思想

フラクタルは聖書に似合うか

ビックバンについては、最近の観測から大きな疑問を投げかけられています。
天体が集中するグレートウオールがほとんど天体の見えない空間を隔てるように延々と続き、網の目のように連なったボイド(泡)状態の異様な光景が明らかになったばかりではなく、天体同士が離れあっている証拠とされてきた赤方偏移も連続値ではなく、飛び飛びの値になる量子化なのが観測されています。

宇宙のなぞに対して、まったく新しいアプローチも出始め、そのひとつがフラクタル宇宙論です。

フラクタルとは、一見秩序がないように見える“カオス(混沌)”を扱うために作られた数学理論です。
フラクタル(fractal)は、1975年にべノア マンデルブロ(Benoit Mandelbrot)によって考えられた造語です。
語源はラテン語の「fracuts」から由来しており、「不規則に壊れてバラバラとなった状態、断片」という意味です。

フラクタルとは、あえて大雑把に言えば、特徴的な長さを持たないような図形や構造、現象などの総称です。

そのフラクタルの最も重要な特徴は、"自己相似性"と呼ばれる性質です。
これは、ある物体をどんなに細かく分割してみても、もとの形と同じものがあらわれるというものです。
これはたとえて言えば、入れ子構造のようなものといえるです。

わかりやすいので、木がよく引き合いに出されます。
木は遠くから見ると幹があり、そこから枝がどんどん分かれて行くという構造をしています。
どの枝を見ても、この関係は変わらないので、任意の枝を選んでその一本を見ると、その枝からもさらに枝が出て、もとの木と同じような構造をしています。

カオスとは、まったく無秩序なランダムと異なり、基本的には決定論です。
ただ、初期の値の小さな違いに敏感反応して、その影響が全体に複雑に無限に及んでしまうので、一見するとメチャクチャに感じられてしまいます。
フラクタルとカオスとは、世界に関する一つの真理を違う側からみているにすぎないです。

カオスの立場の人は自然を科学で「分析」するのに対して、フラクタルの立場の人は、自然を理論によって「合成」することに興味を持っているというわけでしょう。

誤解を恐れずに言えば、フラクタルを表した図の一点を、時間の変化に注目して動きとしてとらえるとカオスになるわけです。

フラクタルでは、小さい世界の構造が大きい世界で、あるいは、大きい世界の構造が小さい世界で、繰り返し出てくる「入れ子構造」が出てくるのが大きな特徴です。

たとえば原子と太陽系は、数学的にまったく同じ姿で描かれ、フラクタルはこのような繰り返しの現れる世界を得意としています。
さらには、素粒子の振る舞いも見事に描写するのです。

さて、このフラクタルで創世記を見たらどうでしょうね。

1 初めに、神が天と地を創造した。
神がこれから述べるような次第で天地の創造の御業をなされた、と述べています。
神が天地創造を始められたときを、聖書はこう記すのです。
2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

これはまさに、神はカオス状態にある世界に臨んでおられることを示しているように見えませんか。

カオスにあっては、全体も部分も同じ構造が繰り返し表れます。
この記述は宇宙全体のものでもあれば、地球に関するものでもあるわけです。

3 そのとき、神が「光あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

そのときとは、神の天地創造の開始された、まさにそのときなのです。
神が、真っ先に創造されたのは光だったのです。
もっと言えば、光をつかさどる御方なのです。
けれども、この方の光は、この段階では地のすべてを照らされておられないのでしょう。

神は秩序を、カオスに満ちた世界にもたらされ世界の創造が始まるのでしょうか。

さらに、神は人を自身に似せたと聖書にあります。

 でも、人の顔って結構変化に富んでませんか。

とはいっても、人の顔って基本的なところは似てますよね。

 耳の位置を問わなけりゃ、猫も目と鼻と口の形と位置が似てますけど。

フラクタルでは全体と部分は、相似形になります。

 神は人を自分に似せたのであって、そっくりにしたとは言ってませんから、相似形でしょうか。

少なくても、類似形ではありますねえ。

となると、神を全体とすれば、人は部分とみなせ、フラクタルのような関係になるのでしょうか。

ちょいと興味が持てたので、こんな想像を楽しんでみました。

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困難と神。

聖書には、アブラハムに命じられて、あわや焼き尽くす捧げものにされてしまうかと言うところで、神からの待ったがかかって命拾いする、イサクの話があります。

アブラハムとイサクは、神に試されていたのです。

二人の子孫に、自らの計画を托せるかどうかを、です。

今、困難につぶされそうなあなた。
なにか、神に託された使命があるのかもしれないですね。

そう思わないと、冗談抜きで潰れてしまうかも。

 そうですか・・・・・
 いまは祈る気力もないのですが・・・・・ 。

わたしも、将来展望が見えない状態続きまくりで、きました。

神に導きを求める祈りで、潰れずに済んでいるといってもいいかも。

祈ってなけりゃ、とっくにペッチャンコだったかもしれないですね。

たまりかねて、祈りに逃げ込んだって方が正解かもしれません。

でも、気持ちが楽になると、ありがたかったです。

苦しいときの神頼みと、感謝の繰り返しで、もってるようなもんです。

 神なんか存在しないですよ。
 神がいるのなら、何故クラスター爆弾や地雷で殺される子供を放置しておくのか?
 祈りとかお布施とかがないと、何もしない神なら存在しなくて結構ですよ。

 だいたい貧乏人が神の公正さを信じるなんて、ひどい矛盾だと思いますよ。
 神が不公正だから、貧乏人がいるんでしょうに。

 神なんてしろものを考え出した人間は、歴史上最大のペテン師ですよ。
 その構想力と商才だけは、見上げたものです。

 古代から近代にいたるまで、どこの国でも金持ちと言えば、 どんな人たちだったでしょう。
 貴族と地主と寺院だったじゃ、ありませんか。

 だからどんなに追い詰められても、神頼みに走るのだけはやめましょう。
 宗教団体の、いいカモにされるだけです。

ふむふむ。
 
 僕も宗教団体には、いずれにせよあまりいい感情は持っていません。
 また、いわゆる神も信じてません。
 
 でも、人間が自然を始め人知を越えたものを信じる気持、頼む気持は貴重なものだと思います。
 そのようなものを畏れ敬い頼むことは、古代から人間の持つ本能だと思いますね。

以前、面白い人がそばにいたことがあります。

 「困ったときの神頼みって、本当に効くね!」

え?
なんでって、そう思うでしょ?

神頼みして効いたと思ったとき、こう思ってるそうです。

 「ありがたい!さすがは神様!すごい!」

神頼みのとき、いつでもこんな風に、驚き喜び感謝してるそうです。

面白いくらい、神頼みの効果が高いので、さらにさらに驚き喜び感謝しちゃうのだそうです。

今は遠くに引っ越してしまって、交際はないですけど。

面白いくらい、素直な人だったです。 

私は、この世を作り、この世の原則を定め、この世を大本で動かしている、そういう存在は感じています。

 ひょっとして、どこかの教団に入っているってわけじゃ?

いえいえ。
一般的日本人にありがちな、どこかのお寺の檀家ではありますが。

まことの宗教とは、まことの科学と矛盾しない、なぜならこの世を作り、定め、動かしている根源はただ一つではないでしょうか。

科学が認めざるを得ない見解を示しえてこそ、まことの神、まことの教え、そう思います。

私が頼む神とは、そういう神です。

神は、皆の自主性にゆだね、選択の結果を受け入れることを迫っているように感じられます。

世界を、よくわかってもいないのに、よくわかったと思い上がり、支配できないのに、支配できると思い上がった結果が、現実なのではないのでしょうか。

 一人一人が試されるように、人類もまた試される。

 悔い改めよ!
 救いの道を信ぜよ!

