民俗

熊野の海洋民族も沖縄の民もどこから来た。

熊野の地にいた海洋民族は、故地を海のかなたと見ていたと言う。
その方向は東方であり沖縄でも故地を東方としていることを思えば、熊野の海洋民族も沖縄の民も同じ方向に故地を見ていることにことになる。
そこにあるのは、アメリカ大陸だ。
熊野の海洋民族も沖縄の民も、アメリカ大陸から来たのだろうか。
だが、羽衣伝説はアジアにもあり熊野などの海洋民族はアジアから来たのではと言う説もある。
アメリカ大陸で、羽衣伝説はあるのだろうか。
やはり、沖縄と熊野はルーツの地は違うのか。
謎が多い。
それでいて、沖縄とウタキと呼ばれる祭祀場の文化を共有している。
海沿いに沖縄から来たとしたら、熊野などの海洋民族も沖縄の民もルーツは同じ可能性を見ていいとなる。
羽衣伝説はフランスやカナダや南米のガイアナにもあり、羽衣伝説を共有しているからとアジアばかりにこだわると本来の姿の姿を見失う。
やはり、最初の直感である熊野などの海洋民族と沖縄の民の共通のルーツをアメリカ大陸に見ると言う見方を追求してみるか。

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三星堆と日本はつながるのか。

1986年に中国の四川省徳陽市広漢県の三星堆で発見された三星堆遺跡は、長江文明に属する古代中国の遺跡の一つである。

三星堆遺跡とその文化は紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属し、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである。

 

三星堆を営んでいた人達の祖先は、治水の道具として竹籠石を用いているが日本にも竹籠龍と呼ばれるそっくりなものがある。

彼らは鵜飼の風習を持っていたが、日本にも鵜飼の風習がある。

鬼や邪鬼を払う曹がい(「がい」は羊と皿を縦に合わせた文字)と言う面を作るが、どこか鬼瓦を連想出来る。

十日神話と言う十の太陽が十羽の鳥に運ばれる神話を、三星堆を営んでいた人達は持っていた。

日本で神への奉納舞に使われる伝統的な衣装も、鳥の装飾がある。

神聖な木の思想も、御神木を思わせる。

西に若木と東に扶桑の神樹を配するのも、鹿の角を神樹に見立て神獣にしたことが連想出来る。

 

三星堆と日本のつながり、何かありそうだ。

気になる。

 

十日神話では十羽の鳥が十の太陽を運ぶとされるが、古代エジプトでは太陽の船の先頭に鳥が乗る。

十羽の鳥は十の枝の神樹にとまるが、この神樹は恐らく西方の世界樹や宇宙樹や生命の樹に連なる。

そして生命の樹は、メノラーと言う聖なる燭台にも連なる。

そして蜀の地に住むのは、偶然ではない。

三星堆では、太陽神の目をかたどる遺物が見られる。

 

古代エジプトでも、ホルスの目が作られている。

太陽と月は古代エジプトでは非常に古い時代から、ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神ホルスの左右それぞれの目と考えられてきた。

やがて二つの目は区別され、左目である「ウアジェト(ウジャト)の目」は月の象徴、右目である「ラーの目」は太陽の象徴とされた。

 

三星堆の太陽神の目は、この太陽神ラーの目を連想させる。

 

そして蜀の字は、ウアジェトの目を連想させる。

ウアジェトは、コブラの姿、あるいは、頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる、下エジプトの守護女神である。

蜀の字は、頭をもたげたウアジェトをかたどったように見えるのだ。

蛇の神聖視は、日本の文化にもある。

しめ縄は、日本神話の天岩戸隠れがはじまりといわれている。

神話では、「尻久米縄(しりくめなわ)」と呼ばれていた。

この他にもしめ縄に使われた漢字も何通りかあり、蛇が関わっている説もある。

さらに古く格式の高い神社には、その御神体や神様そのものが蛇だという「蛇神」が多く存在している。

偶然だろうか。

三星堆の表現様式は、古代の西方から来たとしか言えない。

シュメールの文物を連想出来るところさえあり、彼らの文化の起源を示唆している。

指導者のシンボルの杖も、遊牧民を連想出来る。

何か、匂う。

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粘り強く対話するのが平和への一番の近道だ。

アセアンとヨーロッパの差は、地域の大国と周辺諸国との歴史的な関係の違いがありそうだ。
アジアでは古代から地域の大国である中国と周辺諸国は華夷秩序が作られていたが、ヨーロッパでのロシアは祖国防衛の戦いを通じて大国になったので常に周辺諸国とは緊張関係があったのではないか。

