争いを減らすには、まず自分のして欲しくないことは誰に対してもしないことです。
争いを減らしたりなくしたりするには、人に対する愛を示すことが必要だとはよく言われます。
では、愛を示すとはどうしたらいいのかということになります。
何か、手掛かりになるものが要ります。
聖書は、旧約聖書は4000年新約聖書でも2000年前から読み続けられてきました。
いわば、古典中の古典と言えます。
聖書には、特に新約聖書には、愛についての記述が多く見られます。
例を挙げましょう。
争いを減らしたりなくしたりするには、人に対する愛を示すことが必要だとはよく言われます。
では、愛を示すとはどうしたらいいのかということになります。
何か、手掛かりになるものが要ります。
聖書は、旧約聖書は4000年新約聖書でも2000年前から読み続けられてきました。
いわば、古典中の古典と言えます。
聖書には、特に新約聖書には、愛についての記述が多く見られます。
例を挙げましょう。
科学や技術はどんどん先に進んでいくが、どこを目指してどういう世界を作ろうとしているのだろうか。
具体的な例を挙げて、考えてみたい。
宇宙の始まりを研究している人たちは、こういう発言をしだした。
インフレーションは「ただ」で物質やエネルギーをつくったといえる。
そのからくりは、真空のエネルギーの特殊性で説明することができる。
真空のエネルギーは不思議なことに、宇宙がどんなに大きく膨張しても、密度が小さくなることがない。
ほかにちょっと例のない特殊なエネルギーなので、真空のエネルギーは空間そのものに対しては押し広げる力を持っている。
空間内の物質に対してはマイナスの圧力を持っていて、収縮しようとする力が働く。
真空のエネルギーがある宇宙を、ゴムのようなものと考えるとわかりやすい。
ゴムが引き伸ばされると、ゴムの中の縮もうとするエネルギーが増加する。
これと同じように、宇宙が引き伸ばされる(膨張する)と、宇宙の中の真空のエネルギーも収縮しようとして増加する。
つまり、宇宙が膨張すること自体が真空のエネルギーを増加させる。
真空のエネルギーは、密度が決して小さくならない。
宇宙の大きさ、すなわち体積が100桁大きくなっても、宇宙の中にある真空のエネルギーの密度は変わらず同じである。
真空のエネルギー量は体積が100桁増えた分だけ、大きくなる。
大きくなった真空のエネルギーが、相転移で熱エネルギーに変わることによって、宇宙は火の玉になる。
このようにして、宇宙は始まるという。
要するに、真空は特別な存在なので通常の常識は通用しないと言っているのと変わりがない。
天には地上と違う規則があると言っていた天動説と、どう違うのだ。
計算さえ合えば、どうでもいいのか。
ゴムと言う実在の物質を例えに使えるから、差し支えないというのか。
任意の物資で例えれば、何でもありと言っているようなものだ。
量子論も相対性理論も、それなりのニュートン力学との連続性がある。
ここにそれがあるのだろうか。
私は、重力波が斥力と引力の交互発生で伝播する現象とみる。
正の方向と負の方向、正のエネルギーと負のエネルギー。その往復が振動であり波動である。
ならば、正の方向やエネルギーと引力を負の方向やエネルギーと斥力の対応に何の問題がある。
時空にゴムのような柔軟性や反発する能力をみるというなら、斥力を見て何がおかしい。
重力波が斥力と引力の交互発生の伝播現象と見れば、時空には圧縮限界があり特異点などの厄介払いができるではないか。
だが、私の今回言いたいのはそういうことではない。
時空の物性研究は、科学や技術の新たな段階を生み出してより神の領域に近づくことになる。
ならば、知性や理性や知性や倫理や道徳もまた、神の領域に進まないと大変なことになる。
利潤や欲望の充足を是とすることを悪いとは言わないが、人びとの必要に応えて幸せをすべての人が手にいられる世界のために科学や技術は使われなければならない。
そうしないと、科学や技術は乱用と悪用の暴走で取り返しがつかない事態を招く。
科学や技術とどう向き合うか、多くの人が参加できる討論の場が何度もそしていくつも無数に持たれる必要がある。
科学や技術はどう、人々の理解できる言葉で語れるのか。
本気で考えた方が良い。
クリスマス講演やサイエンスカフェのような取り組みが、積極的に推進されて欲しい。
日々のニュースを見ていて感じるのは、果たして人類のあり方はこのままでいいのだろうかという不安だ。
神と言うと、そんなものはいないと言い放つ人は多い。
だが私たちの知識や技術は、かつて神のみができると思ってきた領域に踏み込んでいる。
だとしたら、私たち自身が知性や理性や倫理や道徳をも神にふさわしい段階に高めないと冗談抜きでまずい時代に来ている。
