歴史

東京スカイツリーは東京に立つ巨人なのか。

東京スカイツリーは、日光東照宮からの龍脈と鹿島神宮と皇居〔江戸城〕を結ぶ正に接点に立っています。
 
スカイツリーは三角から丸へと絞り込みされています。
つまり上から丸・三角とくるが、陰陽では天‣人・地は丸三角四角で表わされます。
スカイツリーは天‣人・地のシンボルが東京の結界にあるのです。
 
しかも、東京スカイツリーには五重塔に習って心柱があるのです。
スカイツリーが天と地の間に立つ人とすれば、心柱は背骨にあたると言う事です。
 
日光東照宮の標高634mは東京スカイツリーの高さでもあるのです。
日光東照宮から東京に向かう龍脈の上に立つ東京スカイツリーが、東照宮と高さでも繋がるのです。
 
そして東京スカイツリーは鹿島神宮と皇居を結ぶ線上にあるのです。
その形は台地も含めると正に天人地を表す丸三角四角になるのです。
 
これは偶然なのでしょうか。
 
日光東照宮と鹿島神宮と皇居が作る三角、東照宮からの龍脈と鹿島神宮と皇居を結ぶ線が交わる点に東照宮の標高と同じ高さのスカイツリーが、天人地を表す丸三角四のシンボルとして立つのです。
これは象徴的には、実質的にスカイツリーの上に東照宮があるのと同じです。
日光東照宮の真上の太陽は、象徴的には東京スカイツリーの真上の太陽と見て良いのです。
 
言って見れば、東京スカイツリーは太陽の下に立つ巨人が、日光東照宮からの龍脈と鹿島神宮と皇居を結ぶ線の交点の上にいるのと、象徴としては同じなのです。
 
オカルト過ぎるでしょ。
東京スカイツリーどうなっているのですか。
 
日光東照宮の標高634mは、東京スカイツリーの高さでもあるのです。
 
日光東照宮から東京に向かう龍脈の上に立つ東京スカイツリーが東照宮と高さでも繋がります。
 
そして東京スカイツリーは鹿島神宮と皇居を結ぶ線上にあります。
 
その形は、台地も含めると正に陰陽では天人地を表す丸三角四角になるのです。
これは偶然なのでしょうか。
 
鹿島神宮と皇居を結ぶ線の延長線上に、富士山がそびえるのです。
 
鹿島神宮・東京スカイツリー・皇居・富士山のラインが、日光東照宮からの龍脈と交わるのです。
鹿島神宮・東京スカイツリー・皇居・富士山のラインは、太陽の道なのです。
日光東照宮の本殿も、真上に太陽が来る日があるのです。
 
その交点に東照宮の標高と同じ高さのスカイツリーが、天人地を表す丸三角四角のシンボルとして立つのです。
出来過ぎでしょ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

猿田彦は塩の神様だったのでしょうか。

天孫降臨で、天照大御神が地上に遣わした人物の名ニニギノミコトも日本語としては意味をなさない名前だが、ニニギノミコトを案内した猿田彦も同じように日本語としては意味をなさない名前ではないでしょうか。

 

しかも、猿田彦は猿田彦神社の祭神とされるが、神社に伝わる猿田彦の顔は日本人としては異様なまでに鼻が高いのです。

 

日本語は時代を遡ると二重母音になるが、旧仮名遣いをみるとワ行母音に近かったと思われます。

 

そうなると、サルタヒコのサルタはソルトに近くなりはしないかと想像しました。

 

伊勢志摩は思った通り、塩の産地なようです。

 

時代をどこまでさかのぼれるのか、興味がそそられます。

 

猿田彦と塩の繋がりについて検索をかけたら、面白い情報が出ました。

 

日南海岸の野島神社の塩筒大神(塩槌翁)と猿田彦(白髭大明神)の複合が肥後にも、見えると言うのです。

 

猿田彦を祭る神社の名前に、塩の付くものが結構あるのです。

 

塩釜神社、塩浜神社、塩屋神社、中之塩屋大神宮、など思った通りサルタ彦はソルト彦の転化である可能性が見えてきたのです。

 

猿田彦崇拝は、九州から伊勢志摩に製塩技術と共にもたらされたのかもしれません。

 

そう言えば熊野神社は、九州にもあります。

 

