民俗

猫はいつ踊る?

新月から満月の陰から陽の十五日、満月から新月の陽から陰の十五日。

夜に光って、満ちて欠ける月のイメージは、猫の瞳のイメージでもあります。

出雲のわらべ歌「ねこにゃんにゃん」で踊る猫は、どのような光を浴びたのでしょうねえ。

満月の月明かりの中、尻尾の丸い曲尾猫がお囃子にあわせ、目を光らせながら踊ったのでしょうか。
それとも、新月の闇の中、松明や灯明に照らされて身をくねらせたのでしょうか。
あるいは、そのどちらもあったのでしょうか。

もし、そうだとしたら、かわいらしくも、幻想的だったでしょうねえ。
特訓された猫には、迷惑千万な話だったかも。。。。

 猫ってそういううわさがなぜかあるんだよねぇ。

 神秘的だから?
 でもどっちにしても 可愛すぎてちっとも怖くならないわ。

そういえば、今じゃ化け猫も、あまり怖がられてませんねえ。

 猫は昔話にもよく出てきます。
 僕の家には、色々な飼い猫や野良猫が集結してきて、よく集会してました。
 時にはなに事かを、していることもありました。
 猫はいったい、何を相談していたのか?

 犬と違って、猫には独特の愛らしさがあります。
 ゆったり自由に生きるあの生活スタイルが、うらやましいです。
 色々な家から家と渡り歩いて何をするのか知りたいです。
 やっぱり、餌や異性さがしかなあ。

 それから、僕は江戸時代の夜に猫が出てくる怪談ものとか、大好きですよ。

猫は、踊っていたという伝承が各地に残ってます。

 そういえば野良猫って良く集会してますね。
 本当は日本語喋れるだろう?
 こんなこと、思うぐらい「にゃごにゃご」喋ってますが。。。
 何を言ってるのかなぁ?

 愚痴かな、実はお祭りの相談とか?

どうなのでしょ。

 鹿角ではお墓の広場で、着物を着た化け猫が何と八匹も居ました。
 そして、どれも二つか三つの男の子、女の子の着物を着て居ました。
 どの猫も、下駄ケタを履いていました。そして、手拭いを出して頬被りをしました。
 「猫じゃ、猫じゃと可笑オカシくて。猫が、猫が杖突いて、下駄履いて、絞り浴衣で来るものかなあ」
  カラリン、カラリンと手拍子、足拍子面白く踊り出しました。
 鹿角市発行「陸中の国鹿角のむかしっこ」より

面白いでしょ。

 そういうと、祭りは豆絞りやなあ。

それは、気になりますね。
祭りは豆絞り、祭りの後は生絞りって思ってませんか。

 ワタクシの住まっている周辺にそんな猫話が散らばっていたとは。。。

 嬉しい限りです。

また、鎌倉には猫が一人前の男女になった証に、ある夜ある場所に集まって、「猫じゃ猫じゃ」と踊ったと言う言い伝えの場所があります。

それから、こういうのもあります。

 長後街道とよばれている戸塚から西へ伸びる県道22号線沿いで、・・・猫じゃ、猫じゃ、五郎兵衛の猫じゃ・・・
 ・・・・ねこじゃ、ねこじゃ、わしゃねこじゃ・・・と毎夜若い娘が狂い踊っていました。

ほかにも、こんなの。

 戸塚の宿の旅篭では手拭が毎夜盗まれていました。
 そこで旅篭の主人が物干しを見張っていると猫がくわえて行くので後をつけると丁度今の踊場付近の繁みで猫が手拭を頭に巻いて踊っていました。
 それで中田寺の和尚が猫の怨霊のたたりと供養塔を建て、娘の踊りも手拭が盗まれることもなくなったといいます。

私が、出雲のわらべ歌「ねこにゃんにゃん」で、夜を連想したのはこのような情報に接したからだったのです。

本当はどうだったのでしょうねえ。。。

 なぜに、猫に手ぬぐいなんでしょう?

 うちの猫もそのうちに、手ぬぐい被って踊らないかなぁ。
 まだ尻尾が二股になってないから、駄目ですか。。。
 今度猫の手の届くところに、手ぬぐい置いてみます。
 ハンカチじゃ、駄目なのかなあ。

ま、猫が茂みなどで飛びまわる虫を追いかけているさまを、踊っているように勘違いした、なんてことが言い伝えの元にはあるかも。

それよりも興味深いのは、手拭を頭に載せているパターンが多いように見えることです。

それは、日本の踊りにしばしば手拭が登場することと、かかわりがあると思えるです。

今でこそ多彩な文様がある踊り手拭も、多分、昔は紺の絞ではなかったかと想像するのです。

紺の絞の手拭を被り、紺の絞の浴衣を着る、つまり紺の絞に身を包む装束こそ、踊り装束の原点であったのではないでしょうねえ。

踊りとはもともと、神霊との交信の儀式であったようです。

つまり絞とは、生死の境をしめす斑(まだら)を身にまとうことと解釈できるのです。

 夏といえば、化け猫の季節ですよね。
 私が子供だった頃に比べると、そういう情報(テレビや映画やアニメ)は少なくなったような気がしますねえ。
 それはそれで神秘的だったかも、しれないのに。
 猫が化けるというと、イメージはお化けか妖怪ですが。
 踊りを踊っている猫の姿は、人間に変わって何か世情を訴えているのかなって思ったり。

 うちの猫は、時々歌を歌ってるように聞こえることがありますです♪
 しかも、男の子なのに女の子のような声です。
 これ、もしかしたら女の子の声色をした化け猫のマネでしょうか…
 手拭を頭に巻いて踊ってるにゃんこ、見たいです。

 好みで言えば、猫に踊ってもらうなら、断然夜!
 満月の夜は狸が踊るだろうから、猫は新月の夜ね。

 猫+夜=化け猫、薄気味悪いという人が多いだろうけど…。
 人が寝静まったころに動き出す玩具の兵隊さんをおもえば、可愛いと思えるはず。
 結構猫はああ見えて、人に気を使って生きているのですよ。
 それになんといっても、猫は夜元気。
 昼は可愛らしく日向ぼっこが似合います。

当時は、踊りとくれば手拭がつきものだったので、踊る猫にも当然なように手拭がかぶっている姿を思い浮かべたことは、ありえるです。

さらにいえば、猫は、神の声の象徴であり化身である蛇との合体した祭司の姿とみなされたとすると、生と死の境を示す斑(まだら)を手拭の形でまとうことで、霊界との交信としての踊りであると示している可能性もみてとっていいのかも。

踊る猫伝承は、古代の記憶を後世に伝えているのかも知れないです。

じっさい、南米では猫の姿をした祭司の像とみえるものが出ているのです。

 家の犬は、怒ると言葉らしきもの発します。
 実は猫とも会話できたのかも。

会話、聞いてみたいですねえ。

 うちの犬は、さんぽ(用足し)につれていくのが遅れると、母音だけで激しく発声し始めます。
 目つきからしても、怒っているようです。

ところで、お宅のワンちゃん、なんといって怒るのでしょうねえ。

 多分に、「早くつれてけよー!」と喋ってるつもりなんだと思います。

犬の口には、子音がきついから母音だらけになっちゃうけど、おそらく想像したとおりと思うです。

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橘は、日本に古くから野生していた日本固有の柑橘(かんきつ)です。
実より花や常緑の葉が注目されました。

 田舎育ちなんで、 小学校のときに木や花の名前を 色々覚えさせられたのですが、 結構忘れてしまっています。

 あの時、真面目に覚えていたらなーと、今になって思います。

いろいろ覚えると、楽しいでしょうね。

 橘で思い出すのは、やっぱりひな壇です。
 桜と橘の木が左右にありました。
 通常ではあまり馴染みがないですよね。

松などと同様、常緑イコール「永遠」ということで喜ばれました。

 日本は四季がありますよね。
 春に芽生え、夏に茂るが、秋には紅葉し、冬には枯れてしまうから、 「常緑」を特に目出度がるのかな。
 松もそうだし。
 日本人は四季の移ろいをめでながらも、やっぱり永遠の命には憧れるのかなあ。
 常夏、常春の国ではどうなんだろ?