知識や技術が、もしも神でなければできなかったであろうという領域に踏み込んだとしたらどうだろうか。
神は、間違った使い方をしないように慎重に判断しているはずではないだろうか。
一歩間違えれば、取り返しのつかない結果を招くからこれまで封印をしているとしたらどうだろうか。
神は、人が対処可能な範囲で知識や技術を高めていくように導いてきたのではないか。
そして、人びとが神を恐れていた間は知識や技術はその範囲に収まっていた。
知識や技術が爆発的に飛躍したのは、神を恐れなくなってからだ。
自らの力に自信をもっていくこと、それ自体は悪いことではないだろう。
問題は、高慢にならないように気を付けられるかどうかだ。
生産と流通が人びとの必要に応えて行われる社会から、欲望のために行われる社会に変わってきた。
資本主義は、利潤追求という限界を知らない欲望を制御困難にしてしまった。
科学や技術が神の領域に踏み込んだ以上、知性や理性や倫理や道徳をも神にふさわしい段階に高めないといけないと誰もが危機感を持っているだろう。
だが自分が自制しても、出し抜かれたら敗北するのが資本主義なのだ。
もはや、資本主義を卒業した方が良い。
地球上のすべての人の必要を満たせる生産と流通が実現できたのに、現実はそれが困難になっている。
神にふさわしい段階へと知性や理性や倫理や道徳を高めないと、ここまで高まった生産と流通を全ての人の幸せのために生かせない段階にきている。
科学や技術は人類の能力がすでに神の領域に踏み込んだことを、目に見える形で示しているのに過ぎない。
いまこそ、謙虚で素直な心になって神の領域にふさわしい知性や理性や倫理や道徳とはなにか真剣に考えるべきではないか。
神の国と言うと、「神なんかいないのだから神の国などというものも、有り得ない」と思う人が多くないでしょうか。
神の国を「誰もが幸せに生きる理想的な世界」と言い変えたら、どうでしょう。
「誰もが幸せに生きる理想的な世界」なら、誰だって住みたいはずではないでしょうか。
古の人はそれを「神の国」と呼んだ、それだけのことではないでしょうか。
では、どうしたらそういう世界に近づけるのでしょう。
それには、個々の人や企業や組織や集団や国が自分の利益の最大化を競い合うことを大前提とする価値観を改める必要があるのではありますか。
誰もが自らの必要以上に求めず不足に悩む人や企業や集団や組織や国があれば惜しみなく分け与えあうことが当たり前になるならば、「誰もが幸せに生きる理想的な世界」に近づけるのではないでしょうか。
それには、生産や流通の目的を利益追求とする社会から一人一人の需要に寄り添うために行う社会に変える必要があるでしょう。
必要を上回る莫大な富を手にする人々がいる一方で明日の糧もままならない人々がいるのでは、「誰もが幸せに生きる理想的な世界」といえるでしょうか。
もしかしたら、明日の糧もままならない人々の中に素晴らしい能力や可能性を持っている人がいて、有り余る富の持ち主を喜ばせることをできるかもしれません。
しかし今のままでは、永遠にその展望が見えないではないでしょうか。
豊かな能力や才能の持ち主が誰もが等しく豊かな富を手にできる機会を保障されるべきであり、その富を惜しみなく分け合い乏しさのために悩む人が一人もいない世界を当たり前にする方がよくないでしょうか。
神とは、その理想の実現を求める永遠不滅の権威の象徴と見ればよいではありませんか。
そして、私たちの目指すべき境地の象徴と見ればよくないでしょうか。
イエスや仏陀が口をそろえて、道を説くのは偶然ではありません。
仏教やキリスト教や、古代から綿々と続く教えは至高の存在への道を説く教えなのです。
真理が一つである以上、その象徴としての神もただ一人であり沢山の名と数多くの働きがあるために複数の神がいると思われたのに過ぎません。
謙虚で素直な気持ちでみんなが力を合わせて課題に向き合うなら、見出す答えもひとつになるでしょう。
頑なな心を捨てて、どこまで素直に現実に向き合えるかに人類の未来はかかっています。
AIのある未来は、ユートピアだろうか、それとも、デストピアだろうか。
あなたは、考えたことがあるだろうか。
AIはビッグデータをもとに判断をする以上、そこには当然私たちの価値観や価値基準も含まれる。
AIがどういう判断をするかは、どういう価値観や価値基準を学習するかで決まる。
つまり、AIの下す判断は使う人たちの本音と本心を赤裸々にあばきだしたものになるってこと。
AIの下したあまりの倫理や道徳に照らして問題のある判断に、運用停止した前例もあるそうだ。
