経済・政治・国際

平和な解決に共謀罪はかえって邪魔。

人々の本心からの声、心の奥底からの声は、誰も止めることはできないのです。

それを萎縮させ、人々を物言わぬ奴隷の地位に叩き落す懸念さえあるのが自公政権の共謀罪だから、国連も流石に待ったをかけざるを得ないのです。

それでも賛成する人は、言論の自由を失っても良いのだろうか、そう疑問を持たないわけにはいかないのです。

ルカによる福音書 19 3940

ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。

答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

イエスが、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」と言うのは、弟子達の声が彼ら自身からではなく彼らを導く神から出ているからだれも止めることはできないということです。

 

神に不可能はないと言うことだが、本当に石が叫んだら、もはやホラー映画まがいの光景なのですが

共謀罪の愚かさは、これが憎しみと報復の連鎖を生む戦争やテロと本質が何ら変わらないところにあるのです。

だから、共謀罪のある国でもテロが防げないと言うよりも、戦争やテロと同根の共謀罪で対処しようとしているからテロがなくならないのではないか。

違うでしょうか。

テロも戦争も、原因を平和的手段で取り除くしか手はない。

違うでしょうか。

共謀罪でもテロが防げないのではないのです。

逆です。

共謀罪があるから、かえって個人単位のテロが誘発される。

違いますか。

誰かに話しかけて共謀罪の疑いで捕まるくらいなら、個人的にテロに走った方が手っ取り早い。

違うでしょうか。

問題を生んだ原因を調べて解決しようとしないで弾圧で対処しようとする国家の対応が怒りをよび、次のテロの温床を生むことになる、これが実際に起きていることではないでしょうか。

つまり、共謀罪とは、国家VS民間の戦争であり国家による民間の思想統制思想弾圧の形をとっているに過ぎないと言えないでしょうか。

共謀罪の本質は、国家による民間の思想や言論の自由に対するテロ行為と言って良い、どうでしょうか。

 

テロの定義が難しくなる理由は、戦争を除外しようとするから。

それ以外の説明ができますか。

戦争もテロも、動機では区別不能、なのに無理して戦争やテロとを区別しようとするから、話が難しくなるのではないでしょうか。

 

国家Vs国家のテロが戦争、民間VS民間の戦争がテロ、国家VS民間が国内に向かえば武力弾圧や内戦、国家VS民間が国外に向かえば武力介入、単純でしょ。 ·

 

日本を戦争できる国家に変えると言うことは、日本を国家VS国家のテロである戦争をする国に変えると言うこと、違うでしょうか。

 

実際、戦争をしている国家はテロによる報復に悩まされているのではないでしょうか。

 

テロは民間VS国家の戦争に他ならないからです。

テロの民間VS民間の戦争の構図は、表面的なものに過ぎないのです。

 

テロや戦争の根絶は問題の平和的解決を目指す以外あり得ないのだ。

違いますか。

 

国家VS国家のテロが戦争、実際、局地化すれば紛争や武力衝突、更に局地化すれば暗殺やテロに限りなく近づく、実際そうなっていませんか。

民間VS民間の戦争がテロであるが、民間VS民間は表面的な形であり、動機は民間VS国家と言う点では本質はゲリラと変わらないと言えるでしょう。

テロとの差はゲリラが直接に軍を狙うこと、これくらいではないでしょうか。

 

共謀罪のターゲットが民間なのは、テロを国家の独占的行為にする目的があるから。違うでしょうか。

国家権力にとって都合の悪い行為は、たとえ平和的であっても国家によるテロ行使の妨げとなるから、権力はテロのレッテルを貼ってでも力づくで退けようと企むことになる。

違うでしょうか。

 

権力への敵対行為をすべてテロとみなすのが、共謀罪ではないでしょうか。

それは、共謀罪自体が、国によって差があるとしても、その本質が民衆の心の自由へのテロ攻撃にほかならないからではないでしょうか。

平和が欲しいなら、まず自らが平和を欲するものであることを態度で示すべき。

違うでしょうか。

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平城京とペルシャ

読売新聞に興味ひかれる記事が載っていました。

かつて、井本英一著「古代の日本とイラン」を面白く読んでいたことを思い出し、やはりいましたかと言う気持ちになりました。

奈良の都にペルシャ人役人がいた…木簡に名前

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平城宮跡で出土した木簡。ペルシャ人とみられる名前が書かれていた=奈良文化財研究所提供