どうなんでしょ。

橘の学名はCitrus tachibana、一般的にはミカン科の常緑小高木を意味しました。
樹高は2-4m、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘があり、果実は直径3cmほどです。
キシュウミカンやウンシュウミカンに似た外見をしているけれども、酸味が強く生食用には向かないので、ママレードなどの加工品にされることがあります。

柑橘類全般を指して橘と呼ぶこともあるようですです。
濃緑色で光沢のある楕円形の葉を持ち、初夏に香の高い白色の五弁花が咲き、この花の美称がハナタチバナなのです。
果実は冬に黄熟するけど、酸味が強く食用には向かないので、かじってのどの乾きを潤していたという話もあるらしいですね。
現在では野生のニホンタチバナはほとんど見かけなくなり、一部では絶滅の危機にあるそうです。
だから、実際に生息してます橘を見た人は意外と少数ではないのかです。

 はっさくや、ザボンのような感じだと思ってたけど、違うんですね。

柑橘って言っても、いろいろありますからねえ。

 橘って、確かにあまり植えられていませんよね。
 食用ではないから、お目にかかることが少ないんですね。

 言葉に、なじみがあるのに・・・・
 由緒正しいというイメージはありますね。

本州静岡・愛知・和歌山・山口諸県・四国・九州・琉球の海岸に近い山地にまれにはえるニホンタチバナは、常緑小高木です。
高さ2~4mで、花は初夏に咲き、果実は径2,5㎝ですです。
楕円形の葉は互生し、固く、楕円形で長さ3-6cm、濃い緑色で光沢があります。
初夏に香の高い白色の五弁花が咲き、この花の美称がハナタチバナなのです。

垂仁天皇が多遅摩毛理(たじまもり)を常世の国に遣わして「時じくの香の木の実」(ときじくのかくのこのみ)を持ち帰らせたという話が、古事記や日本書記にのっています。
なお、古事記の多遅麻毛理は、日本書紀では田道間守となっています。
「時じくの香の木の実」というのは、不老不死の力を持った霊薬とされます。
古事記の本文では「是今橘也」(これ今の橘なり)としているが、実際にそれが橘そのものであるかどうかは明らかではないです。

多遅摩毛理が探した「時じくのかくの木の実」とは、今でいう橘で、私たちが冬に食するミカンの先祖に近いようです。
ビタミンの豊富な柑橘類は、そのころから薬効が認められていたのかです。
図鑑には、学名にもなるくらいなので、日本固有とか日本原産の柑橘類とかあります。
けれど日本が島国である以上、やはり少なくても元となる種は大陸から伝来したと考えた方が自然と思えるです。

ちなみに月橘(げっきつ) はミカン科Rutaceae で、学名はMurraya paniculata Jack. var.paniculataです。
薬草としては、葉または樹皮を乾燥させ煎じて胃腸カタル・腹痛・下痢などに服用しました。
剪定によく耐え、病害虫に対する抵抗力も強い植物です。
こういう薬になるところはなんとなく、オリーブっぽいですねえ。

 私も、橘ってオリーブにどことなく似ている、っ思っていましたよ。

あ、そうですか。
そう言ってもらえると、うれしいです。

インド、ビルマ、マレーシア、オーストラリア、ニューカレドニア、メラネシア、南中国、台湾から琉球各島の奄美大島、徳之島まで分布しています。
原産は台湾の常緑熱帯小高木、小喬木あるいは灌木です。

樹幹の材質は極めて硬く、葉は透して視ると油点がある奇數の羽のような複葉が交互に生えるそうで、果実は成熟すると紅色になるです。
白色の花が葉の脇から散房花序(さんぼうかじょ)に咲き、夏、月の夜に柑橘の香りを強く発することからゲッキツ(月橘)とよばれるです。
また芳香は遠方まで香ることから、中国では七里香とも、十里香とも呼ばれると言います。

ぁ、そうそう…、散房花序って、いきなり言われてもぴんとこないかも。
繖房花序とも書き、花柄の長さが下部のものは長く、上方になるのに従って次第に短くなり、それぞれの花はほとんど一平面に並んで咲くものを言います。

ちなみに総穂花序の一つで、花序とは、花が茎または枝につく並び方です。
あるいは花の集まり自体や、花をつけた茎または枝のことを指したりします。
花序軸とは、花序の主軸で、花軸とも言い、つまり総穂花序とは,1本の軸つまり花序軸(かじょじく)から側方に出た幾つかの花が並んだものを言います。

月橘は沖縄ではギンギチ,ギギチ,ギキチャーなどと呼ばれ、呪力があると信じられ、祭事によく使われるそうです。
沖縄各島の低地、特に石灰岩地帯に多く野生し,民家の生垣、庭園樹として利用されています。

また、カラタチバナの別称でもあります。
襲(カサネ)の色目にも、用いられ、表は朽葉(クチバ)で裏は黄、また、表は白で裏は青の組み合わせなところは、どことなくオリーブや裏白を連想しちゃうです。

橘諸兄を祖とする橘氏が奈良時代に生まれています。
橘の常緑にあやかって姓にしたと考えられるです。

 橘高(きったか)さんという名前の、友人がいます。
 元をただせば、由緒正しいお家柄なのかな。

気になりますね。

京都御所紫宸殿の「右近の橘、左近の桜」で有名です。
ただし、この橘は、紀州蜜柑に近いものとする説もあるらしいです。

また橘は家紋として使用され、また近代では勲章に使用されています。
文化勲章は元々桜であったが昭和天皇が「文化は永遠である」と言い、咲いて散る桜ではなく、常緑の橘を勲章にしたと言います。

常緑を永遠の象徴と見る感性は、常緑を「永遠の神の嬰児(みどりご)」とされるイエスの象徴とするキリスト教文化と似ているのはおもしろいです。

 最後の一文が効いてますね。
 この共通点は確かに面白い!

面白かったですか。

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「君が代」は何を歌いたかったのか

「君が代」は、この歌詞で広く知られています。

 「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

実は「君が代」には、「元歌」があります。
その「元歌」とは、これ。

 「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

『古今集』巻7に、「読み人しらず」として納められています。
その後、「我君」の箇所は「君が代」と変えられて、藤原公任撰の『和漢朗詠集』に採録されます。

二松学舎大学溝口貞彦教授は2004年3月、著書『和漢詩歌源流考 詩歌の起源をたずねて』で驚くべき説を提起しました。

「君が代」は、挽歌(ばんか)だというのです。

使ったのは、歌に使われている個々の語彙に含まれている意味を追求する方法です。

そして、「巌となりて」の「巌」は「墓石」という議論を展開するのです。

 君が代って、独特な歌だなあと思ってたけど、そういう歌だったんですか。
 サッカーの国際試合とかで、試合前に国歌を歌うけど。
 日本の国歌だけ、なぜか暗い感じがするもんね。

 君が代のときだけ、空気が変わるですもん。
 「今から試合やるぞやるぞ!!」って気分になりにくいです。

『万葉集』では、前期や中期には挽歌が大きな比重を占めているといいます。
万葉集では、相聞(そうもん)・雑歌(ぞうか)とともに三大部立ての一つです。

挽歌とは、もともとは中国で葬送の時、柩を挽く者が歌った歌のことです。
人の死を悲しみ悼む歌で、古今集以後の「哀傷」にあたります。

今では、人の死を悼む詩歌や、挽詩、哀悼(あいとう)歌をさして挽歌と言います。

ついでに、相聞と雑歌も説明しておきましょう。

相聞は今では、手紙などで互いに相手の様子を尋ねあうことの意味で使います。
でも、万葉集では「あいぎこえ」とも呼ばれ、恋慕や親愛の情を述べた歌のことです。

雑歌も、雑の歌とか雑の句と呼ばれ、今でも和歌・俳諧の題材による分類の一つとされます。
和歌では四季・恋以外のものとされ、四季・賀・離別・羇旅(きりよ)・物名・恋・哀傷などのどれにも属さないものです。
連歌や俳諧では、無季の発句および付句をさします。

賀歌(がか)が登場するのは、奈良時代中期以後の歌が収められている万葉末期です。
賀歌は、和歌集の部立ての一つです。
勅撰集では古今和歌集以下に見え、長寿を祝う算賀の歌が多いです。
算歌とは長寿の祝賀のことで、四〇歳から始めて10年ごとに行った、中国伝来の慣習です。
のちには還暦の六十一歳、喜寿の七十七歳、米寿の八十八歳なども祝うようになりました。

溝口教授は、二つの流れのあることに着目し、「君が代」はどちらの系列かを問うたのです。

 現世における長寿を願う「賀歌の系列」
 死後の来世における永生を祈る「挽歌の系列」

「賀歌の系列」と「挽歌の系列」を識別するポイントの一つは、一つ一つの語彙に込められた意味の解釈にあります。

 「さざれ石の巌となりて」

これは、何を意味するかと言うことです。

 国技館の中庭に、さざれ石だと言われているものがありますね。

あちこちに、これがさざれ石ですっていうのは、展示されているようですねえ。

無生物を生物になぞらえる文学的、比喩的、表現なので、特定で具体的なモデルは存在しない。
そう思ってしまえば、普通が議論が終わってしまいます。

溝口教授は、考察しました。

 岩が成長するという思想が、当時あったかどうか

出した答えがこれ。

 そんな思想はない、小さな石が集まって大きな岩となる、「塵も積もれば山となる」式の思考法ならある

それに、砂岩のような、さざれ石、つまり砂粒のような細かい石が集まって出来る岩がある以上、非科学的ではないのです。

 小石が集まると、巌になるんですね。

 目から鱗、ボロボロ落ちまくりです。

あの、巌というか、砂岩なんですが。

まず、「さざれ石」、あるいは「ささら石」とはなにかです。
ここで「ささ」は、「さざ波」や「さざれ波」に同じだといいます。
つまり、「細かいこと」を「ささいなこと」という、その「ささい」と同じと言うわけですね。