これから先、科学や技術はこれまで知りえないとか実現は困難と見られていた水準にどんどんと踏み込んでいく。
携わっている科学者や技術者は、これまで以上に説明が難しい内容をこれまで以上に一般の市民に向けて知らせていく努力と工夫が求められるようになる。
表現力や発信力はこれまでは文系の分野とされてきた傾向があるけど、これからは理系の人々にも磨きをかけてもらわなければならない。
それは言い換えれば、文系とされてきた人々もまた科学や技術をどうわかりやすく表現し発信するかを一緒になって模索していくことが求められるとなる。
もはや理系とか文系とかの、境目は外す方が良い。
ますます科学や技術も理解を求めて発信力が必要となるし、一般の市民にも科学や技術に自分はどうかかわるかを理解し判断することが求められるからね。
紛争解決のためには原理や原則をみんなが守ってとことん話し合うとか、個性や事情は尊重しあい互いに助け合い支えあうとか、すべての人は謙虚で素直になり平等の立場であると認め合うとか、これらの建前をいかにうまく使いこなすか努力している姿や価値観をビッグデータとして学習させる必要があると考える方が良い。
さもなければ、デストピアが待っていると覚悟することだ。
いま、年収103万円の壁をはじめ、様々な制度上の課題や問題が議論されている。
いわゆる現実的な対応と称する議論をする人たちが、この課題を提起したのだ。
だが、議論をすれするほど乗り越えるべき課題と財源に充てるべきものを探す難問がいくつも立ちはだかる現実に突き当たるだろう。
私はこの現状に、これらの聖句を思い起こさずにはいられない。
マタイによる福音書 7章
13 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。
14 命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」
15「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。
16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
17すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
19良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
年収103万円の壁、解決そのものは必要だが財源問題もある。
だが下手をすれば、国債増発や消費税増税を財源に充てるという議論が出る可能性も否定できない。
日本共産党は企業の内部留保課税で全国一律最低賃金1500円の実現という形で回避の道を示したが、国民民主党は財源も示さず提案したからこういう事態になったのだ。
選挙の中で与党は国民民主党の提起に対して、財源に充てるものを言わないとは無責任との批判を避けた。
財源問題を言えば、泥沼にはまるのは目に見えていたからだ。
そして日本共産党の提起は黙殺したが、自由民主党は多額の企業団体献金を失うことを恐れ議論に巻き込まれない道を選んだのだ。
大手メディアといえば彼らも財界や大企業が主要なスポンサーだし、NHKも予算の審議が国会でなされるので議会第一党の自由民主党を敵に回せば予算の審議に差し支えるから下手な真似は出来ないのだ。
課題があるとき、乗り越えるための対応には二通りの道がある。
正面突破と、回り道を見出して回避する道を行くことの、選択という二通りの道だ。
日本共産党は全国一律最低賃金1500円以上の実現で、根本的に回避する道を示した。
財源問題には、溜まり過ぎた大企業の内部留保に時限立法で課税して中小企業支援に充てるという解決策を示している。
大企業も最低賃金全国一律1500円以上を実施した方が良いことはわかっていても、他が足並みをそろえてくれないと自分がばかを見るからできないでいる。
ならば、政治が権限を使って命令するしかない。
どうせ使い道がなくて溜まっている内部留保だから、ちょっとくらい吐き出したところで当面の経営には大して響かない。
むしろ地方の経済が元気になれば、新たな投資や収益の機会が増える。
やりようによっては、それぞれの企業は吐き出した以上に利益が上げられるだろう。
国債増発や消費税増税を財源に充てることのない道がある以上、国民が選ぶべきなのはそちらの道があるならそちらに進もうと声をあきらめないで上げ続けることだ。
そんなものあるかという人には、これらの聖句をお送りしよう。
マタイによる福音書 7章
7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
