歴史

秦氏と八幡と肥田氏と源氏と…。

伊豆の下田に、下田開国博物館があります。

 下田にそんな博物館があるのは知りませんでした。
 何度も行っているのに。
 今度機会があったら行ってみたいと思います。

前身を豆州下田郷土資料館といい、資料館の開館には郷土史研究家の肥田喜左衛門が深くかかわっていました。

肥田喜左衛門氏も指摘していることだけれど、伊豆のあたりは、秦氏が一大勢力をはっていた地域のひとつでありました。
伊豆は、かなり早い時期から秦氏の一部である賀茂氏が支配していた場所です。
伊豆諸島の神社は、ことごとく賀茂氏の祭神である事代主命を祀っています。
そして、秦氏はもともと、「はた氏」ではなく「はだ氏」を名乗っていました。
となると、「ひだ氏」は「はだ氏」がなまった可能性を疑っていいのかもしれないとも思えるです。
では、肥田喜左衛門氏は秦氏の流れをくむ人物なのでしょうか。
彼を含む肥田一族の顔の印象は、ユダヤっぽいと私は見るのだけれどです。

肥田姓を歴史をさかのぼってみると、古代からかなりなものであったらしいです。
なんと、肥田宿禰なる人物が登場、清和源氏土岐氏の流れや、藤原氏などが祖先候補としてあがってくるです。

ところが藤原氏は、秦氏と、政治の藤原、経済の秦、といっていいほどの関係を持ち、二人三脚を組んでいたといっても言い過ぎではないほどです。
平安京造営を境として、秦氏は藤原氏に座を譲って裏に引っ込んだとさえいえるです。

清和源氏は清和天皇の第六皇子貞純親王の子、経基王を祖としています。
藤原氏は天皇家と姻戚関係が深いので、ほぼ、肥田宿禰は清和源氏土岐氏の流れとみていいのかもしれないです。

興味深いことに、清和源氏は石清水八幡宮を氏神として崇敬していました。
さらに、源義家が石清水八幡宮で元服して自らを八幡太郎と称したことから、清和源氏は八幡神への崇敬を篤くしたと考えられています。

そして、清和源氏の氏神である八幡神、秦氏と深いかかわりがあります。
「八幡」は俗に「はちまん」と呼ばれるけど、正式には「やはた」というです。
「はた」は「秦氏」の「はた」という説もあるけれど、「や」が説明できないという無理があります。
「やはた」にはもっと仰天の説があります。
飛鳥昭雄=三神たけるがとなえる、「ユダヤ」=「ィエフダー」がなまったというのです。
確かに、秦氏にはユダヤ人説があるくらいだから、妙に説得力はあります。

 八幡はユダヤ・・・

 またいろいろでてきたぁ。

秦氏は産業氏族に徹しただけあって、技術にはたけています。

ライバルであった平氏が平姓ばかりを配下にしていたのに対し、源氏の配下は姓がまちまちです。
これは、大きな謎でありました。

「源氏」は、「みなもと氏」と読め、「水源氏」とも解釈できるです。
この「みなもと氏」と読めることに、謎を解く鍵がありそうだです。
つまり、配下の人々は何者であったかを見れば、なんで「みなもと氏」であったかが、わかるだろうというわけです。

源氏が水源、つまり治山治水をつかさどる土木の人々であったとする根拠は何かって。
それを物語るのは、源氏が東国を拠点にしたという事実そのものなのです。
秦氏の拠点といえば、京都の太秦では、という方は多いかも。
実際は、秦氏の一大拠点は東国にもあったのです。

秦氏が土木建築にたけた人々であったのは、ご存知です。
彼らの拠点がある東国に、八幡神を氏神とする清和源氏が乗り込むのは、彼らの力を期待したからと想像したくなるというもの。

そして、伊豆には加茂氏や肥田氏がいるのです。
伊豆の肥田氏については、藤原系との声も確かにあります。
でも、藤原氏が秦氏と緊密な間柄なのは周知の事実。

そして、清和源氏土岐氏の流れに肥田氏が登場とくれば、この肥田氏はぷんぷん匂いたちます。

え?
肥えた田なら、肥やし?

ちがいます!

八幡の語源に「ユダヤ」=「ィエフダー」説があるように、秦氏にも「ユダヤ」=「ィエフダー」語源説があります。
秦氏がもともと「はた氏」ではなく「はだ氏」ならば、肥田氏だって「ユダヤ」=「ィエフダー」語源説があってもいいのではないでしょうか。
ていうか、「はだ」よりも「ひだ」のほうが転化しやすいとさえ、私には感じられるのです。

 ィエフダーのフは、huなので(日本語の「ふ」はɸu)、当時の日本人にはどう聞こえたか、考えると面白いですよね。

古代日本語は丸唇の傾向が強く、ワ行母音といっても差し支えなかったようですね。

それからすると、イエハダーに近い音はまず考えられます。

ただ、音にあいまいさが強いので、明瞭化の都合でイエヒダーになっちゃう可能性は捨てきれないと見て、今回の仮説を展開してみたのです。

発音明瞭化による転化を考えれば、「いだ」「えだ」「やだ」もありかも、と想像はできるです。

天皇には平安京造営のとき、秦川勝の土地を譲り受けるという不可解な事実があります。
もしも、このときすでに天皇家の親戚筋に秦氏系の肥田氏がすでにいたとしたらどうでしょ。
それこそ、天皇家の血縁に当たる秦氏の土地が右から左へ移っただけということになっちゃうのです。

祭司としての肥田氏は、表の歴史には聞いたことはないです。
でも、もしも皇室のそば近く仕える神官であったとしたら。

いまはまだ、推測の範囲を出ないですけど。

謎が深いと、いろいろ妄想できて、楽しいです。

下田は、開国に大きくかかわった土地です。
開国の舞台となった土地の歴史を知るのも、面白いかも。
温泉や海水浴だけじゃない、下田の別の顔が見えるです。

八幡は秦氏が深くかかわり、秦氏はユダヤであるから八幡もまたユダヤの神を祀っているはずという議論は、飛鳥=三神以外にも展開するものは少なからずいるようですね。

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ヒポケパロス

Hypocephalus(ヒポケパロス)を、ご存知でしょうか。
古代エジプトで、ミイラの傍から発見されていた遺物です。

ヒポケパロスは、円盤状に作られていました。
材料には、リネンやパピルスや金や青銅や木または粘土が用いられていました。

ヒポケパロスは、ギリシャ語で下を表すhypó(ヒポ)と、ギリシャ語由来のラテン語の頭を表すcephalus(ケパロス)をつなげた言葉で、「頭の下」を意味します。

作られていたのはプトレマイオス王朝の頃です。
プトレマイオス王朝は、紀元前305年から紀元前30年まで、ギリシャ人によってほぼ300年の間がエジプトを統治された時代です。
ヒポケパロスはエリートのミイラの頭部の下に、おかれていたのです。

けれど、ヒポケパロスはプトレマイオス王朝のエリートなら誰でも使用できたわけではなく、主に上エジプトで特定の聖職者の家族の埋葬に制限されたようです。

エジプト神話において、人間は肉体、Ba(バー)、Ka(カー)の3つの要素から成り立っているとされていたのです。
バーは魂(こん)つまり精神をつかさどる陽の気にあたり、カーは魄(はく)つまり肉体をつかさどる陰の霊気にあたります。

つまり肉体とは、知性や感性の働きに関係するバーと、体に備わっている一種の活力ともいえるカーの、入れ物とされていたのです。
言い換えると、カーの働きによって、バーは肉体に留まっているとされていたのです。
霊が肉に結合するという思想は、どこか、聖書で言うアダムやイブの創造に似ていますね。
あるいは、旧約で姿が見えない霊的存在であったヤハウエが、新約ではマリアの受胎によって肉体を得てイエスとなった話を連想できます。

バーは人が死ぬと肉体から離れ冥界へ行くが、肉体がそのままであればカーの仲立ちによって肉体と結びつき再び此岸に戻って来られると考えられていました。
このあたりは、肉体の保存を必ずしも必要としない聖書やコーランとは違いますけど。

