経済・政治・国際

どういう立場に立って各国の位置関係を見ると良いのか考えてみた方が良い。

北朝鮮がアメリカに対して挑発的行動を取り続けているのです。

北朝鮮に圧力をかけて態度を変えさせようとして、いくつかの国々が動いています。

 

北朝鮮が態度を変えないなら、石油の全面的な禁輸も辞さないと言う強硬論も出ています。

 

だがロシアは、それに異を唱えているのです。

 

対話の道を模索し、進めていくべきだとしているのです。


それに対して、様々な推測や憶測が当然のように出てきています。


しかし、ロシアにどのような思惑があろうと、その背景にはどういう事情があるか考えた方が良いでしょう。


その結果、ロシアに対してどのような働きかけを選択するにしてもです。

 

まず考えられるのは、ロシアは北朝鮮と陸続きだから、もし北朝鮮の民衆に何かあれば、難民問題など厄介な事態を抱える可能性が大いにあると言う事です。


だが、影響はそんな段階で留まるはずはないと考えるのは自然なはずです。

ロシアは北朝鮮が陸続きの隣国である以上、どんなに可能性が小さかろうと最悪の事態回避に動くのは当たり前ではないでしょうか。

そこを理解すべきなのです。

 

仮に北朝鮮へ石油輸出を全面的に止めたとします。

ロシアは最も近い産油国なのです。

輸出再開を力づくでも迫ってくることは、当然想定の範囲でしょう。

もし、どちらから業を煮やして戦端が開かれた場合、核で威嚇しあう事態になり、北朝鮮がロシアに核を使いかねないと最悪の事態を想定し全力で回避行動をとるのは当たり前ではないでしょうか。


北朝鮮への石油禁輸を実施したらABCD包囲網で石油禁輸された日本が真珠湾奇襲をしたような行動を北朝鮮は取るかと言う問いに、ロシアはないとは言い切れないと懸念している可能性は否定しない方が良いと思うのです。

そして実際に、最悪の事態の事態はあり得るとの判断を示し、各国の理解を得たいと願っているではないですか。

北朝鮮がアメリカ・ロシア・中国の三国を翻弄出来るのは、緩衝地帯としての地政学的な位置にあるからです。

北朝鮮は自覚しているか否かに関係なく、やらざるを得ないし出来るからやっているのでしょう。

 

アメリカ・ロシア・中国の三国の緩衝地帯としての地政学的位置にあるにもかかわらず、韓国や日本がそれをやっていないからですよ。

だが韓国や日本は恐らく、自らの地政学的立場を理解していないし、利用してもいないようにみえるのです。


従来の大国のパワーバランス理論の束縛から、出られないからでしょう。

近視眼的なリアリズムが、邪魔しているのです。


日本を中心とした世界地図を見て欲しいのです。

0f79aad2

日本が、アメリカ・ロシア・中国の緩衝地帯としてこの三国を翻弄出来る地政学的位置を理解して欲しいのです。

 

仮に半島が中国とロシアのどちらにつこうとも、日本のアメリカ・ロシア・中国の緩衝地帯としての地位は揺るがないはずです。


しかも経済力もあるではないですか。


かつてより順位は落ちたかもしれないが、それでも十分な高さと大きさがあります。

 

北朝鮮がロシアと中国を翻弄出来るのは、北朝鮮の緩衝地帯としての地政学的位置をロシアも中国もわかっているからだ。

中国もロシアも、北朝鮮を相手に取られたくないが追いやりたくもないのです。

そして、北朝鮮は中国やロシアとアメリカとの緩衝地帯でもあるのです。


それは、アメリカも十分意識しているはずです。


これらの事情を一番理解できていないのは、悲しいかな、日本ではないですか。


真っ只中にいて翻弄される立場にあるから、多くの国民がそのことに十分理解できていないのかもしれません。


もう一度言います。


日本を中心とした世界地図を眺めてください。

Ill06

思い描いてください。


日本が、中国やロシアとアメリカの緩衝地帯であり、これらの国々に対してイニシアティブを握れる地政学的位置にあることを、理解してください。


一番良いのは、半島と日本の中立化だと私は思うのです。

 

