民俗

琴の起源は?

サルタリーやサルテリー、プサルテリー、プサルタリー、プサルタとも呼ばれるプサルテリウムとは、木箱に24本のピアノ線を張った楽器を指します。

ギリシャ語ではプサルテリオンと呼ばれるこの楽器は、共鳴箱に弦を張った単純な構造しています。

中世ヨーロッパ12~15世紀に各地に普及していたようです。

形は台形や長方形などいろいろあります。

古い絵画を見ると、胸に抱えて指ではじいていたり、膝の上で弾いていたり、弓を使ったりで奏法も様々だったようです。

より大きな音を求められるようになったプサルテリウムはやがて、鍵盤を用いるハープシコード、ハープシコードはさらに打弦楽器のピアノへと姿を変えていくことになります。

プサルテリウムはまた、ハンマーで叩く打弦楽器のダルシマーの仲間達を生み出していきます。

日本語聖書では琴、英語聖書では欽定訳として知られる King James Bibleはプサルタリー(psalteryあるいは複数形psalteries)近年の訳ではハープ(harp)となって、主に詩編でよく登場します。

プサルタリーは一度はすたれた古楽器で、20世紀になって古い音楽演奏のために復活し、今では様々な大きさがあるようです。

プサルタリーは、近代の英訳聖書にあるようにハープと訳されることがあります。

ハープシコードの起源となったことからもわかるように、携帯できる弦楽器としての展開もあります。

竪琴や巨大化した据え置きのハープ、ギターやバンジョーやウクレレの仲間達、琵琶や三線や三味線、バイオリンやチェロ、あるいは馬頭琴や二胡や一弦琴の仲間達など、プサルテリウムの子孫は多様な展開を見せます。

とは言えプサルテリウムの子孫で、おそらくはご先祖様の姿に一番近いのは今日も日本に残る琴の仲間達でしょう。

ではなぜ、プサルテリウムは形は変わったとはいえ日本で今日まで残ったのでしょう。

もちろん琴は分類上はチターとも呼ばれるツィターの仲間なので、外国にも仲間達はいます。

中国の古琴(グーチン)や古筝(グーチェン)、朝鮮の伽耶琴(カヤグム)や玄琴(コムンゴ)や牙筝(アジェン)、ヨーロッパではアルプス特にオーストリアのツィター、フィンランドのカンテレなどです。

朝鮮は日本への伝達ルートとして、残っていても自然でしょうね。

歴史が非情にも消し去る場合もありますけども。

ヨーロッパで面白いのは、山岳地帯に主に残っている事です。

こういう地域は、古い文化が残りやすいからです。

中世文化の置き土産でしょうね。

もっと遡れば、ローマ帝国までいけることでしょう。

となると、プサルテリウムの子孫たちが生き残ってる地域とは、古代中東文化の影響が残っている地域という事でしょうか。

中国や朝鮮や日本の琴の仲間達はツィターの仲間達の中でも、プサルテリウムの原形に近いと言えます。

特に古代中東やギリシャやローマに近い生活様式が残っているのは、日本でしょう。

何しろ明治まで椅子の生活は、不思議な位普及しなかったのです。

朝鮮にまで来ていたにも、関わらずです。

古代ギリシアやローマには、椅子の生活文化は何故かありません。

上層階級に至るまで、ないのです。

もちろん古代のイスラエルやユダにも、ありません。

日本も基本的にはなかったと言えるでしょう。

高御座のような例外はあったとしてもです。

古代イスラエルは遊牧民が作った国家でした。

では、古代ギリシアやローマは、そして、日本は、どうだったのでしょう。

気になるところです。

追記

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チェンバロの起源を考える。

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米沢と秦氏と鉱山と?