ヒポケパロスは、おそらく、このバーとカーの信仰にかかわっていたのです。

ヒポケパロスには、古代エジプトの文字であるヒエログリフで文章が書かれていました。
文章の目的は、死者の頭部の下で生気を与える象徴的な炎や輝きを発することでした。
ヒポケパロスの発する象徴的な炎や輝きで、ミイラの頭部や体が魔法のように包まれるようになることを、古代エジプト人たちは願っていたのです。
この死者の肉体の霊気とは、肉体の活力を担っているカーのことです。
ヒポケパロスに書かれたヒエログリフは、カーを生き生きとした状態に保つことを目的としていたのです。

ヒエログリフの働きで発せられる、ヒポケパロスの象徴的な炎や輝きとは、太陽の炎や輝きでありましょう。
もちろんその力の元には、太陽神の存在が想定されたでしょう。

ヒポケパロスの円形は太陽を表し、猫神ラーまたは隼神ホルスの目を象徴しています。
ラーはもちろん、ホルスも太陽に関係の深い神なのです。

エジプト人にとって、日の出とは、日没になぞらえられた死からの復活を鮮明に印象つける象徴でした。
昇ってくる太陽との一体化は、あの世での復活を願うエジプト人にとって憧れだったことでしょう。

ヒエログリフは、死者の神聖であることを表す目的もありました。
古代エジプト人は、ヒポケパロスにヒエログリフによって、あの世での復活についての考えを表現しようとしていたのです。
ヒポケパロスに書かれたヒエログリフは、死者の死後が神に見守られることを願う点では、ある種の死者の書といえるのです。

この話をしながら思ったのが、枕の下に縁起の良い絵を敷いて寝る風習です。

死者と生者、中東と極東、立場と国を超えて、似た思想があるのは、魂とバー、魄とカーの類似とともに、興味深いですね。

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クメールと日本

「クメ」という名前は、「クメール」と関係があるなんて、いう説があります。

「クメール」とは「カンボジア」の昔の名前です。

「クメ」のもとが「クメール」だというのなら、似た名前の久留米絣の「クルメ」、車人形の「クルマ」、球磨焼酎の「クマ」、大阪市柴島(クニジマ)の「クニ」だって「クメール」からきたという説を立てていいのではないでしょうか。

人のミトコンドリアDNAのタイプであるハプログループには、80パターンがあるのです。
日本の主なミトコンドリアのDNAは、そのうちの16タイプです。
日本人のルーツ探しに大きくかかわるのは、この16のハプログループってことです。

主なということは、少数派も含めれば、もっとあるってことかも知れないですけどね。

16のDNAパターンは、以下の通りです。

A、B4、B5、C、D4、D5、F、G、M7a、M7b、M7c、M8a、M10、N9a、N9b、Z

Dグループは、Fグループとともに東南アジアとのつながりも大きいのです。

ベトナムからも日本と同じ、エジプトの太陽の船の絵が見つかっているのです。

「クメール」が、「クメ」、「クルメ」、「クルマ」、「クマ」、「クニ」の語源である可能性はないとはいえないってこと。

ところが、もっと驚く名前があるのです。

「クルマサキ」

兵庫や鹿児島、さらには京都にも神社の名前にもあるといいます。
京都の車折神社も、やはり地名からついた名前とみえます。

「折」は、この場合もし意味があるとすれば「折敷(おしき)」のことと思われます。

「折敷」とは、檜のへぎで作った縁つきの隅切り盆。
多くの場合は方形で、食器などをのせるものです。
足打ち折敷・平折敷・隅(すみ)の折敷・傍(そば)折敷などがあります。

足打ち折敷のように、足を付けたものもあります。
でも、車を付けたものは、ないようですね。

近世以降、食膳としても用いました。

でも、そうなると「車」が意味不明となります。

そう考えていたら、「牛車の車軸が折れたから」という神社の説明を聞いたことがあるという人がいました。

神社の御由来によると、後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸のとき、牛車の車軸がこの神社の前で折れたことをさすそうです。
そのとき、天皇から「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られたので神社が営まれることになったといいます。

車折神社は、もともと平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王の御子孫清原頼業公の霊廟として設けられ、やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が創建されます。
清原頼業公が桜を愛でておられたので、霊廟が設けられた当時から多くの桜が植えられ「桜の宮」と呼ばれるほどであったといいます。
詳しい御由来は、車折神社のHPで見てください。

でも、神はいったい後嵯峨天皇の牛車の車軸を何を思って折ったのか、説明がほしいですね。
ここの桜を見ずに通るなんてもったいない、といいたかったのでしょうか。

御由来話にけちをつけるつもりはありませんけど、字が違っても「クルマサキ」の地名がほかにある以上、もっともらしく後から作られた話と思えます。

「クルマ」だけならまだしも、「サキ」ってなにでしょう。

もしも「シャカ」の発音違いである「サカ」から来たなら、えらいことになるのです。
ちなみに「シャカ」や「サカ」とは一族の名前。
釈尊とは、「サカ」族の尊者ということ。

「クメール」は、仏教が盛んな国であったことで知られます。
「クメール」が仏教国であった最大のわけが、「サカ」つまり「シャカ」族とのつながりにあった可能性を考えないといけないかもしれなくなるのです。
つまり、「クメール」の「サカ」族が「クメルサカ」となってもおかしくないので、「クルマサキ」は「クメール」の「サカ」族の子孫の地であるかも知れないのです。
実際、「クルマサキ」という苗字もあるのです。

となると、こういう疑問が出るかも。

「クニサキ」は、関連あるのか。

「シャカ」、「サカ」や「サキ」と音が似ている、「ササキ」、「スズキ」、「サカイ」、「サカキ」、「ササ」、「サキ」、「サタ」、「シャク」なども遡れば、ご親戚か。

違うという証拠もないです。

クメール系と思える名前には、ほかにも「クモ」で始まるさまざまな苗字や地名、「クミ」で始まるさまざまな苗字や地名、「クムラ」、「クナイ」、「クヌキ」、「クヌギ」、「クノ」で始まるさまざまな苗字や地名、などがあげられます。

サカ系と思える名前には、ほかにも「サケ」や「サゲ」で始まるさまざまな苗字や地名、「サコ」や「サゴ」や「ザコ」で始まるさまざまな苗字や地名、「サク」で始まるさまざまな苗字や地名、「サイ」、などがあげられます。

細かく見れば、まだまだ、あるでしょうね。

情報がほしいと思っていたら、こんな情報がありました。

カンボジアに、飛鳥の酒船石によく似た遺物が見つかっているというのです。
あの有名な、アンコールワットにあるというというのです。

さらに2007年に、環濠遺跡プンスナイでも似た遺物が見つかったそうです。

酒船石そっくりの遺物が作られたのは、日本でいえば卑弥呼がいた時代らしいのです。

カンボジアと日本、邪馬台国と同時代に女王国があったと見えるのです。

しかも、長江文明とのつながりも土器から見えるそうです。

ローマとの関連も、このカンボジアの遺跡から感じ取れるというです。

日本人だけど、インド人みたいって言われる人もいます。

インドのドラビダ語族のタミル語と日本語、関連を疑った大野晋もいます。

国語学者大野晋は、日本語の祖語が何らかの点で、ドラヴィダ語の祖語と関係を持つとする説を唱えたのです。
タミル語と日本語のそれぞれの単語等を比較して、両者に共通するものが多いことを、その論拠の一つとして挙げました。

後に大野はこの説を修正し、日本語はドラヴィダ語の一つであるタミル語に由来するとの説を展開しました。
そして、日本語はクレオールタミル語であるとする説を唱えました。

もっと裏付けになる話がほしいとおもっていたら、こんな情報がありました。

カンボジアに、飛鳥の酒船石によく似た遺物が見つかっているというのです。
あの有名な、アンコールワットにあるというというのです。

さらに2007年に、環濠遺跡プンスナイでも似た遺物が見つかったそうです。

酒船石そっくりの遺物が作られたのは、日本でいえば卑弥呼がいた時代らしいのです。

カンボジアと日本、邪馬台国と同時代に女王国があったと見えるのです。

しかも、長江文明とのつながりも土器から見えるそうです。

ローマとの関連も、このカンボジアの遺跡から感じ取れるというです。

日本人だけど、インド人みたいって言われる人もいます。

インドのドラビダ語族のタミル語と日本語、関連を疑った大野晋もいます。

国語学者大野晋は、日本語の祖語が何らかの点で、ドラヴィダ語の祖語と関係を持つとする説を唱えたのです。
タミル語と日本語のそれぞれの単語等を比較して、両者に共通するものが多いことを、その論拠の一つとして挙げました。