また、「ささ」とは、微風が野原を通りすぎるときの、サーサーという音の擬音語と解します。
この葉をゆるがす音から、「笹」というようになりました。
古代人は微風の通過とともに、神の通りすぎるのを感じされました。

神の連想から、「さざれ石」も「巌」も、ともに霊石とみなされ、神性を帯びます。
これは、死んだ親あるいは祖先の「化身」とみなされます。
人が一人死ねば、霊石が一つふえることになります。

「さざれ石の巌となりて」とは、個々の霊石としての「さざれ石」が集積され、巌という「霊石の集合体」を形成することを意味しています。
「巌」は『万葉集』では、「墓地」あるいは「墓所」を指します。

巌の語は、死者を墳に葬ったのち、その入口を大きな岩でふさいだことにもとづきます。
岩戸ともいいます。

ちなみに、天照大神は岩戸隠れをします。
この解釈からすると、天照大神のお隠れとは、天照大神のご逝去を意味することになります。
実際、日本書記の岩戸隠れには、天照大神御自身のご逝去であると理解できる記述があると指摘されているのです。

その「巌に苔生す」とは、なにかです。
苔は、「再生、転生の象徴」です。
古いものを貴んだ古代においては、「苔」は好感をもって見られ、「苔むす」ことは尊いこととされました。

死後の再生、転生を経て、しかるのち初めて「千代に八千代に」という「永生」がえられます。
「君が代」=挽歌説は、まず語彙の側面から論証されます。

『万葉集』には、長寿や永生を祈る歌が少なくないです。
天智天皇の皇后であった、倭姫の次の歌が比較的初期のものに数えられます。

 「天の原ふりさけみれば、大君の御寿は長く天足らしたり」

この歌の意味はこうです。

 大空を遠く振り仰ぐと、天皇の御寿命は悠久に、大空一杯に満ちている

「君が代」に似た内容であり、大部分の生徒は長寿を祝う賀歌と理解したと、ある高校の国語教師の証言にあるそうです。

ところが『万葉集』で、この倭姫の歌が分類されているのは、巻2の「挽歌」なのです。
「天皇聖躬不予之時、太后奉御歌」、つまり天智天皇が危篤のとき、皇后か作られたとする題詞がついています。
不予とは、臨終という表現をはばかって用いる危篤と同じ意味の言葉です。

古歌が好んで使った手法が、本歌取りです。
本歌取りとは、それに先行する歌を本歌とし、その一部の語句をとり入れて作るやり方です。
その本歌が賀歌ならば、本歌取りによって作られる歌も賀歌です。
反対に、本歌が挽歌ならば、本歌取りによって作られる歌も挽歌です。

そこで、溝口教授は、「君が代」を本歌取りの観点から調べされました。

「君が代」の本歌は、どんな歌かです。
「君が代」が本歌として想定していたのは、『万葉集』巻2の挽歌の一つです。

 「妹が名は、千代に流れむ姫嶋の、子松が末に苔むすまでに」

この歌には、こう注釈がされています。
「河辺宮人が、姫嶋の松原で、乙女の屍を見て悲嘆し作れる歌」

後半の「子松が末に苔むすまでに」は、君が代の「苔のむすまで」に似ています。

本歌の作者は「小松が成長して大木となり、さらに老樹となって、そこに苔むすまでの時の流れ」のうちに、現実には果たせなかった乙女の長寿・永生の姿を見ようとしています。

以上の考察を経て、溝口教授はこう結論づけます。
「君が代」の歌詞の意味は、「千代に八千代に」という永世の願いを、死後の「常世」に託したものであると。
それは「死者の霊に対する鎮魂の歌にほかならない」と。

溝口教授は、紀貫之が個々の秀歌を「さざれ石」にたとえ、それらを数多く集めた『古今和歌集』こそが「巌」だと説いている事実に着目します。

貫之が「我君は」の歌を「賀歌」の部に含めたことは、「この歌の基本的性格を見誤ったもの」であるとします。
貫之はこの歌を「賀歌」ではなく、「挽歌ないしは哀傷歌」のうちに含めるべきであったとみなします。
そこで溝口教授は、「この歌を自分の都合のよいようにつまみ食いした」という批判を免れえないと指摘します。

溝口教授の所説は、三つの点に要約できます。

 「君が代」に盛られた思想内容の分析
 用いられた語彙の分析
 「君が代」の本歌の性質を分析することを通じて、「君が代」が挽歌であると論証する

さらに、これを賀歌とする誤解は、貫之の「つまみ食い」に始まることを証明した形と判断しました。

 だけど、溝口教授は非難されたりしていないの。
 単純な右翼が一部だけ聞いて怒りそうな説です。
 なんてたって、君が代はタブーですよね。

まあ、扱いが難しい主題では、ありますねえ。

ま、それはそれとして、溝口教授の説を見て、疑問が残るのでないかです。
どうして、「君が代」が賀歌と解釈されたのかと。

私は、天照大神の岩戸隠れが鍵と見ます。

天照大神の滅びと復活こそ、岩戸隠れの本来の意味ではなかったのかです。

人が現世で復活することは、現実にはありえないですけど。

古代エジプトには、死者は死後の世界で復活し永遠の生を得るという思想があります。

死が滅びではなく、死後の世界での永遠の生への旅立ちと言う思想が、古代日本にあったとしたらどうです。

無念の死を遂げた者の魂を『怨霊』として恐れ、崇拝された者の魂を『守り神』として崇めるのは、死が滅びと見ると矛盾するのではないかです。
死後に永遠の生があると、見てこそ成り立つ想いではないのかです。

そう。

死は、永遠の滅びに対する嘆きの対象ではく、永遠の生に対する祝いの対象となるのです。

だから、賀歌として受け取る解釈が成立していったのではないのかです。

君が代の、元歌と本歌を並べて見ましょう。

 「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
 「妹が名は、千代に流れむ姫嶋の、子松が末に苔むすまでに」

苔は、「再生、転生の象徴」です。
古いものを貴んだ古代においては、「苔」は好感をもって見られ、「苔むす」ことは尊いこととされました。

死後の再生、転生を経て、しかるのち初めて「千代に八千代に」という「永生」がえられます。

溝口教授はこの共通点に注目し、どちらの歌も現実には果たせなかった長寿・永生の姿を見ようとしていると、指摘したのです。

なのに、賀歌とされた理由まで踏み込んでくれなかったのは残念です。

 現実には果たせなかった長寿・永生の姿を見ようとしている

それは願いであるとともに、祝いでもあったのですね。
だから、挽歌として歌われたにもかかわらず、賀歌として受け取られていったのかも。

長ったらしい上に、ややこしいですか。

 びっくりした!
 とっても面白いです。

 深いですねえ。

ありがとうございます。

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「ネコにゃんにゃん」 拍子とって見ました

踊りのしぐさを思い起こしながら、ふと思ったです。

フラメンコ、フラ、カチャーシー、阿波踊り、ガムランなどの南アジアの踊り…です。

どこか、テンポは違っても動きは似ています。

と、いうことは基本的な旋律も似ているのかもしれないです。

そういえば、フラメンコは強弱の拍子が繰り返されることを基本とした伴奏がつくです。

似たような動きをする踊りもまた、強弱の拍子にそってつけられた伴奏やお囃子、手拍子が背景に流れているのかです。

私には、前から気になっているひとつの歌があります。

出雲にいつのころからか伝わってきたと思われる、忘れ去られようとしている歌です。

「ネコにゃんにゃん」

 こんな曲が、あったんですね。
 ほんとに、ぜひこの耳で聞きたくなっちゃいますね。
 いろんな童歌を知るのは、おもしろいです。

おもしろいでしょ。

 猫は踊るようになったら、化け猫だと聞いたことがあります(笑)。
 頭に手ぬぐいを被って(のっけて?)踊るのだそうです。
 でも、見たという話も・・・聞いたような。。。。
 そうそう、襖を開ける猫はたくさんいるようですが、
 それを閉めるようになると、やはり化け猫だとか。

この歌で踊っている猫たちが、化け猫かどうかですか。
ちょっと、わかりかねます。

この歌をいろいろ口ずさみながら、手拍子の間のとり方を、いろいろ試して見たのです。

どうも、“とん!!た!とん!!た!・・・”と、強弱のある拍子があわせやすく感じていました。

 やっぱり、2拍子とか、4拍子系が合いそうですねん。
 私は、三三七拍子をゆっくりさせたパターン“トン・トン・ト~ン”(四分音符→四分音符→二分音符)で、勝手に歌ってみました(笑)。

でも、どんな曲の流れが歌をのせやすいのかです。

「あ、ひょっとして!」

手拍子を打ってみたのです。

自分の知っているフラメンコの曲は、そう多くないです。

でも、ものはためし・・・です。

なんだか、のせやすいです。

カチャーシー…です。

なんだか、いい感じ?

すくなくても、琉球の人々は西日本の先住民の子孫なはずです。

ってことは?

