経済・政治・国際

日本人はもっと議論とは何か、知った方が良い。

日本人の多くは、議論の仕方を知らなすぎるように思えます。

「弁証法」と言う言葉や思想があります。

弁証法とは「対立する立場や要素同士が、対立しつつ相互に依存しあい、相互に依存しあいながら対立しあうことを通じて物事は展開し発展する」と言う考えを表しています。

似た発想は、実は古代思想の陰陽にもあります。

「対立する立場や要素同士が、対立しつつ相互に依存しあい、相互に依存しあいながら対立しあうことを通じで物事は展開し発展する」ありさまを「弁証法」と言うのは建設的な議論はまさにこの様なものだからに、ほかなりません。

 

論破は議論の一つの側面だが、議論のすべてではないのです。

日本人はこれを知らなすぎませんか。

これは日本人の集団の原点が、親子や兄弟に代表される上下関係だからではないでしょうか。

このような関係では、相手を従わせることは相手の意見を論破し封じ込め黙らせるしかない、どうでしょうか。

 

集団の方針を徹底させることが最優先な場では、自由な意見交換は結束を乱すとして排除されてきたのではないでしょうか。

自由に意見を述べさせていると言う人もいるでしょう。

それでは、彼らが出した意見は、どれだけ決定に反映されていますか。

言いたいことは一応言わせたし、聞いてやった、文句あるかという口実にしてるのではないですか。

 

論破か服従が全て、これでは議論するという文化が生まれる余地は少ない、そう思いませんか。

 

欧州世界で弁証法と言う発想が芽生えたのは、社会は独立した個人の集合だったからでしょう。

独立した個人の集合である社会の場合、論破と服従ではかえって新たな対立と混乱の火種を抱える結果となるでしょう。

みんなの納得するより良い意見に議論を収束させ丸く収める必要があったからだ、そう思えます。

そのために弁論術が発展してきたのでしょう。

 

より説得力をつけ主導権を得る事が、議論では大切になってきます。

議論に説得力をつけるには、何よりもまず論理的でなければならないのです。

感情的議論は水掛け論に終わります。

 

哲学は、議論を戦わせる人達に論理と言う便利な道具を与えました。

弁証法と言う発想もこういう世界だから生まれてきたのでしょう。

議論も万物を貫く哲学に従う方が好ましいからです。

議論に普遍性があるかないかで、説得力に大きな差が出てきます。

 

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

18世紀のフランスに生きた哲学者ヴォルテールの言葉です。

言論の自由は、これくらいの覚悟があってはじめて守り通すことができる、違うでしょうか。

多くの人たちがこの気持ちを共有できてこそ、言論の自由は本物になる、違うでしょうか。

 

このような考えが当たり前になれば、意見を言う事も命がけではなくなりますよね。

「私はあなたの意見には反対だ、だからあなたには黙っていていただきたい」

たとえ言葉で言わなくとも、無言の圧力が周囲からかかるようでは、ちょっとした感想でさえ言うのは命がけに近くなる、違うでしょうか。

今、漫才師の村本大輔氏の発言が多くの人たちによって取り上げられて、賛否両論が出ています。

だが、村本大輔氏の意見を批判してる人の多くは、お前の意見を私に押し付けるなと言う立場に見えるのは気のせいですか。

だが、村本大輔氏は自分の思いを言っているだけで誰にも押し付けてはいないのではないでしょうか。

むしろ批判している人たちの方が、自分の意見に村本大輔氏は従えと押し付けているようにさえ思えてくる。

どうでしょうか。

 

あるいは、芸人は芸だけしてればいい、余計なことは言うなと言わんばかりの声もあるようです。

多分その人も、何々の分際でそのような口をきくか、黙って従っていればいいという環境に飼いならされてしまっているのではないか、そんな気がしてなりません。

 

例えば、村本大輔氏の「殺すくらいなら殺される方を選ぶ」と言う発言に賛否があるのです。

私はそれは嫌だという人は、その考えを押し付けるなと言う意見が多いように見えます。

内容の是非以前に、私は従うのまっぴら御免と門前払いして、彼の議論に勝とうとしているとさえ思えるのです。

村本大輔氏は自分はこうしたいと言っただけで、あなたもそうしてくれとは言っていない、違うでしょうか。

 

意見を言うこと=押し付け、ならだれもモノが言えなくなるじゃないですか。

日本人ももっと、議論をするとはどういうことか、一から学びなおす方が良いように思います。

違うでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

休息と聖書?

