市民こそこの国の主人公なのだ、私たちにその自覚と覚悟が、今、あるでしょうか。

 

市民が主人公、そう思っている人は、野党にドンドン思いをぶつけようではありませんか。

 

与党は国民こそが主人公であることを忘れ、高慢になっていないでしょうか。

 

突き付けようではありませんか。

「誰がこの国の主人公なのか」と言う、民主主義にとって最も基本的な、この問いかけを、です。

 

民主主義である以上、私たち市民が主人公なのです。

 

野党は国に市民の声を突き付けるための道具、市民はこの基本を忘れないことが何よりも大事です。

 

使い物にならない道具は市民から捨てられてしまうと、詰め寄ろうではありませんか。

「国民が主人公だ」この大原則を忘れた瞬間、民主主義は無力な偶像に堕落します。

民主主義に命を与えられるのは私たち市民であることを、忘れてはならないのです。

 

「野党は本気で政権取りたいのかという国民の批判や疑問に答える意思を具体的な行動で示して欲しい」そう思える時、実は腰砕けになっているのは、市民の方の覚悟なのです。

 

「共闘による政権交代でどういう政策や選挙共闘を実行するか協議している姿を、はっきりと示して欲しい」、野党に一番問われているのはこれだと市民の側が本気で思うなら、市民の側こそ、本気で思いを突き付けようではありませんか。

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「意を体する」と「忖度」の違いと関係を考えてみた。

 

「忖度」とかけて「包丁」と解きます。

 

その心は。

 

どちらも、用いる人は人に対する思いやりの心が求められます。

 

使いようによっては、人が死ぬことがわかってない人は、使わないで欲しいものです。

 

「忖度」それ自体は悪ではないのです。

 

むしろ、いちいち指示を受けて行動しなければいけない事態を避けるために組織にとって必要がある事柄でさえあるのです。

 

「忖度」を国政私物化や証拠隠滅に悪用した疑惑がもたれたことが、森加計問題の根幹ではないでしょうか。

 

私物化の結果、便宜が図られたばかりか、事実関係の隠蔽や改竄までもが、忖度の結果行われた疑惑が持たれているのです。

 

さらには、隠蔽や改竄をなかったことにするためなら、口封じのために自殺に追いやられた人さえもいるのではないかとの疑いさえも持たれてしまう始末なのではないでしょうか。

 

もちろん、こんな事はあってはならないし、あって欲しくないです。

 

ここで問題にされるべきは、安倍首相の国政私物化の意図がどれだけ「忖度」されているか、と言う事なのです。

 

だからこそ、徹底的に調べ上げ国政私物化の実態の真相究明する必要があるのです。

 

森友学園や加計学園に対する国政私物化による便宜供与疑惑の問題で安倍首相を庇う人が「忖度のどこが悪い」と言うのはある意味では正論でしょう。

 

忖度の悪用を、忖度自体が悪と勘違いして批判や攻撃をしてはいけないのです。

 

問題は忖度された中身であって、忖度自体ではないからです。

 

混同に注意したいものだと、自戒の気持ちを込めてこの問題を考え直してみたいと思い今回の議論となりました。

 

「意を体する」人の考えや気持ちを理解し、それに従うこと。

 

「忖度」他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。

 

つまり、「意を体する」とは相手の意図の範囲内に収まるように努めるが、「忖度」とは相手の意図の外に出る可能性がある言動を「意を体した」と解釈してすることとなるでしょう。

 

言い換えれば、指示の「意を体する」行為をしたつもりがおしはかって相手に配慮するあまりに指示の範囲を逸脱した場合、その行為を合法化する方便に使われる危険性があるのが「忖度」となるのかもしれないです。

 

つまり、「忖度」は結果オーライなので、それだけ信頼関係が重要となる行為と言えるでしょう。 

 

ここで誤解してはいけない事は、「忖度」自体は決して悪くないのです。

 

むしろ、組織が円滑に動くために必要でさえあるのです。

 

「忖度」とは、「意を体する」行為をより柔軟に臨機応変に行うことと思えば良いでしょう。

 

民主主義をちゃんとわかった人が上に立てば、「忖度」はとても気の利いた行為になるでしょう。

 

独裁者が「忖度」を悪用すると、責任転嫁とトカゲのしっぽ切りに晒されるリスクと隣り合わせの状態の中行動させられる悪夢となるでしょう。

 