そして、中国やロシアとアメリカの緩衝地帯としての地政学的位置にある利点を最大限に利用し活用する政治のリアリズムを徹底的に理解し生かして欲しいのです。

 

世界が平和と安定の中で、持続可能な対等平等・相互互恵な社会をつくり上げていくイニシアティブを大いに発揮して欲しいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

経済活動と生命活動を対比してみても良いのではないだろうか。

経済行動や経済活動は、生体の営みとある意味似ています。

 

資金の流れは、血液の流れと似ています。

 

血液を全身に送り出すのは心臓、資金の大本である通貨を市場に送り出すのは中央銀行ですよね。

 

だが、血液は送り出されただけじゃ意味を持たないです。

 

通貨も市場に出るだけでは資金ではないニャ。

 

血液は臓器の中で消費されてこそ、血液の役目を果たすのです。

 

通貨はさまざまな経済主体の中で消費されてこそ、資金としての役割を果たすのです。

 

とは言え、資金の流れは血液だけでは例えきれないでしょうね。

 

血液は栄養を全身に運ぶ、資金の流れは単なる通過の流れではないのです。

 

通貨は、流通し、貯蔵されるのです。

 

これは、体内を循環する栄養は時として貯蔵されることに似ているのです。

 

つまり、資金の流れで言う通貨に体内で言えば栄養と見た方が良いのです。

 

そう考えると、内部留保の経済での働きは蓄積された脂肪に相当すると見て良いかもしれません。

 

適正量の脂肪、適正量の内部留保は、体内や企業の健全な営みを支えるために必要だが、行き過ぎた蓄積は健康を害するようになります。

 

蓄積された脂肪の消費は、体内で循環している栄養素で足りない時に起きるはずです。

 

同じように内部留保は必要な資金調達が市場からだけでは間に合わない時、換金性の高いものから消費されるはずです。

 

近年の内部留保の蓄積は急激と言う事は、一時避難的に換金性の高い資産に変換されている可能性が高いです。

 

つまり、経済活動が大いに活性化すれば速やかに換金されて企業の活動に回されることが期待できるでしょう。

 

経済活動の6割は個人消費と言われます。

 

これは、第二の心臓の異名を持つ足腰に相当すると見て良いでしょう。

 

足腰が活発に動けば動くほど、血管内に目まぐるしく栄養は駆け巡るようになります。

 

個人消費が活発になればなるほど、市場で通貨、つまり資金は目まぐるしく流通することになるのではないでしょうか。

 

個人消費と、個々人の生活は切っても切り離せないです。

 

日々の生活で新たな消費が旺盛になれば、市場の中で資金も活発に巡るのです。

 

動物は動くから動物、生活は生きて活動するから生活、違うでしょうか。

 

個人消費が思うように動いていないというなら、個々人の生活の質はどうなっているか調べた方が良いでしょう。

 

かつてのような大量消費が望めないなら、単価をどうすれば上げられるか見れば良いのです。

 

簡単です。

 

収入が増え、その状態が維持できると期待できる状況が実感できればいいのです。

 

量が期待できないなら質を上げその質に見合った価格を設定すればよく、その代金を気前よく払えるだけの生活の維持が期待できる状況が実感できるようにする政治が求められる。でしょう。

 

今の時代、社会には十分な富があるはずです。

 

それが、個々人の生活を力強く支えるために使われるべきと不退転な決意で実行する意思と能力のある政党や政治家を、市民が育てる意思と能力を発揮できるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

 

動物は必然となれば、生存に適した場所を命がけで求めて、行動するのです。

 

人間だって、よりよい社会やよりよい政治を本気で必要と思うなら、大胆に行動を起こすことをいとわない方が良いのではないでしょうか。

 

闇雲に動くことはないが、よりよい社会やよりよい政治のために、もっともっと、思考もし、激論も交わす方が良いでしょう。

 

少しでもいいポジションを求めて生物は行動するはずです。

 