「ネコにゃんにゃん」

西日本先住民文化のなごり?

まだまだ、思索は続くです。

これは、感性の問題が大きいから、かえってつっこみにくいでしょうか。

 この歌って、曲がわからないのですか?
 うーん、気になるぅぅぅ。。。。。

 にゃんにゃんのん にゃんにゃん にゃんにゃんのん ・・・

 この歌、ずううと気になっていました。
 とても可愛い歌詞。
 猫が踊っている様子が、浮かぶんだけど。
 音楽の才能が全くない私には、メロディが浮かんできません。

実は、この歌は『神奈備』と言うサイトで見つけたのです。
「振り出しの部分だけで、二番三番・・と続いている」
「みんなで手をたたいて囃し立てるような本当に愉快で楽しい歌」
わかっているのはこれだけという、謎の多い歌なのです。

日本には猫が踊ったという話は、多く残ってます。

でも、囃し立てた記憶が残っているという点では、とても貴重な歌なのです。

 出雲と言えば、どうしても「出雲の阿国」を思い出しますが。
 これも、なにか関係性はあるんでしょうかねえ。
 阿国の踊りなんかは、西洋の踊りにも通じる部分がありますし。

わたしも、出雲の阿国との関連は疑いたいって気はしますね。

猫には、踊ってるように見える写真が撮られる場面が多いですし。

 実際に歌った方がおられるんですね。
 ますます興味が尽きませんね。

 それに、招き猫の由来にもあったように、ねことめこ(女)を重ねる例は多いのですね。

「ねこ」と「みこ」と見ても面白いかもです。。。

「ねこ」が祭司や巫女のような、神の言葉を受け取ったものとする思想は、かなり古代には盛んにあったと見ても面白いです。

 音楽にもシンプルなのに、はまる部分がある楽曲がありますよね。

それは、ありますね。

ラベルの“ボレロ”なんか、インパクトありますね。

 ヨーロッパ系の踊りはワルツとか、3拍子系が多いですよね。
 日本人が最も苦手とする拍子らしいです(笑)。
 「ボレロ」は私も大好き。
 先日、某身内の音楽会で、こんな経験しました。
 「ボレロ」のリズムを手拍子、足拍子、ボディー拍子なんでも良いから曲に合わせてとって、クレッシェンドしていきましょう!
 更に、この曲の魅力にハマってしまいました。

たのしくって、聴いてみたい、歌ってみたい、そういう歌で歌い方がわからんのはちょっと気になりますよね。

 ゲージュツのものって、世界の境界線がなくなってるような。
 共通してるものってあるもんですねえ。

意外な地域と、似てたりするものですね。

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ネコとイエス その二

販売していたさくら出版の破産により惜しくも絶版となった、『猫がいっぱい詰まった本〈1〉日本の民話・伝説編 』と言う本の目次の中に、気になる題を見つけました。
もっと、早く知ってたら、買ったのに…。

まずは、目次を見ていただきたいです。

 猿と猫と鼠
 絵から飛び出した猫
 犬と猫のはなし
 犬と猫と玉
 戸塚の猫おどり
 赤猫になった百姓
 猫のうた
 猫の草紙
 猫また橋
 猫嫌い
 猫妻
 猫山
 猫斬丸
 猫檀家
 猫かぼちゃ
 茂吉の猫
 猫が十二支に入れなかった理由
 猫と蟹
 猫多羅天女
 身代わりで磔になった猫
 薄雲太夫の飼い猫
 猫の寺(東京・自性院;東京・豪徳寺)

興味惹かれれる話はいくつかあるが、中でも気になったのがこれです。

 身代わりで磔になった猫

気になりませんか?

 そうそう、身代わりに猫を磔にしたという話ってありますねえ。
 聞いたことあります。
 何故猫なのか、他の生き物ではだめなのか。
 興味ありますね。

逆に、魔除けとなると犬が登場して、猫が出てこないです。

もっとも、犬の文字や模った代用を用いた日本と違って、古代中国では本物の犬を魔除けに用いたそうです。

無念の死を遂げた飼い主の怨念を受けて化け猫となる話や、貧乏寺でかわいがられていた猫が寺に恩返しをする話などはいくつかあります。
邪悪な蛇から、なぜかたいてい女性なのだけど、飼い主を体を張って守る猫の話も各地に伝わります。
飼い主を守った話に出てくる猫は、どういうわけか理不尽な死に方をしています。

おそらく、「身代わりで磔になった猫」の話は、理不尽な死に方をしている飼い主を守った猫の伝承の流れにつながっています。

無実の罪を被って、理不尽な死を遂げる生き物の話にでてくるのは、私が知っている範囲では猫だけです。

歴史上あまりにも有名な人物もまた、無実の罪を被って、理不尽な死を遂げます。

その人物の名は、イエスなのです。
イエスもまた、人類の原罪を背負って身代わりで磔になったとされています。

イエスの十字架には、罪状書きが添えられていました。
罪状書きに記されていたのがこれです。

“INRI ”
INRI とは、“IESVS NAZARENVS REX IVDÆORVM”の略です。
もちろん古典ラテン語です。
“イエス ナザレの人 ユダヤの王”
訳せばそうなります。

そういえば、ヨーロッパには猫をイエスのメタファー、つまり隠喩とする文化があります。
メタファーとは、あるものの性質を他のものの性質を丸ごと使って、たとえることを言います。

猫とイエスを、これまでにも何度か比べてきました。

共通したイメージを、並べてみたいです。

 蛇

 幼子

 祭司あるいは預言者

 太陽神

 罪人を運ぶあるいは裁く

このうち、「罪人を運びあるいは裁く」というのは、“火車”という妖怪としての猫と聖書の山羊だったですけど。

また、直接聖書やイエスと比べなかったし、名前にねこがつくだけだった“ねこ医者”も加えたら、これもあります。

 癒す

このリストに、追加項目ができたことになります。

 身代わりで磔になった

猫は、ますますイエスに近づいてきた。

それとも、こういうべきでしょうか。

イエスは、ますます猫に近づいてきた。

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伊勢神宮の一日の祭

伊勢神宮の外宮の御祭神は、豊受大御神とおっしゃいます。
御鎮座は、雄略天皇二十二年と伝わっています。

それで外宮の正式名称は、豊受大神宮といいます。

外宮の由来書きにある説明によると、こうあります。

 豊受大身神はお米をはじめ衣食住の恵みを与えてくださる産業の守護神です
 
 今から千五百年前に丹波国から天照大御神のお食事をつかさどる御饌都神としてお迎え申し上げました
 
 御垣内の御饌殿では 毎日朝夕の二度 天照大御神に神饌をたてまつるお祭りが御遷座以来一日も絶えることなく行われています

由来書きは、興味深いことが記されています。
神々へのお食事を用意する行為自体が、お祭りとして、営まれてきたというのです。
神に食事をお供えする行為が祭りになることそれ自体は、民俗からいってもそれほど不思議ではありません。

興味深いのは、神の食事のための神を、わざわざ丹波国からお迎えしたことです。

そうまでして雨の日も風の日も、食事が祭りとして朝夕2度行われるのです。
この祭りが、「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」です。

神宮に奉仕してきた人から人へ、手から手へ、丁寧に守り伝えられてきた神宮の文化とも言えるのが、お祭りのしきたりや作法と、そこに込められた精神です。

このお祭りが、神宮では1年365日欠かすことなく続けられ、毎日の積み重ねが、1,500年以上にもなりました。

日別朝夕大御饌祭のこと、こんなふうにいう人いるのですよ。

 モーセの律法で、神に種入れぬパンを捧げる素祭に似てますね。

どこが、似てるっていうのでしょう。

一日のお祭りがどのように行われるのか、神主たちの一日を追って見ましょう。

奉仕する数名の神職は、前夜8時から参籠(さんろう)します。
参籠の目的は、身を清めるための御籠もりです。
白衣に着替えると、まず潔斎(けっさい)をします。
白衣の白自体が、すでに清さの象徴なのですが、さらに身を清めるために、体に湯をかぶるのです。
翌朝は5時に起床し、洗面の後、再び潔斎をします。

潔斎は、すでにそれだけでも、清めの行事であり、禊(みそぎ)と言えましょう。
白は、死に装束の色でもあり、儀式的な死の通過儀礼を意味するのでしょうか。
参籠は子宮、潔斎(けっさい)は羊水と、看做してもいいのかも。

潔斎をして参籠に入るは、羊水をくぐって胎内に入る。
潔斎をして潔斎を出るのは、羊水をくぐって胎内を出る。
つまり、生まれ変わりの儀式でしょう。

次に、神様の食事の支度です。
神様の台所にもあたる忌火屋殿(いみびやでん)で、約1時間半かけて神饌(しんせん)を調理します。
木と木を摩擦して、忌火(いみび)とよぶ清らかな火を起こすことから始まります。

木と木の摩擦とは、棒を板に立てること。
男根を女陰に立てることに、あたるでしょう。
忌火屋殿は火処(ほと)であり、女陰(ほと)に音が通じるのですよ。
命をはぐくむ、食を産み出す作業が調理ということでしょう。

