歴史

発酵食品をもっと見直した方が良いかも。

科学的根拠を確かめたわけじゃないから憶測でしかないけど、アジア諸国で全体的に新型コロナウイルス感染者が少ない理由として生活習慣の差は大きいと思えるのです

食は体を作るが、アジア諸国の食生活で目立つのはやはり発酵食品ではないでしょうか。

欧米では、地域差はあっても酒を除けばチーズやヨーグルト位のものでしょう。

アジア、特に南アジアは気候的に腐敗との戦いだったはずなのです

腐敗菌は好気性が多いが発酵菌は嫌気性が多いので、腐敗対策をどんなにしても発酵は避けにくかったでしょう。

アジアで発酵食品が多いのは気候風土のせいも大きいだろうが、それが新型コロナウイルス感染者が少ないのと関係あるのでしょうか。

アジア諸国の新型コロナウイルス感染者が少ないのと発酵食品の相関関係は偶然か必然か、どっちにしても感染者が少ないのは確かなので発酵食品を美味しくいただくようにしましょう。

効果があろうがなかろうが、おいしいからどちらでもいいですよね

健康と発酵食品で、思い出しました。

甘酒は江戸時代、夏バテ防止の栄養ドリンクだったらしいのです。

栄養価ももちろんだが、発酵食品のよさは消化吸収が良い事ですよね

江戸っ子は、甘酒をあったかくして飲んでいたと言います。

暑いからと冷やしすぎるのは体に良くないから、これも生活の知恵でしょうか。

美味しくて奥が深い発酵食品、もっと健康との繋がりが研究されると良いですね。

| | コメント (0)

失敗から学べないなら危機管理を充実させられない。

日本人はしばしば、悪い予想に対して「縁起が悪い」と言います。

これは「言霊」や「噂をすれば影が差す」と言う、昔から言い伝えられてきた考えと関係があるかも知れません。

だからできるだけ良い結果を呼び寄せたいと、悪い予想より良い予想をするのでしょう。

危機管理と言う立場からすれば、まずいのですがね。

しかしそうは言っても、それを改めるのは容易ではありません。

日本人が「縁起」や「ゲン担ぎ」にこだわるのは失敗を恐れるからで、もし失敗したら容易に次の機会を得られなくなるのが日本の常だからです

かつて日本人にとって仕事は自然に対するものが多く、失敗が危険と隣り合わせに成りやすいからかもしれません

一度の失敗で全てが無になるのだから、失敗は恐怖の対象なのです。

ゲン担ぎ(験担ぎ)は、ある物事に対して以前に良い結果が出た行為を繰り返し行うことで吉兆を推し量ることで、縁起担ぎの一種です。

良い結果を招くためのまじないのようなもので、良い結果をどうしても欲しい場合、不安による失敗を防ぐ心理的な効果もあるので一概に迷信と片付けられないのです。

「縁起」とは、一種の因果関係についての考えです。

因果関係を、ありとあらゆる事柄の間に見ようとするのです。

そこで、良い言霊や考えや物や出来事は良い結果を、悪い言霊や考えや物や出来事は悪い結果を、を呼び寄せたり予め告げると考えいわゆる「縁起物」を集めようとすることになるのです。

日本人の世界で本気で危機管理を根付かせるには、失敗してもやり直しが何度でも出来る環境つくりをするしかないでしょう。

より良い危機管理とは、過去から学びながら作り上げるものだからです。
もちろん、「縁起担ぎ」や「ゲン担ぎ」を全く無くすの不可能でしょう。
どんなに綿密な段取りを整えても、不安で失敗をしたら何のために備えてきたかわからなくなりますからね。
落ち着いて冷静に対処してこそ、良い結果を得やすくなるわけですから。
そのための「縁起担ぎ」や「ゲン担ぎ」は、これからも無くならないでしょう。

| | コメント (0)

この猫どこから?