熊野と猿田彦と塩で調べていくと、何か面白いことが見えてくるかもしれません。

 

さらに、猿田彦の異様に高い鼻と、サルタがソルトの転化である可能性をみると、案内されたニニギノミコトも西方出身者であると考える方が自然でしょう。

 

ニニギは、一体何の転化である可能性がある名前なのでしょう。

 

どうも気になります。

 

何とかして、情報を集めてみたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国体護持を考えてみた。

日本国を私物化したい輩にとって、一番厄介な存在は、実は天皇陛下ではないでしょうか。


なぜなら天皇陛下は、公私ともに現行憲法絶対尊重絶対遵守の立場で貫かないと皇室の存続自体を危うくしかねないわけです。


それである意味今の憲法に一番忠実なのは、実は天皇陛下かもしれません。


つまり、改憲論者の議論に巻き込まれることは天皇陛下とって、迷惑行為以外の何物でもないことになり、利用されそうになればなるほど護憲の立場を明白にされることになるでしょう。


護憲派は天皇陛下と皇室を、改憲派の天皇陛下と皇室を自分たちの目的のために利用しようとする陰謀からお守りせねばならない立場に、置かれたと言えるかもしれません。


国体とは、天皇陛下と皇室の存在を日本国の本質の中心に据えると言う事であれば、現行憲法もまた国体護持を最優先させて生まれた憲法と言う事になるでしょう。


現行憲法を全面的に尊重し遵守する限りにおいて、天皇陛下と皇室は自分たちを利用しようとする勢力から国民に守られることになるわけです。


政治的責任を問われるなら、国体護持は危うくなるからです。


これまで天皇は、全権委任する代わりに政治的責任も全て取らせたと言えるでしょう。


国民主権とは、国民が選んだ代表は国民から全権委任された代わりに全ての責任を国民に対して選出された代表は負わねばならないと言う事です。


そして、国民もまた、選出した責任を負わねばなりません。


一方天皇は政治への実権がない、政治的責任は天皇陛下には及ばないことになります。


つまり国民に国体護持は委ねられたと、言えるかもしれません。


共産党でさえ天皇制を含む現行憲法をこれからも守り続けると、明言したことを思えば国体護持のためにこの憲法を受け入れる選択は皇室にとって正しい選択だったのです。


共産党は国民が発議しない限り、天皇制存続の是非が問われることはないと言っています。


皇室は国民から慕われ、敬われる存在であり続ける限り、存在の是非がさしあたっての政治的課題として意識されることはまずないでしょう。


憲法尊重と遵守の立場を繰り返し明らかにし、細やかな心遣いのできる心優しい人格者であり続けるならば、少なくとも存続の是非を問うべき存在として、多くの国民から意識されることはまずありません。


日本国憲法では、天皇は政治への実権を失う代わりに、政治への責任からも解放されたわけです。


象徴天皇の役割に徹しさえすれば、後は祭祀に専念できると言う事になるのです。


そう考えると、明治憲法に逆行しようとする動きは天皇陛下と皇室に政治敵責任がおよびかねない危険にさらされることになるので、国体護持の立場に立てば余計なお世話なのです。


むしろ現行憲法こそ、ある意味で天皇陛下と皇室を古来の位置に戻したものと言えます。


だからこそ、天皇陛下と皇室も受け入れたと言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いつの世も猫と市場は持ちつ持たれつだったはずですが。

築地市場移転で居場所を失うネズミ、相当大量らしいです。
言い換えれば豊洲市場も、やがては大量のネズミやゴキブリに悩むことになると見た方が良いとなるでしょう。
清掃で追い出されたネズミやゴキブリ、豊洲市場の周辺で猫やカラスの待ち構える場所どれだけあるのかでしょうか。
豊洲市場は洗浄のたびに、ネズミやゴキブリ大量脱出の迷惑施設になる可能性はどれだけあるかですよ。
洗浄は市場を清浄に保つために、毎日念入りになされている行為です。
 