それだけに、上に立つ者は忖度されるに値する言動になっているかどうか常日頃気をつける必要があるのです。

 

忖度を悪用してはならないのです。

 

それが上に立つものが心得ておくべきことではないでしょうか。

 

違うでしょうか。

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自己責任の言葉に怯む前に。

自己責任と思っていたものが実は、そうじゃなかったなんてこともあり得るのです。

障害の内容によっては、あなたのせいよりも環境に原因があることもあり得るのです。

どうしてそうなのか、一度冷静に振り返ってみることをお勧めしたいです。

少しでも、環境に原因がありそうなら、声を上げた方が良いでしょうね。

案外そのことで、心苦しく思っている人も周囲にいるかもしれないからです。

率直に悩みを打ち明けた方が良い場合もあるということです。

自己責任と言われても、怯まないことです。

「何でもかんでもひとのせいにするな、自分で解決できるものだってあるだろ」そう言われたと謙虚に反省するチャンスを与えてもらえたと思うことです。

何でもかんでも敵対するのではなく、相談にのってもらって味方してもらえるところはしてもらう方が良いかもしれません。

「自己責任」の言葉で怯んでいる人に、聞いて欲しいのです。

本当に全部が自己責任なのでしょうか。

少しでも環境に原因があるとわかった場合は、周囲に声をかけてみた方が良いかもしれません。

あるいは、見つけ方がわからないなんて場合も、周囲に相談してみると道が開ける場合もありではないでしょうか。

自分でなんとか解決できるものならと、悩んでないで、一人で抱え込んでいないでいる方が良いかもしれません。

国でも地方でも、あるいは様々な団体でも、「自己責任」とか言う前に自分たちに何かできることはないか考えて欲しいのです。

行政など環境に大きな影響を与える事ができるところは、その持っている力で何とか出来る障害を一つでも多く現場の声をきめ細かく聞いて取り除く対策何とかして欲しいものです。

問題解決したくても諸事情によりできないと思っている人たち一人一人も、一人で悩んでいないで自分の抱えている障害のうちで、これは自分だけでは解決は無理と思えることは積極的に声を上げた方が良いですよ。

変わらないとあきらめないで、声を上げ続ければいつかは変わるはずです。

これは、しょっちゅう、くじけそうになったり、怠けそうになったりする私自身も反省しなければならない事でもあるのです。

マタイによる福音書 24章 13節
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

ルカによる福音書 22章 28節
あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。

コリント人への第一の手紙 1章 8節
主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。

ヘブル人への手紙 6章 11~12節
わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、
怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。
追記
この記事は自己責任を別の側面から見た以前のものです。
改めてこの問題の奥深さを感じます。
弱さを強さに変えるには自己責任論はかえって邪魔になる。 http://bit.ly/21pCj2y
自助努力ってなに? http://bit.ly/2iKrMON

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説明能力を高める必要があると説明してみた。

スローフードの取り組みでは、この水が如何においしいか人に伝える方法さえも学びあっているといいます。

 

一つには水がワインやビールより高いってこともあるかもしれません。

でも、それ以上の、水の味の違いが判るくらい感性が研ぎ澄まされ、表現力も豊かになるってわけかもしれないですね。

 

日本でもやってみたら面白いかもしれないないです。

 

政府のトップが説明を求められても、逃げ回り隠蔽や改竄でその場しのぎの小手先でごまかそうとし、国民もこれをそれ程不思議に思わないようじゃ、日本で世界に通用する人材を大量に生み出せるようになるのは、まず無理ですよね。

 

さっさと説明してけりをつけて、手際よく次の課題について向き合うのでないとだめでしょう。

 

日本人ももっと説明の能力を上げた方が良いです。

 

仕分けで「二位じゃダメなのですか」と聞かれたら、欧米なら一位でなきゃならない理由がマシンガンの弾のように浴びせ掛けられるはずでしょう。

 

ところが日本じゃ第一線の研究者でさえしどろもどろだったのですよね。

 

答弁がしどろもどろでは無能扱いなのが欧米では当たり前なのにですよ。

 

日本語が論理的な思考に向いていないのではないですよ。

 

日本人が論理的思考から「有り前」「言うだけ野暮」「屁理屈言うな」などの一言で、議論を一瞬で封殺してきたってことでしょうね。

 

そもそも、会合自体が緊急時だけでしかも上意下達が目的なものだけだったから仕方ないとはいえ、日本はあまりにも議論をしなさ過ぎたのではないですか。

 

