思想

「死にたい」と聞いたtならあなたならどうする?

「死にたい」とメッセージを発信しているうちは、まだ、誰かを信じているのです。

信じたいと思っているのかもしれないのです。

言わなくなったらかえって危ないという人がいるのです。

それは、「誰もわかってくれない」と言う絶望と諦めの結果の可能性があるからでしょう。

思いを気のすむまで聞くしかないのでしょう。

 

「死にたい」とは、「最後まで生きたい」と同じです。

それはある意味「疲れた」と言うのと似ているのです。

目的地に着くまで、課題を解決できるまで、頑張りたいけどしんどいと弱音を言う事で楽になりたいのです。

するべきは励ましではなく、寄り添いでしょう。

 

「死にたい」とは「死んだ方が楽だと思えるくらい心が疲れた」と言う事なのです。

だから、その心に寄り添い、心の疲れを共有しあって乗り越えられるまで共にあなたと歩いてあげるよと言葉と態度で伝えることが大事なのです。

するべきは心を休ませてあげることなのです。

肩を抱き寄り添って気のすむまで泣かせてあげることなのです。

 

このイエスの言葉が、参考になると思うのです。

 

マタイによる福音書 11

29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 

30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 

乗り越えた人はかえって心が強くなるかもしれないのです。

 

コリント人への第二の手紙 12 09

9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 

10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

 

少しでも、この境地に近づけるようになりたいものだと思うのです。

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いじめをもとから断つ取り組みとは何だろうか。

作家に猫を飼う人が多いと聞きます。
もちろん、可愛いからだか、最大の理由は猫が彼らの気分を強制的にリセットしてくれるからでしょう。
 
考え込んで動きが止まっている人間は、猫から見れば何もやることが無い暇人でしかないのです。
猫は暇ならかまえとやってくるのです。
 
大人しくさせたいなら、かまうしかないのです。
猫が、飽きて、疲れて、離れていくまで思いきりかまうのです。
 
何も考えていない時間が何分も続き、頭の中がリセットされます。
猫は勝手にやってくるから、良いのです。
 
何をやったら気分がリセットされるか、考える手間が省けます。
そもそも、作家の仕事は脳を酷使します。
脳を解放してくれる有り難い存在が猫なのです。
 
人はもちろん、猫や犬にも行動に何かわけがあるのです。
 
犬でも猫でも、問題行動の裏には必ず何か理由があるのです。
 
犬の権勢症候群は、飼い主が私がお前のボスだと理解させれば収まります。
猫がトイレ以外で用を足すなら、猫砂を綺麗にすれば良いのです。
 
いじめだって、やりたくなる理由にちゃんと向き合って解決しようとしていると理解されれば収まるのではないでしょうか。
 
説教は無駄なのです。
 
いい子は手間がかからないから、とかく放っておかれます。
問題児への対応に時間を割きたいからです。
 
振り向いて欲しいなら問題児になれば良いというわけです。
いじめている子は、自分に気が付いて欲しい、振り向いて欲しいから、問題児にあえてなる、違うでしょうか。
 
犬や猫も、あまりかまわれないと問題児になると言います。
同じでしょう。
 
好きな子に振り向いて欲しいが、照れくさい、どうして良いかわからない時、意地悪やいじめに走ることがあると言います。
 
いじめは被害者にばかり目が行きがちだが、いじめている側にも目を向けないと本当の解決にはならないのです。
 
思いやりとか言われても、自分が振り向いてもらえないなら、白々しいだけなのです。
 
いじめられている側が親や先生になかなか言えないのは、いじめをやめさせる取り組みが見えないからではないでしょうか。
 
相談がばれれば、余計にいじめられる、そうではないですか。
 

根本的いじめ対策は、いじめている子を突き止め彼らの悩みに本気で向き合うしかないのです。
騙せるちょろいと舐められないためには、本気で当たるしかないのです。

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戦国大名再考。

戦国大名と言うが、領地防衛のための武装集団だったのです。

弱みを見せれば、領地拡大を狙う近隣の大名から狙われるからです。

信長以前の戦国武将は、室町幕府が弱体化したので、自衛権行使のためやむを得ず武装集団化した存在です。

室町幕府にとって代わろうとは、しなかったのです。

 

