思想

罪を憎んで人を憎まずが問われる時代。

渋谷のハロウィンが過激を通り越して、ほとんど暴動に近くなってきたことが問題となっています。

 

もちろん、ルールやマナーを守って、ハロウィンを楽しんでいる人達もたくさんいるし、おそらく、その人達の方が多数派でしょう。

 

余りにも暴走してしまった一部の人たちのために、圧倒的多数の参加者がとばっちりを受けてしまうとしたら、気の毒としか言いようがありません。

 

渋谷のハロウィンで傍若無人な行動を起こしていたような人達は、自分がやっていることが悪いとわかっていないと思うのです。

 

どういう事を、どういう場所や場面でやって良いのか悪いのか、まずその判断が出来るような再教育をしてからでないと、いくら罰しても時間と労力のむだでしょう。

 

刑は、とにかく罰すれば良いと言うのではなく、再教育に重点が移ってきたのではないかと思うのです。

 

近年、依存症や疾病など刑の前に治療が必要な場合があると理解が広まってきました。

 

そして現代、刑の前に再教育が必要な人達が増えてきていないでしょうか。

 

或いは、刑即ち再教育にするべきか、悩ましい事ではあります。

 

私が懸念するのは、犯罪に対する苛立ちから厳罰化を望む動きが強まる事です。

 

刑の目的が再犯防止であり、その手段として再教育の重要性と有効性が確かめられつつあるように思えます。

 

再教育と人道的な扱いと、厳罰を求める世間との意識の落差をどう縮めていくのかいけるのか、要注目でしょう。

 

刑が再教育の性格を強めれば強めるほど、社会復帰支援プログラムの充実も必要となります。

 

それには、地域住民の理解と協力が必要であるとともに、受刑者の再教育に取り組む施設と地域の取り組みへの社会全体の理解も不可欠でしょう。

 

罪を憎んで人を憎まず、この立場に私達がどれだけ立てるかも問われるでしょう。

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自己責任論よりも支え合いのバトンリレーを。

自己責任論は、才能のある人を潰すためにある呪いの言葉のように思われるのです。

 

人は、成功よりも失敗から多くの事を学ぶ、違うでしょうか。

才能は努力で花開く、違うでしょうか。


努力すればするほど、失敗も山ほどする、違うでしょうか。

自己責任論は失敗を恐れるへっぴり腰の、権力者に都合のいい人間を作る呪いの言葉でしかないのではないでしょうか。

違うでしょうか。


でもそれは、社会の進歩を止める愚挙ではないでしょうか。

 

才能を伸ばし花開かせた人達は、自らの努力とそれを支え見守り励ましてくれた人々との出会いがあった人達ではないでしょうか。

 

どんな天才でも、壁にぶつかって苦悩の日々を送った事は一度や二度ではなかったと思うのです。

ましてや秀才は、推して知るべしではないでしょうか。

 

自己責任論は、努力する人達を押し潰す言葉でしかない、違うでし

ょうか。

 

自己責任論は、言い換えれば、自業自得、更に言い換えれば、身から出た錆、だから言ったじゃないか、身の程知らず、ではないでしょうか。

どうでしょうか。


全部、人の努力を嘲り、人の足を引っ張る、後ろ向きの言葉ではないでしょうか。

どうでしょうか。

 

飛躍出来た人たちは、自分の可能性を信じ、自分のしていることの意義を信じた人達ではないでしょうか。

違うでしょうか。

 

自己責任は、当たり前過ぎる、どうでしょう。


だが自己責任では負いきれないこともある、違うでしょうか。

才能や可能性を花開かせた人達は、多くの人の支えや励ましに出会えて、困難を乗り越えられた人達ではないでしょうか。


支えてくれた人達もまた、支えられて今の自分があると知っている人達ではないでしょうか。

支え合いのバトンリレーがここにある、そう思いませんか。


どうでしょう。

違うでしょうか。

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メディアとどう付き合った方が良いでしょうか。

メディアは真実を伝える存在と思わない方が良いのです。

多くの人々は、この事に気が付いていません。

 

断片的な事実や情報は正しい内容を伝えるけれど、本当は何が起きているか、何が本質的か、伝える存在には必ずしもなっていません。

残念ながら、これが現実です。

もっとメディアを疑いましょう。

 

NHKでさえ海外ドキュメンタリーの制作で、再現であったにもかかわらずリアルタイムと誤解を招きかねない編集をしていた事実が発覚したことがありました。

 