山形県米沢市の界隈には藤原ゆかりの苗字、例えば佐藤は結構あるようですね。

そして、藤原系の祭司一族である小林一族もいるのです。

秦氏ゆかりの神社である、成島八幡宮もあるのです。

これはひょっとしてと米沢と養蚕のつながりを調べてみると、養蚕は米沢にとって重要な産業なのですね。

藩主上杉景勝の側近だった直江兼続は、藩の収益拡大を図るため、織物の素材となる青苧(あおそ)や絹を生む蚕の餌となる桑、染料となる紅花などの栽培を奨励したのです。

青苧や桑や紅花は藩の特産物として、織物産地に売り出されたのです。

じゃ、養蚕と米沢のつながりはどうなっているのかですね。

米沢の「市」や町人町の発祥地ともいわれる米沢の鎮守、白子神社が面白いです。

米沢の鎮守とされたのは確認される範囲では、平安時代、この地方を鎮めに来た小野良春によって社殿が建替えられた時からと伝えているのです。

白子神社は和同5年(712)の創建と、大変古い由緒を伝えているのです。

白子神社の由緒は、こうです。

神のお告げによって桑林に蚕が生じ、桑を食べている光景は雪が降ったように白一色で、やがてその蚕は繭を作り、この不思議な現象により、この地を白蚕(白子に由来する)村と呼び、和同5年に神社を建て白蚕(白子)明神とした、というものです。

この不思議の背景には、秦氏が関わっていたのではないでしょうか。

どういう繋がりや理由やきっかけがあったのか、それはわからないです。

ただ、米沢の近くには八谷鉱山や滑川鉱山があるのです。

八谷鉱山は、金、銀、銅、鉛、亜鉛などを主に産出した鉱山です。

滑川鉱山は、渇鉄鉱が採掘されました。

殖産に関わりの深いことで知られる秦氏は、これらの鉱山に目をつけていた可能性は考えてもいいかも知れません。

とは言え鉱山経営は、軌道に乗るまでに時間もかかるし、資金も必要ですよね

その資金稼ぎの手段として、養蚕を手掛けたのでしょうか。

養蚕で得た富を背景に、鉱山開発に乗り出す目論見はあったかも知れません。

米沢織は、秦氏の目論見にまで遡るのでしょうか。

じゃ、米沢牛との関わりはどうよって思いますよね。

米沢牛の歴史は、案外浅いようなのです。

岩手県南部から鉄を運ぶのに使われた牛は、米沢地方を通る越後街道沿いの村々に売っていったそうです。

その牛の飼育の歴史の上に、米沢牛はあると言うのです。

じゃあ、米沢の近くの鉱山は秦氏は手をつけなかったのでしょうか。

岩手県には、松尾神社が二つ祀られているのです。

松尾神社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)は、元々は秦氏の神だったそうです。

ちなみに大山咋神は、山に杭を打ちその所有を示す神であるというのです。

じゃあ、岩手県南部の鉄の方が採掘が容易なので米沢の鉱山は後回しになったのでしょうか。

米沢近郊の鉱山と秦氏の関係は、謎のままです。

でも、秦氏と鉱山の関わりはおぼろげながら、見えてきたかも知れません。

米沢と秦氏、何かありそうですね。

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雲南省の少数民族の気になる食文化。

中国の雲南省、日本の発酵食品のルーツがあるとされる地域です。

中国雲南省の少数民族、味噌とも納豆ともつかない大豆の発酵食品があるのです。

ここから、味噌や醤油や納豆が分かれたのでしょうか。

豆腐も、カビさせたまるでチーズのようなものがあるのです。

豆腐は、家畜の乳が手に入らない条件下でやむを得ず作られたチーズの代用品だったのでしょうか。

豚足で作られた、豚節としか言いようのない食品があるのです。

鰹節などは、豚節の代用品だったのでしょうか。

なれ鮨も、魚ばかりか牛肉のものもあるのです。

なれ鮨はこの土地の保存食だが、蛋白質の発酵食品と言う点ではチーズの延長線上にあるのでしょうか。

それと、地面に埋めて発酵されたお茶を食べる文化もあるのです。

日本ではお茶ではなくて、納豆が地面に埋めて作られる地域があるのです。

何でそうなったのでしょう。

焼酎の発酵も、最も原始的な製造法が残っているのです。

原始的な蒸留の酒粕は栄養がまだたっぷり残っているが、豚の餌になるのです。

そして豚の排泄物から作られた肥料は、焼酎の材料となる作物に使われるのです。

雲南省の少数民族である彼等のルーツが、気になるのです。

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秦氏と塩?