中国の文化や文明は交流の中で育まれ、一定の基準ができたら今度は継承と発展の段階をたどっている。

それは王朝が交代しても続いているが、支配の正当性を主張する手段としてつかわれるからだ。

中原の文化的な優越が、やがて周辺諸国との華夷秩序となっている。

それに対して、ロシアの大国への道は覇権のためと言うよりは防衛線を少しでも遠方に設定することが目的になっている。

周辺諸国との距離を取ることが、安心と安全の確保につながるからだ。

それで、確保した地域の離反には常に警戒をすることになる。

何としてでも、獲得した地域は領土にとどめておきたいのだ。

その結果、これらの地域の動きには神経質にならざるを得ない。

ロシアが常に周辺諸国を軍事行動で威嚇や牽制をするのは、周辺諸国との信頼関係がちゃんと作られてこなかったからだ。
まずは、アセアンを見習って対話の習慣つくりを粘り強く進めるしかないのではないか。

相互の理解には時間がかかるのだから、まずは対話の習慣を根付かせる取り組みを粘り強く続けるしかない。
それには、敵意のないことを態度で示すしかない。
だから、握手やハグなどの挨拶のやり方が生まれたのだ。

まずは、周辺諸国の側からロシアとの信頼関係を築く根気強いアプローチが必要なのだ。

手始めに、ロシアの言い分にじっくりと耳を傾けるところから始めるしかない。

辛抱強く、ひたすら聞くのだ。

どうすればいいのか、ロシアが自分で気が付くまでね。

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陰陽だけで説明していいですか。

七支刀も蛇行剣も祭祀に使われたのは明らかだけど、問題はどういう理由が考えられるかだ。
恐らく、陰陽思想が関係あるだろうがそれだけではない。
七支刀の七は、まず思い浮かぶのが北斗七星だ。
北斗七星は中国で「天帝の乗る車であり、四方を司る神」とされそこから発展して、北斗七星は人々の長寿や豊かさを司ると考えられた。
陰陽道でもその考えを取り入れ、「属星祭」という祭として北斗七星に対する信仰が行われるようになる。
蛇行剣は、蛇をその長さから息や声の象徴としてとらえて神の言葉を地上におろす儀式に使われたのかもしれない。
陰陽が表の顔とすれば、裏の顔がカッバーラとの関わりだ。
七支刀はその形からメノラーの変形の可能性があるし、蛇行剣も聖書の癒しの青銅の蛇と関わりを疑ってもいいかもしれない。
何しろ日本の文化は一皮むけば、聖書を連想出来るものがいろいろあるという指摘もある。
イスラエルで失われた十支族を探している組織があるが、シルクロードに沿って分布しているという。
その東の端に、日本がある。
失われた十支族の大半が、日本にきたかもしれないという声もある。
あなたはどう見るか。

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フランス革命の「自由・平等・友愛」と政教分離の正体。

「自由、平等、友愛(博愛)」はフランス語のLiberté, Égalité, Fraternité «リベルテ、エガリテ、フラテルニテ»の訳だが、友愛とも博愛とも訳されるFraternité≪フラテルニテ≫の元の意味は兄弟愛や男性共同体の意味なのです。

つまり、フランス革命の「自由、平等、友愛(博愛)」の正体とは、男性の自由と平等な共同体となるわけですね。

一方で女性は、家庭を守る存在とされたのです。

フランスの政教分離とは、公的な空間の俗世に生きる男性と私的な空間の宗教生活を担う女性の分離でもありました。

男女とも衣装などで宗教色の薄いフランスの中に、スカーフの当たり前なイスラム圏の女性が入り込んだ結果この壁が揺らぎだしたのです。

欧州だって女性のスカーフが当たり前な文化が、あったのにです。

フランスの政教分離は公的な空間の俗世に生きる男性と私的な空間の宗教生活を担う女性の分離でもあった以上、女性の社会進出とともにとっくの昔に揺らぎ出さないとおかしかったのです。