伝えた出来事自体は実際にあったことだが、再現であることを伝えなかったために取材の最中に起きたと誤解を招く結果となり、やらせとして問題になったのです。

 

テレビは絵になる映像を撮ろうとするあまり、目の前にある事実は伝えても真実を伝えないメディアになる危険を常に持った存在だと言う事を、視聴者である私たちは知っておいた方が良いでしょう。

 

この能力を高める努力を、怠らないようにしたいものだといつも思っています。

 

それには情報収集を怠らない事です。

 

絵になる場面や瞬間をとらえて伝えようとするのは、テレビに限らずメディアに共通している事と思った方が良いでしょう。

 

本質は何かを使えるには相当深く知識と理解を持つ必要があるが、メディアの現場にいる取材陣は必ずしもこれが出来ているとは限らないのです。

 

むしろ、取材の中で本質に迫っていくのです。

 

つまり、いきなり現場に行って取材している彼らに本質を伝える事を求めても無駄と言う事になるでしょう。

 

彼らに期待できるのは、目の前のリアルな現実を使える事でしょう。

そこから何が本質かを導き出すのは、受け手である私たちの仕事になるでしょう。

 

だからこそ、常日頃の情報収集とそれの理解が必要でしょう。

メディアはそれを助けるべき存在ではないでしょうか。

個々人の努力で情報収集を十分するのは困難です。

 

メディアは判断の資料を提供する努力を怠らないで欲しいのです。

断片的な情報をただまき散らすだけなら、メディアはかえって真実を知るうえで有害な存在に堕落するのではないでしょうか。

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国体護持を考えてみた。

日本国を私物化したい輩にとって、一番厄介な存在は、実は天皇陛下ではないでしょうか。


なぜなら天皇陛下は、公私ともに現行憲法絶対尊重絶対遵守の立場で貫かないと皇室の存続自体を危うくしかねないわけです。


それである意味今の憲法に一番忠実なのは、実は天皇陛下かもしれません。


つまり、改憲論者の議論に巻き込まれることは天皇陛下とって、迷惑行為以外の何物でもないことになり、利用されそうになればなるほど護憲の立場を明白にされることになるでしょう。


護憲派は天皇陛下と皇室を、改憲派の天皇陛下と皇室を自分たちの目的のために利用しようとする陰謀からお守りせねばならない立場に、置かれたと言えるかもしれません。


国体とは、天皇陛下と皇室の存在を日本国の本質の中心に据えると言う事であれば、現行憲法もまた国体護持を最優先させて生まれた憲法と言う事になるでしょう。


現行憲法を全面的に尊重し遵守する限りにおいて、天皇陛下と皇室は自分たちを利用しようとする勢力から国民に守られることになるわけです。


政治的責任を問われるなら、国体護持は危うくなるからです。


これまで天皇は、全権委任する代わりに政治的責任も全て取らせたと言えるでしょう。


国民主権とは、国民が選んだ代表は国民から全権委任された代わりに全ての責任を国民に対して選出された代表は負わねばならないと言う事です。


そして、国民もまた、選出した責任を負わねばなりません。


一方天皇は政治への実権がない、政治的責任は天皇陛下には及ばないことになります。


つまり国民に国体護持は委ねられたと、言えるかもしれません。


共産党でさえ天皇制を含む現行憲法をこれからも守り続けると、明言したことを思えば国体護持のためにこの憲法を受け入れる選択は皇室にとって正しい選択だったのです。


共産党は国民が発議しない限り、天皇制存続の是非が問われることはないと言っています。


皇室は国民から慕われ、敬われる存在であり続ける限り、存在の是非がさしあたっての政治的課題として意識されることはまずないでしょう。


憲法尊重と遵守の立場を繰り返し明らかにし、細やかな心遣いのできる心優しい人格者であり続けるならば、少なくとも存続の是非を問うべき存在として、多くの国民から意識されることはまずありません。


日本国憲法では、天皇は政治への実権を失う代わりに、政治への責任からも解放されたわけです。


象徴天皇の役割に徹しさえすれば、後は祭祀に専念できると言う事になるのです。


そう考えると、明治憲法に逆行しようとする動きは天皇陛下と皇室に政治敵責任がおよびかねない危険にさらされることになるので、国体護持の立場に立てば余計なお世話なのです。


むしろ現行憲法こそ、ある意味で天皇陛下と皇室を古来の位置に戻したものと言えます。


だからこそ、天皇陛下と皇室も受け入れたと言えるでしょう。

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長時間労働を見直さないと子供たちの知能に悪影響があるかも。

