経済・政治・国際

自己責任とお陰様の関係を考え直してみた。

「自己責任論」とは、全力で責任逃れと責任転嫁をする人達御用達の思想や論理や議論のことを指すのではないでしょうか。

この議論が大好きな人達は自分に危機が及ぶと手のひらを返すように「公助」を求めて絶叫するので、彼らの「自己責任論」は無視と黙殺が効果的な対応ではないでしょうか。

違うでしょうか。

各自は自己の言動に責任を持つべきなのは、言うまでもないでしょう。

人は自分の手に負えない事態になったから助けを求めるのだから、自分も同じような事態で助けてもらいたいと思うなら可能な範囲で助けて恩を売るのが保険をかけることになるのではないでしょうか。

違うでしょうか。

「お陰様で」と言う言葉があります。

私はあなたを助けた覚えはないと、言われた誰もが思うはずではないでしょうか。

ならなぜ、これをあえて言う習慣が出来たのでしょうか。

人の世は持ちつ持たれつであり、直接的に助けた覚えはなくとも巡り巡ってその人に届いている可能性は否定できないからではないでしょうか。

だから、「お陰様」なのではないでしょうか。

私が「自己責任論」を批判するのは、誰もが誰かの「お陰様」で助けられて生きているからなのです。

「公助」とは、「お陰様」の見える化にほかならない、違うでしょうか。

正確には、「公助」とは「お陰様」の中でたまたま見える化しやすい場面の担い手が公的機関やそこに協力している諸団体の活動となるでしょう。

図示するなら、全体集合が「お陰様」であり、「お陰様」の部分集合に「公助」があり、「公助」の部分集合に「共助」があり、「共助」の部分集合に「自助」がある、と言う形で表現出来るのかもしれません。

言い換えれば、「自助」は「共助」に支えられ、「共助」は「公助」に支えられ、さらに「公助」は「お陰様」に支えられるとなるでしょう。

税金とは、「公助」を支える「お陰様」を見える化する手段の一つなのかもしれません。

だとすれば私達主権者は、税金が「お陰様」を見える化するようにきちんと使われているかどうかもっとしっかり監視した方が良いのかもしれません。

違うでしょうか。

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この猫どこから?

北部から南西部にかけて九州山地や霧島の山々に囲まれて宮崎県の南西部に位置する小林市は知っていたが、字小林で検索をかけてみて驚いたのです。

字小林は、東北で結構見つかるのです。

山形県や岩手県や青森県など、東北の北三県だけでも驚く程あるのです。

地名辞典で探せばさらにあるかも知れないが、検索をかけて見つかるだけでもこれだけありました。

青森県では、十和田市大字相坂字小林、十和田市大字米田字小林、八戸市大字是川字小林、これはまだ序の口です。

岩手県では、一関市大東町大字渋川字小林、一関市千厩町大字小梨字小林、一関市大字滝沢字小林、奥州市前澤古城字小林、奥州市江刺米里字小林、奥州市丹沢郡衣川村字小林、盛岡市本宮字小林、大船渡市立根町字小林、宮古市田老字小林、興味深いのは奥州市の字小林です。

小林と言う苗字は藤原氏から出たと見られているからで、藤原氏の一族がいかにこれらの地に根付いていたかがわかります。

でも、山形県で思わず吹き出しました。

山形県では、山形市大字神尾字小林、東根市字小林、酒田市最上郡真室川町大字新町字小林、そして、なんと猫沢周辺に字小林がやたらと多いのです。

猫沢、気になる地名です。

小林は藤原氏の出とされるが、その藤原氏は秦氏の出と言われるのです。

秦氏と言えば、養蚕との繋がりはあまりにも有名です。

それに、これら小林の地名があるのは各県とも養蚕関連の信仰としておしらさまが祀られている地域なのです。

そうしてみると元をたどれば秦氏に繋がる可能性が強い小林の地名が、やたらと猫沢周辺にあるのは偶然でしょうか。

養蚕家が猫を飼っていたのは繭などをネズミから守る必要があるからで、猫沢と言われるくらいだから相当いたのでしょうか。

どうにも気になります。

猫絵の殿様などという話が出るくらい、猫を手に入れるのは大変だった時代です。

そんな地名にまでなるほどの猫、どこからどうやって手に入れたのでしょうね。

背後には、かなりの勢力がいたのでしょうか。

そう言えば、これらの市にはたいてい八幡様を祀る神社があったり、中には八幡が町の名前になっている地域があるのです。

八幡と言えば秦氏ゆかりの神社、しかも地域の名前になっている場合さえあるのは秦氏の一族がそれなりの勢力を持っていたわけです。

そして、養蚕関連のおしらさま信仰とくれば、これらの地域もまた秦氏の知られざる拠点の一つだったのでしょうか。

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アメリカ合衆国と社会政策と社会主義と聖書と…。

申命記 15章
7 あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。
8 必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。
アメリカは合衆国大統領が就任の宣誓の際に、聖書の上に手を置いて誓うはずですよね。
ならば、あれこれと屁理屈をこねて自分達の地域や合衆国にいる貧しい人々に無条件で手を広げようとしない人はいても少数派じゃないと、おかしくないでしょうか。
ところが実際には、あれこれと理由を並べ立ててそれを拒む人、アメリカ合衆国に多くないでしょうか。
聖書の神は、「もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。」と人々に諭しています。

