経済・政治・国際

戦火から国土と国民を守ってこそ真の国防。

第二次世界大戦後、アメリカ合衆国は自国が戦場にならなかった代わりに、世界各地を戦場にしてきました。
その結果、どうなったでしょう。
国を相手にした戦争よりも厄介なテロリズムに悩まされる事態を招いて、手を焼いているではありませんか。
そして、テロリズムの悲しみは更に怒りの連鎖となって、新たな戦争やテロリズムの火種となっていくのです。
つまり、どこの国の領土領海領空も、戦場にしたらダメなんですよ。
戦争は新たな戦争の火種しか生まないことは、人類の歴史が証明しています。
国際的な問題の解決する手段として武力を用いないと宣言した9条と、平和を愛する諸国民を信頼して安心と生存を保持しようと決意した前文を持つ日本国憲法を最大限に生かす外交と内政こそが、最高の国防なのです。
これを実践すれば、感謝されこそすれ恨まれる筋合いはないでしょう。
戦争したくてたまらない人たちは別でしょうが、誰もそのレッテル貼られることは望まないでしょ。
少なくとも建前ではね。
兵法で有名な孫子は「百回戦って百回勝つより、戦わないで勝つ方が良い」と言います。
負けたくないからと軍拡を続けて軍事費が膨大になり、例え勝ったとしても割が合わないのでは馬鹿馬鹿しいではないでしょうか。
まして日本は、寺の鐘まで供出した挙句に、首都東京をはじめ全国各地が空襲で甚大な損失となりました。
多くの血と涙が虚しく流された教訓の中から生まれたのが、日本国憲法です。
誰が草案を書いたにせよ、日本人自身が審議して自分たちが納得して制定したのが今の日本国憲法なのです。
祖国の国土と国民を守ることが国を守ることだというなら、戦争によって祖国の国土と国民が損なわれることがないように努めてこそ、本当の国防なのではないでしょうか。
違いますか。
国際的な問題解決に武力を用いないと世界に公約した9条と、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安心と生存を保持しようと決意した前文を持つ日本国憲法の可能性をとことん汲みつくす外交と内政のために最大限の努力を惜しまない姿を示し続けるなら、掛け値なしに「日本すごい」と称賛されるでしょう。
違いますか。

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音楽は政治と無縁でいられるのか。

音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、音楽はそもそも、演奏者と聞き手がいて成り立つ営みです。
聞き手は良いねと思わなければ、最後まで聞いてくれないでしょうね。
音楽は聞き手という名の同志がいてくれて、初めて成立する行為なのです。
演奏者も複数いてはじめて成立する曲は共演者という同志が必要、場合によっては作詞作曲の同志も必要になります。
つまり、音楽は何人もの同志に支えられて成立する社会的な営みと言えます。
その意味では、音楽は一種の党派性を持つとも言いえるでしょうね。
フアンという支持者獲得も、時として必要となるのです。
協力者や共演者や聴衆という同志や支持者を獲得する行為は、政治活動と本質的にどう違うのでしょうか。
政治的メッセージを盛り込むか否かの差なのですよ。

音楽に政治を持ち込むなという人は、アリストテレスの人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」という言葉を知っているのでしょうか

アリストテレスは著書『政治学』において、人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」と述べました。
「ポリス」とは、都市、都市国家、市民権または市民による政体を指すギリシャ語です。
つまり、「人間は政治的な営みをする動物である」のです。
社会的な営みは、複数の協力者=同志の存在無しにはあり得ないのです。
そして、限られている時間や場所、時として資源をめぐって協力し合うことも競い合うこともあるのです。
ここで言う資源とは、目的を実現するのに必要な人・モノ・金と思ってもらえば良いでしょう。

これらはまさに「政治的営み」に他ならないでしょう。
いわゆる政治的課題が絡む行為は、人の行う政治的営みのごく一部でしかないのです。
つまり、音楽もまた人間の営む政治的営みの一つに過ぎないと言えるでしょう。
音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、本質的に無理なのです。
人の営みは、政治的営みだらけなのだからです。
逆に言えば政治的課題は、人の政治的営みの中の緊急的対応が求められているものと言えるでしょう。
いわゆる政治的課題が厄介なのは、立場や利害が絡むからなのです。
何らかの立場や利害の無い人は、ほとんどないでしょ。
違いますか。