考えてもみて欲しい、築地市場に大量のネズミがいたのに、洗浄のたびに追いだされたネズミは何処に行くのですか。
一斉にやらないと、中で移動するだけですよ。
築地市場は大量にネズミやゴキブリがいたのに、一度も問題にならないのは、市場の人達が毎日懸命になって丁寧に洗浄していたからです。
丁寧に洗浄すればするほど、ネズミやゴキブリを市場の外に追い出すことになり、場外市場にとっては大いに迷惑なはずでないでしょうか。
約30匹の猫がいなかったら、場外市場はお手上げ状態だったはずです。
猫が築地市場と場外市場を救っていたのです。
 
築地市場解体は、何千匹のネズミやゴキブリを周辺にまき散らしてしまうことになるか懸念されています。
 
東京都は、築地市場から散ったネズミやゴキブリを猫やカラスが退治してくれるから心配いらないと弁明に躍起になっています。
 
私の豊洲市場が洗浄のたびにネズミやゴキブリが施設の外にたくさん逃げ出す懸念を抱く根拠は、築地場外市場にいた約30匹の野良猫です。
いいですか。
この猫たちは築地場外市場に居ついたのであって、誰が飼っていたわけでもないです。
豊富な食糧なしに30匹もの猫が集まるでしょうか。
 
そもそも、古代エジプトで猫が人里に住み着いた目的は、人間を悩ませていたネズミがお目当てです。
猫が乗らない船が出せなかったのも、ネズミ対策の無いままに出港させてもらえなかったからです。
 
世界中に市場があるが、清掃のたびごとにネズミやゴキブリが大量脱走する迷惑施設にならないで済んでいるのは、ひとえに猫たちのおかげです。
だから、猫たちはどこの市場でも可愛がってもらえるのです。
可愛いからだけじゃないのです。
 
築地市場に限らず、世界の古くからある市場は大抵、場内か周辺に猫がいます。
市場は内外にネズミが必ずと言って良いほど、いるわけでしょう。
市場は猫たちと共存共栄、持ちつ持たれつの関係に昔からあるのです。
 
豊洲市場は、周辺に猫やカラスがたむろして場外に出てくるネズミやゴキブリを待ち構えられる場所が果たして見つかるのでしょうか。
 
これが懸念で終わることを願っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

神とどう付き合いますか。

日本は、先例様・前例様・慣例様が絶対三神として祀られている感じが半端じゃなくするのです。

日本の持っている知識・技術・ノウハウが、なんで世界をリードできる可能性やポテンシャルを持ちながらグローバルスタンダードを取れないのでしょうか。

 

日本の先例様・前例様・慣例様の絶対三神への絶対的な服従に近い思考と行動のパターンが、妨げになっている感じが半端じゃなくするのです。

多くの日本人がこの先例様・前例様・慣例様の三例絶対神崇拝にとらわれていると十分に気付いているとは言い難い程に、日本人の思考と行動パターンに染み込んでいるようです。

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神崇拝は自然の脅威からは守ってくれたかもしれないが、今は違うのです。

ここに気が付けないと危ないでしょう。

 

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神に従うなと言うのではないです。

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神からの学びを、知識としてではなく知恵として身につけて活用出来るかどうか問われているのです。

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神の知識を知恵として生かせるだけの成長が、出来ているかが問われるのです。

 

安全神話と言う言葉を聞くたびに、違うだろと言う感じを強くします。

安全は私たちを守ってくれないのです。

安全は結果であって、原因ではないからです。

これがあるからここまでは安全とは言えるが、人のすることに絶対はない以上、人の手に頼る限り絶対安全はあり得ないのです。

絶対安全は神だけが保証できるのです。

 

言い換えれば、安全神話とは無力な偶像を崇拝する愚かな選択と言うことになります。

人の手によって確保される安全の限界を自覚し、それを超えた時自分の身をどう守るのか守れるのか、考える発想が日本人には求められています。

限界を超えた事態を想定外にしない発想が、求められているのです。

 

神には、二通りあります。

生れながらの神と、祀り上げられた神です。

祀り上げた神が存在するのは、生れながらの神が存在するからです。

生れながらの才能の人がいるから、努力して近づく人がいます。

生れながらの美があるから、努力して表現される美があります。

同じように、はるか太古から存在する神がいるのです

 