防衛線や補給路が伸びる事は、下手をすれば弱体化に繋がり攻められる隙を見られてしまうからです。

 

身の丈に合った領地で、満足していたのです。

戦国大名は自分の実力で自分の領地を治める事が、一番の目的です。

 

天下統一を必ずしも狙って行動したわけじゃないのです。

 

むしろ、天下統一を狙う戦国大名の方が、少数派だったと言えるでしょう。

 

国を守る事で精一杯、そのための税負担を求めるためには、領民の機嫌取りをした、それが実態です。

領地防衛の費用捻出のために領民に負担を強いたが、へそを曲げられたら領内が乱れるので、領民サービスの対価として年貢を調達せざるを得なかったのです。

信長の楽市楽座も、その延長線上にあります。

 

信長の小牧山城が、石垣の持った城の始めです。

城はそれまで土を盛り上げたものでした。

信長は天守閣も初めて作ったのです。

なんでそれをしたのでしょうか。

小牧山城は日本初の石垣を持った城だが、作る途中は防衛が難しいはずです。

 

戦国大名が天下統一の先陣争いをしているなら、築城途中に何で攻めて妨害し信長を潰さなかったのでしょうか。

 

むしろ戦意喪失で信長は、戦わずして勝利します。

 

石垣や天守閣が工夫を凝らして競って作られたのも、戦うためより戦意喪失狙いなのです。

自国を守る城から、天下統一を目指す城への転換です。

他の大名も、対抗上石垣と天守閣のある城を作る事になるが、仕掛人が信長です。

信長が、戦国時代の質を変えたのです。

 

信長の天下布武は、弱体化した室町幕府に代わる安定した中央政権を私が作らないで誰が作ると言う、ある種の使命感の現れです。

領地防衛の負担から、誰かが皆を解放しないといけないと言う思いがあったのかもしれないです。

尾張の地は、信長にその思いをなぜ強く思わせたのでしょうか。

それを考えるのも面白いかもしれません。

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モーセとイエス。

モーセとイエス、よく見ると実によく似た人生を歩んでいます。

 

申命記 34

10 イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。 

11 主はエジプトの地で彼をパロとそのすべての家来およびその全地につかわして、もろもろのしるしと不思議を行わせられた。 

12 モーセはイスラエルのすべての人の前で大いなる力をあらわし、大いなる恐るべき事をおこなった。 


イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかったとあります。

 

果たして、そうだったのでしょうか。

 

モーセの時もイエスの時も、同世代の多くの子供たちが犠牲になるがモーセもイエスも避難して難を逃れる。

モーセは籠で川に浮かび、イエスは飼い葉おけ、後にメシアとなる身でありながら、世の常の幼子とは違う場に置かれた。

メシアとしての再登場までの記録が聖書では空白。

どちらも神によって地から取り去られ地上に最終的な墓が無い。

 

モーセは水から上がって王子の立場を得ます。

ファラオの娘に拾われ、息子として育てられたからです。

 

イエスはバブテスマで水から上がって「これは私の愛する子、私の心にかなうもの」と天から声があり聖霊が下りました。

イエスは聖霊によってマリアの胎内に宿ったかもしれないが、神が我が子として天下に宣言したのはバブテスマの後なのです。

 

モーセもイエスも、王の子の立場を名実共に得るのは、水から上がった後と言う共通点があるのですね。

 

水から上がって神の祝福を得る、ノアの箱舟もそう言えるでしょう。

 

ノアの洪水ではノアの同時代の人たちが犠牲。

モーセとイエスは同世代の子が犠牲。

出エジプトでは、エジプト人の長子も犠牲。

 

共通点は、死の危機から逃れると言う事。

 

つまり、イスラエルを物理的なくびきから解き放ったのがモーセとするなら、神の民としてのイスラエルを死の運命から解き放ったのがイエスだったということでしょうね。

 

さらに、モーセもイエスも経緯に差はあるが、神の前に罪人の立ち位置となる。

後を託した人がいる。


モーセはイエスの予型としての人生を歩んできた人だったのだなと、改めて実感しました。

 

そう言えば、モーセはファラオになれる可能性を捨てて奴隷の身で苦しむイスラエルを救い、イエスは神のひとり子の立場にありながら人々が死の縄目から解き放たれるために人の子として生まれ十字架にかかります。


