歴史

淡路島と天孫一族。

淡路島は、瀬戸内海東部に位置し、瀬戸内海では最大の島です。

 

全島が瀬戸内海式気候の区分に属し、年間平均気温約16℃、年間降水量約1300mmと言う気候であるが、諭鶴羽山地以南では南海型太平洋側気候の特徴も少し混ざります。

このため多くの農業用ため池があり、兵庫県内にある43,000のため池の半数を超える23,000が島内にあります。

近代以降もダム建設が行われてきたが、1999(平成11)12月に明石海峡大橋に架設された口径450mm2条の水道管による本土導水が開始されました。

 

シンガポール島とほぼ同じ面積を有し、日本国内では主要4島、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬についで第11位の面積を持ち、人口では主要4島以外では沖縄本島に次いで第2位です。

 

北東から南西へかけて細長く伸びる淡路島は南北約53km、東西約22km、周囲約203kmで、北部では幅5kmから8kmと細く南部で幅が拡がっています。

 

大阪湾、播磨灘、紀伊水道に四周を囲まれ、北端の松帆崎で明石海峡に、南東端の生石鼻で紀淡海峡に、南西端の門崎(とさき)で鳴門海峡にのぞみ、本州四国連絡道路の神戸・鳴門ルートで本州・四国と繋がっています。

北部と南部の淡路山地と中南部の淡路平野に分けられ、北東部と南部の山地急斜面は海岸まで迫ります。

また周囲の主な属島には紀淡海峡の成ヶ島、紀伊水道の沼島があります。

 

令制国名は淡路国。近畿地方の兵庫県に属し、現在は北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市で区分されます。

 

兵庫県は地方自治法に基づく支庁として、淡路島全域を管轄する淡路県民局を洲本市に設置しています。

1965(昭和40)以降、洲本市・津名郡・三原郡の110町体制が続いていたが、市町村合併によって、2005(平成17)111日には三原郡4(緑町・三原町・西淡町・南淡町)が南あわじ市に、同41日には津名郡五色町を除く津名郡5(淡路町・北淡町・東浦町・一宮町・津名町)が淡路市となりました。

残る五色町は2006(平成18)211日に洲本市と合併し、新たに洲本市となりました。

これらの合併により現在の淡路島は、北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市体制となっています。

 

淡路島全体で一つの市となる構想や動きもあったが、実現しなかったそうです。

 

淡路島を三つの地域に分けると言うのは、どうやら古代からそれが自然なことだったらしいです。

かつて淡路島は上撫(かみなで)・中撫(なかなで)・下撫(しもなで)に分けられていました。

どうやらその頃、平家の落人の一部が住み込んだらしいです。

 

“撫”と言うのは、どういう意味で突いた名前かよくわからないようです。

 

ならば、当て字の可能性があります。

 

奈良県の“なら”は、韓国語の国を指す“なら”から来ているのではないかとの解釈もあります。

 

淡路島の、かみなで・なかなで・しもなでの語源もあるいは、この国を指す“なら”から来ていると見てはいけないでしょうか。

 

国を指す“なら”も、“はら”が転化した見ても面白そうです。

 

さらには“はら”も、中東の言葉の“ある”から巻き舌音で簡単に転化してしまうのです。

 

“ある”を“AL”と記せば中東の言葉の定冠詞にもなります。

 

“ある”ははじめのころは国そのものをしたが、広がりを持つに従って“ある”は土地の名の前につく定冠詞となっていったのでしょうか。

 

国を指す言葉としての“ある”や“はら”から、“なら”となり、淡路島では“なで”となったと言う仮説も面白いかもしれないです。

 

前半の平唇音に引きずられて、“なら”から“なで”に変化するのは十分にあり得る。

だから“なら”の名が近畿にまでたどり着いたのでしょう。

 

記紀の日本列島の国産みの神話では、淡路島は伊弉諾尊・伊弉冉尊が日本列島中、最初に創造した島であるといいます。

『古事記』では淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)と書かれ、『日本書紀』では、淡路洲と書かれます。

初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られます。

また反正天皇は淡路島で生まれたとされます。

古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いだとされます。『延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されています。

神代より淡路国として存在したが、大阪の陣で活躍した蜂須賀に与えられ江戸時代は徳島藩の知行地となったが、庚午事変(稲田騒動)が遠因となり1876年に兵庫県に編入されました。以来、近畿地方の一角として発展しています。

 

記紀の日本列島の国産みの神話で、淡路島は伊弉諾尊・伊弉冉尊が日本列島中、最初に創造した島とされるならば、天孫一族が第一歩を記した島が淡路島なのでしょうか。

 

初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られ、また反正天皇は淡路島で生まれたとされるというのも、日本における最初の拠点を置いたと見ればごく自然でしょう。

 

これは、天孫一族日本上陸が瀬戸内ルートであることを前提した議論なので、一つの解釈に過ぎません。

 

とは言え瀬戸内ルートは長らく日本経済で重要な働きをしてきたことを思えば、ごく自然な流れではないでしょうか。

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どういう立場に立って各国の位置関係を見ると良いのか考えてみた方が良い。

北朝鮮がアメリカに対して挑発的行動を取り続けているのです。

北朝鮮に圧力をかけて態度を変えさせようとして、いくつかの国々が動いています。

 

北朝鮮が態度を変えないなら、石油の全面的な禁輸も辞さないと言う強硬論も出ています。

 

だがロシアは、それに異を唱えているのです。

 

対話の道を模索し、進めていくべきだとしているのです。


それに対して、様々な推測や憶測が当然のように出てきています。


しかし、ロシアにどのような思惑があろうと、その背景にはどういう事情があるか考えた方が良いでしょう。


その結果、ロシアに対してどのような働きかけを選択するにしてもです。

 

まず考えられるのは、ロシアは北朝鮮と陸続きだから、もし北朝鮮の民衆に何かあれば、難民問題など厄介な事態を抱える可能性が大いにあると言う事です。


だが、影響はそんな段階で留まるはずはないと考えるのは自然なはずです。

ロシアは北朝鮮が陸続きの隣国である以上、どんなに可能性が小さかろうと最悪の事態回避に動くのは当たり前ではないでしょうか。

そこを理解すべきなのです。

 