生れながらの神は、しばしば祀り上げた神になります。

だが、祀り上げた神が全て生れながらの神ではないのです。

ここを混同すると、神を見失うことになります。

太古からの神は決して廃れることはないのです。

廃れるのは、祀り上げたに過ぎない神であり偶像に過ぎなかった神もどきです。

ここを見誤ってはいけないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

木村鷹太郎と混一疆理歴代国都之図もし出会っていたら。

明治・大正期に活動した歴史学者哲学者言語学者思想家翻訳家で、独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる木村鷹太郎の邪馬台国エジプト説による魏志倭人伝解釈は、このようになると言います。

 

帯方郡 

 ケルト人の国である。ケルト(Kelt)は「帯」を意味するギリシア語ケレト(Keletos)が語源である。ケルトは古代のドイツ、フランス一帯の称。『魏志倭人伝』の旅行者は現在のヴェネツィア付近から出発した。 

 

韓国 

 ガラ(Galla=Gallia)[ガリア]すなわちイタリア北部の総称。 

 

狗邪韓(くやかん)国 

 イタリア半島の南東部、カラブリア地方。カラブリアは「化粧」の意味で、そのギリシア語名はクジォ Xyo つまり狗邪(クジャ)である。 

 

瀚(かん)海 

 アンブラギア湾(ギリシア西岸)。瀚(ハン)は「ワニ」の意で、神功皇后が西征の時出発した和珥津[わにつ]=ワニツア Vonitsa の所在地である。

(神功皇后は第14代仲哀天皇の后で、第15代応神天皇の母。「記紀」では朝鮮半島南東部にあった新羅を「征伐」したことになっているが、事実かどうか疑わしい。『日本書紀』では卑弥呼と同一人物とされている。) 

 

壱岐(いき)国 

 アンブラギア湾の南方、リューキ(Leuci)島(レフカス島)である。 

 

末廬(まつろ)国 

 ギリシア、ペロポネソス半島の西北にあったアハヤ国のオエノエである。オエノエ(Oenoe)はラテン語でマツロ(Maturo)である。 

 

伊都(いと)国 

 イツ(Ithys)は神を祭り斎く所の意。マンチネヤ(マンティネイア)と推定できる。これは末廬の東南にある。 

 

奴(ぬ)国 

 ペロポネソス半島東部、アルゴリス国のアルゴス府である。「アルゴス」は船の意、船はギリシア語で「ナウ Naus 」と言い、これが「ヌ」となった。 

 

不弥(ふみ)国 

 アルゴリス国のハーミオネ(Hermione)府である。語尾を略せば「ハーミ」で、これが「フミ」になった。 

 

投馬(とうま)国 

 クレタ島である。不弥国の南にある。クレタ島の伝説にある怒牛タウロメノス Tauromenos がタウロマ、タウマと変化した。これがクレタ島の別名となった。

(木村自身の書いた『日本太古小史』では以上のようになっているが、戸高一成氏による木村説の引用によれば、「クレタ島の首都はゴーチナで、その語源はゴルゴス Gorgos で悍馬(あばれ馬)を意味する。あばれ馬に人が乗ろうとするとすれば投げ出される、すなわち『投げる馬』である」という説になっている。) 

 

邪馬台(やまたい)国 

 エジプト、スエズ付近である。投馬国から南下して東へ陸行すればエジプトに到達する。 

 

狗奴(くぬ)国(邪馬台国の南) 

 エジプト南部のクネ Kumne(あるいはクメ Kumme)。垂仁天皇の行幸があった来目(くめ)の高宮の所在地である。

 

(望夢楼http://boumurou.world.coocan.jp/より引用。)

 

木村鷹太郎にとって、日本人とは、古代エジプト人で、古代ギリシア人で、しかも古代ローマ人であり、かつてアフリカ、ヨーロッパから東アジアに至る版図を支配していた優秀な民族であったというのです。

 

古代エジプトも古代ギリシアも古代ローマも私も日本のルーツとして、注目してきた地中海の国々です。

 

流石に木村鷹太郎の説を丸吞みするわけにはいかないが、アジアにおける日本人の移動の中でこれらのルートが反映されている可能性ならあり得るでしょう。

 

混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」と言う1402年に李氏朝鮮で作られた地図の写本が、今日まで伝わっています。

 

地図は先人が使っていたものをとことん使い、その古い地図に新しい情報や知識で付け加えたり修正をしていた時代が長かったのです。

全てを最新情報に基づいて作図した地図は、歴史的にはつい最近現れたばかりと言って良いです。

 