水は、神宮の森の井戸の神からいただきます。
井戸の神は、上御井神社(かみみいじんじゃ)に祀られています。

井戸と釣瓶も、女陰と男根かも知れません。

お米は、神宮神田(しんでん)で収穫されたものです。

「米」は「八」「十字」「八」に分解でき、上下も男女に配当されますので、二つの「八」は男女の合掌かも。
「十字」は四方を指し、大地でしょう。
男女の和合は、古来、豊穣の象徴とされてきました。

御塩も、古代の製法そのままに二見(ふたみ)の御塩浜で奉製されたものを用います。

塩もまた、殺菌作用があるので清めでありましょう。
二見の浜で作られるのも、陰陽を連想できる地名だからかも。

季節の野菜や果物は、神宮 御園(みその)で作られます。

明治以降は鰹節や鯛、アワビ、昆布、清酒も毎日のお祭りの神饌に加えられました。
それぞれ、縁起物としてのいわれがあるのは、ご承知の通りです。

ひととおり神饌の準備がすむ午前7時になると、神主たちも朝食を済ませます。
朝食を済ませると、神主たちは平安時代さながらの白い装束と冠を着けます。

午前8時には、いよいよ祭典 奉仕。
冬季は午前9時だそうで、やっぱり夜明けが遅いからでしょうか。
神々の食堂、御饌殿(みけでん)へ、櫃(ひつ)におさめられた神饌を運びます。

ちょうどこのころに参宮すれば一般の人々も、神主たちが厳かに参道を通るのを見ることができるでしょう。

朝の神饌をお届けする奉仕が終わると、すぐに夕の神饌の準備をします。
その後、再び装束と冠を着け、午後4時には夕の祭典を奉仕します。
冬季は午後3時に繰り上がるのも、日没が早いからでしょう。
こうして一日のお祭りが無事に終わります。

イエスも、井戸の近くでお休みになられました。
また、水の奇跡もありましたね。

ヘブルの神事では、神道同様に清めに使いましたよね。
水だけじゃない、塩も、聖書と日本、清めで共通ですね。

聖書の神は、モーセのときも、イエスのときも、食にまつわる奇跡を起こしておられます。

ユダヤ人やキリスト教徒から、神道に注目する人がいるのも、仕方ないでしょうか。

で、どこが種入れぬパンを捧げる素祭に似てますか。

 食事の準備と男女の営み、通ずるものが多いですねえ。

どちらも、ほどほどに熱いか、ほどほどに冷たいか、ていうのがいいところですか。

 どっちも、熱くなりすぎたり、冷めきったりしちゃ、いけないでしょ。

おっしゃるとおりですねえ。

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招き猫

日本に縁起物数ある中で、世界的にも人気が出ているのが招き猫です。

 にゃんにもまねかんとよろし。
 今の猫がずーっとずーっとこのまんま。

 そういう時間を招いて欲しい。。。

 猫がいりゃあ、ちっとの不幸も立ち直れる~
 そんなワタクシです。

縁起物であって、しかも、かわいい猫の置物というあたりが受けている理由でしょうか。

招き猫はいろんな色があるけれど、三毛が多いらしいです。

 招き猫集めてます。
 いろいろな色のにゃんこがいます。
 ピンクも・・(^。^)

招き猫は、単純に面白がっても十分楽しいのです。

それで、陰陽五行による考察を、招き猫の色についてしてみたいです。

陰陽五行の陰陽は黒と白、五行は木火土水金とされますね。
そして、五行にも色が配されますね。
木気は青、火気は赤、土気は黄、金気は白、水気は黒というわけです。

 招き猫とは全く違う話でなんですが、目黒・目白あたりも、他に目青・目赤・目黄がいてはる、て聞いたことがあるのですが、これも五行っぽいですね。

目黒・目白・目青・目赤・目黄ってこれみんな不動尊の名前にあるってことは、やはり五行です。

 家の方には、「目青不動」があるんだけれど。
 五行、すなわち方角なんですね。
 朱雀、白虎、玄武、青龍そして黄龍ですね。

陰陽五行には、相生の理という理論がありますね。
相生の理とは、木気は火気を生じ、火気は土気を生じ、土気は金気を生じ、金気は水気を生じ、水気は木気を生じ、ということです。

また、相克の理という理論もありますね。
相克の理とは、木気は土気を克し、土気は水気を克し、水気は火気を克し、火気は金気を克し、金気は木気を克し、ということです。

赤黄白の三毛に彩られた招き猫は、赤は火気、黄は土気、白は金気となって、火気は土気を生じ、土気は金気を生じ、から、やはり金気を招くとなり「招福」の中身はやはり「招財」となるようですね。
実際アジアのなかには「招財猫」と呼ぶ国がありますね。

さらに三色は、三神に通じる可能性もありと見えますね。

となると、白い招き猫もまた金気で、音が金来に通じるので、お金を招くマネー来猫って感じですかね。

さらに金気は水気を生じるとされ、水に困らないという縁起担ぎも想像できますね。

なお、木気には長いものはすべて配されるので、蛇も配され、金気が木気を克するとは「蛇」すなわち「邪」を克すという縁起担ぎもあるように思われますね。

黒い招き猫は、魔除けの意味があると考えられているようです。
黒は水気とされるので、すべてを焼き尽くす火気を克す、あるいは水気は木気を生じるので、木気に配される蛇は神の使いともされるので魔に打ち勝つ、ということなのかです。
京都では、客を呼ぶといわれているそうです。
確かに、おいしい水にはみんな集まるし、陰は引に通じるので客を引くと洒落こんだのかです。

赤い招き猫は、火気に通じ災いを焼き尽くしてくれると思われるのかです。
病原菌の多くは加熱で退治できるので、病気に代表される魔や災いを退けることを期待されているようです。

最近では金色ほか、カラフルになってきているけれど、そのほとんどは現代人の感覚にあわせて生まれてきたので、受ける印象で解釈すればだいたいあたるようです。

 招き猫は全国各地のを収集して研究すると面白いでしょうね。
 今の原型となったのは時代的にそんなに古くないはずなのに。
 奥深いのは、それだけ庶民に愛されている証拠なんでしょう。

そのほかの招き猫話は、もっと詳しい本やサイトがあるのでそちらを見てくださいね。

招き猫が忽然と現れた時代と、猫じゃ猫じゃの唄がはやった時代と、樽神輿の登場の時代、ほぼ重なるように思えるのも、奇妙なのです。

 我が家にも生きた招き猫が二人、白猫、キジトラがいます。
 シロは金気ですね。
 ではキジトラはなんでしょうかねえ。

 どちらの猫も、幸福や笑いをもたらしてくれる。

キジトラ、色は黒っぽいけど。

名前からすると、キジは酉で、陰・金・西・秋、トラは寅で、陽・木・東北東・春、で金気は木気を克し金気が木気を克するとは「蛇」すなわち「邪」を克すという縁起担ぎもあるように思われますね。

 招き猫・・・
 右手で招いてる猫は金運招福
 左手で招いてる猫は千客万来
 とか言うね、これなら商売繁盛もしますね。

ようは、招き猫は招福猫ってことでしょうか。

 信楽のたぬきも良いですよねえ。

そういえば、「縁起 たぬき」あるいは「縁起 狸」で検索してもいろいろ出ますね。

招き狸なんてのはかわいいほうで、なんとタヌキ不動明王なんて出たです。
もっとも、「咤怒鬼」と書いて「タヌキ」ですけど。

 うちのでネコは太りすぎて仰向けになって
 招きポーズで眠ってたりする…

素敵過ぎです。

 招き猫。大好きです。

 うちは白黒猫さんなのでいつもは魔よけ。
 お腹を出して寝ているときだけ招財ってとこでしょうか笑

笑福猫だったりして。

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西王母

西王母(せいおうぼ)は、西王母(さいおうぼ)ともよばれる中国に古くから信仰された女仙です。
姓は楊、名は回と。
九霊太妙亀山金母(きゅうれいたいみょうきざんきんぼ)、太霊九光亀台金母(たいれいきゅうこうきだいきんぼ)、瑶池金母(ようちきんぼ)などともいい、すべての女仙たちを統率するのです。

西王母に対応するのが、東王父(とうおうふ)です。
姓は王、名は玄甫と。
東王公(とうおうこう)、東華帝君(とうかていくん)、東父(とうふ)、東君(とうくん)、木公(ぼっこう)、扶桑大帝(ふそうたいてい)ともよばれるのです。
東王父は、中国の神話上の仙人です。
西王母が女仙を統率するのに対し、東王公は男仙を統率するのです。

西王母が、神話や伝説、小説などに頻繁に登場するのに対し、東王父は、あまり登場しないようですね。
これは、西王母が先に成立し、それに対応する形で東王父が生まれたとされる成立事情に関係があると思われているのです。