神も、共産主義も、同じ叫びを人々に投げかけているのは、偶然でしょうか。
信仰が、単なる気休めでしかないなら、どうして、私が出会ったような人がいるのでしょう。

 「困ったときの神頼みって、本当に効くね!」

 「ありがたい!さすがは神様!すごい!」

こういう人が、過去から現在まで、切れ間なく何人もいたから信仰は科学の時代にも、途切れることがなかったのは紛れもない事実なのではないでしょうか。

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神を想う

神は生きておられます。

神にあえるのは教会である。

そう思うものは、教会で神妙にすればことたれりと思うのでしょう。

けれど、神は生きておられます。

生きておられる神は、すべてをご存知の方でもあるでしょう。

すべてを承知の上で、神の子羊でありたいと願うものを受け入れて下さる神の寛容さに、かたじけなく時々知らず知らずのうちに感謝の涙を流すでしょう。

真の教会って何なのでしょう。

私はつまるところ、神と、神の導きを心から受け入れ、神の導きに心から従おうとする者がいるところはすべて教会とみているのです。

山のてっぺんから、海のそこまで、人のまばらな片田舎から、人のあふれる都会まで、羊飼いたる神と神の子羊のいるところ、すべて教会でありえるのではないでしょうか。

目に見える教会に、神の居場所を求めるのも良いでしょう。

しかし、真の教会は、神と子羊の間にのみ築かれるのでしょう。

迷える子羊、けっこう!
逆らって去るのではなく、道がわからないだけでしょうから。

どうして良いかわからず佇む、けっこう!
背を向けて遠ざかるのでは、ないのでしょうから。

神を見失いながらも、神の導きを心から求め続ける者には、救いの声が聞こえるのかも知れないですね。

証が見えるのかも、知れないですね。

今の私は、神の子羊の群れに入れてもらえているのか、どうかわかってはいません。

それは神がご存知であり、私に出来ることは子羊の群れでありたいと願うことのみ。

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裁くとは?

調査捕鯨船「日新丸」の乗組員が鯨肉を不正に持ち帰ったとして、環境保護団体「グリーンピース・ジャパン」が業務上横領容疑で告発した問題は、案の定、盗難事件に展開しました。

グリーンピース・ジャパン側は乗組員が鯨肉を横領していると主張し、「証拠品」として、今回容疑となった鯨肉を東京地検に提出していました。

それに対し、地検は無断持ち出しではなく、横領には当たらないと判断しました。
東京地検は20日、乗組員全員を嫌疑なしで不起訴処分としたのです。 

水産庁などによると、乗組員には鯨肉数キロを土産に持ち帰る慣習があったと言います。

鯨肉は、水産会社に買い取られたものが土産として渡されていた模様です。
グリーンピースは、事実関係の裏もとらないで非合法手段に訴える暴挙に出ていたわけですね。

グリーンピースメンバーは4月16日午前、「西濃運輸」青森支店の配送所に無断で侵入して、23.5キロの鯨肉が入った段ボール1箱を盗んだ疑いが持たれています。

そして、ついにグリーンピース幹部から逮捕者が出ました。
実行行為に関与したメンバー数人についても、青森県警は窃盗と建造物侵入容疑で、逮捕する方針を固めています。

グリーンピース・ジャパンの日頃からの情報収集は十分だったのか、反捕鯨先にありきで暴走してしまったのではないのか、問われる事態となりました。

自分が正しいと思えば思うほど、自分の行動を律する必要があることを改めて考えさせられました。

 人を裁くな、裁かれないためである

人のことを言う前に、自分がどう振舞ってきたか、どう振舞うべきか、見直したいと感じさせられた事件でした。

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生命の樹

聖書の創世記には、生命の樹が記されているのです。

生命の樹は、世界樹、宇宙樹、扶桑樹などと、同じであるとみなされる、世界の中心にそびえる樹です。

生命の樹とは、現実の樹ではなく、ユダヤ教神秘主義やヘブル密教とよばれるカッバーラの奥義を象徴化したものです。
カッバーラ(קַבָּלָה)とは、授かるものという意味のヘブル語です。
ここでいうカッバーラは、神から授けられた知識や知恵という意味です。

 生命の樹とカッバーラの中には、無数の真理が凝縮されていると。

最も重要な奥義は、生命の樹は後ろ向きの人型とされるアダム・カドモンであることです。
そして、このアダム・カドモンのアダムとは、第二のアダムとも言われるイエス・キリストをさすとも言われるのです。

これに対して、人に死をもたらす樹があるのです。
聖書の創世記で、アダムとイブが食べるなと神から諭された善悪を知る樹のことであるとされるのです。
この死の樹の人型は、サタン=堕天使ルシファーを意味するとでもいうのでしょうか。

 人に死をもたらす樹が、善悪を知る樹なの。

それは、善悪を知る樹の一面という、感じがしますね。
死をもたらす判断か、生をもたらす判断か、それを裁くという意味でも、「善悪を知る」樹ではないでしょうか。

 もしも、「善悪を知る樹を選ぶこと」が「死の樹を選ぶこと」、であり、「サタンを選ぶこと」、であるとしたら、どうなるの。
 それは「自分の判断を主の判断の上におき主をないがしろにすることを選ぶこと」が、「善悪を知る樹を選ぶこと」と等しいということなの。

わたしが、「本来の悪魔(akuma)」というふうに「本来」とわざわざ断る理由もそこにあるのです。
くどいようだけれど、「本来の悪魔(akuma)」にはサタンはいないのです。

裏を返せば「いわゆる悪魔(akuma)」と私が言う場合、サタンが含まれることになるのです。

「本来の悪魔(akuma)」=「死の樹に落とす悪魔(akuma)」=「裁きの神としての悪魔(akuma)」

「いわゆる悪魔(akuma)」=「死の樹を落とされる悪魔(akuma)」=「滅びのサタンであるルシファーの一味」

つまり、本来の悪魔(akuma)によって裁かれ、滅びに突き落とされる存在がサタンとなった堕天使ルシファーとその一味ということです。
落とす側と、落とされる側の混同が、悪魔(akuma)を本質が掴み難い存在にしていたのです。

決して、「自分の判断を主の判断の上におき主をないがしろにすることを選んだ」わけではないのです。

むしろ、アダムとイブが神の判断基準を知ることは、神が望んでおられたことだったのです。

 食べるかどうかは、あなたしだい。
 しかし、食べれば死ぬ運命が待っていると忠告しておこう。

おっしゃるとおりです。
それが、食べてはならない、食べると死ぬという、神の言葉が意味していたことでしょうね。

それは神の忠告に従わないという選択をしたという点では、堕落を選んだという風に言われても仕方がないといえるではないでしょうか。

創世の時に、神はエデンの園の中央に生命の樹と善悪を知る樹を生えさせられたのです。

 これはエデンの園に、ヤハウエとしてのイエス・キリストとルシファーがいたというの。
 アダムとイブは、知識を得るために、あえて堕落したと神に判断される危険を冒したといえるの。

神が、アダムとイブの成長のために死の運命を受け入れてほしいと望み、アダムとイブはそれに気がついたと判断してもいいのかもしれないですね。
誤解を恐れずに言えば、神に背くものを意味するサタンという意味では、堕天使ルシファーがいたと言っていいではないでしょうか。

神は全ての事を見通した上で、御自分の計画を進めておられるという事ではないでしょうか。

しかし悔い改めて、救い主イエス・キリストに従うならば、贖いと復活の力によって神の御前に連れ戻され、永遠の生命を受けると約束されたのです。
生命の樹と死の樹、どちらを選ぶかは私達自身の選択にかかっているのです。

 信じるも信じないも、あなた次第ってやつね。

もちろん、これもまた序の口です。
カッバーラは、底がないのです。

エデンの園の中央にあった2本の樹については、複数の解釈が可能です。

まず神はアダムとイブを創造した時、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じられたのです。
そしてエデンの園に2人を置き、こう言われたのです。
『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それでも、あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである。しかし、わたしがそれを禁じたことを覚えておきなさい。あなたはそれを食べる日に、必ず死ぬからである。』(創世記3章16、17節)