人間は、全体でよりよいポジションに進めるように協力協同した方が良いでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰が主人か覚えておきましょう。

選挙で棄権しときながら、後で文句言うなって言う声出ますよね。

 

選挙で棄権することは投票に行った人たちへ白紙委任したのとおなじってこと、わかっていないのでしょう。

 

今の政治に文句あるなら、与党の候補選ばなきゃいいだけなんです。

 

後は野党から、少しでもましそうなの選べば良いわけですよ。

 

居ないっていうなら、あなた出なさいよ、そう言ってあげたいですね。

 

選挙、棄権とか言って行かない人いるけれど、それ、はっきり言って責任放棄だよって言いました。

 

民主主義では、国と地方の全ての役人の雇用者は国民であり住民だからなんですよ。

 

選挙はね、面接試験みたいなものなんです。

 

有権者が誰を議員に採用するか決める、それが選挙なんです。

 

棄権はね、参加した人たちへの白紙委任とおなじ、そういうことです。

 

犬も役人や議員も、誰が主人かちゃんと示さないと自分が主人にならんとダメと思い込むことがあり得るのです。

 

それを防ぐには、誰が主人か毅然とした態度で示さないとダメなんです。

 

リードは短く持って、おかしな方、行って欲しくない方に行こうとしたら、強く引いて道に戻すの、リードを握るってことは主導権を握るってことですよ。

 

やり方は同じなんですよ。

 

日本人はしばしば、お任せ民主主義になりがちだけと、それって犬で言えば「どうそ権勢症候群になってください」って言ってるようなもんなのです。

 

だから、選挙の後でふんぞり返る議員も出る、そういうことですよ。

 

あれ、犬でいったら権勢症候群ですから。

 

あなたの主人は国民である、住民である私たちと教えること、これ、基本ですよ。

 

社会保障や社会政策をお上の慈悲だのお恵み扱いしてるうちは、必要な充実なんてまず無理ですよ。

 

民主主義国家では、国と地方の政治の担い手を雇ってるのは国民であり住民ですよ。

 

勘違いしてる議員や役人は、権勢症候群にかかったわんこと同じですよ。

 

誰が主人か、教えなきゃダメなのですよ。

 

大体ね、社会保障や社会政策の原点は、治安対策だったんですよ。

 

犯罪や暴動、政府転覆策動を防ぐために始まったと言って良いのです。

 

つまり政府に社会保障や社会政策の充実求めたいなら、デモや集会、野党への投票で圧力かけなきゃダメなんです。

 

今の日本人、大人し過ぎますよね。

 

損してますよ、ほんと。

 

ちなみにアメリカでは、災害の後の生活再建支援も日本よりも手厚いそうですよ。

 

なんたって、不満が暴動に繋がりかねないから、そういう動きを事前に封じるための施策は、日本よりも充実してるってことでしょう。

 

日本人も政治に不満があれば、ドンドン、デモや集会で意思表示すればいいんです。


最低賃金1500円実現をと言うと、払えない小さな企業はどうすると言う声も出てきます。

 

アメリカ合衆国ではすべての事業者に最低賃金の引き上げを実施させるために、大胆な予算を計上して、断行したと言います。

 

格差の深刻なアメリカ、実施にも格差となれば治安上問題出るからでしょう。

 

日本は治安上の問題まで行かないとしても、政権が持たないと言う危機感は持たせるくらいのデモや集会やらなきゃだめですよ。

 

そうでなければ、なめられます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

平和な解決に共謀罪はかえって邪魔。

人々の本心からの声、心の奥底からの声は、誰も止めることはできないのです。

それを萎縮させ、人々を物言わぬ奴隷の地位に叩き落す懸念さえあるのが自公政権の共謀罪だから、国連も流石に待ったをかけざるを得ないのです。

それでも賛成する人は、言論の自由を失っても良いのだろうか、そう疑問を持たないわけにはいかないのです。

ルカによる福音書 19 3940

ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。

答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

イエスが、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」と言うのは、弟子達の声が彼ら自身からではなく彼らを導く神から出ているからだれも止めることはできないということです。