この頃、子供たちのご飯離れが進んでいるといいます。
 
味がしないという理由が多いそうだが、噛む回数が半減していることが主な原因とされます。
 
だが、背景には家族団らんの時間が欧米の50%以上あるのに対し、日本は2割を切っていることがあると指摘されます
だとしたら、両親がご飯を味わってよく噛んでいる姿を見せるべきでしょう。
 
家族団らんの時間が少ない上に父親不在の食卓が当たり前となってないでしょうか。
それじゃ、てんてこ舞いな母親が、ご飯をよく噛んで美味しそうな顔で食べる姿を子供たちに見せることは絶望的に難しいのではないですか。
 
ご飯職を本気で守ろうと言うなら、今のうちに長時間労働を改めて父親も参加した家族団らんの食卓を復活させた方が良いでしょう。
ただし、食卓の支度や片付けを母親だけにしわ寄せするのではなく父親も参加した家族のイベントとして定着させる取り組みも必要でしょう。
今時の父親であれば、家族との触れ合いの時間として喜んで加わる人は多いかもしれません。
 
多少の手際の悪さを大目に見て回数を重ねれば、家族の一体感だって深めると思うのです。
 
よく噛むことは、知能の発達にも良い事はよく知られています。
 
子供たちの噛む回数の半減の背景に、父親不在な上に十分な時間が取れない個食化した食生活があるとしたら、日本の長時間労働は長い目で見れば子供たちの知能の発達にまで悪影響を及ぼす悪弊になっていると言う事ではないですか。
 
もっと危機感を持って欲しいのです。
 
日本で好まれているパンは、欧米に比べて柔らかすぎます。
ヨーロッパのパンは、フランスパンのようにもっと噛み応えのあるものが結構あるのです。
本場フランスのフランスパンは日本のものよりも歯ごたえがしっかりしているし、肉だってそうです。
 
噛む回数が減っていると言う事は、日本の知能の発達の危機でもあるはずです。
 
さらには、個食の増加を含めた家族団らんの時間の減少も、子供たちの知能に対する刺激を偏らせる事につながりかねない危険性をはらんでいるのです。
 
噛む回数の減少と重ねると、子供たちの知能に良いわけがないでしょう。
 
忙しいなんて言ってる場合じゃないですよ。
危機的状況になってからじゃ、遅いのです。
たかが食生活、されど食生活なのですから。
 
食べるという行為を、甘く見ちゃいけないです。
 
十分な睡眠と並んで、心と体づくりの基本中の基本なのです。

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いつの世も猫と市場は持ちつ持たれつだったはずですが。

築地市場移転で居場所を失うネズミ、相当大量らしいです。
言い換えれば豊洲市場も、やがては大量のネズミやゴキブリに悩むことになると見た方が良いとなるでしょう。
清掃で追い出されたネズミやゴキブリ、豊洲市場の周辺で猫やカラスの待ち構える場所どれだけあるのかでしょうか。
豊洲市場は洗浄のたびに、ネズミやゴキブリ大量脱出の迷惑施設になる可能性はどれだけあるかですよ。
洗浄は市場を清浄に保つために、毎日念入りになされている行為です。
 
考えてもみて欲しい、築地市場に大量のネズミがいたのに、洗浄のたびに追いだされたネズミは何処に行くのですか。
一斉にやらないと、中で移動するだけですよ。
築地市場は大量にネズミやゴキブリがいたのに、一度も問題にならないのは、市場の人達が毎日懸命になって丁寧に洗浄していたからです。
丁寧に洗浄すればするほど、ネズミやゴキブリを市場の外に追い出すことになり、場外市場にとっては大いに迷惑なはずでないでしょうか。
約30匹の猫がいなかったら、場外市場はお手上げ状態だったはずです。
猫が築地市場と場外市場を救っていたのです。
 
築地市場解体は、何千匹のネズミやゴキブリを周辺にまき散らしてしまうことになるか懸念されています。
 
東京都は、築地市場から散ったネズミやゴキブリを猫やカラスが退治してくれるから心配いらないと弁明に躍起になっています。
 
私の豊洲市場が洗浄のたびにネズミやゴキブリが施設の外にたくさん逃げ出す懸念を抱く根拠は、築地場外市場にいた約30匹の野良猫です。
いいですか。
この猫たちは築地場外市場に居ついたのであって、誰が飼っていたわけでもないです。
豊富な食糧なしに30匹もの猫が集まるでしょうか。
 