仮に北朝鮮へ石油輸出を全面的に止めたとします。

ロシアは最も近い産油国なのです。

輸出再開を力づくでも迫ってくることは、当然想定の範囲でしょう。

もし、どちらから業を煮やして戦端が開かれた場合、核で威嚇しあう事態になり、北朝鮮がロシアに核を使いかねないと最悪の事態を想定し全力で回避行動をとるのは当たり前ではないでしょうか。


北朝鮮への石油禁輸を実施したらABCD包囲網で石油禁輸された日本が真珠湾奇襲をしたような行動を北朝鮮は取るかと言う問いに、ロシアはないとは言い切れないと懸念している可能性は否定しない方が良いと思うのです。

そして実際に、最悪の事態の事態はあり得るとの判断を示し、各国の理解を得たいと願っているではないですか。

北朝鮮がアメリカ・ロシア・中国の三国を翻弄出来るのは、緩衝地帯としての地政学的な位置にあるからです。

北朝鮮は自覚しているか否かに関係なく、やらざるを得ないし出来るからやっているのでしょう。

 

アメリカ・ロシア・中国の三国の緩衝地帯としての地政学的位置にあるにもかかわらず、韓国や日本がそれをやっていないからですよ。

だが韓国や日本は恐らく、自らの地政学的立場を理解していないし、利用してもいないようにみえるのです。


従来の大国のパワーバランス理論の束縛から、出られないからでしょう。

近視眼的なリアリズムが、邪魔しているのです。


日本を中心とした世界地図を見て欲しいのです。

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日本が、アメリカ・ロシア・中国の緩衝地帯としてこの三国を翻弄出来る地政学的位置を理解して欲しいのです。

 

仮に半島が中国とロシアのどちらにつこうとも、日本のアメリカ・ロシア・中国の緩衝地帯としての地位は揺るがないはずです。


しかも経済力もあるではないですか。


かつてより順位は落ちたかもしれないが、それでも十分な高さと大きさがあります。

 

北朝鮮がロシアと中国を翻弄出来るのは、北朝鮮の緩衝地帯としての地政学的位置をロシアも中国もわかっているからだ。

中国もロシアも、北朝鮮を相手に取られたくないが追いやりたくもないのです。

そして、北朝鮮は中国やロシアとアメリカとの緩衝地帯でもあるのです。


それは、アメリカも十分意識しているはずです。


これらの事情を一番理解できていないのは、悲しいかな、日本ではないですか。


真っ只中にいて翻弄される立場にあるから、多くの国民がそのことに十分理解できていないのかもしれません。


もう一度言います。


日本を中心とした世界地図を眺めてください。

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思い描いてください。


日本が、中国やロシアとアメリカの緩衝地帯であり、これらの国々に対してイニシアティブを握れる地政学的位置にあることを、理解してください。


一番良いのは、半島と日本の中立化だと私は思うのです。

 

そして、中国やロシアとアメリカの緩衝地帯としての地政学的位置にある利点を最大限に利用し活用する政治のリアリズムを徹底的に理解し生かして欲しいのです。

 

世界が平和と安定の中で、持続可能な対等平等・相互互恵な社会をつくり上げていくイニシアティブを大いに発揮して欲しいのです。

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吉備団子を食べると何が香ってくるだろうか?

岡山県の旧吉備国地域の土産として有名な餅菓子の一種に、吉備団子(きびだんご)があります、

この吉備団子は江戸時代末期に考案にも拘らず、桃太郎の吉備団子と同一視される経緯があるといいます。

桃太郎に結びつくには、それなりの起源の古さがないとおかしいが、現在のような餅菓子の一種になったのは江戸時代末期の事らしいです。

現在に至る改良製品は、餅米の粉を混ぜて求肥を作り、これを整形して小さく平な碁石形の円形に仕上げるのです。

黍の粉を混ぜて風味づけするものもあるが、使わないものもあると言います。

風味付けに黍粉を使うことがあるのは、元々の原料が黍であることに由来する可能性もあるが、定かではないです。

安政年間(1856年頃)に広栄堂により考案されたとされるが、郷土史家の研究によると団子の起源としては年代が合わないと言うのです。

求肥式の製品考案も明治のことだというから、桃太郎の時代からこのような形でなかったことは確かであるでしょう。

吉備団子のルーツを、岡山の吉備津神社で黍団子がふるまわれたり、境内で飴が売られていた故事に求める声もあるらしいです。

飴と団子では違いがありすぎて少々無理がありそうなので、名前から言っても、製法から言っても、起源を黍団子に求める方が自然に思えるのです。

 

吉備団子と桃太郎の結びつきも、明治時代に菓子製造者が桃太郎のきびだんごと称して販売促進に利用したことに由来するものか、はたまた、昔からの伝承にあやかったものか、定かではないです。

昭和にはいると、桃太郎は吉備津神社の主祭神吉備津彦に由来するとの説がおこる。

それには、この地に伝わる温羅退治が深く関わっているのです。

 

餅菓子の一種である岡山の吉備団子に黍粉による風味付けがあるのは、元々黍団子だったからと言う説が出てくるのは、黍団子の材料となる黍が「もち黍」だったことによるのです。

「もち黍」は、団子や餅の原料とされます。

黍には「うるち黍」もあるが、こちらはもっぱら菓子の原料とされる。黍団子(きびだんご)は、文字通り「黍」(きび)を粉にしてこしらえた団子で、遅くとも15世紀末には用例が見つかるとされます。

桃太郎のおとぎ話では犬・キジ・猿に「きびだんご」を与えてお供を得ることが知られるが、元禄の頃までは「きびだんご」ならず「とう団子」等だった見る議論も展開されています。

 