地上と天上の差こそあれ、モーセもイエスも王の子の立場なのですね。

 

もちろん、モーセには洗礼者ヨハネのような人が見当たらないなど細かな点を上げればいくつもあるでしょうが。

 

こうして見ると、聖書はイエスの予型があちこちにありますね。

 

イエスは旧約聖書の預言者は皆、自分の事を預言していると言います。

 

皆さんも探してみてください。

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生きやすい社会について考えてみた。

障碍者が、自分はお荷物なのかって不安になる社会って、滅茶苦茶ブラックな働き方蔓延な社会だと思うのです。


万能な人間なんていない、そうじゃないですか。


誰かにどこかサポートされる必要がみんなにある、ちがうでしょうか。


その意味じゃ、みんながある意味では「障碍者」ではないでしょうか。


誰もがそれを自覚して、本当のバリアフリーな社会になれると思うのです。

 

神様は万能とか全能とかよく言われます。


では何で、多くの神様がいたり、天使がいたりするのでしょう。


神様だって、全ての人々を救うために、他の神様や天使たちの協力が必要なわけではないでしょうか。


世界を管理していくのに、他の神様や天使と協力する必要が神様でさえあるではないですか。


まして神様じゃない私達は、どうでしょうか。


誰かに助けてもらって何かが出来る、そうじゃないですか。


自分のしたいことするのに誰かに助けて貰う必要があるのが障碍者なら、100%の健常者ってこの世にいるのでしょうね。


だから、バリアフリーがいるのではないでしょうか。

 

 

多くの人が私は自立しているって、言いませんか。


あるいは、自立しようとしていませんか。

 

でも、水や食べ物や電気やガスや交通や住宅、そして衣料、誰かに助けられてない人ってどれだけいるでしょうか。


まして、病気になったら、誰かに出来れば診てもらいたい、そう思いませんか。

 

自立に誰かの助けがいるのが障碍者なら、私達みんな障碍者、そう言ってはおかしいでしょうか。


誰もが誰かの助けが得られることを前提に生きている、それを前提として考えてはじめて、生きやすい社会に出来るのではないでしょうか。


違うでしょうか。

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神社の境内はだてに広くなかった。

古くからの神社は、たいていその地域で最も安定的な地盤に建てられています。
 
つまりその境内は、災害時の一時避難場所として最適だったはずなのです。
 

本来の広さの境内が保たれていたら、一体どれだけの人達の避難場所になったでしょうね。

借り受けて避難場所や公園の維持管理費として、最低限の費用で確保されていたらとため息が出るのです。
 
神社の祭りや日々の参拝は、ある意味日常的な避難場所への避難経路の確認にもなっていたはずです。
 
災害時人々は我先に神社に集ってご加護を求めて祈った事でしょう。
 
それは結果として、災害時の避難行動にもなっていたはずです。
 
神のご加護やご利益の多くは、経験的知識の応用や活用の演出だったのです。
 
つまり、神社の信徒獲得と引き留めに活用や応用されていた経験的知識は、神がいたから非科学的に見えてきただけと言えます。
 
古くからの神社の境内はだてに広かったのではないです。
 
神社は災害時の避難施設として多くの命を救ってきたのです。
 
人々はそれを神のご加護として心から感謝し、その広さの維持を認めてきたのです。
 
今の避難場所確保の苦労は、避難場所としての神社の価値を軽く見てきたつけを払っていると言えなくもない気がするのです。
 
今のご時世、あれだけの土地をあれだけの安全性の高い場所に再び確保するのは不可能に近いでしょう。
 
当時の人々がそのことに気が付けていなかったことは、今思えば実にもったいないのです。

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山岳信仰から見えてくる日本と古代イスラエルの繋がり。

山岳信仰で思うのです。
まず滝は、天と地を繋ぐ光の道にも準えられたのかもしれないのです。
陰陽では水は天を白は霊会をそれぞれ象徴します。
更に白は清さや光の象徴です。
滝に打たれるとは、水と清めの白と霊的な光による世俗の罪状払拭祈願なのでしょう。
神に合うには、絶対的な清さが求められるからです。

山の典型的な形の三角は、陰陽では人を表します。
緑に覆われた山が多いが、緑は常若の象徴なので緑の山は常若の神を表します。
稜線は天からの光の象徴です。
霊的な光に包まれた神に合うには、霊的な光で清められた人でなければならない。
だからこそ、霊峰とされた山は軽々しく登ってはならなかったのです。

