音楽

琴の起源は?

サルタリーやサルテリー、プサルテリー、プサルタリー、プサルタとも呼ばれるプサルテリウムとは、木箱に24本のピアノ線を張った楽器を指します。

ギリシャ語ではプサルテリオンと呼ばれるこの楽器は、共鳴箱に弦を張った単純な構造しています。

中世ヨーロッパ12~15世紀に各地に普及していたようです。

形は台形や長方形などいろいろあります。

古い絵画を見ると、胸に抱えて指ではじいていたり、膝の上で弾いていたり、弓を使ったりで奏法も様々だったようです。

より大きな音を求められるようになったプサルテリウムはやがて、鍵盤を用いるハープシコード、ハープシコードはさらに打弦楽器のピアノへと姿を変えていくことになります。

プサルテリウムはまた、ハンマーで叩く打弦楽器のダルシマーの仲間達を生み出していきます。

日本語聖書では琴、英語聖書では欽定訳として知られる King James Bibleはプサルタリー(psalteryあるいは複数形psalteries)近年の訳ではハープ(harp)となって、主に詩編でよく登場します。

プサルタリーは一度はすたれた古楽器で、20世紀になって古い音楽演奏のために復活し、今では様々な大きさがあるようです。

プサルタリーは、近代の英訳聖書にあるようにハープと訳されることがあります。

ハープシコードの起源となったことからもわかるように、携帯できる弦楽器としての展開もあります。

竪琴や巨大化した据え置きのハープ、ギターやバンジョーやウクレレの仲間達、琵琶や三線や三味線、バイオリンやチェロ、あるいは馬頭琴や二胡や一弦琴の仲間達など、プサルテリウムの子孫は多様な展開を見せます。

とは言えプサルテリウムの子孫で、おそらくはご先祖様の姿に一番近いのは今日も日本に残る琴の仲間達でしょう。

ではなぜ、プサルテリウムは形は変わったとはいえ日本で今日まで残ったのでしょう。

もちろん琴は分類上はチターとも呼ばれるツィターの仲間なので、外国にも仲間達はいます。

中国の古琴(グーチン)や古筝(グーチェン)、朝鮮の伽耶琴(カヤグム)や玄琴(コムンゴ)や牙筝(アジェン)、ヨーロッパではアルプス特にオーストリアのツィター、フィンランドのカンテレなどです。

朝鮮は日本への伝達ルートとして、残っていても自然でしょうね。

歴史が非情にも消し去る場合もありますけども。

ヨーロッパで面白いのは、山岳地帯に主に残っている事です。

こういう地域は、古い文化が残りやすいからです。

中世文化の置き土産でしょうね。

もっと遡れば、ローマ帝国までいけることでしょう。

となると、プサルテリウムの子孫たちが生き残ってる地域とは、古代中東文化の影響が残っている地域という事でしょうか。

中国や朝鮮や日本の琴の仲間達はツィターの仲間達の中でも、プサルテリウムの原形に近いと言えます。

特に古代中東やギリシャやローマに近い生活様式が残っているのは、日本でしょう。

何しろ明治まで椅子の生活は、不思議な位普及しなかったのです。

朝鮮にまで来ていたにも、関わらずです。

古代ギリシアやローマには、椅子の生活文化は何故かありません。

上層階級に至るまで、ないのです。

もちろん古代のイスラエルやユダにも、ありません。

日本も基本的にはなかったと言えるでしょう。

高御座のような例外はあったとしてもです。

古代イスラエルは遊牧民が作った国家でした。

では、古代ギリシアやローマは、そして、日本は、どうだったのでしょう。

気になるところです。

追記

関連記事です。

チェンバロの起源を考える。

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絶対音感の持ち主の脳では何が起きているか。

最近、近赤外線で脳の様々な部分について働きを調べるのは当たり前になってきました。

検出用のネットやキャップを被るだけなので、脳の働きについて自在に研究ができるようになったのです。

この結果は、そのような手法が可能になったからこそ得られたものの一つです。

脳は音楽を連続的変化としてとらえ、言葉を単語ごとの塊として処理しているのです。

絶対音感の持ち主は、音楽を言葉のように脳内で処理するように幼少期から特訓されていることが研究で明らかになったのです。

絶対音感の持ち主は、音を単語として聞いているのです。

なるほど、絶対音感の持ち主はドレミの歌で頭がクラクラするわけですね。

歌詞にある「ド」「レ」「ミ」と、音階の「ド」「レ」「ミ」が一致していないからですね。

赤で書かれた「青」や緑で書かれた「黄」を見せられて頭がクラクラするのと、絶対音感の持ち主がドレミの歌でクラクラするのは、同じ現象だったのですね。

ちなみに、言語の聞き取りで面白い事があります。

幼い頃は、実に様々な音を聞き分けられるのです。

成長するに従って、周囲の人々の言語を正しく聞き分けるのに邪魔になる音は認識しないようになるのですね。

それで日本語になれた耳には”L(エル)”や”R(アール)”の音を聞き分けるのが苦手になり、欧米諸国の言葉になれた耳には日本人が無意識に排除して聞き流している音も聞こえてしまうと言うわけなのです。

さらに日本語は子音と母音が必ずセットなので脳は自然の音まで言語として処理してしまうが、子音で終わる単語が多い言語の人々の脳は自然の音を雑音として処理してしまうのです。

脳の働き、興味が尽きないですね。

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音楽は政治と無縁でいられるのか。

音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、音楽はそもそも、演奏者と聞き手がいて成り立つ営みです。
聞き手は良いねと思わなければ、最後まで聞いてくれないでしょうね。
音楽は聞き手という名の同志がいてくれて、初めて成立する行為なのです。
演奏者も複数いてはじめて成立する曲は共演者という同志が必要、場合によっては作詞作曲の同志も必要になります。
つまり、音楽は何人もの同志に支えられて成立する社会的な営みと言えます。
その意味では、音楽は一種の党派性を持つとも言いえるでしょうね。
フアンという支持者獲得も、時として必要となるのです。
協力者や共演者や聴衆という同志や支持者を獲得する行為は、政治活動と本質的にどう違うのでしょうか。
政治的メッセージを盛り込むか否かの差なのですよ。

音楽に政治を持ち込むなという人は、アリストテレスの人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」という言葉を知っているのでしょうか

アリストテレスは著書『政治学』において、人間は「zoon politikon(ポリス的動物)である」と述べました。
「ポリス」とは、都市、都市国家、市民権または市民による政体を指すギリシャ語です。
つまり、「人間は政治的な営みをする動物である」のです。
社会的な営みは、複数の協力者=同志の存在無しにはあり得ないのです。
そして、限られている時間や場所、時として資源をめぐって協力し合うことも競い合うこともあるのです。
ここで言う資源とは、目的を実現するのに必要な人・モノ・金と思ってもらえば良いでしょう。