要は日本はほとんどが例年通りやればいいルーチンワークが大半だったので、習熟と上達だけが求められたのでしょうね。

 

例年通り、前例通り、それで間に合うっていうか前例にない事をするのは大きなリスクのある大冒険になる、そう言う環境で長年日本人は生きてきたってことですよ。

 

余計な事をすると寝た子を起こす、かえって厄介なことになるってことですよ。

 

大勢の人が協力して自然と折り合いをつけて暮らすのが、日本人の当たり前だったのです。

 

かつての日本は、いちいち合意を取り付けないと前に進まない社会ではなかったわけでしょ。

 

しかし今は違うわけでしょ。

 

いちいち合意を取り付けないと前に進まない社会に、日本もなったのではないですか。

 

日本人の意識がついていけていないだけでしょ。

 

いちいち合意を取り付けないと前に進まない社会、去年と今年が必ずしも同じではない、もっと言えば、去年と今年は違って当たり前、それが普通な社会ってことでしょ。

 

常に変化に的確に対応するために、どうすべきかみんなの同意を取り付ける必要が毎年のようにある社会ってことでしょ。

 

今の日本も既にそうなっているでしょ。

 

世界に通用するする人材を育てたいなら、まず説明能力を磨きそれを的確に表現できる能力を高めるべきでしょう。

 

それが母国語でまともにできない人に外国語をいくら学ばせても、せいぜい日常生活の会話ができるようになるだけではないでしょうか。

 

母国語でちゃんと説明できて、外国人とも話したいと積極的になれる人材に育てろと、違いますか。

 

結局のところ、説明を求められてもしどろもどろが当たり前で、その姿を人の前でさらけださせた方が責められて当然、こんな日本で良いのですか。

 

これじゃ、何年待っても説明能力の高い政府を日本国民が手にするのは無理でしょうね。

 

まず一人一人の国民が、説明能力を磨こうと思う方が先かもしれないですね。

これじゃ、日本は世界から遅れるだけではないでしょうか。

 

今は、変化が当たり前ではないでしょうか。

 

その変化とみんなで一緒に向き合うのが当たり前ではないでしょうか。

 

みんなと一緒にと言うことはちゃんとした合意ができてこそ、可能になる、違うでしょうか。

 

だからこそ、説明能力を高める必要があるのではないでしょうか。

 

わかって協力してもらえないと、一人じゃ無力だから、違いますか。

 

それが世界じゃ、当たり前って事なのではないでしょうか。

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預言者について考えてみた。

神は常に、人の力ではなし得ない業を世に表し続けられました。

 

 

モーセ、アブラハム、イサク、ヤコブ、イエス。

 

ここまではほとんどのキリスト教の教会が認めるでしょう。

 

 

私は、敢えてここに、ムハンマド、更には、ジャンヌダルクも付け加えて考えたいのです。

 

 

それだけではないと言う声も、あるいはあるでしょうが。

 

 

ジャンヌダルクがあれだけの力を出し得たのは、神の後ろ盾以外あるでしょうか。

 

 

神は、ありとあらゆる場面を用いて自らの力を示されます。

 

 

ジャンヌダルクをイングランドは異端として退けたが、ジャンヌダルクを認めてしまうなら、イングランドは神の力を見ながら神の御前にへりくだり、全てを神の采配に委ねないとならなくなるでしょう。

 

ジャンヌダルクはフランス王を戴冠させることで神の力を示すため、神に召された女性だったのでしょうか。

 

 

もしジャンヌダルクが神に召されていたならば、人々を裁くために地上で神の采配が振るわれるときに、その場で采配を振るうために神の代理に召されるのはいったい誰か。

 

神の采配のために召されるのがたとえ誰であっても、神の采配を振るうために神に召された彼らは果たして周囲の人々に受け入れられたか。

 

ジャンヌダルクを処刑した人々は、現世の秩序維持を最優先させるため、処刑を実行したのではないか。

 

その意味では、ジャンヌダルクの死は、イエスの死のリフレィンだった。

 

 

私は、そんな気がしてなりません。

 

 

ジャンヌダルクは、あの段階で死んだが、あるいはそれは神の慈悲だったかも知れません。

当時の情勢から見て、ジャンヌダルクは、政争に巻き込まれ、遅かれ早かれ、命を落とすことになったでしょうから。

 

そして、死後も彼女の評価は、政争の具にされてしまったことでしょう。

 