 

神に不可能はないと言うことだが、本当に石が叫んだら、もはやホラー映画まがいの光景なのですが

共謀罪の愚かさは、これが憎しみと報復の連鎖を生む戦争やテロと本質が何ら変わらないところにあるのです。

だから、共謀罪のある国でもテロが防げないと言うよりも、戦争やテロと同根の共謀罪で対処しようとしているからテロがなくならないのではないか。

違うでしょうか。

テロも戦争も、原因を平和的手段で取り除くしか手はない。

違うでしょうか。

共謀罪でもテロが防げないのではないのです。

逆です。

共謀罪があるから、かえって個人単位のテロが誘発される。

違いますか。

誰かに話しかけて共謀罪の疑いで捕まるくらいなら、個人的にテロに走った方が手っ取り早い。

違うでしょうか。

問題を生んだ原因を調べて解決しようとしないで弾圧で対処しようとする国家の対応が怒りをよび、次のテロの温床を生むことになる、これが実際に起きていることではないでしょうか。

つまり、共謀罪とは、国家VS民間の戦争であり国家による民間の思想統制思想弾圧の形をとっているに過ぎないと言えないでしょうか。

共謀罪の本質は、国家による民間の思想や言論の自由に対するテロ行為と言って良い、どうでしょうか。

 

テロの定義が難しくなる理由は、戦争を除外しようとするから。

それ以外の説明ができますか。

戦争もテロも、動機では区別不能、なのに無理して戦争やテロとを区別しようとするから、話が難しくなるのではないでしょうか。

 

国家Vs国家のテロが戦争、民間VS民間の戦争がテロ、国家VS民間が国内に向かえば武力弾圧や内戦、国家VS民間が国外に向かえば武力介入、単純でしょ。 ·

 

日本を戦争できる国家に変えると言うことは、日本を国家VS国家のテロである戦争をする国に変えると言うこと、違うでしょうか。

 

実際、戦争をしている国家はテロによる報復に悩まされているのではないでしょうか。

 

テロは民間VS国家の戦争に他ならないからです。

テロの民間VS民間の戦争の構図は、表面的なものに過ぎないのです。

 

テロや戦争の根絶は問題の平和的解決を目指す以外あり得ないのだ。

違いますか。

 

国家VS国家のテロが戦争、実際、局地化すれば紛争や武力衝突、更に局地化すれば暗殺やテロに限りなく近づく、実際そうなっていませんか。

民間VS民間の戦争がテロであるが、民間VS民間は表面的な形であり、動機は民間VS国家と言う点では本質はゲリラと変わらないと言えるでしょう。

テロとの差はゲリラが直接に軍を狙うこと、これくらいではないでしょうか。

 

共謀罪のターゲットが民間なのは、テロを国家の独占的行為にする目的があるから。違うでしょうか。

国家権力にとって都合の悪い行為は、たとえ平和的であっても国家によるテロ行使の妨げとなるから、権力はテロのレッテルを貼ってでも力づくで退けようと企むことになる。

違うでしょうか。

 

権力への敵対行為をすべてテロとみなすのが、共謀罪ではないでしょうか。

それは、共謀罪自体が、国によって差があるとしても、その本質が民衆の心の自由へのテロ攻撃にほかならないからではないでしょうか。

平和が欲しいなら、まず自らが平和を欲するものであることを態度で示すべき。

違うでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

平城京とペルシャ

読売新聞に興味ひかれる記事が載っていました。

かつて、井本英一著「古代の日本とイラン」を面白く読んでいたことを思い出し、やはりいましたかと言う気持ちになりました。

奈良の都にペルシャ人役人がいた…木簡に名前

2016105

平城宮跡で出土した木簡。ペルシャ人とみられる名前が書かれていた=奈良文化財研究所提供

Photo

Photo_2

 

 奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯はし」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。

 国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。

 木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、今年8月、赤外線撮影をした結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とわかった。

 表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属いんがいだいさかん」という役職名、中国語でペルシャを表す「波斯はし」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。