十団子(とうだんご)は和菓子の一種で、団子または類するものを紐や串でつなげたものである。同名の別菓子が複数あるが、元をたどると江戸時代にさかのぼるらしいです。

一つは、今も地元で作る現在の静岡県静岡市にある東海道の宇津ノ谷で売られた団子です。

もう一つは、かつて宮城県塩竈市の名物として作られたあられもちです。

また、十団子は愛知県名古屋市の熱田神宮にゆかりの藤団子の別名でもあります。

 

黍団子については、昔、麦粉や黍などの雑穀の粉を蒸してついた食物は「餅(べい)」と称していたという考察が、江戸期の暁鐘成の随筆にあります。

「餅」の読みについては「ぺい」の可能性が高いが、実際のところは定かではないらしいです。

また、江戸期の暁鐘成の随筆によれば今の餅は、本来「餐(さん)」と呼ばれていたといいます。

 

餐とは、「食べること」あるのは「食べるもの」のことなので、地域によっては黍団子は古来から主要な食品であったことがわかります。

 

吉備国、特に吉備津神社と「黍団子」という食べ物のとあいだには、少なくとも17世紀初頭までにはなにかしらのゆかりができていたようです。

 

岡山県は、桃太郎に出てくるきびだんごは吉備団子だとして、温羅退治とも結びつけて、うちこそがご当地である名乗りを上げています。

だが、皮肉なことに桃太郎の話を遡ると団子は、「とう団子(十団子)」、「大仏餅」、「いくよ餅」などの名前が上がる一方で、初期のころのには「きびだんご」の名はみえないといいます。

 

「とう団子」についてはすでに見たので、「大仏餅」「いくよ餅」についてみていきます。

 

「大仏餅」は、大仏の形を焼き印で押した餅菓子です。

江戸時代、京都の誓願寺門前や方広寺大仏殿前の餅屋で売り出したのが始めと言います。

奈良名物のものは東大寺にまつわり、鎌倉時代から伝わります。

 

「いくよ餅」は、江戸両国の名物餅で餅をさっと焼いて餡を付けたものです。

元禄(16881704)の頃、小松屋喜兵衛が妻幾世の名をつけて売り出しました。

 

こう見てみると、「とう団子(十団子)」、「大仏餅」、「いくよ餅」などの名前は江戸時代よりもさかのぼることはできないでしょう。

 

一方、特定の団子の名前が作中に見えないと言う事は、それぞれの土地の団子をそこに当てはめて物語をその土地に結びつけていったと見る事ができるでしょう。

 

我こそは桃太郎のご当地であると名乗りを上げている土地は複数あります。

 

岡山県岡山市・総社市

香川県高松市

愛知県犬山市

奈良県磯城郡田原本町

 

これら、名乗りを上げている土地にもいろいろ言い分はあると思うが、桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのも明治時代からであるといいます。

それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはないです。

また、団子も、黍団子以外にも、粟・稗の団子の設定などバリエーションがあることや、桃太郎の話自体にも先に挙げたほかにもいくつもの変形があることだけ、触れておきます。

 

吉備団子についての考察なので、今回は桃太郎にこれ以上踏み込ません。

 

吉備団子の吉備の名も、黍の収穫量が多かった事に由来する地名だと言われています。

 

粟に由来する阿波国や木の国が転じて紀伊国となった例などもあり、吉備=黍の転じたものであろうと考えられているわけです。

 

黍は、イネ科の一年草で、穀物の1種で、日本では五穀の1つとされます。

秋に花が咲き、実が黄色であることから、「黄実(きみ)」→「きび」となったとするのが有力な語源説です。

「うるち黍」「もち黍」の二種があり、黍団子には「もち黍」が使われているのは、すでに見た通りです。

アワより少し大きい実を、そのまま炊いて粥にして食用にしたり、粉にして餅や団子などにしたりします。

黍はインドが原産と推定されるが、原種になった野生植物が発見されておらず詳しい事はまだわかっていないのです。

中国の華北地方では、アワとともに古代の主要穀物でした。

日本には縄文時代に渡来したアワより遅く、弥生時代に渡来したと考えられています。

生長すると1メートル程度になり、夏から秋にかけて茎の先に20センチメートル程度の穂ができ、垂れ下がる。現在では、お菓子の材料や小鳥の餌として利用される程度の用途しか用いられていないです。

 

吉備の国の国名の由来にまでなった黍も、今ではお菓子の材料や小鳥の餌として利用される程度の用途しか用いられていないのは、少々残念な気がするのです。

 

どうやら、吉備団子はもともとは「もち黍」を原料にした黍団子であったものが、「もち米」を用いた「餅菓子」に風味付けとして黍粉をまぶしたものに簡素化され、ついには黍粉さえまぶされなくなった「(吉備で作られた団子だから)吉備団子」にまで変質していったものと思われます。

 

古来、高い技術力を持っていた吉備の国、その国名の由来となった黍を原料としたところに名の由来があるであろう吉備団子から黍の要素が薄れていくのは、なんとも寂しい気がするが、これもまた時の流れでしょうか。

 

吉備の国の基礎を築いた民は、どこから来たのかと言う、古代のロマンに思いをはせながら、せめて黍粉で風味付けされた吉備団子を味わってみたいがするのです。

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菅原氏。

菅原氏について調べてみる気になったのは、ひょっとしたら祭司の家系ではないかと言う気になったからです。

菅原氏の祖とされる天穂日命は日本神話に登場する男神で、天之菩卑能命、天菩比神などとも書かれます。

天照大神とスサノオが誓約をしたときに、天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った神とされます。

物事のタネとなるものをさす物実(ものざね)の持ち主である天照大神の第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたります。

ちなみにアメノオシホミミのフルネームであるマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミは、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、正哉吾勝々速日天押穂耳尊などの表記があります。

天穂日命は葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかったのです。

その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされます。

菅原氏の直接の祖とされるのは、天穂日命の子孫で、大相撲の祖として知られる野見宿禰を先祖とする土師氏です。

 大相撲自体すでに神事として営まれているでしょ。

菅原氏は祭祀に関与した一族である可能性が高いですね。

 その上菅原氏は土師氏の流れをくむとなれば、さらに可能性が出てきます。

大相撲の祖とされる野見宿禰はまた、殉死者の代用品である埴輪を発明したことでも知られそれがきっかけで第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われているから、祭祀に関わる一族であると言えるでしょう。