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 奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯はし」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。

 国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。

 木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、今年8月、赤外線撮影をした結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とわかった。

 表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属いんがいだいさかん」という役職名、中国語でペルシャを表す「波斯はし」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。

沖縄県ではローマ帝国やオスマン帝国のコインが見つかっているし、日本と中東の古代における繋がりの深さを改めて感じます。

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重国籍批判を放置していては危ないことになる。

民進党代表選をきっかけにして、重国籍批判の動きが広まっています。

 

それは、日本の国籍法が重国籍を認めていないからです。

 

だが、現実にはすでに、かなりの数で重国籍の人はいるはずです。

 

例えばブラジル国籍は、自らの選択で抜けることは制度上不可能と指摘されています。

 

ブラジル国籍者は自ら又は国家の意思でブラジル国籍を剥奪又は放棄される事をブラジル憲法は認めていません。

 

つまりブラジル国籍は一生消えないという事です。

 

移民受け入れの上で制度的な制約がまだ多い日本は、ブラジルから多くの日系人を受け入れることで制度上の制約を回避しようとしました。

 

もし彼らから帰化が出れば、重国籍になる可能性は多いはずです。

 

この課題をどう扱ったのでしょう。

 

日本の国籍法には国籍選択を行わなかった場合は、自らの意思で日本国籍を選択したものと見なすという規定があります。

 

日本国籍とブラジル国籍との重国籍の人たちを中心に受け入れて、帰化の際の難問を回避したのでしょうか。

 

もしそうなら、重国籍を認めないと言う規定は事実上空文化していることになります。

 

アメリカ生まれの日本人の子供たちは殆ど国籍選択をしてないから、大人になっても事実上の日米の二重国籍者となって日米双方のパスポートを有している若者が大勢いると言います。

 

二重国籍を認めている国で生まれた日本人の子供たちの多くが国籍選択をしないまま、日本との二重国籍を持っている可能性は十分にあり得ます。

 

そして事実、自民党議員の中にアメリカとの重国籍の人がいました。

 

これまで国籍法上何の問題にもならないで、その人はこれまで生きてきたことになります。

 

穴だらけの国籍法のおかげで、重国籍が問題にされなかった人は今でも相当数いるはずではないでしょうか。

 

日本が国際化すればこういう子供たちが増えて、重国籍禁止は実態や実情に合わなくなるでしょう。

日本の国際化が進めば、重国籍保有者も増えるはずです。

 

有名無実化している穴を放置して、重国籍を認めないと言ってもダブルスタンダードではないでしょうか。

 

特に問題を起こしていない人の帰化を認める際、すでに持っている国籍の放棄は当人の自由意思に任せることや、在外日本人の外国籍取得の際日本国の放棄をするかどうかも当人の自由意思に任せることを、法的に定めて重国籍禁止の原則を廃止した方が良いのではないでしょうか。

 

その後仮に問題行動があったとしても、個別の法規で対応すれば良いだけの話だと思います。

 

重国籍排除の動きは、言ってみれば国籍浄化の動きではないでしょうか。

 

ナチスがアーリア人種の優越を叫んで反ユダヤを行った時代を彷彿させる展開に思えるのです。

 

ニーメラーの詩は、他人事と思っているとやがて自分が危ないと言うのがメッセージと思うのです。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は共産主義者ではなかったから

 

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった

私は社会民主主義ではなかったから

 

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は労働組合員ではなかったから

 

そして、彼らが私を攻撃したとき

私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

共産主義者を重国籍と読み替えてニーメラーの詩を書き換えて見れば良いでしょう。

 

次は生活保護で読み替えて見るとかでも良いかもしれません。

 

勿論今も反共は根強いから、元の詩のままで読んでも十分、教訓を得られると思うのです。

 

重国籍排除の次は、どこへ排除の動きが広がるかわからないです。

 

私は重国籍じゃないから関係ないと言わないで、今、彼らを擁護しないと危ない展開が待っているのではないでしょうか。

 

反共攻撃への警戒を避けて迂回している可能性が大きいのではないでしょうか。

 