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守るべきは雇用以前に人間らしく生きることではないでしょうか。

介護や育児で離職した人の職業への復帰支援、場合によっては、介護や育児との両立可能な就労形態だって、考える必要があります。 

 

人間らしく生きられるための生計保障制度の確立と拡充を求める運動に舵を切らないと、正規雇用を守れだけでは正規雇用さえ守れない時代がやってきます。

 

いや、すでに来ているかもしれないのです。 

 

ブラックな企業や職場、自分に向いてない企業や職場、将来性が見通せない企業や職場、そう感じたり思った人たちが転職や転業、キャリアアップなどのために必要な学び直しをしたいと考えても、先立つものがなくて無理した挙句に解雇されたり体調を崩す人達がいます。 

 

人手不足を言うなら、彼らのような事態をなくせといわなければならないのです。 

 

心機一転が得意な人もいれば、関連分野でないと転職や転業が難しい人もいます。 

 

それを知っているからこそ、生活保護を生活保障制度に拡充し、新しい仕事に慣れるまで生計の下支えをしてくれる制度の必要を説くのです。 

 

永続する仕事はないし、業態が永遠不変な業種もないのです。 

 

適応を支援する必要があるのです。 

 

労働力の流動化は、何も不安定な非正規雇用を増やすことではないのです。 

 

正規雇用100%であっても、転職や転業、キャリアアップなどを目的とした学び直しのために、生活保障制度を積極的に活用できるよう抜本的な改革をすべきです。 

 

政府と経営者側が雇用の柔軟性を言い出したら、首切りしやすい環境整備と労働者が反発するのは当然で、生活は守らなければならないからです。 

 

とは言え、自分の雇用を守ることが誰かの失業の犠牲の上に成り立つ後ろめたい状態が一方で作られ、労働者は分断される事もあります。 

 

だが、希望者全員正規雇用は現実的なのでしょうか。 

 

希望者全員正規雇用は理想であり追求されるべきだが、何時も可能ではないはずです。 

 

時として誰かがあぶれ、それはあなたかも知れないです。 

 

だとすれば、転職や転業、更には起業支援も含む生活再建支援の制度が必要であり、生活保護を含む生活支援制度が必要であると、運動する方が良いでしょう。 

 

誰かのためにではなく、自分のために必要なのです。 

 

労働力の流動化は、何も不安定な非正規雇用を増やすことではないのです。 

 

正規雇用100%であっても、転職や転業、キャリアアップなどを目的とした学び直しのために、生活保障制度を積極的に活用できるよう抜本的な改革をすべきです。 

 

経営者は、変化が激しい時代にフットワーク軽く適応する必要があるのです。 

 

必要最低限の人材と柔軟に仕事を委託できる人材に雇用を分け、最低限の人材も最小限にしようとしているのです。 

 

希望者全員正規雇用したくても難しいのです。 

 

転職や転業が困難な人達も、例外じゃないから、セイフティネットの充実が必要なのです。 

 

受け身と守りのセイフティネットから、人間らしく生活し就労できるよう支援する生活保障制度へと舵を切る必要があるのです。 

 

旧態依然の雇用を守れだけの運動では、守るべきものも守れないのです。 

 

経営者に、あなたは経営者である前に人間だろ、と言うくらい彼らにとって残酷な言葉はないでしょう。 

 

経営者である前に人間であれと自らに課す人ほど、人間である前に経営者でなければならない現実とのギャップに苦しむことになるのです。 

 

雇用を守ろうとすればするほど、従業員に新しい仕事へのチャレンジを求める事になるでしょう。 

 

新しい仕事へのチャレンジを求められた従業員には、受けて立つ人もいれば何で私がという人もいるはずです。 

 

問題は、何で私がという人で、引き留めたい経営者の気持ちに反して、離職する場合もあるでしょう。 

 

とは言っても、彼らへの支援は、一企業の手に余るのです。 

 

だからこそ、公的な、転職や転業、更には起業支援も含む支援体制が要るのです。 

 

転職や転業、更には起業支援も含む支援体制があっても、その間も生活があります。

 