後に大野はこの説を修正し、日本語はドラヴィダ語の一つであるタミル語に由来するとの説を展開しました。
そして、日本語はクレオールタミル語であるとする説を唱えました。

クレオール言語とは、異なる言語のため思うように意思疎通ができない商人などの間で自然に作り上げられた言語が、その言語の使い手達の子供によって母語として話されるようになった言語を指します。
公用語や共通語として、話されている地域や国もあるそうです。

異なる言語の人たちの間で自然発生した言語を、言語学ではビジン言語といいます。
ピジン言語では、文法の発達が不十分で発音や語彙も個人差が大きく複雑な意思疎通が不可能なのです。
なにをどれだけ、いくらで取引するか、誤解がなければそれで十分だからですね。
取引のための、ビジネス用言語だから、ビジン言語と呼ばれるのです。

クレオール言語は、ビジネス用言語として生まれたビジン言語がもとになって成立した言葉なのです。

ビジン言語に対し、クレオール言語の段階では文法や発音、語彙などの要素が発達して統一され、複雑な意思疎通が可能になっています。
けんかや、恋愛、文学でも十分に使えるようになったということです。
クレオールはピジンと違い精緻で完成された言語であり、他の自然言語に引けをとることは無いそうです。

大野のこの日本語起源説には賛否両論があり、未だに解決を見ていないらしいのですけれど。

カンボジアとのつながり、カボチャばかりじゃ、ないってわけです。

飛鳥の酒船石ってなぞが多いですが アンコールワットとの関連があるとは、意外でしょ。
アンコール遺跡とつながりが見えてきた長江文明にまで、酒船石をさかのぼって見ても良いでしょうね。

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義経と奥州藤原氏とアイヌ

義経の取った戦法は奇襲が多く、奇襲はアイヌが得意だと言います。

それで、義経の奇襲とアイヌの関係があるかのように、見る人も出てきました。

接点として、奥州藤原氏をあげます。

奥州藤原氏はアイヌと、日常的に交易をしていたのは確かだと言います。

また、奥州藤原氏の出自についても、アイヌがかかわっていると言う説をあげる人もいます。

そして、義経が奥州藤原氏と懇意であることも、状況証拠とされています。

義経については、奥州つまり今の東北から蝦夷つまり今の北海道へと、逃避行をした伝承があります。

特に蝦夷地での義経が逃避行した足取りとされる地域は、アイヌの居住地に重なるらしいです。

義経はアイヌに農業を教えて神様扱いされていた、などと言う話まであります。

北海道は、今でも良質な砂金が採れると言います。

義経の奥州から蝦夷に抜けた目的は、蝦夷地の金を手に入れ、勢力を養い、アイヌを味方につけ、再起を図るためではなかったかと言う説まであります。

義経ゆかりの家紋である笹リンドウが、極東ロシアの地に残っているなどという、おまけまでついています。

 義経北海道逃亡説は聞いていましたが…。
 アイヌとの結びつきは知りませんでした!

 なるほど、確かに北海道へ逃げたことからも、アイヌと結びつきが出てきますね・・・。

アイヌと義経と奥州藤原、三題話としては面白いです。

 でも、義経とアイヌを奇襲戦法で直接結びつけるのは、少々無理がありますねえ。

そうですね。
義経は、鞍馬山で天狗から兵法を教わったことになっています。

義経を兵法でアイヌと結び付けようとする人は、天狗がアイヌであったとでも言いたいのでしょうか。

天狗に古代イスラエル人説を唱える人もいるくらいだから、アイヌ説があっても良いのでしょうか。

ここに面白い情報があります。

スコットランド人ノーマン・マクラウドは、アイヌの生活用品は古代イスラエルに似てるといいます。

けれど、これらの話を結ぶと驚きの説が展開されることになります。

アイヌは、古代イスラエル人だったという説です。

 だって、アイヌは、縄文人につながる人々なはずですよ。

つまり、縄文人は古代イスラエルだったという風に議論がつながってしまいますね。

あなた、これをどう見ますか。

ショック過ぎでしょうか

 ええ。
 びっくりですが。
 でも、義経はモンゴルに渡ってチンギス・ハーンになったというとんでもない伝説に比べれば、蝦夷へ逃亡したというのは十分可能性がありますよね!

そうなると、義経の子孫が気になりますね。
どこかに、いるのでしょうか。

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「シア」「シャ」のある地域

地図を見て気がつくのは、世界には意外と「シア」「シャ」のつく地域名が多いということです。

そのうち、「ネシア」のつく、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアなどは、ギリシャ語によるものだそうなので、現地語にはあまり関係が見られないです。

残るは、マレーシア、ロシア、ギリシャ、歴史的なものでは、ペルシャ、プロシア、などです。

そのうちプロシアは、現地名をプロイセンと呼ぶので、ここでは考えないことにしますね。

すると、残りはマレーシア、ロシア、ギリシャ、ペルシャ、となるです。

ところが「シア」「シャ」を接尾辞とみると、語幹はそれぞれこうなるです。

「マレー」、「ロ」、「ギリ」、「ペル」

面白いのは「ペル」で、南米に「ペルー」がありますね。

共通するのは、ともに太陽神信仰をしたことです。

太陽神に、ギリシャ神話の「Ἥλιος(ヘーリオス)」がいますね。

ギリシャ語の「オス」は「(なんとか)人」「(なんとか)教徒」という意味です。

となると、ヘーリオスとは「ヘーの民」と解釈してもいいのかもしれないです。

もしそれが言えるのなら、こういっていいことになるのでしょうか。

「ギリシャに「へーの神」つまり、「ヤハウエの神」をあがめる人々がいた」

しかし、「へー」を「ラー」の転化とみたらどうかです。

ギリシャとエジプトの交流の深さからいえば、ラー信仰がわたっていても不思議ではないです。
そう思うと「ギリシャ」の「ギリ」は、「ラー」の転化とみてもいいのでしょうか。

そうなると、「ロシア」の「ロ」も、「ラー」の転化とみてもいいのでしょうか。
でも、ロシアにエジプトとの接点があるとは、みえないです。
ユダヤなら、いつのころからかいたけどです。。。。

「ペルー」「ペルシャ」の「ペル」は、「ラー」が「ヘー」さらに「ペル」に転化したとみていいのでしょうか。
ともにスメルの影響を思ってもいいように思えます。
それを運んだのは、ヘブルの民なのでしょうか。
歴史と地理からいってペルシャは、ありえます。
ペルーは、イスラエルとの文物との類似が見られるアイヌを子孫とする縄文人にヘブルとの関連をみつけない限り、難しいかも。

じゃ、「マレーシア」の「マレー」は、どうかです。
「ラー」の転化とも、冠詞「アル」がついた「アル・ラー」の転化とも想像できます。
「ラー」は地理的にかなり難しいです。
ところがアジア各地に散った、古代イスラエルの民が間に入ったというなら、可能性は捨てきれないのです。

後ろにいるのは、何者なのでしょうか。

ただ、「シア」「シャ」のつく国や地域が、いづれも西ヨーロッパ的キリスト教の地域とはいえないだけは確かなのです。

シアの付く国を色地図で表すのも面白いですね

国や地域の名前、みていくともっといろいろ見えてくるかもです。

 シャで、ちょっと思い出したんですけど。
 ロシアからヨーロッパ全域に渡って、スクやツクのつく地域が多いです。
 見当違いかもしれませんが、これらの語幹との関連は?
 ロシアにとくに多いですし。

わたしも、これは気になってます。

転化の可能性は、無視できないかも。

接点となるのは何者なのか、探ってみる価値は十分にありなのです。

 面白いですね~。
 私も、ふと、「スク・ツク」を思い出しました。

やっぱ、「スク・ツク」を連想しますか。

確かに、なにかあるって思うでしょうねえ。

 地名や国名って、必ずしも住んでいる人たちが名付けてないんですよね。
 むしろ、外部の人間、支配・侵略しようとしている人たちが名付ける場合が多いですね。

日本海なんてのも、中国と日本にはさまれた海域なので、よその人達が地理を判断しやすいよう、つけちゃった名前なはずです。
地名を外部からつけるって言えば、組織名でもそんなのあったですね。