この混一疆理歴代国都之図では、日本列島は朝鮮半島の南に九州を上に南北が逆さまに描かれています。

間違えと言うのはたやすいが、魏志倭人伝の記録をはじめとする様々な情報を駆使してこの地図の日本列島の描写のオリジナルは作られたはずと考えると、笑えなくなってくるのです。

 

魏志倭人伝の時代の日本は、混一疆理歴代国都之図に描かれた逆転した姿であったと考えれば、全てつじつまがあってきます。

 

この地図でなら、魏志倭人伝の通り辿れば間違いなく今の沖縄の緯度近くにある邪馬台国に辿り着くのです。

 

混一疆理歴代国都之図が証拠として認められたなら、九州説は完全に論破されるでしょう。

問題は、こんなに短期に日本列島は逆転するのだろうかと言うことです。

 

だが、地球の事は私たちの足元にもかかわらず、悲しいくらい何もわからないと言って良いのです。

地震の予兆や雨の正確な予想さえまだできていないのです。

ノーマークな想定外の場所で想定外の原因で起こる、地震だってあるのです。

地下の事や深海底の事は、未知なこと、謎の方が多いと言って良いでしょう。

 

木村鷹太郎は、『魏志倭人伝』の旅行者は現在のヴェネツィア付近から出発したと主張し自説を展開するのです。

 

逆転日本列島を前提に魏志倭人伝の行程を辿れば無理なく邪馬台国にたどり着くが、この上に木村鷹太郎説を重ね合わせると、えらいことになります。

 

古代地中海世界の地理が、極東でそっくりそのまま当てはまるということになるからです。

 

古代地中海の地理の極東への移転をやったのは誰か、木村鷹太郎がもし混一疆理歴代国都之図を知っていたなら、彼はためらうことなく日本人だというだろうと私は想像します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

千島問題の解決は歴史が指し示す方向に従うのが一番の近道。

北方4島と政府は言うが、千島樺太交換条約の前は樺太は日露雑居です。
 
4島言うなら樺太雑居も言わないと一貫性がないのです。
 
千島樺太交換条約は樺太雑居を解消のため、樺太をロシアに譲り北千島全島が日本領とすることを平和的に決めたのです。
 
連合国側が日本に放棄を迫れるのは戦争絡みで取得した領土だけです

連合国側が日本に千島放棄を迫るのは、自ら定めていた終戦処理原則に反するのです。
 
日本はそれを論拠にサンフランシスコ講和2条C項の千島放棄に関する部分の撤回を、関係国に求められるはずです。
 
憲法前文と9条に忠実な国ならできたはずで、千島放棄を迫る根拠は連合国にないはずです。
 
日米安保条約を日米の平和的な友好関係のための条約に変え、日本は外交と自衛隊で自国の領土領空領海を守り切る決意を固めるのです。
 
そうすれば、仮に返還された千島に自衛隊が配備されようとロシアがとやかく言う筋合いはないです。
 
北東アジアの海の平和と安全を、協力して守れば良いのです。
 
外交も憲法に従おうではありませんか。
 
ロシアが千島への自衛隊配備にとやかく言わないようにする必要があります。
 
ロシアに文句言わせないためには、個別的自衛権行使に徹し普段は災害救援隊として活躍した従来の姿に戻って、憲法前文と9条に則った運用をすれば良いだけの話です。
 
何も難しいことはないではありませんか。
 
安倍政権以前のどの政権もやってきたことではありませんか。
 
歴史と憲法を踏まえた外交に、保守も革新もないです。
 
その気になれば野党連立政権で実現実行が可能なはずではありませんか。
 
それをやってくれる野党連立政権が、早くできて欲しいです。
 
それは拉致問題解決前進にも、役立つはずです。
 

野党はできない理由を四の五の言わず、早く結束して政権交代して欲しいのです。
私は何か無理な注文をしているでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

旧石器時代人の遺伝子は何処に近い可能性があるか。

日本人の遺伝子を全体としてヨーロッパよりに引き寄せているのは、縄文人であることがわかってきました。

 

そこで気になるのは、さらに前の石器時代人です。

 

