日記・コラム・つぶやき

音楽は政治と無縁でいられるのか。

音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、音楽はそもそも、演奏者と聞き手がいて成り立つ営みです。
聞き手は良いねと思わなければ、最後まで聞いてくれないでしょうね。
音楽は聞き手という名の同志がいてくれて、初めて成立する行為なのです。
演奏者も複数いてはじめて成立する曲は共演者という同志が必要、場合によっては作詞作曲の同志も必要になります。
つまり、音楽は何人もの同志に支えられて成立する社会的な営みと言えます。
その意味では、音楽は一種の党派性を持つとも言いえるでしょうね。
フアンという支持者獲得も、時として必要となるのです。
協力者や共演者や聴衆という同志や支持者を獲得する行為は、政治活動と本質的にどう違うのでしょうか。
政治的メッセージを盛り込むか否かの差なのですよ。

音楽に政治を持ち込むなという人は、アリストテレスの人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」という言葉を知っているのでしょうか

アリストテレスは著書『政治学』において、人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」と述べました。
「ポリス」とは、都市、都市国家、市民権または市民による政体を指すギリシャ語です。
つまり、「人間は政治的な営みをする動物である」のです。
社会的な営みは、複数の協力者=同志の存在無しにはあり得ないのです。
そして、限られている時間や場所、時として資源をめぐって協力し合うことも競い合うこともあるのです。
ここで言う資源とは、目的を実現するのに必要な人・モノ・金と思ってもらえば良いでしょう。

これらはまさに「政治的営み」に他ならないでしょう。
いわゆる政治的課題が絡む行為は、人の行う政治的営みのごく一部でしかないのです。
つまり、音楽もまた人間の営む政治的営みの一つに過ぎないと言えるでしょう。
音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、本質的に無理なのです。
人の営みは、政治的営みだらけなのだからです。
逆に言えば政治的課題は、人の政治的営みの中の緊急的対応が求められているものと言えるでしょう。
いわゆる政治的課題が厄介なのは、立場や利害が絡むからなのです。
何らかの立場や利害の無い人は、ほとんどないでしょ。
違いますか。

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なぜ、卑弥呼と邪馬台国が日本の史書にないのか?

なぜ、卑弥呼と邪馬台国が日本の史書にないのでしょうか。

中国は意味よりも音を優先させて、自らの史書に記したことは多いにあり得ることなのに、日本の史家は日中の発音の差を無視しまくっているのではないでしょうか。

「日本」は中国語の発音では「リーペン」、当然ながら「巫女」も中国人が言えば発音が変わるはずです。 「日巫女」を中国人が言いやすいように音訳したのが、「卑弥呼」なのでしょう。
「邪馬台」国は音の近さから「ヤマト」国であろうとされてきたが、類推の範囲をでなかったのです。 言語学研究の到達点からやむを得なかったと言えるが、昔と今では到達点が違います。 古代の日本語は、二重母音であったことが、明らかになっています。 「邪馬台国」も「卑弥呼」も、中国人は当時の日本人の発音に近い中国語の文字を探して音訳したと考えるのが、自然なはずです。 「大和(ヤマト)」も当時の日本は二重母音なので強いて言えば「ヤマタィ」に聞こえてもおかしくないから、「邪馬台」国と中国人聞こえてその通りに記したとみる方が自然なのです。
「日巫女」は役職名なので、それを担当したと思われる女性を探せば良いのではないでしょうか。
太陽神の言葉を地上に取り次ぐ巫女である「日巫女」に就任できるのは、一人だけだったことでしょう。 中国人が「日巫女」を個人の名と取り違えても、無理はなかったでしょう。
当時の日本は「日巫女」空位の混乱を、トヨの「日巫女」就任によって収拾したと見ても良いでしょう。 「邪馬台国」も「卑弥呼」も、「大和国」や「日巫女」を中国人が呼びやすいように音訳した名前なので、真に受けて探すだけ時間の無駄なのです。 日本はもっと、歴史的な研究や考察を学際的に行うことが、当たり前になって欲しいものです。

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謙虚ってどう言うことか。

人の貰っているお金を高すぎないかと言う前に、自分が貰っているお金は安すぎないかを、考えた方がいいのではないでしょうか。

 