イギリスの歴史的な二大政党「トーリー」とか「ホイッグ」も、お互いがつけたあだ名だったと記憶してます。

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先住民族をどう扱いますか。

アイヌは、先住民族かどうか、さまざまな議論があります。

これ、簡単なように見えて結構奥が深いでしょうね。

それというのも、アイヌを日本民族成立史の中でどう位置づけるかと言う問題が絡むからですよ。

確かに、弥生人や古墳時代人からみれば、先住民族には間違えないでしょうね。

けれど、縄文人との繋がりはどうなるのでしょうね。

アイヌに縄文人との繋がりがないなら、縄文人からみても先住民族の可能性は出てきます。
けれども、それは可能性に過ぎないでしょうね。

もし、アイヌが、縄文人の流れを今日まで引き継いでいる人たちとしたらどうでしょうね。

そう。

縄文人にとっては、アイヌが、いわゆる先住民族の枠に当てはまるかどうか、疑問が出てきます。

縄文人の系譜につながる人たちから見れば、親戚筋ではないでしょうか。

どこを基準にするかによって、先住民族かどうかの線引きが違ってきます。

先に住んでいたら先住民族というなら、縄文人とその子孫を全体として認定すれば良いでしょうね。

それは現実的ではない、と言う人がいます。

補償などの課題があるからと。

先住民族は、いくつもの側面に分けて考える必要があるでしょう。

純粋に歴史的な概念として扱って良いなら、ある基準とした民族から前に住んでいれば皆、先住民族として気楽に呼ぶことができます。

私は、先住民族という概念を一切の政治的しがらみから解放して欲しいと思います。

権利侵害の問題と言うなら、先に住んでいた住民と転入してきた住民の間のいざこざ、紛争、悶着として扱えば良のではないでしょうか。

文化的既得権益を損なわれたと言うなら、どういう形で法律の上で位置づけて保護や補償の対象とするかを考えれば良いでしょうね。

文化を守れと言うなら、少数民族などの文化をどのように守り伝えるかという課題ともつながってくるでしょう。

文化を守ると言うことが、自然などの環境を守ることと一体となっている場合もあるでしょう。

社会的な差別に悩むと言うなら、差別問題全体の中で取り組むべきではないでしょうか。

なんでもかんでも、先住民族問題と一括して解決に当たろうとすれば、皮肉にも解決は遠のくだけのように思うのは、間違いでしょうか。

先に住んでいたから“先住民族”。

これで良いし、これだけで良いでしょうね。
違うでしょうか。

ケルトはヨーロッパの、少なくとも主な、先住民族、ではないのでしょうか。

ここに政治を絡めたら、どうなってしまうか考えてみて欲しいですね。

求めよされば与えられん。

叩けよされば開かれん。

私たちは何を求め、どこに向かう扉を叩こうとしているのでしょうね。

今一度立ち止まる必要は、ないのでしょうか。

もちろん、先住民族と呼ばれる人々がさまざまな課題に直面している事実には、私も心が痛いです。

だが、個別に事情を見ていかないと、先住民族というだけで一緒くたにしていったら、かえって個別の解決自体が遅れていかないでしょうか。

でも、これが一番難しいですか。

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出雲大社はどっちむき?

これ聞いたことありますか。

「雲太、和二、京三」

雲太は出雲国城築明神神殿、和二は大和国東大寺大仏殿、京三は大極殿です。

 1位は出雲大社。
 2位は東大寺。
 3位は京都御所、大極殿。

何の順位かというと、高さなのです。

出雲大社の口伝によると、上古32丈、中古16丈、その後8丈といいます。
1丈は3.0303mです。
メートルでは、上古96.9696m、中古48.4848m、その後24.2424mというわけです。

なんと100m近い高さで、大昔の出雲大社はそびえたっていたというのでしょうか。

みんな、高さにばかり気をとられています。

権威を見せる目的は、当然あったでしょうね。

でも、それだけでこんな高さが必要だったのでしょうか。

今の出雲大社は、南向きに建っています。

それでいて御神座のある御内殿は、西向きなのです。

どうして、こんな構造でしょうか。

あまり話題にならないけど、とんでもない高さのとき、どの向きだったでしょうか。

もし、今と同じ向きとしたら、どうでしょう。

朝と晩、見ものだったのでないでしょうか。

まるで、登り竜のようだったでしょうね。

見てみたいです。

CGでもいいから・・・。
向きに注目して、出雲大社をみていたら、変な考えがむくむくと浮かんできました。

出雲大社は、社殿は南向き、それでいて御神座のある御内殿は、西向きなのです。

つまり、東西南北にこだわった神を祀る社なのです。

東西南北にこだわったといえば、ギゼーの三大ピラミッドがあります。
たしか、入口は南にあったはずです。

最も重要と思われる、いわゆる「王の間」は斜面を上ったところにあります。

出雲大社も、階段を上った社殿に御神座のある御内殿が、設けられています。

三大ピラミッドは、白い化粧版に覆われた階段ピラミッドと見ることも可能です。
この、白い化粧版は太陽の光を現すのではないかと、見られています。
ピラミッド自体も、太陽の光の中で威容を誇っています。

出雲大社の社殿もまた、太陽の光の中で威容を誇っています。
しかも、古代はもっと大きかったのです。
出雲大社の口伝によると、上古32丈、中古16丈、その後8丈といいます。
1丈は3.0303mです。
メートルでは、上古96.9696m、中古48.4848m、その後24.2424mというわけです。

ピラミッドは、地上の太陽神である王の魂が昼の間滞在する場であるという説があります。

出雲大社の御神座のある御内殿の西向きなのは、社殿の構造上仕方ないという声はあります。
三本の柱を、三列に配置しているのです。

三内丸山などの大型掘立柱建物、かなり高いと言っても、100mや50mを建てるとなれば多少無理があるのは確かなのです。
出雲大社は、社殿の柱の配置が、100m近かったときも、一番低くなった今も、実はまったく同じなのです。
基本的構造を変えないで、高さだけ変えてきたといえるのです。
こまかくいえば、柱の太さや位置がいくらかは違うけど。

けれど、御内殿が入り口と同じ向きになるような造りをなぜ採用しなかったか、無視した議論なのです。
三内丸山などの大型掘立柱建物のようなやり方でも、十分高くなるでしょうね。

わざわざ御内殿が入り口と同じ向きになるのが難しい柱の配置を、もっと高くできるだけの理由で採用するでしょうか。

仮に、太陽神の魂が東から西に移動するのに対応していたらどうでしょうか。
そう。
出雲大社とギゼーの三大ピラミッドは、なにからなにまでそっくりになっちゃうのです。

社殿を九本柱にしたのは、なにか、思想上のわけがあるとわたしは見ます。
もし、この時代の出雲に陰陽思想があったとすれば、魔除けの九字きりが考えられます。
でも、階段まで一本線と見て十本目の柱に含めれば、門松にそっくりです。

飛鳥昭雄と三神たけるは、門松をアダムカドモンだと主張します。
さらに、ギゼーの三大ピラミッドもアダムカドモンだと主張します。
アダムカドモンは、ユダヤ神秘主義の象徴です。

そのうち、飛鳥と三神の二人は、出雲大社もアダムカドモンだと主張するのでしょうか。

あと、古代出雲大社は階段を舞台に、朝と晩、神殿で神の声、神の使いである蛇が、あるい下り、あるいは上る、光の演出があったのかもと想像するのです。

特に春分と秋分、見ものだったかも。

民俗学者の吉野裕子はその著書『蛇−日本の蛇信仰』で、縄文土器の蛇は、縄文人の蛇によせる情熱の噴出であると指摘しています。

また吉野裕子は、出雲大社は海を西に見るところに建てられ、鹿島神宮は海を東に見るところに建てられたともいっています。

出雲大社と鹿島神宮の二つをあわせて、太陽信仰のひとつの神界が構成されている可能性はありえますね。

そう思ってみると、鹿嶋神宮の向きは面白いです。
本殿と奥宮は社殿は北向きでも神座は東向き、境内社の大国社や稲荷社とか要石も東向き、ほかの境内社は南向き、境外の伊勢社は西向き。
まさに、ピラミッド神社といえますね。

真昼の太陽と、鹿島神宮と、出雲大社と、三大ピラミッドのように並ぶことでも、想像して配置したのでしょうか。

そうそう、もしも、出雲大社に十干をみてよければ、古代出雲大社は日時計であり暦でもあったのかも。

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三大ピラミッドは誰が?