旧石器時代を生きた日本人としては、港川人が知られています。

港川人の名は、沖縄県具志川村港川遺跡から出土した日本でもっとも保存状態のよい旧石器人骨から付けられました。

港川人は、出土地層から約2万年前と推定されています。

顔の彫りが深く、手足が長い特徴は、縄文人と通じることから、これまで縄文人の祖先ではないかという位置づけがされてきました。

となると、彼らの遺伝子を調べれば縄文人同様にヨーロッパよりの特徴が見つかりそうに思えます。


ところが、CTなど最新の技術でみつかった当初の復元のゆがみを補正すると、むしろ縄文人とは異なる特徴が顕著だと言います。

現代人と比べると、むしろ、オーストラリア先住民やニューギニア人に近い風貌となりました。

 

これは、面白いことになってきました。

 

旧石器時代人はオーストラリア先住民やニューギニア人に近い風貌であるにもかかわらず、現代の日本人の遺伝子はヨーロッパ寄りなのです。

 

縄文人は旧石器時代人を圧倒する大勢力で、日本に乗り込んできて日本人の遺伝子をヨーロッパ寄りに引き寄せてしまったのでしょうか。

 

だとしたら、旧石器時代人の遺伝子を相当程度薄めることができる大勢力が縄文人であったか、旧石器時代人の人口は相当少なかったか、どちらかでしょう。

 

しかしながら、それはかなり非現実的な設定であるように感じられます。

 

遺伝子の調査結果を待つ必要はあるだろうが、旧石器時代人の遺伝子もまた、ヨーロッパ寄りであったと見た方がより自然でしょう。


何しろ、縄文人の遺伝子はヨーロッパ寄りだが、その程度はアジアの民族の中では飛びぬけているのです。

 

石器時代人の遺伝子もまたかなりヨーロッパ寄りだったとすれば、縄文人と石器時代人の比率がどうあろうとも、日本人の遺伝子をヨーロッパ寄りにした縄文人の遺伝子の特徴にあうことになるでしょう。


日本人には古代中東の遺伝子もまた、あると指摘されます。

 

古代中東の遺伝子はどの程度の頻度で見つかるかにもよるが、かなり高い場合には、縄文人、さらには、石器時代人の可能性さえも考える必要が出てくるかもしれないのです。

 

石器時代人の遺伝子がいつ解読されるか、そして、どのような結果が出るか、注目したいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「猫じゃ踊り」幻影。

実は猫じゃ猫じゃには、影があるのです。 

 

「猫じゃ踊り」は江戸時代に猫の二本足で「じゃれ立つ」仕種から考えられるようになった、「猫踊り」伝説に関連し作られた小唄と思われています。

 

「猫じゃ踊り」は、どういった場で歌われたかです。

昭和初期まで「見世物小屋」でよく猫じゃ踊りは行われていました。

 

こういういきさつを知っている人は、あまり神様云々とは関係無いようだと、疑われた人もいたのではないでしょうか。

 

私も以前は同じように考えていました。

 

猫には人っぽい仕種やポーズもいっぱいあって、猫好きから喜ばれています。

 

猫のじゃれる仕種や、寝相には踊って見えるものも多いのは確かです。

実際には猫を特訓し、三味線の音色に合わせて二本足で踊っていました。

 

特訓の方法ですか。

残酷すぎて、私は話すのをためらいますが、踊りとの関係で、触れないわけにはいきません。

鉄板の上に猫を乗せ、その鉄板を熱するのです。

 

猫をどういう状態で乗せるかは、二説あります。

一つは、そのまま乗せて、跳ねださせる。

もう一つは、後足だけ保護して立ち上がらせる。

 

どちらの場合も、跳ねだしたり、立ち上がりだしたら、間髪入れずに三味線を弾く。何度も繰り返すと三味線に合わせて、猫が踊りだしたように見える。

 

いくら見世物とは言っても、これは酷過ぎます。

いまやる人が出ないのも、うなづけます。

とは言いましても、この猫踊りの仕種がその後の日本舞踊史に、大きく影を落としている可能性は見逃せません。

 

それに、尾の短い猫がいる理由は、娯楽用演芸だけでは説明しきれません。

流行り廃りもあるのが娯楽です。

それから、猫の尾は猫岳の伝承に由来する物で、誕生後すぐ切断される習慣があつたといいます。

これを九州での猫の尾が短い理由と言う人もあるようです。

 