まず、アダムとイブは神から「生めよ、増えよ」と生命じられたにも関わらず、エデンの園を追われるまで実際に子供をもうける事はなかったのです。
それは自分が裸である事にも気づかぬほどに、無知の状態であったからです。

 2本の樹が、互いに反対の形になる関係にあるという視点でみているわけね。

生命の樹=イエス・キリストが永遠の生命をもたらす者であるのに対し、善悪を知る樹=ルシファーは滅びすなわち第2の死をもたらす者であるとも解釈できるのです。

 死そのものは、滅びではない。
 神の裁きによって退けられることが、滅びということなの。

その通り。
最も畏れるべきは、神の裁きによる死である滅び。
人による死も、ルシファーによる死も、裁きではない以上、滅びではないのです。

また神は、禁断の樹の実を食べてはならないが、どうするかはあなたに任せると言われているとみていいではないでしょうか。
この言葉の真意は、こうではないでしょうか。

「あなたはエデンの園に留まりたければ善悪を知る樹の実を食べてはならない。それを食べると体が死すべき状態に変化し、ここから出て行かなければならない。しかし無知の状態では子供が生めず、人類が生じるためには知識が必ず必要である。どちらを選ぶかはあなたに任せよう。」

サタンは、神の計画を滅ぼすためにアダムとイブに言葉をかけ誘惑したのではないでしょうか。
2人は神の意図をよく理解した上で、堕落する事を受け入れたということでしょうね。

次に、2本の樹が互いに「合わせ鏡」の関係にあるという視点を持つと、2本の樹は門松と同じように、「初めと終わり=永遠の神」、「旧約の神ヤハウエ=新約の神イエス・キリスト」などの意味を持つと解釈できるのです。

また他にも、生命の樹は罪を赦し永遠の生命をもたらす「憐れみ」の側面を、善悪を知る樹は善悪を厳しく裁く「正義」の側面を持つのですよ。
この「憐れみ」と「正義」の両方を成就する神が、御父と人類の中保者(ちゅうほしゃ)として位置づけられるイエス・キリストであるという見方もあるのです。

 中保者(ちゅうほしゃ)は、仲立ちをする者という意味なのですか。

はい、そういうことです。
仲立ちをする者を意味する、主にキリスト教で使用される用語です。
仲立ちの仲という字を当てて、仲保者(ちゅうほしゃ)と記されることもあるのですね。

 以前、ある教会の人に聖書のアダムとイヴの話について、こう尋ねたのですよ。
 神は人間が知識を持つことを、是としなかったのか。
 だったら私たちが学ぶことは、神の意思に反することになるのでは。
 まともな答えが返ってこなかったですね。

突っ込みしにくい、ですか。

 ううっ、難しすぎる。。。。
 私のちいちゃなおつむでは無理かも。

この問題に、きちんと応えられる教会は、悲しいかな、ほとんどないのが現状ですねえ。

ほとんどのキリスト教の教会は、ここで思考が止まってるはず。

「アダムとイブの失楽園は、神の忠告に背いた報いであり、イエスが贖罪の子羊となってくださった。」

じゃ、簡単にまとめてみましょうか。

Q.神は人間が知識を持つことを、是としなかったのか。
 だったら私たちが学ぶことは、神の意思に反することになるのでは。

A.神は人間が自分たちと同じ知恵と知識を、持つことを望まれていた。
 しかし、そのためには死を経験する必要があることも警告した。

そういうことです。

 だったら、子孫を残す方法を知らず永遠の生を持つよりも、知恵と知識を得て子孫を残して死を選んだ方が発展的ですねえ。

 だから神は、知恵知識を得ることと死をセットにしたのかなあ。
 あまりにも単純に考えてしまったけど・・・・。

いや、素直にそうとってもらって結構ですよ。

世代を超えて、蓄積されてきた知恵と知識によって、発展もしてきたし、方向修正もできてきた、これは事実ですもの。

 創世記の記述は象徴が多々組み込まれているので、非常に奥が深く解釈も難しいね。
 
創世記を始め聖書にちりばめられている象徴を解釈するために必要とされるのが、扉を開ける鍵にも例えられるカッバーラなのです。
でも、カッバーラは変に難しく考えると、むしろわからないですよ。
素直に感じたままに解釈して言ったほうが、わかりやすいとさえいえるようですね。

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前世と守護神は存在するか

前世とか、守護神とか、たびたび、話題になりますね。

そのたびに思うのです。

最初の人の前は、進化論では猿です。

最初の猫の前は、進化論ではミアキスです。
進化論では、ミアキスは、犬の先祖でもあるといいます。

ということは、最初の人の前世は猿ってことでしょうか。
最初の猫や犬の前世は、ニアキスってなるのでしょうか。

いったいどんな生き方をしたら、猿から人になれたのでしょうか。
いったいどんな生き方をして、ニアキスから進化した後、猫になるか、犬になるか決まったのでしょうか。

猿のときから、守護神がいるのでしょうか。

だったら、犬や猫にも、守護神がいるのでしょうか。

ネズミやゴキブリにも、守護神はいるのでしょうか。

アメーバーにも、守護神はいるのでしょうか。

私にやられたネズミやゴキブリは、守護神に見捨てられたのでしょうか。
なにが、運勢を分けたのでしょう。

野良猫で終わるか、家猫になれるか、どんな生き様が決めるのでしょうか。

だって、そうでしょう。

人になるまで、守護神がこないなら、守護神って、どこで何してるのでしょうか。

だれか、教えていただきたいのです。

聖書のような創世神話を持っている宗教だと、最初の人も、猫も、犬も、神に作られるまで、存在しないのです。

もし、あなたが、聖書だろうがなんだろうか、神や仏に命が作られたと信じていながら、前世も信ずるというなら、教えてほしいのです。

前世には、どこにいたのでしょうか。

ほかの星にいて修行していたなら、地球での前世はないことになっちゃうけど。

さらにその前、霊の世界で暮らしていたというなら、天体の上での前世がない命もありになっちゃうけど。

神や仏がいるといいながら、守護神がいるというなら、神や仏は何してくれているのでしょうか。

守護神をやってる神たちを、指導監督してるのだったら、神や仏を直に拝んだほうが、ご利益高くないですか。
神や仏をそっちのけで、守護神に祈って、ひがんだりされてないでしょうか。
聖書の神は、ねたみ深くって、自分以外を拝むと容赦なく罰するお方なのですけど。

あなた、疑問に思ったことないのでしょうか。

そもそも、守護神にも、前世ってあったのでしょうか。
どう生きたら、守護神になれるのでしょう。

ご存知なかた、説明してほしいです。

わたし、ぜんぜん、わかりませんので。

なんて、前世や守護神を信ずるという人に訊ねたら、どう応えてくれますかね。

つっこみどころは、満載でしょ。

でも、どう考えたらいいか、どう応えたらいいか、霊の話は、例によってややこしいですね。

前世や守護神の話、混乱しちゃったでしょうか。

 いえいえ、面白いです。

ありがとうございます。

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前世と守護神をどう見るか

考えてみると前世と守護神には、興味深い話が結構あるようですね。

 よく、キリスト教でGuardian Angelがいるっていうけれど 。
 あれと守護神との関係はどうなんですかねえ。
 あくまでangelだから守護神ではないのか。
 神から使わされたangelってことなんですかね。
 でも、守護神と似たような働きしますものね。
 ・・・ううむ、難しい。

なかには、守護聖人なんて言い方があったりしますね。

 こうなったら、つっこみどころ、大盛りですね。

Guardian Angelは、特定の人を保護して、案内する天使であるようです。

 キリスト教では、絶対三神以外の神はいないのでしょ。

守護神なんていいだす時点で、絶対三神以外の神を崇拝しろといってるようなものでしょうね。
サタンとなったルシファーのたぶらかしと、警鐘をならすクリスチャンの人たちもいるのです。