北部から南西部にかけて九州山地や霧島の山々に囲まれて宮崎県の南西部に位置する小林市は知っていたが、字小林で検索をかけてみて驚いたのです。

字小林は、東北で結構見つかるのです。

山形県や岩手県や青森県など、東北の北三県だけでも驚く程あるのです。

地名辞典で探せばさらにあるかも知れないが、検索をかけて見つかるだけでもこれだけありました。

青森県では、十和田市大字相坂字小林、十和田市大字米田字小林、八戸市大字是川字小林、これはまだ序の口です。

岩手県では、一関市大東町大字渋川字小林、一関市千厩町大字小梨字小林、一関市大字滝沢字小林、奥州市前澤古城字小林、奥州市江刺米里字小林、奥州市丹沢郡衣川村字小林、盛岡市本宮字小林、大船渡市立根町字小林、宮古市田老字小林、興味深いのは奥州市の字小林です。

小林と言う苗字は藤原氏から出たと見られているからで、藤原氏の一族がいかにこれらの地に根付いていたかがわかります。

でも、山形県で思わず吹き出しました。

山形県では、山形市大字神尾字小林、東根市字小林、酒田市最上郡真室川町大字新町字小林、そして、なんと猫沢周辺に字小林がやたらと多いのです。

猫沢、気になる地名です。

小林は藤原氏の出とされるが、その藤原氏は秦氏の出と言われるのです。

秦氏と言えば、養蚕との繋がりはあまりにも有名です。

それに、これら小林の地名があるのは各県とも養蚕関連の信仰としておしらさまが祀られている地域なのです。

そうしてみると元をたどれば秦氏に繋がる可能性が強い小林の地名が、やたらと猫沢周辺にあるのは偶然でしょうか。

養蚕家が猫を飼っていたのは繭などをネズミから守る必要があるからで、猫沢と言われるくらいだから相当いたのでしょうか。

どうにも気になります。

猫絵の殿様などという話が出るくらい、猫を手に入れるのは大変だった時代です。

そんな地名にまでなるほどの猫、どこからどうやって手に入れたのでしょうね。

背後には、かなりの勢力がいたのでしょうか。

そう言えば、これらの市にはたいてい八幡様を祀る神社があったり、中には八幡が町の名前になっている地域があるのです。

八幡と言えば秦氏ゆかりの神社、しかも地域の名前になっている場合さえあるのは秦氏の一族がそれなりの勢力を持っていたわけです。

そして、養蚕関連のおしらさま信仰とくれば、これらの地域もまた秦氏の知られざる拠点の一つだったのでしょうか。

| | コメント (0)

アメリカ合衆国と社会政策と社会主義と聖書と…。

申命記 15章
7 あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。
8 必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。
アメリカは合衆国大統領が就任の宣誓の際に、聖書の上に手を置いて誓うはずですよね。
ならば、あれこれと屁理屈をこねて自分達の地域や合衆国にいる貧しい人々に無条件で手を広げようとしない人はいても少数派じゃないと、おかしくないでしょうか。
ところが実際には、あれこれと理由を並べ立ててそれを拒む人、アメリカ合衆国に多くないでしょうか。
聖書の神は、「もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。」と人々に諭しています。

彼らにとってアメリカ合衆国とは、「あなたの神、主が賜わる地」じゃなくて私や私の先祖が選んだ土地だからでしょうか。
自分達の今生きているのは自分達の努力の結果であってそれ以外の何物でもない、だから神は関係ないというのでしょうか。
考えたくはないけれどもしそうならば、アメリカ合衆国の人々の多くはこの聖句を思い出した方が良いでしょう。
イザヤ書 29章
13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。
アメリカ合衆国でクリスチャンと名乗る人の多くは、日曜日に教会で聞く聖職者の説教で聖書を学んだ気になっているのでしょう。
様々な出自の人々が共有している数少ない共通点の一つがクリスチャンであることだとすれば、自分達の通っている教会で聞く聖職者の話に少しでも疑問を持つならば、たちまち拠り所となるコミュニティを失いかねないからなのでしょうか。
ここで疑問がわきます。
この教義は聖書の教えの中でも、極めて基本的で大切なものではないでしょうか。
それなのに彼らが拒否反応を示すなら、何かわけがあるはずです。
この教えの実践は、まさに社会政策そのものです。
そして彼らの故郷の地で社会政策は、特権階級の保身としておこなれた性格が強いのです。
彼らは特権階級無き社会を求めて新天地に渡った人達の子孫だとすれば、社会政策の必要性を認める事はすなわち特権階級の存在を前提とした社会に自分達はいると認める事になりはしないかという感情があるのかもしれません。
そして近代民主主義社会で社会政策の充実を誰よりも求めて行動する人々は、社会主義者だったのです。
彼らは特権階級のアメリカ合衆国での存在を否定したいあまり、特権階級の存在を思い起こさせる社会政策に生理的に拒否反応を示すのでしょうか。
若い世代はそのような過去のトラウマより今の自分たちの置かれた状況を解決する方が先なので、社会政策の実行が社会主義なら社会主義は素晴らしいではないかと思うようになったのでしょう。
今後の展開に要注目ですね。

| | コメント (0)

