音楽

相撲は踊りだった?

日本人の起源と中東について探っていると、いろいろと面白いコメントを戴きます。

この前は、こういう声をかけてくれました。

ベリーダンスを習っているものです。

興味深いお話をありがとうございました。

以前、YouTubeでアイヌのフッタレチュイ(黒髪の踊り)を見て、アラビア半島の踊り、ハリージと酷似しているのを見つけました。

ハリージはベリーダンスを習っていると、民族舞踊ということで習うスタジオもあります。

日本舞踊に対する、盆踊りみたいなものです。

両方とも、長い髪をブンブン振り回したりするハードな踊りです。

衣装も似てるし、踊りも似ている。

何より驚いたのは、ザガリートと言って、おめでたい時や楽しい時に、発する勧声です。

レレレレレレ…とか舌を高速で左右に動かします。

アイヌの人達も踊りを盛り上げるために、ザガリートをしていました。

エジプト人や中東の人と同じです。

古代中東の人とアイヌは共通の遺伝子があるとのことです。

アイヌのウフィというミイラを作ることも、エジプトや中東から受け継いだものではないかと思います。

中尊寺の藤原三代のミイラといい…。

何よりアイヌの人達の彫りの深い濃い顔は、中東の血が入っているのだろうと思わせるに十分です。

吉田大洋著『謎の出雲帝国』によると、出雲族以前に、日本にアイヌはいたそうです。

主人の祖母はニサタイに広大な土地を持っていた家の出身だそうです。

馬が下駄代わりだったそうです。

ナニャトヤラ大会もあります。

本来、ベリーダンスは自由な踊りです。

何をしても可だそうです。

基本はありますけど、エジプトのダンサーは自分の流儀で踊っています。

シュシュも腰をつきだして、身体を深くS字にしてするものもあります。

S字をキープしたまま足を激しく細かく踏んで移動もします。

身体を真っ直ぐにしたままのシュシュだけではありません。

身体を後ろにかなりそらすこともあります。

横に反らす動きをすることもあります。

踵で床をドンドン踏みな鳴らすこともします。

今やってる曲はエジプト人の振り付け師の曲で、踵でドンドンする振りがあります。

ズンズンと地面に轟かせながらするターンもあります。

ピポットターンの変形です。

バンと床を蹴ってジャンプもします。

ジャンプはあまりしないけど、おおっ飛んだとエジプト人は喜ぶそうです。

左右足を踏みかえる時に、バンと跳んだりもします。

ステップやターンで激しく踏むこともありますが、基本、裸足ですので、あまり音はしません。

でも、激しくジャンプもしますし、激しくステップも踏みます。

ダウンキックという動作も、エジプト人は前方まで腰をひねり上げ激しく捻り下ろしますが、日本人の先生は、腰をほんのちょっとアップするだけの先生もいらっしゃいます。

日本人の先生でも、知らなかったりする方も沢山いらっしゃいます。

ハッガーラは歩く時に、腰を捻り上げ、足をドスンと落とします。

これで普通の速度で歩くと、激しく腰が動いて激しくステップを踏んでいるように見えます。

エジプト人の講習を受けたりするとわかります。

ハリージも激しく前後左右に上半身や首を振りまわします。

バンと頭を振り下ろし、振り上げます。

フッタレチュイとそっくりです。

ハリージはステップ踏んで移動します。

エジプト人がステップ踏んで移動すると、豊満な身体がブルンブルン揺れます。

日本人は豊満でないので、腰を動かしてカバーしますが。

ベリーダンスもハリージも豊満な人が踊っただけで、踏み轟かし、あめのうずめのようになります。

ようはベリーダンスはもともと、自由でなんでもありなんです。

映画の陰陽師で、あめのうずめの踊りの場面では、左手に扇、右手に鈴を持って踊ってましたが、古代エジプトのバステト女神は左手に籠状のもの、右手にシストルム(シンバルを並べたような楽器)を持ってたとか。

持ち物が似てます。

イシス女神もシストルムの名手だったとか。

女性神官が神々を懐柔するために鳴らしたそうです。

あめのうずめの鈴と同じです。

元々、ベリーダンスは女性神官が神人合一したときの身体の動き(アンジュレーション、シミー)が踊りに入っています。

あと、尾てい骨を引っ込め、骨盤を真っ直ぐに立てる基本姿勢は、気功と同じです。

足も左右ほぼ平行が基本で、エネルギーの出し入れがしやすい姿勢は気功と同じです。

踊りがエネルギーワークでもあります。

他のダンス共通ですが、ツーステップと言うステップが反べい?禹歩ですか?と似ています。

右足に左足を引き付け、右足をちょっとずらし、次は左足を出し、左足に右足を引き付け、左足を少し出し…を繰り返し斜めにジグザグ進みます。

ボックスステップなんて四角く踏むステップもあります。

あめのうずめは鉾に 鈴を付けていたそうですが、ベリーダンスでもアサヤと言うステッキを振り回したり、ガンと地面に叩きつけたりします。

威嚇や魔除けです。

男性は武器の棒を持って踊る踊りもあります。

ベリーダンスはオリエンタルの踊り時は、踵を上げて踊りますが、砂漠の民ベドウィンの踊りはベタ足で、ズンズン踊ります。

ベタ足でないと砂に埋もれるからです。

それを床でやったら、踏み轟きます。

フラメンコもベリーダンスと共通する部分があります。

それで、フラメンコ風の踊りも時々習います。

フラメンコについては詳しくありませんので。

失礼しました。

この人の話にあるニサタイとは、岩手県二戸市仁左平地区のことです。

 ナニャトヤラ大会で、それくらい見当つきますよ。

 ナニャトヤラといえば、ユダヤ語説のある不思議な歌詞で有名ですよね。

実際にエジプト人の先生に倣って踊っている人からの、こういう情報はありがたいです。

特にアイヌの音楽文化と中東音楽文化の類似を、自分自身の踊りの体験から語って戴けるのは、貴重な情報で助かります。

 フラメンコはやはり、ベリーダンスと共通の起源なのでしょうね。

フラメンコもベリーダンスと共通する部分があるので、フラメンコ風の踊りも時々習うとのことですからね。

アイヌの音楽文化と中東音楽文化の類似があり、フラメンコもベリーダンスと共通する部分があるとなると、興味深いことになります。

近縁である琉球の伝統的な振り付けがどこかフラメンコに近いのも、中東音楽文化の類似ということになるからです。

 カチャーシーですね。

 フラメンコにどことなく、似てると言えば似てる…。

 聖書世界に近い琉球の文化にとってみれば、音楽文化も中東に近いのは当然と言えば当然ですけどね。

アイヌの人達の彫りの深い濃い顔は、中東の血が入っているのだろうと思わせるに十分ということは、琉球民族の顔も中東的と言って良いわけですね。

興味を惹かれるのは、禹歩に似たステップですね。

禹歩というのは道家の行う技法で、現代でも行われている呪術の一種です。

この禹歩は、古代の聖天子禹の歩きかたをかたどったものと伝えられます。

入山や病気治療などに際して特別なステップを踏む事で、主に身の安全の確保や病気治療などの効果を得ようとするものです。

実は、相撲の四股もこの禹歩に起源があるというのです。

威嚇や魔除けとして禹歩という独特のステップがあるが、四股も威嚇や魔除けとしての所作なのです。

さらに興味を惹かれるのは、男性は武器の棒を持って踊る踊りもあるということです。

四股を踏みつつ弓を振り回すさまは、ツーステップと言うステップを踏みながら武器の棒を持って踊る振り付けそのものではないですか。

アマノウズメの踊りに巫女舞の起源を探ったことはあるけど、まさか、弓取り式の起源をアマノウズメの踊りに見るとは思っても見ませんでした。

 ベリーダンスが女性だけでなく、男性の踊りでもある事を思えば、男性の神前の舞が残っていても当然だけど、弓取り式とは意表を突かれましたね。

となると、相撲は一見競技のようだけど、本質は神前の奉納儀式ですよ。

 土俵の正体は、屋根を見ればわかるように神社でしたね。

砂漠の民ベドウィンの踊りはベタ足で、ズンズン踊るということですね。

 ベタ足でないと砂に埋もれるからですね。

ベリーダンスはもともと、自由でなんでもありということは、舞踏に武闘の動きが入っても良いのではないでしょうか。

 そうしてみると、意外な展開になりますね。

相撲は実は、ベリーダンスの男性の舞に起源を持つ奉納舞だったのでしょうか。

 そう言えば、神社の奉納の舞にも男性の舞はありますね。

相撲は、右舞と左舞の代わりに、東西の取り組みとなったのでしょうか。

 相撲が東西南北にこだわるのも、ツーステップと言う禹歩に似た威嚇や魔除けのステップを踏む奉納舞の場だからと見れば、妙に納得できますね。

 相撲も、神社の奉納舞も、あめのうずめの踊りを経由して日本に定着した、ベリーダンスだったとは…。

こういう面白い展開があるから、歴史を探るのは止められないのですねえ。

追記

なお巫女舞についてはここで触れたので、良かったら見てください。

巫女舞http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-8caa.html

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日本の音楽文化とジャズと秦氏?