毎朝、町を行く人々の顔を見てふと思うのです。

朝だと言うのに、生き生きした表情の人があまりにも少ない国だなあ、日本、と言う事です。

朝から疲れた顔の勤め人が多いのは、慢性化していている残業などの長時間労働に加えて、職場の人間関係を円滑にすると称してのいわゆる飲みにケーションと呼ばれる上司や同僚との付き合いも、疲労蓄積に拍車をかけているのではないでしょうか。

日本もアフター5は個々人の自由な時間であってしかるべきではないでしょうか。

日本も経営者や上司が、残業など長時間労働や社内の付き合い酒などを抜本的に見直した方が良いのではないですか。

個々の社員に早く帰れと啓蒙するより、経営者や上司の意識改革に国や地方自治体が腰を据えて取り組みを進めるべしでしょうね。

過労死問題に取り組んでこそ、医療費抑制や生産性向上につなげることになるのではないでしょうか。

有給消化率最低の日本の労働生産性が17位、ゆるく働いているイメージの強いイタリアの労働生産性が20位だが、実際には差はほとんどないと言えるくらい僅差です。
それってつまり、慢性的に疲れている日本の労働者の生産性が人生エンジョイしてるイタリアの労働者の生産性と大差ないってことです。
 
馬鹿らしいですよね。

人生エンジョイ型のイタリアの労働生産性と日本の労働生産性が大差ないって、どう思いますか。

根が真面目な日本人がイタリア人と同じくらい元気に働いたならもっともっと生産性があがるんじゃないですか。

誰もそんなこと考えられないくらい疲労が蓄積してるんですか、日本人。

だとしたら、悲し過ぎますよ。

本気で過労死問題に取り組んで欲しい、そう思いませんか。

過労死レベルの長時間労働にきちんとメス入れないと、更に労働生産性が落ちてイタリアに抜かれるかもしれないですよ。

イタリアの労働生産性が上がるからじゃないです。

日本の労働生産性はさらに労働者が疲労をため込んだ結果、さらに落ち込んで抜かれる可能性があるってことですよ。

多くの大企業で不正が発覚しました。

まともに考えられるなら、不正は結果として割に合わない、と言う正常な判断ができるはずですよね。

自覚症状がないくらい疲労は慢性化してるんですか、経営者までもが。

忙しいとは、心亡くす、心亡ぶ、って意味がある事さえ経営者も気が付けない位なら、もはや重症じゃないですか。

働くのは、誰のためなの、何のためなの、会社は、誰のためにあるの、何のためにあるのでしょうね。

日本は、そんなこと考えないままに突っ走ってきたのかもしれないですね。

西洋キリスト教文化圏では、人生とは、働くとは、どういう事か真剣に問うた時代があります。

今の人たちは、そんなこと忘れてるかもしれないですけどね。

少なくとも西洋キリスト教圏では、労働は神に課せられた罰であって信仰のために人生の時間の多くを割くべきと言う発想が根底にあるのです。

だからかもしれないが、労働時間の短縮は案外すんなりと合意が成立したようですね。

もちろん労働運動や政治運動の力も、大きかったようですけどね。

東洋、少なくとも日本では、勤勉が美徳とされ休息が取りにくい文化があるとは指摘されています。

休息は勤勉へのご褒美と言った感覚があるとも、指摘されてきました。

しかし、休息は人間らしく働くために必要であり権利である、と言う考えが世界の当たり前になりつつある今、ついていけないとだめになるでしょうね。

つまり、日本で働き方改革をすると言う事は、休息は基本的人権の一つであると言う発想の転換を社会の隅々にまで根付かせると言う事なのではないでしょうか。

意識改革の取り組みを国と地方自治体が本腰を入れて取り組みことに他ならないのではないでしょうか。

休息と怠けは別だと言う、意識改革こそ必要なのではないでしょうか。

ここがきちんとすわらないと、だめなのですよね。

怠けることがいけないのは、世界共通です。

むしろ怠け心が起きるような疲れがたまって抜けない働き方をしてる方が、問題なのです。

ちゃんと休息をとって十分に疲れを取るなら、気力が充実して怠け心など起きないはずです。

逆に言えば日本の働き方は、適当に怠けないと体が悲鳴を上げる働き方と言う事なのです。

キリスト教的倫理では怠け心は悪魔のたぶらかしに負ける事だから、それに勝てる気力と体力をつけて備える必要があるとなるのです。

だから、十分に休息を取らないといけないのですね。

休息を基本的権利として受け入れる文化的素地が、こう言うところにもあるのかもしれないですよ。

日本の労働時間がとかく長くなりやすいのは、休息は勤勉のご褒美だから、より長くよりきつく働いて多くの仕事をこなしたものが多く休めると言う不文律があるからかも知れません。