ハードルが低そうなところから狙うのが常套手段と覚えておいた方が良いのではないでしょうか。

 

重国籍狩りにストップをかける国民的な動きを早急に広めた方が良いのではないでしょうか。

 

相手は、「反日」「非国民」「売国奴」のレッテルはってくるかもしれないが、ひるんではいけないと思うのです。

 

彼らの挑発的な言動にのっても怯んでもいけないと思うのです。

 

自由と人権と民主主義と平和の旗を、高く掲げ守り抜く声を上げようではないですか。

 

 

重国籍批判の本当の狙いは、国民の中に混乱と分断を持ち込み、改憲勢力に対する反対の動きを牽制することにあると、見ておいた方が良いと思うのです。

 

重国籍批判の顔ぶれの中心的メンバーと改憲勢力の中心的メンバーは、ほぼ重なっていることが見て取れるはずと思うのです。

 

重国籍批判の人たちは、反論する人たちに「反日」「非国民」「売国奴」のレッテルはってくるでしょう。

 

彼らの真の狙いはこれらのレッテルで改憲勢力に反対する動きを牽制することにこそあるのは、これからの重国籍批判の展開を見れば明らかになるはずだと思うのです。

 

重国籍批判に安易に乗ってはいけないと思うと思うのです。

 

それは後で、自分を窮地に追い込むことになるでしょうから。

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日本にとって天皇制はどういう意味を持つか。

天皇制については、古代から続く前世紀の遺物と見る人も多いです。

 

確かに古代から続くシステムには違いないが、アジアの多くの国が古代のリフレインから抜け出せなかったのに、なぜ日本は違ったのかと言うことです。

 

多くのアジア諸国の王との決定的な差は、天皇はいわば日本版教皇ともいうべき立場であったことなのです。

 

祭政一致的な国家の最高権力と言うなら、アジア諸国の王の多くはそうでした。

 

だが日本の天皇との決定的な差は、天皇が教皇的な最高祭司に祀り上げられてしまったことなのです。

 

教皇的な最高祭司に祀り上げられた結果、天皇は執権の任命権者として君臨、時代の変化に応じた執権を自在に任命できたのでした。

 

執権のおおもとの意味は、政務を執行する者と言うことです。

 

執権は歴史的な用語として知られているが、ここでは一番基本的な意味で用います。

 

余談ですが、キリスト教世界の教皇は近代国家成立以降国家の執権に当たる人々を認証する役目から外れてしまったが、日本の天皇は今でも総理大臣や内閣の認証を形式的な儀式だけになってしまったとはいえ続けています。

 

これは、天皇が日本国成立の時から日本の中心として君臨し続けてきたのに対して、教皇はヨーロッパ諸国がキリスト教化したことによって精神世界の頂点に位置付けられたことやキリスト教世界が東方正教会やカソリックやプロテスタントに分裂したことと、おそらく無関係ではないでしょう。

 

本題に戻ります。

 

多くの国々の場合、権力の交代は国全体のリセットとなってしまい国家建設の成果の蓄積は事実上できませんでした。

 

日本は天皇制が維持できたおかげで、国家の一貫性が保たれ、国家建設の成果の蓄積が可能となったのです。

 

これは、天皇制の好き嫌いに無関係に認めざるを得ない事実なのです。

 

天皇制が日本史の展開の上で果たしてきた役割の大きさを思うとき、天皇制の廃止はすなわち、事実上の日本史の断絶となるでしょう。

 

果たしてそれが、日本にとって吉と出るか凶と出るかは誰にもわかりません。

 

ただ、天皇制の廃止をすることになれば日本史を貫いてきた大黒柱を失うことは紛れもない事実と言えるでしょう。

 