しかし、陰陽からは、面白いことが見えてきます。

北、西、南に対して、東は不思議と影が薄いのです。
何かの到来を待ち受けるかのように。

東王父の別名に木公があるということは、東は陰陽では木気に配当されるので、陰陽で解釈していいと見えます。
西王母の別名に金母があり、西は陰陽では金気に配当され、金克木と。

なに、仙人の世界でも、男は女より影が薄いの、でしょうか。

東は、日の出の方角、誕生に配当される方角でもあるのです。

まだ来ない、新たな太陽を待っているかのようです。

日本には、東方のニライカナイ伝承があるのです。
他界概念のひとつで理想郷の伝承であるニライカナイは、琉球列島各地に伝わるものです。

ニライカナイの概念は、本土の常世国の信仰にあたるとみられているのです。

東といっていますが、正しくは遥か遠い辰巳の方角の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる、豊穣や生命の源である異界です。
年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰ると。
また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられているのです。
琉球では、死後7代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されているのです。
後生(ぐそー)、つまりあの世とされるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもありました。

つまり、ニライカナイは来訪神のいる世界であり、生命と豊穣の源であり、死者の世界でもあり、祖霊神が生まれる場所であるという、複合的な観念を持った楽土なのです。

脱線しちゃったですね。

周の穆王が西に巡符して崑崙に遊び、西王母に会い、帰るのを忘れたというのです。
そんなに、いい女なら、あってみたいでしょうか。
まあ、そうせっかちにいわないで。

また前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、仙桃七顆を与えたというのです。

現在の西王母のイメージは、道教完成後の理想化された姿です。
本来の姿は、「天厲五残(疫病と五種類の刑罰)」を司る鬼神です。
『山海経』によるとこのような、凄まじい怪物です。

なお、蓬髪とは乱れた髪、玉勝とは宝玉の頭飾のことです。

 「人間の女の顔に獣の体、蓬髪に玉勝を付ける。虎の牙を持ち、よく唸る。咆哮は千里にとどろいて、あらゆる生き物をおびえさせ、蛇の尾を振ればたちまち氾濫が起きる。西王母には大黎、小黎、青鳥という三羽の猛禽が従っており、王母の求めに応じて獲物を捕らえ、食事としてささげる。」

獣というのは、虎の牙を持つというから虎の類なのでしょうか。

このときだったら、周の穆王は、帰るのを忘れるより、無事に帰れたか怪しかったかも。

人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という恐れから発生した信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」いうイメージに変化していったのです。

やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理し、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいくのです。

周の穆王は、だから、帰るのを忘れてしまったのでしょうね。

王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのです。

でも、どこかでこんな存在あわなかったでしょうか。

そう、怒れる恐ろしい獅子の女神セクメトと、やさしくかわいい猫の女神バステト。

なんででしょうか。

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ねこことば

「ねこ」が使われる言葉はいろいろあるのです。
興味深いものをいくつかあげてみます。

「ねこだ」「ねこ座」「ねこがい」、たんに「ねこ」とも言われる、藁縄を編んで作った大型のむしろがあります。

これらの名前は、背負い袋のことや、背負子の下に当てる藁製の背当てにも使われます。
また、藁などで編んだむしろで、蹴鞠の庭などに敷くものを、「ねこぶき」「猫掻」とも言うのです。
こういうものを敷くと、ねこが喜んで寝転がるからともとれるのです。
藁を笑いにかけたと見るとどうなのかです。陰陽では笑いは光です。
それで、光のねことなり、太陽神のねこが透けて見えそうですね。

藁はその細さから、そして、蛇の古語の一つ「はは」に音が通じる箒の材料として蛇に通じ、とぐろの蛇は「かんなび」つまり「神の火」に転じます。
さらに、蛇の印象がねこに重なっていき、「火」と「光」が通じていった過程さえ連想されます。

おもしろいものでは、兵庫県の一部で、嬰児または胞衣(えな)を埋める共同墓地を「猫三昧」と言うのです。
猫は鳴き声が、赤子と間違えられる事が多いばかりか、体型やしぐさも、赤子に重なるところが少なくないからかもです。

ちなみに、薪や炭の材料にされる裏白樺(ウラジロカンバ)の別称に、猫四手(ねこしで)があります。
かばのき科の落葉高木で、高さ約15メートルほどになり、深山に生え、皮に香気があります。
楕円形の葉には縁辺に二重鋸歯があり、裏の脈状に白毛を密生します。
この裏の白いあたりが、多少オリーブぽいですね。
4月から5月頃葉腋(葉の付け根)の脈状に、おばなとめばなが分かれている単性の花が集まって咲く穂状花を垂れ、円筒形の花穂を結ぶのです。

吉野裕子氏は、扇に陽の物や陰の物の印象が重ねられていると指摘します。
猫もまた、招き猫の歴史の中で陽の物に関わってくるのです。
そして気になる事に、扇の親骨の透かし彫りの一種に、「猫間」があります。
猫の目のように、あるいは丸くあるいは細くさまざまに姿を変え、連続して彫りすかしたものです。

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味な出会い?

エジプト学者吉村作治は、エジプト人が案外日本の味を好むといっています。

日本から持っていったものを、現地の人に試しにあげてみたら喜んでおいしいと食べたそうです。

今じゃ、多分、お土産に持って行ってるのではないかと思います。
ていうか、自分用に持っていったつもりが、お土産になっちゃっていると言うか。
ま、発掘を手伝ってくれている現地人の人数は多いから、さすがにみんなの分はないかも。

そこで、エジプト料理を調べてみます。

すると、なるほど日本で好まれそうなメニューがいろいろあります。
二、三、挙げてみます。

シシカバブ Seekh Kebab

エジプトでもっともポピュラーな、羊または牛のブロック肉を使った肉料理です。

一口大に切り分けた肉を、漬け汁に半日ほど漬け込みます。
肉を金串に刺して、グリルで火が通るまで返しながら焼くのです。

これを見て真っ先に連想したのは、蒲焼です。
あるいは焼き鳥など串焼きです。

グリルというけど、やってることはまるで、あぶり焼いてる串焼きそのものです。
炭火で焼いたら、日本で流行るのでは、などと考えてしまうけど、どんなもんでしょう。

漬け汁は、すりおろした玉ネギとニンニクに、残りの全ての材料を混ぜます。
混ぜるのは、これです。

オリーブ油・レモン汁・トマトピューレ・ローリエ。
あとは、塩・黒コショウ・オレガノ・カルダモンを少々。

ファソリア Fasolia

マトン、つまり羊肉とインゲン豆のシチューで、なんだか懐かしい、素朴なおいしさとのこと。

シチューは、ようするに煮込みです。
マトンは肉としては、臭みがなくさっぱりとした味わいで、甘味があり噛みやすいといいます。
ちなみに、羊肉はモンゴルでは、大根の漬物と食べることも多いといいます。
ファソリアの食感は想像するに、日本で言えばブリ大根みたいなのでしょうか。

水に一昼夜浸した白インゲン豆を、やわらかくなるまでゆでます。

マトンを一口大に切って、やわらかくなるまでゆでます。

熱したバターで、みじん切りのニンニクを炒めます。
ニンニクが香ってきたら、みじん切りの玉ねぎを加え、透き通るまで炒めます。

炒めたニンニク・玉ねぎと、ざく切りのホールトマト缶を、なめらかになるまで混ぜます。
ミキサーにかけると楽、あるいはフードプロセッサーでもいいかも。

ゆだったマトンに、ミキシングしたペーストと、白インゲン豆、ブイヨン、砂糖、ケチェップ、水適量を加えて30分ほど煮込みます。

塩・コショウで味を調えます。

ショブラ アトー Shobura Atu

ヒヨコ豆のスープ、ヒヨコ豆の香りが食欲をそそる、シンプルな料理です。

一晩、水に浸したヒヨコ豆をやわらかくなるまでコンソメで煮て、塩、コショウで味を整えます。

おいしそうな煮豆と言いたい、けど、スープ。

これ甘くして、お汁粉か善哉みたいなのやったら、おいしいかどうか、試したいような、ためらうような。


ほかのメニューも、日本の好みに合いそうな気がしますね。

アジアをはさんで、似た味を好む民族がいるって、面白いですね。

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犬の宮と猫の宮は何を意味するか

米沢市の北にあるのどかな町である山形県高畠町には、ワンセットのお宮、犬の宮と猫の宮ってのがあります。

犬の宮は、「チンは高安犬としての純血を保っていた最後の犬だった」で始まる『高安犬物語』(動物作家:戸川幸夫氏)の直木賞受賞作の舞台になりましたね。
全国でも珍しい犬を祀った社で、安産と無病息災にご利益があるそうですよ。
愛犬の健康祈願や供養に訪れる人が多いそうです。
猫の宮は、犬の宮に対座する猫の宮は大蛇から主人を救ったという猫を祀った社で、養蚕と村の安泰の神様として信仰されていますね。
愛猫はじめ、ペットの健康祈願や供養に訪れる人が多いのですって。
おそらく犬の宮と猫の宮のある高畠は“たかはた”と“はた”がつくし養蚕の土地だったことからして 、秦氏の関係がある土地です。