結果として、適当に怠けないと体が壊れるから長時間で低生産性の労働に必然的になっていくのかもしれないですね。

ここの発想を変えないとだめなのです。

欧米の発想の根底には、聖書とキリスト教がある、ここを踏まえておく必要があるでしょうね。

それは長い歴史の中で、彼らの精神に深く根ざしたものとなりもはや無意識のレベルにまで達していると言って良いです。

彼らに受け入れやすいように、変えられてしまったところもあるようですけどね。

世界の大半は彼らによって植民地化され、程度の差こそあれ、根付かさせられていると見た方が良いでしょうね。

日本人も少しは聖書やキリスト教について知っておかないと、彼らの発想の基本が理解できないってことなのです。

信じろとは言わないけど、知識として知っておいて損はないでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

どういう立場に立って各国の位置関係を見ると良いのか考えてみた方が良い。

北朝鮮がアメリカに対して挑発的行動を取り続けているのです。

北朝鮮に圧力をかけて態度を変えさせようとして、いくつかの国々が動いています。

 

北朝鮮が態度を変えないなら、石油の全面的な禁輸も辞さないと言う強硬論も出ています。

 

だがロシアは、それに異を唱えているのです。

 

対話の道を模索し、進めていくべきだとしているのです。


それに対して、様々な推測や憶測が当然のように出てきています。


しかし、ロシアにどのような思惑があろうと、その背景にはどういう事情があるか考えた方が良いでしょう。


その結果、ロシアに対してどのような働きかけを選択するにしてもです。

 

まず考えられるのは、ロシアは北朝鮮と陸続きだから、もし北朝鮮の民衆に何かあれば、難民問題など厄介な事態を抱える可能性が大いにあると言う事です。


だが、影響はそんな段階で留まるはずはないと考えるのは自然なはずです。

ロシアは北朝鮮が陸続きの隣国である以上、どんなに可能性が小さかろうと最悪の事態回避に動くのは当たり前ではないでしょうか。

そこを理解すべきなのです。

 

仮に北朝鮮へ石油輸出を全面的に止めたとします。

ロシアは最も近い産油国なのです。

輸出再開を力づくでも迫ってくることは、当然想定の範囲でしょう。

もし、どちらから業を煮やして戦端が開かれた場合、核で威嚇しあう事態になり、北朝鮮がロシアに核を使いかねないと最悪の事態を想定し全力で回避行動をとるのは当たり前ではないでしょうか。


北朝鮮への石油禁輸を実施したらABCD包囲網で石油禁輸された日本が真珠湾奇襲をしたような行動を北朝鮮は取るかと言う問いに、ロシアはないとは言い切れないと懸念している可能性は否定しない方が良いと思うのです。

そして実際に、最悪の事態の事態はあり得るとの判断を示し、各国の理解を得たいと願っているではないですか。

北朝鮮がアメリカ・ロシア・中国の三国を翻弄出来るのは、緩衝地帯としての地政学的な位置にあるからです。

北朝鮮は自覚しているか否かに関係なく、やらざるを得ないし出来るからやっているのでしょう。

 

アメリカ・ロシア・中国の三国の緩衝地帯としての地政学的位置にあるにもかかわらず、韓国や日本がそれをやっていないからですよ。

だが韓国や日本は恐らく、自らの地政学的立場を理解していないし、利用してもいないようにみえるのです。


従来の大国のパワーバランス理論の束縛から、出られないからでしょう。

近視眼的なリアリズムが、邪魔しているのです。


日本を中心とした世界地図を見て欲しいのです。

0f79aad2

日本が、アメリカ・ロシア・中国の緩衝地帯としてこの三国を翻弄出来る地政学的位置を理解して欲しいのです。

 

仮に半島が中国とロシアのどちらにつこうとも、日本のアメリカ・ロシア・中国の緩衝地帯としての地位は揺るがないはずです。


しかも経済力もあるではないですか。


かつてより順位は落ちたかもしれないが、それでも十分な高さと大きさがあります。

 