 イスラムは、どうでしたっけ。

アッラーのほかに神なし、の人たちです。

 守護神は、すなわちアッラーってことでしょうか。

アッラーの他に神がいるかのような言い方自体シャイターン、つまりサタンのしわざと無視されてしまうでしょうね。

実際、考えていくと混乱だらけ、矛盾だらけ、ルシファーのたぶらかしと、揶揄されても仕方ない面はあるのです。

聖書には、神の心にかなうものに、一人あるいは複数の天使を遣わして、諭しや警告を与える場面はあっても、神が人々に臨むときには旧約ではヤハウエ、新約ではイエスが、じきじきのお出ましとなるのです。
ヤハウエやイエスから御父と呼ばれる方でさえ、滅多に出番はないのです。

つまり、Guardian Angel、守護天使ならば、いるといってもいいのしれません。

でも、誤解のないように言っておきます。

人間一人一人に付きっ切りでそばにいるような天使は、存在していないようです。

一人一人の信仰や祈りに応じて、必要な助けや守りを与えてくれるという意味でなら、Guardian Angel、すなわち守護天使はいるのかもしれません。

 それぞれの人に、担当はいないということでしょうか。

そのかわり、きめ細かい見守りや指導をしてくださる天使はおられるでしょうね。

ただ、見守りの天使の振りをして、心の隙間につけこむサタンの一味が守護神を名乗って、まことしやかな「指導」をしている可能性はありますね。

つけこまれないよう、祈りで守られるようになりたいものです。

仏教にも、神仏のご加護という考えはあっても、守護仏、守護神、なんて思想はないです。

仏教も多神教状態ではあっても、一人一人にかかりきりになる神も仏もいないです。

なんてたって、一人で何人も救いの手を差し伸べる千手観音がおられるくらいです。

一人一人に守護神に派遣できる神なんて、仏教にもないってことです。

前世のこと、疑問に思ってとりとめもなく考えてたときがありますという声が返ってきました。

その人は霊能者らしい人物に子供の頃、手紙を送ったことがあるそうです。

 「全ての生物に前世があるなら、絶滅してしまったあとの恐竜の後世はどうなっているんですか?違うものに生まれ変わるんですか?あと、人間は別のものに生まれ変わるんですか?世界が絶滅したらあの世は満員になってしまうんですか?」

返事はこんな風だったそうです。

 「人間は霊長類だから人間としてまた生まれ変わるけど、この世に出てくる人間の数はうまくコントロールされている」

恐竜は、無視されちゃったのだとか。

結局、前世なんて考えるとおかしくなるから、そんなの関係ない!と割り切っちゃうほうがいいのかもしれないですね。

だって、そうでしょう。

増えてるときは、前世の霊は足りますか。
減ってるときは、前世の霊はあまりますか。

古代人も、死後はどうなるかは気にしても、前世はどうだったか気にしていないようです。
そもそも命は、神から授かったもの、あるいは預かったもの、と彼らは考えていたから、前世なんて関係なかったようです。
むしろ、神の意思にちゃんと従えたかどうか、そのほうが気になっていたのではないのでしょうか。

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堕落とは?

一旦堕落して神の元に帰ってきたら
堕落しないで神の元に居るよりなお嬉しい?

この問いは、アダムとイブにとっての堕落の意味をどう捉えるか、とともに、私たちにとっての堕落の意味をどう捉えるかということでもあるのです。

堕落を経験したかどうかより、神に敬虔であるかどうかの方が、より重要ではないのかです。

そして、神をよく理解して深く帰依する事が大事なのであって、堕落を経験したかどうかは、問題ではない気はしますね。

ただ、人である以上、堕落の誘惑に心を惑わされた経験がまったくない方が、むしろ少数派なのはないでしょうか。

自分は絶対堕落しないと驕り高ぶる者より、自分は堕落するかもしれないと自戒する謙虚な者の方が、神には喜ばれる者かもしれないですね。

親鸞聖人は、こういわれました。

「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」

ここで言う悪人とは、自らの堕落を自覚し後悔する者であって、自らの堕落に開き直り罪を重ねる者ではないです。
そしてここで言う善人とは、自らを罪人と思っていない者です。

自覚なき悪人の可能性がある善人より、自らの罪を自覚している悪人の方が、往生の資格があるといっているのです。

イエスもまた、世情の中で卑しまれた人々の中に身を置き布教された点で、『旃陀羅(せんだら)の子』を名乗った日蓮に準えられますね。

旃陀羅とは、インドで、最下級とされた階級のことです。
屠畜(とちく)つまり家畜を食肉用や皮用に処理することや、狩猟などを生業とした人たちです。

 堕落っていうのは悲しみを知る経験だと思うのです。
 経験は重要だと思いますね。

 おそらく悲しみを知った人は傲慢にはなれないと思う。
 開き直れる人は多分本当の悲しみを知らない。
 まだまだ堕落し足りない。
 どのレベルで神のもとに戻れるかは人それぞれですが。
 最終的には神の元に戻れる。

卑しまれた人々は悲しみを知っている。
その中でも真に理解した人しか神の元に戻れない。
悲しみに酔って自己卑下している間はいつまでもそこに留まるのでしょう。

 涙とともにパンを食べた人間でなければ、人生の味はわからない。

あるいはこれ。

 何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

この言葉に、今までの議論はぎゅ!っと籠められるのではないでしょうかねえ。

この涙は、苦しみ、悲しみ、怒り、喜び、感謝、感激、などなど、いろいろあるでしょうね。

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始めの光?

ミクロの世界では、 「不確定性原理」という言葉があります。  
不確定性原理は、独ではUnschärferelation、英語ではUncertainty principleと呼ばれます。
訳すと、「確信をもてない原理」とか、「確実なことが言えない原理」となります。
何に確信をもてないかと言うと、観測結果に確信をもてない、といいます。

具体的に言うと、ある2つの物理量を同時に測定しようとすると、測定値にばらつきがでないように2つの物理量を測定することはできない、という理論のことです。

物理量(physical quantity)とは、質量、長さ、体積、圧力、時間のように、物体や物質などの測定対象に固有な、客観的に測定できる量、およびその量を用いて算出できる量のことです。
科学者は、物質に場やエネルギーも含めます。
よく知られてる場には、電波をつくっている電場と磁場などがあります。

要はミクロな領域では、粒子の位置と運動量は正確には決められないというものです。
マクロ、つまり私らの暮らしている領域では、そんなことありえないってことが、ミクロ、つまり素粒子の領域じゃ常識らしいって訳です。
素粒子は、物質を構成している最小の要素です。
大雑把に説明すると、レンジなどでおなじみな電子や、電子が周りを回ってる原子核、光を伝える光子など、これらの仲間をまとめて素粒子と言います。

原子より小さな領域であるミクロの世界では、位置と運動量は正確には決められないと言っているってことです。

この不確定性原理を表す式には、プランク定数というものが登場します。

プランク定数(Planck's constant)は、量子力学の基礎となる単位を示す物理定数です。
しばしば h (エイチ)と記されます。
プランクの名は、量子力学の創始者の一人であるマックス・プランクにちなんで命名されました。
量子力学とは、素粒子の領域を扱う力学と思えば良いです。

例えば光子の持つエネルギー E は振動数 ν に比例し、その比例定数はプランク定数 h に等しいと言う式で表されます。

 E=hν
算数だと掛けるだの割るだのを表す記号を書くけど、科学はこう書きたがります。
 
言い換えれば、これもありってことです。

 h=E/ν
 要するに、これと同じです。
 h=E÷ν
科学の式じゃ、割り算は分数で表すのがお好きらしいです。

光子のエネルギーを振動数で割ると、プランク定数と言う一定の数が得られると言っている訳です。

実際は、プランク定数を円周率πの二倍で割った数を使うことが多いです。
円周率は、円の周の長さと直径の比のことです。
円の周の長さを、直径で割って求められます。
プランク定数を円周率πの二倍で割った数は、小文字のhに横棒一本引いて表され、発音は(エイチバー)と読みます。