これらはまさに「政治的営み」に他ならないでしょう。
いわゆる政治的課題が絡む行為は、人の行う政治的営みのごく一部でしかないのです。
つまり、音楽もまた人間の営む政治的営みの一つに過ぎないと言えるでしょう。
音楽に政治を持ち込むなという人がいるが、本質的に無理なのです。
人の営みは、政治的営みだらけなのだからです。
逆に言えば政治的課題は、人の政治的営みの中の緊急的対応が求められているものと言えるでしょう。
いわゆる政治的課題が厄介なのは、立場や利害が絡むからなのです。
何らかの立場や利害の無い人は、ほとんどないでしょ。
違いますか。

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「猫じゃ踊り」幻影。

実は猫じゃ猫じゃには、影があるのです。 

 

「猫じゃ踊り」は江戸時代に猫の二本足で「じゃれ立つ」仕種から考えられるようになった、「猫踊り」伝説に関連し作られた小唄と思われています。

 

「猫じゃ踊り」は、どういった場で歌われたかです。

昭和初期まで「見世物小屋」でよく猫じゃ踊りは行われていました。

 

こういういきさつを知っている人は、あまり神様云々とは関係無いようだと、疑われた人もいたのではないでしょうか。

 

私も以前は同じように考えていました。

 

猫には人っぽい仕種やポーズもいっぱいあって、猫好きから喜ばれています。

 

猫のじゃれる仕種や、寝相には踊って見えるものも多いのは確かです。

実際には猫を特訓し、三味線の音色に合わせて二本足で踊っていました。

 

特訓の方法ですか。

残酷すぎて、私は話すのをためらいますが、踊りとの関係で、触れないわけにはいきません。

鉄板の上に猫を乗せ、その鉄板を熱するのです。

 

猫をどういう状態で乗せるかは、二説あります。

一つは、そのまま乗せて、跳ねださせる。

もう一つは、後足だけ保護して立ち上がらせる。

 

どちらの場合も、跳ねだしたり、立ち上がりだしたら、間髪入れずに三味線を弾く。何度も繰り返すと三味線に合わせて、猫が踊りだしたように見える。

 

いくら見世物とは言っても、これは酷過ぎます。

いまやる人が出ないのも、うなづけます。

とは言いましても、この猫踊りの仕種がその後の日本舞踊史に、大きく影を落としている可能性は見逃せません。

 

それに、尾の短い猫がいる理由は、娯楽用演芸だけでは説明しきれません。

流行り廃りもあるのが娯楽です。

それから、猫の尾は猫岳の伝承に由来する物で、誕生後すぐ切断される習慣があつたといいます。

これを九州での猫の尾が短い理由と言う人もあるようです。

 

けれども、日本以外にもお曲がり猫のような尻尾の短い猫がいるのが説明できますか。

 

それに「猫踊り」伝説の背景って、何でしょう。

人工的にいくら尻尾を切り続けても、尻尾が短くならないのは、鼠の実験で証明されています。

交配以外には定着する事はないです。

猫が自分から尻尾を短くする事はありません。

 

短い猫、曲がった猫が誰かに何らかの目的で、あつめられたとしか言いようがないです。

そこで仮説を立てて見たわけです。

 

神職と禰子の関係と、太陽神を巡るエジプト神話との類似性の濃い伝承の存在なども不思議です。

 

猫修行の俗説、謎に満ちた秘密の修行の場と猫や、根子の地名との繋がりがあります。

 

猫岳を巡っては、興味深い話も、いろいろありそうですし。

猫はこもったり、瞑想したりするので修行してると思われてきました。

 

だけれども、猫が行者の真似をするでしょうか。

ここで発想を転換すると、どうでしょう。

行者が猫の物真似をしたのだと。

 

だって、猫は太陽神の化身なのです。

しかも、物真似は猿の得意芸でもあります。

猿は太陽神の熱心な崇拝者と、古代エジプトではされていたのです。

日本でも、太陽神アマテラスの子孫神武天皇を猿田彦が案内しましたよね。 

 

「猫の修行」の伝承で、猫はこもったり瞑想するという話題を取り上げました。

 

実際は猫が死の直前に姿を消す習性と、なわばり内の猫たちが「猫の集会」と呼ばれる社会を形成している様子から想像されたものだそうです。

それから、謎に満ちた秘密のと申しましたが、修行の内容が謎という事です。

 

修行の場はかなり具体的に九州では「阿蘇の麓猫岳」と語られてきました。

 

一種の猫のコミニティが形成されているという伝承についていえば、パブテスマを連想する話もあったりしました。

 

太陽神とのつながりを見ても、「猫岳」にはちょっとみつかりません。

 

むしろ「夜」に関連する話ばかりです。

 

夜といえば猫は、太陽神の眼となって夜道を行くのでした。

 

月がやたら出てきた時の事を、思い出します。

 

雌猫は月の女神でもあります。

月は陰陽では陰に配されます。

男性が陽に配されるのに対して、女性は陰に配されます。

イエスはマリアによって受胎するまでは、霊の姿でヤハウエとして、再臨の時を待たれておられると解釈できるでしょう。

イエスは義の太陽神に擬せられるが、受胎を待つヤハウェは月に擬せられるのか考えると面白いけど深入りしません。

 

天照大御神の岩戸隠れと、イエスの葬り、ともに岩で蓋をされた横穴であり二人の男性によってその岩がどけられ最初に女性に出会うのは偶然でしょうか。

しかも、イエスの死の時も暗闇がやって来ているのです。

 

猫がイエスのメタファーとされる文化があることを思えば、興味ひかれることではあります。

 

和風諡号に"ねこ"がつく天皇は何名かおられるのも、その一つです。

その一部をあげます。

 

漢風諡号は孝霊天皇、和風諡号は大日本根子彦太尊または大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)天皇。

生没年 孝安天皇51(?)~孝霊天皇76(?)

 

漢風諡号は孝元天皇、和風諡号は大日本根子彦国牽尊または大倭根子彦国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)天皇。

生没年 孝霊天皇18(?)~孝元天皇57(?)