北朝鮮がロシアと中国を翻弄出来るのは、北朝鮮の緩衝地帯としての地政学的位置をロシアも中国もわかっているからだ。

中国もロシアも、北朝鮮を相手に取られたくないが追いやりたくもないのです。

そして、北朝鮮は中国やロシアとアメリカとの緩衝地帯でもあるのです。


それは、アメリカも十分意識しているはずです。


これらの事情を一番理解できていないのは、悲しいかな、日本ではないですか。


真っ只中にいて翻弄される立場にあるから、多くの国民がそのことに十分理解できていないのかもしれません。


もう一度言います。


日本を中心とした世界地図を眺めてください。

Ill06

思い描いてください。


日本が、中国やロシアとアメリカの緩衝地帯であり、これらの国々に対してイニシアティブを握れる地政学的位置にあることを、理解してください。


一番良いのは、半島と日本の中立化だと私は思うのです。

 

そして、中国やロシアとアメリカの緩衝地帯としての地政学的位置にある利点を最大限に利用し活用する政治のリアリズムを徹底的に理解し生かして欲しいのです。

 

世界が平和と安定の中で、持続可能な対等平等・相互互恵な社会をつくり上げていくイニシアティブを大いに発揮して欲しいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

経済活動と生命活動を対比してみても良いのではないだろうか。

経済行動や経済活動は、生体の営みとある意味似ています。

 

資金の流れは、血液の流れと似ています。

 

血液を全身に送り出すのは心臓、資金の大本である通貨を市場に送り出すのは中央銀行ですよね。

 

だが、血液は送り出されただけじゃ意味を持たないです。

 

通貨も市場に出るだけでは資金ではないです。

 

血液は臓器の中で消費されてこそ、血液の役目を果たすのです。

 

通貨はさまざまな経済主体の中で消費されてこそ、資金としての役割を果たすのです。

 

とは言え、資金の流れは血液だけでは例えきれないでしょうね。

 

血液は栄養を全身に運ぶ、資金の流れは単なる通過の流れではないのです。

 

通貨は、流通し、貯蔵されるのです。

 

これは、体内を循環する栄養は時として貯蔵されることに似ているのです。

 

つまり、資金の流れで言う通貨に体内で言えば栄養と見た方が良いのです。

 

そう考えると、内部留保の経済での働きは蓄積された脂肪に相当すると見て良いかもしれません。

 

適正量の脂肪、適正量の内部留保は、体内や企業の健全な営みを支えるために必要だが、行き過ぎた蓄積は健康を害するようになります。

 

蓄積された脂肪の消費は、体内で循環している栄養素で足りない時に起きるはずです。

 

同じように内部留保は必要な資金調達が市場からだけでは間に合わない時、換金性の高いものから消費されるはずです。

 

近年の内部留保の蓄積は急激と言う事は、一時避難的に換金性の高い資産に変換されている可能性が高いです。

 

つまり、経済活動が大いに活性化すれば速やかに換金されて企業の活動に回されることが期待できるでしょう。

 

経済活動の6割は個人消費と言われます。

 

これは、第二の心臓の異名を持つ足腰に相当すると見て良いでしょう。

 

足腰が活発に動けば動くほど、血管内に目まぐるしく栄養は駆け巡るようになります。

 

個人消費が活発になればなるほど、市場で通貨、つまり資金は目まぐるしく流通することになるのではないでしょうか。

 

個人消費と、個々人の生活は切っても切り離せないです。

 

日々の生活で新たな消費が旺盛になれば、市場の中で資金も活発に巡るのです。

 

動物は動くから動物、生活は生きて活動するから生活、違うでしょうか。

 

個人消費が思うように動いていないというなら、個々人の生活の質はどうなっているか調べた方が良いでしょう。

 

かつてのような大量消費が望めないなら、単価をどうすれば上げられるか見れば良いのです。

 

簡単です。

 

収入が増え、その状態が維持できると期待できる状況が実感できればいいのです。

 

量が期待できないなら質を上げその質に見合った価格を設定すればよく、その代金を気前よく払えるだけの生活の維持が期待できる状況が実感できるようにする政治が求められる。でしょう。

 

今の時代、社会には十分な富があるはずです。

 

それが、個々人の生活を力強く支えるために使われるべきと不退転な決意で実行する意思と能力のある政党や政治家を、市民が育てる意思と能力を発揮できるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

 

動物は必然となれば、生存に適した場所を命がけで求めて、行動するのです。

 

人間だって、よりよい社会やよりよい政治を本気で必要と思うなら、大胆に行動を起こすことをいとわない方が良いのではないでしょうか。

 

闇雲に動くことはないが、よりよい社会やよりよい政治のために、もっともっと、思考もし、激論も交わす方が良いでしょう。

 