日本がもしも天皇制の廃止に踏み切った場合、代わりとなる国家の大黒柱を確固として打ち立てていく事ができるのかが、問われる事態となるかもしれません。

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危機の時こそ冷静さを。

このままでは、二、三十年後(と言わず数年後)には今と全く違うファシズム国家になってしまうと思うからと焦る人たちの気持ちは痛いほどわかるのです。

だがそれだけに、失敗による後退や停滞の余地はないのではないかしら。

「急がば回れ急いては事を仕損じる」

こういうときこそ落ち着いて着実に進むべしなのではないのかしら。

急ぐと焦るは違うはずでしょ。

急ぐ時こそ落ち着いて失敗を避けながら、着実に進む必要があるのではないかしら。

焦って浮き足立てば簡単に騙されたり、足並みが乱れたりするのではないかしら。

嘘で固めている相手の嘘に慌てて乗らないためにも、焦りと怒りの気持ちは痛いほどわかるが落ち着いて判断と行動をして欲しいのです。

これが最後のチャンスとか言って焦って中途半端な手を打てば、勝てる勝負も負けてしまう、違うかしら。

むしろそうやって中途半端な手で負けてばかり来たから、今ここまで追いつめられて来たんじゃないかしら。

焦る暇があったら、冷静に現状を分析して勝てる手を考えた方が良いと思うのです。

今闘っているのは、99%VS1%の闘い、違うかしら。

数で勝ってる我々が負けてるのは、焦って中途半端な手ばかり打っているからじゃないかしら。

こういう時こそ冷静に相手の動きを見て、どうすればいいのかじっくりと考える方がいいんじゃないかしら。
時間がない時こそ、目的にたどり着くための確かな道を落ち着いて探さなければ、時間内に目的にたどり着くことはできないのではないかしら。
焦る人は中途半端な道に進み道に迷ってかえって余計焦ることになって、時間をいたずらに無駄にするのではないかしら。
勝利への道を求めるときも、落ち着いて探す方が良い、違うかしら。
落ち着く暇などないという人がいます。

暇はなくとも小さな隙間時間ならあるのではないかしら。

そこで集中的に考えて、また仕事に没頭するのです。

本気で答えを求めたいことって、案外無意識のうちに考えていて突然アイデアが浮かぶもんですよ。

急ぐと焦るは違うのです。

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道を選ぶとは。

自民党、参院選ポスターを発表

朝日新聞2016682133

参院選に向けたキャッチコピーが書かれた新ポスターを発表する自民党の木村太郎広報本部長(右)ら=8日午後1時3分、東京・永田町の党本部、飯塚晋一撮影

写真・図版

 自民党は8日、参院選向けのポスターを発表した。安倍晋三首相の写真とともに、「この道を。力強く、前へ。」とのキャッチコピーが緑色で大きく書いてある。木村太郎・広報本部長は記者会見で「道半ばではあるものの、アベノミクスは結果を生み出してきている。この道を更に力強く進めていくとの思いを込めた」と説明した。

 

2016参院選

 ポスターには「政治は国民のもの」とも書かれている。立党宣言の冒頭にある言葉で、首相は「このことが大事だ」と語ったという。26万枚印刷し、全国で貼り出す予定だ。

 

「この道を。力強く、前へ。」というキャッチコピーには「道半ばではあるものの、アベノミクスは結果を生み出してきている。この道を更に力強く進めていくとの思いを込めた」と言う言葉に、どこか違和感というか、文法的にしっくり来ないと感じるのはなぜでしょう。

 

「この道を更に力強く進めていく」という言い方は、文法的に何かしら足りないか、言い回しを間違えているか、どちらかですね。

 

この文章の文脈から言えば、「この道を 更に力強く進めていく」と言いたいなら「この道を 更に力強く切り拓いていく」じゃないでしょうか。

 

アベノミクスによって切り開かれた展望ある道を、更に進んでいきたいというなら、「この道を 更に力強く推進していく」あるいは、「この道を 更に力強く切り拓いていく」になると思えます。

 

文法的に訂正なら「この道を 更に力強く進めていく」から「この道を 更に力強く進んでいく」に言い換えれば良いと思います。

 

だが、記者会見では「この道を 更に力強く進めていく」と言っています。

 

と言うことは、何か言葉を補って完成された文章にしないと、しっくりこないわけです。

 

翻訳と言う視点から見れば、補うべき言葉が見えてきそうです。

 

この道はアベノミクスのことでしょうから、誰が何者を前に進めようというかを、補うことになるでしょう。

 

となれば、推進する主体は安倍政権となるでしょう。

 

問題は安倍政権の作ろうとしている道に、何者を進めようとしているかです。

 

進めるわけなので、何者かは前へと進められることになるでしょう。

 

安倍首相は以前、日本国の最高責任者と自らを呼んでいますから、前へ進むように促される対象は、やはり、国民ということになりそうです。

 