日本の音楽、どちらかと言うと、ジャズのジャムセッションに近くないでしょうか。

即興の掛け合いで生き生きしてくるさまは、まさに、ジャムセッションです。

 ジャムセッションは、奏者の力量と才覚に大きく左右されますね。

十分に練習を積んだ者同士でないと、簡単に空中分解するリスクと常に隣りあわせです。

楽譜の世界に、即興の掛け合いはまさに、命を吹き込んでいくのです。

忠実に再現されるべきは、楽譜ではないです。

忠実に再現されるべきは、楽譜に記された世界なのです。 

 そしてその世界は、魂の世界との交信であり交流でもあるのですよね。

日本の歌の系譜は、神前に供えるための音楽に端を発する可能性も見てきました。

ジャズはその成立史をみればわかるけど、ソウルミュージックとは密接な繋がりがあるのです。

ソウルは教会の霊歌ゴスペルやリズム&ブルースから派生した、よりポップミュージックに近い歌ものの音楽です。

 日本の精神文化も、どこか聖書、特にキリスト教と似通ってることは、これまで何度も取り上げてきたでしょ。

日本人は「歌」に対しては非常に厳格な美意識を持っているのです。

それは、日本の音楽は、言霊の表現形式の一つであるということです。

音が意識を宇宙に連結していく、日本の音楽に対する伝統的な考え方もこの延長線上にあります。

それは心の奥底に根を張っているため、容易に変質しないのです。

日本の伝統的な歌い方をすると気持ちがよいです。

それは、自身の血の中に流れる、古くからの音感と共鳴するからであります。

大陸渡来の楽器で日本の歌をなぞろうとしても、出ない音があります。

普通は、音程変更の容易な歌の方が、楽器の音程に合わせるが、日本の古人は、歌の音の方を大事にしたのです。

日本の音楽の主軸にあるのは「声」なのです。

声を伴わない器楽というのは伝統音楽の全体数から見ると、ごく少数です。

日本伝統音楽で愛用されてきた楽器の多くは、基本的には、器楽ではなく「声の音楽」の系譜に属します。

アカペラで歌われ、ここに大陸渡来の楽器の伴奏が加わっていくわけです。

どうしてこうなるかと言えば、雅楽の成立過程が関係しているのです。

雅楽の中の、ひとつのジャンルに国風歌舞(くにぶりのうたまい)というのがあります。

国風歌舞は、神楽(かぐら)歌、久米(くめ)歌、東遊(あずまあそび) など、古くから日本にある「土着の歌」とでも言うべきものです。

雅楽自体は、中国・インド・ベトナム方面や朝鮮・渤海(ぼっかい)系のものを、日本人の音感に合わせ、日本風にまとめたものです。

日本における外来音楽の最初の記録は、天皇の崩御に際し、新羅から楽人80名がやって来たという453年の記録だといわれます。

 雅楽とは、今も保存されている「アジア諸国の古楽」の、いわば音の正倉院のような存在なのですね。

今では、日本の伝統音楽と言っても良い存在になっていますけどね。

 雅楽と言えば、東儀氏ですね。

東儀氏は、秦氏から分かれた一族です。

 新羅は、古代ローマの文物が多く出土しますね。

そして中国ではローマ帝国、特に東ローマ帝国を大秦国と呼びました。

 雅楽と秦氏のかかわりが深く、東儀氏はその中心をなしている。

 雅楽の始まりに、大秦と呼ばれた古代ローマ帝国の影響が強かった新羅の楽人が大きく関与している。

なにか、面白いものを感じますね。

 ジャズは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に派生した音楽形式でしょ。

西洋楽器を用いた高度な西洋音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と音楽形式とが融合して生まれたと指摘されますね。