猿田彦はソルト彦ではないかと、あたりをつけた事がありました。

そして猿田彦は熊野とも繋がりがあるので、熊野もまた塩で知られます。

和歌山県色川地域で、昔ながらの製法で製塩している業者がいるのです。

どうやら「熊野」の名前は「カムイ」の転訛のようです。

昔の日本語はワ行母音に近い二重母音で、「カムイ」は「クヮムィ」であったのです。

「クヮムィ」が発音の平唇音化で音が明瞭化し、「クヮムノ」「クマノ」「熊野」と転訛したのです。

アイヌの神送りの行事「イヨマンテ」で熊の霊を天に返すのも、熊がカムイの転訛だからかも知れないですね。

それはさておき、熊野を名乗る神社は各地にあるけど、香川にも面白い土地があります。

温泉施設が数多く点在する塩江温泉郷、熊野権現神社や岩部八幡神社があるのです。

塩江温泉郷は約1,300年前の奈良時代に僧行基によって発見され、弘法大師空海が湯治の地として伝えたという由緒正しき温泉地の総称です。

県内最古の温泉郷で「高松の奥座敷」として親しまれています。

塩江温泉の泉質は、単純硫化水素泉です。

硫化水素イオンは硫化水素を水酸化 アルカリなどの塩基性水溶液に溶解することでも発生するのです。

これらは酸化されやすく、還元剤となるのです。

遷移金属塩の水溶液は硫化物 (H 2 S, NaSH, Na 2 S 等) と反応して、固体の塩を沈澱するのです。

この塩が、塩江の名の由来になったのです。

塩が取れるところに熊野神社、どうやら熊野神社自身も塩と縁があるようです。

そして塩が取れる塩江に秦氏ゆかりの八幡神社、流石はビジネス豪族秦氏ですよね。

そう思って見ると、熊野八幡神社は全国各地にあるし、熊野古道の三重県でも熊野神社からそう遠くない地に八幡神社はあるのです。

秦氏と言えば機織りの印象が強いが、秦氏と塩も注目してみても面白そうですね。

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イスラム法の背景を考えてみた。

イスラム社会はイスラム法を持つが、それは拠点を持った共同体を守る必要があったからなのです。

ユダヤ教に宗教的規範はあっても法がないのは、離散したのでユダヤ人としての連帯はあっても拠点を持った共同体がなかったからです。

キリスト教法学がないのは、救いの教えに徹し教団はあるが共同体がなかったからです。

キリスト教徒の共同体が営まれた時期や地域はあるが、それはむしろ例外なのです。

教団は政治的には中立を保つか、一部地域のように教会が世俗権力と癒着するか、いずれにしてもキリスト教徒自身による共同体は一般化しなかったので、キリスト教法学はできなかったのです。

イスラム法は彼らの社会の置かれた状況を反映して成立したが、聖書やコーランの教えに基づいて作られたのです。

だからイスラム法に基づいて運営されるイスラム社会は、聖書とコーランに比較的忠実な社会なのです。

運用の現実はアラブ社会の慣習によって歪められた部分もあるのは、残念な現実ではあります。

イスラム社会にしばしばみられる問題があるからと、イスラムの教えを誤解しないで欲しいのです。

コーランや聖書の教えと、アラブ社会の旧弊が入り混じったのが現実のイスラム社会なのですからね。

キリスト教社会だって、それぞれの社会の旧弊を少なからず引きずって歪められた側面があります。

キリスト教社会にもその歪められた側面だけ見て、キリスト教を邪教と勘違いしている人達が少なからずいる残念な現実があるのです。

聖典を正しく理解するのは大事だけど、容易ではないのです。

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イスラム法の背景を考えてみた。

イスラム社会はイスラム法を持つが、それは拠点を持った共同体を守る必要があったからなのです。

ユダヤ教に宗教的規範はあっても法がないのは、離散したのでユダヤ人としての連帯はあっても拠点を持った共同体がなかったからです。

キリスト教法学がないのは、救いの教えに徹し教団はあるが共同体がなかったからです。

キリスト教徒の共同体が営まれた時期や地域はあるが、それはむしろ例外なのです。

教団は政治的には中立を保つか、一部地域のように教会が世俗権力と癒着するか、いずれにしてもキリスト教徒自身による共同体は一般化しなかったので、キリスト教法学はできなかったのです。