沖縄県ではローマ帝国やオスマン帝国のコインが見つかっているし、日本と中東の古代における繋がりの深さを改めて感じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

重国籍批判を放置していては危ないことになる。

民進党代表選をきっかけにして、重国籍批判の動きが広まっています。

 

それは、日本の国籍法が重国籍を認めていないからです。

 

だが、現実にはすでに、かなりの数で重国籍の人はいるはずです。

 

例えばブラジル国籍は、自らの選択で抜けることは制度上不可能と指摘されています。

 

ブラジル国籍者は自ら又は国家の意思でブラジル国籍を剥奪又は放棄される事をブラジル憲法は認めていません。

 

つまりブラジル国籍は一生消えないという事です。

 

移民受け入れの上で制度的な制約がまだ多い日本は、ブラジルから多くの日系人を受け入れることで制度上の制約を回避しようとしました。

 

もし彼らから帰化が出れば、重国籍になる可能性は多いはずです。

 

この課題をどう扱ったのでしょう。

 

日本の国籍法には国籍選択を行わなかった場合は、自らの意思で日本国籍を選択したものと見なすという規定があります。

 

日本国籍とブラジル国籍との重国籍の人たちを中心に受け入れて、帰化の際の難問を回避したのでしょうか。

 

もしそうなら、重国籍を認めないと言う規定は事実上空文化していることになります。

 

アメリカ生まれの日本人の子供たちは殆ど国籍選択をしてないから、大人になっても事実上の日米の二重国籍者となって日米双方のパスポートを有している若者が大勢いると言います。

 

二重国籍を認めている国で生まれた日本人の子供たちの多くが国籍選択をしないまま、日本との二重国籍を持っている可能性は十分にあり得ます。

 

そして事実、自民党議員の中にアメリカとの重国籍の人がいました。

 

これまで国籍法上何の問題にもならないで、その人はこれまで生きてきたことになります。

 

穴だらけの国籍法のおかげで、重国籍が問題にされなかった人は今でも相当数いるはずではないでしょうか。

 

日本が国際化すればこういう子供たちが増えて、重国籍禁止は実態や実情に合わなくなるでしょう。

日本の国際化が進めば、重国籍保有者も増えるはずです。

 

有名無実化している穴を放置して、重国籍を認めないと言ってもダブルスタンダードではないでしょうか。

 

特に問題を起こしていない人の帰化を認める際、すでに持っている国籍の放棄は当人の自由意思に任せることや、在外日本人の外国籍取得の際日本国の放棄をするかどうかも当人の自由意思に任せることを、法的に定めて重国籍禁止の原則を廃止した方が良いのではないでしょうか。

 

その後仮に問題行動があったとしても、個別の法規で対応すれば良いだけの話だと思います。

 

重国籍排除の動きは、言ってみれば国籍浄化の動きではないでしょうか。

 

ナチスがアーリア人種の優越を叫んで反ユダヤを行った時代を彷彿させる展開に思えるのです。

 

ニーメラーの詩は、他人事と思っているとやがて自分が危ないと言うのがメッセージと思うのです。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は共産主義者ではなかったから

 

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった

私は社会民主主義ではなかったから

 

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は労働組合員ではなかったから

 

そして、彼らが私を攻撃したとき

私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

共産主義者を重国籍と読み替えてニーメラーの詩を書き換えて見れば良いでしょう。

 

次は生活保護で読み替えて見るとかでも良いかもしれません。

 

勿論今も反共は根強いから、元の詩のままで読んでも十分、教訓を得られると思うのです。

 

重国籍排除の次は、どこへ排除の動きが広がるかわからないです。

 

私は重国籍じゃないから関係ないと言わないで、今、彼らを擁護しないと危ない展開が待っているのではないでしょうか。

 

反共攻撃への警戒を避けて迂回している可能性が大きいのではないでしょうか。

 

ハードルが低そうなところから狙うのが常套手段と覚えておいた方が良いのではないでしょうか。

 

重国籍狩りにストップをかける国民的な動きを早急に広めた方が良いのではないでしょうか。

 