 西洋音楽とアフリカのリズムの融合。

古代ローマ帝国はヨーロッパとアフリカにまたがっていたから、古代ローマ帝国の音楽もまた、西洋音楽とアフリカのリズムの融合の地であったかも知れないですよ。

 新羅経由で、西洋音楽とアフリカのリズムの融合した音楽文化が日本に来ていたのでしょうか。

大秦帝国と秦氏の繋がりを想像するのは楽しいけど、話を戻しましょう。

日本の伝統歌曲が、大陸渡来の楽器で伴奏されるわけだから、当然、音の合わないところが出てきます。

笛系の楽器は、弦楽器のように弦の張り具合を変え、微妙に調子を変えるという融通がきかないため、普通は歌の音程の方を楽器に合わせます。

 打楽器も、チューニング出来ますよ。

天然の皮製の場合、下手にやると破けるリスクはありますけどね。

しかし、日本の古人は違っていました。

日本の古人は、絶対に歌の音程を変えようとしないのであります。

その結果、旋律をなぞる楽器の音と声の音が、半音で衝突しながら進行するところが出てきたりします。

歌の旋律線をなぞろうと楽器ががんばるが、楽器が旋律を同じ音でなぞれる部分と、近似値でとどまる部分が出てきます。

大陸渡来の楽器で、歌の音程を出せないところがあるからです。

それでも、日本人は渡来楽器を使い続けました。

楽器は、肉声では出しえない音色で、言霊表現に参加したのです。

歌と半音ずれてしまう楽器に対し「できる範囲でこちらの声についておいで」といった感じで歌が楽器を悠然と先導です。

絶対に歌の音程は、変えないです。

肉声が音楽の柱となり、楽器は言ってみればバックコーラス的立ち位置で歌に合流するわけです。

これが日本の美意識です。

伴奏楽器の発するメロディーラインに対し、半音ずれて歌うというのはとても難しいです。

普通は、歌の方が、楽器の音程の方に引っ張られ、楽器の音程に同化していくのです。

だが、日本の古人は、古くから伝わっている日本古来の歌の音程を絶対に変えようとしなかったのであります。

それができたのは、楽器が伴奏だったからではない、楽器も歌っていたのです。

 日本にコーラスがなかったのではないのですね。

声と楽器によるコーラスだったのです。

澄んだ響きが、ところどころ混沌とした響きに濁る部分があります。

こうした部分は、声の音と楽器の音が約半音で衝突しているところです。

楽器の音色の参加で生じた清濁こそ、声楽だけでは出しえない世界です。

濁と清、動と静、混沌と秩序、苦と楽、など世界は相補い相反する事物が混在しています。

楽器は肉声だけでは表現しきれなかった世界の姿を、写し取るための相方として受け入れられたのです。 

日本人にとって楽器とは、共に歌う仲間だったのではないでしょうか。

コーラスでパート分けがあるように、日本人は楽器とパート分けして歌ってきました。

水墨画は赤や青の色が混ざろうとも、水墨画です。

 墨で描くだけでは、水墨画ではないでしょ。

墨の線だけで描くのは墨絵、ぼかしによる面の表現が加わると水墨画と、区別されています。

赤や青の色は色としてではなく、墨の仲間として参加しています。

 墨に五彩ありというけれど、墨だけで出し切れない色として、赤や青は参加してるのですね。

楽器も肉声で出し切れない音色で参加したのです。 

楽器も日本音楽では、声として参加しました。

日本に欧米的な意味での器楽が発展しなかったのは、日本の器楽はコーラスの一形態として発展したといえます。

雅楽もまた、器楽にして器楽にあらずです。

雅楽もまた、アカペラコーラスの一種として発展したのです。

日本の器楽は伴奏のようで、伴奏がないです。 

日本の音楽では、肉声と楽器の境がないです。

声は声とも楽器ともセッションし、楽器は楽器とも声ともセッションします。

だから、日本の音楽には声の掛け合いだけが存在します。

まさに、声と楽器の渾然一体のセッションこそ、日本音楽の精髄です。

日本人の多くがジャズが好きなのも、むべなるかなです。

ジャズは、誕生の時、欧米の音楽文化にとっては前衛だったのだろうです。

西洋式の正しい歌い方は、まず出だしの音の正確さ、そして音の高さがまっすぐ伸び、音が上下に震えたりしないです。

地声は厳禁です。

だが、ジャズは自由奔放に音が歌い踊り対話し合います。

型にはまった当時の西欧音楽の概念を打ち壊したのです。

これこそ現代だ前衛だと持て囃されたものの多くは、すぐに陳腐化しました。

だが、ジャズは単なる前衛音楽から、欧米の音楽シーンの定番ジャンルの一つに定着しました。

それは、ジャズが欧米には新しかったとしても、長い歴史を持った音楽文化の流れにとっては新展開でしかなかったことによるのです。

日本の伝統芸術が、欧米にとって前衛です。

そう言えば、日本から包装紙として渡った浮世絵が欧州画壇にカルチャーショックを与えました。

日本の伝統音楽も、欧米から見たら衝撃的でカルチャーショックでした。

能が欧米人から見て前衛芸術なのもまた、無理からぬことです。

ジャズは、日本人にとって新参者でありながら素直に受け入れられたのは、底流を共有していたからでしょう。

日本人は、ある音を発声するとき、まず目的音より少し低めの音を発し、そこから徐々にずり上げて目的音に達するという方法をとります。

そして目的音に達すると、今度は音程を微妙に上下に揺り動かすという、いわゆるコブシをきかせ、地声で朗々と歌い上げます。

さらにリズムは伸縮自在でグラグラしています。

これは、どこかジャズのスィングに近いです。

「響き」といった、感性の領域に属するものは、言語や食事文化よりも基層にあるため、他の文化要素と比べて変化しにくいというです。

千年以上も、かたくなに古くからの歌の音感を守り通してきた日本人は、こうした特徴がきわめて強固であるといえます。

その日本の感性が、どこかジャズと響き合うのです。

なにか、興味がそそられますね。

 ふと、トランペットと尺八の音色に似てると感じたら、ミュージシャンの中にも、そう感じる人は居るようです。

そういえば、歌口から管尻までの長さはフルートと尺八が約60cm、音の高さもフルートと尺八はほぼ同じと言います。

 フルートの音色は、吹き方によってはまるで尺八のようになりますよね。

これも、面白いですね。

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秦氏と古代ローマ?

3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国がありました。

辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられています。

新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られています。

この新羅は、ローマの影響が大きかったことで知られています。

雅楽は、5世紀前後から中国、朝鮮半島など大陸から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになり、大宝元年の大宝令によってこれらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされます。

南アジアについては、736年に大宰府に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類されます。

日本における外来音楽の最初の記録は、天皇の崩御に際し、新羅から楽人80名がやって来たという453年の記録だといわれます。

つまり、雅楽の基礎は新羅からの楽人によって据えられたとみてよさそうです。

雅楽で有名な東儀氏は、秦氏から出ました。

 雅楽といえば東儀秀樹の顔、どう見ても東アジアの系統じゃないですね。

古代中国で、ローマ帝国は大秦国と呼ばれ、新羅にローマの影響が大きいと指摘されます。

そして、新羅からの楽人によって雅楽の基礎は出来た可能性があり、雅楽で有名な東儀氏は秦氏の出とされます。

 その東儀氏の一員である東儀秀樹の顔はどう見ても西方的に見えるのは偶然でしょうか。

 日本には結構ローマ人的な顔は多い、映画テルマエロメオのローマ人役は全員日本人で間に合わせたけど、ローマ人から違和感なしの評価でしょ。

東儀秀樹は、ローマ人役やっても違和感小さいと言いたいのですか。

中国資料によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国とされます。

日本古代史学者の水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と『謎の渡来人秦氏』(2009年文春新書)で述べているそうです。

弓月君の子孫は各地の秦氏の流れへと繋がるが、弓月君の出自については、かつて天山山脈のふもとに三日月国とも弓月国とも呼ばれた国から来たとも呼ばれています。

景教博士である佐伯好郎は晩年、「極東における最初のキリスト教王国弓月、及び、その民族に関する諸問題」という論文を書いているそうです。

佐伯好郎はこの論文で秦氏のルーツを大陸にあり、と論じたと言います。

 だが、弓月国が極東における最初のキリスト教王国とすると、何時頃からどのようにして、キリスト教国になったかですよ。

ここでも、キーワードは秦かも知れないです。

古代中国で秦と言えば、大秦、つまりローマ帝国を指したとしたらどうでしょう。

 東西に分裂したころのローマ帝国は、すでにキリスト教国ですね。

ローマ帝国から、新天地を求めて移動したキリスト教一派があったとしたらどうでしょう。

 自らの信仰を貫くために、ローマ帝国を去って、東方に新天地を求めた人たちがいたと。

そうすれば、弓月国は建国当初からキリスト教国であっても、おかしくないのです。

 佐伯好郎は、秦氏をユダヤ人キリスト教徒であったという説を展開したことで知られますね。

飛鳥昭雄と三神たけるは、晩年の佐伯好郎は景教徒説から原始キリスト教徒説に修正にしていたと指摘しています。

 秦氏が原始キリスト教徒であってみれば、キリスト教の本来の姿を守れる新天地を求めて東進しても不思議ではない。

ただ、問題は、弓月君の帰化の経緯についての『日本書紀』の記録です。

まず応神天皇14年に弓月君が、百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。

しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。

そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。

新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

つまり、新羅ではなく百済経由とされているのです。

だが、弓月君が新羅から来た原始キリスト教徒であってみれば、そして、新羅を逃れた民であったとみればどうでしょう。

 当時の日本と百済の関係を利用して、新羅を牽制した可能性がある。

そうかも、知れないですよ。

 さらに、ユダヤ人原始キリスト教徒としての秦氏がエルサレム教団だったとしたら、ローマ帝国との戦いの前に逃亡してるから、正体を隠す必要もあったでしょうね。

祖国を失ったユダヤ人は、各地に散りましたからね。

遊牧の民は、遊牧の民同士で行動を共にすることが多かったから、紛れ込んで身を隠したでしょね。

 雅楽が東アジアの古楽にルーツを持つのも、秦氏がルーツのカモフラージュをしてるのでしょうか。

そうかも、知れないですよ。

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京都と東北と秦氏?出雲童歌「ネコにゃんにゃん」とナニャドラヤ?その2

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の出雲については、大きな謎があります。

島根県の出雲大社前の地元の民謡保存会も知らない、聞いたことがないと言われます。

民謡保存会さえ知らないのだから、一般地元民は、なおさら知らない。

 出雲在住なのですが、そのような歌は聞いたことがないです。

 出雲は出雲でも別の地区の出雲なのでしょうか…。

島根県の出雲大社ではなく、京都府亀岡市の出雲大神宮に因んだ童歌かもという。

 実際この地には、出雲大神宮が存在します。

しかも、こちらの方こそ、元出雲だと言うのです。

出雲大神宮御祭神
http://www.izumo-d.org/history/gosaijin.htm

 出雲大神宮は京都府亀岡市の北東部に位置し、大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神である三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を奉斎し(明治の制による)、特にこの二柱を合わせて出雲大神、出雲大神宮(日本書紀)、出雲神社などと称へ奉ります。

古事記や日本書紀に見られるように、大国主命は因幡の素兎で知られる慈愛に満ちた神様で、当宮末社に祀られる少那毘古名命(スクナヒコナノミコト)と共に国土経営に尽力なされました。
その後、皇孫に国譲りの後、幽世(カクリヨ)を統治すべく、現在の島根県にある出雲大社に鎮座される事となります。

『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。
よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。

丹波もまた、秦氏の拠点でした。

秦氏は、日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していったのです。

大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えました。

山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行きました。

戦国時代の丹波の武将である川勝 広継(かわかつ ひろつぐ)は、光照(みつてる)とも称したのです。

本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされます。

またの名を下田氏という川勝氏は丹波国桑田郡・船井郡内を知行し、室町幕府に仕えてきました。

秦氏は、『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君を祖とします。

『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔とされるが、その真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかではありません。

だがこの秦氏には、ユダヤ人説が出されています。

佐伯好郎は秦氏は景教、つまりキリスト教のネストリウス派のユダヤ人であるとの説をとなえたが、飛鳥昭雄によれば晩年には原始キリスト教徒説に変わっていたと言うのです。

 原始キリスト教とは、最初期のキリスト教のことですね。

イエスの直弟子である使徒たちがユダヤ、ガリラヤにおいて伝道活動、つまり布教を始めた時代より、新約聖書の主要な文書が成立した後の西暦150年頃までをいいます。

飛鳥昭雄と三神たけるなどは、イエスの直弟子の直系であるエルサレム教団であると主張します。

エルサレムに定住していたエルサレム教団は、「第一次ユダヤ戦争」が勃発するやいなや、戦火を逃れてエルサレムを離れてしまったと言われています。

4世紀の神学者エウゼビオスの『教会史』によるとエルサレム教団は、第一次ユダヤ戦争が本格化すると見るや、エルサレムを脱出し、ガリラヤ湖南方、ヨルダン河東岸にあるペラというギリシア人都市へ集団移住したというのです。