 殉死の代わりに土で作った埴輪で差し支えないと、説得力をもって説き伏せてしまう。

相当神事の奥義に通じていないとできないはずですね。

野見宿禰、かなりの神仙思想の使い手である技能に通じた人物であったと言えそうです。

神仙思想に詳しい技能者と言う事は、メーソンを連想できますね。

メーソンの関与を連想できる遺跡としては、酒船石遺跡があります。

酒船石遺跡とは、酒船石と平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および周辺の遺構を含めての総称です。

神仙思想に詳しい腕の立つ石工による工作物、という指摘がされた遺跡ですね。

神仙思想に詳しい腕の立つ石工とは、まさにメーソンの説明そのものにほかならないです。

 野見宿禰がもしメーソンだったとしたら、相撲にその証拠を見ることができますね。

土俵は四角で、そこに蛇の目を指し示す俵の円があります。

つまり、四角の中に円、定規とコンパスはメーソンのシンボルです。

さりげなく見せながら隠すのが、奥義なのです。

メーソンとくればカッバーラだけど、カッバーラとはユダヤ教神秘主義のことですよね。

あなたは土から生まれたから土にかえる、あなたは塵から生まれたから塵にかえる。

有名は聖書の一節ですよ。

野見宿禰がメーソンでありカッバーラの使い手であったなら、あり得る話ですね。

でもこれは、当時の日本のトップにいた人たちが聖書を知っている事が前提ですね。

初代神武天皇からして、実はユダヤだったとしたら、どうでしょうか。

少なくとも神武天皇のバックにいた可能性が高い徐福についてはユダヤ人であったと言う説があります。

日本人のルーツのうちで、どこまでがユダヤ人と言えるかについては、諸説あるようです。

 少なくとも天孫一族については、ユダヤ人説があるでしょ。

 縄文、弥生となると、どうでしょうね。

皇室やその周辺はユダヤ人だった可能性は、見ても良いかもしれないですね。

縄文や弥生についても、可能性は否定しない方が良いでしょうね。

土師氏のうち平安時代初期に大和国菅原邑に住んでいた一族が、以降、菅原氏を名乗ることとなります。

土師氏から分かれた一族としては、菅原氏のほかに大江氏や秋篠氏があります。

菅原古人の子清公、および孫の是善を含め、大江氏と並んで子孫は代々、紀伝道すなわち文章道を家業として朝廷に仕えていました。

そして、古代には政(まつりごと)は祭り事(まつりごと)でもあったから、菅原氏は文章道を家業としていたなら相当に祭祀に通じていた家系であると言えるでしょう。

菅原氏、少なくとも菅原道真は天神を篤く崇拝していたと言います。

天神は雷神として知られるが、菅原氏の祖は天穂日命で、どこでどうやって雷神としての天神と結びつくのかが、謎めいています。

だが、雷神と言えば雷鳴、つまり、雷です。

「かみなり」は「神鳴り」や「神成り」に通じた音と言う事は、雷鳴を神の声と言い換えても良くなるはずでしょう。

地上に神の声を下す存在として雷神を見ると、神にお伺いを立てることを菅原氏は本来生業としていたと見ても良いでしょうね。

相撲もまた、神託伺いの神事の側面があると言えるでしょう。

力士は祭司、あるいは、神の依り代の役を担う存在であったのかもしれないです。

その力士の祖を起源としている菅原氏は、やはり、祭司一族と見て差し支えなさそうです。

とは言え、菅原氏を考察していたら、まともに日ユ同祖論にぶつかってしまったのは興味深いですね。

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引力にパートナーとなる力はあるのか。

真空のエネルギーが、時空が膨張しても密度の変化しないダークエネルギーの正体と言う説を唱える人がいます。

このダークエネルギーが宇宙の70%で物質は高々30%と言う、指摘もあります。
だが、このダークエネルギー、宇宙定数で正確な表現ができると主張されています。
でも、ちょっと待って欲しいのです。
アインシュタインは、宇宙定数を一般相対性理論では潰れてしまう宇宙を救うために導入したのです。
その宇宙定数の数値は、引力と同じです。
方向は引力と真逆に働くとした宇宙定数は、大きさは引力と同じという事は何を意味するのでしょう。
古典力学で大きさが同じで方向が真逆な力として指摘している力とは、反作用の力なのです。
作用と反作用の力の均衡によって、見かけ上の静止状態が生まれます。
重力は引力だけと見られてきました。
では、台地がなければ私たちは永遠に落下し続けるのでしょうか。
違います。
台地が生んだ引力によって私たちの体は、台地の上にとどまっていられるのです。
台地のような質量の存在が、引力を生んでいるのです。
引力とは質量が時空の中に生み出した歪みなのです。
では、質量はどのように時空を歪めているのでしょう。
トランポリンを歩くと、その表面は窪みます。
なぜでしょうか。
私たちの体が、台地の生み出す引力で下に押し付けられているからです。
私たちの地球も時空を歪めて引力を生み出すなら、その時空を歪める力はどこからきてどのように時空に働きかけているのでしょう。
地球は時空を引き寄せているでしょうか。
地球には無数の見えない腕があって、時空を引き寄せて歪めているとしたならその腕はどのような姿でどのように働いているのでしょうか。
重力に引力しかないと言うなら、物質がどのように時空に働きかけて歪めているのか説明すべきでしょう。
だが、誰もそれをしようとはしません。
出来ないからです。
時空の膨張はどうなのか、これが説明ではないかと言うかも知れません。
だが、膨張のエネルギーがどこからきているのか誰も説明できていません。
一方、古典力学の要請に随って引力に反作用力を想定してみましょう。
大きさが同じで方向が真逆な力が、反作用力です。
アインシュタインの想定していた宇宙定数は、まさに、引力と大きさが同じで方向が真逆な力です。
アインシュタインの導入した宇宙定数は、プランクの導入したプランク定数のように、導入した本人からは便宜上の存在とみなされていました。
プランク定数には実在すると見抜いた、アインシュタインの存在がありました。
宇宙定数は不幸なことに、実在をその時点で見抜いた人は誰もいなかったのです。
そして宇宙定数は、皮肉なことに膨張宇宙論を論じる中で再発見されたのです。
しかも、宇宙定数の入っている一般相対性理論の式は、宇宙で観測される数値を矛盾なく説明可能なのです。
膨張宇宙論者たちは、宇宙定数の前に跪いたのです。
膨張宇宙論者は、アインシュタインのこの指摘を見落としています。
加速度と重力は区別がつかない、と言う指摘です。
膨張宇宙の証拠とされる数値が加速度で説明可能なのは確かだが、もし、その加速度が重力加速度と見ても何ら矛盾がないと気付くなら、どうでしょうか。
いつの日か、宇宙論の研究者たちはアインシュタインの墓前で、「アインシュタインさん、あなたが宇宙定数導入を悔いたのは早すぎました。宇宙定数によって定常宇宙を救おうとしたあの試みは正しかったのです。」と、首を垂れることになるでしょう。
いつかは、わかりません。
だが、その時は、劇的に来ることでしょう。