そこで、こうなるでしょう。

「この道を安倍政権は 更に力強く国民を進めていく」

 

安倍政権が強引な国家運営をしようとしていることがよくわかる一文ですね。

 

でも立憲主義国家とは、憲法が権力を縛り、国民が主体となり、主人公となって、国の進むべき道を決めていく国家ではないでしょうか。

 

力強く進むべき道は国民が自ら決め、皆で力を合わせて前進しようというのが、立憲主義の国家であり民主国家ではないでしょうか。

 

選ぶべき道を間違えてはいけませんね。

 

道を間違えてしまうとどうなるか、諭している聖句が聖書にあります。

 

ローマ人への手紙 3 16

彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

 

正しい道を選びたいものです。

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基本は見失うととんでもないことになる。

休みを取りながら、何気なくテレビを見ていて思ったのです。

 

テレビで本当に実力ある芸人だそうとしたら、一時間番組で数組に絞って拘束時間に見合ったギャラ出しても、今の日本でどれだけ視聴率とれるかですよね。

 

最後まで付き合ってくれる数少ない視聴者にために、高い金かけてもペイしないから、結局、トークバラエティと情報番組頼みになるのではないかしら。

 

活気のあった高度成長期でも、もっと本格的な芸をみせる人がテレビに出ていた気がするのです。

 

忙しいように見えても、心に余裕があったってことかしら。

 

今は忙しい上に心に余裕がない人が増えたってことかしら。

 

高度成長期の莫大な富は一体どこにいったのかしら。

 

少なくとも国民には来てないってことですよね。

 

高度成長期の莫大な富が今でも国民の中にとどまって回っていれば、もっと国民はゆとりが持てているはずですね。

 

その時期を知らない世代は実感がない以上、知っている世代が富の再配分の必要性を声を大にして訴えていくべきじゃないかしら。

 

社会は人が作る、だから、人が変えられるはずですよね。

 

民主国家の主人公は国民であって、政府のトップとは、公僕である公務員のトップなわけですよね。

 

そこをはき違えていたら、それは「権勢症候群」つまり「ボスは自分と勘違い症候群」ってことですよね。

 

主人の忠実な友であるべきという点では、犬も公務員も基本的には同じじゃないかしら。

 

公務員は基本的にポチで良いのではないかしら。

問題は、誰のポチかってことではないかしら。

 

公務員は、国民、住民のポチとして、可愛がられる忠実な公僕であるべきと思うのです。

国民にとって「日本を取り戻す」とは、ポチであるべき公僕のリードを、アメリカと財界から、国民の手に取り戻すことじゃないのかしら?

 

何がだれのためにあるのか、取り違えてしまうと、物事はおかしな方向に行ってしまいますね。

 

箴言 3 21

わが子よ、確かな知恵と、慎みとを守って、それをあなたの目から離してはならない。

 

総理大臣も「国民の皆様の為に働かせていただきます」という言葉を、選挙期間中だけでなく国会の会期中にも言わなくちゃいけないのではないかしら。

最近の首相の言い草は「国民に理解させる」って、目上の人には決して使ってはならない使役の助動詞平気で使っている、おかしいのではないかしら。

 

「権勢症候群」つまり「ボスは自分と勘違い症候群」そのものになっている総理大臣を、 国民は意識を変えて、主人は自分だと公僕の長としてしつけなきゃいけないのではないかしら。

主人として、毅然としてなきゃだめではないかしら。

やたら威張る必要はないですけど。

 

箴言 3 31

暴虐な人を、うらやんではならない、そのすべての道を選んではならない。

 

国民の側も、多様な声があるからと諦めることなく国民的な合意をじっくりと腰を据えて作っていく構えが必要ではないかしら。

焦らずに合意形成していくことが、結局は近道じゃないのかしら?