相手は、「反日」「非国民」「売国奴」のレッテルはってくるかもしれないが、ひるんではいけないと思うのです。

 

彼らの挑発的な言動にのっても怯んでもいけないと思うのです。

 

自由と人権と民主主義と平和の旗を、高く掲げ守り抜く声を上げようではないですか。

 

 

重国籍批判の本当の狙いは、国民の中に混乱と分断を持ち込み、改憲勢力に対する反対の動きを牽制することにあると、見ておいた方が良いと思うのです。

 

重国籍批判の顔ぶれの中心的メンバーと改憲勢力の中心的メンバーは、ほぼ重なっていることが見て取れるはずと思うのです。

 

重国籍批判の人たちは、反論する人たちに「反日」「非国民」「売国奴」のレッテルはってくるでしょう。

 

彼らの真の狙いはこれらのレッテルで改憲勢力に反対する動きを牽制することにこそあるのは、これからの重国籍批判の展開を見れば明らかになるはずだと思うのです。

 

重国籍批判に安易に乗ってはいけないと思うと思うのです。

 

それは後で、自分を窮地に追い込むことになるでしょうから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本にとって天皇制はどういう意味を持つか。

天皇制については、古代から続く前世紀の遺物と見る人も多いです。

 

確かに古代から続くシステムには違いないが、アジアの多くの国が古代のリフレインから抜け出せなかったのに、なぜ日本は違ったのかと言うことです。

 

多くのアジア諸国の王との決定的な差は、天皇はいわば日本版教皇ともいうべき立場であったことなのです。

 

祭政一致的な国家の最高権力と言うなら、アジア諸国の王の多くはそうでした。

 

だが日本の天皇との決定的な差は、天皇が教皇的な最高祭司に祀り上げられてしまったことなのです。

 

教皇的な最高祭司に祀り上げられた結果、天皇は執権の任命権者として君臨、時代の変化に応じた執権を自在に任命できたのでした。

 

執権のおおもとの意味は、政務を執行する者と言うことです。

 

執権は歴史的な用語として知られているが、ここでは一番基本的な意味で用います。

 

余談ですが、キリスト教世界の教皇は近代国家成立以降国家の執権に当たる人々を認証する役目から外れてしまったが、日本の天皇は今でも総理大臣や内閣の認証を形式的な儀式だけになってしまったとはいえ続けています。

 

これは、天皇が日本国成立の時から日本の中心として君臨し続けてきたのに対して、教皇はヨーロッパ諸国がキリスト教化したことによって精神世界の頂点に位置付けられたことやキリスト教世界が東方正教会やカソリックやプロテスタントに分裂したことと、おそらく無関係ではないでしょう。

 

本題に戻ります。

 

多くの国々の場合、権力の交代は国全体のリセットとなってしまい国家建設の成果の蓄積は事実上できませんでした。

 

日本は天皇制が維持できたおかげで、国家の一貫性が保たれ、国家建設の成果の蓄積が可能となったのです。

 

これは、天皇制の好き嫌いに無関係に認めざるを得ない事実なのです。

 

天皇制が日本史の展開の上で果たしてきた役割の大きさを思うとき、天皇制の廃止はすなわち、事実上の日本史の断絶となるでしょう。

 

果たしてそれが、日本にとって吉と出るか凶と出るかは誰にもわかりません。

 

ただ、天皇制の廃止をすることになれば日本史を貫いてきた大黒柱を失うことは紛れもない事実と言えるでしょう。

 

日本がもしも天皇制の廃止に踏み切った場合、代わりとなる国家の大黒柱を確固として打ち立てていく事ができるのかが、問われる事態となるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