私はこれだけなのにあの人はこんなに、ではなく、あの人があれだけなら私はもっともらえても良いと思える仕事を、あなたはしていないのでしょうか。

 

していると思えば、私の価値はもっとあるぞと声を上げた方が良いのではないでしょうか。

 

自信とは、自分の能力や可能性を信じることではないでしょうか。

 

高慢とは、自分の能力や可能性を信じてないことではないでしょうか。

 

高慢とはったりと卑下と卑屈は紙一重ではないでしょうか。

 

高慢もはったりも、張子の虎と紙一重ではないでしょうか。

 

謙虚と言う言葉は、向上心がある人にふさわしいのではないでしょうか。

 

向上心なき謙虚は、たんなる卑屈であり、卑下でしかないのではないでしょうか。

 

違うでしょうか。

 

価値に値する対価は、払われて当然ではないでしょうか。

 

価値あるものになるには誰でもそれだけの事はしているのではないでしょうか。

 

私達はちゃんとそれを評価しよう、そう思いませんか。

 

価値をちゃんと評価できる人は、人からもちゃんと評価してもらえるではないでしょうか

 

謙虚は結構だが、謙虚が向上心と結びつけばもっと結構なものになるのではないでしょうか。

 

そもそも謙虚は向上心と一体、違うでしょうか。

 

向上心を、忘れないでいたいものです。

 

そうすれば、謙虚が似合う人になれるのではないでしょうか。

 

卑下や卑屈、高慢やはったりくらいむなしいものはないでしょうから。

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守るべきは雇用以前に人間らしく生きることではないでしょうか。

介護や育児で離職した人の職業への復帰支援、場合によっては、介護や育児との両立可能な就労形態だって、考える必要があります。 

 

人間らしく生きられるための生計保障制度の確立と拡充を求める運動に舵を切らないと、正規雇用を守れだけでは正規雇用さえ守れない時代がやってきます。

 

いや、すでに来ているかもしれないのです。 

 

ブラックな企業や職場、自分に向いてない企業や職場、将来性が見通せない企業や職場、そう感じたり思った人たちが転職や転業、キャリアアップなどのために必要な学び直しをしたいと考えても、先立つものがなくて無理した挙句に解雇されたり体調を崩す人達がいます。 

 

人手不足を言うなら、彼らのような事態をなくせといわなければならないのです。 

 

心機一転が得意な人もいれば、関連分野でないと転職や転業が難しい人もいます。 

 

それを知っているからこそ、生活保護を生活保障制度に拡充し、新しい仕事に慣れるまで生計の下支えをしてくれる制度の必要を説くのです。 

 

永続する仕事はないし、業態が永遠不変な業種もないのです。 

 

適応を支援する必要があるのです。 

 

労働力の流動化は、何も不安定な非正規雇用を増やすことではないのです。 

 

正規雇用100%であっても、転職や転業、キャリアアップなどを目的とした学び直しのために、生活保障制度を積極的に活用できるよう抜本的な改革をすべきです。 

 

政府と経営者側が雇用の柔軟性を言い出したら、首切りしやすい環境整備と労働者が反発するのは当然で、生活は守らなければならないからです。 

 

とは言え、自分の雇用を守ることが誰かの失業の犠牲の上に成り立つ後ろめたい状態が一方で作られ、労働者は分断される事もあります。 

 

だが、希望者全員正規雇用は現実的なのでしょうか。 

 

希望者全員正規雇用は理想であり追求されるべきだが、何時も可能ではないはずです。 

 

時として誰かがあぶれ、それはあなたかも知れないです。 

 

だとすれば、転職や転業、更には起業支援も含む生活再建支援の制度が必要であり、生活保護を含む生活支援制度が必要であると、運動する方が良いでしょう。 

 

誰かのためにではなく、自分のために必要なのです。 

 

労働力の流動化は、何も不安定な非正規雇用を増やすことではないのです。 

 

正規雇用100%であっても、転職や転業、キャリアアップなどを目的とした学び直しのために、生活保障制度を積極的に活用できるよう抜本的な改革をすべきです。 

 

経営者は、変化が激しい時代にフットワーク軽く適応する必要があるのです。 

 