 

漢風諡号は元明天皇、和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)天皇。

生没年 齊明天皇7(661)~養老4年(721)

 

漢風諡号は元正天皇、和風諡号は日本根子高瑞日清足姫天皇(やまとねこたかみずひきよたらしひめのすめらみこと)天皇。

生没年 天武天皇9(680)~天平20(748)

 

天皇も太陽神アマテラスの祭司、それも最高祭司でいらっしゃいます。

そして祭司有資格者は、禰子つまり"ねこ"であり"根子"です。

実は、大日本根子は天皇陛下の尊称であるそうです。

 

そして、ここから猫=根子が、天皇の隠語となるのです。

 

踊りは元々神々との交信や交流でありました。

 

猫踊り伝説の背景は「猫の生態」だけで充分で、様々な伝承が付加する事はいろいろあっても、それは個別に解釈しないと混乱すると言う声もあるでしょう。

 

けれども猫に関係ある、いろいろな資料を調べているうちに湧き上ってきた疑問を整理したら、こういう仮説が出来上がってきただけの事です。

 

猫の踊り、一筋縄ではいかぬ謎が山盛りなのかもしれません。

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エジプトの音楽を想像してみました。

「古代エジプトの音楽」という本を読んでいます。

 

古代エジプトの様々な楽器は、残っています。

 

だが、これらの楽器によって奏でられた音楽については、どのようなものであったかを伝える資料はないといいます。

 

ならば、これらの楽器そのものを手掛かりにするしかないでしょう。

 

ハープ、シンバル、トランペット、リュート、リラ、などの他にも、タンバリンや太鼓などが用いられたことがわかっています。

 

音楽の場には、手拍子もあるし、ボディパーカッションを連想できる壁画もあります。

 

大勢の人が列をなして踊る姿も、描かれています。

 

古代エジプト特有の楽器として、シストルムもあります。

他にも、シンバルを鳴らす道具と組み合わせたクロタラのような楽器もありました。

 

これらの楽器や、手拍子、列をなして踊る人々、さらには、ボディパーカッションもあった可能性を考えると、少なくともどのような拍子をとるのが一番自然かが、見えてきます。

 

強弱の入れ子になってる、拍子です。 

前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるのです。 

強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1っていう感じでしょう。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですよ。 

  

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)


実はこれ、ロマ音楽の拍子の取り方なのです。

 

ロマには様々な呼び方があるが、それらを見ると彼らがエジプトから出た民族である可能性が見えてきます。

ロマは、音楽の他、実は金属加工の技能者集団でもあります。

一見すると、何も関係がなさそうです。

 

だが、もしロマが古代エジプトの演奏者集団にルーツを持つ人たちと見たらどうでしょう。

シンバルやシストルムのような、繊細な加工が必要な金属製楽器のメンテナンスを彼らは自らの手でしていたとしたらどうでしょう。

演奏者は、修繕や制作のような特別な技能者の手を借りる必要のあること以外、日常的な手入れを大抵は自らの手でしています。
シンバルやシストルムの最終的な仕上げは、演奏者自らの手でしていたかも知れません。
簡単な修繕くらいなら、自分でしたことでしょう。
そうであれば、金属の加工技術もあっても不自然ではないでしょう。
何らかの理由でエジプトの地を離れた演奏者集団が、ロマの起源かもしれません。
オリエンタルダンスとも呼ばれるベリーダンスの演奏に合わせて、ロマ音楽の拍子で手拍子をうってみました。
ターキッシュのような激しいアップテンポのベリーダンスもあるが、基本的にはロマ音楽の拍子で手拍子をうってついていくことは可能だし、次第にのめり込んで恍惚の世界にはまり込んでいけます。

あまり夢中になって、踊りださないようにしないといけないです。

何度ものめり込んで、踊りだしそうになったくらいどの曲にもぴったりとついていくことができます。

ロマが作り出した代表的な音楽のジャンルがフラメンコです。

もしかしたら、古代エジプトの音楽は、ベリーダンスやフラメンコに別れる以前の一種独特なテンポやメロディーで演奏されていたのかも知れません。

おそらくそのほとんどが、即興曲だったでしょうから、楽譜など残るはずもありません。

神々やファラオたちを喜ばせるための集団で延々と踊ることのできる即興曲、それが、古代エジプトの音楽だったのかもしれないです。

中には、女性の踊り手によるエロティックなものもあったことでしょう。
男性の踊り手も、あるいはいたかも知れません。

ベリーダンスの踊り手には、かつて男性も少なからずいた記録があるそうですから。

酒、食事、音楽、そして、恍惚に浸った人たちの踊りの群れ。

神々と人々が混然となった恍惚の空間の中で、時を経つのも忘れて音楽によいしれたそんな場面も王宮では、しばしばあったのかもしれません。

これはあくまでも、楽器たちが見せてくれた幻想の世界です。

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相撲は踊りだった?