危機の時こそ冷静さを。

このままでは、二、三十年後(と言わず数年後)には今と全く違うファシズム国家になってしまうと思うからと焦る人たちの気持ちは痛いほどわかるのです。

だがそれだけに、失敗による後退や停滞の余地はないのではないかしら。

「急がば回れ急いては事を仕損じる」

こういうときこそ落ち着いて着実に進むべしなのではないのかしら。

急ぐと焦るは違うはずでしょ。

急ぐ時こそ落ち着いて失敗を避けながら、着実に進む必要があるのではないかしら。

焦って浮き足立てば簡単に騙されたり、足並みが乱れたりするのではないかしら。

嘘で固めている相手の嘘に慌てて乗らないためにも、焦りと怒りの気持ちは痛いほどわかるが落ち着いて判断と行動をして欲しいのです。

これが最後のチャンスとか言って焦って中途半端な手を打てば、勝てる勝負も負けてしまう、違うかしら。

むしろそうやって中途半端な手で負けてばかり来たから、今ここまで追いつめられて来たんじゃないかしら。

焦る暇があったら、冷静に現状を分析して勝てる手を考えた方が良いと思うのです。

今闘っているのは、99%VS1%の闘い、違うかしら。

数で勝ってる我々が負けてるのは、焦って中途半端な手ばかり打っているからじゃないかしら。

こういう時こそ冷静に相手の動きを見て、どうすればいいのかじっくりと考える方がいいんじゃないかしら。
時間がない時こそ、目的にたどり着くための確かな道を落ち着いて探さなければ、時間内に目的にたどり着くことはできないのではないかしら。
焦る人は中途半端な道に進み道に迷ってかえって余計焦ることになって、時間をいたずらに無駄にするのではないかしら。
勝利への道を求めるときも、落ち着いて探す方が良い、違うかしら。
落ち着く暇などないという人がいます。

暇はなくとも小さな隙間時間ならあるのではないかしら。

そこで集中的に考えて、また仕事に没頭するのです。

本気で答えを求めたいことって、案外無意識のうちに考えていて突然アイデアが浮かぶもんですよ。

急ぐと焦るは違うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

道を選ぶとは。

自民党、参院選ポスターを発表

朝日新聞2016682133

参院選に向けたキャッチコピーが書かれた新ポスターを発表する自民党の木村太郎広報本部長(右)ら=8日午後1時3分、東京・永田町の党本部、飯塚晋一撮影

写真・図版

 自民党は8日、参院選向けのポスターを発表した。安倍晋三首相の写真とともに、「この道を。力強く、前へ。」とのキャッチコピーが緑色で大きく書いてある。木村太郎・広報本部長は記者会見で「道半ばではあるものの、アベノミクスは結果を生み出してきている。この道を更に力強く進めていくとの思いを込めた」と説明した。

 

2016参院選

 ポスターには「政治は国民のもの」とも書かれている。立党宣言の冒頭にある言葉で、首相は「このことが大事だ」と語ったという。26万枚印刷し、全国で貼り出す予定だ。

 

「この道を。力強く、前へ。」というキャッチコピーには「道半ばではあるものの、アベノミクスは結果を生み出してきている。この道を更に力強く進めていくとの思いを込めた」と言う言葉に、どこか違和感というか、文法的にしっくり来ないと感じるのはなぜでしょう。

 

「この道を更に力強く進めていく」という言い方は、文法的に何かしら足りないか、言い回しを間違えているか、どちらかですね。

 

この文章の文脈から言えば、「この道を 更に力強く進めていく」と言いたいなら「この道を 更に力強く切り拓いていく」じゃないでしょうか。

 

アベノミクスによって切り開かれた展望ある道を、更に進んでいきたいというなら、「この道を 更に力強く推進していく」あるいは、「この道を 更に力強く切り拓いていく」になると思えます。

 

文法的に訂正なら「この道を 更に力強く進めていく」から「この道を 更に力強く進んでいく」に言い換えれば良いと思います。

 

だが、記者会見では「この道を 更に力強く進めていく」と言っています。

 

と言うことは、何か言葉を補って完成された文章にしないと、しっくりこないわけです。

 

翻訳と言う視点から見れば、補うべき言葉が見えてきそうです。

 

この道はアベノミクスのことでしょうから、誰が何者を前に進めようというかを、補うことになるでしょう。

 

となれば、推進する主体は安倍政権となるでしょう。

 

問題は安倍政権の作ろうとしている道に、何者を進めようとしているかです。

 