必要最低限の人材と柔軟に仕事を委託できる人材に雇用を分け、最低限の人材も最小限にしようとしているのです。 

 

希望者全員正規雇用したくても難しいのです。 

 

転職や転業が困難な人達も、例外じゃないから、セイフティネットの充実が必要なのです。 

 

受け身と守りのセイフティネットから、人間らしく生活し就労できるよう支援する生活保障制度へと舵を切る必要があるのです。 

 

旧態依然の雇用を守れだけの運動では、守るべきものも守れないのです。 

 

経営者に、あなたは経営者である前に人間だろ、と言うくらい彼らにとって残酷な言葉はないでしょう。 

 

経営者である前に人間であれと自らに課す人ほど、人間である前に経営者でなければならない現実とのギャップに苦しむことになるのです。 

 

雇用を守ろうとすればするほど、従業員に新しい仕事へのチャレンジを求める事になるでしょう。 

 

新しい仕事へのチャレンジを求められた従業員には、受けて立つ人もいれば何で私がという人もいるはずです。 

 

問題は、何で私がという人で、引き留めたい経営者の気持ちに反して、離職する場合もあるでしょう。 

 

とは言っても、彼らへの支援は、一企業の手に余るのです。 

 

だからこそ、公的な、転職や転業、更には起業支援も含む支援体制が要るのです。 

 

転職や転業、更には起業支援も含む支援体制があっても、その間も生活があります。

 

最低限の生活保障制度も含む生活支援制度の確立と充実は、だからこそ必要なのです。

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生き様の美意識といじめは相容れない。

いじめは時として、犯罪にまでエスカレードします。

 

とは言え、犯罪はすべていじめではないし、いじめが全て犯罪ではありません。

 

いじめは、何よりもまず人権や人格を無視しているという点で、倫理や道徳、モラルの問題です。

 

倫理や道徳、モラルの問題を踏み外した先に、犯罪行為があるのは確かですが。

 

いじめには、犯罪レベル、グレーゾーン、倫理や道徳やモラルの問題と段階があります。


いじめは、何よりもまず倫理や道徳やモラルの問題であるので、その人の価値観や生き様の美意識が問われると言って良いでしょう。

 

いじめ問題の構図をわかりやすく図にするなら、一番大きな丸の中に倫理や道徳やモラルの問題、次に大きな丸の中にグレーゾーンの問題、そしてグレーゾーンの丸の中に犯罪レベルの問題の丸となる、同心円モデルを考えると良いでしょう。

 

集合論に親しんだ人には、犯罪レベルの問題はグレーゾーンの問題の部分集合であり、グレーゾーンの問題は倫理や道徳やモラルの問題の部分集合である、という方がわかりやすいかもしれません。

 

そこで、一人一人の、倫理や道徳やモラルの段階を正す必要性があるとなるでしょう。

 

いじめをなくす問題は、倫理や道徳やモラルの間の闘いであり、価値観の間の闘いだとなるでしょう。

 

だから厄介であり、なかなかなくせないと言う事になるのです。

 

そこで、生き様の美意識を磨き鍛える必要性があるとなるでしょう。

 

誰だって醜いのは、嫌でしょうから。

 

美は、真善美の最後に来ます。

 

真善美の最後に来る事は、美の位置付けが一番低いと言う事ではありません。

 

むしろ逆なのです。

 

美意識を鍛えるためには、善い事・より善い事・最も善い事のうちで最も善い事を選べる心を鍛え上げる必要があります。

 

最も善い事を選べる心を持ってこそ、確かな審美眼があると言えるでしょう。

 

最も善い事を選べる心を持つには、自分はどのように生きたいか、その選択が関わってきます。

 

自分が一生かけて歩むに値する道を、選び取らなければならないのです。

 

そこにたどり着ける真の道を見出せる判断力を養う、日々の努力が求められるのです。

 

いったん美意識を磨ければ、最も善い事を選ぶのは容易になり、目的にたどり着ける道を見つけるのも容易になるでしょう。

 

もしも迷うようなら、何度でも何度でも、美意識に磨きをかければいいのです。

 

美意識は、一生をかけて磨くに値するのです。

 