光に守られて光に包まれた神に会いに行くのです。
これは、神に認められたモーセが光に守られて神に会いに行く聖書の記述に似ています。
更に、地上に現れた常若の光の神は、地上に来臨した永遠の神の幼子イエスに通じます。
やはり神道は、聖書の教えに似ています。
似ているのは神社と古代イスラエルの神殿もです。

山岳信仰の山伏は装束も鳴らす笛も、ユダヤ人と似ています。
神社は建物ばかりか、神職の衣装も祈りに使うものもユダヤ教とそっくりです。
その日本に、古代中東の遺伝子があり、ユダヤと共通の文化や単語が数多く残るのです。
家族性地中海熱も、日本とユダヤに共通な遺伝病です。
ユダヤ人渡来なんてもんじゃないようです。

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バリアフリーやユニバーサルデザインを考えてみた。

バリアフリーとか、ユニバーサルデザイン、とか聞いたことがある人、皆さんの中にもいるでしょうね。

 

健常者も障碍者も使い勝手がいい事、それがバリアフリーとか、ユニバーサルデザインの目標であり、目的です。

 

私は出来るだけ「障碍者」の表記を使うつもりです。

 

「障害者」表記が、普通に生きたいだけなのに毎日の生活がまるで「障害物競走」と感じている人、と言う意味で使われているなら、それもありでしょう。


でも現実には、障害物扱いしているようで、あるいは、障害物扱いされているようで、違和感や不快感を覚える人たちもいます。

私もそう感じている一人です。

 

常用漢字表から「碍」の字が外されたために、「障害」の字があてられるようになって、様々な違和感を訴える人達がでたが、当然のながれでしょう。

「障碍者」表記を広めようとする動きがあるのは、嬉しいです。

 

障碍者は、自らの心や体に何らかの障害があるために環境に適応しにくくて困っている人ではなく、周囲の配慮が足りないために普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられている人と考えたらどうでしょうか。

 

障碍者に暮らしやすい環境は、実は誰にとっても暮らしやすい環境と言う事になるでしょう。

 

普通に暮らしたいのに障害物競走状態の中での暮らしを強いられていると感じている人がほとんどいない、それが当たり前な環境が、実はバリアフリーな環境なのではないでしょうか。

 

そう発想を転換したら、どうなるでしょう。

 

ホワイトな労働環境の職場とは、障碍者に対して働きやすい配慮のある職場、そうなると思いませんか。

 

障碍者であっても能力を最大限に発揮できる配慮のある職場は、健常者にとっても快適な労働環境の職場ではないでしょうか。

 

人手不足と言うなら、障碍者も働きやすい環境を作って彼らの能力を最大限引き出せるようにした方が良いでしょう。

他社に先駆けた方が、あなたの求める人材が集まりやすくなることでしょう。

 

障碍者とは、周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている人と見れば、乳母車の人も、もたつく高齢者も、ある意味障碍者となるでしょうね。

 

子育てや、介護や看病、これらが元で周囲の配慮が足りないために障害物競走状態での日常生活を強いられている立場になっている人は皆、障碍者的な状態に一時的にせよいると見たらどうでしょう。

 

つまり、障碍者とは特別な人達ではなく、人生のある段階では誰でもなり得る状態なのではないでしょうか。

 

そう考えると、バリアフリーは実は、自分たちのためになる、そう思いませんか。

 

ユニバーサルデザインは、みんなのためになるデザインのことなのです。

でも、無個性、没個性とは違います。

誰もが、使いやすい、使い勝手が良い、そう感じるように工夫する事なのです。

 

その場所や地域の特徴にあった、誰もが使いやすいバリアフリーな施設や設備、システムを考える事がユニバーサルデザインを考える事なのです。

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東京スカイツリーは東京に立つ巨人なのか。

東京スカイツリーは、日光東照宮からの龍脈と鹿島神宮と皇居〔江戸城〕を結ぶ正に接点に立っています。
 
スカイツリーは三角から丸へと絞り込みされています。
つまり上から丸・三角とくるが、陰陽では天‣人・地は丸三角四角で表わされます。
スカイツリーは天‣人・地のシンボルが東京の結界にあるのです。
 