日本人の起源と中東について探っていると、いろいろと面白いコメントを戴きます。

この前は、こういう声をかけてくれました。

ベリーダンスを習っているものです。

興味深いお話をありがとうございました。

以前、YouTubeでアイヌのフッタレチュイ(黒髪の踊り)を見て、アラビア半島の踊り、ハリージと酷似しているのを見つけました。

ハリージはベリーダンスを習っていると、民族舞踊ということで習うスタジオもあります。

日本舞踊に対する、盆踊りみたいなものです。

両方とも、長い髪をブンブン振り回したりするハードな踊りです。

衣装も似てるし、踊りも似ている。

何より驚いたのは、ザガリートと言って、おめでたい時や楽しい時に、発する勧声です。

レレレレレレ…とか舌を高速で左右に動かします。

アイヌの人達も踊りを盛り上げるために、ザガリートをしていました。

エジプト人や中東の人と同じです。

古代中東の人とアイヌは共通の遺伝子があるとのことです。

アイヌのウフィというミイラを作ることも、エジプトや中東から受け継いだものではないかと思います。

中尊寺の藤原三代のミイラといい…。

何よりアイヌの人達の彫りの深い濃い顔は、中東の血が入っているのだろうと思わせるに十分です。

吉田大洋著『謎の出雲帝国』によると、出雲族以前に、日本にアイヌはいたそうです。

主人の祖母はニサタイに広大な土地を持っていた家の出身だそうです。

馬が下駄代わりだったそうです。

ナニャトヤラ大会もあります。

本来、ベリーダンスは自由な踊りです。

何をしても可だそうです。

基本はありますけど、エジプトのダンサーは自分の流儀で踊っています。

シュシュも腰をつきだして、身体を深くS字にしてするものもあります。

S字をキープしたまま足を激しく細かく踏んで移動もします。

身体を真っ直ぐにしたままのシュシュだけではありません。

身体を後ろにかなりそらすこともあります。

横に反らす動きをすることもあります。

踵で床をドンドン踏みな鳴らすこともします。

今やってる曲はエジプト人の振り付け師の曲で、踵でドンドンする振りがあります。

ズンズンと地面に轟かせながらするターンもあります。

ピポットターンの変形です。

バンと床を蹴ってジャンプもします。

ジャンプはあまりしないけど、おおっ飛んだとエジプト人は喜ぶそうです。

左右足を踏みかえる時に、バンと跳んだりもします。

ステップやターンで激しく踏むこともありますが、基本、裸足ですので、あまり音はしません。

でも、激しくジャンプもしますし、激しくステップも踏みます。

ダウンキックという動作も、エジプト人は前方まで腰をひねり上げ激しく捻り下ろしますが、日本人の先生は、腰をほんのちょっとアップするだけの先生もいらっしゃいます。

日本人の先生でも、知らなかったりする方も沢山いらっしゃいます。

ハッガーラは歩く時に、腰を捻り上げ、足をドスンと落とします。

これで普通の速度で歩くと、激しく腰が動いて激しくステップを踏んでいるように見えます。

エジプト人の講習を受けたりするとわかります。

ハリージも激しく前後左右に上半身や首を振りまわします。

バンと頭を振り下ろし、振り上げます。

フッタレチュイとそっくりです。

ハリージはステップ踏んで移動します。

エジプト人がステップ踏んで移動すると、豊満な身体がブルンブルン揺れます。

日本人は豊満でないので、腰を動かしてカバーしますが。

ベリーダンスもハリージも豊満な人が踊っただけで、踏み轟かし、あめのうずめのようになります。

ようはベリーダンスはもともと、自由でなんでもありなんです。

映画の陰陽師で、あめのうずめの踊りの場面では、左手に扇、右手に鈴を持って踊ってましたが、古代エジプトのバステト女神は左手に籠状のもの、右手にシストルム(シンバルを並べたような楽器)を持ってたとか。

持ち物が似てます。

イシス女神もシストルムの名手だったとか。

女性神官が神々を懐柔するために鳴らしたそうです。

あめのうずめの鈴と同じです。

元々、ベリーダンスは女性神官が神人合一したときの身体の動き(アンジュレーション、シミー)が踊りに入っています。

あと、尾てい骨を引っ込め、骨盤を真っ直ぐに立てる基本姿勢は、気功と同じです。

足も左右ほぼ平行が基本で、エネルギーの出し入れがしやすい姿勢は気功と同じです。

踊りがエネルギーワークでもあります。

他のダンス共通ですが、ツーステップと言うステップが反べい?禹歩ですか?と似ています。

右足に左足を引き付け、右足をちょっとずらし、次は左足を出し、左足に右足を引き付け、左足を少し出し…を繰り返し斜めにジグザグ進みます。

ボックスステップなんて四角く踏むステップもあります。

あめのうずめは鉾に 鈴を付けていたそうですが、ベリーダンスでもアサヤと言うステッキを振り回したり、ガンと地面に叩きつけたりします。

威嚇や魔除けです。

男性は武器の棒を持って踊る踊りもあります。

ベリーダンスはオリエンタルの踊り時は、踵を上げて踊りますが、砂漠の民ベドウィンの踊りはベタ足で、ズンズン踊ります。

ベタ足でないと砂に埋もれるからです。

それを床でやったら、踏み轟きます。

フラメンコもベリーダンスと共通する部分があります。

それで、フラメンコ風の踊りも時々習います。

フラメンコについては詳しくありませんので。

失礼しました。

この人の話にあるニサタイとは、岩手県二戸市仁左平地区のことです。

 ナニャトヤラ大会で、それくらい見当つきますよ。

 ナニャトヤラといえば、ユダヤ語説のある不思議な歌詞で有名ですよね。

実際にエジプト人の先生に倣って踊っている人からの、こういう情報はありがたいです。

特にアイヌの音楽文化と中東音楽文化の類似を、自分自身の踊りの体験から語って戴けるのは、貴重な情報で助かります。

 フラメンコはやはり、ベリーダンスと共通の起源なのでしょうね。

フラメンコもベリーダンスと共通する部分があるので、フラメンコ風の踊りも時々習うとのことですからね。

アイヌの音楽文化と中東音楽文化の類似があり、フラメンコもベリーダンスと共通する部分があるとなると、興味深いことになります。

近縁である琉球の伝統的な振り付けがどこかフラメンコに近いのも、中東音楽文化の類似ということになるからです。

 カチャーシーですね。

 フラメンコにどことなく、似てると言えば似てる…。

 聖書世界に近い琉球の文化にとってみれば、音楽文化も中東に近いのは当然と言えば当然ですけどね。

アイヌの人達の彫りの深い濃い顔は、中東の血が入っているのだろうと思わせるに十分ということは、琉球民族の顔も中東的と言って良いわけですね。

興味を惹かれるのは、禹歩に似たステップですね。

禹歩というのは道家の行う技法で、現代でも行われている呪術の一種です。

この禹歩は、古代の聖天子禹の歩きかたをかたどったものと伝えられます。

入山や病気治療などに際して特別なステップを踏む事で、主に身の安全の確保や病気治療などの効果を得ようとするものです。

実は、相撲の四股もこの禹歩に起源があるというのです。

威嚇や魔除けとして禹歩という独特のステップがあるが、四股も威嚇や魔除けとしての所作なのです。

さらに興味を惹かれるのは、男性は武器の棒を持って踊る踊りもあるということです。

四股を踏みつつ弓を振り回すさまは、ツーステップと言うステップを踏みながら武器の棒を持って踊る振り付けそのものではないですか。

アマノウズメの踊りに巫女舞の起源を探ったことはあるけど、まさか、弓取り式の起源をアマノウズメの踊りに見るとは思っても見ませんでした。

 ベリーダンスが女性だけでなく、男性の踊りでもある事を思えば、男性の神前の舞が残っていても当然だけど、弓取り式とは意表を突かれましたね。

となると、相撲は一見競技のようだけど、本質は神前の奉納儀式ですよ。

 土俵の正体は、屋根を見ればわかるように神社でしたね。

砂漠の民ベドウィンの踊りはベタ足で、ズンズン踊るということですね。

 ベタ足でないと砂に埋もれるからですね。

ベリーダンスはもともと、自由でなんでもありということは、舞踏に武闘の動きが入っても良いのではないでしょうか。

 そうしてみると、意外な展開になりますね。

相撲は実は、ベリーダンスの男性の舞に起源を持つ奉納舞だったのでしょうか。

 そう言えば、神社の奉納の舞にも男性の舞はありますね。

相撲は、右舞と左舞の代わりに、東西の取り組みとなったのでしょうか。

 相撲が東西南北にこだわるのも、ツーステップと言う禹歩に似た威嚇や魔除けのステップを踏む奉納舞の場だからと見れば、妙に納得できますね。

 相撲も、神社の奉納舞も、あめのうずめの踊りを経由して日本に定着した、ベリーダンスだったとは…。

こういう面白い展開があるから、歴史を探るのは止められないのですねえ。

追記

なお巫女舞についてはここで触れたので、良かったら見てください。

巫女舞http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-8caa.html

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日本の音楽文化とジャズと秦氏?