どうもプランク定数は、波動と関連が強いようですね。

じゃ、位置や運動量どちらか一方だけなら、ちゃんとわかるのでしょうか。

それならできる、らしいです。
実は、素粒子と言われる代物には波動が付き物だと言います。

さらに、厄介なことに絶対零度でも、この振動は止まることはないのですよ。
絶対零度(Absolute zero)とは、0 K(ケルビン)と表される物質における温度の下限です。
摂氏で表せば-273.15℃です。
華氏だとー459.67Fになります。

温度に下限があるのは、物質の熱振動をもとにして規定されているからです。
それは、原子の振動である熱振動が最も小さくなり、エネルギーが最低になった状態です。
下限温度がこの時に決まり、これ以上下がらないことから絶対零度と呼ばれます。

絶対零度でもとまらない振動を、零点振動(Zero-point motion)と言います。
零点振動は、ゼロ点振動とも言い、絶対零度においても原子が不確定性原理のために静止せずに振動していること。
ヘリウムが絶対零度近傍でも固化しないのは、この零点振動が原因です。
圧力を加えると固化しますけど。
固体では、格子振動が起こっているのです。

格子振動(こうししんどう, Lattice vibration)は、結晶中の原子の振動のことです。
結晶の中で、原子がまるで格子のように配列しているところから、結晶中の原子も格子と呼ばれます。

振動の駆動力は熱だけれど、絶対零度でも、不確定性原理から原子は振動していて、これを零点振動といいます。

格子振動は、熱伝導の原因の一つであり、比熱とも関係が深いです。
また格子振動によって電子が散乱されます。

格子振動は、従来型の超伝導と深く関わっています。

量子化された格子振動が、フォノンです。
フォノン(phonon)は、音子とか、音響量子、あるいは音量子とも訳されます。
量子化とは、飛び飛びの数値しか取れないと言うこと。
ある一定の単位より下の数値は取れない、それが量子化と思えばいいでしょう。

振動という意味では、単独の原子や、分子、分子の塊であるクラスター、表面などでの各原子も振動していて、これらを量子化したものもフォノンです。

ちなみに、光子はフォトン(Photon)と言います。
光のエネルギーは飛び飛びの数値しかとれないことがわかったのが、量子という考えが生まれたそもそものきっかけだったのです。

絶対零度でさえ、止まらない振動があるとなると、気になる現象があります。

すべての現象に必ずあると言われる、1/fゆらぎのことです。

1/fゆらぎとは、ピンクノイズとも呼ばれ、あらゆる物理現象、生物現象、経済現象に現れます。
具体的には、人の心拍の間隔や、ろうそくの炎の揺れ方、電車の揺れ、小川のせせらぐ音、アルファ波、目の動き方、木漏れ日、物性的には金属の抵抗、ネットワーク情報流、蛍の光り方などですね。
ピンクノイズとは、パワーが周波数に反比例する雑音のことです。
同じ周波数成分を持つ光が、ピンク色に見えることからピンクノイズと呼ばれます。

ここで言うパワーとは、誤解を恐れずに単純に言うと、現象の起こりやすさ、変動の起こりやすさを表す関数です。
たとえば株価や為替の変動、ブラウン運動などの粒子のランダムな運動などにみられる変化を記述する場合、使われます。
光を周波数別に分けるときにお馴染みの、スペクトルになぞらえてスペクトル密度とも呼ばれます。

またしても、素粒子に周波数、つまり波動が現れました。
しかも、光で知られるスペクトルなんて言葉まで登場しましたね。

振動があれば、エネルギーが発生する。
赤外線で見ると振動が激しい、言い換えるとエネルギーの発生が激しいところははっきり明るく映ります。

つまり、目には見えないようでも光っているわけですね。
実は電子や原子核を作っている素粒子には、仮想光子という光が常にまとわりついているそうです。

となると、素粒子は常に振動し続け、光り続けているために、最低の温度であっても振動を止めることはないわけなのでしょうか。

これが、森羅万象にみられる1/fゆらぎを生み、粒子の位置と運動量は正確には決められないという不確定性を生んでいたって事なのかです。

そういえば、聖書には「光あれ、すると光があった」で始める創世記があります。

聖書の記述を残した人たちは、万物に常に光があったことを知っていたでしょうか。

今回は大胆に、科学の謎に空想で切り込んでみました。

真相は、どうなのでしょうか。。。。

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原罪を問い直す

原罪の話は、聖書知らないと難しすぎたでしょうか。

 ちょっと難しいけど・・・・ 。

あ、やっぱりそうですか。

「知識」を得るのと同時に、「死も知らなければならない」ということでセットになっていたのですね。

このことについても、こんな感想をもらいました。

 この言葉の意味、ものすごく深いので、いろんな想い、考え、想像が浮かんできました。ふうむ~

エデンの園で、何歳になっても寿命で死ぬということは、なかったのでしょうね。

でも、不注意に木に登れば、落ちたら死ぬ可能性はあったことでしょう。

ただ、そんな時も神が注意を促されるので、危険は避けられるのでしょうね。

神が、二人に死を体験させるため、危険に気づかないようにさせるなど、立場上できないことを思えば、二人の判断ミスということにするしか、手はなかったとも言えるかもしれません。

こんなコメントもきました。 
 
 わたくしには聖書自体がグローバル化とセットになっているとしか思えません。
 原罪が日本人にピンと来ないのは日本人が神さまや自然と一体化している民族だからだそうで。

「フランダースの犬」のネタを扱ったとき、欧州のキリストに対する解釈に疑問を出させてもらったのですが。

ここにも、欧州の聖書理解そのものが問われている気がしますね。

 一神教になったら自然の神と分断されてそして悪魔が入り込む隙が出来た…
 「知識」というのは、自然を征服しようというものではないでしょうか?

聖書自体は、自然を人の管理にゆだねていても、征服しろとは言ってないのですよ。

自然を、共に生きる相手としてではなく、やらなきゃやられる敵として、捻じ伏せるべき相手として、捉えているのは欧州の自然観であって、聖書の自然観ではないのですよ。

自然と人について聖書が説くのは、創造の最後に登場させた人に神の似姿と自然を管理する権限を与えていることで、人に好きなように勝手に扱っていいとは、委ねてなどいないのですよ。

自然にも、人にも、神はただ一人、旧約ではヤハウエ、新約ではイエス、そう呼ばれる「わたしはある」と名乗るお方なのですよ。

そうそう、言い忘れたけど、知識の樹になる実によって得られるのは、神に近づくために身につける必要のある知恵と知識なのです。

神の御心に従って、世界に臨むための心構えなのです。

聖書自体が、グローバル化とセットになっているとしか思えないとの感想にも、一言、つけくわえたいです。

それは、残念な誤解なのです。

聖書は、自らの絶対性を主張し、絶対神への服従を求めますが、それはグローバル化とは異質なのです。

 「死」という概念が、「時間」という概念を気付かせ、時間が「量」という概念を生み出した・・・気がしました。
 量(数)を認識して、はじめて「管理」もできる。。
 近代の考え方の基礎、つまりキリスト教圏の考え方の基礎が、ここには隠されてる気がしました。

 もう「自然を管理」がわたくしには理解できませんわ。
 「自らの絶対性を主張し」・・・いったいどこの誰に主張する必要があるのか?