けれども、日本以外にもお曲がり猫のような尻尾の短い猫がいるのが説明できますか。

 

それに「猫踊り」伝説の背景って、何でしょう。

人工的にいくら尻尾を切り続けても、尻尾が短くならないのは、鼠の実験で証明されています。

交配以外には定着する事はないです。

猫が自分から尻尾を短くする事はありません。

 

短い猫、曲がった猫が誰かに何らかの目的で、あつめられたとしか言いようがないです。

そこで仮説を立てて見たわけです。

 

神職と禰子の関係と、太陽神を巡るエジプト神話との類似性の濃い伝承の存在なども不思議です。

 

猫修行の俗説、謎に満ちた秘密の修行の場と猫や、根子の地名との繋がりがあります。

 

猫岳を巡っては、興味深い話も、いろいろありそうですし。

猫はこもったり、瞑想したりするので修行してると思われてきました。

 

だけれども、猫が行者の真似をするでしょうか。

ここで発想を転換すると、どうでしょう。

行者が猫の物真似をしたのだと。

 

だって、猫は太陽神の化身なのです。

しかも、物真似は猿の得意芸でもあります。

猿は太陽神の熱心な崇拝者と、古代エジプトではされていたのです。

日本でも、太陽神アマテラスの子孫神武天皇を猿田彦が案内しましたよね。 

 

「猫の修行」の伝承で、猫はこもったり瞑想するという話題を取り上げました。

 

実際は猫が死の直前に姿を消す習性と、なわばり内の猫たちが「猫の集会」と呼ばれる社会を形成している様子から想像されたものだそうです。

それから、謎に満ちた秘密のと申しましたが、修行の内容が謎という事です。

 

修行の場はかなり具体的に九州では「阿蘇の麓猫岳」と語られてきました。

 

一種の猫のコミニティが形成されているという伝承についていえば、パブテスマを連想する話もあったりしました。

 

太陽神とのつながりを見ても、「猫岳」にはちょっとみつかりません。

 

むしろ「夜」に関連する話ばかりです。

 

夜といえば猫は、太陽神の眼となって夜道を行くのでした。

 

月がやたら出てきた時の事を、思い出します。

 

雌猫は月の女神でもあります。

月は陰陽では陰に配されます。

男性が陽に配されるのに対して、女性は陰に配されます。

イエスはマリアによって受胎するまでは、霊の姿でヤハウエとして、再臨の時を待たれておられると解釈できるでしょう。

イエスは義の太陽神に擬せられるが、受胎を待つヤハウェは月に擬せられるのか考えると面白いけど深入りしません。

 

天照大御神の岩戸隠れと、イエスの葬り、ともに岩で蓋をされた横穴であり二人の男性によってその岩がどけられ最初に女性に出会うのは偶然でしょうか。

しかも、イエスの死の時も暗闇がやって来ているのです。

 

猫がイエスのメタファーとされる文化があることを思えば、興味ひかれることではあります。

 

和風諡号に"ねこ"がつく天皇は何名かおられるのも、その一つです。

その一部をあげます。

 

漢風諡号は孝霊天皇、和風諡号は大日本根子彦太尊または大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)天皇。

生没年 孝安天皇51(?)~孝霊天皇76(?)

 

漢風諡号は孝元天皇、和風諡号は大日本根子彦国牽尊または大倭根子彦国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)天皇。

生没年 孝霊天皇18(?)~孝元天皇57(?)

 

漢風諡号は元明天皇、和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)天皇。

生没年 齊明天皇7(661)~養老4年(721)

 

漢風諡号は元正天皇、和風諡号は日本根子高瑞日清足姫天皇(やまとねこたかみずひきよたらしひめのすめらみこと)天皇。

生没年 天武天皇9(680)~天平20(748)

 

天皇も太陽神アマテラスの祭司、それも最高祭司でいらっしゃいます。

そして祭司有資格者は、禰子つまり"ねこ"であり"根子"です。

実は、大日本根子は天皇陛下の尊称であるそうです。

 

そして、ここから猫=根子が、天皇の隠語となるのです。

 

踊りは元々神々との交信や交流でありました。

 

猫踊り伝説の背景は「猫の生態」だけで充分で、様々な伝承が付加する事はいろいろあっても、それは個別に解釈しないと混乱すると言う声もあるでしょう。

 