最低限の生活保障制度も含む生活支援制度の確立と充実は、だからこそ必要なのです。

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生きやすい社会について考えてみた。

障碍者が、自分はお荷物なのかって不安になる社会って、滅茶苦茶ブラックな働き方蔓延な社会だと思うのです。


万能な人間なんていない、そうじゃないですか。


誰かにどこかサポートされる必要がみんなにある、ちがうでしょうか。


その意味じゃ、みんながある意味では「障碍者」ではないでしょうか。


誰もがそれを自覚して、本当のバリアフリーな社会になれると思うのです。

 

神様は万能とか全能とかよく言われます。


では何で、多くの神様がいたり、天使がいたりするのでしょう。


神様だって、全ての人々を救うために、他の神様や天使たちの協力が必要なわけではないでしょうか。


世界を管理していくのに、他の神様や天使と協力する必要が神様でさえあるではないですか。


まして神様じゃない私達は、どうでしょうか。


誰かに助けてもらって何かが出来る、そうじゃないですか。


自分のしたいことするのに誰かに助けて貰う必要があるのが障碍者なら、100%の健常者ってこの世にいるのでしょうね。


だから、バリアフリーがいるのではないでしょうか。

 

 

多くの人が私は自立しているって、言いませんか。


あるいは、自立しようとしていませんか。

 

でも、水や食べ物や電気やガスや交通や住宅、そして衣料、誰かに助けられてない人ってどれだけいるでしょうか。


まして、病気になったら、誰かに出来れば診てもらいたい、そう思いませんか。

 

自立に誰かの助けがいるのが障碍者なら、私達みんな障碍者、そう言ってはおかしいでしょうか。


誰もが誰かの助けが得られることを前提に生きている、それを前提として考えてはじめて、生きやすい社会に出来るのではないでしょうか。


違うでしょうか。

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バリアフリーやユニバーサルデザインを考えてみた。

バリアフリーとか、ユニバーサルデザイン、とか聞いたことがある人、皆さんの中にもいるでしょうね。

 

健常者も障碍者も使い勝手がいい事、それがバリアフリーとか、ユニバーサルデザインの目標であり、目的です。

 

私は出来るだけ「障碍者」の表記を使うつもりです。

 

「障害者」表記が、普通に生きたいだけなのに毎日の生活がまるで「障害物競走」と感じている人、と言う意味で使われているなら、それもありでしょう。


でも現実には、障害物扱いしているようで、あるいは、障害物扱いされているようで、違和感や不快感を覚える人たちもいます。

私もそう感じている一人です。

 

常用漢字表から「碍」の字が外されたために、「障害」の字があてられるようになって、様々な違和感を訴える人達がでたが、当然のながれでしょう。

「障碍者」表記を広めようとする動きがあるのは、嬉しいです。

 

障碍者は、自らの心や体に何らかの障害があるために環境に適応しにくくて困っている人ではなく、周囲の配慮が足りないために普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられている人と考えたらどうでしょうか。

 

障碍者に暮らしやすい環境は、実は誰にとっても暮らしやすい環境と言う事になるでしょう。

 

普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられていると感じている人がほとんどいない、それが当たり前な環境が、実はバリアフリーな環境なのではないでしょうか。

 

そう発想を転換したら、どうなるでしょう。

 

ホワイトな労働環境の職場とは、障碍者に対して働きやすい配慮のある職場、そうなると思いませんか。

 

障碍者であっても能力を最大限に発揮できる配慮のある職場は、健常者にとっても快適な労働環境の職場ではないでしょうか。

 

人手不足と言うなら、障碍者も働きやすい環境を作って彼らの能力を最大限引き出せるようにした方が良いでしょう。

他社に先駆けた方が、あなたの求める人材が集まりやすくなることでしょう。

 

障碍者とは、周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている人と見れば、乳母車の人も、もたつく高齢者も、ある意味障碍者となるでしょうね。

 

子育てや、介護や看病、これらが元で周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている立場になっている人は皆、障碍者的な状態に一時的にせよいると見たらどうでしょう。

 

つまり、障碍者とは特別な人達ではなく、人生のある段階では誰でもなり得る状態なのではないでしょうか。

 

そう考えると、バリアフリーは実は、自分たちのためになる、そう思いませんか。

 

ユニバーサルデザインは、みんなのためになるデザインのことなのです。

でも、無個性、没個性とは違います。

誰もが、使いやすい、使い勝手が良い、そう感じるように工夫する事なのです。

 