ギザの第1ピラミッド (クフ王)

古代エジプト史上、最も大きなピラミッドです。
建設当時の高さは147m、底辺の一辺は230m、斜面勾配は51度50分です。

ギザの第2ピラミッド (カフラー王)

クフ王の第1ピラミッドの隣にある、2番目に大きなピラミッドです。
高さ136.5m、1辺の長さ210.5m、斜面勾配は53度10分です。

ギザの第3ピラミッド (メンカウラー王)

3つのピラミッドのうち、最も小さいのが、メンカウラー王のピラミッドです。
高さは66.5m、1辺の長さ108.5m、傾斜角度は51度です。

ギザの三大ピラミッドは、斜面勾配がそれぞれ違うといわれます。
そして、考古学者吉村作治は歴代ファラオには、自分の角度があると指摘しています。
もし、三大ピラミッドの角度が指示したとされるファラオの角度と一致すれば、これまでの定説は確かということになる可能性はあります。

ところが、ここでも驚きの情報を出すものがいます。
またしても、飛鳥昭雄と三神たける、この二人です。

アラブの言い伝えには、エノクが建造を指示したと言うものがある、と主張するのです。

ここでいうエノクとは、旧約聖書で登場する人物です。
エノクとは「従う者」という意味。
エノクという名前は『創世記』に二度現れます。

初めは4章17節で、カインの子としてその名が記されます。
カインは建てていた町に彼にちなんでエノクとつけたといいます。

二度目は5章21節から24節で、こちらのエノクは洪水で有名なノアの曽祖父にあたるです。
65歳でメトシェラをもうけ、365年生きたあと、「エノクは神と共にあゆみ、神が連れて行ったのでいなくなった」(24節)といいます。

飛鳥昭雄と三神たけるか゛、三大ピラミッドにかかわったとするエノクは、ノアの曽祖父にあたる方です。

聖書の創世記には、おもしろいことに具体的地名はノアの洪水後の、アブラハムがウルを出立したとするところまで出てこないです。
ならば、創世記二人目のエノクは、地理的にはメソポタミアの住民、ということになるかもです。

三大ピラミッドは、いまでこそ、それぞれ角度が違って見えています。
けれど建造当時は、白く輝く化粧版で覆われていた、つまり、元の角度は現在と同じである保証はない、ということです。

ま、同じ人物が企画したとすれば、今の角度の差程度なら誤差の範囲内といえるかも知れないですが。

吉村作治は、エジプトにメソポタミアから星の信仰がもたらされたといいます。

もしも、飛鳥昭雄と三神たけるのいうアラブの言い伝えどおりなら、三大ピラミッドの位置に提出されているある説に一気に光が当たります。

そう、オリオンの三ツ星をかたどったと言う、あの説。

そうなると、ナイルの水は天の川に見立てられていることになるでしょう。

赤道に近い緯度のエジプトでは、オリオンは天頂に近い高さに見えます。

これは、エジプト人にたいして、建造者は三大ピラミッドを世界の中心である存在に捧げたと、いってることになりはしないでしょうか。

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天狗と牛若丸

天狗伝承の元は、山伏と見られています。

修験者とも呼ばれる山伏たちは隊列を組んで、「懺悔懺悔六根清浄(ざ~んげざんげ~ ろっ~こん しょうじょう)」の呪文と唱えながら、山を登ります。
修行の目的は、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事です。

基本的には、神聖視され崇拝の対象となる霊山と呼ばれる山々の奥深い山中で、修行しているのです。
山伏の修行には、踏破(抖擻)や懺悔などの厳しい艱難苦行があります。

霊山とされる山の多くは、人を寄せ付けない程の険しい地形を持つ山です。

山から流れる川や、山裾に広がる森林地帯に衣食住の全てに渡って依存した生活を送っており、常に目に入る山からの恩恵に浴しています。
山岳信仰の彼らは、山奥を修行と生活の場としているので、普段は人里に下りることはほとんどなく、そういう彼らの生態も天狗伝承に尾ひれがつく原因ではないでしょうか。

その天狗の正体について、とうとうテレビにまで古代イスラエル人ではないかという説が登場するところまで来たのです。

日本の神道の神官の服装は、裾に房のついた白い衣装であるところなどが、古代イスラエルの祭司のものによく似ています。

山伏は、額の上部に「兜巾(ときん)」と呼ばれる黒い小さな箱を紐で結んでつけ、ほら貝を吹き鳴らします。

ユダヤ人は、祈るときに「フィラクテリ-」と呼ばれる黒い小さな箱を、額の上部に紐で結びつけ、「ショーファール」と呼ばれる笛を吹くです。

宗教的な意味を持つ「兜巾」や「フィラクテリ-」のような黒い箱を額につけた上に笛を吹くとこまでそっくりな民族は、全世界を見回しても日本人とユダヤ人しかないです。

秦河勝の面を持つという神社が存在するが、その面はまるで天狗です。

天狗を描いた絵の、古いものはまるで異国人を描いたようだなんて言っています。

さらに、天狗の「虎の巻」は、ユダヤ教会で使用される「トーラーの巻」の「トーラー」に「虎」の字を当てたものという説もあります。
「虎の巻」は、今日でも、奥義書やあんちょこの意味で使われています。

しかし、ここまで来ると、とんでもないことを見落としていませんかといいたくなります。

のちに源九郎判官義経を名乗る牛若丸は、鞍馬寺の山奥で天狗から、兵法を習い「虎の巻」を授かったという話を御存知な方も多いはずです。
牛若丸は、様々な叡智と技術、それに格闘術を、天狗から伝授されたと伝えられているのです。
このとき牛若丸に兵法を授けたのは鬼一(きいち)法師で、その兵法を記した巻物の名は、「虎の巻」と呼ばれるのです。

鬼一法師、名前が気になります。
それというのも、「鬼(おに)」は陰陽の「陰(おん)」から、なまったとされるのです。
隠されたものを授ける人物の名前としては、はまりすぎです。
しかも、鬼一は、「隠れたる一つのもの」と読めるのです。
まさに、奥義を知るものを指す名前であり、特定の一人を指したかどうか、疑問が残るところもあるのです。

ま、それはさておき、牛若丸がもらった「虎の巻」は、ユダヤ教会で使用される「トーラーの巻」のことだと言ってるようなものなのです。

天狗は古代イスラエル人が正体と言ってる人、この意味、わかってるでしょうか。

牛若丸は、古代イスラエルの宗教を信仰していた人物であったといってるに等しいのです。

そして、牛若丸は源氏なのです。

つまりです。

源氏は、古代イスラエルの宗教を信仰していた一族であったといってるに等しいのです。

違うでしょうか。

え?
平家の「平(たいら)」は、ユダヤ教会で使用される「トーラーの巻」の「トーラー」ではないかという説を展開したあんたに、突っ込まれたくない?
あっちゃ!一本とられた!
でも、源氏と平家が両方イスラエルってなると、同じ宗教同士の喧嘩になってしまいますね。

何があったのでしょう。

そういえば、貴族風で女性的な陰に配される平家と武家風で男性的な陽に配される源氏、陰陽相克といえそうですね。

陰の平家が陽の源氏に克されることで、武家政治が名実ともに始まりますね。
平家も武家であったので、平氏の政権も実質から言えば武家政治であったという声もあるにはありますが。

武家政治は、貴族側の巻き返しである明治維新に敗れるまで、ほぼ7世紀続きます。

この七という神代七代とか、天地創造7日間とか、神にまつわることの多い数字がここに出てくること、何かにおいます。

何かの預言が隠されているとか、あるのでしょうか。

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みけねこ天皇

禰宜(ねぎ)の子孫を、禰子(ねこ)といいます。

神社にはさまざまに呼ばれる神主がいるが、すべて禰宜の中の役職職位です。
神社内での役職職位は、神社の規模と由緒によってさまざまです。
一般的に、宮司(ぐうじ)・権宮司(ごんぐうじ)・禰宜(ねぎ)・権禰宜(ごんねぎ)等があります。
この下に見習いである出仕がいる場合もあります。

宮司・権宮司・禰宜は1社1名が原則です。
また「権宮司」は一般神社より社格が上とされる別表神社のうち、特に統理の承認を受けた神社にのみ置くことができるものとされます。

初代天皇とされる神武天皇は、崩御後の送り名です。
生前の御名は神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)です。

神武天皇には、いくつかの別名があります。
磐余彦命(いわれひこのみこと)
若御毛沼命(わかみけぬのみこと)
豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)
狭野命(さのみこと)
始馭天下天皇(はつくにしらすすめらみこと)