だが、エルサレム教団は、古代ローマ帝国、ユダヤ教保守派、さらには非ユダヤ系イエス信者たちからの2重3重の迫害、弾圧、差別を、一身に受けることとなったといいます。

そして、ベラを後にしたエルサレム教団は、その後消息を絶つのです。

 飛鳥昭雄と三神たけるは、そのベラで消息を絶ったエルサレム教団が秦氏の正体というのですか。

秦(ハタ)とは、ユダヤの発音であるイエフダ―から、イエハダー、ハダに転訛し、さらに濁点がとれてハタとなったと見ています。

 そして、その秦氏の拠点に丹波も含まれます。

 ナニャドラヤは、ヘブル語で解けると説があります。

ナニャドヤラとは、「ナニャトヤラ」とも言われる青森県南部から岩手県北部にかけての地域及び秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わる盆踊りです。

ネコにゃんにゃんの歌は、元々は歌垣の歌かも知れないと、この歌を聞かされた人は推論しています。
http://www3.ocn.ne.jp/~hikarion/hikarinokai/reigen2.html

ニャンニャンと聞こえることから南部の猫歌と呼ばれるナニャドラヤもまた、土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていたというのです。

 出雲童歌「ネコにゃんにゃん」から、バステトの大祭を連想したこともあったでしょ。

男女の出会いの場として見た場合、バステトの大祭もまた、一種の歌垣とみても、面白いですね。

ナニャドラヤは、「ニャニャドヤレ」だか「ニャニャドヤラ」とかいう風に聞かれもし、歌われもしていたといいます。

 そうなると、ナニャドラヤにも歌垣の要素があるから、ネコにゃんにゃんの歌は、元々は歌垣の歌かも知れないという解釈と重なります。

ナニャドラヤの伝わる地域の一つである戸来村は、現在の青森県三戸郡新郷村大字戸来にあたります。

戸来(へらい)には、ヘブライからの転訛という説があります。

もっとも、イエスの時代はアラム語を話していたはずだから、偶然似てるだけと、一笑に付す人もいます。

だが、こう言う証言もあるのです

村の赤ちゃんには、魔よけとして額にクロス、すなわち十字を書く習慣があった。

村の野良着は、ユダヤの民族衣装に酷似していた。

赤ちゃんの揺り籠は、ユダヤの伝統的な揺り籠と同じ形態であった。

沢口家当主の容貌は、一見、青眼に彫りの深い外国人のような顔だちであった。

この沢口家の当主の祖先、なんとキリストの娘をキリストの娘を嫁にもらったと伝わるらしいですよ。

 実際は、原始キリスト教徒の娘かも知れない。

東北もまた、秦氏の進出した土地なのです。

 そして、秦氏にはユダヤ人キリスト教徒説があります。

 矛盾しないですね。

現在キリストの墓とされる場所の横には、イスラエル大使館が立てた記念碑が建立されているといいますよ。

 出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の出雲が、京都の丹波であってみれば、ナニャドラヤの伝わる地域とは、秦氏で繋がりますね。

ますます、ネコにゃんにゃんの元歌が、ナニャドラヤである可能性が見えてきたようですね。

追記

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の歌詞はここに収めました。

この歌についての情報募集中です
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_78ef.html

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出雲童歌「ネコにゃんにゃん」とナニャドラヤ?

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」について、どんな些細な情報でも良いから欲しいと、聞きまわっていました。

すると、こんな感想が寄せられました。

イスラエルの民謡の特徴の一つは 同じフレーズを繰り返すことらしいですよ。

ネコにゃんにゃんは繰り返していますから、やはりイスラエル縁の民謡でしょうね。

そして、埴輪の中にユダヤ人の特徴的身なりとよく似たものがあると、指摘してくれました。

それは、大きな丸いつばのついた帽子をかぶり長いもみあげを垂らした男性像です。

オクマン山古墳出土埴輪鷹匠と、説明には書いてありました。

これは現在、新田荘歴史資料館に展示されています。

大きな丸いつばのついた帽子をかぶり長いもみあげを垂らせばユダヤ人男性の特徴というので、ハロウィンのコスプレ用グッズにも、ぺオートと呼ばれる独特なもみあげ付き帽子が売られているのを検索で見つけました。

埴輪の時代には、わざわざユダヤ人の格好に扮して遊んだ人もいないだろうから、ユダヤ人を模ったとしか見えなくなりました。

 出雲と東日本、離れてますね。

でも、思い出してください。

松本清張の「砂の器」では、出雲の辺りと東日本では似た言葉が話されていると話題にしていました。

 でも、問題はネコでしょ。

 しかも、踊っている。

それについても、興味深い情報をくれました。

ナニャドヤラは、にゃん にゃんと聞こえるので、猫歌というみたいですね。

 猫歌と呼ばれるとは興味深いですね。

ナニャドヤラとは、「ナニャトヤラ」とも言われる青森県南部から岩手県北部にかけての地域及び秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わる盆踊りです。

踊りに定型はなく、地域によって、あるいはひとつの地域に何種類も伝わっているそうです。

ナニャドヤラは盆踊りでの「はやし歌」の歌詞からとられた名称です。

長い間、さまざまに解釈されてきたナニャドヤラの歌詞は、歌の中でのはやし言葉として現れるといいます。

歌詞は地域によってもばらつきがあり、さらに、研究者が方言を聞き取って表記したため、さまざまな文献によって表記が異なるらしいです。

現在行われている「ナニャドヤラ大会」で見られる歌詞は以下の通りです。

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ

ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ

ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド

南部地方以外の人にはニャンニャンと聞こえたため、「南部の猫唄」と呼ばれていたといいます。

土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていたというのです。

出雲の童歌「ネコにゃんにゃん」と「バステトの大祭」と比べたことがありました。

バステト女神は、古代エジプトのネコの頭部と、女性の身体をしたエジプト神話の、喜びと、豊穣、性愛、音楽とダンスを好む踊りの陽気な女神です。

人間を病気や邪悪な霊から守る、慈愛に満ちた女神でもあります。

ちなみに、バステトという名前そのものは、「軟膏壷の婦人」という意味だそうです。

壷の軟膏は、薬であったと考えられます。

バステトの大祭では、猫と踊りと太陽と愛の神様でもあるので、ワインやビールを飲み交わし、飲んで歌って騒いで大騒ぎをします。

バステトは性愛の女神でもあるから、普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げたこともあったかもしれません。

古代エジプトは、結婚は決められた相手としなければならない代わりに、恋愛はかなり大らかだったそうです。

恋愛について女性が残した文章の中には、水浴びを見せて欲しいと言われたい、というのもあるといいます。

吉村作治教授によると、結婚は、年齢によってカップリングになるかどうかが変わってきますので、年齢制限のようなものはありませんでした。
http://www.yugakusha.net/study/yoshimura_egypt/200510/200510-5.html

男性で15歳、女性で13歳にもなれば、結婚はできたそうです。

 水浴びを見せて欲しいと言われたいと書き残した女性は、10代半ばだったのかしら。

ナニャドヤラには、さまざまな説が出ています。

柳田国男の恋の歌説。

青森県八戸市の中里義美氏の道歌説。

南北朝時代、長慶天皇が足利氏に追われ、三戸郡名久井岳の近くに隠れ住んだ際に、味方に無事を知らせる内容を里人に唄わせたという梵語説。

そして、岩手県一戸町出身の神学博士・川守田英二が大正時代に唱えたヘブル語説。

川守田英二によると、「ナギャド」は、「前方へ」という副詞と「指導者」という名詞になっているというのです。

また、「ナサレ」は「掃蕩」と解釈でき、「ナギアドナサレ」は、「前方を掃蕩する」という意味だといいます。

そこでナニャドヤラは進軍歌であり、「御前に聖名をほめ讃えん 御前に毛人を討伐して 御前に聖名をほめ讃えん」という意味だと発表したのです。

川守田英二の解釈で良いかどうかはさておき、ナニャドヤラがヘブル語とすれば、少なくとも中東には遡れる可能性は見えてきます。

 そういえば、古代イスラエル人は長年エジプトにいた。

 ナニャドヤラが仮に中東の言葉として訳せるとしたら…。

バステトの大祭が連想できるネコにゃんにゃんの起源は、ナニャドヤラに遡れるかも知れないと考えても良さそうに見えてきますね。

南部地方以外の人にはニャンニャンと聞こえたため、「南部の猫唄」と呼ばれていたというのは、気になります。

ネコにゃんにゃんの歌詞には、こういう部分もあるからです。

にゃんにゃんのん にゃんにゃん にゃんにゃんのん ・・・
にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん

このニャンニャンと歌われた箇所は、実はナニャドヤラだったのでしょうか。

 ナニャドヤラは踊られ、しかも、「南部の猫唄」と呼ばれていた…。

そうなると、出雲にネコがいーたそうな、というのはどういうことなのでしょう。

 ネコの正体、なにかしら。

なにでしょうね。

追記

出雲童歌「ネコにゃんにゃん」の歌詞はここに収めました。

この歌についての情報募集中です
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_78ef.html

バステトの大祭とはここで比べました。

出雲の童歌「ネコにゃんにゃん」と「バステトの大祭」?
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-b403.html

出雲と東日本はここで比べました。

出雲と関東
http://cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-a70a.html

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アメノウズメとフラメンコ?