その場所や地域の特徴にあった、誰もが使いやすいバリアフリーな施設や設備、システムを考える事がユニバーサルデザインを考える事なのです。

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メディアとどう付き合った方が良いでしょうか。

メディアは真実を伝える存在と思わない方が良いのです。

多くの人々は、この事に気が付いていません。

 

断片的な事実や情報は正しい内容を伝えるけれど、本当は何が起きているか、何が本質的か、伝える存在には必ずしもなっていません。

残念ながら、これが現実です。

もっとメディアを疑いましょう。

 

NHKでさえ海外ドキュメンタリーの制作で、再現であったにもかかわらずリアルタイムと誤解を招きかねない編集をしていた事実が発覚したことがありました。

 

伝えた出来事自体は実際にあったことだが、再現であることを伝えなかったために取材の最中に起きたと誤解を招く結果となり、やらせとして問題になったのです。

 

テレビは絵になる映像を撮ろうとするあまり、目の前にある事実は伝えても真実を伝えないメディアになる危険を常に持った存在だと言う事を、視聴者である私たちは知っておいた方が良いでしょう。

 

この能力を高める努力を、怠らないようにしたいものだといつも思っています。

 

それには情報収集を怠らない事です。

 

絵になる場面や瞬間をとらえて伝えようとするのは、テレビに限らずメディアに共通している事と思った方が良いでしょう。

 

本質は何かを使えるには相当深く知識と理解を持つ必要があるが、メディアの現場にいる取材陣は必ずしもこれが出来ているとは限らないのです。

 

むしろ、取材の中で本質に迫っていくのです。

 

つまり、いきなり現場に行って取材している彼らに本質を伝える事を求めても無駄と言う事になるでしょう。

 

彼らに期待できるのは、目の前のリアルな現実を使える事でしょう。

そこから何が本質かを導き出すのは、受け手である私たちの仕事になるでしょう。

 

だからこそ、常日頃の情報収集とそれの理解が必要でしょう。

メディアはそれを助けるべき存在ではないでしょうか。

個々人の努力で情報収集を十分するのは困難です。

 

メディアは判断の資料を提供する努力を怠らないで欲しいのです。

断片的な情報をただまき散らすだけなら、メディアはかえって真実を知るうえで有害な存在に堕落するのではないでしょうか。

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国体護持を考えてみた。

日本国を私物化したい輩にとって、一番厄介な存在は、実は天皇陛下ではないでしょうか。


なぜなら天皇陛下は、公私ともに現行憲法絶対尊重絶対遵守の立場で貫かないと皇室の存続自体を危うくしかねないわけです。


それである意味今の憲法に一番忠実なのは、実は天皇陛下かもしれません。


つまり、改憲論者の議論に巻き込まれることは天皇陛下とって、迷惑行為以外の何物でもないことになり、利用されそうになればなるほど護憲の立場を明白にされることになるでしょう。


護憲派は天皇陛下と皇室を、改憲派の天皇陛下と皇室を自分たちの目的のために利用しようとする陰謀からお守りせねばならない立場に、置かれたと言えるかもしれません。


国体とは、天皇陛下と皇室の存在を日本国の本質の中心に据えると言う事であれば、現行憲法もまた国体護持を最優先させて生まれた憲法と言う事になるでしょう。


現行憲法を全面的に尊重し遵守する限りにおいて、天皇陛下と皇室は自分たちを利用しようとする勢力から国民に守られることになるわけです。


政治的責任を問われるなら、国体護持は危うくなるからです。


これまで天皇は、全権委任する代わりに政治的責任も全て取らせたと言えるでしょう。


国民主権とは、国民が選んだ代表は国民から全権委任された代わりに全ての責任を国民に対して選出された代表は負わねばならないと言う事です。


そして、国民もまた、選出した責任を負わねばなりません。


一方天皇は政治への実権がない、政治的責任は天皇陛下には及ばないことになります。


つまり国民に国体護持は委ねられたと、言えるかもしれません。


共産党でさえ天皇制を含む現行憲法をこれからも守り続けると、明言したことを思えば国体護持のためにこの憲法を受け入れる選択は皇室にとって正しい選択だったのです。


共産党は国民が発議しない限り、天皇制存続の是非が問われることはないと言っています。


皇室は国民から慕われ、敬われる存在であり続ける限り、存在の是非がさしあたっての政治的課題として意識されることはまずないでしょう。


憲法尊重と遵守の立場を繰り返し明らかにし、細やかな心遣いのできる心優しい人格者であり続けるならば、少なくとも存続の是非を問うべき存在として、多くの国民から意識されることはまずありません。