おもしろいのは、御毛沼命(みけぬのみこと)と言う名前です。
日本書紀には兄弟の御毛沼命は三毛入野命とか、三毛野命とか記すのです。
神武天皇の御毛沼尊は三毛沼尊であってもいいわけです。

天皇も禰宜の家系で、歴代天皇は皆禰子です。
それで、音の同じ猫が天皇の隠語です。
神武天皇は三毛の猫、それも貴重な男の三毛猫と言うことになってしまうのです。

日本は、“ねこのくに”ってことでしょうか。

日本に昔から住んでる“ねこ”で、“いりおもてやまねこ”や“つしまやまねこ”は、知っていますか。

いりおもてやまねこ (西表山猫)は、西表だけに100頭程度が生息する貴重なヤマネコなのです。
西表は、沖縄県南西部に位置し、面積284平方kmの八重山諸島中最大の島です。
ベンガルヤマネコと比較的近縁と見られています。
体長60センチメートルほどで、イエネコよりやや大きいです。
耳先が丸く、鼻づらは大きく、体は焦げ茶色で、暗色のぼんやりした斑点が多数あります。
特別天然記念物です。

つしまやまねこ(対馬山猫)は、長崎県対馬だけに100頭未満しか生息していない野生ネコなのです。
対馬は、九州と朝鮮半島にはさまれた総面積708.61平方kmになる山がちの島々で、上島(かみしま)と下島(しもじま)と周囲の島々に分かれます。
ベンガルヤマネコの亜種とされます。
イエネコよりひとまわり大きく、小動物を捕食しています。
氷河期に朝鮮半島から渡来して対馬に隔離されたと考えられ生物地理学的に貴重な種です。
天然記念物で、国内希少野生動植物種の指定です。

では、“やまとねこ”は知っていますか。
これも、日本に古くからいる“ねこ”です。

じつは、“やまとねこ”は“倭根子”と書き、天皇の美称です。
ちなみに、“ねこ”だけでも天皇を敬っていう語です。
詔勅などで、「天皇」の上に付けて、大倭根子天皇(おおやまとねこのすめらみこと)などと用いられます。

天皇は明治憲法まで、国の最高位とされてきました。
そして、いまの憲法でも、天皇は国民統合の象徴と位置づけられています。

日本は、“ねこ”が偉い国なのでしょうか。

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中東から日本へ

面白いことがあります。

西洋にむかってはレスリングが広まっているのに対し、東洋に向かっては相撲の道があるように見えるのです。
そして、われわれの国日本にも相撲が来ています。

日本では相撲は国技とされ、もともとは神前の奉納行事として行われてきたのです。

ところが、現在の日本で行なわれている相撲とは様子が違うとはいっても、『旧約聖書』には、イスラエル12支族の父ヤコブが天使と相撲をとる光景が描かれているのです。
ヤコブはこの天使との相撲に勝ったことで、「イスラエル(神の戦士)」という名前を授けられたのです。
つまり、相撲はイスラエル建国に深くかかわっているのです。

では、奉納される神の側はどうでしょう。

イスラエルの神は三神で一神、一神で三神という面白い構造になっています。

日本の神も、原初三伸、造化三神という三神構造なのは一緒です。
そして複数の神道研究家により明らかにされているのが、日本の神道は本来、三神で一神、一神で三神の唯一神信仰であったのです。

「みそぎ」の習慣が日本もユダヤもあって、水や塩で身を清めることまで同じです。
日本人は、神社を詣でる前には必ず入り口で手を洗います。
ユダヤ人も食事の前、トイレのあと、教会堂の入り口で手を洗うなどの習慣があります。
ユダヤ人以外の西欧人は、バスタブの中で体を洗います。
笑っちゃうことに、ユダヤ人は日本人と同じように、まず体を洗ってから風呂に入ることまで似ちゃっています。

成長に関する習慣にも、そっくりなことがあります。
日本人は昔、「元服式」といって13歳の男子に成人を迎える儀式を行なっていたのです。
ユダヤ人は現在でも13歳の男子に、成人を迎える儀式「バル・ミツバ」を行なうことで有名です。
生後30日目に赤ん坊を神社に初詣でさせるのは、日本とユダヤにしか見られないものです。

古代ユダヤ人は金髪や黒人ではなく、黒髪で黒目の浅黒い肌つまり褐色をした人種で、背が低かったのです。
体格は、日本人とそっくりであったそーです。
更に、日本人とオリジナル・ユダヤ人である東洋系ユダヤ人の男性Y染色体の大きさが同じであることが、パリ大学の教授によって発見されたといいます。
これは、他には見られない現象だといいます。

ここで、変なことがあります。

スコットランド人ノーマン・マクラウドは、アイヌの生活用品は古代イスラエルに似てるというのです。
アイヌのご親戚はアメリカのケネウィックで、イギリス人のそっくりさんとして見つかってるのです。
カナリヤで有名なカナリヤ諸島には、かつて白い人が来たという言い伝えがあり、白い人のミイラが見つかっています。
なのに、東日本の先住民の子孫であるアイヌと、西日本の先住民の子孫である琉球の人々は、共通の文化圏から来たと見られてるのです。
いま、沖縄で米軍基地の下になっている土地も掘ってみれば興味深い遺物がでるかもしれないですね。

アメリカからは縄文土器にあまりに似た土器が出土し、考古学者たちをドキ!っとさせているのです。
そのなかには最近注目を浴びている、ボリビアの古代モホス文明遺跡も入っています。

ボリビアでは、アンデスの東側斜面にあたるユンガス地方でイランやインドの女性を表現したと見える銅製の頭部がでています。
チチカカ湖畔からは、古代シュメール文字の一種かもしれない文字が刻まれた石製の大皿が見つかってるのです。

日本と中東の道は、アジアばかりではないってことのようです。
このアイヌの白人っぽさは、何を物語るのかは大きな疑問です。

アカデミズムの保守性も大きいかもしれないですね。

文化勲章受章者にまでなった、江上波夫東大名誉教授の「騎馬民族征服王朝説」でさえ、いまだに頑迷に拒み続けられて論争がある今の日本です。

江上教授は「秦氏=ユダヤ人景教徒」説を唱えたことで知られる、中国景教(キリスト教ネストリウス派)研究家の佐伯好郎博士の苦労を知ってるから、騎馬民族で止めといたなんていってる人もあります。

なお、サイエンスエンターティナー飛鳥昭雄は、佐伯博士は最晩年になって原始キリスト教徒説に軌道修正していたと主張、その遺志を受け継ぐと称して研究しています。

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ねこの医者?

あるサイトで偶然、熊本の一地方の方言として「藪医者」をなぜか「ねこ医者」と呼ぶと言うのを見ました。

「ねこ医者」は、新潟のBBSでも見かけたけど、かなりマイナーな言葉なようです。

「藪医者」を、辞書を引いたらこうありました。

 診断・治療の下手な医者。藪薬師(やぶくすし)。やぶ。「野巫(やぶ)医」、すなわちまじないを用いる医者の意から出たという。

この“野巫(やぶ)”とか“薬師(くすし)”から見ると、巫女や僧侶などの、宗教者による診断・治療が行われていたと言うことです。

ならば「ねこ医者」とは禰宜の子孫を指す禰子の医者「禰子医者」で、“まじないを用いる医者”だったのでしょうか。
今は名前も残っていない都の「禰子医」「禰子薬師」もいたのでしょうか。
彼らは古代からの医学に通じ名医だったかも知れません。

禰子医者がいたことは、興味深いことです。
今ではお祭りや祈祷だけになってしまった神職も、かつては医術を通じて人々を救っていたのですね。

田舎の巫医(ふい)をさす言葉に、「野巫(やぶ)」があります。

巫(ふ)は神に仕えることを務めとする人をいい、神(かむ)和(な)ぎ、の意味で、古くは「かみなき」とも「こうなぎ」とも呼ばれました。
神をまつり、神楽(かぐら)を奏し、また「神降ろし」をする、祝(はふり)とともに禰宜(ねぎ)より下級の神職です。
祝(はふり)とは「はふりこ」とも「はふりべ」ともいい、神主・禰宜(ねぎ)に従って祭祀(さいし)をつかさどる神職で、また、広く神職の総称でもあるです。
「野巫(やぶ)」とは、地方で医師の勤めも果たしながら神に仕えた、下級の神職ということになります。

この「野巫(やぶ)」が、草、特に竹の生い茂る土地を好んで住処としていたなら?