日本の音楽、どちらかと言うと、ジャズのジャムセッションに近くないでしょうか。

即興の掛け合いで生き生きしてくるさまは、まさに、ジャムセッションです。

 ジャムセッションは、奏者の力量と才覚に大きく左右されますね。

十分に練習を積んだ者同士でないと、簡単に空中分解するリスクと常に隣りあわせです。

楽譜の世界に、即興の掛け合いはまさに、命を吹き込んでいくのです。

忠実に再現されるべきは、楽譜ではないです。

忠実に再現されるべきは、楽譜に記された世界なのです。 

 そしてその世界は、魂の世界との交信であり交流でもあるのですよね。

日本の歌の系譜は、神前に供えるための音楽に端を発する可能性も見てきました。

ジャズはその成立史をみればわかるけど、ソウルミュージックとは密接な繋がりがあるのです。

ソウルは教会の霊歌ゴスペルやリズム&ブルースから派生した、よりポップミュージックに近い歌ものの音楽です。

 日本の精神文化も、どこか聖書、特にキリスト教と似通ってることは、これまで何度も取り上げてきたでしょ。

日本人は「歌」に対しては非常に厳格な美意識を持っているのです。

それは、日本の音楽は、言霊の表現形式の一つであるということです。

音が意識を宇宙に連結していく、日本の音楽に対する伝統的な考え方もこの延長線上にあります。

それは心の奥底に根を張っているため、容易に変質しないのです。

日本の伝統的な歌い方をすると気持ちがよいです。

それは、自身の血の中に流れる、古くからの音感と共鳴するからであります。

大陸渡来の楽器で日本の歌をなぞろうとしても、出ない音があります。

普通は、音程変更の容易な歌の方が、楽器の音程に合わせるが、日本の古人は、歌の音の方を大事にしたのです。

日本の音楽の主軸にあるのは「声」なのです。

声を伴わない器楽というのは伝統音楽の全体数から見ると、ごく少数です。

日本伝統音楽で愛用されてきた楽器の多くは、基本的には、器楽ではなく「声の音楽」の系譜に属します。

アカペラで歌われ、ここに大陸渡来の楽器の伴奏が加わっていくわけです。

どうしてこうなるかと言えば、雅楽の成立過程が関係しているのです。

雅楽の中の、ひとつのジャンルに国風歌舞(くにぶりのうたまい)というのがあります。

国風歌舞は、神楽(かぐら)歌、久米(くめ)歌、東遊(あずまあそび) など、古くから日本にある「土着の歌」とでも言うべきものです。

雅楽自体は、中国・インド・ベトナム方面や朝鮮・渤海(ぼっかい)系のものを、日本人の音感に合わせ、日本風にまとめたものです。

日本における外来音楽の最初の記録は、天皇の崩御に際し、新羅から楽人80名がやって来たという453年の記録だといわれます。

 雅楽とは、今も保存されている「アジア諸国の古楽」の、いわば音の正倉院のような存在なのですね。

今では、日本の伝統音楽と言っても良い存在になっていますけどね。

 雅楽と言えば、東儀氏ですね。

東儀氏は、秦氏から分かれた一族です。

 新羅は、古代ローマの文物が多く出土しますね。

そして中国ではローマ帝国、特に東ローマ帝国を大秦国と呼びました。

 雅楽と秦氏のかかわりが深く、東儀氏はその中心をなしている。

 雅楽の始まりに、大秦と呼ばれた古代ローマ帝国の影響が強かった新羅の楽人が大きく関与している。

なにか、面白いものを感じますね。

 ジャズは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に派生した音楽形式でしょ。

西洋楽器を用いた高度な西洋音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と音楽形式とが融合して生まれたと指摘されますね。

