経済・政治・国際

大義を民の声として掲げてこそ希望の光は見える。

出エジプト記は、神の声を伝えたモーセとアロンに対して頑なであったファラオのためにエジプトが被った禍の数々を記しています。

民の声は天の声神の声と置き換え、頑な為政者を頑なファラオと置き換えるなら、この教訓は今も通じるはずです。

民の声に対して頑な為政者は、民に禍をもたらします。

出エジプト記の紅海の奇跡は大義による結束によって救われた民の奇跡と、愚かで頑な為政者に従った民の悲劇の記録でもあります。

奴隷の苦しみより自由のために戦って死ぬ方がましという決意は、私達を結果として救いに導くのです。

高く掲げられた大義は、私達の希望の光であり道なのです。

大義の旗を高く掲げ、大義の旗を見失わず勇敢に前進するものだけが、勝利の光を見るのです。

真理や真実や大義そのものは見えないが、それを証言した現象や記録は見ることができます。

そして、それらを目に見えるものにすることができるのは、それらを実行したものだけなのです。

そして、それらを受け入れたものにとってそれらは現実となるのです。

大義を掲げる時、その大義は誰のためなのか何のためなのか、常に問われます。

私達は大義を掲げるなら、その答えもまた掲げなければならないのです。

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修験道と秦氏。

山岳宗教史研究叢書7に『東北霊山と修験道』が、収められています。

こう言う内容です。

総説 東北霊山と修験道
第1篇 下北・津軽の山岳信仰
第2篇 陸中の修験道と山岳信仰
第3篇 陸前の修験道と山岳信仰
第4篇 羽後の修験道と山岳信仰
第5篇 羽前の修験道と山岳信仰
第6篇 磐城・会津の修験道と山岳信仰

修験道は修験宗とも言い、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教です。

修験道の成立には仏教の行脚や道教の入山修行も影響していると言われ、森羅万象命や神霊が宿るとして神奈備(かんなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立したとされています。

修験道は飛鳥時代に役行者とも呼ばれる役小角が創始したとされるが、役小角は謎の多い人物です。

役小角が属した役氏(えんうじ)あるいは、役君(えんのきみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族です。

葛城流賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君(かものえんのきみ)とも称されます。

役民(えきみん)を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたと言います。

役民とは、都の造営などの際に徴収される労働者のことです。

また、役氏は大和国・河内国に多く分布していたとされます。

賀茂氏は、秦氏の中でも特に祭司の一族と指摘されています。

となると、役小角もまた、秦氏であった可能性が見えてきます。

修験道の行者は、山に詳しい人も多いのです。

修験道の行者となれば、誰にも怪しまれることなく山奥に分け入ることができます。

秦氏の拠点を置いた場所と、何らかの資源の分布を重ねてみると、面白い事に気が付けるかもしれません。

何故に秦氏は、仏教と神道の両方に関わりを持ったのでしょうか。

日本中の資源の情報、そして、大陸の最新情報、この二つを誰にも疑われる事なく調べるのにこの二つは実に好都合です。

殖産豪族秦氏が目をつけない方が、おかしくないですか。

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米沢と秦氏と鉱山と?