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平和な解決に共謀罪はかえって邪魔。

人々の本心からの声、心の奥底からの声は、誰も止めることはできないのです。

それを萎縮させ、人々を物言わぬ奴隷の地位に叩き落す懸念さえあるのが自公政権の共謀罪だから、国連も流石に待ったをかけざるを得ないのです。

それでも賛成する人は、言論の自由を失っても良いのだろうか、そう疑問を持たないわけにはいかないのです。

ルカによる福音書 19 3940

ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。

答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

イエスが、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」と言うのは、弟子達の声が彼ら自身からではなく彼らを導く神から出ているからだれも止めることはできないということです。

 

神に不可能はないと言うことだが、本当に石が叫んだら、もはやホラー映画まがいの光景なのですが

共謀罪の愚かさは、これが憎しみと報復の連鎖を生む戦争やテロと本質が何ら変わらないところにあるのです。

だから、共謀罪のある国でもテロが防げないと言うよりも、戦争やテロと同根の共謀罪で対処しようとしているからテロがなくならないのではないか。

違うでしょうか。

テロも戦争も、原因を平和的手段で取り除くしか手はない。

違うでしょうか。

共謀罪でもテロが防げないのではないのです。

逆です。

共謀罪があるから、かえって個人単位のテロが誘発される。

違いますか。

誰かに話しかけて共謀罪の疑いで捕まるくらいなら、個人的にテロに走った方が手っ取り早い。

違うでしょうか。

問題を生んだ原因を調べて解決しようとしないで弾圧で対処しようとする国家の対応が怒りをよび、次のテロの温床を生むことになる、これが実際に起きていることではないでしょうか。

つまり、共謀罪とは、国家VS民間の戦争であり国家による民間の思想統制思想弾圧の形をとっているに過ぎないと言えないでしょうか。

共謀罪の本質は、国家による民間の思想や言論の自由に対するテロ行為と言って良い、どうでしょうか。

 

テロの定義が難しくなる理由は、戦争を除外しようとするから。

それ以外の説明ができますか。

戦争もテロも、動機では区別不能、なのに無理して戦争やテロとを区別しようとするから、話が難しくなるのではないでしょうか。

 

国家Vs国家のテロが戦争、民間VS民間の戦争がテロ、国家VS民間が国内に向かえば武力弾圧や内戦、国家VS民間が国外に向かえば武力介入、単純でしょ。 ·

 

日本を戦争できる国家に変えると言うことは、日本を国家VS国家のテロである戦争をする国に変えると言うこと、違うでしょうか。

 

実際、戦争をしている国家はテロによる報復に悩まされているのではないでしょうか。

 

テロは民間VS国家の戦争に他ならないからです。

テロの民間VS民間の戦争の構図は、表面的なものに過ぎないのです。

 

テロや戦争の根絶は問題の平和的解決を目指す以外あり得ないのだ。

違いますか。

 

国家VS国家のテロが戦争、実際、局地化すれば紛争や武力衝突、更に局地化すれば暗殺やテロに限りなく近づく、実際そうなっていませんか。

民間VS民間の戦争がテロであるが、民間VS民間は表面的な形であり、動機は民間VS国家と言う点では本質はゲリラと変わらないと言えるでしょう。

テロとの差はゲリラが直接に軍を狙うこと、これくらいではないでしょうか。

 

共謀罪のターゲットが民間なのは、テロを国家の独占的行為にする目的があるから。違うでしょうか。

国家権力にとって都合の悪い行為は、たとえ平和的であっても国家によるテロ行使の妨げとなるから、権力はテロのレッテルを貼ってでも力づくで退けようと企むことになる。

違うでしょうか。

 

権力への敵対行為をすべてテロとみなすのが、共謀罪ではないでしょうか。

それは、共謀罪自体が、国によって差があるとしても、その本質が民衆の心の自由へのテロ攻撃にほかならないからではないでしょうか。

平和が欲しいなら、まず自らが平和を欲するものであることを態度で示すべき。

違うでしょうか。

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やはり相撲は中東起源。

『相撲』の発祥の地は古代メソポタミアと見られているが、エジプトはベニ・ハッサンのバケト3世岩窟墓にはなんと、相撲の技一覧図としか言いようのない壁画があるのです。

圧巻なのは、王墓の狭い方の面とは言え一つの壁面が丸ごとその一覧図に充てられていること。

狭いと言ったって、壁面にはかなりの広さがあるので、視野が技の一覧図で丸ごと占領されるだけの迫力ある壁画です。

 

まわしをして組み合う二人の取り組みが実に見事に描かれているその壁画は、うっちゃり、外掛け、内掛け、首投げ、足取りなどなど、相撲のほとんど全ての技がそっくりそのままと言っていいほど表現されていると言います。

 