 西洋音楽とアフリカのリズムの融合。

古代ローマ帝国はヨーロッパとアフリカにまたがっていたから、古代ローマ帝国の音楽もまた、西洋音楽とアフリカのリズムの融合の地であったかも知れないですよ。

 新羅経由で、西洋音楽とアフリカのリズムの融合した音楽文化が日本に来ていたのでしょうか。

大秦帝国と秦氏の繋がりを想像するのは楽しいけど、話を戻しましょう。

日本の伝統歌曲が、大陸渡来の楽器で伴奏されるわけだから、当然、音の合わないところが出てきます。

笛系の楽器は、弦楽器のように弦の張り具合を変え、微妙に調子を変えるという融通がきかないため、普通は歌の音程の方を楽器に合わせます。

 打楽器も、チューニング出来ますよ。

天然の皮製の場合、下手にやると破けるリスクはありますけどね。

しかし、日本の古人は違っていました。

日本の古人は、絶対に歌の音程を変えようとしないのであります。

その結果、旋律をなぞる楽器の音と声の音が、半音で衝突しながら進行するところが出てきたりします。

歌の旋律線をなぞろうと楽器ががんばるが、楽器が旋律を同じ音でなぞれる部分と、近似値でとどまる部分が出てきます。

大陸渡来の楽器で、歌の音程を出せないところがあるからです。

それでも、日本人は渡来楽器を使い続けました。

楽器は、肉声では出しえない音色で、言霊表現に参加したのです。

歌と半音ずれてしまう楽器に対し「できる範囲でこちらの声についておいで」といった感じで歌が楽器を悠然と先導です。

絶対に歌の音程は、変えないです。

肉声が音楽の柱となり、楽器は言ってみればバックコーラス的立ち位置で歌に合流するわけです。

これが日本の美意識です。

伴奏楽器の発するメロディーラインに対し、半音ずれて歌うというのはとても難しいです。

普通は、歌の方が、楽器の音程の方に引っ張られ、楽器の音程に同化していくのです。

だが、日本の古人は、古くから伝わっている日本古来の歌の音程を絶対に変えようとしなかったのであります。

それができたのは、楽器が伴奏だったからではない、楽器も歌っていたのです。

 日本にコーラスがなかったのではないのですね。

声と楽器によるコーラスだったのです。

澄んだ響きが、ところどころ混沌とした響きに濁る部分があります。

こうした部分は、声の音と楽器の音が約半音で衝突しているところです。

楽器の音色の参加で生じた清濁こそ、声楽だけでは出しえない世界です。

濁と清、動と静、混沌と秩序、苦と楽、など世界は相補い相反する事物が混在しています。

楽器は肉声だけでは表現しきれなかった世界の姿を、写し取るための相方として受け入れられたのです。 

日本人にとって楽器とは、共に歌う仲間だったのではないでしょうか。

コーラスでパート分けがあるように、日本人は楽器とパート分けして歌ってきました。

水墨画は赤や青の色が混ざろうとも、水墨画です。

 墨で描くだけでは、水墨画ではないでしょ。

墨の線だけで描くのは墨絵、ぼかしによる面の表現が加わると水墨画と、区別されています。

赤や青の色は色としてではなく、墨の仲間として参加しています。

 墨に五彩ありというけれど、墨だけで出し切れない色として、赤や青は参加してるのですね。

楽器も肉声で出し切れない音色で参加したのです。 

楽器も日本音楽では、声として参加しました。

日本に欧米的な意味での器楽が発展しなかったのは、日本の器楽はコーラスの一形態として発展したといえます。

雅楽もまた、器楽にして器楽にあらずです。

雅楽もまた、アカペラコーラスの一種として発展したのです。

日本の器楽は伴奏のようで、伴奏がないです。 

日本の音楽では、肉声と楽器の境がないです。

声は声とも楽器ともセッションし、楽器は楽器とも声ともセッションします。

だから、日本の音楽には声の掛け合いだけが存在します。

まさに、声と楽器の渾然一体のセッションこそ、日本音楽の精髄です。

日本人の多くがジャズが好きなのも、むべなるかなです。

ジャズは、誕生の時、欧米の音楽文化にとっては前衛だったのだろうです。

西洋式の正しい歌い方は、まず出だしの音の正確さ、そして音の高さがまっすぐ伸び、音が上下に震えたりしないです。

地声は厳禁です。

だが、ジャズは自由奔放に音が歌い踊り対話し合います。

型にはまった当時の西欧音楽の概念を打ち壊したのです。

これこそ現代だ前衛だと持て囃されたものの多くは、すぐに陳腐化しました。

だが、ジャズは単なる前衛音楽から、欧米の音楽シーンの定番ジャンルの一つに定着しました。

それは、ジャズが欧米には新しかったとしても、長い歴史を持った音楽文化の流れにとっては新展開でしかなかったことによるのです。

日本の伝統芸術が、欧米にとって前衛です。

そう言えば、日本から包装紙として渡った浮世絵が欧州画壇にカルチャーショックを与えました。

日本の伝統音楽も、欧米から見たら衝撃的でカルチャーショックでした。

能が欧米人から見て前衛芸術なのもまた、無理からぬことです。

ジャズは、日本人にとって新参者でありながら素直に受け入れられたのは、底流を共有していたからでしょう。

日本人は、ある音を発声するとき、まず目的音より少し低めの音を発し、そこから徐々にずり上げて目的音に達するという方法をとります。

そして目的音に達すると、今度は音程を微妙に上下に揺り動かすという、いわゆるコブシをきかせ、地声で朗々と歌い上げます。

さらにリズムは伸縮自在でグラグラしています。

これは、どこかジャズのスィングに近いです。

「響き」といった、感性の領域に属するものは、言語や食事文化よりも基層にあるため、他の文化要素と比べて変化しにくいというです。

千年以上も、かたくなに古くからの歌の音感を守り通してきた日本人は、こうした特徴がきわめて強固であるといえます。

その日本の感性が、どこかジャズと響き合うのです。

なにか、興味がそそられますね。

 ふと、トランペットと尺八の音色に似てると感じたら、ミュージシャンの中にも、そう感じる人は居るようです。

そういえば、歌口から管尻までの長さはフルートと尺八が約60cm、音の高さもフルートと尺八はほぼ同じと言います。

 フルートの音色は、吹き方によってはまるで尺八のようになりますよね。

これも、面白いですね。

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秦氏と古代ローマ?

3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国がありました。

辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられています。

新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られています。

この新羅は、ローマの影響が大きかったことで知られています。

雅楽は、5世紀前後から中国、朝鮮半島など大陸から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになり、大宝元年の大宝令によってこれらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされます。

南アジアについては、736年に大宰府に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類されます。

日本における外来音楽の最初の記録は、天皇の崩御に際し、新羅から楽人80名がやって来たという453年の記録だといわれます。

つまり、雅楽の基礎は新羅からの楽人によって据えられたとみてよさそうです。

雅楽で有名な東儀氏は、秦氏から出ました。

 雅楽といえば東儀秀樹の顔、どう見ても東アジアの系統じゃないですね。

古代中国で、ローマ帝国は大秦国と呼ばれ、新羅にローマの影響が大きいと指摘されます。

そして、新羅からの楽人によって雅楽の基礎は出来た可能性があり、雅楽で有名な東儀氏は秦氏の出とされます。

 その東儀氏の一員である東儀秀樹の顔はどう見ても西方的に見えるのは偶然でしょうか。

 日本には結構ローマ人的な顔は多い、映画テルマエロメオのローマ人役は全員日本人で間に合わせたけど、ローマ人から違和感なしの評価でしょ。

東儀秀樹は、ローマ人役やっても違和感小さいと言いたいのですか。

中国資料によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国とされます。

日本古代史学者の水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と『謎の渡来人秦氏』(2009年文春新書)で述べているそうです。