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」この聖句を考え直してみます。

詩編22章の冒頭の言葉、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」はイエスの十字架上の言葉として、あまりにも有名です。

世間一般の解釈として、十字架で御父の助けも無く果てる我が身を嘆きながらまさに自身の生涯の預言詩であるこの詩を朗唱する途中で落命された、というのがあるのではないでしょうか。

イエスが御父の助けを全く期待していなかったかと言えば、人の子イエスとしてはそうだったかもしれません。

ゲッセマネで出来るなら飲まずに済ませたい苦い杯も、人の子イエスとしてはそうだったかもしれません。

でも、ゲッセマネでイエスが全身の毛穴から流された血の汗は、それだけが理由だったのでしょうか。

人の子イエスとしては、そうだったかもしれません。

だが私は、引っかかるのです。

最後の晩餐で弟子の一人の裏切りがあると、イエスが告げた際にその人について嘆いたこの一言です。

マタイによる福音書 26章
24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
イエスは贖罪の子羊として死ぬ自分の定めを決意して受け止めておられ、むしろ裏切る役回りになってしまった人の運命を嘆き悲しんでおられるのです。
イエスが飲まずにいられたらどんなに良かったかと嘆かれた苦い杯とは、苦楽を共にし心から愛して育て導いてきた弟子の中から自身を十字架に送る裏切りが出るという一番あって欲しくなかった展開が出来るなら嘘であって欲しいと言う悲しみでしょう。
イエスは布教の日々を、弟子の一人一人の思い出の数々を、思い浮かべていたでしょう。
拒まれた悲しみと、悩み苦しみながら成長していく弟子の姿、その挙句に来たのは弟子の裏切り、イエスの味わった挫折感の深さはどれ程だったでしょうか。
しかもその弟子達は、御父の同意無しに選んだ人は誰もいないはずなのです。
それなのに裏切りが弟子の中に出た、イエスの心の葛藤はどれだけ大きく激しかったでしょうか。
だからこそ、全身の毛穴から血の汗が出るほどに苦しまれたのではないでしょうか。
心の底から信頼し尊敬していた御父の人選だからこそ、ユダの裏切りが分かった時のイエスの悲しみと苦しみは普通の人なら耐えられないくらいだったでしょう。
だからこそ、裏切る弟子に対して生まれて来ない方が良かったと嘆かれたのではないでしょうか。
弟子達の前に毅然とした姿でいたイエスも、とうとうゲッセマネで限界に来たのではないでしょうか。
弟子達の前では頼れる師でいたいイエスは、苦しみ嘆き悲しむ姿を彼らに見せるわけなどあるはずがありません。
泣きはらした顔などを見せられる立場ではないイエスは、その苦しみと悲しみを血の汗として流されたのではないでしょうか。

ルカによる福音書 23章
34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
イエスが御父にとりなしの祈りをした時、自分を十字架にかけた全ての人のために祈られたのでしょうが、とりわけユダの裏切りに対してなのかもしれません。
この裏切りなしに、贖罪の子羊としての務めを果たすことはできなかったからです。
でも、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言うこの言葉の裏に込められている想いは、さらに深さがあるのかもしれませんね。

| | コメント (0)