アメノウズメの踊りの印象は、インド辺りのミュージカルと中東のベリーダンスとスペインのフラメンコを足して3で割ったようだったのではと、語る人がいます。

 舞台の演出としては、視覚的に面白いですね。

アメノウズメの踊りについては、ベリーダンスが近いという感想を述べたことはあるが、フラメンコをイメージする人もいるのですね。

 フラメンコと言えば、ロマでしょ。

そういえば、アメノウズメの踊りについて意見交換した中で、ロマの話も出ていました。

その時は、軽く受け流してしまったけれど、ロマとエジプトの繋がりを考えたことがあったことを思えば、アメノウズメの踊りをフラメンコとの比較をしてみても面白いですね。

衣装から、ベリーダンスは連想したけど、フラメンコは思いつかなかったですね。

 足を踏み鳴らしたとあるところから、フラメンコを連想したのかも知れないですね。

低く腰を落して足を踏みとどろかす、確かにこの振り付けはフラメンコにもありますね。

背をそり胸乳をあらわにし、というところも、女性のかつての衣装には胸を露わにしたデザインのものも多かったことを思えば、姿勢から言ってもあり得る話です。

 フラメンコには、背を反らす動きも多いですね。

フラメンコもベリーダンスも連想できるアメノウズメの踊りは、さまざまな踊りの起源となった古代中東の踊りの系譜を、引いている可能性はあり得ますね。

 フラメンコも連想できるとして、アマノウズメの踊りとの繋がりが見えるかどうかですよ。

まず、フラメンコの歴史を振り返りたいところだが、起源はよくわかっていないようです。

フラメンコは、スペイン南部のアンダルシア地方に伝わる芸能です。

フラメンコの元となる踊りの形の成立は18世紀末と考えられているが、この時期にはまだフラメンコという名称は与えられていません。

歌、踊り、ギターの伴奏が主体となっているフラメンコの歴史と発展には、ヒターノと呼ばれるスペインジプシーが重要な役割を果たしています。

ちなみにヒターノとは、ロマのスペインでの呼び名です。

 ジプシーはロマのことだから、それくらいわかりますよ。

さらにさかのぼると、ムーア人の影響もみられるといいます。

ムーア人はモーロ人とも呼ばれる、イベリア半島や北アフリカに住んでいたイスラム教徒です。

後に様々な民族に広がるイスラムだが、もともとはイシュマエルの子孫から始まっています。

 イシュマエルの父はアブラハム、母はエジプト出身のハガルですよね。

ロマの各地の名称もエジプト出身を暗示し、イスラムにもエジプトは関係しているわけですね。

 ムーア人とヒターノという、エジプトに関係が深い二つのエスニックグループが、フラメンコの成立に深く関わってたのですね。

エジプトに、アメノウズメの踊りとフラメンコの接点がありそうですね。

現在のフラメンコに繋がる成立史も、一応振り返っておきましょう。

この2つのエスニック・グループの協働が発生した理由として現在考えられているのは、イベリア半島におけるモリスコ追放令です。

モリスコとは、キリスト教に改宗したイスラム教徒のことです。

1499年のカトリック両王によるモーロ人追放後も一部のイスラム教徒はキリスト教徒に改宗してイベリア半島に留まったが、1609年に改めてモリスコの追放令が出されるのです。

ところが、モリスコの中にはヒターノのコミュニティに潜伏してなおもイベリア半島に留まる者が少なくなかったそうです。

この時期にアンダルシアのヒターノのコミュニティがモリスコの歌舞音曲を大胆に取り入れた結果、現在フラメンコと呼ばれる芸能が生まれたと見られているのです。

 ヒターノの踊りとモリスコの歌舞音曲が容易に融合できた背景には、お互いが共有していた古代エジプトの音楽文化があった。

そう考えるのは、自然でしょうね、

 ますます、アメノウズメの踊りと古代エジプトの繋がりが見えてきたようですね。

ベリーダンスに次いで、フラメンコも、エジプトとの接点が窺えますからね。

 インド辺りのミュージカルなどは、こういう雰囲気で演出したら面白いくらいの解釈で良いでしょ。

日本人の中にも、インド人から同胞に間違えないと自信持って断言される日本人がいます。

インドのタミル語と日本語の間に、大きな関係が見られると指摘する人もいます。

インド辺りのミュージカルと似た雰囲気の中で、アメノウズメが踊ったと見てもおかしくはないですね。

それに、日本人には中東のどこかの国の出身に間違えないと、断言され否定しても信じてもらえないで困ったという人もいますよ。

中東にこういう状態を作ったのは、ペルシャ帝国とトルコ帝国です。

 どちらも、日本人と似た顔の人が見つかる国ですね。

インドとペルシャは、近接した地域の民族が作ったことがわかっています。

 インドも古代中東に、遡れるのでしたね。

インド辺りのミュージカルと中東のベリーダンスとスペインのフラメンコを足して3で割ったら、アメノウズメの踊りになると見たこの人の直観は、それなり根拠があったということでしょうね。

 アメノウズメの踊りは、古代中東の音楽文化に遡れる。

やはり、そのようですね。

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巫女舞

古代日本において、祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神懸りの儀式のために行われた舞がもととなり、それが様式化して祈祷や奉納の舞となりました。

古神道においては、神を鎮める様々な行為がなされていました。

そのなかで特に、祈祷師や神職などが依り代となって、神を自らの身体に神を宿す、いわゆる神降しや神懸り(かみがかり)の儀式を巫(かんなぎ)といいました。

これを掌る女性が巫女の発生と考えられ、男性でその様な祭祀に仕える者は覡(げき)と称されます。

『魏志倭人伝』によると、「卑彌呼 事鬼道 能惑衆」つまり卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという記述があります。

この鬼道や惑の正確な意味や内容については不明ではあるものの、古代に呪術的な儀式が女性の手によって行われた事がうかがえるので、卑弥呼の時代まで巫女は遡れるのかも知れません。

巫女によって舞われる神楽の舞の一つが、神子舞とも記される巫女舞(みこまい)です。

 神楽には、必ずしも巫女によらない獅子舞や、曲独楽等の曲芸もありますね。

巫女舞は、神楽から始まったので、神子神楽(みこかぐら)とも呼ばれます。

巫女舞で舞う巫女を八乙女と呼ぶところから、八乙女舞(やおとめまい)と言われることもあります。

神子神楽という場合、神懸りや託宣の儀式の形式に則って回っては回り返すという動作を繰り返しながら舞うことなどでその身を清めてからその身に神を降すという、古代からの形態を残すところもあります。

現在では、八乙女舞という場合には、優雅な神楽歌にあわせた舞の優美さを重んじた舞をさす例が多いようです。

巫女舞では、千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が太鼓や笛を奏し、銅拍子(どびょうし)などの囃子にあわせて鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を手にした巫女が舞い踊ります。

五色の帯を用いることもあります。

また、関東地方の一部などでは巫女が仮面を嵌める場合もあります。

なお、銅拍子(どびょうし、あるいは、どうびょうし)は、打楽器の一つです。

銅鈸子(どうばつし)ともいいます。

中央が椀状に突起した青銅製の円盤2個を、両手に持って打ち合わせるものです。

仏教儀式では鐃鈸(にょうはち)、田楽では土拍子、神楽などでは手平金(てびらがね)、歌舞伎下座音楽ではチャッパなどと呼ばれます。

八乙女は、もとは、処女が舞を務めることになっていたが、近年では神職の妻女や老女が舞う場合もあります。

 本来、処女の巫女が舞うとされてきたことは、神子舞とも記されることと深く関わりそうですね。

神の子が巫女の体を借りて降臨し、臨在することが巫女舞であったから、神子神楽とも呼ばれるのでしょう。

 神子神楽のなかで八乙女に扮した処女の巫女が、神の子に神懸りして行ったのが巫女舞だったわけですね。

巫女舞の原点は、降神巫(こうしんふ)による神懸りの儀式にあったといわれています。

採物を手にした巫女がまず身を清めるための舞を舞い、続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞う。