けれども猫に関係ある、いろいろな資料を調べているうちに湧き上ってきた疑問を整理したら、こういう仮説が出来上がってきただけの事です。

 

猫の踊り、一筋縄ではいかぬ謎が山盛りなのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

エジプトの音楽を想像してみました。

「古代エジプトの音楽」という本を読んでいます。

 

古代エジプトの様々な楽器は、残っています。

 

だが、これらの楽器によって奏でられた音楽については、どのようなものであったかを伝える資料はないといいます。

 

ならば、これらの楽器そのものを手掛かりにするしかないでしょう。

 

ハープ、シンバル、トランペット、リュート、リラ、などの他にも、タンバリンや太鼓などが用いられたことがわかっています。

 

音楽の場には、手拍子もあるし、ボディパーカッションを連想できる壁画もあります。

 

大勢の人が列をなして踊る姿も、描かれています。

 

古代エジプト特有の楽器として、シストルムもあります。

他にも、シンバルを鳴らす道具と組み合わせたクロタラのような楽器もありました。

 

これらの楽器や、手拍子、列をなして踊る人々、さらには、ボディパーカッションもあった可能性を考えると、少なくともどのような拍子をとるのが一番自然かが、見えてきます。

 

強弱の入れ子になってる、拍子です。 

前半が強く、後半が弱く、その前半と後半にも、それぞれ強弱があるのです。 

強さの順で言うと、強い順に4・2・3・1っていう感じでしょう。

実際に手拍子を打った方が、わかりやすいですよ。 

  

 Ton!ta!ton!ta Ton!ta!ton!ta (大文字小文字に強弱を対応させて手拍子)


実はこれ、ロマ音楽の拍子の取り方なのです。

 

ロマには様々な呼び方があるが、それらを見ると彼らがエジプトから出た民族である可能性が見えてきます。

ロマは、音楽の他、実は金属加工の技能者集団でもあります。

一見すると、何も関係がなさそうです。

 

だが、もしロマが古代エジプトの演奏者集団にルーツを持つ人たちと見たらどうでしょう。

シンバルやシストルムのような、繊細な加工が必要な金属製楽器のメンテナンスを彼らは自らの手でしていたとしたらどうでしょう。

演奏者は、修繕や制作のような特別な技能者の手を借りる必要のあること以外、日常的な手入れを大抵は自らの手でしています。
シンバルやシストルムの最終的な仕上げは、演奏者自らの手でしていたかも知れません。
簡単な修繕くらいなら、自分でしたことでしょう。
そうであれば、金属の加工技術もあっても不自然ではないでしょう。
何らかの理由でエジプトの地を離れた演奏者集団が、ロマの起源かもしれません。
オリエンタルダンスとも呼ばれるベリーダンスの演奏に合わせて、ロマ音楽の拍子で手拍子をうってみました。
ターキッシュのような激しいアップテンポのベリーダンスもあるが、基本的にはロマ音楽の拍子で手拍子をうってついていくことは可能だし、次第にのめり込んで恍惚の世界にはまり込んでいけます。

あまり夢中になって、踊りださないようにしないといけないです。

何度ものめり込んで、踊りだしそうになったくらいどの曲にもぴったりとついていくことができます。

ロマが作り出した代表的な音楽のジャンルがフラメンコです。

もしかしたら、古代エジプトの音楽は、ベリーダンスやフラメンコに別れる以前の一種独特なテンポやメロディーで演奏されていたのかも知れません。

おそらくそのほとんどが、即興曲だったでしょうから、楽譜など残るはずもありません。

神々やファラオたちを喜ばせるための集団で延々と踊ることのできる即興曲、それが、古代エジプトの音楽だったのかもしれないです。

中には、女性の踊り手によるエロティックなものもあったことでしょう。
男性の踊り手も、あるいはいたかも知れません。

ベリーダンスの踊り手には、かつて男性も少なからずいた記録があるそうですから。

酒、食事、音楽、そして、恍惚に浸った人たちの踊りの群れ。

神々と人々が混然となった恍惚の空間の中で、時を経つのも忘れて音楽によいしれたそんな場面も王宮では、しばしばあったのかもしれません。

これはあくまでも、楽器たちが見せてくれた幻想の世界です。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