山形県米沢市の界隈には藤原ゆかりの苗字、例えば佐藤は結構あるようですね。

そして、藤原系の祭司一族である小林一族もいるのです。

秦氏ゆかりの神社である、成島八幡宮もあるのです。

これはひょっとしてと米沢と養蚕のつながりを調べてみると、養蚕は米沢にとって重要な産業なのですね。

藩主上杉景勝の側近だった直江兼続は、藩の収益拡大を図るため、織物の素材となる青苧(あおそ)や絹を生む蚕の餌となる桑、染料となる紅花などの栽培を奨励したのです。

青苧や桑や紅花は藩の特産物として、織物産地に売り出されたのです。

じゃ、養蚕と米沢のつながりはどうなっているのかですね。

米沢の「市」や町人町の発祥地ともいわれる米沢の鎮守、白子神社が面白いです。

米沢の鎮守とされたのは確認される範囲では、平安時代、この地方を鎮めに来た小野良春によって社殿が建替えられた時からと伝えているのです。

白子神社は和同5年(712)の創建と、大変古い由緒を伝えているのです。

白子神社の由緒は、こうです。

神のお告げによって桑林に蚕が生じ、桑を食べている光景は雪が降ったように白一色で、やがてその蚕は繭を作り、この不思議な現象により、この地を白蚕(白子に由来する)村と呼び、和同5年に神社を建て白蚕(白子)明神とした、というものです。

この不思議の背景には、秦氏が関わっていたのではないでしょうか。

どういう繋がりや理由やきっかけがあったのか、それはわからないです。

ただ、米沢の近くには八谷鉱山や滑川鉱山があるのです。

八谷鉱山は、金、銀、銅、鉛、亜鉛などを主に産出した鉱山です。

滑川鉱山は、渇鉄鉱が採掘されました。

殖産に関わりの深いことで知られる秦氏は、これらの鉱山に目をつけていた可能性は考えてもいいかも知れません。

とは言え鉱山経営は、軌道に乗るまでに時間もかかるし、資金も必要ですよね

その資金稼ぎの手段として、養蚕を手掛けたのでしょうか。

養蚕で得た富を背景に、鉱山開発に乗り出す目論見はあったかも知れません。

米沢織は、秦氏の目論見にまで遡るのでしょうか。

じゃ、米沢牛との関わりはどうよって思いますよね。

米沢牛の歴史は、案外浅いようなのです。

岩手県南部から鉄を運ぶのに使われた牛は、米沢地方を通る越後街道沿いの村々に売っていったそうです。

その牛の飼育の歴史の上に、米沢牛はあると言うのです。

じゃあ、米沢の近くの鉱山は秦氏は手をつけなかったのでしょうか。

岩手県には、松尾神社が二つ祀られているのです。

松尾神社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)は、元々は秦氏の神だったそうです。

ちなみに大山咋神は、山に杭を打ちその所有を示す神であるというのです。

じゃあ、岩手県南部の鉄の方が採掘が容易なので米沢の鉱山は後回しになったのでしょうか。

米沢近郊の鉱山と秦氏の関係は、謎のままです。

でも、秦氏と鉱山の関わりはおぼろげながら、見えてきたかも知れません。

米沢と秦氏、何かありそうですね。

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私達は神の命令から逃げられない。

マルクスとエンゲルスは、社会主義を低次と高次にわけてそれぞれこう位置付けました。

社会主義の低次の段階では能力に応じて働き、働きに応じて受け取る。

福祉や教育や医療は収入に関係なく、当人や家族の必要なだけ受けられる。

社会主義の高次の段階では能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。

もちろん、福祉や教育や医療は誰もが必要に応じて、そして、必要なだけ受けられる。

これはマルクスやエンゲルスが言い出しっぺではなく、聖書で神が命じている事なのです。

マルクスやエンゲルスのやった事は、聖書で神が命じた収入の低さで困る人が出ないよう惜しみなく助けろという命令からあれこれ理由をつけて逃げ回ってきた社会に実現可能だからやれと突き付けた事と言えるでしょう。