管理とは、辞書にはこうあるのです。

管轄・運営し、また処理や保守をすること。
取り仕切ったり、よい状態を維持したりすること。
私法上は、財産などについて、その性質を変更しない範囲で保存・利用・改良を目的とする行為。
または、他人の事務について、その内容を現実化するための行為。

具体的には、次のようなことのようです。

1 ある規準などから外れないよう、全体を統制すること。「品質を―する」「健康―」「―教育」

2 事が円滑に運ぶよう、事務を処理し、設備などを保存維持していくこと。「―の行き届いたマンション」「生産―」

3 法律上、財産や施設などの現状を維持し、また、その目的にそった範囲内で利用・改良などをはかること。

神から自然の管理を命じられるとは、神のお創りになった自然を、神の意思に沿うような形で利用させていただくことと思われるです。

自然破壊、環境破壊、そんな結果に結びつく行為など論外ということではないのしょうか。

自然界のすべてと共生共存しながら、持続可能、再生可能な使用や利用をさせていただくということではないのかです。

自然に君臨しようと傲慢にならず、自然からの恵みを分けてもらう気持ちでいるべきではないのかです。

また、欧州文化批判になってしまったです。

「自らの絶対性を主張し」とは、聖書の神がモーセを通じてイスラエルと交わした『十戒』の最初にこうあるのです。

私のほかに神としてはならない

ところが古代イスラエルは何度か、異教の神に走ったことがあるのです。
そのたびに、神は怒り、イスラエルを懲らしめたのです。

それでも、イスラエルは分裂後、北朝10支族は異教の神に走って神を怒らせ続け、征服された挙句のはて、行方不明になったです。
いわゆる「失われた10支族」ですね。

残った南朝二支族も、保ち続けた信仰が揺らいだとき、征服されて、しまいには亡国の民となるのです。
第二次大戦後、再建してもなかなか和平がこないのです。
同じ神の民であるはずのイスラムと、ぎくしゃくしちゃっているからかもしれません。

原罪って、ほんとうはなにのことでしょうか。

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原罪は本当にあるか

「フランダースの犬」のネタを扱ったときにも、欧州のキリストに対する解釈に疑問を出させてもらったのですが。

原罪の解釈にも、欧州の聖書理解そのものが問われている気がします。

いわゆる正統派の言う、『善悪を知る樹』ともいわれる『知識の樹』による「原罪」はありえないと思うのです。

もし、食べて悪いのならどうしてその場で、神は罰せられなかったのでしょうか。

仮に「原罪」があるとしたら、食べたことでなく黙っていたことなのでないでしょうか。

しかし、もし正直に食べたことを白状して神はどうなさったのでしょうか。

謝ればすむという風に考えたなら、自らの判断を神の判断の上に置いたことになるのでしょうね。

滅びを覚悟したなら、神は命は許すのでないでしょうか。

けれど禁を犯した以上追放は避けられないかも知れないですね。

謝ったから命だけは救ってくださったと見れば、神に感謝するのでしょうね。

謝ったのに追放されたと逆恨みしたら、神は即、滅ぼすしかないことになるでしょうか。

けれど、二人は神を恐れるがゆえに神の目を避けました。

すべてをお見通しなのを知りながら。。。いや、知っていたからこそ、避けたのでしょうねえ。

神はそんな二人をいとおしく思われたから、追放で済ませたのでしょうか。

失楽園で、こんなこと疑問におもわなかったでしょうか。

イブは蛇から、神の命令に反する言葉を、聞いたはずではないの。
イブはサタンの言葉に、一度は疑問を持たなかったのか。

なぜに、イブもアダムも、「蛇」の言葉をうたがわなかったのでしょうか。

「蛇」は、神の声の象徴ではないのでしょうか。
さらに、当時のルシフィルは神に次ぐ地位である熾天使ではないのでしょうか。

「蛇」つまり「神の声」は、常に神のまことの声を伝えていたのではないでしょうか。

エデンの園は、すべてが神の御心をあらわした存在と声にあふれていたことでしょう。
アダムもイブも疑いを持って接する必要のあるものは、なかったではないのでしょうか。

だから、アダムもイブも、熾天使であるルシフィルの言葉を疑わなかった。

疑う必要はなかった。

神は、いつかは善悪を知る木の実を二人に与える必要を感じておられたのではないでしょうか。

エデンの園に二人がいる限り、善悪を知る樹の実を食べる必要は皆無ではないのでしょうか。

この解釈は、いかが感じられるでしょうか。

なぜに、イブもアダムも、「蛇」の言葉をうたがわなかったのでしょうか。

「蛇」もまた、神の創造物であったのです。
長いものであるところから言葉に配当される蛇は、神の象徴ともサタンの象徴ともされてきたのです。

アダムとエバを誘惑した蛇は、サタンであるというのは一般的な解釈でしょうね。

ある伝承には、サタンはまず最初にアダムを誘惑したとあるそうです。
しかし、アダムは惑わされなかったというのです。
その次にエバが誘惑されたが、エバは惑わされてしまったそうです。

サタンは、真実の中に偽りを混入した言葉を用いたのです。
その偽りとは禁断の実を食べても「決して死ぬことはない」という言葉です。(創世記3章4節)

これはサタンが現代に至るまで度々用いている極めて巧妙で人が騙されやすい手段です。
これに対してアダムもそうだけれどイブもまた、良い物しか存在しない環境の中で純粋無垢な状態で生活しており、誰かに騙されるという経験が全くなかったのです。
その事も一因となったと思うのです。

しかしイブが食べてしまったので、結局はアダムも善悪を知る木の実を食べたのではないでしょうか。

その後アダムも善悪を知る木の実を食べたのは、堕落してエデンの園を追放されてしまうイブと共にいて「生めよ、増えよ」の戒めを守るために、あえてそうする事を選択したのでしょうか。

たしかに、聖書を陰陽の理論で見てもアダムは神から息、すなわち言葉を授かった預言者とみえるのです。
息のような長いものに配当されるものは、言葉に配当されるからでしょうね。

預言者たるアダムが、ルシフィルのたくらみを見抜けないはずはないです。

また、イブもまたアダムの指導下にあるとはいえ、預言者であったでしょうか。

神の意向は、善悪を知る樹の実を食べることにあると、二人が悟ったという解釈は聖書からも読み取ることは確かに可能ですね。

これに気がつくまで、「知識」を得ることが、「死」をも巻き込むと言う意味がはっきりつかめていなかったのです。
「生命の樹」に、その意味は掛かるものだと思っていたのです。
目的が「神々のようになる」と言うことと感じたとき、その謎も解けたように感じたのです。

神は、善悪のすべてを知るものであるばかりではなく、既に生と死を体験した者であったのでしょうか。

「知識」を得るのと同時に、「死も知らなければならない」ということでセットになっていたのですね。
「死を知る知識」をも知らなければ、ダメであったと。

アダムとイブも知識の実を食べなければ、食べないでそのままであったと言うことも可能だったでしょうか。
どうでしょう。

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父と子と聖霊は。

三位一体って、聞いたことありますか。

「三位一体は」、「Trinity」の訳語です。

“本来一つであるものが、あたかも三者であるかのごとくある”

これが「Trinity」の本来の意味のようですね。

旧約も新約もコーランも、唯一神の経典であることに変わりはない、それは皆さんもご存知でしょ。

しかし、イエスは御父、御子、聖霊の存在を明らかにされたのです。

ここで、大問題がおきてしまったのですよ。

 唯一絶対神、つまり神はただ一人しかおられない。

 ところが、ただ一人であるお方が、一方では御父、御子、聖霊のお三方でもある。

これをめぐって論争勃発。

私は詳しい経過は良く知らないです。
しかし、結果としてこのような解釈になったものと私は理解しています。
もしご存知の方で、違うということであれば訂正してくださいね。

「唯一神があたかも三者であるかのごとく振舞うのは、御父御子聖霊は三者ではなく立場であり、本来一人の神が三つの分身を持つかのごとく振舞うことである。つまり三者が一体なのではなく、三位が一体なのだ。」

わかりますか?