どの社会での女性の社会進出も、女性の男性社会への順化強制の歴史であってフランスも例外ではなかったのだと見て良いでしょう。

フランスでのムハンマドの風刺漫画が引き起こした軋轢も、ある意味フランスにおける政教分離の原則を揺るがした事件と言えるのです。

私的空間の宗教の担い手女性の社会進出とともに揺るがなければおかしかった杓子定規な政教分離の柔軟な運用を先送りしたつけを、今フランスは払っていると見て良いでしょう。

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猫は侮れません。

今回は、ちょっと寄り道です。
興味のある方だけ、どうぞ。
欧米で猫をイエスのメタファーと見る文化があるのを、ご存知でしょうか。
Jesus cat で検索すると結構色々出てきます。
メタファーとは、あるものの性質を丸ごと使って例える事です。
古代エジプトで猫は、様々な形で最高神とされた太陽神ラーと結び付けられました。
聖書の神エロヒムのヘブライ語の綴りはアラーとも読めますが、コーランではアラーは唯一神とされます。
これ、偶然でしょうか。
ちなみにイスラム圏で猫は大事にされるが、ムハンマドが大のネコ好きだっだからだそうです。
それはさておき、聖書での犬に関する記述は芳しくないものが多いのにお気付きでしょうか。
イエスのメタファーが猫なら、御父は親猫って事になりませんか。
そう思って読むと、なるほどねと妙に頷きそうになります。
口語訳聖書を使っている皆さんは知らないでしょうけど、聖書協会から出ている共同訳や新共同訳には旧約聖書続編として「エレミヤの手紙」が収録されています。
その中で猫は、「猫さえ」「猫まで」と記されます。
事態の及ぶ範囲がある限界にまで達することを表すのが、「さえ」や「まで」です。
偶像崇拝の場に様々な動物が登場しますが、その最高位として猫が現れるのです。
旧約聖書続編扱いという事は、この文章の時点ではイエスはまだ明かされていないでしょうから「神の言葉としての」つまり預言者としてのイエスのメタファーとなるでしょう。
もちろん、このイエスの代理に成りすました猫は偽預言者となるでしょうが最高位の預言者の成りすましである点に注目です。
黙示録には獣とありますが、その獣はイエスに匹敵する大預言者に成りすましたとんでもない輩です。
エレミヤの手紙に出てくる獣は皆、メタファーです。
黙示録の偶像崇拝の場面は、ひょっとしたらこんな光景なんでしょうか。
お暇な方や、興味のある方は、図書館やネットで「エレミヤの手紙」読んでみてください。
短いので、すぐ読めます。

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聖書が欧米人の例えの大半のネタになったわけを考えて見た。