二人の著書は「空想から科学へ」と日本語では訳されるが、「理想主義から現実主義へ」と訳す方が、内容に合っています。

理想主義として社会主義思想を展開した人たちは何人もいるが、理想論の段階にとどまっていた限界もありました。

マルクスとエンゲルスは、それらの主張が理想論ではなく実現可能だと理論と科学によって示したと言えます。

マルクスやエンゲルスの思想を聖書の焼き直しと言う人もいるが、ならなぜ、資本主義はマルクスの呪いから逃げられないのでしょう。

福祉社会をどう実現するかの課題が突きつけられこの課題から逃れられない事自体、人間は神の命令から逃げられない事の証ではないのでしょうか。

どうでしょうか。

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日本の国債の最大の債権者は私たち国民だ。

日本の借金が大変だと政府は言うが、日本の国債買っている外国人は騒いでいないのです。

騒ぐ方が馬鹿なのだ、というわけでしょう。

何故ならば、日本の国債は大半が国内で購入され、しかもそのほとんどが日本国民のお金で買われていると知っているからなのです。

日本は発行残高の額は大きいというが、外国人の購入比率はギリシャの方が桁違いなのです。

日本の国債は半分近く日銀が買い、残りの大半も日本国内の金融機関が購入しています。

大半が外国のギリシャとは、国債残高が多いと言っても本質が違うのです。

日本の国債を買っている外国人が騒がないのは、下手に騒げば自分たちの取り分が減らされかねないからなのです。

日本国民は、そこに気が付いた方が良いでしょう。

なぜ日銀が国債を買えるのでしょうか。

出資金の4割は日本政府だが残り6割が民間の出資の民間銀行という形をとっているからです。

だがこの構図は、親会社の株や社債を子会社に買わせているのと大差ないのです。

違いと言えば、日銀が政府の銀行であることくらいなものでしょう。

もちろん、日銀には発券銀行の役割もありますが。

国債という名前に騙されてはいけないのです。

国債という名の政府の借金であって、大半を国民に借りているのが日本、外国からの比率が高いのがギリシャ、そういう事です。

ギリシャは政府が外国に借金を返すために四苦八苦だが、日本は政府が国民から多額の借金しておきながら国民への返済踏み倒しを目論んでいる構図、違うでしょうか。

日本の国債は半分近く日銀が購入、残りの大半も国内の金融機関が購入なのです。

つまり日本の場合、政府の借金である国債の債権者は、そのほとんどが国民だと言うわけです。

ところが消費税増税の大半は、大企業減税の財源に消えているのが実態です。

そして、企業団体献金は自由民主党へ、政党助成金が出たにもかかわらず流れています。

消費税増税=大企業減税=一部は自民党への献金にと言う構図、違うでしょうか。

日本国民はいい加減、日本の国債の最大の債権者が私たち自身であることに気が付いて、税金をもっともっと国民のために使わせ国債の元を取ることを考えるべきではないでしょうか。

国債の名前に惑わされたらだめなのです。

もし、私たち自身の借金であるなら、私たち自身のお金で賄われている国内の金融機関や日銀がなんで国債買えるのでしょうか。

私たち自身の借金であるなら、なんで私たち自身が国債買えるのでしょうか。

私たちの借金ではない、政府の借金だから、国内の金融機関や日銀や私たちが買えるのですよ。

そうでしょ。

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戦火から国土と国民を守ってこそ真の国防。

第二次世界大戦後、アメリカ合衆国は自国が戦場にならなかった代わりに、世界各地を戦場にしてきました。
その結果、どうなったでしょう。
国を相手にした戦争よりも厄介なテロリズムに悩まされる事態を招いて、手を焼いているではありませんか。
そして、テロリズムの悲しみは更に怒りの連鎖となって、新たな戦争やテロリズムの火種となっていくのです。
つまり、どこの国の領土領海領空も、戦場にしたらダメなんですよ。
戦争は新たな戦争の火種しか生まないことは、人類の歴史が証明しています。
国際的な問題の解決する手段として武力を用いないと宣言した9条と、平和を愛する諸国民を信頼して安心と生存を保持しようと決意した前文を持つ日本国憲法を最大限に生かす外交と内政こそが、最高の国防なのです。
これを実践すれば、感謝されこそすれ恨まれる筋合いはないでしょう。
戦争したくてたまらない人たちは別でしょうが、誰もそのレッテル貼られることは望まないでしょ。
少なくとも建前ではね。
兵法で有名な孫子は「百回戦って百回勝つより、戦わないで勝つ方が良い」と言います。
負けたくないからと軍拡を続けて軍事費が膨大になり、例え勝ったとしても割が合わないのでは馬鹿馬鹿しいではないでしょうか。
まして日本は、寺の鐘まで供出した挙句に、首都東京をはじめ全国各地が空襲で甚大な損失となりました。
多くの血と涙が虚しく流された教訓の中から生まれたのが、日本国憲法です。
誰が草案を書いたにせよ、日本人自身が審議して自分たちが納得して制定したのが今の日本国憲法なのです。
祖国の国土と国民を守ることが国を守ることだというなら、戦争によって祖国の国土と国民が損なわれることがないように努めてこそ、本当の国防なのではないでしょうか。
違いますか。
国際的な問題解決に武力を用いないと世界に公約した9条と、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安心と生存を保持しようと決意した前文を持つ日本国憲法の可能性をとことん汲みつくす外交と内政のために最大限の努力を惜しまない姿を示し続けるなら、掛け値なしに「日本すごい」と称賛されるでしょう。
違いますか。