少しでもいいポジションを求めて生物は行動するはずです。

 

人間は、全体でよりよいポジションに進めるように協力協同した方が良いでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誰が主人か覚えておきましょう。

選挙で棄権しときながら、後で文句言うなって言う声出ますよね。

 

選挙で棄権することは投票に行った人たちへ白紙委任したのとおなじってこと、わかっていないのでしょう。

 

今の政治に文句あるなら、与党の候補選ばなきゃいいだけなんです。

 

後は野党から、少しでもましそうなの選べば良いわけですよ。

 

居ないっていうなら、あなた出なさいよ、そう言ってあげたいですね。

 

選挙、棄権とか言って行かない人いるけれど、それ、はっきり言って責任放棄だよって言いました。

 

民主主義では、国と地方の全ての役人の雇用者は国民であり住民だからなんですよ。

 

選挙はね、面接試験みたいなものなんです。

 

有権者が誰を議員に採用するか決める、それが選挙なんです。

 

棄権はね、参加した人たちへの白紙委任とおなじ、そういうことです。

 

犬も役人や議員も、誰が主人かちゃんと示さないと自分が主人にならんとダメと思い込むことがあり得るのです。

 

それを防ぐには、誰が主人か毅然とした態度で示さないとダメなんです。

 

リードは短く持って、おかしな方、行って欲しくない方に行こうとしたら、強く引いて道に戻すの、リードを握るってことは主導権を握るってことですよ。

 

やり方は同じなんですよ。

 

日本人はしばしば、お任せ民主主義になりがちだけと、それって犬で言えば「どうそ権勢症候群になってください」って言ってるようなもんなのです。

 

だから、選挙の後でふんぞり返る議員も出る、そういうことですよ。

 

あれ、犬でいったら権勢症候群ですから。

 

あなたの主人は国民である、住民である私たちと教えること、これ、基本ですよ。

 

社会保障や社会政策をお上の慈悲だのお恵み扱いしてるうちは、必要な充実なんてまず無理ですよ。

 

民主主義国家では、国と地方の政治の担い手を雇ってるのは国民であり住民ですよ。

 

勘違いしてる議員や役人は、権勢症候群にかかったわんこと同じですよ。

 

誰が主人か、教えなきゃダメなのですよ。

 

大体ね、社会保障や社会政策の原点は、治安対策だったんですよ。

 

犯罪や暴動、政府転覆策動を防ぐために始まったと言って良いのです。

 

つまり政府に社会保障や社会政策の充実求めたいなら、デモや集会、野党への投票で圧力かけなきゃダメなんです。

 

今の日本人、大人し過ぎますよね。

 

損してますよ、ほんと。

 

ちなみにアメリカでは、災害の後の生活再建支援も日本よりも手厚いそうですよ。

 

なんたって、不満が暴動に繋がりかねないから、そういう動きを事前に封じるための施策は、日本よりも充実してるってことでしょう。

 

日本人も政治に不満があれば、ドンドン、デモや集会で意思表示すればいいんです。


最低賃金1500円実現をと言うと、払えない小さな企業はどうすると言う声も出てきます。

 

アメリカ合衆国ではすべての事業者に最低賃金の引き上げを実施させるために、大胆な予算を計上して、断行したと言います。

 

格差の深刻なアメリカ、実施にも格差となれば治安上問題出るからでしょう。

 

日本は治安上の問題まで行かないとしても、政権が持たないと言う危機感は持たせるくらいのデモや集会やらなきゃだめですよ。

 

そうでなければ、なめられます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

平和な解決に共謀罪はかえって邪魔。

人々の本心からの声、心の奥底からの声は、誰も止めることはできないのです。

それを萎縮させ、人々を物言わぬ奴隷の地位に叩き落す懸念さえあるのが自公政権の共謀罪だから、国連も流石に待ったをかけざるを得ないのです。

それでも賛成する人は、言論の自由を失っても良いのだろうか、そう疑問を持たないわけにはいかないのです。

ルカによる福音書 19 3940

ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。

答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

イエスが、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」と言うのは、弟子達の声が彼ら自身からではなく彼らを導く神から出ているからだれも止めることはできないということです。

 