そもそも、古代エジプトで猫が人里に住み着いた目的は、人間を悩ませていたネズミがお目当てです。
猫が乗らない船が出せなかったのも、ネズミ対策の無いままに出港させてもらえなかったからです。
 
世界中に市場があるが、清掃のたびごとにネズミやゴキブリが大量脱走する迷惑施設にならないで済んでいるのは、ひとえに猫たちのおかげです。
だから、猫たちはどこの市場でも可愛がってもらえるのです。
可愛いからだけじゃないのです。
 
築地市場に限らず、世界の古くからある市場は大抵、場内か周辺に猫がいます。
市場は内外にネズミが必ずと言って良いほど、いるわけでしょう。
市場は猫たちと共存共栄、持ちつ持たれつの関係に昔からあるのです。
 
豊洲市場は、周辺に猫やカラスがたむろして場外に出てくるネズミやゴキブリを待ち構えられる場所が果たして見つかるのでしょうか。
 
これが懸念で終わることを願っています。

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性教育の目的を見失っていないでしょうか。

性教育はそもそも、何のためにするのか、皆さんは考えた事がありますか。
 
子供たちが望まないタイミングで親になることがないようにするため、この答えが返ってくる場合が多いかもしれませんね。
 
だったら、そのような状況をどうやったら上手に避けられるか、子供たちと一緒に考えた方が良いのではないでしょうか。
 
闘わずに勝つは、兵法の極意、それに似てるかもしれません。
 
今の性教育は、兵法学習で言えば、個々の場面での戦い方を学習しているのとどう違うのでしょうか。

そうなってしまった時、上手な対処の仕方はどうしたらいいのか、考えていることの方が多いからかもしれません。

 
それは、好きになった人とセックスして何が悪いのと言う問いに、上手に応えられていないからではないでしょうか。
 

どうでしょうか。

だから、寝た子を起こすなと言われてしまうのではないでしょうか。
 
その気はないといくら否定しても、その場しのぎの対処法しか考えていないと言われて、即座に反論できるでしょうか。
 
それは結局、愛の表現としてのセックスをどう考えるのかと言う事ではないでしょうか。
 
愛の表現の中で、セックスをどう位置付けるのか、誰にとっても悩ましい問いかも知れません。
 
でも、性教育の一番の目的は、望まないタイミングで親になって欲しくないことではないでしょうか。

それなのにその場しのぎ、それは人にとって考え方が違うからではないでしょうか。
まともにやったらいつまでたっても、平行線のままではないでしょうか。

 
兵法学習からみれば、実践に即した学習とどう違うのでしょうか。
 
性教育はここが理解できてないから、効果的な反論が出来ない、違いますか。
 
性教育はそもそも、人間性教育を当初の旗印として掲げていたのではなかったでしょうか。
 

それは、何のためだったでしょうか。
子供たちが望まないタイミングで親になる事が無いようになって欲しいという願いから、始まったのではなかったでしょうか。
迷ったら、出来るだけ早く原点に帰った方が良い。
違いますか。

 
そしてその原点は、兵法で言えば、戦わずして勝つ兵法の極意を身につけて欲しいと言うのとどこ違うでしょうか。
 
戦わずして勝つとは、どういう事かでしょうか。
 
まず考えられるのは、戦意喪失を狙う事でしょうね。

でもそれじゃ、この場合どうでしょうか
魅力のない人になれということと、どう違うのでしょうか。

 