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音楽は政治と無縁でいられるのか。

音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、音楽はそもそも、演奏者と聞き手がいて成り立つ営みです。
聞き手は良いねと思わなければ、最後まで聞いてくれないでしょうね。
音楽は聞き手という名の同志がいてくれて、初めて成立する行為なのです。
演奏者も複数いてはじめて成立する曲は共演者という同志が必要、場合によっては作詞作曲の同志も必要になります。
つまり、音楽は何人もの同志に支えられて成立する社会的な営みと言えます。
その意味では、音楽は一種の党派性を持つとも言いえるでしょうね。
フアンという支持者獲得も、時として必要となるのです。
協力者や共演者や聴衆という同志や支持者を獲得する行為は、政治活動と本質的にどう違うのでしょうか。
政治的メッセージを盛り込むか否かの差なのですよ。

音楽に政治を持ち込むなという人は、アリストテレスの人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」という言葉を知っているのでしょうか

アリストテレスは著書『政治学』において、人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」と述べました。
「ポリス」とは、都市、都市国家、市民権または市民による政体を指すギリシャ語です。
つまり、「人間は政治的な営みをする動物である」のです。
社会的な営みは、複数の協力者=同志の存在無しにはあり得ないのです。
そして、限られている時間や場所、時として資源をめぐって協力し合うことも競い合うこともあるのです。
ここで言う資源とは、目的を実現するのに必要な人・モノ・金と思ってもらえば良いでしょう。

これらはまさに「政治的営み」に他ならないでしょう。
いわゆる政治的課題が絡む行為は、人の行う政治的営みのごく一部でしかないのです。
つまり、音楽もまた人間の営む政治的営みの一つに過ぎないと言えるでしょう。
音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、本質的に無理なのです。
人の営みは、政治的営みだらけなのだからです。
逆に言えば政治的課題は、人の政治的営みの中の緊急的対応が求められているものと言えるでしょう。
いわゆる政治的課題が厄介なのは、立場や利害が絡むからなのです。
何らかの立場や利害の無い人は、ほとんどないでしょ。
違いますか。

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守るべきは雇用以前に人間らしく生きることではないでしょうか。

介護や育児で離職した人の職業への復帰支援、場合によっては、介護や育児との両立可能な就労形態だって、考える必要があります。 

 

人間らしく生きられるための生計保障制度の確立と拡充を求める運動に舵を切らないと、正規雇用を守れだけでは正規雇用さえ守れない時代がやってきます。

 

いや、すでに来ているかもしれないのです。 

 

ブラックな企業や職場、自分に向いてない企業や職場、将来性が見通せない企業や職場、そう感じたり思った人たちが転職や転業、キャリアアップなどのために必要な学び直しをしたいと考えても、先立つものがなくて無理した挙句に解雇されたり体調を崩す人達がいます。 

 

人手不足を言うなら、彼らのような事態をなくせといわなければならないのです。 

 