神に不可能はないと言うことだが、本当に石が叫んだら、もはやホラー映画まがいの光景なのですが

共謀罪の愚かさは、これが憎しみと報復の連鎖を生む戦争やテロと本質が何ら変わらないところにあるのです。

だから、共謀罪のある国でもテロが防げないと言うよりも、戦争やテロと同根の共謀罪で対処しようとしているからテロがなくならないのではないか。

違うでしょうか。

テロも戦争も、原因を平和的手段で取り除くしか手はない。

違うでしょうか。

共謀罪でもテロが防げないのではないのです。

逆です。

共謀罪があるから、かえって個人単位のテロが誘発される。

違いますか。

誰かに話しかけて共謀罪の疑いで捕まるくらいなら、個人的にテロに走った方が手っ取り早い。

違うでしょうか。

問題を生んだ原因を調べて解決しようとしないで弾圧で対処しようとする国家の対応が怒りをよび、次のテロの温床を生むことになる、これが実際に起きていることではないでしょうか。

つまり、共謀罪とは、国家VS民間の戦争であり国家による民間の思想統制思想弾圧の形をとっているに過ぎないと言えないでしょうか。

共謀罪の本質は、国家による民間の思想や言論の自由に対するテロ行為と言って良い、どうでしょうか。

 

テロの定義が難しくなる理由は、戦争を除外しようとするから。

それ以外の説明ができますか。

戦争もテロも、動機では区別不能、なのに無理して戦争やテロとを区別しようとするから、話が難しくなるのではないでしょうか。

 

国家Vs国家のテロが戦争、民間VS民間の戦争がテロ、国家VS民間が国内に向かえば武力弾圧や内戦、国家VS民間が国外に向かえば武力介入、単純でしょ。 ·

 

日本を戦争できる国家に変えると言うことは、日本を国家VS国家のテロである戦争をする国に変えると言うこと、違うでしょうか。

 

実際、戦争をしている国家はテロによる報復に悩まされているのではないでしょうか。

 

テロは民間VS国家の戦争に他ならないからです。

テロの民間VS民間の戦争の構図は、表面的なものに過ぎないのです。

 

テロや戦争の根絶は問題の平和的解決を目指す以外あり得ないのだ。

違いますか。

 

国家VS国家のテロが戦争、実際、局地化すれば紛争や武力衝突、更に局地化すれば暗殺やテロに限りなく近づく、実際そうなっていませんか。

民間VS民間の戦争がテロであるが、民間VS民間は表面的な形であり、動機は民間VS国家と言う点では本質はゲリラと変わらないと言えるでしょう。

テロとの差はゲリラが直接に軍を狙うこと、これくらいではないでしょうか。

 

共謀罪のターゲットが民間なのは、テロを国家の独占的行為にする目的があるから。違うでしょうか。

国家権力にとって都合の悪い行為は、たとえ平和的であっても国家によるテロ行使の妨げとなるから、権力はテロのレッテルを貼ってでも力づくで退けようと企むことになる。

違うでしょうか。

 

権力への敵対行為をすべてテロとみなすのが、共謀罪ではないでしょうか。

それは、共謀罪自体が、国によって差があるとしても、その本質が民衆の心の自由へのテロ攻撃にほかならないからではないでしょうか。

平和が欲しいなら、まず自らが平和を欲するものであることを態度で示すべき。

違うでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

平城京とペルシャ

読売新聞に興味ひかれる記事が載っていました。

かつて、井本英一著「古代の日本とイラン」を面白く読んでいたことを思い出し、やはりいましたかと言う気持ちになりました。

奈良の都にペルシャ人役人がいた…木簡に名前

2016105

平城宮跡で出土した木簡。ペルシャ人とみられる名前が書かれていた=奈良文化財研究所提供

Photo

Photo_2

 

 奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯はし」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。

 国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。

 木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、今年8月、赤外線撮影をした結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とわかった。

 表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属いんがいだいさかん」という役職名、中国語でペルシャを表す「波斯はし」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。

沖縄県ではローマ帝国やオスマン帝国のコインが見つかっているし、日本と中東の古代における繋がりの深さを改めて感じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

重国籍批判を放置していては危ないことになる。

民進党代表選をきっかけにして、重国籍批判の動きが広まっています。

 

それは、日本の国籍法が重国籍を認めていないからです。

 

だが、現実にはすでに、かなりの数で重国籍の人はいるはずです。

 

例えばブラジル国籍は、自らの選択で抜けることは制度上不可能と指摘されています。

 

ブラジル国籍者は自ら又は国家の意思でブラジル国籍を剥奪又は放棄される事をブラジル憲法は認めていません。

 

つまりブラジル国籍は一生消えないという事です。

 

移民受け入れの上で制度的な制約がまだ多い日本は、ブラジルから多くの日系人を受け入れることで制度上の制約を回避しようとしました。

 