生き様の美意識を磨く努力を競い合い励まし合い、共に学びあって一緒に高みを目指すなら、いじめは馬鹿らしいこと、自分の成長を妨げる事になるでしょう。

 

お互いがお互いの、師となり弟子となって教え合い学びあって美意識を磨き合って心の高みを目指す人生を歩もうではありませんか。

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零点振動と宇宙定数と宇宙論

重力は、物質が空間を歪めた結果現れてくる力です。

 

でも、考えてみてください。

 

物質はどうやって空間を、歪めたのでしょう。

 

シートの上に物を置けば、シートはへこみます。

 

物が地球の重力に、引かれたからです。

 

じゃあ、無重力状態の中で物質はどうやって、空間を歪めたのでしょう。

 

実は、全ての基本的な粒子には零点振動があるのです。

 

空間の中に、絶えず振動している物質があるので、空間は歪むのです。

 

アインシュタインは、重力が引力だけと考えると世界は一瞬で崩壊してしまうので、大きさは引力と同じで方向が反対な力として宇宙定数を導入しました。

 

宇宙は膨張しているように見えるというので、アインシュタインは原因不明な宇宙定数を捨てて宇宙膨張に乗り換えてしまいました。

 

だが今、膨張宇宙論では再び宇宙定数を評価する方向に向かっています。

 

だが、考えてみてください。

 

かつて投げ捨てたエーテルを、解釈を変えて復活させようとしたならどうでしょうか。

 

いちいち注釈をつけないと議論は混乱するから、昔の解釈のままで復活させないとならないのではないでしょうか。

 

宇宙定数を再評価するというなら、アインシュタインが使ったのとは別の意味ですと言ってもいいのでしょうか。

 

いくら仲間内で納得したつもりでも、経緯を知らない人がいきなり聞いたらアインシュタインの使った意味で宇宙定数を取り入れていると思われる可能性が大きいはずです。

 

アインシュタインは定常宇宙を前提として、引力と大きさが同じで方向が反対な宇宙定数を導入したのです。

 

つまり、宇宙定数を導入することは膨張宇宙論が定常宇宙論の前に膝を屈したに等しいと思われるリスクを冒しているのです。

 

何故なら、重力が零点振動に由来すると解釈するならば、宇宙定数こそ、実は重力を空間から引き出していた張本人と見ざるを得なくなるのです。

 

零点振動で空間が押される時には宇宙定数が作用し、空間が押し返す時には引力が発生するのです。

 

私達が見ている重力とは、宇宙定数と引力が相殺しあった後の力を実際には見ている事になるのです。

 

宇宙定数は空間内に発散していくのに対して、引力は物質の重心に向かって収束していきます。

 

遠くを見るほど光が加速しているように見えるのは、宇宙定数のいたずらによるのです。

 

引力は物質の重心に収束しているのに、宇宙定数はひたすら発散しているので、遠くを見れば見るほど、宇宙定数は加速しているように見えるはずです。

 

加速しているように見える宇宙定数によって、見かけ上歪められた空間を通して光を見れば、光もまた、加速しているように見えるのではないでしょうか。

 

つまり、膨張宇宙とは、宇宙定数が空間に仕掛けたトリックに科学者達がまんまと引っかかって騙された錯覚に過ぎないのです。

 

これこそが、膨張宇宙論における宇宙定数復活の種明かしでありました。

 

おそらく、零点振動は、仮想光子や、物質波にも深く関わっているのでしょう。

 

ならば、零点振動は何が引き起こしたのでしょうか。

 

6つのクオークや、6つのレプトン荷電レプトンである電子・ミュー粒子・タウ粒子、およびニュートリノである電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノをどう解釈するかが、解明のカギを握っているのかも知れません。

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「死にたい」と聞いたならあなたならどうする?