犬の宮と猫の宮の近くには、安久津八幡神社があります。
貞観2年(860年)慈覚大師が阿弥陀堂建立という事ですけど。
康平年間(1058~1065年)に源義家が安倍貞任追討の際に陣をひき、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を祀ったとされる古社だそうですよ。
置賜地方、唯一の「三重塔」があるそうですよ。

犬の宮猫の宮

犬の宮
由来:和銅年間の708年~714年のことです。
都から役人が来て村人を集め「この里は昔から年貢も納めず田畑を作っていたが、今年から年貢のかわりに毎年、春と秋には子供を差し出すように」といい、村では大変悲しみ困っていました。
ある年、文殊堂帰りの座頭が道に迷い、一夜の宿を頼んだところが、今年の人年貢を差し出す家でした。
座頭は、ある夜現れた役人が、ご馳走を食べながら「甲斐の国の三毛犬、四毛犬にこのことを知らせるな」と何回も念を押して帰るのを耳にしました。
それで座頭は甲斐の国に使いをやり、三毛犬と四毛犬を借りてこさせ、いろいろ知恵を授け村を去りました。
村人は早速役人を酒席に招き、酔いが回ったところに、2匹の犬を放ったところ大乱闘になりました。
あたりが静まり返った頃おそるおそる座敷を覗いてみると、血の海の中に子牛のような大狸が2匹と多数の荒狸が折り重なって死んでいました。
村人は、三毛犬、四毛犬も息絶え絶えに横たわっていたのを必死に手当をしました。
でも介護の甲斐なく、犬は死んでしまいました。
この村を救った犬を村の鎮守とせよとのお告げにより、まつったのが現在の犬の宮といわれています。

猫の宮
由来:延歴年間の781年~805年のことです。
高安村に代々庄屋で信心深い庄右衛門とおみね夫婦が住んでいましたけど、2人には子供がありませんでした。
猫を心からか可愛がっていたのに、なぜか次々と病死してしまうのでした。
今度こそ丈夫な猫が授かるように祈っていたある夜のことです。
同じ夢枕に観音菩薩が現れ「猫を授けるから大事に育てよ。」とのお告げがあり、翌朝庭に三毛猫が現れました。
夫婦は大いに喜び、玉と名付けられそれはそれは子供のように大切に育てられました。
玉も夫婦にますますなつき、そして村中のネズミをとるのでたいそう可愛がられていました。
玉は不思議なことに、どこへでも、おみねの行くところに付いていきました。
寝起きはもちろんの事、特に便所へいくと、天井をにらみ今にも飛び掛からんばかりに耳を横にしてうなっています。
おみねは気持ちが悪く思い、夫にそのことを話してみました。
夫が妻の姿をして便所に行くとやはり、玉は同じ素振りをします。
庄右衛門はいよいよあやしく思い、隠し持っていた刀で猫の首を振り落とした瞬間、首は宙を飛び屋根裏にひそんでいた大蛇にかみついました。
この大蛇は、70数年前から、いつかいつの日か仕返しをしようとねらっていました。
けど、三毛犬、四毛犬に殺された古狸の怨念の血をなめた大蛇が、玉が守っているため手出しできなかったのです。
この事を知った夫婦は大いにくやみ村人にこの事を伝え、村の安泰を守ってくれた猫のなきがらを手厚く葬り、堂を建て春秋2回の供養を行ったということです。

犬の宮と猫の宮と、スサノオが活躍するヤマタノオロチはなんか妙に似てるです。

ヤマタノオロチでは娘を差し出すところが、犬の宮では子どもを役人に差し出す。

スサノオがやってくるのに、文殊堂帰りの座頭が道に迷ってやってくる。

スサノオが退治するのに、甲斐の国の三毛犬、四毛犬が退治する。

ヤマタノオロチが酒に酔わされるのに、役人が酒に酔わされる。

ヤマタノオロチが退治されるのに、子牛のような大狸が2匹と多数の荒狸が退治される。
このすれ違いを埋め合わせるかのように猫の宮では、70数年前に三毛犬、四毛犬に殺された古狸の怨念の血をなめた大蛇が、三毛猫の玉に退治される。

ヤマタノオロチの首が刎ねられる代わりに、猫の宮では三毛猫玉の首が刎ねられる。
ヤマタノオロチは草薙の剣に、そこからしばしば製鉄に関係付けられのですけど、犬の宮と猫の宮、特に猫の宮は養蚕に、結びつきます。

多くの食い違いがあっても、この奇妙な一致はいったい何を意味するかです?
そういえば、スサノオは逆剥きの馬を機屋に投げこみ驚いた機織女が陰所(ほと)をついて死ぬので、養蚕で繋がってしまうのです。
草薙の剣もあるいは蛇神の化身とすれば、蛇が蛇を生んだ、あるいは、蛇の死と復活、にも繋がるです。
おしらさまでは、刎ねられた馬の首が娘を伴って昇天したところから連想して、馬頭観音と養蚕の関係を探ってみたら、養蚕の行われている所では、かなりの確率で馬頭観音が祀られていたのです。

ただ、養蚕の神としてかならずしも祀られてるとは限らないです。
でも多くの地域では養蚕の神とされています。
猫の宮では観音様が夢に現れ、かと思うと、所によっては馬鳴(めみょう)菩薩なる神が養蚕の神として登場します。
さらには、近い地域に道祖神を祀る習慣がある場合が多いのです。

おしらさまには頭を布から出した貫頭型とがあり、貫頭型の頭部には男神と女神があるところは道租神に似ています。
道租神は今でこそ、高齢の男女が多いけれど、かつてはもっと若く、もっと艶っぽかったのです。
そうなるとおしらさまと道租神は余計似て来ます。
その馬頭観音や道租神の代りに、高畠では犬の宮と猫の宮があります。

わたしにゃ、猫が陰、犬が陽の陰陽道に見えちゃうです。
三毛犬、四毛犬なんて足したら七で、まるで七福神か創世記の天地創造の日数です。
三毛猫の三は、造化三神とか原初三神を連想しちゃうです。
不思議なお宮です。

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毘沙門天 その三

もともと力を持つ神だけに、ご利益が多く、富や財宝、不老長寿、戦勝祈願、神通力、無病息災など人間にかかわるすべてに霊感があるとされるのです。
特に、白獅子に乗り、右手に宝棒、左手に家に福徳を持ち込むとされるマングースを抱えた毘沙門天が最も徳高い物とされています。

毘沙門天は、主に関西地方の寺院に多く祀られています。
特に大和国信貴山の毘沙門天は名高く、『太平記』巻三の一、主上(後醍醐天皇)御夢事附楠事の段に、「その母(楠正成の母)若かりし時、志貴(信貴)の毘沙門に百日詣で、夢想を感じて設けたる子と候とて、幼な名を多聞とは申候也とぞ」と記されてあるので、楠正成の幼名は多聞丸ということがわかるのです。
それと、毘沙門信仰の周辺には多聞の名前が多く見られるところから、多聞とは毘沙門のことという説も、以前からあります。

信貴山の奥之院は、本堂から約2Km北方にあり、ここの本尊は、聖徳太子作といわれ、太子が物部守屋戸討伐の時に、阪部大臣(さかべのおとど)に化現(けげん)されて、先陣・先鋒で群がる敵を薙倒したので、尊像は白く汗をかいたように見えるといわれ、一名を「汗かき毘沙門天」といわれています。

奥之院の本堂脇に雨が降るならば、土中から焼米が出てきて、その焼米はどんな病にも効く薬になるという信仰があるのです。
この焼米は、聖徳太子が毘沙門天から陣中米と授かったもので、無尽蔵に近いくらい土中にあると土地の人は言い伝えています。
戦国時代には、戦国時代には、松永弾正久秀の出城(永禄3年(1560)築城)があったところだから、その城中米が土中に埋まっていたのかもしれないのです。

信貴山縁起絵巻といえば、長者の倉ごと米を運んだ鉢の絵が有名ですね。
空飛ぶ鉢で托鉢する話の一つとして、語られています。
このような縁起が語られる裏に、この毘沙門天から授かったとされる陣中米伝承があるからかも。

江戸時代末期編纂の『新編相模国風土記稿』三浦郡毘沙門村の条(くだり)に、「江戸より十九里。毘沙門郷と唱ふ。村内に毘沙門堂あり、故に地名となる(中略)○毘沙門堂、当所の海中より出現の像を置く、長さ三尺許、今も波海中より正月3日鶏鳴に竜燈現ずと云、前立毘沙門吉祥天の像あり、慈雲寺持(臨済宗)」とあるのです。

寺伝によると、堂の下の通称、白浜海岸に流れ着いた像を、村民が拾い上げて洞窟内に祀っていたといいます。
その頃諸国巡錫中の菩薩が、その像を見て、「大変尊い毘沙門天像だから秘仏としたらよかろう」と語り、岩殿山と呼ぶ台地で自ら他の木に彫刻し、堂を建立して安置したのに始まると伝えられるのです。
その彫像を作成した時に出た木屑を埋めた場所を村民は木端塚と呼び、手を触れることを禁じたというのです。