心機一転が得意な人もいれば、関連分野でないと転職や転業が難しい人もいます。 

 

それを知っているからこそ、生活保護を生活保障制度に拡充し、新しい仕事に慣れるまで生計の下支えをしてくれる制度の必要を説くのです。 

 

永続する仕事はないし、業態が永遠不変な業種もないのです。 

 

適応を支援する必要があるのです。 

 

労働力の流動化は、何も不安定な非正規雇用を増やすことではないのです。 

 

正規雇用100%であっても、転職や転業、キャリアアップなどを目的とした学び直しのために、生活保障制度を積極的に活用できるよう抜本的な改革をすべきです。 

 

政府と経営者側が雇用の柔軟性を言い出したら、首切りしやすい環境整備と労働者が反発するのは当然で、生活は守らなければならないからです。 

 

とは言え、自分の雇用を守ることが誰かの失業の犠牲の上に成り立つ後ろめたい状態が一方で作られ、労働者は分断される事もあります。 

 

だが、希望者全員正規雇用は現実的なのでしょうか。 

 

希望者全員正規雇用は理想であり追求されるべきだが、何時も可能ではないはずです。 

 

時として誰かがあぶれ、それはあなたかも知れないです。 

 

だとすれば、転職や転業、更には起業支援も含む生活再建支援の制度が必要であり、生活保護を含む生活支援制度が必要であると、運動する方が良いでしょう。 

 

誰かのためにではなく、自分のために必要なのです。 

 

労働力の流動化は、何も不安定な非正規雇用を増やすことではないのです。 

 

正規雇用100%であっても、転職や転業、キャリアアップなどを目的とした学び直しのために、生活保障制度を積極的に活用できるよう抜本的な改革をすべきです。 

 

経営者は、変化が激しい時代にフットワーク軽く適応する必要があるのです。 

 

必要最低限の人材と柔軟に仕事を委託できる人材に雇用を分け、最低限の人材も最小限にしようとしているのです。 

 

希望者全員正規雇用したくても難しいのです。 

 

転職や転業が困難な人達も、例外じゃないから、セイフティネットの充実が必要なのです。 

 

受け身と守りのセイフティネットから、人間らしく生活し就労できるよう支援する生活保障制度へと舵を切る必要があるのです。 

 

旧態依然の雇用を守れだけの運動では、守るべきものも守れないのです。 

 

経営者に、あなたは経営者である前に人間だろ、と言うくらい彼らにとって残酷な言葉はないでしょう。 

 

経営者である前に人間であれと自らに課す人ほど、人間である前に経営者でなければならない現実とのギャップに苦しむことになるのです。 

 

雇用を守ろうとすればするほど、従業員に新しい仕事へのチャレンジを求める事になるでしょう。 

 

新しい仕事へのチャレンジを求められた従業員には、受けて立つ人もいれば何で私がという人もいるはずです。 

 

問題は、何で私がという人で、引き留めたい経営者の気持ちに反して、離職する場合もあるでしょう。 

 

とは言っても、彼らへの支援は、一企業の手に余るのです。 

 

だからこそ、公的な、転職や転業、更には起業支援も含む支援体制が要るのです。 

 

転職や転業、更には起業支援も含む支援体制があっても、その間も生活があります。

 

最低限の生活保障制度も含む生活支援制度の確立と充実は、だからこそ必要なのです。

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生きやすい社会について考えてみた。

障碍者が、自分はお荷物なのかって不安になる社会って、滅茶苦茶ブラックな働き方蔓延な社会だと思うのです。


万能な人間なんていない、そうじゃないですか。


誰かにどこかサポートされる必要がみんなにある、ちがうでしょうか。


その意味じゃ、みんながある意味では「障碍者」ではないでしょうか。


誰もがそれを自覚して、本当のバリアフリーな社会になれると思うのです。

 