やがてその旋回運動は激しくなり、しだいに巫女は一種のトランス状態に突入して神懸り、つまり憑依して、跳躍するに至って、神託を下すことになります。

舞という言葉はこの旋舞の動きが語源であり、跳躍を主とする踊りもここから生まれたとされます。

中国の巫覡の舞の基本を示した『八卦舞譜』には「陰陽を以て綱紀と為す」とあり、舞踏の動作は陰陽を意味する左旋と右盤を必須とすることが記されています。

それは太極図が表現する天地が、いまだ別れる以前の陰陽混然の姿を示しているとされます。

今日の巫女舞で、陰陽の象徴は扇です。

舞の最中、扇が開くか閉じるかで、陰陽を表すのです。

『古事記』・『日本書紀』において天岩屋戸の前で舞ったとされるアメノウズメの故事にその原型が見られ、その子孫とされた「猨女君」の女性達は代々神祇官の女官として神楽を奉納したとされています。

 アメノウズメの舞は、旋舞だったというのですか。

 以前、アメノウズメの舞はベリーダンスだったと言う議論だったと思いますけど。

ベリーダンスは腰の動きに注目が行きがちだけど、回転を意識した動きが多いし、全身で回る旋舞の要素も強いですよ。

それに、巫女の原点は蛇巫(へびふ)であったようです。

 そういえば、神の正体は蛇であったと言う伝承は多いですね。

あるいは蛇に姿を変えて、女性の元に来るという設定もありますね。

 蛇は、神の声を宿すことの象徴でしたね。

巫女舞の笹や五色の帯は、蛇の名残かもしれないですね。

 幣や榊も、可能性はありそうですね。

ベリーダンスでスネークアームという用語があります。

腕の動きを指す用語ですが、全身もまたしなやかにくねらせます。

 ベリーダンスは降神巫としての蛇巫の神懸りの舞が、原点であったから振り付けも、蛇を意識したものになった。

 女性の体のしなやかさや、曲線が際立つセクシーな動きに見えているから、気が付く人は少ないけど。

振付に、原点の動きが色濃く残っているのでしょうね。

 アマノウズメは、アマテラスに代わる太陽神が降臨したと見せかけるための舞を、行ったのですね。

だから、エロチックだったのでしょうね。

神の子を宿すわけだから。

 日本の巫女舞は、アメノウズメの舞のエロチックな要素を封印して、扇で仄めかすわけですね。

まさに、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」ですよ。

美しき処女たちの、エロチックさを極限まで封印した舞でかえって、彼女たちのうちから匂い立つ色香は、人々を魅了したということでしょう。

 そして、舞う巫女を見る人たちは、こんな気分だったとか。

 「しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」

『貞観儀式』に記される、平安時代の宮廷で舞われたとされる「猨女」・「御巫」はいずれも巫女舞であったと推定されています。

巫女舞の神社や神域以外で舞われるという要素は、やがて白拍子(しらびょうし)というもう一つの流れを生むことにもなるわけですね。

 天皇は太陽神天照の子孫とされるから、宮廷での舞も奉納という側面があったはずですが。

白拍子は、古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われていますから。

巫女が布教の行脚中に舞を披露してことが、白拍子の元になったと見られています。

白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種です

白拍子を演ずる芸人もまた、白拍子と呼ばれました。

主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいたようです。

素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指します。

 この、男性の白拍子がいたと言うあたり、男性のベリーダンサーがいたとされる歴史と似ていて興味深いですね。

複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」としていますね。

「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」と解説しているそうですよ。

白拍子は、男女問わずに舞われたものであったが、主として女性・子供が舞う事が多かったようです。

神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていました。

日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったとみられています。

先にも触れたように、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していったようです。

このような布教に歩いた巫女を渡り巫女とか、歩き巫女といいました。

渡り巫女は、祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女です。

その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団とされます。

旅回りや、定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではないので後に寺社の「お抱え」となる集団もありました。

渡り巫女は男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていました。

この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨(けい)をともにしたといわれます。

また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいました。

そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになりました。

白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさすという男装で歌や舞を披露しました。

伴奏には鼓、時には笛などを用いたそうです。

 歌舞伎の祖となった出雲阿国も、伝承によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれていますね。

巫女には、そういう伝統があるわけですね。

面白いことに、出雲阿国も、慶長8年(1603年)春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行ったが、 男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じるもので、京都で大変な人気を集めたといいますよ。

阿国一座が評判になるとこれを真似た芝居が遊女によって盛んに演じられるようになり、遊女歌舞伎となったそうです。

ただ、阿国自身には遊女になったと言う話はないようですね。

阿国は慶長12年(1613年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえ、没年も不明といいます。

このころの歌舞伎は、女性によるセクシャルなもので、儒学を重んじる徳川幕府などにより、女性による歌舞伎は禁止されました。

その後少年による歌舞伎が行われるようになるが、衆道、つまり男色も盛んに行われた時代でもあり、少年である役者に手を出すものも後を絶たず、今のような役者が全員成年男子で演じられる野郎歌舞伎にかわりました。

ついでにいうと、京都の芸妓や舞妓は、江戸時代に水茶屋の茶汲女(ちゃくみおんな)が歌舞伎芝居を真似て始めたと言うから巫女舞の系譜に繋がるともいえるが、派生した文化といえます。

 だから、茶屋なのですね。

白拍子に話を戻しますね。

白拍子は、後に、猿楽などへと変貌していきました。

 アマノウズメの舞に猿楽との類似が見えるという議論が出るのは、偶然ではなかったわけですね。

アマノウズメの方がはるかに早いので、猿楽の方こそ影響を受けた方の側ですけどね。

後に早歌(そうか)や曲舞(くせまい)などの起こる素地ともなりました。

早歌は、鎌倉時代に貴族・武士・僧侶の間に流行した歌謡で、特に、鎌倉武士に愛好されたました。

曲舞は、南北朝時代から室町時代に流行した芸能で、鼓に合わせて謡いつつ、扇を持って舞ったものです。

また延年(えんねん)にも取り入れられ、室町時代初期まで残ったのです。

延年は、寺院において大法会の後に僧侶や稚児によって演じられた日本の芸能です。

単独の芸能ではなく、舞楽や散楽、台詞のやりとりのある風流、郷土色の強い歌舞音曲や、猿楽、白拍子、小歌など、貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの総称です。

正確な起源は不明だが、平安時代中頃より行われたと言われています。

能の原型である猿楽との関連は深く、互いに影響を与えあったのは間違いないが、起源的にどちらが先かについては諸説あります。

謡曲『安宅』(あたか)には、登場人物の弁慶が踊る男舞として、延年の舞が踊られることがあります。

この『安宅』を原作とした歌舞伎十八番の『勧進帳』では、弁慶役が延年の舞を踊る場面が見せ場の一つとなっているのは歴史を考えると興味深いですね。

白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など貴紳に愛された白拍子も多いです。

また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多いです。

そうそう、巫女舞から白拍子が出た話から、大きく脱線したので本筋に戻りましょう。

『拾遺集』によれば、920年(延喜20年)に奈良の春日大社で「八乙女」と呼ばれる巫女達による神楽が舞われたと記録されています。

平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊である神楽はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記しています。

また、少し後の時代に属する『梁塵秘抄』にある「鈴はさや振る藤太巫女」にも鈴を持ちながら舞い踊る巫女が登場します。

中世以後各地の有力な神社では巫女舞が恒例となりました。

当時の巫女舞は旧来の神懸り的要素に加えて依頼者の現世利益を追求するための祈願を併せて目的としていたとされています。

また、地方では修験者と巫女が結びついて、祈祷や鎮魂を目的とする民間習俗の色彩が濃い巫女舞も行われるようになりました。

現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例があるのも、このことが基であると考えられます。

中世の巫女舞に関する多くの史料が残されている備前国(岡山県)一宮の吉備津彦神社の例では、1342年(康永元年/興国3年)作成の『一宮社法』によれば、12名の巫女からなる「神子座」があります。

神子座は、一宮の行事以外でも村々の招きに応じて神楽を舞い、逆に村々の巫女が一宮で舞う事がありました。

だが、1471年(文明3年)に作成された「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」によれば、巫女も宮神子から選抜される一神子と一般の宮神子、村方の神子に分類されたといいます。

託宣などの禁止はあったものの、一神子のみが本社で神楽を無言で舞うことが許され、宮神子は祈祷のみを許され、占い・託宣・湯立は脇殿で宮神子以外の者が行うことなどが定められて、神事に携わるものと託宣などを行うものが分離されるようになりました。

ところが、江戸時代後期に勃興した国学の中には、神霊の憑依などの霊的現象を淫祠邪教として否定的に捉える学説が現れるようになり、そのような民間習俗と結びつきやすい巫女そのものに対しても否定的な動きが出始めました。