 急がば回れ、急いては事を仕損じる。

昔の人良い事言っていますね。

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軸を持ててこそ自分の道の主人公となれる。

思う様な寄付が集まらないってぼやく政党や政治家がいます。

お金が簡単に集まるくらいなら、みんな政治家になりたがるし政党作りたがるでしょう。

 

多くの人に良いねを言ってもらえ、お金払ってでも続けて欲しいと思ってもらえるには、それだけ努力と忍耐がいるでしょう。

そして、なによりも自信と確信がいるでしょう。

 

寄附が集まらないとぼやいてる政党や政治家って、すぐ党を作ったり離れたり、腰が座ってないのではないですか。

 

政治家や政党は、あなたの声を私に託してくださいってのが、お仕事なわけです。

 

そして託された声を政治に届けるのです。

政策という形にして。

 

ある意味、政策を売るのが政治家や政党のお仕事です。

 

政策はみんなの声が材料だから、とにかく数を集め政策に仕上げていくのです。

 

声を寄せてくれた人の気持ちを裏切ってないと認められて、はじめて政策に寄附が集まるのです。

 

あなたの政策は、独り善がりじゃないですか。

 

自分の思いよりみんなの思いを形にしてこそ、寄附が集まる政策にできる、違いますか。

 

政治家や政党のために政策はあるんじゃないのです。

 

期待を寄付とともに寄せてくれた人たちのために、政策はあるのです。

 

出来上がった瞬間から政策は、あなたの手を離れてみんなのものになるのです。

 

党を移るたびに、政策を棄ててませんか。

 

政策を棄てることは支援者を棄てる事と同じじゃないですか。

 

ころころと政策や政党を変える政治家や政党は、自分に期待し、自分を育ててくれた人たちをその度に棄てているのと同じじゃないですか。

 

政治家や政党に対する不信の元を自らばら撒いて、寄附が集まる事を期待するなんて世の中舐めてるにも、程がありませんか。

 

支えたい、支持したい、応援したい、そう思えば自然と財布の紐はそれなりにゆるむものです。

 

だから、支援や義援のお金や物はたくさん集まるでしょ。

 

信頼されているからですよ。

 

信頼されている、人や団体や組織が、呼び掛けているからですよ。

 

でも、そうなるまでが大変ですけどね。

 

ルカによる福音書 6 37

人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

 

ヤコブの手紙 4 11

兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。

 

自分と人とを実質的に繋いでいたものを自覚も反省もなしに平気で棄てることは、自分もまた彼等から棄てられていると言うことかも知れません。

 

さばくなさばかれないためだと言うのは、棄てるな棄てられないためである、という意味も含んでるのかも知れないです。

 

自分に返ってくるわけですから。

 

棄てずに保ち続けるには、何が一番大切か、こだわるものがあるかどうかですね。

 

とらわれとこだわりの差は、枠か軸かの差です。

 

ブレない軸を持てるなら、一番大事なものを棄てずに済むでしょう。

 

寄附が集まらないと嘆く政治家や政党は、たいてい、ブレまくってませんか。

 

ブレまくっている政治家や政党は、とらわれとこだわりを取り違え、迎合と応用を取り違えています。

 

枠は形はあるが中心がないから、ブレて迎合になるのです。

 

軸は中心はあるが形がないのでブレないで応用になるのです。

 

軸には遠心力も求心力もあるから、纏まるのです。

 

軸のあるところには、安定と纏まりがあります。

 

安定と纏まりが信頼を産み、やがて、多くを託されることになるのです。

 

政治家や政党は、本気で政権を狙うなら、軸を定めた方が良いでしょう。

 

ブレずに安定し纏まれ、信頼を得やすいからです。

 

保つものは保たれるのです。

 

何を保つべきか、それが問題ですけどね。

 

ここで注目したいのは、さばくな、悪口を言うな、とは言うが批判するなとは言ってないのです。

 

批判まで禁じたら、この議論そのものが成り立ちません。

 

人は、さばいたり悪口を言う場合、たいてい、枠から出させないようにしているのです。

 

自分がとらわれているから、人もとらわれて欲しいと願う時、さばきとなり、悪口となるのです。

 

人によるさばきは、しばしば、枠にはめる行為となります。

 

枠を決めてここから出たらだめとすれば、さばきは楽ですから。

 

だが、法の精神こそが守られるべきであって法のために人がいるわけではない。

 

人を守るために法を使える人は、自在に応用が出来なければなりません。

 

法の精神を正しく理解できてるかどうかが、問われるのです。

 

何が法の精神か、明らかになり貫かれるなら、一貫性は保たれてブレることはありません。

 

何が自分にとって憲法でありその他の法に当たるのか、はっきりさせるならブレないのです。

 