進めるわけなので、何者かは前へと進められることになるでしょう。

 

安倍首相は以前、日本国の最高責任者と自らを呼んでいますから、前へ進むように促される対象は、やはり、国民ということになりそうです。

 

そこで、こうなるでしょう。

「この道を安倍政権は 更に力強く国民を進めていく」

 

安倍政権が強引な国家運営をしようとしていることがよくわかる一文ですね。

 

でも立憲主義国家とは、憲法が権力を縛り、国民が主体となり、主人公となって、国の進むべき道を決めていく国家ではないでしょうか。

 

力強く進むべき道は国民が自ら決め、皆で力を合わせて前進しようというのが、立憲主義の国家であり民主国家ではないでしょうか。

 

選ぶべき道を間違えてはいけませんね。

 

道を間違えてしまうとどうなるか、諭している聖句が聖書にあります。

 

ローマ人への手紙 3 16

彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

 

正しい道を選びたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

基本は見失うととんでもないことになる。

休みを取りながら、何気なくテレビを見ていて思ったのです。

 

テレビで本当に実力ある芸人だそうとしたら、一時間番組で数組に絞って拘束時間に見合ったギャラ出しても、今の日本でどれだけ視聴率とれるかですよね。

 

最後まで付き合ってくれる数少ない視聴者にために、高い金かけてもペイしないから、結局、トークバラエティと情報番組頼みになるのではないかしら。

 

活気のあった高度成長期でも、もっと本格的な芸をみせる人がテレビに出ていた気がするのです。

 

忙しいように見えても、心に余裕があったってことかしら。

 

今は忙しい上に心に余裕がない人が増えたってことかしら。

 

高度成長期の莫大な富は一体どこにいったのかしら。

 

少なくとも国民には来てないってことですよね。

 

高度成長期の莫大な富が今でも国民の中にとどまって回っていれば、もっと国民はゆとりが持てているはずですね。

 

その時期を知らない世代は実感がない以上、知っている世代が富の再配分の必要性を声を大にして訴えていくべきじゃないかしら。

 

社会は人が作る、だから、人が変えられるはずですよね。

 

民主国家の主人公は国民であって、政府のトップとは、公僕である公務員のトップなわけですよね。

 

そこをはき違えていたら、それは「権勢症候群」つまり「ボスは自分と勘違い症候群」ってことですよね。

 

主人の忠実な友であるべきという点では、犬も公務員も基本的には同じじゃないかしら。

 

公務員は基本的にポチで良いのではないかしら。

問題は、誰のポチかってことではないかしら。

 

公務員は、国民、住民のポチとして、可愛がられる忠実な公僕であるべきと思うのです。

国民にとって「日本を取り戻す」とは、ポチであるべき公僕のリードを、アメリカと財界から、国民の手に取り戻すことじゃないのかしら?

 

何がだれのためにあるのか、取り違えてしまうと、物事はおかしな方向に行ってしまいますね。

 

箴言 3 21

わが子よ、確かな知恵と、慎みとを守って、それをあなたの目から離してはならない。

 

総理大臣も「国民の皆様の為に働かせていただきます」という言葉を、選挙期間中だけでなく国会の会期中にも言わなくちゃいけないのではないかしら。

最近の首相の言い草は「国民に理解させる」って、目上の人には決して使ってはならない使役の助動詞平気で使っている、おかしいのではないかしら。

 

「権勢症候群」つまり「ボスは自分と勘違い症候群」そのものになっている総理大臣を、 国民は意識を変えて、主人は自分だと公僕の長としてしつけなきゃいけないのではないかしら。

主人として、毅然としてなきゃだめではないかしら。

やたら威張る必要はないですけど。

 

箴言 3 31

暴虐な人を、うらやんではならない、そのすべての道を選んではならない。

 

国民の側も、多様な声があるからと諦めることなく国民的な合意をじっくりと腰を据えて作っていく構えが必要ではないかしら。

焦らずに合意形成していくことが、結局は近道じゃないのかしら?

 急がば回れ、急いては事を仕損じる。

昔の人良い事言っていますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