だれが見たって混乱しちゃうでしょ。

キリスト教になじみのない一般の方々からは、阿修羅像のような三面六臂(さんめんろっぴ)をさして三位一体という表現をしばしば聞きます。

実際のキリスト教美術では、御父御子聖霊を、そっくりなお姿で並べて表現するのが一般的なようです。

でも、私がネットを通じて知り合ったクリスチャンの皆さんはいわゆる正統派解釈に異議を唱えているのです。

「絶対三神と呼ばれる御父御子聖霊はそれぞれ独立した存在のお方であられ、三者は御父の元で、唯一神会を構成なさっておられる。」

三位一体にならって言うならこうなるでしょね。

 御父御子聖霊は、三位一会を構成しておられる。

私も、この絶対三神が唯一神会を構成しておられるという解釈の方が、無理がないと感じています。

でも、御父と御子と聖霊は、どのような関係でいらしゃるのでしょうねえ。

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誰に寄り添うべきか

残念なことに、このような出来事が報じられました。

悲しいです。
シーシェパードと一線を画す事の必要性を、声を大にして叫ばないといけないようです。

鯨肉の紛失で? 西濃が被害届
(時事通信社 - 05月16日 14:01)

 日本の調査捕鯨船「日新丸」の乗組員が鯨肉を横領したとして、環境保護団体グリーンピース・ジャパン(GP)が告発状を出した問題に絡み、鯨肉を配送した西濃運輸(岐阜県大垣市)が16日、宅配中の段ボール1箱が盗まれたとして、青森県警に被害届を出した。

 GPは15日、鯨肉入りの段ボール1箱を4月16日に西濃運輸の青森支店で入手したと説明。送り主の了解は得ておらず、顧問弁護士は「形式的には窃盗かもしれないが、横領行為の証拠として提出するためで、違法性はない」としていた。 


もし、自分勝手に彼らのような行為をする権利が万人にあるとしたら、どうなりましょう。

世界は私的制裁し放題の、無法地帯と化すのではないでしょうか。

私の主張、間違っているでしょうか。

こういうと、感情的な意見が出るかも。

あなたは、横領に賛成か反対か。

議論のすり替えです。

自分が正義と考える行為のためなら、なにでも許されるなら司法制度は不要と化すのではありませんか。

聖書にもコーランにも、こういう考えがあるようです。

 人は、自分の正しいと思うことを思うように行ってもいい。
 その代わり、神の裁きがどうなろうと、自分で責任を持て。

仏教にも、似た考えがありますね。

 因果応報
 縁なき衆生は度し難し。

私たちは、自分がどの道を進んでいるか、常に見直したいですね。

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素直とは?

素直を美徳として薦められて、すぐさまうなずく人はもちろんいますね。
一方で、首を横に振ったり、傾げたりする人もいますね。
この差はいったいどこから来るのでしょう。

そこで国語辞典で引いてみます。

 (1)性格や態度にひねくれたところがなく、あえて人に逆らったりしないさま。

 (2)技芸などに癖がないさま。

 (3)物の形がまっすぐであるさま。

 (4)飾り気がなくありのままであるさま。

この、「あえて人に逆らったりしない」にひっかる人は、首を横に振ったり傾げたりする気になるのでしょうね。

そういう人はたいてい、まともに聞いたり信頼したら馬鹿を見る、そういう体験を自らしているか、目撃している、または、聞かされていますね。

そういう人はさらに、「ありのまま」に不安を覚えるしょう。

そこで、英和辞典を引いてみます。

 1 〈従順〉
  素直な obedient; tame; docile; unprotesting; 《fml》 submissive; 《fml》 tractable; 〈温和な〉 gentle; mild; meek
  素直に obediently; without protesting; gently; meekly
  素直に意見をきく accept sb's advice at once [without argument]
  素直に白状する confess 《to sth》 frankly [with (a) good grace].

 2 〈癖のないさま〉
  素直な髪の毛 hair that is easy to handle
  素直な文字 handwriting with no unnecessary peculiarities.

従順とは、人に逆らわず、おとなしいことやさまをいいます。
従順には「飼い馴らされる」「御しやすい」という意味合いも強いです。
素直になれといわれても反発したくなるのはわかります。

ここで、見落としていけないのが、じつは「あえて」なのです。

 (1)(しなくてもよいことを)強いてするさま。わざわざ。無理に。

 (2)(下に打ち消しの語を伴って)〔漢文訓読に由来する語法〕
 
  (ア)とりたてて。特に。別に。

  (イ)まったく。少しも。

あえてさからわないとは、しなくてもよいことを、反対する理由があれば、時と場合によっては、無理に従わなくて良いということでしょうね。

 自分の心に素直になったとき従えない、従いたくない相手には、無理に従わないことでしょうか。

じゃ、切り口を変えましょう。
「そんなこと、あなたに言われたくない」
そう感じる相手に、素直になれるでしょうか。
そして、そんな風に思えてしまうのは、どういう相手なのでしょうか。

 うさんくさい、話ができすぎ、ばかにしてる、下心ありそう…

でも、そういう人はどうしてあなたに寄ってくるのでしょうね。

 「飼い馴らしやすい」「御しやすい」と、見透かされているのでしょうか。

おどおどしている、虚勢を張っている、そういう態度は足元を見られるのでしょう。

 おどおどもしない、虚勢も張らない、たんたんとした生き方をして、自分の心に素直であるならば、どうでしょうか。

一番問題なのは、自分の心の持ち方ってことでしょうね。
でも、誰もが強い心を持っていられるわけじゃないでしょうね。
心のよりどころを、確かな何かに求める…
ここに神や仏の出番がありましょう。

まことの神、まことの仏は、毅然としてたたずみ、愛といつくしみ、憂いと癒しの心を持って、そっと見守ってくださるお方でしょう。
あなたの気づきと振り返りを、気長に待っておられるお方でしょう。

 このまことの神、まことの仏によりどころを求める生き方をしていきたいですね。

まだまだ、素直は底が深いです。

 わたしはどこまで、素直な心で貫けているか、時折情けなく首をかしげています。

折に触れて、考えてみたい課題ですね。

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「同行二人」

「同行二人」は、“どうこうふたり”ではなく、“どうぎょうににん”または、“どうぎやうににん”と読みます。

私はなぜか、この四国巡礼のお遍路などがその被る笠に書きつける言葉が好きです。

といっても、私はべつに真言宗ではないのです。

この言葉、弘法大師と常にともにあるという意味はあるです。

四国お遍路の旅にはいろいろ困難をともなうが、いつも弘法大師様が見守っていらっしゃる、つまり大師と自分の二人でたどるのであるから安心してお参りに専念しなさいということです。

杖を突きながら歩くのには、杖を大師の身代わりとして頼らせていただきなさい、大師様があなたを支えてくださいますという意味がこめられているそうです。

しかし、本当の「同行二人」はお遍路を終わったときから始まると私は感じているのです。

『あなたの心の中にはいつも弘法大師様がおられ、あなたを支えてくださる、それをこれからも忘れなさるな』

これこそ、お遍路を通じてこの道を歩む人々にしめしたいことではないかと。。。。

けれど、弘法大師は御仏の道の先達ではあっても御仏ではないです。

弘法大師は御仏の“よりしろ”として大師を受け入れる人々の心の支えとなられるお方ということだと、私は受け止めたいのです。

私は、この大師と御仏を「神」に置き換えて一般化してみたいのです。

『あなたの心の中にはいつも神様がおられ、あなたを支えてくださる、それをこれからも忘れなさるな』

実は、この意味で「同行二人」が私は好きなのです。

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神や仏について

神や仏について調べているというと、いろいろ聞かれます。
調べているといっても、民俗のほうなのですがねえ。
それでも、わかっている範囲では応えさせていただいてます。