なんで新約聖書に「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるのか。

聖書には、神は前もって告げ知らせないでは何事もなされないとあります。
アモス書 3章
7 まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。
考えて見れば、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言ってそこで止めているわけです。
例えばこの聖句のようにです。
マタイによる福音書 22章
32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。
出エジプト記でも、複数の聖句にアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とあります。
名乗りをヤコブの神で止めているとは、つまり、ヤコブの12支族の全ての子孫の神と名乗っている事になりませんか。
そして12支族は、世界に散っているのです。
もちろん12支族と行動を共にしていた居留民も、世界に散っています。
居留民が自分達の祖先が祀っていた神の儀式をして主の怒りを買ったとは聖書のどこにもないなら、居留民もまた自分達の身を寄せていた支族と共に祈りに参加しているのではないでしょうか。
となればヤコブの神は、12支族と行動を共にした居留民の神でもあったとなりませんか。
実は、12支族と居留民の子孫は今や世界中の民族や部族になっているのではないでしょうか。
という事は、ヤコブの神は世界中の人々の神となっていると言い換えても良いとなるでしょう。
御父はそれを見届けた段階で、御子を贖罪の子羊として地上に送られたという事でしょうか。
御父はなぜもっと早くに御子を遣わされなかったのか、その理由はこれ以外にあるでしょうか。
イスラエルになぜ居留民はいたのか、私は全ての民の神であるとヤコブの神は人々に告げていたのでしょうか。
イエスは旧約聖書を、私について予言しているとしています。
確かに個々の聖句にも、イエスの預言となっているものは多いです。
では、イエスが全ての民の救い主となるとどのように旧約聖書では預言されていたのかとなります。
旧約聖書にも、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神はイスラエルやユダヤだけの神ではないと示唆する記述は見つかります。
しかし一番の預言とは、イスラエルやユダヤの民が世界に散る事であり、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗っている正にその記述そのものにあるのかもしれません。

だからこそ新約聖書にも、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言う名乗りがあるのでしょう。
地上の全ての民はイエス生誕の時点で、ヤコブの子孫もしくはイスラエルの居留民の子孫のいずれかだったのでしょうから。

| | コメント (0)

聖書で最低限知っておいた方がいいことは?

聖書は長くいろいろ書かれているけれど、一番の基本はこれらの聖句につきてしまうかもしれません。

詩編 139編
1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。/主よ、あなたは私を調べ/私を知っておられる。
2 あなたは座るのも立つのも知り/遠くから私の思いを理解される。
3 旅するのも休むのもあなたは見通し/私の道を知り尽くしておられる。
4 私の舌に言葉が上る前に/主よ、あなたは何もかも知っておられる。
5 前からも後ろからも私を囲み/御手を私の上に置かれる。
6 その知識は、私にはあまりに不思議/高すぎて及びもつかない。
7 どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。/どこに逃れれば、御顔を避けられよう。
8 天に登ろうとも、あなたはそこにおられ/陰府に身を横たえようとも/あなたはそこにおられます。
9 暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも
10 そこでも、あなたの手は私を導き/右の手は私を離さない。
11 「闇は私を覆い隠せ。/私を囲む光は夜になれ」と言っても
12 闇もあなたには闇とはならず/夜も昼のように光り輝く。/闇も光も変わるところがない。
13 まことにあなたは私のはらわたを造り/母の胎内で私を編み上げた。
14 あなたに感謝します。/私は畏れ多いほどに/驚くべきものに造り上げられた。/あなたの業は不思議。/私の魂はそれをよく知っている。
15 私が秘められた所で造られ/地の底で織りなされたとき/あなたには私の骨も隠されてはいなかった。
16 胎児の私をあなたの目は見ていた。/すべてはあなたの書に記されている/形づくられた日々の/まだその一日も始まらないうちから。

主はいつも、私たち一人一人を知っておられると言うのです。
だからこそ、こうなるのかもしれませんね。

詩篇 9篇
10 み名を知る者はあなたに寄り頼みます。主よ、あなたを尋ね求める者を/あなたは捨てられたことがないからです。
ならば、こう思われないように日頃の言葉と行いに注意しないと…ならないのかニャ。
イザヤ書 29章
13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。

それでも、主はなお、寛大でいらっしゃるようですよ。

ルカによる福音書 15章
21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

そして御父はそのために御子に贖罪の子羊となるように、求められたと聖書は言うのです。
さらにイエスは十字架の上でさえ、なおも取り直しの祈りをなさったのと。

ルカによる福音書 23章
34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。

信じるかどうか別として、最低限これを知っていれば聖書の基本的な教えは分かったと言えるのではないかしら。
どんなもんでしょうね。

| | コメント (0)

興福寺の阿修羅像とキリスト教?