8 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
9 あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。
10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。
12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
先の引用した聖句にある救いに至る狭く小さな道も、諦めずに探した人だけが見出し歩むものなのだ。
マタイによる福音書 6章
33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
マルコによる福音書 10章
14 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
15 よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
実現には、国民が声をあげることが大切だ。
主権者である私たちの声を聞けと、行動を起こすのだ。
声の上げ方には、署名や請願行動をしたりデモや集会で要求実現を求める姿を目に見える形にすることもある。
全国的に各地で創意工夫を凝らした行動を組織すれば、より効果的だろう。
遠回りに見えても、余計な苦労をするより内部留保というお宝があるならそれを使おう。
経済活動が元気になれば、企業は吐き出した内部留保に見合う収益や利益を上げやすくなる。
金は天下の回り物、そして大企業は自分たちのもとに富が集まる構図を作っている。
せいぜい知恵を絞って、市場で回収することを考えた方が良いぞ。
共産という言葉は、日本語だとあまり類語がないのです。
一方で英語のコミューンという語は、コミュニティとかコミュニケーションと語幹を共有しています。
つまり、対話や共感を大事にして平和に共に生きる道を一緒に探そうという思想がコミュニズム(共産主義)ということでしょう。
日本共産党の目指すのは、そういう社会ということではないでしょうか。
日本共産党が共闘で変革を進めようとするのは、単に綱領に決めているからというだけではないのでしょう。
みんなで一緒に社会をよくしていこうという共産主義の基本に、忠実に活動しているからごく自然なことなのかもしれません。
だから、様々な運動とも常に連帯や連携をして議会や行政に働きかけることはごく当たり前にできるししようとするのでしょう。
それで、相談や陳情が集まりやすいとなるのではないでしょうか。
共産主義と言うのは、社会に働きかける手段と言うより手法と言うか手順に近いのではないでしょうか。
つまり、どういうことかということです。
共感や対話を大事にしながら平和に共に生きる社会を目指す方向を示す、道の探し方や歩き方の指南ではないのかというのです。
だから社会主義や共産主義の世界の青写真は、ないのかもしれません。
腸内フローラという考えがある。
腸内フローラは、善玉菌と悪玉菌が3割日和見菌が7割で構成される。
健康は、善玉菌が優勢で保たれ悪玉菌が優勢になるとがんなどが悪化しやすくなる。
そこで、乳酸菌やビフィズス菌のような善玉菌を積極的に摂る必要がある。
なんだか、政治みたいだな。
立場で見方が変わるけど。
ちなみに善玉菌は積極的に摂るだけじゃなく、オリゴ糖や食物繊維も意識して摂って元気にする食習慣が必要だ。
善玉菌を摂って増やすだけじゃなく、元気に保つ日頃の心掛けがいる。
政権交代をするとか良い憲法や法律は出来たら安心しないで、保つ心掛けがいる。
腸内フローラ、聞けば聞くほど政治だな。
腸内フローラが悪化すると精神に悪影響が出るし、ストレスをやわらげると腸内フローラは改善していく。
言ってみればブラック企業やダメな政治家や政党がはびこると精神を損ない、労働時間短縮や環境の整備でホワイト企業や国民のために働く政党や政治家を増やす気になる人が増えるようなものか。
ついでに言うと、小さながんはしょっちゅうできているけど腸内フローラで善玉菌の優勢が保てていれば小さな内に免疫系の働きで排除される。
悪玉菌が増えるとがんがはびこりやすいので、意識して善玉菌を摂って養う食習慣やストレスをためない生活を心がけることが推奨される。
身につまされるな。
日頃の体調管理や生活から仕事や政治に至るまで、小さな改善の積み重ねを怠らないようにしないといけない。
忘れがちだけど、気を付けないといけないな。
自戒を込めて。
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