メソポタミアの遺物でも相撲を表現したとしか思えないものはあるが、王墓の壁面一つ丸ごと相撲の技一覧図って、エジプト人どれだけ相撲好きだったんですか。

 

吉村作治教授は神社の原型はピラミッドコンプレックスと言うが、やはり、日本の原点は中東ってことなんでしょうか。

狛犬も元をたどればピラミッドコンプレックスのスフインクスと、吉村作治教授は指摘しています。

そう言えば、日本には古代中東の遺伝子もあるのですよね。

 

神話の体系も、太陽神を頂点とする三神構造と動物を含む八百万の神が織りなす神界を日本と古代エジプトは共有です。

日本人の足に多いのがエジプトタイプで、味の好みも日本とエジプトは似てるのです。

 

バケト3世王墓の壁画がもし相撲であるなら、古代エジプトでも相撲は重要な競技だったことになるでしょうね。

 

韓国人は相撲も自国が起源と言いたいようだが、メソポタミアや古代エジプト発祥の相撲の伝播の中継点の一つと見るのが妥当でしょう。

 

朝鮮半島では高句麗の壁画が確認される最古の相撲を描いたものと言うが、百済、新羅、高句麗はいずれも日本に亡命しているので、その後の新羅滅亡後の高麗壁画にある相撲は亡命しきれないで残っていた人達から伝わったものが記録された可能性があるでしょうね。

 

恐らく天孫族の日本渡来で朝鮮半島を通過した際、行われていた名残が今もかろうじてあるに過ぎないかもしれません。

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現在のコーランの解釈に誤解はないのか?

聖句の背景についての誤解が、実に悲しいことにコーランに関する後の世の解釈で深刻な事態を招いているのではないでしょうか。

 

勿論、これらの議論はどこまでも推論ですのでそのつもりでお付き合い願います。

 

まず、神の子についてです。

 

現在のイスラムでは、この言葉は神の子について否定していると受け止められています。

 

ユーヌス章

 

マッカ啓示109

 

68.かれらは、「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う。かれに讃えあれ。かれは自足なされる御方。天地の凡てのものは、かれの有である。あなたがたはこれに対して、権威はないのである。アッラーに就いて、自分の知らないことを語るのか。

 

この聖句についての背景が伝わっていないので即断はできないが、アッラーの子を名乗る偽預言者が現れて人々を惑わせようとしていたのかも知れません。

 

だが聖書はこう記しています。

 

ヨハネの第一の手紙 4 9

 

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

 

アッラーはマルヤムつまりマリアに御霊によって受胎させ、イエスをこの世につかわしたとコーランは伝えます。

 

イムラーン家章

 

マディーナ啓示 200

 

35.イムラーンの妻がこう(祈って)言った時を思え、「主よ、わたしは、この胎内に宿ったものを、あなたに奉仕のために捧げます。どうかわたしからそれを御受け入れ下さい。本当にあなたは全聴にして全知であられます。」

 

36.それから出産の時になって、かの女は(祈って)言った。「主よ、わたしは女児を生みました。」アッラーは、かの女が生んだ者を御存知であられる。男児は女児と同じではない。「わたしはかの女をマルヤムと名付けました。あなたに御願いします、どうかかの女とその子孫の者を、呪うべき悪霊から御守り下さい。」

 

37.それで主は、恵み深くかの女を嘉納され、かの女を純潔に美しく成長させ、ザカリーヤーにかの女の養育をさせられた。ザカリーヤ一が、かの女を見舞って聖所に入る度に、かの女の前に、食物があるのを見た。かれは言った。「マルヤムよ、どうしてあなたにこれが(来たのか)。」かの女は(答えて)言った。「これはアッラーの御許から(与えられました)。」本当にアッラーは御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。

 

38.そこでザカリーヤーは、主に祈って言った。「主よ、あなたの御許から、無垢の後継ぎをわたしに御授け下さい。本当にあなたは祈りを御聞き届け下さいます。」

 

39.それからかれがなお聖所で礼拝に立っていた時、天使がかれに呼びかけた。「アッラーからヤヒヤーの吉報をあなたに授ける。その子はアッラーの御言葉の実証者となり、尊貴、純潔で正しい人々の中の預言者となろう。」

 

40.かれは言った。「主よ、どうしてわたしに男の子があり得ましょう。わたしはもう老齢になってしまい、妻は不妊でありますのに。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのことを行われる。」

 

41.そこでかれ(ザカリーヤー)は言った。「主よ、わたしに印を御示し下さい。」かれ(天使)は言った。「あなたは3日の間人間と話すことが出来ず、身振だけで意志を通じさせることになろう。これがあなたに与えられる印である。だから多くあなたの主を念じ、朝にタべに讃えなさい。」

 

42.天使たちがこう言った時を思い起せ。「マルヤムよ、誠にアッラーはあなたを選んであなたを清め、万有の女人を越えて御選びになられた。」

 

43.「マルヤムよ、あなたの主に崇敬の誠を捧げてサジダしなさい。ルクーウ(立礼)するものと一緒にルクーウしなさい。」

 

44.これは幽玄界の消息の一部であり、われはこれをあなたに啓示する。かれらが籤矢を投げて誰がマルヤムを養育すべきかを決めた時、あなたはかれらの中にいなかった。またかれらが相争った時も、あなたはかれらと一緒ではなかった。

 

45.また天使たちがこう言った時を思え。「マルヤムよ、本当にアッラーは直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えられる。マルヤムの子、その名はマスィーフ・イーサー、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(アッラーの)側近の一人であろう。

 

46.かれは揺り籠の中でも、また成人してからも人びとに語り、正しい者の一人である。」

 

47.かの女は言った。「主よ、誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ、『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」

 

マルヤムすなわちマリアの受胎告知の瞬間が生々しく語られています。

 

イーサーはすなわちイエスはアッラーがもうけられた子ではないが、アッラーの命令によってマルヤムが授かった子であることが告げられているのです。

 

アッラーによって選ばれた乙女はマルヤムただ一人であり、アッラーがイーサー以外にこの世に送られた子は存在しない、よってイーサー以外でアッラーのもうけた子と名乗る者がいればそれは偽物だと告げていると解釈することも可能ではないでしょうか。