もし彼らから帰化が出れば、重国籍になる可能性は多いはずです。

 

この課題をどう扱ったのでしょう。

 

日本の国籍法には国籍選択を行わなかった場合は、自らの意思で日本国籍を選択したものと見なすという規定があります。

 

日本国籍とブラジル国籍との重国籍の人たちを中心に受け入れて、帰化の際の難問を回避したのでしょうか。

 

もしそうなら、重国籍を認めないと言う規定は事実上空文化していることになります。

 

アメリカ生まれの日本人の子供たちは殆ど国籍選択をしてないから、大人になっても事実上の日米の二重国籍者となって日米双方のパスポートを有している若者が大勢いると言います。

 

二重国籍を認めている国で生まれた日本人の子供たちの多くが国籍選択をしないまま、日本との二重国籍を持っている可能性は十分にあり得ます。

 

そして事実、自民党議員の中にアメリカとの重国籍の人がいました。

 

これまで国籍法上何の問題にもならないで、その人はこれまで生きてきたことになります。

 

穴だらけの国籍法のおかげで、重国籍が問題にされなかった人は今でも相当数いるはずではないでしょうか。

 

日本が国際化すればこういう子供たちが増えて、重国籍禁止は実態や実情に合わなくなるでしょう。

日本の国際化が進めば、重国籍保有者も増えるはずです。

 

有名無実化している穴を放置して、重国籍を認めないと言ってもダブルスタンダードではないでしょうか。

 

特に問題を起こしていない人の帰化を認める際、すでに持っている国籍の放棄は当人の自由意思に任せることや、在外日本人の外国籍取得の際日本国の放棄をするかどうかも当人の自由意思に任せることを、法的に定めて重国籍禁止の原則を廃止した方が良いのではないでしょうか。

 

その後仮に問題行動があったとしても、個別の法規で対応すれば良いだけの話だと思います。

 

重国籍排除の動きは、言ってみれば国籍浄化の動きではないでしょうか。

 

ナチスがアーリア人種の優越を叫んで反ユダヤを行った時代を彷彿させる展開に思えるのです。

 

ニーメラーの詩は、他人事と思っているとやがて自分が危ないと言うのがメッセージと思うのです。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は共産主義者ではなかったから

 

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった

私は社会民主主義ではなかったから

 

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は労働組合員ではなかったから

 

そして、彼らが私を攻撃したとき

私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

共産主義者を重国籍と読み替えてニーメラーの詩を書き換えて見れば良いでしょう。

 

次は生活保護で読み替えて見るとかでも良いかもしれません。

 

勿論今も反共は根強いから、元の詩のままで読んでも十分、教訓を得られると思うのです。

 

重国籍排除の次は、どこへ排除の動きが広がるかわからないです。

 

私は重国籍じゃないから関係ないと言わないで、今、彼らを擁護しないと危ない展開が待っているのではないでしょうか。

 

反共攻撃への警戒を避けて迂回している可能性が大きいのではないでしょうか。

 

ハードルが低そうなところから狙うのが常套手段と覚えておいた方が良いのではないでしょうか。

 

重国籍狩りにストップをかける国民的な動きを早急に広めた方が良いのではないでしょうか。

 

相手は、「反日」「非国民」「売国奴」のレッテルはってくるかもしれないが、ひるんではいけないと思うのです。

 

彼らの挑発的な言動にのっても怯んでもいけないと思うのです。

 

自由と人権と民主主義と平和の旗を、高く掲げ守り抜く声を上げようではないですか。

 

 

重国籍批判の本当の狙いは、国民の中に混乱と分断を持ち込み、改憲勢力に対する反対の動きを牽制することにあると、見ておいた方が良いと思うのです。

 

重国籍批判の顔ぶれの中心的メンバーと改憲勢力の中心的メンバーは、ほぼ重なっていることが見て取れるはずと思うのです。

 

重国籍批判の人たちは、反論する人たちに「反日」「非国民」「売国奴」のレッテルはってくるでしょう。

 

彼らの真の狙いはこれらのレッテルで改憲勢力に反対する動きを牽制することにこそあるのは、これからの重国籍批判の展開を見れば明らかになるはずだと思うのです。

 

重国籍批判に安易に乗ってはいけないと思うと思うのです。

 

それは後で、自分を窮地に追い込むことになるでしょうから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本にとって天皇制はどういう意味を持つか。

天皇制については、古代から続く前世紀の遺物と見る人も多いです。

 