日本国憲法では、天皇は政治への実権を失う代わりに、政治への責任からも解放されたわけです。


象徴天皇の役割に徹しさえすれば、後は祭祀に専念できると言う事になるのです。


そう考えると、明治憲法に逆行しようとする動きは天皇陛下と皇室に政治敵責任がおよびかねない危険にさらされることになるので、国体護持の立場に立てば余計なお世話なのです。


むしろ現行憲法こそ、ある意味で天皇陛下と皇室を古来の位置に戻したものと言えます。


だからこそ、天皇陛下と皇室も受け入れたと言えるでしょう。

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長時間労働を見直さないと子供たちの知能に悪影響があるかも。

この頃、子供たちのご飯離れが進んでいるといいます。
 
味がしないという理由が多いそうだが、噛む回数が半減していることが主な原因とされます。
 
だが、背景には家族団らんの時間が欧米の50%以上あるのに対し、日本は2割を切っていることがあると指摘されます
だとしたら、両親がご飯を味わってよく噛んでいる姿を見せるべきでしょう。
 
家族団らんの時間が少ない上に父親不在の食卓が当たり前となってないでしょうか。
それじゃ、てんてこ舞いな母親が、ご飯をよく噛んで美味しそうな顔で食べる姿を子供たちに見せることは絶望的に難しいのではないですか。
 
ご飯職を本気で守ろうと言うなら、今のうちに長時間労働を改めて父親も参加した家族団らんの食卓を復活させた方が良いでしょう。
ただし、食卓の支度や片付けを母親だけにしわ寄せするのではなく父親も参加した家族のイベントとして定着させる取り組みも必要でしょう。
今時の父親であれば、家族との触れ合いの時間として喜んで加わる人は多いかもしれません。
 
多少の手際の悪さを大目に見て回数を重ねれば、家族の一体感だって深めると思うのです。
 
よく噛むことは、知能の発達にも良い事はよく知られています。
 
子供たちの噛む回数の半減の背景に、父親不在な上に十分な時間が取れない個食化した食生活があるとしたら、日本の長時間労働は長い目で見れば子供たちの知能の発達にまで悪影響を及ぼす悪弊になっていると言う事ではないですか。
 
もっと危機感を持って欲しいのです。
 
日本で好まれているパンは、欧米に比べて柔らかすぎます。
ヨーロッパのパンは、フランスパンのようにもっと噛み応えのあるものが結構あるのです。
本場フランスのフランスパンは日本のものよりも歯ごたえがしっかりしているし、肉だってそうです。
 
噛む回数が減っていると言う事は、日本の知能の発達の危機でもあるはずです。
 
さらには、個食の増加を含めた家族団らんの時間の減少も、子供たちの知能に対する刺激を偏らせる事につながりかねない危険性をはらんでいるのです。
 
噛む回数の減少と重ねると、子供たちの知能に良いわけがないでしょう。
 
忙しいなんて言ってる場合じゃないですよ。
危機的状況になってからじゃ、遅いのです。
たかが食生活、されど食生活なのですから。
 
食べるという行為を、甘く見ちゃいけないです。
 
十分な睡眠と並んで、心と体づくりの基本中の基本なのです。

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千島問題の解決は歴史が指し示す方向に従うのが一番の近道。