 

イエスの時代にもイエスの名をかたって悪霊を払うと称する人々がいたと、聖書に記されています。

 

またイエスは、偽預言者が出てきて人々を惑わすとも警告しています。

 

コーランでは、続く聖句にはこう記されています。

 

69.言ってやるがいい。「アッラーに就いて嘘を捏造する者は、決して栄えないであろう。」

 

アッラーの子を名乗る偽預言者が、ムハンマドの時代にいたとしてもおかしくありません。

 

どこまでも推論なので、断定することはできません。

 

だが、あり得ない話ではないのです。

 

ムハンマドには、イーサーつまりイエスがアッラーのアッラーの独り子であったと言いにくい事情があった可能性は十分にあり得るのです。

 

結果的に父と子と聖霊による神会の存在を、ムハンマドは言い出しづらかったのかも知れません。

 

婦人章(アン・ニサー)

 

マディーナ啓示 176

 

171.啓典の民よ、宗教のことに就いて法を越えてはならない。またアッラーに就いて真実以外を語ってはならない。マルヤムの子マスィーフ・イーサーは、只アッラーの使徒である。マルヤムに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯―の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。天にあり、地にある凡てのものは、アッラーの有である。管理者としてアッラーは万全であられる。

 

なぜ私がこのような推論をするのか、それには理由があります。

 

イーサーの十字架での死を否定したと、受け取られている次の聖句の存在です。

 

コーランはこう記します。

 

婦人章(アン・ニサー)

 

マディーナ啓示 176

 

157.「わたしたちはアッラーの使徒、マルヤムの子マスィーフ(メシア)、イーサーを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。

 

コーランのこの記述の背景には、聖書の伝えるこのような事情があったのかも知れません。

 

マタイによる福音書 27 62節~65

 

あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、

 

「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。

 

ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。

 

ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。

 

しかしイエスはよみがえり、弟子達に十字架で受けた傷を確かめさせて十字架で死んだのは身代わりなどではなく自分自身であること、確かに肉体を持ってよみがえっていることを、あかしたことは聖書に記されている通りです。

 

だがかたくなとなったユダヤ人たちがどうしたか、聖書は次のように伝えています。

 

マタイによる福音書 28 11節~15

 

女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。

 

祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、

 

「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。

 

万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。

 

そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。

 

ユダヤ人たちはムハンマドに対しても、イエスの生涯はゴルゴダで終わっていると言い募ったのでしょう。

 

そこでムハンマドは、イエスの生涯はゴルゴダで終わってはいないことや今でもイエスは生きていることを、断定的に言い切る必要があったので、コーランに記された言葉となったのかも知れません。

 

コーランは預言者として召されたムハンマドの言葉を中心に編纂されていて、当時の状況まで記録されていないので、時代背景を調べたうえで推論を展開するしか手がありません。

 

だがコーランが聖典でもある以上、推論を展開するのに許される数少ない手がかりは聖書と言うことになるでしょう。

 

「アッラーは一人の子をもうけられた。」と言う一部の人々の言葉をムハンマドが否定せざるを得なかった裏に、アッラーの子と名乗る偽預言者がいた可能性を推測する理由がここにあります。

 

勿論、あっけなく偽預言者の化けの皮が剝がれ一件落着となって記録に残るまでもなかったのでしょうが、この手の偽物にムハンマドが手を焼いていたことは想像に難くないのです。

 

そうでなければこのような聖句が、コーランに残るでしょうか。

 

だが、こういう疑問を投げかける人もいることでしょう。

 

イエスには、子孫がいたのではないかと。

 

確かに、子と言う言葉には子孫と言う意味もあります。

 

そして、イエスとマグダラのマリアとの間に子があったのではないかと疑う人もいることは、最近でもダビンチコードでネタの一つにされたことで記憶にある方もおられる事でしょう。

 

コーランには、イエスには父はいないという文言もあります。

 

これは、イエスにはしばしば、大工のヨセフの子ではないか、と言う言葉が投げかけていたことに対してアッラーが業を煮やしておっしゃった言葉とも解釈出来るのです。

 

実際マルヤムは、地上の男性をだれ一人知ることもなくイエスを身ごもっているのです。

 

地上の男性にイエスと血のつながった父はいるはずがないので、この言葉には嘘はありません。

 

一方でイエスは常に天の神を父と呼んでいます。

 

だがコーランには、アッラーは子をなしていないとあるではないかと、反論があるかもしれません。

 

地上に今もアッラーの子孫がいると言いふらす人達に対して、アッラーはきっぱりと否定する必要あったと解釈できます。

 

余計な議論に深入りしない方法は、誤解を恐れずに端的に言い切るしかないのです。

 

地上にアッラーの子孫などはいないのだと、きっぱり言い切るしかないのです。

 

コーランには、当時の状況を書き記す説明書きは一切ありません。

 

ムハンマドにアッラーからもたらされた言葉が、記されているだけなのです。

 

コーランは何よりもまず、ムハンマドが聖典に対する正しい理解を守るためにいかに戦ったかの記録の書であったからなのでしょう。

 

記憶が生々しいうちはそれでも良かったが、時代が下り記憶は薄れていくとそうはいきません。

 

ムハンマドは繰り返し聖書を読むことを指示していたと言います。

 

コーランの記録に対する解釈に誤解が出ることを、恐れたからかもしれません。

 

コーランは実践的な指導書であると同時に、論争の記録書でもある以上正しい理解に聖書の学びは欠かせません。

 

だが、コーランの一般的解釈としてイスラム社会に一度広まってしまったものは、軌道修正は容易ではないでしょう。

 

とは言え、解釈に誤解が生まれない為には、絶えず検証していくことが必要ではないでしょうか。

 

そして、それで正しいかどうかは、神に祈って答えを求めるしかないでしょう。

 

聖書にはこうあります。

 

ヤコブの手紙 1 5

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

今回の議論の内容に、もし間違えがあるとすれば、神の声を聞き違えてしまった私に責任があるので、気がついた方は教えて頂ければ幸いです。
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    ペンギンと恐竜は同時代?