私は時折、キリスト教の教えと仏教の類似を面白く思います。
日本に伝わった大乗仏教の成立にキリスト教の影響があるだけではなく、仏教そのもの教えにキリスト教との類似を感じるのです。
それはさておき、興福寺で阿修羅像が収められていた西金堂に込められたメッセージが気になるのです。
興福寺の仏像の配置を知る手掛かりとして、曼荼羅図が残されていると言います。
その曼陀羅図をよく見ると、御仏の真正面で婆羅門の鳴らす金鼓(こんく)は御仏の教えを説く声の象徴だが、それを聞く十大弟子や八部衆は懺悔の表情を浮かべ、向かって左奥の阿修羅に至るのです。
その阿修羅の三つの顔は、十大弟子や八部衆の表情の正に集大成と言えるでしょう。
この阿修羅の三つの表情は、十大弟子や八部衆の懺悔の表情のアルファにしてオメガなのです。
この諸仏の像を作らせた光明皇后は、施薬院や悲田院さらには薬草の湯気で人々を癒す一種のサウナを作ったお方でもあります。
阿修羅は戦いの神とされるが、その阿修羅に人々の内面的な葛藤の表現を演じさせた光明皇后。
イスラムのジハードには、現世の戦いである小ジハードと内面の戦いである大ジハードがあります。
そしてイスラムもまた、聖書による宗派なのです。
ユダヤ教徒やキリスト教徒は、あまりジハードの教えが聖書に込められていると気が付いていないのではないでしょうか。
興福寺の阿修羅の表情の謎は、ジハードを知らない人には戸惑うでしょうが、光明皇后は明らかにジハードの思想を知っていたのかもしれないのです。
光明皇后は聖武天皇の后で、二人には東方キリスト教の影響が指摘されます。
光明皇后がこれら諸仏を西金堂に納めた動機には諸説あるが、まさか聖書の教えへの信仰告白なんてことはないでしょうね。
日本史とキリスト教には意外と繋がりがあるのかもしれない、そんな気になります。

| | コメント (0)

私達一人一人が国民主権獲得のために先人のどれだけの努力があったか知った方が良い。

首相だのそれぞれの省庁の長は、主権者の雇われ代行人に過ぎないのです。

そして民主主義では主権者は私達国民なので、首相以下各省庁の長に対しての指揮と監督の最終的な権限は私達国民にあるのです。

棄権や無関心は主権者たる者としての、責任逃れであると自覚した方が良いのです。

民主主義では主権者は私達国民なのだと、私達一人一人が自覚しているべきなのです。

もし、一握りの政党や政治家が憲法や法を踏みにじってしまう暴挙に出たなら彼らに断固として毅然とした態度で臨むのは主権者の責任なのです。

主権者たる国民は政治の現状に対する声を上げたらどうなるかを恐れるより、今声を上げないとどうなるかを恐れるべきなのです。

国民が主権者たる地位を得るまでに長い時間がかかったが、それを失うのは一瞬だと知るべきなのです。

| | コメント (0)

一筋縄ではいかぬアメリカの共和党と民主党。

日本人はアメリカの共和党や民主党を日本やヨーロッパの政党と似たようなもんだと思っているが、それではこれらの党の本質を見失うのです。

アメリカの二大政党である共和党にも民主党にも、党首はいないのです。

党首がいないという事は、党の路線について激論を交わす党大会も党首選挙も無いという事でもあるのです。

極端な話、アメリカの共和党も民主党も、大統領選挙などの選挙を戦うための互助会的な寄り合い所帯と見たらまず間違えないです。

共和党は主に保守派で民主党は主にリベラル派になっているが、それぞれの党が辿ってきたいきさつの結果に過ぎないのです。

共和党は北部で民主党は南部で強いが、背景にアメリカを二分した南北戦争があるです。

アメリカの統一を守るために大統領の周りに結集した共和党、南部の独自性を守るために結集した民主党。

共和党と民主党に党首がいないのは、この成立の過程とその後の歴史に原因があるのです。

アメリカの南北戦争は奴隷制が争点のように見えるが、実際はアメリカを資本主義一色で染めるか否かの戦いです。

南部は奴隷制があったために、奴隷解放の旗印で切り崩されて敗北したとも言えるのです。

戦況では南部が優先だったが、北部は奴隷解放の旗印を掲げて劣勢を挽回し勝利したのです。

共和党と民主党の戦いは、資本主義とそれに対する批判勢力の戦いと言う側面が強いように見えます。

しかし一方で、それぞれ進歩的工場ブルジョアジーと保守的農村地主層の戦いの中で生まれた党と言う歴史的ルーツもあるのです。

一筋縄ではいかないのが、アメリカの二大政党なのです。

追記

この記事は、アメリカの共和党と民主党になぜ党首選挙が無いのだろう。 の続編でもあります。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