確かに古代から続くシステムには違いないが、アジアの多くの国が古代のリフレインから抜け出せなかったのに、なぜ日本は違ったのかと言うことです。

 

多くのアジア諸国の王との決定的な差は、天皇はいわば日本版教皇ともいうべき立場であったことなのです。

 

祭政一致的な国家の最高権力と言うなら、アジア諸国の王の多くはそうでした。

 

だが日本の天皇との決定的な差は、天皇が教皇的な最高祭司に祀り上げられてしまったことなのです。

 

教皇的な最高祭司に祀り上げられた結果、天皇は執権の任命権者として君臨、時代の変化に応じた執権を自在に任命できたのでした。

 

執権のおおもとの意味は、政務を執行する者と言うことです。

 

執権は歴史的な用語として知られているが、ここでは一番基本的な意味で用います。

 

余談ですが、キリスト教世界の教皇は近代国家成立以降国家の執権に当たる人々を認証する役目から外れてしまったが、日本の天皇は今でも総理大臣や内閣の認証を形式的な儀式だけになってしまったとはいえ続けています。

 

これは、天皇が日本国成立の時から日本の中心として君臨し続けてきたのに対して、教皇はヨーロッパ諸国がキリスト教化したことによって精神世界の頂点に位置付けられたことやキリスト教世界が東方正教会やカソリックやプロテスタントに分裂したことと、おそらく無関係ではないでしょう。

 

本題に戻ります。

 

多くの国々の場合、権力の交代は国全体のリセットとなってしまい国家建設の成果の蓄積は事実上できませんでした。

 

日本は天皇制が維持できたおかげで、国家の一貫性が保たれ、国家建設の成果の蓄積が可能となったのです。

 

これは、天皇制の好き嫌いに無関係に認めざるを得ない事実なのです。

 

天皇制が日本史の展開の上で果たしてきた役割の大きさを思うとき、天皇制の廃止はすなわち、事実上の日本史の断絶となるでしょう。

 

果たしてそれが、日本にとって吉と出るか凶と出るかは誰にもわかりません。

 

ただ、天皇制の廃止をすることになれば日本史を貫いてきた大黒柱を失うことは紛れもない事実と言えるでしょう。

 

日本がもしも天皇制の廃止に踏み切った場合、代わりとなる国家の大黒柱を確固として打ち立てていく事ができるのかが、問われる事態となるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

危機の時こそ冷静さを。

このままでは、二、三十年後(と言わず数年後)には今と全く違うファシズム国家になってしまうと思うからと焦る人たちの気持ちは痛いほどわかるのです。

だがそれだけに、失敗による後退や停滞の余地はないのではないかしら。

「急がば回れ急いては事を仕損じる」

こういうときこそ落ち着いて着実に進むべしなのではないのかしら。

急ぐと焦るは違うはずでしょ。

急ぐ時こそ落ち着いて失敗を避けながら、着実に進む必要があるのではないかしら。

焦って浮き足立てば簡単に騙されたり、足並みが乱れたりするのではないかしら。

嘘で固めている相手の嘘に慌てて乗らないためにも、焦りと怒りの気持ちは痛いほどわかるが落ち着いて判断と行動をして欲しいのです。

これが最後のチャンスとか言って焦って中途半端な手を打てば、勝てる勝負も負けてしまう、違うかしら。

むしろそうやって中途半端な手で負けてばかり来たから、今ここまで追いつめられて来たんじゃないかしら。

焦る暇があったら、冷静に現状を分析して勝てる手を考えた方が良いと思うのです。

今闘っているのは、99%VS1%の闘い、違うかしら。

数で勝ってる我々が負けてるのは、焦って中途半端な手ばかり打っているからじゃないかしら。

こういう時こそ冷静に相手の動きを見て、どうすればいいのかじっくりと考える方がいいんじゃないかしら。
時間がない時こそ、目的にたどり着くための確かな道を落ち着いて探さなければ、時間内に目的にたどり着くことはできないのではないかしら。
焦る人は中途半端な道に進み道に迷ってかえって余計焦ることになって、時間をいたずらに無駄にするのではないかしら。
勝利への道を求めるときも、落ち着いて探す方が良い、違うかしら。
落ち着く暇などないという人がいます。

暇はなくとも小さな隙間時間ならあるのではないかしら。

そこで集中的に考えて、また仕事に没頭するのです。

本気で答えを求めたいことって、案外無意識のうちに考えていて突然アイデアが浮かぶもんですよ。

急ぐと焦るは違うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