イスラム法は彼らの社会の置かれた状況を反映して成立したが、聖書やコーランの教えに基づいて作られたのです。

だからイスラム法に基づいて運営されるイスラム社会は、聖書とコーランに比較的忠実な社会なのです。

運用の現実はアラブ社会の慣習によって歪められた部分もあるのは、残念な現実ではあります。

イスラム社会にしばしばみられる問題があるからと、イスラムの教えを誤解しないで欲しいのです。

コーランや聖書の教えと、アラブ社会の旧弊が入り混じったのが現実のイスラム社会なのですからね。

キリスト教社会だって、それぞれの社会の旧弊を少なからず引きずって歪められた側面があります。

キリスト教社会にもその歪められた側面だけ見て、キリスト教を邪教と勘違いしている人達が少なからずいる残念な現実があるのです。

聖典を正しく理解するのは大事だけど、容易ではないのです。

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日本の古墳はマナの壺か。

大王一族の葬られた古墳は大小合わせて複数作られるが、最大なものは三段で堀に囲まれています。

埋葬者が葬られた石室は、後円部にあります。

この形は陰陽で解けるのです。

三段は天人地で、方は地で円は天、水も天、つまり天の頂点に葬られたのです。

前方後円墳には左右に張り出しがあります。

埋葬者の石棺は、張り出しに船で運ばれたのです。

石棺の形は、船を伏せた形式と見えるのです。

周囲にでっぱりはあるが、運搬用に付けられたとみれば納得できるものです。

埋葬者の石棺は、船で古墳に移動したのです。

だが、前方後円墳には張り出しが二つあります。

古墳に着くためのものと古墳からさらに天へ向かうためのものと解釈できるが、壺の取っ手を意識したのだという解釈もあるのです。

古墳は様々な形で作られた、それはなぜかと言うことです。

もし壺としたなら、前方後円墳だけが壺なわけがないニャ。

古墳はすべて壺を模ったのかもしれないのです。

祭祀用の壺の形は多彩です。

もしすべての古墳が壺を意識して模られたとするなら、どうなるでしょう。

歴史上最も有名な壺があります。

聖書のマナの壺です。

日本の古墳、特に前方後円墳はマナの壺を模ったという説があるのです。

確かに偶然にしては似過ぎています。

そこで日ユ同祖論の証拠の一つに、良く挙げられるのです。

実際、日本はユダヤと似ているのです。

ヘブル語と日本語、音と意味が似ている言葉が多いって聞きます。

ヘブル文字とカタカナも、似ていると指摘されます。

神社なんか、古代イスラエルの幕屋や神殿と構造はそっくりです。

ほかにもあるけど、主なものだけでもそれだけあります。

その日本の前方後円墳が、マナの壺に似ているのです。

不思議でしょう。

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大嘗祭

大嘗祭では、わざわざ内部の作りが同じ悠紀殿と主基殿が作られます。

悠紀殿と主基殿は簡素な材料で質素に作られ、古い時代の神社の形はこうであっただろうと連想出来ます。

大嘗祭で見落とされがちなのは、悠紀殿と主基殿が大社造りな事です。

大社造りと言えば、大国主命を祀る出雲大社の様式ですね。

しかも、それが二つ並べて作られ、それぞれの千木が内そぎの女千木と外そぎの男千木なのです。

女千木と男千木、つまりこれは陰陽を意識して悠紀殿と主基殿が作られていると言う事なのです。

具体的には、東西南北、上旬下旬、春夏秋冬、午前午後、前後左右、などを表し森羅万象をつかさどる八百万の神々を表しているのです。

森羅万象の八百万の神々と天皇が会食する儀式が、大嘗祭なのです。

天皇が悠紀殿と主基殿で神々と会食するのは大社造りの本殿に当たる場、伊勢神宮の方角に向かって神々と会食するのが大嘗祭なのです。

天皇の神々と会食をする場所の傍らには、寝座があります。

寝座はさまざまな憶測を生んでいるけれども、寝座は神座に通じ、この空間が神の場である事を示しているのです。

神道は基本的に偶像は作らない、そこで何らかの象徴で暗示するわけです。

霊の世界に入る事は、しばしば眠りに例えられます。

安らかにお眠りくださいなども、その一例ですよね。

それで寝座は、神座ともなるわけです。

新嘗祭も収穫を喜ぶ天皇と神々の会食だが、大嘗祭は新任天皇が神々と初顔合わせする儀式のようなものと言えるのではないでしょうか。

もちろんシンボルだから、他の解釈もあり得るでしょうけども。

なお天皇が神社をかたどった悠紀殿と主基殿の本殿にあたる場で神々と会食出来るのは、天皇が祭司それも最高祭司だからなのです。

大嘗祭とは、最高祭司としての天皇の座にこれから就く際の神々に対する就任パーティーのようなものではないでしょうか。

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御所と太陽の船?