弓月君の子孫は各地の秦氏の流れへと繋がるが、弓月君の出自については、かつて天山山脈のふもとに三日月国とも弓月国とも呼ばれた国から来たとも呼ばれています。

景教博士である佐伯好郎は晩年、「極東における最初のキリスト教王国弓月、及び、その民族に関する諸問題」という論文を書いているそうです。

佐伯好郎はこの論文で秦氏のルーツを大陸にあり、と論じたと言います。

 だが、弓月国が極東における最初のキリスト教王国とすると、何時頃からどのようにして、キリスト教国になったかですよ。

ここでも、キーワードは秦かも知れないです。

古代中国で秦と言えば、大秦、つまりローマ帝国を指したとしたらどうでしょう。

 東西に分裂したころのローマ帝国は、すでにキリスト教国ですね。

ローマ帝国から、新天地を求めて移動したキリスト教一派があったとしたらどうでしょう。

 自らの信仰を貫くために、ローマ帝国を去って、東方に新天地を求めた人たちがいたと。

そうすれば、弓月国は建国当初からキリスト教国であっても、おかしくないのです。

 佐伯好郎は、秦氏をユダヤ人キリスト教徒であったという説を展開したことで知られますね。

飛鳥昭雄と三神たけるは、晩年の佐伯好郎は景教徒説から原始キリスト教徒説に修正にしていたと指摘しています。

 秦氏が原始キリスト教徒であってみれば、キリスト教の本来の姿を守れる新天地を求めて東進しても不思議ではない。

ただ、問題は、弓月君の帰化の経緯についての『日本書紀』の記録です。

まず応神天皇14年に弓月君が、百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。

しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。

そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。

新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

つまり、新羅ではなく百済経由とされているのです。

だが、弓月君が新羅から来た原始キリスト教徒であってみれば、そして、新羅を逃れた民であったとみればどうでしょう。

 当時の日本と百済の関係を利用して、新羅を牽制した可能性がある。

そうかも、知れないですよ。

 さらに、ユダヤ人原始キリスト教徒としての秦氏がエルサレム教団だったとしたら、ローマ帝国との戦いの前に逃亡してるから、正体を隠す必要もあったでしょうね。

祖国を失ったユダヤ人は、各地に散りましたからね。

遊牧の民は、遊牧の民同士で行動を共にすることが多かったから、紛れ込んで身を隠したでしょね。

 雅楽が東アジアの古楽にルーツを持つのも、秦氏がルーツのカモフラージュをしてるのでしょうか。

そうかも、知れないですよ。

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京都と東北と秦氏?出雲童歌「ネコにゃんにゃん」とナニャドラヤ?その2

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の出雲については、大きな謎があります。

島根県の出雲大社前の地元の民謡保存会も知らない、聞いたことがないと言われます。

民謡保存会さえ知らないのだから、一般地元民は、なおさら知らない。

 出雲在住なのですが、そのような歌は聞いたことがないです。

 出雲は出雲でも別の地区の出雲なのでしょうか…。

島根県の出雲大社ではなく、京都府亀岡市の出雲大神宮に因んだ童歌かもという。

 実際この地には、出雲大神宮が存在します。

しかも、こちらの方こそ、元出雲だと言うのです。

出雲大神宮御祭神
http://www.izumo-d.org/history/gosaijin.htm

 出雲大神宮は京都府亀岡市の北東部に位置し、大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神である三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を奉斎し(明治の制による)、特にこの二柱を合わせて出雲大神、出雲大神宮(日本書紀)、出雲神社などと称へ奉ります。

古事記や日本書紀に見られるように、大国主命は因幡の素兎で知られる慈愛に満ちた神様で、当宮末社に祀られる少那毘古名命(スクナヒコナノミコト)と共に国土経営に尽力なされました。
その後、皇孫に国譲りの後、幽世(カクリヨ)を統治すべく、現在の島根県にある出雲大社に鎮座される事となります。

『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。
よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。

丹波もまた、秦氏の拠点でした。

秦氏は、日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していったのです。

大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えました。

山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行きました。

戦国時代の丹波の武将である川勝 広継(かわかつ ひろつぐ)は、光照(みつてる)とも称したのです。

本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされます。

またの名を下田氏という川勝氏は丹波国桑田郡・船井郡内を知行し、室町幕府に仕えてきました。

秦氏は、『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君を祖とします。

『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔とされるが、その真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかではありません。

だがこの秦氏には、ユダヤ人説が出されています。

佐伯好郎は秦氏は景教、つまりキリスト教のネストリウス派のユダヤ人であるとの説をとなえたが、飛鳥昭雄によれば晩年には原始キリスト教徒説に変わっていたと言うのです。

 原始キリスト教とは、最初期のキリスト教のことですね。

イエスの直弟子である使徒たちがユダヤ、ガリラヤにおいて伝道活動、つまり布教を始めた時代より、新約聖書の主要な文書が成立した後の西暦150年頃までをいいます。

飛鳥昭雄と三神たけるなどは、イエスの直弟子の直系であるエルサレム教団であると主張します。

エルサレムに定住していたエルサレム教団は、「第一次ユダヤ戦争」が勃発するやいなや、戦火を逃れてエルサレムを離れてしまったと言われています。

4世紀の神学者エウゼビオスの『教会史』によるとエルサレム教団は、第一次ユダヤ戦争が本格化すると見るや、エルサレムを脱出し、ガリラヤ湖南方、ヨルダン河東岸にあるペラというギリシア人都市へ集団移住したというのです。

だが、エルサレム教団は、古代ローマ帝国、ユダヤ教保守派、さらには非ユダヤ系イエス信者たちからの2重3重の迫害、弾圧、差別を、一身に受けることとなったといいます。

そして、ベラを後にしたエルサレム教団は、その後消息を絶つのです。

 飛鳥昭雄と三神たけるは、そのベラで消息を絶ったエルサレム教団が秦氏の正体というのですか。

秦(ハタ)とは、ユダヤの発音であるイエフダ―から、イエハダー、ハダに転訛し、さらに濁点がとれてハタとなったと見ています。

 そして、その秦氏の拠点に丹波も含まれます。

 ナニャドラヤは、ヘブル語で解けると説があります。

ナニャドヤラとは、「ナニャトヤラ」とも言われる青森県南部から岩手県北部にかけての地域及び秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わる盆踊りです。

ネコにゃんにゃんの歌は、元々は歌垣の歌かも知れないと、この歌を聞かされた人は推論しています。
http://www3.ocn.ne.jp/~hikarion/hikarinokai/reigen2.html

ニャンニャンと聞こえることから南部の猫歌と呼ばれるナニャドラヤもまた、土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていたというのです。

 出雲童歌「ネコにゃんにゃん」から、バステトの大祭を連想したこともあったでしょ。

男女の出会いの場として見た場合、バステトの大祭もまた、一種の歌垣とみても、面白いですね。

ナニャドラヤは、「ニャニャドヤレ」だか「ニャニャドヤラ」とかいう風に聞かれもし、歌われもしていたといいます。

 そうなると、ナニャドラヤにも歌垣の要素があるから、ネコにゃんにゃんの歌は、元々は歌垣の歌かも知れないという解釈と重なります。

ナニャドラヤの伝わる地域の一つである戸来村は、現在の青森県三戸郡新郷村大字戸来にあたります。

戸来(へらい)には、ヘブライからの転訛という説があります。

もっとも、イエスの時代はアラム語を話していたはずだから、偶然似てるだけと、一笑に付す人もいます。

だが、こう言う証言もあるのです

村の赤ちゃんには、魔よけとして額にクロス、すなわち十字を書く習慣があった。

村の野良着は、ユダヤの民族衣装に酷似していた。

赤ちゃんの揺り籠は、ユダヤの伝統的な揺り籠と同じ形態であった。

沢口家当主の容貌は、一見、青眼に彫りの深い外国人のような顔だちであった。

この沢口家の当主の祖先、なんとキリストの娘をキリストの娘を嫁にもらったと伝わるらしいですよ。

 実際は、原始キリスト教徒の娘かも知れない。

東北もまた、秦氏の進出した土地なのです。

 そして、秦氏にはユダヤ人キリスト教徒説があります。

 矛盾しないですね。

現在キリストの墓とされる場所の横には、イスラエル大使館が立てた記念碑が建立されているといいますよ。

 出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の出雲が、京都の丹波であってみれば、ナニャドラヤの伝わる地域とは、秦氏で繋がりますね。

ますます、ネコにゃんにゃんの元歌が、ナニャドラヤである可能性が見えてきたようですね。

追記

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の歌詞はここに収めました。

この歌についての情報募集中です
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_78ef.html

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出雲童歌「ネコにゃんにゃん」とナニャドラヤ?