    興味深い記事が、AFPで配信されています。

    記事には、これは、両者の最後の共通の祖先がずっと昔、恐竜時代に生息していたことを示しているとあるが、両者とはペンギンと恐竜です。

    古代の巨大ペンギン、恐竜と共存 NZで発見の化石で判明

    2017年02月24日 06:10 

    発信地:パリ/フランス
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    恐竜時代に生息していた巨大ペンギンを描いた想像図。オタゴ大学地質博物館提供(2017223日提供)。(c)AFP/Geology Museum-University of Otago/Chris GASKIN

     足の化石は、ニュージーランドのワイパラ(Waipara)川近くでアマチュア化石収集家により発掘された。ただ、この化石だけではペンギンと恐竜が共存していたことの証明にはならない。この8センチの骨の年代は、ティラノサウルス・レックス(T・レックス、Tyrannosaurus rex)などが姿を消してからずっと後の約6100万年前のものだった。

     しかしこの周辺では過去に別の巨大ペンギンの化石が見つかっており、これが決定的な証拠となり、2羽の共通の祖先がその何百万年も前に生きていたことが示された。

     論文の主執筆者で、ドイツ・フランクフルト(Frankfurt)のゼンケンベルク研究所(Senckenberg Research Institute)の鳥類学者、ゲラルト・マイヤー(Gerald Mayr)氏はAFPに対し、「この2羽のペンギンは全く同じ場所から発掘されたが、形態学的にはかなり異なる。これは、両者の最後の共通の祖先がずっと昔、恐竜時代に生息していたことを示している」と説明した。

     このあらゆるペンギンの祖先は子孫である2羽よりも500万~1000万年前に生息していたとみられ、恐竜の繁栄が続いていた白亜紀後期にはすでに存在していたことになるという。この研究結果をまとめた論文は科学誌サイエンス・オブ・ネイチャー(Science of Nature)に掲載された。

     原始ペンギンは、餌が陸でなく海にあったため、壊滅的被害をもたらした小惑星衝突による衝撃波やその後の気候変動を生き延びたとみられる。これとは対照的に陸生だった恐竜は、その後何十年も続いた冬の間に餓死してしまったのだろうと、研究チームは推測している。

     ワイパラ川周辺で化石が見つかった巨大ペンギンは、体高が最低でも150センチあった。これは成人女性の平均身長を若干下回る程度で、南極大陸を主とする南半球のみに生息する現生ペンギン17種のうちの最大種であるコウテイペンギンよりも頭1つ分高い。

     絶滅種の中では唯一、3300万~4500万年前の南極大陸に生息していたアンスロポルニス・ノルデンスクジョルディ(別名ノルデンショルトジャイアントペンギン)が、ワイパラのペンギンよりも大きかった。(c)AFP/Marlowe HOOD

    ペンギンの祖先は、恐竜の繁栄が続いていた白亜紀後期にはすでに存在していたことになる、と言うことは恐竜を爬虫類と鳥類を繋ぐ存在として位置付ける展開になりつつある恐竜研究に見直しを迫ることになるのでしょうか。

    今後どういう議論になっていくか、気になるところです。

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    原始爬虫類の腹に胎児?

    興味深い記事がAFPで配信されていました。

    原始爬虫類の腹に胎児 「進化史書き換える」化石、中国で発見

    2017年02月15日 06:04 発信地:パリ/フランス科学・技術

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    魚を捕食する妊娠中の原始爬虫類ディノケファロサウルスの想像図。ネイチャー誌提供(2017年2月9日提供)。(c)AFP/NATURE/DINGHUA YANG/JUN LIU/HEFEI UNIVERSITY OF TECHNOLOGY

    【2月15日 AFP】2億4500万年前に生息していた非常に首の長い海生爬虫(はちゅう)類が、卵生ではなく胎生だったことを示す化石を発見したとする論文が14日、英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズ(Nature Communications)に発表された。恐竜や鳥類、ワニを含む主竜形類の仲間で胎生が確認された唯一の種だという。

     中国南西部の雲南(Yunnan)省で見つかった雌のディノケファロサウルスの化石を調査した研究チームは、腹部に胎児の化石を発見した。論文の共同執筆者、中国・合肥工業大学(Hefei University of Technology)の劉俊(Jun Liu)氏は、「生殖器系の進化についてのわれわれの理解を書き換える発見だ」と述べている。

     ディノケファロサウルスと同じ主竜形類に属する恐竜や鳥類、ワニ、そして近縁のカメはいずれも卵生だが、トカゲやヘビを含む爬虫類の仲間である鱗竜類の中には、ウミヘビやボア、スキンク、ヒメアシナシトカゲなどの胎生動物も存在する。胎生は主に哺乳類の特徴とされ、卵生はより原始的な動物が行うと考えられている。

     ディノケファロサウルスは首の長さが胴体の2倍近くもある奇妙な姿をした海洋生物で、体長は3~4メートルに達する。化石で見つかった胎児の大きさは、母親の10分の1ほどだったという。

     AFPの取材に対し、電子メールで回答した劉氏は、当初「この胎児化石が母親の最後の食事だったのか、あるいは生まれる前の胎児なのか分からなかった」と語った。

     しかし劉氏によると、通常頭からのみ込まれる獲物とは異なり、腹腔内の胎児は前方を向いていた。さらに、卵の殻が時間の経過と共に消失した可能性も排除されたという。

     劉氏は、胎児が「脊椎動物の胎児に典型的な、身を丸める姿勢」をとっていたと同時に、石灰化した卵殻の破片も見つかっていないと説明している。(c)AFP/Mariëtte Le Roux

    もし本当に胎児とすれば、胎生は主に哺乳類の特徴とされると言う解釈によって、またしても爬虫類と哺乳類の境目が危うくなることにならないでしょうか。

    すでに、単弓類と言う、哺乳類型爬虫類から爬虫類型哺乳類に分類されなおした前例があることを思えば、今後の展開は要注目といえましょう。

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