彼らにとってアメリカ合衆国とは、「あなたの神、主が賜わる地」じゃなくて私や私の先祖が選んだ土地だからでしょうか。
自分達の今生きているのは自分達の努力の結果であってそれ以外の何物でもない、だから神は関係ないというのでしょうか。
考えたくはないけれどもしそうならば、アメリカ合衆国の人々の多くはこの聖句を思い出した方が良いでしょう。
イザヤ書 29章
13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。
アメリカ合衆国でクリスチャンと名乗る人の多くは、日曜日に教会で聞く聖職者の説教で聖書を学んだ気になっているのでしょう。
様々な出自の人々が共有している数少ない共通点の一つがクリスチャンであることだとすれば、自分達の通っている教会で聞く聖職者の話に少しでも疑問を持つならば、たちまち拠り所となるコミュニティを失いかねないからなのでしょうか。
ここで疑問がわきます。
この教義は聖書の教えの中でも、極めて基本的で大切なものではないでしょうか。
それなのに彼らが拒否反応を示すなら、何かわけがあるはずです。
この教えの実践は、まさに社会政策そのものです。
そして彼らの故郷の地で社会政策は、特権階級の保身としておこなれた性格が強いのです。
彼らは特権階級無き社会を求めて新天地に渡った人達の子孫だとすれば、社会政策の必要性を認める事はすなわち特権階級の存在を前提とした社会に自分達はいると認める事になりはしないかという感情があるのかもしれません。
そして近代民主主義社会で社会政策の充実を誰よりも求めて行動する人々は、社会主義者だったのです。
彼らは特権階級のアメリカ合衆国での存在を否定したいあまり、特権階級の存在を思い起こさせる社会政策に生理的に拒否反応を示すのでしょうか。
若い世代はそのような過去のトラウマより今の自分たちの置かれた状況を解決する方が先なので、社会政策の実行が社会主義なら社会主義は素晴らしいではないかと思うようになったのでしょう。
今後の展開に要注目ですね。

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民主主義は制度と思想と運動の三本の柱のどれが欠けても成り立たない。

民主主義とは、制度であり思想であり運動なのです。

今の日本、制度も思想もあるが、制度と思想を繋ぐ運動が不十分ではないでしょうか。

民主主義の思想を理想だのきれいごとだのと鼻先でせせら笑い続けるなら、民主主義は多数派の横暴に堕落するのです。

民主主義は制度と思想と運動が渾然一体だ、と知るべしなのです。

Mihasiratorii

三柱鳥居と言うのが、あります。

三本の柱で立つ鳥居で、しばしば中心に御幣があります。

この三柱鳥居で中心に立つ御幣が民主主義だとしたら、三本の柱はそれぞれ、制度と思想と運動にたとえられます。

三つの柱のうち、どれが壊れても三柱鳥居は立っていられないでしょう。

民主主義も同じなのです。

制度と思想と運動のどれが欠けても、民主主義は成り立たないのです。

三つ編みがどの一本が欠けても、三つ編みにならないようにです。

Mituami

制度だけになれば多数派の横暴に変質しかねないし、思想だけになれば永遠に制度はあり得ないし、運動だけになれば混乱だけしか残らないのです。

制度と思想と運動が三位一体であってこそ、民主主義は民主主義で居続けられるのです。

民主主義とは、人民の人民による人民のための政府がその基本的な精神を保ち続けるための制度と思想と運動の総称であると、忘れてはならないのです。

不断の努力なしに、民主主義は維持できないのです。

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私達一人一人が国民主権獲得のために先人のどれだけの努力があったか知った方が良い。