例えば、寛文年間以後に吉田神道の影響によって巫女舞を廃する神社も現れたといいます。

近世は、巫女受難の時でした。

近世社会においては郷村から近世村落への変遷において、神社の庇護者であった在地土豪の消失や社地の縮小による経済的衰退、神主による神事の掌握などを事情に神子(みこ)は減少したのです。

また、近世社会においては名跡を継ぐことが許されるのは男性のみであったため、神子の多くは神子家を継承させるため夫を迎えていたといいます。

後、明治維新を迎え、国学的な神道観を基に神社祭祀制度の抜本的な見直しが為されたが、1873年(明治6年)には神霊の憑依などによって託宣を得る行為は教部省によって全面的に禁止されました。

これは巫女禁断令と通称されます。

禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女はほぼ廃業となったが、中には神社、或いは教派神道に所属することによって姿・形を変えて活動を続ける者もいました。

ほかにも、神職の補助的な立場で巫女を雇用する神社が出始めました。

春日大社の富田光美らが、巫女の神道における重要性を唱えて巫女舞の存続を訴えると同時に八乙女と呼ばれる巫女達の舞をより洗練させて芸術性を高める事によって巫女及び巫女舞の復興に尽くしたことも挙げて良いでしょう。

また、宮内省の楽師であった多忠朝は神社祭祀に於ける日本神話に基づく神楽舞の重要性を主張し、それが認められる形で浦安の舞を制作したといいます。

これが今日見られるような巫女舞になっていくが、依然として「神懸り」の系統を受け継いだ古い形の巫女舞を残している神社も僅かながら存在しています。

その一方で、島根県松江市の佐太神社のように男性神職が女装して姫面を付けて巫女舞を踊る神社も存在しています。

 歴史的にみると、巫女は今の姿からは想像できないけど、日本の魔女とでもいうべき存在だったということですね。

仏教は日本では、伝統宗教である神道と習合したので、キリスト教社会の魔女のようなアンダーグラウンドな存在ではなかったわけですけどね。

 もちろん、天下公認の巫女と民間のアンダーグラウンド文化ともいうべき魔女とは社会での位置付けが違います。

 でも、やっていたことは、奇妙なほど似てませんか。

江戸後期から明治初期にかけて、日本の巫女にもアンダーグラウンド化の危機があったわけですからね。

 淫祠邪教扱いなど、巫女と魔女の共通点でしょ。

淫祠邪教扱いは、巫女も魔女も、とんだ言い掛かりですよ。

陰陽の持つ、男性原理と女性原理という性的教義の側面が、こういう誤解を生んだと言えるでしょう。

 そういえば、魔女の背景にも陰陽に似た思想や文化が見えましたね。

それにしても、巫女と巫女舞の周辺には面白いことが多いですね。

 八乙女の、八(や)は、何でしょうね。

 処女で「や」で神懸かりとくれば、「や」を「ヤハウエ」の「ヤー」と見れば、イエスの母のマリアを連想しますけど。

確かに、神社や神道で聖書やキリスト教が連想できる事が多いことを想えば面白いですね。

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サークルダンス

集団で踊る場合、いろんなパターンがあります。

 ショーとして踊る場合もありますね。

今は、自分たちの楽しみとして踊る場合を、考えます。

社交ダンスのように、ペアを男女で組んで一定の様式で踊る。

もっとも、民族によっては、男女がペアを組まない場合もあるようです。

盆踊りのように、列を組んで踊る。

列を組んで踊る場合でも、一列に並んでその場で躍る場合もあれば、行列を組んで行進する場合もあります。

 行進の典型例は、カーニバルのパレードですね。

列を組んで踊る場合には、輪になって回る場合もあります。

今回は、輪になって踊る場合を考えてみたいです。

 輪になって踊るっていうと、「アヴィニョンの橋の上で」という歌がありますね。

「アヴィニョンの橋の上で」は、1501年に出版された最古の楽譜 『オデガドン』 に収載されているそうです。

もっとも古いシャンソン・フォルクロリック、つまり民謡で、有名な割に、作者はわかっていません。

この歌にあるアヴィニョン橋は、フランス南西部、プロヴァンス地方のローヌ河に面した古都であるアヴィニヨンに12世紀ごろかけられた石造りのサン・ベネセ橋のことだといわれます。

サン・ベネセ橋は、昔、羊飼いベネセが受けたお告げにより着工され、8年がかりで全長900メートル、22のアーチに支えられた橋が完成しました。

この「アヴィニョンの橋の上で」という歌は、橋が完成したとき、人々が歌って踊って喜びあったといわれています。

歌詞には橋の上でとあるが、橋の上は狭く、実際に人々が踊ったのは橋の下だったそうです。

17世紀後半の洪水で途中で切れてしまい、対岸に渡ることができなくなりました。

それでも、 フランス革命記念日である7月14日になると、現在でも、お祭りの夜には、人々が橋の下で踊り楽しみ、中世の面影を残しています。

 直しもしないが、壊しもしない。

 思い入れはあるが、狭いから直してまで使おうとは、思わないのですかね。

昔の作り方だから、わざわざ作り直しても、その技術はほかに使いようがないでしょうね。

今では喜びの表現や娯楽となった踊りも、もともとは神前奉納だったはずです。

回りながら踊ると言う点では、イスラム神秘主義の旋回舞踊として知られるトルコのスーフィーダンスのようなものもあります。

 円には、始めも終わりもないということから、無限の象徴という意味合いもありそうですね。

実際、輪である指輪には、神秘の力が宿るとした設定の物語はヨーロッパ文化圏にありますね。

 そういえば、婚約指輪には、宝石がない場合も多いですね。

 求婚で贈る場合には、多少奮発して宝石がついていることの方が多いのに。

終生変わらぬ愛の誓いを交わした証が、婚約指輪の本来の意味ですからね。

輪になって踊る様式は、日本では輪踊り、ヨーロッパ文化圏ではサークルダンスとして知られます。

輪になって踊る様式の歴史は、かなり古いようです。

 魔女の踊りなども、キリスト教によって悪魔に貶められた古くからの民族の神と輪になって踊る姿はしばしば描かれるようですね。

 悪魔は、魔女たちの踊りの中心に描かれることもあるような。

 それも、時代を遡るほど魔女の輪になって踊る絵は多い気がします。

輪になって踊る形式は、踊りの中でも最古である可能性も指摘されますからね。

古代ギリシャ、アフリカ 、東欧、 イスラエル、南スラブ 、アイルランドのケルト人、ブルトン、カタロニア(サルダーナ)、南アメリカや北アメリカインディアンなど、広範囲にみられるようです。

ちなみに、ブルトンとはフランス北西部のブルターニュ地方で使われているケルト系言語です。

ブルトンは大陸系のケルト語のゴール語ではなく、島嶼ケルト語に分類されます。

コーンウォール語やウェールズ語と近く、5世紀から6世紀にかけてブリテン島から流入しました。

 こうやって見ると、日本人のルーツを考える際に登場してくる地域が多いですね。

東欧も、ハンガリーのように日本に親近感を持つ国がありますからね。

 日本の盆踊りの輪踊りも加えると、中東から地中海世界やヨーロッパを巡りアメリカを経由した西回りのルートの存在が、浮き上がってきますね。

あるアフリカ人など、アフリカ的と思った名前が日本からも多く見つかって驚いていますからね。

 古代アメリカの、オルメカ文明の遺物である人頭彫刻など、一見アフリカ人風だけど、むしろ、南太平洋の人々に近く、日本でも似た顔の人いますからね。

文化の比較は、面白いことが見えて来ますね。

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カーニバルと盆踊り?