「野巫(やぶ)」のいる、草や竹の生い茂る場所もまた、いつしか「藪(やぶ)」と呼ばれるようになったのでしょう。

草深い地方に住み、神に仕え、医業を営む人々、特に女とくれば、ヨーロッパの魔女や魔術師と、そっくりになります。

ヨーロッパの魔女や魔術師は、もともとは、土地の古くからの神に仕え祭祀を司る、医業にもたずさわる人々であったからです。

「野巫(やぶ)」は、日本の魔女集団といって良いでしょうか。
彼ら「野巫(やぶ)」もまた、禰宜の子孫なので、禰子であるはず。

「野巫(やぶ)医」は、「禰子(ねこ)医」ということ、ただし、下級の。

それで、たいしたことない巫医(ふい)を、「野巫(やぶ)医」とよび、「藪(やぶ)医」と呼ばれてしまうようになったのかもしれません。

そして、藪医の別名を禰子医、つまり、ねこ医という地域もあるというわけ。

最近見た番組で驚きました。
中国雲南にいる少数民族の住居、弥生の高床や、伊勢神宮に似たつくりです。

その少数民族の厄除けのおどり、驚くのは、女たちが長い髪を振って両手で空をたたくようなしぐさ。
この踊りのしぐさは、数から連想した動きそっくり。

彼らのほかにも、松を常緑なことから、特別視する文化を持った少数民族もいます。

そして、雲南から江南のあたりは、日本稲作文化のルーツと見られているのです。

さらに、長江文明の文物に、太陽の樹である芙蓉をかたどったものに、十の枝と十の鳥がつくられています。

これ、鳥居とは何か関連あるのでしょうか。

長江文明を築いた填王朝の遺跡からは、日本同様、漢から送られた蛇をかたどった持ち手のついた金印もでています。

長江文明と日本は、河拇渡遺跡でつながっていることもわかってきました。

藪医者のルーツは、西にさかのぼるのでしょうか。

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女媧(じょか)と伏羲(ふくぎ)

人面蛇身で描かれることの多い、女媧(じょか)と伏羲(ふくぎ)。

よく見る絵では、女媧(じょか)がコンパス、伏羲(ふくぎ)が曲尺を持っています。

この女媧(じょか)と伏羲(ふくぎ)は、天地創造話にも、からんでいるのですね。

しかも、聖書を思わせる土からの人の創造であったり、女媧(じょか)と伏羲(ふくぎ)が夫婦になったり、洪水話まであります。

さらにいえば蛇身は象徴であり、蛇は神の声をあらわすと見れば、女媧(じょか)と伏羲(ふくぎ)は預言者。

どう見ても、イブとアダムが下敷きになって見えますね。

女媧(じょか)と伏羲(ふくぎ)は、中国少数民族の苗族(みゃおぞく)が信奉した神と推測されています。
そして、苗族は湖北から湖南にかけて分布したと見られる三苗の末の一族を考えられています。

つまり、立人像や神樹の出土した三星堆遺跡とのかかわりがありえる人々です。

立人像の足元に角のある逆さな顔、これは、死を象徴する鬼が逆さで死の樹を表し、上の立人像は生命の樹、手にしていたと想像されている象牙は生命の樹に巻きつく蛇でありセフィロトをつなぐパスに思えます。

神樹の鳥は天使、つぼみはセフィロト、くねる樹の姿がパスかもしれないですね。

つぼみは、神の子とされるイエスもあらわすのでしょうか。

これは、イブとアダムが元としか思えないですね。

アダムとエバはエデンの園を追放された後、祭壇を築いて神に燔祭を捧げ、礼拝しました。

コンパスと曲尺とはその祭壇を作る道具であり、女媧(じょか)がコンパス、伏羲(ふくぎ)が曲尺を持っています。

これ、大ボケでしょうか。

女媧(じょか)と伏羲(ふくぎ)は、ノアの洪水などと、関連ありと疑う人はいます。

あるどころじゃないでしょう。

三苗の苗は「みゃお」。
「みゃお」は、多くの国で猫のなき声をあらわすのですよ。

そして、猫とイエスを結ぶ、猫又の別名である火車、猫神であるバステトとセクメトやラー。
ラーは、冠詞の“アル”と結びついて、“アル・ラー”となって、“アッラー”となったと見えるのです。
しかも、バステトとセクメトはラーの片目から生まれた女神とされているのです。

三苗は、少なくてもヘブルにつらなる可能性があるかもしれない人々でありましょう。

「苗族」は自らを「モン族」と名乗るけれど、「猫族」とも漢字表記され、「メオ族」「ミャオ族」と呼ばれているのは周知のとおりです。

この民族は日本人とよく似た風俗習慣を持つところから、南下した漢民族の収奪と侵攻を受けて滅ぼされた三苗の、一部が苗族となり、一部は台湾、西日本へ 逃げてそれぞれのルーツになったという説まであるのです。

日本神話のイザナミとイザナギ、ナミやナギは東南アジアで神の蛇とされたナーガが語源ではないかという説もあったりします。
これって、イザナミとイザナギは、女媧(じょか)と伏羲(ふくぎ)の子孫ということでしょうか。

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ネコの意味

アラブは、イスラエルの祖先であるアブラハムに妻の女中エジプト人のハガルとの子として生まれた長男のイシュマエルから出ています。
ちなみにイシュマエルも12人の息子の父であり、メソポタミアの法に従い、イシュマエルはサラの子となりました。

イシュマエルの父、アブラハムの孫に当たるヤコブからイスラエルが出ます。
イスラエルは南北に分裂、北朝のイスラエルの一部はペルシャに行きます。
そして、多くのペルシャ人は日本に来ています。

おもしろいことに、アラブ語やペルシャ語に、neko(ネコ)とか、neku(ネキー)という語があって、この二つの語はペルシャ語では、こういう意味らしいです。

敬虔(父母や長上に対する)、敬服、恭敬の態度。
貧しい者に対する惜しまざる施し。慈悲心に富む事。
誠実・正直。他人に対して悪評を下さない事。
善。善行、恩恵。
美しさ、優雅さ。

アラブ語のほうの意味は、手元の資料がないから、ちょっとわからないですが。
ヘブル語にも、似た言葉があるかもしれないと辞典を探して見ました。

すると、それらしいのがありました。
「ヌン(נ)ツァ(צ)ヘー(ה)」
たぶん、「ネキー」見たいな読みじゃないでしょうか。
若干ん~名から突っ込まれるかも。
「ネティー」に近いのでは、とか。
その中間くらいと思いたいですけど。

意味にはこう出ました。

勝つ、勝利する。(音楽で)指揮する。
永遠、不滅なものにする、永久に記念する。
輝き、光輝、栄光。
永遠、永久、不滅。

ついでにいうと、neko(ネコ)や、neku(ネキー)について検索をかけたら、ヒッタイト語でもneko(ネコ)、neku(ネキー)という語があったと思われる情報にふれたことがあります。

ヒッタイト語などで似た音の言葉、ご存知の方おられましたら情報くださいませんか。

神道の神官を禰宜といい、禰宜の子孫を禰子というのは、ペルシャ語のneko(ネコ)や、neku(ネキー)が関係しているのでしょうか。
すくなくても、ペルシャの民族宗教である拝火教で神官をマギという語源である可能性は、音や意味から疑ってもいいようには思えます。
拝火教は、日本で宗教に影響を与えていたという意見を言う人たちも多いのです。

なのに、今までここに誰も注目しなかったのは、まさかこんなことかあるとは思っても見なかったからなのです。

なに?
やっぱネコは、猫かぶって、とぼけていたのかって。

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ヤマタノオロチ

どう考えても、ヤマタノオロチの“ヤマタ”って、八つに分かれたと言う意味しょうね。

分かれるとこが八つだから、本当は胴体から伸びてるのは九つだ、なんて解釈は歴史上ほとんど現れたことはないのではないでしょうか。

最近では、マタは分かれるところをさすはずで、分かれるとこが八つだから、本当は胴体から伸びてるのは九つだ、という主張をする人もいるようですがね。
九尾の狐などがいるから、それと関連を見たいのかもしれません。

だけど、二股をかけるといえば、間の離れた別々のところに左右それぞれ足をかけることを言うのじゃありませんか。
人の体で3本目の足って、見たことありますか。
電球が2個つけられる二股ソケットというのもありますが、2個のソケットが1つの本体についているのです。

そうなるとです、一つの胴から八つの分岐がある生物がいるかといえば、いるのです。

タコ!