「死にたい」とメッセージを発信しているうちは、まだ、誰かを信じているのです。

信じたいと思っているのかもしれないのです。

言わなくなったらかえって危ないという人がいるのです。

それは、「誰もわかってくれない」と言う絶望と諦めの結果の可能性があるからでしょう。

思いを気のすむまで聞くしかないのでしょう。

 

「死にたい」とは、「最後まで生きたい」と同じです。

それはある意味「疲れた」と言うのと似ているのです。

目的地に着くまで、課題を解決できるまで、頑張りたいけどしんどいと弱音を言う事で楽になりたいのです。

するべきは励ましではなく、寄り添いでしょう。

 

「死にたい」とは「死んだ方が楽だと思えるくらい心が疲れた」と言う事なのです。

だから、その心に寄り添い、心の疲れを共有しあって乗り越えられるまで共にあなたと歩いてあげるよと言葉と態度で伝えることが大事なのです。

するべきは心を休ませてあげることなのです。

肩を抱き寄り添って気のすむまで泣かせてあげることなのです。

 

このイエスの言葉が、参考になると思うのです。

 

マタイによる福音書 11

29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 

30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 

乗り越えた人はかえって心が強くなるかもしれないのです。

 

コリント人への第二の手紙 12 09

9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 

10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

 

少しでも、この境地に近づけるようになりたいものだと思うのです。

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いじめをもとから断つ取り組みとは何だろうか。

作家に猫を飼う人が多いと聞きます。
もちろん、可愛いからだか、最大の理由は猫が彼らの気分を強制的にリセットしてくれるからでしょう。
 
考え込んで動きが止まっている人間は、猫から見れば何もやることが無い暇人でしかないのです。
猫は暇ならかまえとやってくるのです。
 
大人しくさせたいなら、かまうしかないのです。
猫が、飽きて、疲れて、離れていくまで思いきりかまうのです。
 
何も考えていない時間が何分も続き、頭の中がリセットされます。
猫は勝手にやってくるから、良いのです。
 
何をやったら気分がリセットされるか、考える手間が省けます。
そもそも、作家の仕事は脳を酷使します。
脳を解放してくれる有り難い存在が猫なのです。
 
人はもちろん、猫や犬にも行動に何かわけがあるのです。
 
犬でも猫でも、問題行動の裏には必ず何か理由があるのです。
 
犬の権勢症候群は、飼い主が私がお前のボスだと理解させれば収まります。
猫がトイレ以外で用を足すなら、猫砂を綺麗にすれば良いのです。
 
いじめだって、やりたくなる理由にちゃんと向き合って解決しようとしていると理解されれば収まるのではないでしょうか。
 
説教は無駄なのです。
 
いい子は手間がかからないから、とかく放っておかれます。
問題児への対応に時間を割きたいからです。
 
振り向いて欲しいなら問題児になれば良いというわけです。
いじめている子は、自分に気が付いて欲しい、振り向いて欲しいから、問題児にあえてなる、違うでしょうか。
 
犬や猫も、あまりかまわれないと問題児になると言います。
同じでしょう。
 
好きな子に振り向いて欲しいが、照れくさい、どうして良いかわからない時、意地悪やいじめに走ることがあると言います。
 
いじめは被害者にばかり目が行きがちだが、いじめている側にも目を向けないと本当の解決にはならないのです。
 
思いやりとか言われても、自分が振り向いてもらえないなら、白々しいだけなのです。
 
いじめられている側が親や先生になかなか言えないのは、いじめをやめさせる取り組みが見えないからではないでしょうか。
 
相談がばれれば、余計にいじめられる、そうではないですか。
 

根本的いじめ対策は、いじめている子を突き止め彼らの悩みに本気で向き合うしかないのです。
騙せるちょろいと舐められないためには、本気で当たるしかないのです。

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戦国大名再考。

戦国大名と言うが、領地防衛のための武装集団だったのです。

弱みを見せれば、領地拡大を狙う近隣の大名から狙われるからです。

信長以前の戦国武将は、室町幕府が弱体化したので、自衛権行使のためやむを得ず武装集団化した存在です。

室町幕府にとって代わろうとは、しなかったのです。

 

防衛線や補給路が伸びる事は、下手をすれば弱体化に繋がり攻められる隙を見られてしまうからです。

 

身の丈に合った領地で、満足していたのです。

戦国大名は自分の実力で自分の領地を治める事が、一番の目的です。

 

天下統一を必ずしも狙って行動したわけじゃないのです。

 

むしろ、天下統一を狙う戦国大名の方が、少数派だったと言えるでしょう。

 