『新編相模国風土記稿』所載の通り、前立2体を新たに作り、海中出現仏と行基彫像の古い2体を秘仏として33年目ごとに開扉されるというのです。
この毘沙門堂付近の山中に、社護尊天(社宮司)・第六天の2天の石祠が祀ってあり、底辺の景色のよいところで、現在は関東近辺の気軽な行楽地として賑わっているようです。

さて、毘沙門天が、七福神の1つに加えられた理由には、1つは、勇気を持って悪に立ち向かえば、財をもたらすという性格から出たものであろうという説もあります。
幸福の神である吉祥天を妻としたところから、毘沙門天も、福をもたらす神とした説もあるのです。
またその軍神的性格から、貧乏神を退散させてくれるという説まであるのです。

でも、吉祥天は黒暗天と姉妹であり、二人一緒で受け入れる相手でないと、福の神としての仕事をしないはずです。
この黒暗天には、貧乏神という説があるのをご存知ですか。

吉祥天はもともと、インドの美と豊穣と幸運を司る女神ラクシュミーでした。
なおラクシュミーは、アラクシュミーという不幸を司る女神を姉に持つともされます。
ここが黒暗天と姉妹とされるもとなのです。

ラクシュミーが、ヴィシュヌの妻になる際にこう請願しました。
「私があなたの妻になる条件として姉にも配偶者を付けるように」
そこでヴィシュヌはある聖仙(リシ)とアラクシュミーを結婚させ、晴れてヴィシュヌとラクシュミーは一緒になったという神話も一方で残っているのです。
黒暗天もともに引き受けるよう求める起源は、ここにあるのですね。

退散される貧乏神が黒暗天なら、なぜ吉祥天は貧乏神をかばわないのでしょう。
つまり、黒暗天の正体は貧乏神などではないといっているようなもの。
黒暗天は、みすぼらしく格好が悪いけど、貧乏ななりをしているけど、人の足を引っ張る貧乏神なんかじゃないということなのかもしれないですね。

ならば、毘沙門天が退散させる貧乏神とは何者なのでしょう。

ねたむもの、うらむもの、さまたげるもの、ではないでしょうか。

となると、毘沙門天が退散する貧乏神とは、転落してサタンとなったルシファーのような存在かもしれないですね。

最後に、毘沙門天の真言だが、「ナウマク サマンダボダナン ベイシラマンダヤ ソワカ」であり、「この真言を唱えれば、福徳・戦勝・神通力などの功徳がある。」という意味だそうです。

毘沙門天の信仰は日本3大霊場といわれる次の寺社があるのです。

1.信貴山朝護孫子寺(奈良県)
寅年、寅月、寅の日、寅の刻に毘沙門天が出現したことから寅の日が縁日になったという。

2.鞍馬寺(京都)
牛若丸の修行や鞍馬天狗、10月22日の火祭りなどが有名。

3.毘沙門堂(京都)
大宝3年(703年)に奈良に建てられた。
平安遷都のときに京都洛北に移され、最澄が自刻の毘沙門天を安置したといわれています。
江戸時代に安祥寺の旧跡に移って現在に至っています。

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毘沙門天 その二

毘沙門天には、『毘沙門天経』に、「毘沙門天王を願せば信、戒、聞、捨、受、捨、慧、貌、力、弁、色声香味触富貴自在の十種の福利を獲得し、仏法中に於て法眼を開き、聖果を証得すべし」とあるように、財宝福徳の仏神と子宝を授かるという信仰も強いのです。

さらに、『北方毘沙門天随軍護法真言』に、「仏は毘沙門に勅して、天兵を領して界を守り。国土を擁護すべしと告げられたり」とあるように、軍神(いくさがみ)としての信仰も厚いのです。

武将上杉謙信も毘沙門天を信仰し、戦旗に毘沙門天の「毘」の字を掲げ、戦の神を味方にしていた事はあまりにも有名です。

1.浄信(清らかな信仰)
2.戒(行いを慎むための戒め)
3.聞(教えを聴聞すること)
4.捨(悪い見解を捨てること)
5.受(善業の果報を受けること)
6.慧(悟りを得るのに不可欠な大切な知慧)
7.形貌(姿形)
8.力(10の知慧の力。勢力、威力)
9.辯(なしとげること)
10.色声香味触富貴自在(自由自在)

唐の玄奘が、天宝元年(742)(天宝9年または12年説もある)、西蕃(せいばん)の入冦(にゅうこう)の際に、時の名僧第一として誉れの高かった不空三蔵に命じて毘沙門天に祈らしめたところ、毘沙門第二子の独健が鎧、兜に身を固め矛を取って現れ、蕃敵を潰走せしめた・・・・・・と『宋高僧伝』に伝えているのです。

さらに日本でも、『日本書紀』第21には、聖徳太子が物部守屋(もののべもりや)を征討した時、四天王像を造って祈願して戦勝し、後に摂津国に四天王寺を造立した・・・・・・
ということが記されているように、戦勝護国の仏神としても大いに信奉されてきたのです。

平安時代、王城守護のために平安京羅城門上に、同京の北方鎮護のために鞍馬寺に、それぞれ毘沙門天が安置されました。

京都洛北の天狗と源義経で名高い鞍馬寺の兜跋(とばつ)毘沙門天像や高野山竜光院などの毘沙門天像は、古来から怨敵退散・国土鎮護の霊像と仰がれてきたのです。
鞍馬寺の兜跋毘沙門天像は、刀八とも書かれ、軍陣に望む姿である八本の手全部に刀を持つ姿です。
普通、毘沙門は二本の腕で作られることを思えば、鞍馬山の兜跋毘沙門天はなぜ、腕が八本なのでしょう。

毘沙門天の、四天王の中で単独に信仰されるようになるのは、この鞍馬寺の存在が大きいのです。
のちに源九郎判官義経を名乗る牛若丸は、鞍馬寺の山奥で天狗から、兵法を習い「虎の巻」を授かったという話を御存知な方も多いのではないでしょうか。
牛若丸は、様々な叡智と技術、それに格闘術を、天狗から伝授されたと伝えられているのです。
八は、「ヤ」とも読まれるけど、「ヤー」は「ヤハウエ」の略としてしばしば使われるのです。
天狗に古代イスラエル説まで出されるとなると、その鞍馬の毘沙門の八本の腕があるという姿形まで何か関連ありかと疑いたくなります。

京都の北を守る神として意識されて信仰が広がり、武運の神として武将たちが信仰したのです。
なぜ、北を守る神が特別なのでしょう。
それは、陰陽道で北が天に配当されるからかも、しれません。
天の守護神とされたなら、毘沙門天が四天王を代表して単独崇拝されるのも、うなずけそうです。

また「幸福の女神」吉祥天が毘沙門天の妻とされたことから、やはり毘沙門天も幸福を授ける神だという面が強くなりました。

毘沙門天の像の一般的特徴は、頭に鳥形の冠(三面だての宝冠で、その正面に翼を広げた鳥の姿を表す)、身に甲冑、左手に塔(もしくは腰に手を当てる)、右手に宝棒(もしくは戟)を持っているのが普通です。
左手の宝塔は八万四千の法蔵、十二部経の文義を具し、右手の宝棒は悪霊を退散させ財宝をさずけるというのです。
また甲冑を身につけているのは魔を寄せつけぬためともいわれるのです。
仏教徒や密教・華喬の間では金財運・人気運・商売運の徳を得るため仏教徒や密教・華喬の間では金財運・人気運・商売運の徳を得るために毘沙門天の曼荼羅を北側の壁に掛ける習慣 がありました。

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毘沙門天 その一

毘沙門天の起源はヒンズー教やバラモン教の中に見いだすことができ、極めて古いものです。
1000年間の苦しい修行を、積んだとされてるのです。

毘沙門天は、梵名のバイシュラマナ(Vaisravana)を訳したもので、仏の教えをよく聞くという意味で、多聞・普聞・遍聞などとも訳されるのです。
また中国で、吠室羅末拏(べいしらまぬ)・毘舎羅門などと音写され、それが変化し毘沙門となるのです。

今では、七福神の一神として有名です。
もともとはインドの神から、仏教の神に採り入れられた神です。
日本では吉祥天が毘沙門天の奥様ということになっているのです。

インド古代叙事詩「マハーバーラタ」では、宇宙の創造主プラチャーバティの孫とされるのです。
全世界の富と不老不死の命を与えられ、スリランカにあるランカーの宮殿に住み、空飛ぶ乗り物プシュパカを走らせる暗黒界の悪霊の長だったのです。

ヒンドゥー教では、ヒマラヤから産出された富を自在に扱う神となり、クーベラと呼ばれ、財宝福徳を司る神となるのです。
さらに、後には夜叉・羅刹を支配して国土を守護する武神とされたのです。
だから、正確に言えば、インドの神ではなく、スリランカつまりセイ