え?スサノオのタコ退治!?

わたしゃ、おそらく天孫一族が西日本のタコ好きな人々を配下に収め、島根界隈の製鉄を手に入れたことを、ヤマタノオロチ退治といってたのではと見ます。

おもしろいことに、このオロチ退治伝承のある島根を含む西日本には道通様信仰という蛇神崇拝があるのです。

道通様とは、首の回りに黄白色の輪のある“トウビョウ”と呼ばれる小さなヘビなのです。

人に憑いたり、祟ったりするものとして恐れられ、これを鎮めるため祀られます。
この道通信仰は、中国・四国の瀬戸内海地方にみられる蛇神信仰で、西日本全体に崇拝者がいます。

中国・四国地方の瀬戸内海を中心に社が広がる道通様は、ほとんどが岡山の横島の道通島からの分社だそうです。

岡山の道通神社の建立は、永禄年間、西暦で言うと1560年頃のことだそうです。
この時期、笠岡城主であった毛利元就の家臣陶晴賢が、現在富岡地区に属する笠岡道通谷に建てたと伝えられるそうです。

道通神社は、表向きは猿田彦命と応神天皇を祀ることからみて起源そのものはかなり古いようです。
なお、現在の横島にある社は、笠岡道通谷にあったものが戦国時代に荒廃したため当時から信仰のあったこの地に移されたものです。

わたしがこの道通神社を疑うのは、祭神とされる猿田彦命は天孫光臨の際、ヤチマタ(道がいくつにも分岐した交差点)に立って道を照らして道案内をした神といわれるからです。
今日では、交通安全・開運授福・船玉の神として崇拝されるとのことです。 

蛇神を祀り、ヤチマタとくれば、ヤマタノオロチまで後もう一歩です。

でも、このトウビョウって、なにを意味するのでしょうか。
闘猫(トウビョウ)ってことでしょうか。
古代エジプトじゃあるまいし。
古代エジプトには、蛇と戦う猫の絵も結構あるのですよ。
日本じゃ、見たことないですね。

それと、神武でなくって応神?
なんで?

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ケネウィック人縄文人アイヌ

以前、聾唖者の女優が中央アジアを訪れる場面が放送されたけど、遺伝子がそっくり人が先住民にいると言うので尋ねていったわけです。
ちょっと彼女の顔が気になって、名前と画像で検索かけてみたのです。

そしたら、2003年3月からフジ系列で放送されていた番組でした。

サイエンスミステリー「それは運命か奇跡か!? DNAが解き明かす人間の真実と愛」

DNA分析の結果、女優・忍足亜希子と同じタイプのミトコンドリアDNAを持つ人が、中央アジア・カザフスタンにいることが判明した。
その人の名前はエルミーラ。アクタストゥという村で暮らす、26歳の女性だ。
忍足はエルミーラさんに会うため、東京から遥か5500キロ離れたカザフスタン・アクタストゥ村へと向かった。
http://www.fujitv.co.jp/dna/chap3.html

広義のシルクロードは、ステップルート・オアシスルート・南海ルートに分けられます。
カザフスタンのある天山山脈の北のルートはステップルートに当たります。
ステップとは木のない大草原のことで、ステップルートとは大草原の道ということです。

ステップルートは、草さえあればどこでも通路なのです。
どこでも通路になるわけですから、中華帝国のような農耕民族の勢力は及びようもなく、歴史書等にはほとんど登場しないそうです。
もちろん、オアシスルートのように定まった経路はなく、現在のルートが整備されたのは18世紀の清の西進や、19世紀ロシアの東進があってからです。

ステップルートは、スキタイから匈奴、突厥、モンゴル等の遊牧民にとっては、北はシベリヤのタイガの南、南は天山北ルートからより北、北緯50度前後に広がるカザフ平原からモンゴル平原までの地域全体を指しているのです。

ところで、忍足亜希子は昭和45年(1970年)6月10日北海道千歳市生まれです。
忍足の顔立ちはどちらかと言えば彫りの深く端正な縄文系で、アイヌもまた縄文系であることを思えばアイヌに似た顔立ちといわれるケネウィック人のいたアメリカに繋がるわけです。

私は、これで思い違いをしていたようです。
しかし、こうなると忍足の顔がケネウィック人的ともいえるわけで、中央アジアにケネウィック人的な人々がいたという連想というか、妄想というかに、駆り立てられます。

ケネウィック人の発見は、1996年6月28日のことでした。
コロンビア川の河畔で大学の競漕を観戦していた若者が人骨を発見し、警察に通報しました。
検死の結果、先史時代の人骨とされ研究機関に送られたのですが、これが騒ぎの発端でした。
ネイティブ・アメリカンの文化を尊重し、開拓時代以前の人骨は彼らの流儀で埋葬しなければならないと定めた法律があったためです。

9300年前の人骨であり、なおかつ現在知られるネイティブ・アメリカンに属さないという説が発表されたのです。
それで、研究を中止し埋葬するよう地元の部族であるウマティラ族の代表によって訴訟が起こされました。
しかし、裁判所は原告の主張を退け、研究の続行を許可しました。

いろいろな経緯はありましたが、全身の骨が回収され、中でも頭蓋骨はほぼ完全であったそうです。

ケネウィック人がどの人種であるかは、現在も結論を得ていないといいますが、科学よりも政治に振り回されたからのように見えます。

白人の研究者は、「白人である」と主張しています。
日本の研究者はむしろ「縄文人或いはアイヌ民族に近い」と言う説を出しています。
「ケネウィック人もネイティブ・アメリカンと完全に同一だ」と言う説も、一部ながら存在します。

しかし、アイヌには面白いエピソードがあるのです。
アイヌが白人だという説が、ヨーロッパで関心を呼んだという時期があるのです。
ロシアにいた白人が、大陸から追い出されて北海道に逃げ込んだのがアイヌだという説までたてられたのです。
いまでは、アイヌの血液のたんぱく質の多変量解析の結果から、アイヌは明らかにモンゴロイドに含まれると判断されているのです。

つまり、ケネウィック人がどんなに白人的でも、アイヌが縄文人の子孫である以上、縄文人のご親戚である可能性はありえるといえるでしょう。
明治維新前後日本に来た欧州人の中からも、日本にはブリティッシュ的な顔立ちの人々がいると出版物を通じて欧州に伝えたひとがいるのですよ。

さらに、ここで注目したいのは、ミトコンドリアのDNAの比較から古代アメリカと日本の関係が、あらためて確認できてきたことです。
ミトコンドリアDNAのタイプのことを、ハプログループといいます。

人のミトコンドリアDNAのタイプであるハプログループには、80パターンがあります。
日本の主なミトコンドリアのDNAは、そのうちの16タイプ。
日本人のルーツ探しに大きくかかわるのは、この16のハプログループだそうです。

主なということは、少数派も含めれば、もっとあるのでしょう。

16のDNAパターンは、以下の通り。

A、B4、B5、C、D4、D5、F、G、M7a、M7b、M7c、M8a、M10、N9a、N9b、Z

日本と古代アメリカでつながるのは、ハプログループのなかのAグループとDグループ。
古代アメリカでは、先にAグループが多かったのが、次第にDグループが増えたというのです。

もし、この古代アメリカで先に多かったAグループがケネウィック人であり、縄文人であり、今のアイヌとしたらどうなりましょう。

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徳島になにが?

偶然見かけた興味深い情報です。

徳島新聞社や徳島放送によると、2005年11月15日と2007年01月10日、イスラエル大使が徳島を訪問していたといいます。
大使は空手の黒帯五段で、日本文化への造けいも深いです。
著書には、日本とユダヤの文明の類似性について論じた、2006年出版の「大使が書いた日本人とユダヤ人」があります。

目次を見るとこういう内容だそうです。
第1章 武士道精神とユダヤの人生哲学
第2章 自害、切腹の考え方には深い理由がある
第3章 神道とユダヤ教
第4章 男系男子を貫く皇室と祭司の家系
第5章 日本における古代イスラエルの伝承
第6章 民族を結ぶ三つの糸をたぐる
第7章 日本人とユダヤ人―その過去と現在の暮らしを見る

イスラエルのエリ・コーヘン駐日大使夫妻が訪問した先は美馬市です。