 魂自体も、くっついたり別れたりするみたいですね。
 それに自分もたくさんいるって聞きました。
 だから、あんまり数には意味がないのでしょうかね。

御魂わけというのは、神の世界ではありますね。
そのあたりの情報が、元ねたと見られます。

 物質的な空間と魂の居る空間はまた意味が違うので、「満員」という概念すらないかも。
 肉体をもつ、つまり物質という形で存在する場合の方が特殊であると聞きました。
 守護神というより、守護霊みたいなのは自分より上の人がなるのかしら?
 と言っても神ほどでもなくて、天上でああしてほしいこうしてほしいと。

これは、かなり難しい問題なのです。
天使の世界というべきものはあって、位階があるのは確かなようですねえ。

この世界に指導に使わされるのは、天使の方だという声は聞きます。

 地上の人間に向上してもらうように願っているのだけど、それが伝わりにくくて大変そうです。
 手をこまねいているだけで。
 それも守護霊、指導霊の修業になっているようで。

神仏の世界には、霊体ではなく、新たな復活体となった肉体をまとって入っていくようです。

 その人も、ちゃんと地上に生きてた人だったということでしょうかねえ。

おそらく、守護霊、指導霊というのは、守護天使、指導天使となっているのが、かつて現世で人であったという情報が元になっていると思われます。
 
守護天使の話は、奥が深いのです。

詳しく話したら、これだけで、何回分にもなるでしょうね。

 そしてまたその上が居るのでしょうね?
 いろんな段階で修業があって。

霊はどうかというと、神仏の裁きの後、合格したものは神仏の待つ世界で復活して、修行をしていくようです。

 聖書の神はよく知らないです。
 ただ、「自分だけを信じよ!」って言うのはとても広い意味の神だと思うのですが。
 人間の基準で見るから、「キリスト教のみ」って捉えるけど。
 「信じよ!」って中には、日本の神だって入っていると思います。

神様とか霊とか、普段あんまり考えないのだけど、なんかの拍子にふとこんなこと感じるという人もいます。

 目に見えないものは、信じられないけど。
 でも、その見えない力っていうのが理屈ではなく、なにか感じてるってことありますよねえ。
 これって、なんでしょう?

飾りっけのない素直に聞きたくなる声であれば、神か仏の御声ではないのでしょうか。

神や仏は、無邪気な御方なのですよ。
それでいて、厳かな威厳と貫禄を備えておられて、不思議と安らぎを感じられるのですね。

そっとたたずみ、やさしく見守ってくださっていると、感じられるなら、その御方は、おそらく神か仏ではないのでしょうか。

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これで議論がなりたつでしょうか

目くじらを立てるという言葉があります。

「目くじら」とは、「目の端」のことで、鼻から遠いことから「目尻」「目角(めかど)」とも言われ「めくじり」とも呼ばれます。
また、「怒った目つき」や、「鋭い目つき」をいうこともあります。

別に、目に鯨がいるわけじゃないのです。
目の形を鯨にたとえた、といっていいのでしょうね。

で、目くじらを立てるとはこういう意味です。

 目をつり上げる。

で、何をするかというここうなります。

 目をつりあげて人のあらさがしをする。
 ささいなことを取り立ててとがめる。
 他人の欠点を取り立てて非難する。
 目角を立てる。
 
つまり、目くじらを立てる人は、小さなことにこだわって、全体が見えない人ってことです。

皮肉なことに、目角にはこんな意味もあります。

 鋭く物を見る目。
 眼力。
 眼識。

「眼力」や「眼識」は、こういう意味で使われます。

 目で物を見る力。
 視力。
 がんりょく。

はっきり見える目で、ものを見てるってことです。
で、何がわかるのかです。

 物事や事物の理非・善悪・真偽・成否などを見抜く能力。
 がんりょく。
 識見。
 めきき。

つまり、「眼力」や「眼識」があるということは、物事の善悪や真偽を見極める知識や、それを生かした見解を述べる能力があるということです。

そして、「目くじらを立てる」ということは、せっかくの能力を無駄遣いしてるってことです。

日本の捕鯨に抗議している欧米の環境保護団体、見識があるのか、ただの目くじらか、どっちなのでしょう。

ただ、いえることは長年捕鯨をしてきた国家と国民が、鯨を絶滅の危機に追いやったのではないということです。

鯨を絶滅の危機に追いやったのは、欧米の鯨油目当ての乱獲であったということです。

そして、多くの欧米の人々はその自らの乱獲の過去から、ほかの捕鯨国も乱獲していると決め付けていることです。
欧州の反捕鯨の議論の問題点は、自分たちの価値観や判断を絶対視して、全世界に押し付けていることです。
自分たちは常に正しく、そのための行為はすべて合理化されるのでしょうか。

いい加減にして欲しいでしょう。

そのうえ捕鯨問題は、政治化してしまって、鯨の保護という肝心の論点からずれてきてしまっていますよね。
おそらく、欧州の中で異論を唱えようとする人は、魔女狩り状態にあうでしょうね。

ここを、欧米の世論が改めてくれない限り、捕鯨に関する冷静な議論は永遠に無理でしょう。

イエスは、罰すると称して石つぶてを一人の女に投げようとしている人々を見て、こういいました。

「あなたがたの内の中で罪の無い者から彼女に石を投げなさい」

まず、冷静になって、自分たちが何をしているか考えたいものです。

過激に走りやすい欧米の環境や自然、動物の保護に連帯する場合、冷静な議論ができる相手かどうか、注意する必要はあるでしょう。
たとえば、毛皮を着るくらいなら裸を選ぶと、実際に裸で歩くデモンストレーションなど、多くのアジア人は恥ずかしくて参加をためらうでしょうね。
毛皮のためだけに、動物を殺す行為に反対する人々であっても、デモンストレーションの手段として裸で歩く案を出す人自体いないでしょう。
いくら横断幕で隠しているといっても、アジアには恥の文化が今でも強いですから。

日本の運動の側も、自分たちの運動は冷静な議論ができているか反省する必要もあると感じます。

環境問題は、感情や感性の問題として出発することが多いでしょう。
冷静な判断ができているかどうかは、すべての国の運動にいえる課題でしょう。

わたしは、反欧州、反米も、嫌欧州、嫌米も掲げるつもりはないのです。

民俗や伝統工芸など、欧米から教えてもらったおかげで守れたものがいっぱいあることは、大いに感謝します。

環境運動などで、教わったことは今でもたくさんあり、尊敬もしています。

けど日本から見て、呑めるものは呑める、呑めないものは呑めない、それははっきり言うべしでしょう。

日本は大人の対応を取って、単なる目くじらに終わらない、そういう国であって欲しいです。

また、私自身もこの議論が、単なる目くじらでないことを願いたいです。

わたしは、鯨の保護の必要は認めます。

でも、そのためのデータ集めも必要なのです。

その中には、胃の内容物調査も含まれます。

鯨の糞を、だれが調べられるのでしょう。

調査捕鯨は、保護に必要なデータを集めるために必要という、皮肉な現実があるのです。

その調査費用を、誰が出しますか。

少なくとも、その一部は市場で調達しているのが実態です。

売るなというのなら、その費用誰が出します。

その肉、どう処理するのですか。

かつての鯨油獲得時代に戻って、欧米がしたように海洋投棄でもしたら、とでもいうのでしょうか。

冷静に議論して欲しいのです。

そして、捕鯨国側もきちんと調査捕鯨の必要な理由を、理路整然と述べて説得して欲しいです。

捕鯨に反対だろうと賛成だろうと、自国の食文化のみを正当化して、他国に押し付けることだけは、したくないですね。

イエスはこういわれました。

「汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」

冷静になりましょうよ。

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犠牲祭

犠牲祭と訳されるイードゥル・アドハーは、イスラムの大事な行事の一つです。
ヒジュラ暦とも呼ばれるイスラーム暦は一年354日の太陰暦なので、毎年イードゥル・アドハーの日は11日ずつずれて、夏になったり冬になったりします。
その日は「イード・ムバーラク!」、つまり「お祭り・おめでとう!」と季節関係なく挨拶を交わします。
日本で言えば、「新年おめでとう!」って感じだそうです。