あの段階で死ぬことで、彼女は純粋なままでいられたのかも知れません。

 

 国王の戴冠の時点でジャンヌダルクの役割は終わっていたにもかかわらず、勝利の女神として期待されてパリの奪還にまで駆り出されたが、神はジャンヌダルクがこれ以上政争に巻き込まれてしまわないために、身元に召してしまった。

 

そう思いたくなるような、タイミングですね。

 

世の多くのキリスト教の教会は、ムハンマドが神の力を借りられたからこそ、大きな力を発揮出来たことを認めたくないでしょう。

 

ムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教に原点回帰を求める神のメッセージを伝え、神の力を借りて多くの困難な戦いに勝利しました。

 

 ムハンマドは戦いに勝利しただけでなく、人々を治める上でも神の導きによって多くのことを成し遂げていますね。

ここでは、それにいちいち触れることはしないけど、神の助けがないとまず無理と言えることを、数々行っているようです。

 

ユダヤ教やキリスト教にとって、ムハンマドの原点回帰の呼びかけを認めることは、自分たちの堕落を認めてしまうだけでなく、聖書の時代を超えて神がこの世に預言者を召されることを認めることになるでしょう。

 

 ムハンマドの原点回帰の呼びかけが正当性を満たすためには、それが神の召しに基づく言葉である必要がありますからね。

しかも、イサク、ヤコブの系譜以外からさえも、預言者は召されるかも知れないこともムハンマドを認めるなら受け入れることになるでしょう。

 

 ムハンマドはアブラハムの子孫ではあっても、イサク・ヤコブの系譜ではないですからね。

 

ムハンマドを預言者として評価することは、預言者にはどういう人達が召されるかという問題を、突き付けてくるでしょう。

 

 どういう系譜の人達であっても、神はふさわしいと思われる人達を、預言者に召されるかもしれないということですね。

 

残念ながら、聖人までは受け入れられるが、聖人とされた彼らは預言者として評価されることはないでしょう。

 

だが、聖人として評価された多くの人たちが、もしも人の力だけでなし得ないことをなし得たなら、そこには神の力を認めないわけにいかないでしょう。

 

そして、その延長線上に預言者はいます。

 

だが今、この世の多くの教会には預言者がいません。

 

とは言え預言者は、なりたいからと言ってなれません。

 

 仮に、自らを預言者と名乗ったり、私たちの組織には預言者がいると言ってみても、常に正しい判断に基づく行動や発言をしなければいけないと言う重責がのしかかっていますからね。

 

預言者と名乗ったり呼ばれたりしている人達は、その重責に常に耐えられる人でないと務まりません。

 

 軽々しく、名乗ったりできない立場が、預言者なのですね。

祈ることによって、神から支えられることになるでしょう。

しかし、一年中、しかも、24時間、祈りを忘れない人でない限り、精神的に耐えられることは無理でしょう。

 だから、預言者を名乗ったり預言者と呼ばれたりしている人がいる組織は、非常に少ないわけですね。

神からの御霊によって支え続けられないと、まず、耐えられないでしょう。

 

預言者は、基本的には、神に認められ、神に召されないとなれないのです。

 

しかも、それは神から一方的になされるのです。

当然、そのような預言者が召されている教会はそう多くないはずです。

 

大半の教会は、人の力で作られ、人の力で運営されています。

 

祈りによって導きを求めてはいるでしょう。

 

だが、それをどう生かすかは最終的には人の選択と判断によるのです。

 果たして、今の時代にも預言者はいるのか。

 

 いるとするならば、それは何処なのか。

 

 逆にいないなら、どうしたら神は預言者をあたえてくださるのか。

 

 

その問いに答えてくれている聖句があります。

 

ヤコブの手紙 1 5

 

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

 

この聖句が、私たちの答えを得る手掛かりを与えてくれるのかも知れません。

 

私たちにだって、歴史上の人物たちほどではないにしても、自分の力を超えることを神は可能にして下さるかもしれないですからね。

 

 

聖書にはこうあります。

 

マタイによる福音書 778

 

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 

 

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

答えを、諦めないで求めてみましょう。

 

どんな答えが来るか、それは一人一人の求め方次第でしょうけど。

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アイヌのご先祖はヨーロッパで住んでいた?