欧米人の例えの元ネタの大半は、聖書です。

誰もが確実に知っている書は聖書なので、共通な例えは必然的にそうなるのです。

キリスト教を国教化したローマ帝国の文化圏に、周辺諸国が次々と改宗して加わり今に至っているからです。

だから聖書を知らないと、欧米人の例えはわからないのです。

ヨーロッパで印刷術が生まれた時、真っ先に大量印刷されたのが聖書です。

ヨーロッパの一般庶民にとっての書物は、聖書から始まっていると言っても言い過ぎじゃないのです。

bibleの意味はthe bookだが、当時の庶民にとっては聖書はまさにthe bookだったと言えるでしょう。

ちなみにbibleの語源は、実はギリシャ語の「biblia(ビブリア)」からきているとされています。

biblia」は、パルピスという植物の茎の内皮を意味する「biblos(ビブロス)」の複数形の言葉です。

パルピスは紙の原料であることから、「biblia」は小冊子や本の一部といった意味で使われました。

神の言葉を収めた聖書はまさに書物の中の書物として、the bookと言う思いを込めてbibleと呼ばれたのでしょう。

聖書はユダヤ教やキリスト教で聖典とされているが、決して堅苦しい書ではないのです。

読み物として楽しんでも、盛りだくさんな読み応えたっぷりな書なのです。

物語、歌、教訓、いろいろあって飽きないですしね。

庶民はありがたい聖典としてより、通俗読み物として楽しんだのではないでしょうか。

大量印刷された書物の最初が聖書で庶民にとっての読み物はこれしかないわけだから、いやおうなしに共通の話題のネタも聖書になるわけでしょ。

聖書が欧米人の例えのネタで大半になっても、実は何の不思議もないわけですね。

だったら聖書がありがたい聖典だと構えないで気楽に娯楽書として楽しんで、似たもの探しを面白がればそれでいいのではないでしょうか。

信仰の書になるかどうかは、その人が決めたらそれでいいのではないでしょうか。

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情は人のためならずならなんのため?自分のためですよ。

一人で産んで様々な問題に直面するたびに女性の事ばかり取り上げられるが、子どもは父親がいないと生まれないはずです。

その子には、両親が連帯責任を負うべきはず。 何が何でも父親も探し出して、連帯責任を問う方が良いのではないでしょうか。

こういう事態を防ぐための教育は、どうあるべきか全ての人が考えないといけない問題ではないでしょうか。

望まないタイミングで母親にならない権利が女性にあるなら、男性にも望まないタイミングで父親にならない権利があるはずではないでしょうか。

望まないタイミングで父親や母親にならない権利を行使したいなら、避妊をちゃんとやれよって話ではないでしょうか。

そう言う話を真正面からする教育、学校と親と社会が一緒になってやった方が良いのではないでしょうか。

そんなこと、自分で考えろとか、寝た子を起こすなとか、逃げ回ってきた結果が一人で悩みを抱える女性を何人作ってきたのでしょう。

もう、逃げないでちゃんとこの問題に向き合った方が良いのではないでしょうか。

そうしないと、少子化の問題だって解決しないのではないでしょうか。

違うでしょうか。

それはあなたの考えだから私におしつけるな、そう反発する人もいるでしょうね。

ならば、あなたの意見を聞かせてください。

こういう話題を、私達は取り上げて語り合う場を作ってきたでしょうか。

私だって人の生き方に干渉したくないし、私も干渉されたくありません。

だけど、たった一人で子どもと向き合わされて様々な悩みを抱える女性が多くないですか。

子育ての問題から望まないタイミングでしてしまった妊娠の問題まで、一人で抱えて悩んでいる女性が多くないですか。

そう言うと、甘えるな男だってみんな一人で悩んでいるんだと応える人もいるでしょうね。

確かに、相談されたってどうしろと言うと私も思います。

でも、その人達の話を聞いて気持ちを落ち着かせてあげるくらいならできるかもしれません。

問題によっては、解決のために助けになる人を一緒に探す手助けするくらいならできるかもしれません。

自助や共助ではだめで、公助を求める場合もあるでしょう。

なにか、助けになるものはあるはずです。

もし助けになるものがないなら、作っていきましょう。

誰かのためにではなく、いつかその仕組みのお世話になるかもしれない自分のためにです。

悩みを抱えるのは誰だって同じだって言うなら、誰もが抱えた悩みを誰かに聞いてもらえる社会を作りましょう。

困った時はお互い様、違いますか。

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力士は古代メソポタミアからのメッセンジャーなのでしょうか。