北方4島と政府は言うが、千島樺太交換条約の前は樺太は日露雑居です。
 
4島言うなら樺太雑居も言わないと一貫性がないのです。
 
千島樺太交換条約は樺太雑居を解消のため、樺太をロシアに譲り北千島全島が日本領とすることを平和的に決めたのです。
 
連合国側が日本に放棄を迫れるのは戦争絡みで取得した領土だけです

連合国側が日本に千島放棄を迫るのは、自ら定めていた終戦処理原則に反するのです。
 
日本はそれを論拠にサンフランシスコ講和2条C項の千島放棄に関する部分の撤回を、関係国に求められるはずです。
 
憲法前文と9条に忠実な国ならできたはずで、千島放棄を迫る根拠は連合国にないはずです。
 
日米安保条約を日米の平和的な友好関係のための条約に変え、日本は外交と自衛隊で自国の領土領空領海を守り切る決意を固めるのです。
 
そうすれば、仮に返還された千島に自衛隊が配備されようとロシアがとやかく言う筋合いはないです。
 
北東アジアの海の平和と安全を、協力して守れば良いのです。
 
外交も憲法に従おうではありませんか。
 
ロシアが千島への自衛隊配備にとやかく言わないようにする必要があります。
 
ロシアに文句言わせないためには、個別的自衛権行使に徹し普段は災害救援隊として活躍した従来の姿に戻って、憲法前文と9条に則った運用をすれば良いだけの話です。
 
何も難しいことはないではありませんか。
 
安倍政権以前のどの政権もやってきたことではありませんか。
 
歴史と憲法を踏まえた外交に、保守も革新もないです。
 
その気になれば野党連立政権で実現実行が可能なはずではありませんか。
 
それをやってくれる野党連立政権が、早くできて欲しいです。
 
それは拉致問題解決前進にも、役立つはずです。
 

野党はできない理由を四の五の言わず、早く結束して政権交代して欲しいのです。
私は何か無理な注文をしているでしょうか。

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パブリックとリパブリックを考える。

洋風居酒屋はパブなどと呼ばれるが、パブリックハウスの略です。

パブリックの主な意味は、国民一般の、国民全体の(ための)、大衆の、公共の、公衆の、公衆用の、公開の、公立の、(政府の仕事をする意味での)公務の、公事の、などがあります。

居酒屋=パブリックハウスとは、大衆の家と言う事になります。

居酒屋=パブリックハウスと言う事は、様々な議論をしあう場でもあります。

日本でこのようなオープンな場があるでしょうか。

いくら格好だけまねても、仏作って魂入れずになっているそんな場所が日本は多くないでしょうか。
公園や広場だってそうではないでしょうか。

公園や広場は本来パブリックスペースなのです。

誰もが気軽に立ち寄って交流しあう場、様々な議論をしあう場です。

パブはそのような空間の一部なのです。

このような空間は、歴史的な背景の違う日本ではなかなか根付かないようです。

70年安保やベトナム戦争反対運動盛んな時、そう言う場が出来かけたが広がらず定着しなかったですし。

だが今、日本でも市民の連帯の輪が広がりつつあります。

日本の文化や風土に合ったパブリックスペースの作り方の模索は、いつ、どのような風に始まり、広まっていくのでしょうか。

しばらくは試行錯誤が続くでしょう。

どのような形、どのような展開になるか、気になるし、楽しみでもあります。

パブリックの前に、再びと言う意味の”リ”を付けるとリパブリックになります。 再びと言う意味の”リ”が、リユース・リデュース・リサイクルの頭の”リ”と同じ意味の接頭辞だと気が付くと、面白いことがわかってくるのです。
       リパブリックの主な意味は、共和国、共和政体、(フランスの)共和制、(共通の目的を持つ人の)…社会、…界などとされます。

パブリックの主な意味は、国民一般の、国民全体の(ための)、大衆の、公共の、公衆の、公衆用の、公開の、公立の、(政府の仕事をする意味での)公務の、公事の、などです。
ここに「再び」を意味する”リ”が付くと、リパブリックになるのです。
政治を、国民みんなの手に、大衆の手に取り戻すのがリパブリックだ、ということでないでしょうか。

リパブリックが政治を、全ての国民の手に、大衆の手に取り戻すことであるなら、まずそこには政治を取り戻す主体としてのパブリックが無ければならないでしょう。
国民みんなが政治を自分の手に取り戻してこそ、本来のリパブリックになる。 違うでしょうか。
参加しないのは自らを余所者や客人の位置に置くのと、どう違うのでしょう。

リパブリックとは、国民全体のために政治を行うために国政の主導権を国民がみんなの手・みんなの力で取り戻すことであり、そのような国を守り抜くことではないでしょうか。
国作りに参加しないのは、自らを余所者や客人の位置に置くことにほかならない。 そう思いませんか。
自らの意思表示をして、参加してこそリパブリックの国民。 そう思いませんか。

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