首相だのそれぞれの省庁の長は、主権者の雇われ代行人に過ぎないのです。

そして民主主義では主権者は私達国民なので、首相以下各省庁の長に対しての指揮と監督の最終的な権限は私達国民にあるのです。

棄権や無関心は主権者たる者としての、責任逃れであると自覚した方が良いのです。

民主主義では主権者は私達国民なのだと、私達一人一人が自覚しているべきなのです。

もし、一握りの政党や政治家が憲法や法を踏みにじってしまう暴挙に出たなら彼らに断固として毅然とした態度で臨むのは主権者の責任なのです。

主権者たる国民は政治の現状に対する声を上げたらどうなるかを恐れるより、今声を上げないとどうなるかを恐れるべきなのです。

国民が主権者たる地位を得るまでに長い時間がかかったが、それを失うのは一瞬だと知るべきなのです。

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一筋縄ではいかぬアメリカの共和党と民主党。

日本人はアメリカの共和党や民主党を日本やヨーロッパの政党と似たようなもんだと思っているが、それではこれらの党の本質を見失うのです。

アメリカの二大政党である共和党にも民主党にも、党首はいないのです。

党首がいないという事は、党の路線について激論を交わす党大会も党首選挙も無いという事でもあるのです。

極端な話、アメリカの共和党も民主党も、大統領選挙などの選挙を戦うための互助会的な寄り合い所帯と見たらまず間違えないです。

共和党は主に保守派で民主党は主にリベラル派になっているが、それぞれの党が辿ってきたいきさつの結果に過ぎないのです。

共和党は北部で民主党は南部で強いが、背景にアメリカを二分した南北戦争があるです。

アメリカの統一を守るために大統領の周りに結集した共和党、南部の独自性を守るために結集した民主党。

共和党と民主党に党首がいないのは、この成立の過程とその後の歴史に原因があるのです。

アメリカの南北戦争は奴隷制が争点のように見えるが、実際はアメリカを資本主義一色で染めるか否かの戦いです。

南部は奴隷制があったために、奴隷解放の旗印で切り崩されて敗北したとも言えるのです。

戦況では南部が優先だったが、北部は奴隷解放の旗印を掲げて劣勢を挽回し勝利したのです。

共和党と民主党の戦いは、資本主義とそれに対する批判勢力の戦いと言う側面が強いように見えます。

しかし一方で、それぞれ進歩的工場ブルジョアジーと保守的農村地主層の戦いの中で生まれた党と言う歴史的ルーツもあるのです。

一筋縄ではいかないのが、アメリカの二大政党なのです。

追記

この記事は、アメリカの共和党と民主党になぜ党首選挙が無いのだろう。 の続編でもあります。

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アメリカの共和党と民主党になぜ党首選挙が無いのだろう。

ところで皆さんは、アメリカの共和党と民主党には党首がいないのをご存知でしょうか。

大統領候補を選ぶ長い予備選挙はやるが、党首を選ぶ党首選挙はどちらの党にもないのです。

もし党首選挙をやれば、共和党も民主党も路線を巡って紛糾し、分裂必至かも知れません。

党首選挙が無い共和党や民主党に、当面の路線を決める党大会があるわけでもないのです。

それは両党の成立が、国を二分した南北戦争と深くかかわるからなのです。

北部と南部の戦いは、統一を維持しようとする共和党と南部の独自性を守ろうとする民主党の戦いでもあったのです。

南北戦争が終息後、地主層の没落と南部への工場進出と北部への南部からの労働者の流入がありました。

ブルジョア政党へと変貌する共和党と、労働組合に軸足を移す民主党、そして今の姿へと近づいたのです。

どちらも当初一点共闘的暫定的政党の性格が強かったので、党首選挙の無い不思議な党になったのです。

実はアメリカにも、共和党や民主党以外の政党が無いわけではないです。

国を二分する戦いを背景として成立した二大政党の壁は分厚く、第三極となる党の支持基盤を広げるのが容易ではないのです。

二大政党は成立過程を反映して、寄り合い所帯的性格が強いのです。

独立した第三極を目指す政党の入る余地は狭いのです。

二大政党は成立過程を反映して寄り合い所帯的性格が強いから、共和党のティーパーティや民主党のバーニーサンダースのグループは単なる派閥ではないのです。

両党を構成する、党内党的な存在なのです。

だから両党とも、路線選択を伴う党首選挙は不可能に近いと言うわけです。

追記

共和党と民主党の性格の違いについては、この記事で考えました。

一筋縄ではいかぬアメリカの共和党と民主党。

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政治に一番必要があるのは嘘が無い事だ。

説明可能な大義があり、理解と納得が得られるなら、柔軟な対応は出来るのです。

筋の通らない方向転換や離合集散を平気でやる政党と政治家に、未来はないのです。

政治家や政党は、正直が一番なのです。

諦めないのも大切だが、大義さえあれば方向転換も許されるのです。

人は完ぺきに何でもこなせるわけじゃないから、全ての約束を直ぐに果たせないのです。

困難があれば、正直に伝えて理解を求めればいいのです。