縄文人の親戚をアジアで探すことは困難を極めているのです。

アジアのどこにもいない人たちを見つけてしまった、これが縄文人の遺伝子を調べた人たちの率直な感想だと言います。

 

様々なルートで日本に来た人たちが日本でミックスされて生まれたのが縄文人、そうとしか言いようがないと言います。

 

そうであるなら、もっと広く視野を広げる必要があります。

 

日本人のルーツをたどってみると、実はヨーロッパからアメリカ経由というとんでもないルートが浮かび上がってきました。

アメリカのケネウイックからフランスとスペインの様式の矢じりと一緒にアイヌのご親戚の骨が出ているのです。

なんとアイヌのご先祖は地中海世界で暮らしていた可能性があるのです。

 

日本人のルーツをたどるとアジアとヨーロッパに人種や民族の別れる以前にまでさかのぼる可能性が見えてきます。

日本人、特に縄文人の遺伝子はとてもヨーロッパに近いのです。

遺伝病も日本人にはヨーロッパと共通なものが複数ありますよ。

家族性地中海熱、家族性アイルランド熱、高IgD症候群、クローン病などヨーロッパの遺伝性疾患が確認される日本はアジアにおけるヨーロッパの飛び地的存在と言えます。

 

中でも、家族性地中海熱のアジアにおける発症例の飛び地である日本の遺伝子の特殊性はもっと注目されて良いはずです。

公益財団法人 難病医学研究財団/難病情報センター

「家族性地中海熱」

この病気はどのような人に多いのですか

この病気は地中海沿岸域の人々や、中近東(ユダヤ人、トルコ人・アルメニア人)に多い疾患ですが、日本でも患者さんがいることがわかっています。

http://www.nanbyou.or.jp/entry/4447

 

この中でも、どうしても注目が集まってしまうのがユダヤとの関係です。

例を上げましょう。

 

日本語とヘブライ語の共通点 http://sekainoura.net/nihon-kyoutu.html

 

神言語ヘブライ語と日本語の共通点多すぎ!!日本人のルーツは“失われたイスラエル10支族”ユダヤ人なのか!?籠目文、鳥居、君が代、共通点他にも多数… | http://xanadu.xyz/post-623/

 

縄文人とのつながりの強さが指摘されるアイヌや沖縄の人々の文化と、古代イスラエルのつながりの強さがしばしば挙げられることと重ねれば、日本語とヘブル語の繋がりを言う人たちを笑う事は控えることが適切な対応でしょう。

 

さらに、アメリカには気になる遺跡があるのです。

アメリカ先住民に失われたイスラエルの十支族末裔説が出ていたことと合わせて見ると、笑ってばかりもいられない気持ちになるのです。

Cahokia as “a North American Jerusalem,”カホキアは「北米のエルサレム」https://www.jw.org/en/publications/magazines/g20030308/The-Mystery-of-Cahokia/

この譬えとアメリカ先住民十支族末裔説を重ね、アメリカ先住民と日本先住民が親戚と言う事実と突き合わせると日本先住民は十支族のご親戚となってしまうのです。

日ユ同祖論なんてもんじゃないです。

縄文人の正体は、古代イスラエルの十支族なのかと言う可能性があることになります。

 

日本語とヘブル語の類似、日本にある古代中東の遺伝子、特にヤップ遺伝子と古代イスラエルの繋がりを見れば、無視できない可能性なのです。

 

さらに衝撃的としか言いようのないのが、古代イスラエルのヤコブの子孫がアメリカ先住民となったと主張するモルモン書です。

何度も船出して行方不明になった人たちがいると記しているのです。

 

聖書とあまりにそっくりな伝承や文化を持っている沖縄の人たちは、遥か東のニライカナイが故郷の地だと言います。

 

沖縄の遥か東、そこにある大陸は、日本先住民縄文人のご親戚の土地であるアメリカなのです。

 

時代が違いすぎると言う声が出るのは承知です。

 

だがもっともっと衝撃的なのは4000年前とされるノアの洪水を前提として議論を組み立てれば全てつじつまがあってしまう事なのです。

 

そしてアイヌのご先祖がヨーロッパの人たちのご先祖でもあるクロマニョン人と、ご近所さんだったかもしれないのです。

 

日本がヨーロッパの遺伝病のアジアの飛び地、この背景には何があるのかもっと調べた方がよさそうです。

なにしろ、日本人の先祖が古代イスラエルの支族の血をヨーロッパでばら撒いた原因の一つかもしれないと言う疑いが、かかっていますからね。

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