しかも、東京スカイツリーには五重塔に習って心柱があるのです。
スカイツリーが天と地の間に立つ人とすれば、心柱は背骨にあたると言う事です。
 
日光東照宮の標高634mは東京スカイツリーの高さでもあるのです。
日光東照宮から東京に向かう龍脈の上に立つ東京スカイツリーが、東照宮と高さでも繋がるのです。
 
そして東京スカイツリーは鹿島神宮と皇居を結ぶ線上にあるのです。
その形は台地も含めると正に天人地を表す丸三角四角になるのです。
 
これは偶然なのでしょうか。
 
日光東照宮と鹿島神宮と皇居が作る三角、東照宮からの龍脈と鹿島神宮と皇居を結ぶ線が交わる点に東照宮の標高と同じ高さのスカイツリーが、天人地を表す丸三角四のシンボルとして立つのです。
これは象徴的には、実質的にスカイツリーの上に東照宮があるのと同じです。
日光東照宮の真上の太陽は、象徴的には東京スカイツリーの真上の太陽と見て良いのです。
 
言って見れば、東京スカイツリーは太陽の下に立つ巨人が、日光東照宮からの龍脈と鹿島神宮と皇居を結ぶ線の交点の上にいるのと、象徴としては同じなのです。
 
オカルト過ぎるでしょ。
東京スカイツリーどうなっているのですか。
 
日光東照宮の標高634mは、東京スカイツリーの高さでもあるのです。
 
日光東照宮から東京に向かう龍脈の上に立つ東京スカイツリーが東照宮と高さでも繋がります。
 
そして東京スカイツリーは鹿島神宮と皇居を結ぶ線上にあります。
 
その形は、台地も含めると正に陰陽では天人地を表す丸三角四角になるのです。
これは偶然なのでしょうか。
 
鹿島神宮と皇居を結ぶ線の延長線上に、富士山がそびえるのです。
 
鹿島神宮・東京スカイツリー・皇居・富士山のラインが、日光東照宮からの龍脈と交わるのです。
鹿島神宮・東京スカイツリー・皇居・富士山のラインは、太陽の道なのです。
日光東照宮の本殿も、真上に太陽が来る日があるのです。
 
その交点に東照宮の標高と同じ高さのスカイツリーが、天人地を表す丸三角四角のシンボルとして立つのです。
出来過ぎでしょ。

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罪を憎んで人を憎まずが問われる時代。

渋谷のハロウィンが過激を通り越して、ほとんど暴動に近くなってきたことが問題となっています。

 

もちろん、ルールやマナーを守って、ハロウィンを楽しんでいる人達もたくさんいるし、おそらく、その人達の方が多数派でしょう。

 

余りにも暴走してしまった一部の人たちのために、圧倒的多数の参加者がとばっちりを受けてしまうとしたら、気の毒としか言いようがありません。

 

渋谷のハロウィンで傍若無人な行動を起こしていたような人達は、自分がやっていることが悪いとわかっていないと思うのです。

 

どういう事を、どういう場所や場面でやって良いのか悪いのか、まずその判断が出来るような再教育をしてからでないと、いくら罰しても時間と労力のむだでしょう。

 

刑は、とにかく罰すれば良いと言うのではなく、再教育に重点が移ってきたのではないかと思うのです。

 

近年、依存症や疾病など刑の前に治療が必要な場合があると理解が広まってきました。

 

そして現代、刑の前に再教育が必要な人達が増えてきていないでしょうか。

 

或いは、刑即ち再教育にするべきか、悩ましい事ではあります。

 

私が懸念するのは、犯罪に対する苛立ちから厳罰化を望む動きが強まる事です。

 

刑の目的が再犯防止であり、その手段として再教育の重要性と有効性が確かめられつつあるように思えます。

 

再教育と人道的な扱いと、厳罰を求める世間との意識の落差をどう縮めていくのかいけるのか、要注目でしょう。

 

刑が再教育の性格を強めれば強めるほど、社会復帰支援プログラムの充実も必要となります。

 

それには、地域住民の理解と協力が必要であるとともに、受刑者の再教育に取り組む施設と地域の取り組みへの社会全体の理解も不可欠でしょう。

 

罪を憎んで人を憎まず、この立場に私達がどれだけ立てるかも問われるでしょう。

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