憲法に当たるものまで、現実主義の名のもとにブレてしまえばどうなるでしょう。

 

周囲に振り回されて、永遠に、自らの運命の主人公にはなれないでしょう。

 

自らの運命の主人公になってこそ、信頼をされる存在となれ、道を切り開けるものとなるのです。

 

さて、あなたの軸は、なにですか。

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あなたはどうやって世の中を変えますか。

世の中には、デモじゃ変えられないとか言ってる人がいます。

デモの参加者は、デモだけで変えられるなんて思ってないのではないでしょうか。
声を上げなきゃ変えられるものも変えられないからその手段として、デモを選んでるのではないでしょうか。
社会を選挙や様々な仕事や社会運動で変え、デモで盛り上げていくやりかたは良いのではないでしょうか。
多面的で地道な取り組みをして行く必要があるのではないでしょうか。
様々な仕事や社会運動でネットワークを作り上げ、いざと言う時には、選挙やデモで一気に力を爆発させていくのではないでしょうか。
デモは派手だが、所詮はお祭りではないでしょうか。
ならば、もっと仕事や社会運動でネットワークを作り上げて力を蓄え、力を結集して派手なお祭りやろうじゃないの、そう思いませんか。
本気で変えるとデモに参加する人が増えるのは嬉しいです。
自分も声を上げないと、世の中は変わらないと気が付いた人が増えたと、目に見えてわかりますから。
けど、長丁場になれば疲れていくのではないでしょうか。
仕事や社会運動でネットワークを作り上げ、ここ一番の力を蓄えた人が一人でも多く育つような取り組みが必要なのではないでしょうか。
相手は長期戦で消耗を狙っているのではないでしょうか。
繋がりを生かし、増やし、バトンを繋ごうではありませんか。
戦いに立ち上がってる人に、頑張ってとか、なんとかして、なんて人がまだまだ多いのが現実ではないでしょうか。
デモや集会に立ち上がるのは、自分には難しいと思って人は、社会を変えられる仕事や働き方をしようと訴えている人もいるから、彼らに相談してみたら良いのではないでしょうか。
デモや選挙だけが、社会を変える戦いじゃない、いかがでしょう。
運動は、署名や落選運動など多彩な展開をしてこそ、持続性を持つのではないでしょうか。
だが、非日常的な取り組みは瞬発力が命ではないでしょうか。
社会を変える仕事や働き方を広げる取り組みと手を結んで、日頃から力を蓄え、人脈を増やす、そういう発想も大事なのではないでしょうか。
そういう繋がりが広がるほど、運動も長続きするのではないでしょうか。
デモじゃ変えられないのでなく、デモだけじゃ変えられないから多彩な取り組みで連帯しようと思わない限り、世の中は動かないのでないでしょうか。
どうでしょうか。

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民主主義に参加するとはどういうことか考えてみた。

あえて、少々きつい言い方をさせていただきます。

国民主権とは、国民全員が玉座に座った国王や女王になるということではないでしょうか。

国民や住民の議論の場で観客席に座るのは、参政権のない旅人や外国籍の人だけでないでしょうか。

民主主義とは、勝ち負け以前に、自らの意思を表して決定に参加することに意義があるのではないでしょうか。

なぜならば、民主的手続きでは沈黙は同意と見なされるからです。

決定前に沈黙しておきながら後で文句を言っても、なぜ反対しなかったのですか、わからないなら何故わかるまで質問しなかったのですかと、馬鹿にされるだけではないでしょうか。

民主主義を勝ち負けと、思い込んでいる人がいます。

勝ち馬に乗って勝った気になって、後で期待外れと気が付いても、賛成したのでしょ、反対しなかったあなたが悪いのではないですかと、話を聞いてもらえないで門前払いされて悔し涙を流すだけでないでしょうか。

後で文句を言う権利は、反対票を投じたものだけに認められているのが現実ではないでしょうか。

民主主義とは、自分の意見を聞いてもらうための言葉の戦いなのでないでしょうか。

勝ち負けと誤解して勝ち馬に乗ってばかりいながら、自分の意見が反映されてないと言うのは、自分から意見を通すための闘争への参加を実質的に放棄して不戦敗を選んでおきながら、自分にも勝つ権利があると言ってるようなものではないでしょうか。

どう思いますか。

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