京都御所の紫宸殿、内部は一間で天井板は無く屋根裏は船底天井なのです。

これ、ひょっとしたら船を現すのでしょうか。

気になるのは皇祖天照大御神を祀る伊勢神宮に、御船代がある事なのです。

これ、偶然でしょうか

神社は、たいてい屋根は板葺です。

鳥居、拝殿、本殿、祀られるのは太陽神を頂点とした神々です。

まるで神社が、太陽神の船に見えて来ませんか。

神道と古代エジプトの似ているのは、太陽神を頂点に動物神を交えた三神構造で神々が祀られるところです。

日本の神社の配置は古代エジプトの神殿に似るが、神像が無く賽銭箱がある点が違うだけなのです。

ファラオも天皇も、太陽神の末裔とされるのでしたね。

紫宸殿は右近の橘と左近の桜の背後にあり、一番奥に玉座の高御座、この構図は神社に似てないでしょうか。

紫宸殿の前の右近の橘と左近の桜は、鳥居に見立てても良いのでないでしょうか。

そうなると気になるのは、紫宸殿は大きな一間の船底天井の内部に拝殿と本殿が配されるのはなぜかなのです。

紫宸殿は、太陽の船を現すのではないでしょうか。

菊花紋の正体は、古代中東の太陽神紋でありアクエンアテンが復活させようとしたアテンなのでしょうか。

古代エジプトでとん挫したアテン信仰を、古代エジプトの神話大系でカモフラージュしたのが日本の神話の神々だったのでしょうか。

もっと探索が必要なのは、確かですけどね。

古代エジプトとの奇妙な類似、これが指し示すのはなになのでしょう。

天孫一族の正体は、亡命してきたファラオの一族だったのでしょうか。

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令和と言う元号から連想したこと…。

日本の元号は、平成から令和に変わったのは皆さんご存知の通りです。

しかし、民俗に興味がある私は、実はオカルトぽいことにも関心があります。

聖書に関係あるオカルトと言えば、カッバーラです。

このカッバーラで私なりに、日本の元号が令和になった意味を解釈してみました。

これはどこまでも、私だったらこう思うという事なので、カッバーラに関心のある人なら誰でもこう解釈するというわけではないとお断りしておきます。

日本の国名は、日出ずる国と言う解釈で間違いありません。

でも、日本の天皇陛下は太陽神天照大御神の子孫とされているので、日本の国名はこうも解釈できるのです。

「日」は「太陽神天照大御神」「本」は「そのおひざ元」で、「太陽神天照大御神のお膝元の国」が日本と言う事になるでしょう。

だがこの天照大御神の岩戸隠れには、天照大御神の死と復活という解釈が成り立つのです。

太陽神のお隠れで世界が暗くなりそのお出ましに女性が立ち会う構図は、実はイエスキリストの死と復活の際の構図とそっくりなので、焼き直し説も出ています。

天照大御神はもともと、男性神天照国輝彦であったのが女性神にすり替えられたという説は根強くあります。

男性神であれば、なおさら焼き直しの可能性は高まります。

そこで、天照国輝彦はイエスキリストが正体と置くとこうなります。

「日」は「義の太陽神イエス」「本」は「木」と「十」で「十字架のイエス」。

つまり、日本は実はキリスト教の国であったとなってしまうのです。

何しろ天孫降臨とは、古代イスラエルの支族が来た事を表すとの説が出ています。

さらに、渡来人の中でも最大級の勢力である秦氏にも原始キリスト教徒説があります。

そして天皇は実は天皇陛下なので「天の神様の預言者」と解釈しても間違いではないのです。

何しろ天照大御神の子孫の位置付けなので、神様の代理人つまり、預言者と言う意味が天皇陛下と言う意味に込められていてもおかしくないのです。

そして、古代イスラエルは預言者に導かれた民族であったことを思えば、その指導者である天皇陛下は天の神様の預言者であってもおかしくないし、むしろ、自然なのです。

そして、令和と言う元号です。

「令」は「従うべき言葉」の意味でつかわれることが多いです。

では、「和」はどうでしょう。

カッバーラとしてみれば、こうなるでしょう。

木の字は「十」と「人」で「生命の樹」、「禾」の「ノ」は罪状版、ここに「口」で「和」。
だから「和」と言うのは「十字架で果てたイエスに従う」ってこと。

合わせて、「令和」は「イエスに従うべき時が近づいた」となるでしょう。

今の世界の状況は、イエスキリストの末日予言を連想できると指摘する人達がいることと重ねると、今後どういう展開になるでしょう。

注意して見ていきたいものです。

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