謝肉祭と訳されることの多いカーニバルは、もともとカトリックなど西方教会の文化圏で見られる、四旬節の前に行われる通俗的な節期です。

謝肉祭は、各国で次のように呼ばれます。

英語ではカーニヴァル(Carnival)

ドイツ語ではカーネヴァル(Karneval)、ファシング(Fasching)、ファストナハト(Fastnacht)

スペイン語ではカルナバル(carnaval)

イタリア語ではカルネヴァーレ(carnevale)

フランス語ではカルナヴァル(carnaval)

ポルトガル語ではカルナヴァウ(carnaval)

ハンガリー語ではファルシャング(farsang)

ポーランド語ではカルナヴァウ(Karnawał)

アイスランド語ではキョトクエズユハウティド(kjötkveðjuhátíð)

四旬とはもともとは40日のことだが、日曜日を除いて40日を数えるので、日曜日をくわえると実際は46日となります。

日曜日はイエスの復活を記念する喜びの日なので、四旬節の40日にはカウントされないのです。

四旬節は、カトリック教会などの西方教会において、復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間のことです。

なお、聖公会では「大斎節」と呼び、プロテスタントの教派によっては「受難節」と呼ぶこともあります。

四旬節では伝統的に食事の節制と祝宴の自粛が行われ、償いの業が奨励されてきました。

伝統的に、四旬節の節制は、祈り、断食、慈善の3点を通じた悔い改めの表明と解されます。

現在の多くの西方教会の教派では、神に対しての祈り、自分自身に対しての節制、さらに他人に対する慈善の3つが四旬節の精神であるとして教えられています。

もちろん、伝統的な考え方を否定するわけではないといいます。

現在でも一部の信徒たちが娯楽の自粛や慈善活動への積極的な参加を行っているそうです。

一方、東方教会の諸教派では、現在も、慈善の奨励や四旬節に固有な悔い改めを促す種々の祈りとともに厳格な食事の節制が行われます。

四旬節の日は、年によって一定ではありません。

復活祭は3月22日から4月25日のいずれかの日曜日なので、四旬節は2月4日から3月10日のいずれかの日に始まるのです。

四旬節は、正教会の「大斎(おおものいみ)」に相当します。

もっとも、正教会における大斎の始まりは、日曜日日没であることや、東方教会の復活祭の日付は西方教会と必ずしも一致しません。

ちなみに、教会暦は日没を一日の境目と捉えます。

そこで、日曜日日没から月曜日と数えるのです。

大斎と四旬節は、年によって1週から5週ほどのずれを生じていることなどにより、期間には相違がでてしまうのです。

 40は聖書では、ノアの洪水や、出エジプト、イエスの断食などで出てくる数字ですね。

四旬節の語源は、ラテン語の40を意味するクアドラゲシマで、元は初代教会で復活祭前に行っていた40時間の断食の事だったと言います。

四旬節は本来、復活祭に洗礼を受ける求道者のために設けられた期間だったのです。

復活徹夜祭には成人の洗礼を行うのが初代教会以来の慣習であり、受洗者たちも初聖体に備えて40時間断食を行っていました。

後に、聖金曜日から復活祭までとされたこの40時間は、6日間に延ばされ、さらに延びて6週間の洗礼準備が行われるようになったようです。

4世紀の終り頃のエルサレムでは復活祭前の7週間、毎週3時間の受洗準備が行われていたという記録があるそうです。

4世紀に入ってキリスト教が公認されると、受洗者の数が激増したため、従来、求道者のみに課していた復活祭前の節制の期間を全信徒に対して求めるようになったわけです。

これが四旬節の起源とされます。

四旬節中には厳格な断食をなすという習慣は、古代末期から中世にかけて確立したそうです。

肉はもちろん卵、乳製品の摂取が禁じられており、一日一度しか十分な食事を摂ることができないとされました。

 その四旬節の前の行事だから、カーニバルは謝肉祭と訳される。

そうなるでしょうね。

今日では、社会の変化により、西方教会においてはそのような厳格な実施は求められていないようです。

現代のカトリック教会における四旬節中の節制は、以下のようなものといいます。

まず、教会法1251条によって対象となるのは、18歳から60歳までの健康な信徒である。

教会法1253条は大斎の実施については各国の司教団の決定に従うよう書かれている。

基本的には大斎の日には一日一度十分な食事をとり、あとの2回は僅かに抑える。

大斎の日には肉を摂らないという小斎も同時に行われる。

現行のカトリック教会法では、毎週金曜日と灰の水曜日や聖金曜日に小斎を行うというのが基本的な形式だそうです。

カーニバルの語源は、一説によるとに13世紀のイタリア語などラテン系言語の「肉よ、お別れじゃ」という意味のカルネ・ウァレ(carne vale)に由来するといわれます。

ドイツ語のファストナハトなどは「断食の前夜」の意で、大斎である四旬節の断食の前に行われる祭りであることを意味します。

別の説には、謝肉祭は古いゲルマン人の春の到来を喜ぶ祭りがキリスト教の中に入ってきたと見るものもあります。

ゲルマンの農耕祭に登場する船を仮装した山車carrus navalis(車・船の意)が、カーニバルの語源と見るわけです。

もちろん、断食の前という意味の方が古いという研究者もいます。

ゲルマンの祭りが入ってきた当初は、一週間教会の内外で羽目を外した祝祭を繰り返し、その最後に自分たちの狼藉ぶりの責任を大きな藁人形に転嫁して、それを火あぶりにして祭りは閉幕するというのがその原初的なかたちであったそうです。

 今でも、大きな人形を燃やす祭りはヨーロッパにありますね。

 日本人にもゲルマンの血が入っていると言う人はいるけど、中に明かりを灯す、ねぶたやねぷたの人を描いた大きな山車は、時期は違うけど燃やす人形と起源は似ていますかね。

 ヨーロッパには、なまはげに似た風習もあるし、日本にもハロウィンを連想できる行事があるでしょ。

確かに、行列型盆踊りとカーニバルは、奇妙なほど雰囲気は似ているのですよ。

 目的が違うから、あまり比較されてこなかったけど。

祭りは本来、霊的な世界との交流や交信としてなされてきたことを想えば、時期や表面的な目的の差にとらわれると本質的な類似が見えなくなる点を見落としてしまうでしょうね。

 目的の違いも、無視してはいけないけれど。

仮装したパレードが行なわれたり、菓子を投げる行事などが行なわれてきたことから、現代では宗教的な背景のない単なる祝祭をもカーニバルと称することが少なくないようですからね。

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輪踊り

集団で踊る様式の一つに、輪踊りがあります。

 輪踊りと、日本でいえば、連想するのは盆踊りですね。

 盆踊りと言えば、行列型や行進型と呼ばれる、阿波踊りやおわら風の盆などもありますね。

この行進型や行列型は、一方向に進んで戻ってこない場合を言うべきで、道路の端で折り返して回ってくる場合は輪踊りの一種と見るべきという意見もありますけどね。

阿波踊りにも小さな踊りの輪が出来ろことが多く、この小さな踊りの輪も輪踊りと呼ばれます。

興味深いことに、行進型の典型として知られる阿波踊りやおわら風の盆は、いずれも笠踊りでもあります。

 そういえば、笠踊りで輪踊りはあまり聞かないですね。

被る笠ではなく、差す傘を持って踊る傘踊りもまた、行列型や行進型が多いです。

笠や傘を持って踊る起源は、おそらく風流踊り(ふりゅうおどり)でしょう。

風流踊りとは、15世紀から16世紀にかけて全国で踊られた芸能です。

お盆に踊られるため、事実上の盆踊りであったといえます。

事実上というのは、盆踊りとは呼ばれていなかったからです。

風流踊りという呼び名も、学術用語です。

当時は、盆の躍りとか盆の風流などと呼ばれていました。

風流踊りは、風流拍子物の造り物を中心の中踊りに取り入れ、外側に側踊り(がわおどり)と呼ぶ輪踊りを伴いました。

おわら風の盆などは、この盆の風流がおそらく語源でしょう。

風流踊りは、16世紀には、京都で盛んに催行されたといいます。

特に経済力を蓄えて勃興した京の町衆が、風流踊りの大きな担い手となりました。

豊後大友氏、阿波三好氏など有力な戦国大名が風流踊りを城下に招聘し、地方への風流踊り伝播に一役買ったそうです。

風流踊りは安土桃山時代にいよいよ盛んになり、その様子はいくつかの「洛中洛外図」にいきいきと描かれています。

豊臣秀吉の追悼となる豊国廟祭礼の際にピークを迎え、江戸時代になると衰えました。

実はこの風流踊りに、笠踊りや傘踊りの起源をみることができるようです、

かつて風流踊りでは、輪踊りの中心に中踊りがあり、風流拍子物の造り物を取り入れていました。

その風流拍子物とは、霊の依り代となる笠や造り物でした。

その後音頭が中心に立つようになっても、臼や笠などの依り代が併置されることが多かったのです。

今では、輪踊りの中心には音頭や囃子の乗る踊り櫓が位置することが多くなっています。

さらに、娯楽の要素が強まり、宗教的意味合いは薄れています。

輪踊りでは廃れていった風流拍子物の系譜は、行列型や行進型の踊りに引き継がれていったようです。

 そういえば、行列型や行進型のほとんどは、笠や傘、あるいは何らかの山車などを伴いますね。

行列型や行進型は、むしろ、カーニバルに近いと言えるかもしれません。

 盆の躍りとも、風流踊りは呼ばれていた。

 そういえば、行進型には躍動感を感じることが多いですね。

 行進躍りとか、行列躍りとか、記したくなる。

ねぶたの跳人(はねと)など、まさにそうでしょ、

一方、輪踊りはサークルダンスの系譜に属する可能性が高いと言えます。

 風流踊りが、輪踊りと行進型に分裂していったのは、もともと起源を異にする踊りの混合だったから。

そうかも知れません。

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