闘わない方が双方の利益になる落としどころを、上手に相手に示すことではないでしょうか。

先手を打って示したら、どうでしょうか。
この場合、どういう事になるでしょうね。

 
望まないタイミングで親になるよりも、もっと良い事がある、早期が付いてもらう事ではないでしょうか。
 
先手を打って、上手に提示出来るようになることが必要な場合もあるでしょう。


相手が提示するように、巧みに誘導することが必要な場合もあるでしょう。

 
相手によって、どちらが良いかは決めた方が良いかも知れませんね。
 

素直な人なら、先手を打って示したら良いかも知れません。

プライドが高い人なら、相手が気が付いて提案したように仕向けたら良いかも知れません
 

それが基本だし、理想です。

でも、みんながみんなすぐにそうなれるわけじゃないですよね。

そこで、対処法も必要になる、そういう事ではないでしょうか。

そこがきちんとわかっていて欲しいのです。

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人間性教育としての性教育こそ必要ではないでしょうか。

娘はかわいいし、幸せ。なのに苦しい。 産後うつと強迫性障害に苦しんだ2年半の記録 https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/13/zange-nikki1_a_23526706/
「検索」が、子育て中の親を追い詰める。不安なママはどうすればいいのか https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/14/zange-nikki2_a_23526757/
この記事は保育園の園長のさり気ない一言、「この子、人見知りしないね」が気になってあれこれネットで調べたら「発達障害」「自閉症」という検索結果がたくさん出てきて、不安になってしまった自らの産後うつから抜け出るまでの記録を一冊にまとめた母親へのインタビュー記録です。
この子、人見知りしないね」、園長は褒め言葉のつもりだったかもしれません。
でもここは保育園、赤ちゃんを預かる施設です。
なかにはまったく人見知りをしない子もいますが、赤ちゃんにとっての人見知りは大切な発達段階のひとつとされるので、人見知りしないと成長が遅いのではと心配することもあるわけです。
人見知りしないのは、「ママやパパがいてくれる」「守ってもらえている」という安心感を人一倍感じやすいからかもしれないので、“発達が遅れている”と安易に判断しないことが必要です。
そういう子でも、ある日突然人見知りがはじまることはよくあることといいます。
でも、子育て真っ最中で、それもはじめての子供だった場合、みんながみんなそのような知識を持っているわけではないのです。
近くに相談や質問が気楽にできる親戚や親、友人知人がほとんどない状態の中で孤軍奮闘せざるを得ない母親が増えている今、ネットや本が数少ない貴重な情報元な人も多いわけです。
それだけに、保育園の園長や保育士はわが子の成長が順調に進んでいるのか常に気になる保護者の気持ちに寄り添った気配りが求められると言えるでしょう。
私は、「性教育はまず人間性教育でなくてはならない」と考えています。
それは、人が人として幸せでいられるには、愛や思いやりや細やかな気遣いが出来ることが大切と感じているからです。
性は何よりも子孫を残すためにあるのです。
子供が、なかなか出来ない人もいれば、すぐに出来て子だくさんな人もいますが、性が子孫を残すためにあることに変わりはないのです。
好きになったから、その場の雰囲気がよかったから、中には、酔った勢いで、などという人もいるでしょう。
でも、仮に子供が出来たらその子と幸せに暮らせるならともかく、そうでなければ、親子とも不幸ではないでしょうか。
愛と思いやりと細やかな気遣いの中で育ってきた人なら、言葉遣い一つにもさり気なく気配りが出来ることでしょう。
望まないタイミングでの妊娠や、不幸にして起こる性病感染も、お互いの幸せのために防ぎたいと細やかな心遣いが出来る人が増えるなら大幅に減らせることでしょう。
正しい性に関する知識や情報も必要でしょうが、何のために学ぶのか理解できていなければ適切に生かすことは難しいでしょう。
家庭や学校の学習の場で、親子や、先生と生徒、生徒間の話し合いを十分に時間をかけて愛と思いやりと細やかな気遣いとは何か、どのように考え、どのように行動した方が良いのか、大人の意見や価値観を押し付けるのではなく大人も子供も一緒になって考えてほしいのです。

自分で納得出来てこそ、身についてごく自然に言葉や行動に表せるからです。

教育の現場や家庭の中だけではなく、社会生活の中で成果が出る性教育が当たり前になって欲しいと心から願っています。

そうすれば、いじめやパワハラやセクハラ問題なども、自然と減っていくことでしょう。

日本では道徳教育というと、特定の価値観の押し付けにたいする警戒が先立ってなかなか普及してこなかったし、道徳教育の始まった今でもその懸念は消えていません。

そのような中で道徳教育を強行するくらいなら、性教育の時間や国語はもちろん、社会科や理科など様々な機会をとらえて、愛と思いやりと細やかな気遣いの大切さを子供たちと一緒に考えた方が良いのではないかと思います。

理科でというと、どうやってと思う人もいるでしょうが、子を守るための親たちの時として命がけな行動は本能だけで片付けられないものを感じられることでしょう。

また、一つ一つの命の大切さを具体的な知識として学ぶことが出来る機会でもあります。

そのような教育が当たり前になれば、不用意な言葉で人の心が傷つくようなことも減らせるのではないでしょうか。
 

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神とどう付き合いますか。

日本は、先例様・前例様・慣例様が絶対三神として祀られている感じが半端じゃなくするのです。

日本の持っている知識・技術・ノウハウが、なんで世界をリードできる可能性やポテンシャルを持ちながらグローバルスタンダードを取れないのでしょうか。

 