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」について、どんな些細な情報でも良いから欲しいと、聞きまわっていました。

すると、こんな感想が寄せられました。

イスラエルの民謡の特徴の一つは 同じフレーズを繰り返すことらしいですよ。

ネコにゃんにゃんは繰り返していますから、やはりイスラエル縁の民謡でしょうね。

そして、埴輪の中にユダヤ人の特徴的身なりとよく似たものがあると、指摘してくれました。

それは、大きな丸いつばのついた帽子をかぶり長いもみあげを垂らした男性像です。

オクマン山古墳出土埴輪鷹匠と、説明には書いてありました。

これは現在、新田荘歴史資料館に展示されています。

大きな丸いつばのついた帽子をかぶり長いもみあげを垂らせばユダヤ人男性の特徴というので、ハロウィンのコスプレ用グッズにも、ぺオートと呼ばれる独特なもみあげ付き帽子が売られているのを検索で見つけました。

埴輪の時代には、わざわざユダヤ人の格好に扮して遊んだ人もいないだろうから、ユダヤ人を模ったとしか見えなくなりました。

 出雲と東日本、離れてますね。

でも、思い出してください。

松本清張の「砂の器」では、出雲の辺りと東日本では似た言葉が話されていると話題にしていました。

 でも、問題はネコでしょ。

 しかも、踊っている。

それについても、興味深い情報をくれました。

ナニャドヤラは、にゃん にゃんと聞こえるので、猫歌というみたいですね。

 猫歌と呼ばれるとは興味深いですね。

ナニャドヤラとは、「ナニャトヤラ」とも言われる青森県南部から岩手県北部にかけての地域及び秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わる盆踊りです。

踊りに定型はなく、地域によって、あるいはひとつの地域に何種類も伝わっているそうです。

ナニャドヤラは盆踊りでの「はやし歌」の歌詞からとられた名称です。

長い間、さまざまに解釈されてきたナニャドヤラの歌詞は、歌の中でのはやし言葉として現れるといいます。

歌詞は地域によってもばらつきがあり、さらに、研究者が方言を聞き取って表記したため、さまざまな文献によって表記が異なるらしいです。

現在行われている「ナニャドヤラ大会」で見られる歌詞は以下の通りです。

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ

ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ

ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド

南部地方以外の人にはニャンニャンと聞こえたため、「南部の猫唄」と呼ばれていたといいます。

土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていたというのです。

出雲の童歌「ネコにゃんにゃん」と「バステトの大祭」と比べたことがありました。

バステト女神は、古代エジプトのネコの頭部と、女性の身体をしたエジプト神話の、喜びと、豊穣、性愛、音楽とダンスを好む踊りの陽気な女神です。

人間を病気や邪悪な霊から守る、慈愛に満ちた女神でもあります。

ちなみに、バステトという名前そのものは、「軟膏壷の婦人」という意味だそうです。

壷の軟膏は、薬であったと考えられます。

バステトの大祭では、猫と踊りと太陽と愛の神様でもあるので、ワインやビールを飲み交わし、飲んで歌って騒いで大騒ぎをします。

バステトは性愛の女神でもあるから、普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げたこともあったかもしれません。

古代エジプトは、結婚は決められた相手としなければならない代わりに、恋愛はかなり大らかだったそうです。

恋愛について女性が残した文章の中には、水浴びを見せて欲しいと言われたい、というのもあるといいます。

吉村作治教授によると、結婚は、年齢によってカップリングになるかどうかが変わってきますので、年齢制限のようなものはありませんでした。

男性で15歳、女性で13歳にもなれば、結婚はできたそうです。

 水浴びを見せて欲しいと言われたいと書き残した女性は、10代半ばだったのかしら。

ナニャドヤラには、さまざまな説が出ています。

柳田国男の恋の歌説。

青森県八戸市の中里義美氏の道歌説。

南北朝時代、長慶天皇が足利氏に追われ、三戸郡名久井岳の近くに隠れ住んだ際に、味方に無事を知らせる内容を里人に唄わせたという梵語説。

そして、岩手県一戸町出身の神学博士・川守田英二が大正時代に唱えたヘブル語説。

川守田英二によると、「ナギャド」は、「前方へ」という副詞と「指導者」という名詞になっているというのです。

また、「ナサレ」は「掃蕩」と解釈でき、「ナギアドナサレ」は、「前方を掃蕩する」という意味だといいます。

そこでナニャドヤラは進軍歌であり、「御前に聖名をほめ讃えん 御前に毛人を討伐して 御前に聖名をほめ讃えん」という意味だと発表したのです。

川守田英二の解釈で良いかどうかはさておき、ナニャドヤラがヘブル語とすれば、少なくとも中東には遡れる可能性は見えてきます。

 そういえば、古代イスラエル人は長年エジプトにいた。

 ナニャドヤラが仮に中東の言葉として訳せるとしたら…。

バステトの大祭が連想できるネコにゃんにゃんの起源は、ナニャドヤラに遡れるかも知れないと考えても良さそうに見えてきますね。

南部地方以外の人にはニャンニャンと聞こえたため、「南部の猫唄」と呼ばれていたというのは、気になります。

ネコにゃんにゃんの歌詞には、こういう部分もあるからです。

にゃんにゃんのん にゃんにゃん にゃんにゃんのん ・・・
にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん

このニャンニャンと歌われた箇所は、実はナニャドヤラだったのでしょうか。

 ナニャドヤラは踊られ、しかも、「南部の猫唄」と呼ばれていた…。

そうなると、出雲にネコがいーたそうな、というのはどういうことなのでしょう。

 ネコの正体、なにかしら。

なにでしょうね。

追記

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の歌詞はここに収めました。

この歌についての情報募集中です
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_78ef.html

バステトの大祭とはここで比べました。

出雲の童歌「ネコにゃんにゃん」と「バステトの大祭」?
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-b403.html

出雲と東日本はここで比べました。

出雲と関東
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-a70a.html

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