取り繕うための嘘は、信頼を裏切るのです。

自由と民主主義を守るためには、たとえ善意からであっても政治には一切の秘密と嘘があってはならないのです。

確かに常に正直であるのは、厳しく辛いのです。

だが、嘘と秘密を抱えてばれないように生き続けるのは、さらに、厳しく辛いはずなのです。

なぜ、政治から嘘は消えないのでしょうか。

理由は利権なのです。

政治は、誰かのためにするものです。

そして、その財源は私達国民の納める税金なのです。

本当に必要があるなら、どんなに費用がかかっても理解されるです。

その為の増税なら、喜んで納めるのです。

確実に、国民のために使って欲しいのです。

そこに嘘があっては、ならないのです。

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犬も権力も権勢症候群にならないように注意しましょう。

「権力の犬」とは、よく聞く言葉です。

権力に忠実に従う人達をからかう場合に、よく使われます。

ところで、犬は群れで生きる生き物だと皆さんはご存知でしょう。

いう事を聞く手下が犬なら、当然そのトップが犬でもおかしくないのではないでしょうか。

権勢症候群と言う言葉、聞いた事があるでしょうか。

甘やかされた犬が自分がリーダーと勘違いして、主導権を取ろうとする一連の行動を言います。

対処法の一番の基本は、誰がリーダーか犬に自覚させる事です。

もしも指示に従おうとしないなら、リードをしっかり握って勝手を許さない毅然とした態度で望むのです。

諦めないで何度でも繰り返して、誰がリーダーか知らせなければなりません。

その代わり、従ってくれたらたっぷりと褒めて上げるのです。

次第に犬の行動は改まり、飼い主をリーダーとして受け入れるようになります。

権力も、同じではないでしょうか。

権力は主権者である国民から託されている限りにおいて、行使できる権限が認められるのです。

それが、国民主権であり、民主主義なのです。

けれども権力は、国民から託されていることを忘れると、思い上がるのです。

国民が自らがこの国の主人であるとの自覚が薄れると、権力は自分がリードを握らなければと思うようになります。

この事態を放置していると、権力は国民の上に君臨しなければならないと勘違いするようになるのです。

犬の権勢症候群と、どう違うのでしょうか。

国民は常に、権力に向かって主人として振舞うべきなのです。

権力は公僕として、国民に代わって公務を遂行する権限しか持っていないのです。

私達国民は、「権力の犬」と思うだけでなく「権力も犬」と思って接するべきなのです。

犬も権力も、主人が主導権を握らなければならない存在だからです。

違いがあるとしたら、権力の主人は私達国民だと言う事くらいです。

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選挙権がありながら使わないとはどう言う意味でしょうか。

選挙に行かない事をさも格好良いかのように考えている人は、国民主権と言う言葉の意味が分かっていないのではないでしょうか。

主権者であると言う事は国の主人公として行動する権限や権利の所有者と言う事で、国民主権とは皇帝や国王が持っていた権限や権利を彼らから国民に移したと言う事なのではないでしょうか。

主権者であるなら、それを使おうではありませんか。

皇帝や国王と言えど、国民の人気や支持を失えば、失脚したのではありませんか。

絶対的な権力者と思える皇帝や国王でさえ、実は人気稼業だったのではありませんか。

まして国民主権の今日、行政の長は公僕の長であって、絶対的な権力者ではないのではありませんか。

勘違いして改める気が無いなら、主権者である国民はそのような人物は解任すべきではありませんか。

首相であろうが地方公共団体の長であろうが「説明できる事と説明できない事」などと、国王や皇帝に向かって臣下が言って無事でいられたと思いますか。

国民が主権者と言う事は、皇帝や国王の位置に国民がいるって事なのではありませんか。

国民にその自覚が無いから、本来国民の臣下であるはずの総理大臣になめられるのではないでしょうか。

主権者である国民に説明責任が果たせないなら、国民の臣下であるはずの公務員の長である総理大臣や自治体の長を任せて置けないのではないでしょうか。

そういう人物は、解任が相当ではないでしょうか。

主権者である国民に対して、「説明できない事」をしたと言っているに等しいものではないでしょうか。

総理大臣や自治体の長が国民に対して説明できない事をしたとは、主権者である国民に対して何か良からぬ事を企んでいると白状したに等しいのではないでしょうか。

そういう人物は次の選挙で落とそうと、行動すべきなのではありませんか。

もちろん、総理大臣や自治体の長に限らず国民に説明できない言動をした議員もまた、次の選挙で落とそうと、行動すべきなのではありませんか。

選挙権がありながら選挙に行かないなど言うのは、主権者である国民に対して何か良からぬ事を企んでいる総理大臣や自治体の長や議員を放置すると言っているのと大差ないのではありませんか。

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