国を守る事で精一杯、そのための税負担を求めるためには、領民の機嫌取りをした、それが実態です。

領地防衛の費用捻出のために領民に負担を強いたが、へそを曲げられたら領内が乱れるので、領民サービスの対価として年貢を調達せざるを得なかったのです。

信長の楽市楽座も、その延長線上にあります。

 

信長の小牧山城が、石垣の持った城の始めです。

城はそれまで土を盛り上げたものでした。

信長は天守閣も初めて作ったのです。

なんでそれをしたのでしょうか。

小牧山城は日本初の石垣を持った城だが、作る途中は防衛が難しいはずです。

 

戦国大名が天下統一の先陣争いをしているなら、築城途中に何で攻めて妨害し信長を潰さなかったのでしょうか。

 

むしろ戦意喪失で信長は、戦わずして勝利します。

 

石垣や天守閣が工夫を凝らして競って作られたのも、戦うためより戦意喪失狙いなのです。

自国を守る城から、天下統一を目指す城への転換です。

他の大名も、対抗上石垣と天守閣のある城を作る事になるが、仕掛人が信長です。

信長が、戦国時代の質を変えたのです。

 

信長の天下布武は、弱体化した室町幕府に代わる安定した中央政権を私が作らないで誰が作ると言う、ある種の使命感の現れです。

領地防衛の負担から、誰かが皆を解放しないといけないと言う思いがあったのかもしれないです。

尾張の地は、信長にその思いをなぜ強く思わせたのでしょうか。

それを考えるのも面白いかもしれません。

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モーセとイエス。

モーセとイエス、よく見ると実によく似た人生を歩んでいます。

 

申命記 34

10 イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。 

11 主はエジプトの地で彼をパロとそのすべての家来およびその全地につかわして、もろもろのしるしと不思議を行わせられた。 

12 モーセはイスラエルのすべての人の前で大いなる力をあらわし、大いなる恐るべき事をおこなった。 


イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかったとあります。

 

果たして、そうだったのでしょうか。

 

モーセの時もイエスの時も、同世代の多くの子供たちが犠牲になるがモーセもイエスも避難して難を逃れる。

モーセは籠で川に浮かび、イエスは飼い葉おけ、後にメシアとなる身でありながら、世の常の幼子とは違う場に置かれた。

メシアとしての再登場までの記録が聖書では空白。

どちらも神によって地から取り去られ地上に最終的な墓が無い。

 

モーセは水から上がって王子の立場を得ます。

ファラオの娘に拾われ、息子として育てられたからです。

 

イエスはバブテスマで水から上がって「これは私の愛する子、私の心にかなうもの」と天から声があり聖霊が下りました。

イエスは聖霊によってマリアの胎内に宿ったかもしれないが、神が我が子として天下に宣言したのはバブテスマの後なのです。

 

モーセもイエスも、王の子の立場を名実共に得るのは、水から上がった後と言う共通点があるのですね。

 

水から上がって神の祝福を得る、ノアの箱舟もそう言えるでしょう。

 

ノアの洪水ではノアの同時代の人たちが犠牲。

モーセとイエスは同世代の子が犠牲。

出エジプトでは、エジプト人の長子も犠牲。

 

共通点は、死の危機から逃れると言う事。

 

つまり、イスラエルを物理的なくびきから解き放ったのがモーセとするなら、神の民としてのイスラエルを死の運命から解き放ったのがイエスだったということでしょうね。

 

さらに、モーセもイエスも経緯に差はあるが、神の前に罪人の立ち位置となる。

後を託した人がいる。


モーセはイエスの予型としての人生を歩んできた人だったのだなと、改めて実感しました。

 

そう言えば、モーセはファラオになれる可能性を捨てて奴隷の身で苦しむイスラエルを救い、イエスは神のひとり子の立場にありながら人々が死の縄目から解き放たれるために人の子として生まれ十字架にかかります。


地上と天上の差こそあれ、モーセもイエスも王の子の立場なのですね。

 

もちろん、モーセには洗礼者ヨハネのような人が見当たらないなど細かな点を上げればいくつもあるでしょうが。

 

こうして見ると、聖書はイエスの予型があちこちにありますね。

 

イエスは旧約聖書の預言者は皆、自分の事を預言していると言います。

 

皆さんも探してみてください。

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