日本の先例様・前例様・慣例様の絶対三神への絶対的な服従に近い思考と行動のパターンが、妨げになっている感じが半端じゃなくするのです。

多くの日本人がこの先例様・前例様・慣例様の三例絶対神崇拝にとらわれていると十分に気付いているとは言い難い程に、日本人の思考と行動パターンに染み込んでいるようです。

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神崇拝は自然の脅威からは守ってくれたかもしれないが、今は違うのです。

ここに気が付けないと危ないでしょう。

 

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神に従うなと言うのではないです。

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神からの学びを、知識としてではなく知恵として身につけて活用出来るかどうか問われているのです。

先例様・前例様・慣例様の三例絶対神の知識を知恵として生かせるだけの成長が、出来ているかが問われるのです。

 

安全神話と言う言葉を聞くたびに、違うだろと言う感じを強くします。

安全は私たちを守ってくれないのです。

安全は結果であって、原因ではないからです。

これがあるからここまでは安全とは言えるが、人のすることに絶対はない以上、人の手に頼る限り絶対安全はあり得ないのです。

絶対安全は神だけが保証できるのです。

 

言い換えれば、安全神話とは無力な偶像を崇拝する愚かな選択と言うことになります。

人の手によって確保される安全の限界を自覚し、それを超えた時自分の身をどう守るのか守れるのか、考える発想が日本人には求められています。

限界を超えた事態を想定外にしない発想が、求められているのです。

 

神には、二通りあります。

生れながらの神と、祀り上げられた神です。

祀り上げた神が存在するのは、生れながらの神が存在するからです。

生れながらの才能の人がいるから、努力して近づく人がいます。

生れながらの美があるから、努力して表現される美があります。

同じように、はるか太古から存在する神がいるのです

 

生れながらの神は、しばしば祀り上げた神になります。

だが、祀り上げた神が全て生れながらの神ではないのです。

ここを混同すると、神を見失うことになります。

太古からの神は決して廃れることはないのです。

廃れるのは、祀り上げたに過ぎない神であり偶像に過ぎなかった神もどきです。

ここを見誤ってはいけないのです。

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性教育は知識の前に伝えるべきことがあるはず。

性教育と言うと、何歳から何をどう教えたらいいか、悩む人は多いと思われます。 

 

軽はずみなセックスはして欲しくはないが、特定の宗派の教義や特定の思想で縛りたくないし、縛られたくない。 

そう考える人は少なくないのではないですか

 

だったら、子供たちにこう聞いたらいいのではないですか。

 

あなたたちはどんな親になりたいですか。 

それはなぜですか。 

そうなるには、どうしたらいいと思いますか。 

 

あなたたちはどんな親になりたくないですか。 

それはなぜですか。 

そうならないためには、どうしたらいいと思いますか。 

 

子供たちには、思っている通りに素直に話してもらい、大人の考えを押し付けることなく一緒に考えた方が良いでしょう。 

 

子供たちに体の性差について聞かれたらパニックにならないで、あなたのような可愛い子供に会うためにあると、言えば良いでしょう。 

あなたに会うために、お父さんに命の元をもらったのとか、お母さんに産んでもらったんだよ、とか言えば良いでしょう。 

 

違うでしょうか 

 

その後は、その子の理解力に応じて話せば良いでしょう。 

 

違うでしょうか 

 

あなたが子供たちと普段からどれだけ話しているか、お互いの理解を深める話し合いがどれだけ出来ているか、問われるのでないでしょうか

 

幸せな家庭、愛のある家庭、お互い思いやりのある家庭、そのためには、私は、私たちは、何を考えてどうしたらいいかを、普段から当たり前のように考えられる子供たちに育って欲しい。 

 

そう思う事に、宗派や思想は関係あるでしょうか。 

これに異論を唱える人は、どれだけいるでしょうか。 

性教育は、この想いをどうやって子供たちに伝わるかを基本に据えて創り上げていく方が良いのではないでしょうか。 

 

性教育の基本は、まず、大人たちから子供たちに、あなた方を愛している、あなた方を大切に思っている、その気持ちを伝える事からはじめるべきではないでしょうか。 

 

それには、普段から子供たちにその思いが伝えるように接していないとだめではないでしょうか。 

 

そうでなければ子供たちに、大人はずるいと思われて警戒されるだけではないでしょうか。 

 

何をどう教えたら良いか悩む前に、まず、心のボタンをかけなおした方が良いのではないでしょうか。 

 

話はそれからではないでしょうか。

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