神様は万能とか全能とかよく言われます。


では何で、多くの神様がいたり、天使がいたりするのでしょう。


神様だって、全ての人々を救うために、他の神様や天使たちの協力が必要なわけではないでしょうか。


世界を管理していくのに、他の神様や天使と協力する必要が神様でさえあるではないですか。


まして神様じゃない私達は、どうでしょうか。


誰かに助けてもらって何かが出来る、そうじゃないですか。


自分のしたいことするのに誰かに助けて貰う必要があるのが障碍者なら、100%の健常者ってこの世にいるのでしょうね。


だから、バリアフリーがいるのではないでしょうか。

 

 

多くの人が私は自立しているって、言いませんか。


あるいは、自立しようとしていませんか。

 

でも、水や食べ物や電気やガスや交通や住宅、そして衣料、誰かに助けられてない人ってどれだけいるでしょうか。


まして、病気になったら、誰かに出来れば診てもらいたい、そう思いませんか。

 

自立に誰かの助けがいるのが障碍者なら、私達みんな障碍者、そう言ってはおかしいでしょうか。


誰もが誰かの助けが得られることを前提に生きている、それを前提として考えてはじめて、生きやすい社会に出来るのではないでしょうか。


違うでしょうか。

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バリアフリーやユニバーサルデザインを考えてみた。

バリアフリーとか、ユニバーサルデザイン、とか聞いたことがある人、皆さんの中にもいるでしょうね。

 

健常者も障碍者も使い勝手がいい事、それがバリアフリーとか、ユニバーサルデザインの目標であり、目的です。

 

私は出来るだけ「障碍者」の表記を使うつもりです。

 

「障害者」表記が、普通に生きたいだけなのに毎日の生活がまるで「障害物競走」と感じている人、と言う意味で使われているなら、それもありでしょう。


でも現実には、障害物扱いしているようで、あるいは、障害物扱いされているようで、違和感や不快感を覚える人たちもいます。

私もそう感じている一人です。

 

常用漢字表から「碍」の字が外されたために、「障害」の字があてられるようになって、様々な違和感を訴える人達がでたが、当然のながれでしょう。

「障碍者」表記を広めようとする動きがあるのは、嬉しいです。

 

障碍者は、自らの心や体に何らかの障害があるために環境に適応しにくくて困っている人ではなく、周囲の配慮が足りないために普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられている人と考えたらどうでしょうか。

 

障碍者に暮らしやすい環境は、実は誰にとっても暮らしやすい環境と言う事になるでしょう。

 

普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられていると感じている人がほとんどいない、それが当たり前な環境が、実はバリアフリーな環境なのではないでしょうか。

 

そう発想を転換したら、どうなるでしょう。

 

ホワイトな労働環境の職場とは、障碍者に対して働きやすい配慮のある職場、そうなると思いませんか。

 

障碍者であっても能力を最大限に発揮できる配慮のある職場は、健常者にとっても快適な労働環境の職場ではないでしょうか。

 

人手不足と言うなら、障碍者も働きやすい環境を作って彼らの能力を最大限引き出せるようにした方が良いでしょう。

他社に先駆けた方が、あなたの求める人材が集まりやすくなることでしょう。

 

障碍者とは、周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている人と見れば、乳母車の人も、もたつく高齢者も、ある意味障碍者となるでしょうね。

 

子育てや、介護や看病、これらが元で周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている立場になっている人は皆、障碍者的な状態に一時的にせよいると見たらどうでしょう。

 

つまり、障碍者とは特別な人達ではなく、人生のある段階では誰でもなり得る状態なのではないでしょうか。

 

そう考えると、バリアフリーは実は、自分たちのためになる、そう思いませんか。

 

ユニバーサルデザインは、みんなのためになるデザインのことなのです。

でも、無個性、没個性とは違います。

誰もが、使いやすい、使い勝手が良い、そう感じるように工夫する事なのです。

 

その場所や地域の特徴にあった、誰もが使いやすいバリアフリーな施設や設備、システムを考える事がユニバーサルデザインを考える事なのです。

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