古代メソポタミアに始まる相撲は、西方へはレスリングとなって伝わるが、東方へは相撲として伝わるのです。

もっとも南アジアへは、ムエタイなどのように独特な展開をしています。

アジアへは相撲として伝わると言っても、大陸ではモンゴル相撲などのようにメソポタミアの原型から離れた様式になっております。

メソポタミアの原型を最もよく伝えるのは、日本の相撲です。

回しをつけ髷を結っている姿は、メソポタミアの時代からほとんど変わらないのです。

力士の髷は大銀杏(おおいちょう)と呼ばれるが、形が似ているからそう呼ばれるだけです。

ならば力士の髷は、古代メソポタミアでは何を表しているのでしょう。

回しが蛇の目の象徴と見れば、髷は蛇を表しているのかもしれません。

二人の力士は、一対の蛇の象徴なのでしょうか。

四角い土俵に丸が俵で表現されているのは、陰陽の地と天に対応すると解釈できます。

俵の丸は蛇の目とも、されています。

そうなりますと、二人の力士は絡まり合う蛇の象徴となります。

四角い土俵と丸い蛇の目を、それぞれ定規とコンパスと見たらどうなるでしょう。

陰陽に対応している西と東に配される二人の力士は、女媧と伏羲に対応しているのでしょうか。

面白いのは、イザナミとイザナギの「ナミ」と「ナギ」は蛇を表す「ナーガ」の転訛と見る解釈がある事です。

イザナミとイザナギを女媧と伏羲と見れば、二人の力士は女媧と伏羲になぞらえてもいいのでしょうか。

土俵とは、女媧と伏羲としてのイザナミとイザナギを祀る社(やしろ)なのでしょうか。

この解釈を逆にメソポタミアの方にもっていって良いとするなら、古代メソポタミアの力士達もまた女媧と伏羲の象徴だったのでしょうか。

女媧と伏羲のルーツもまた、中東に遡れるのですから。

相撲とは、イザナミとイザナギによって日本の国が始まったと今の私達に伝える神事なのでしょうか。

そしてまた、日本のルーツは中東にあると言いたいのでしょうか。

相撲の奥は、まだまだ深そうです。

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ミソジニーとは何か、どうしたら乗り越えられるのか、考えてみた。

ミソジニーは克服されなければならない、悪しき古い習慣です。

克服のために多数派になりたいなら、どうしたらよいのでしょう。

ミソジニーは、女性に対する蔑視を表現する言葉として理解されるようですが、一筋縄ではいかないのです。

しばしば、女性の重用としても、あらわれるからです。

女性の蔑視と重用、一見すると矛盾しているように思えます。

ところが家父長制の中では、矛盾しないのです。

「父権制」とも言われる「家父長制(かふちょうせい)」は、家長権(家族と家族員に対する統率権)が男性たる家父長に集中している家族の形態です

古代ローマにその典型を見ることができるが、日本の多くの組織や集団にも根強く残って、ミソジニーやセクハラなど否定的現象を引き起こしているのです。

「ミソジニー」とは、「家父長制」に対して女性が結束しないように分断を持ち込む行為なのです。

家父長制は女性に対する男性の上位を、意味します。

けれど、男性の中にも上下があり、男性の多数もまた家父長への服従を求められているのです。

女性はこの秩序の中で重用されたいならば、家父長への忠誠を示さなければなりません。

家父長への忠誠を示すなら、女性であっても優遇される立場になれるのです。

だが、優遇されたように見える女性と言えども男性への服従を強いられた立場には違いないのです。

彼女達もまた、さりげなく不満を聞き出して反乱予備軍に巧みに引き入れるべき存在であるのです。

一握りの人達による家父長的支配に対する男性達の不満もまた、どんどん聞き出して彼らをミソジニーとの戦いの味方に引き入れるべきです。

心から同情されて裏切り者になる人は、少ないのです。

何か家父長制に対する不満があるか問うのではなく、労いの言葉で自尊心を尊重するのが良いでしょう。

服従を強いられた人々は、知らず知らずのうちに卑屈な気持ちになっているからです。

その卑屈な気持ちを、謙遜だと思い込んで何とかして自尊心を満足させようとしているのです。

その偽りの自尊心を、心からの自尊心に変えてもらう手間はかかるが大切な行為です。

何度か繰り返して信頼されるなら、本音は当人の口から自然と出て来るものです。

粘り強く不満をさりげなく聞き出して一人一人順繰りに味方につけ、満を持して行動に出た方が良いでしょう。

身近な集団や組織から、変えていきましょう。

家父長制的支配の中で沈黙や服従を強いられた男性の不満のはけ口として、女性は位置付けられてきたのです。

ミソジニーと戦うなら、沈黙や服従を強いられた男性達は味方にするべき人々なのです。

政治は力関係で決まり力関係は数で決まるから、ここは絶対に抑えるべき要点です。

「ミソジニー」と効果的に戦いたいと思っている人達は、「ミソジニー」と「家父長制」との関連をちゃんとつかんだ方が良いでしょう。

「家父長制」の下で若さや経験不足などを理由に沈黙と服従を強いられている男性との共同や協力が、絶対に必要になるからです。

家父長制の犠牲者が、性別を超えて協力し共同してこそ、ミソジニーは克服できるでしょう。

そして、その主役は私達一人一人です。

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