思想

日本の預言者はどこに。

日本神話では、国生みに携わる二柱の神の名は「イザナギ」「イザナミ」とされます。

この「ナギ」「ナミ」とは、サンスクリット語の蛇を指す「ナーガ」に由来するのではないかとの説を聞いた覚えがあります。

ナーガは神聖視されたコブラを意味し、蛇の下半身に人間の上半身を持った神として崇拝されたそうです。

イザナギとイザナミがもしも人の上半身に蛇の下半身の神だったとすると、面白い連想が出来ます。

コンパスを持つ女媧(ジョカ)と定規を持つ伏羲(フクギ)です。

そしてコンパスと定規こそは、石工のシンボルです。

石工とは単なる工人ではなく、治山治水の担い手でもあります。

イザナギとイザナミとは、治山治水によって国造りの礎を築いた工人集団の長だったのでしょうか。

神仙思想に詳しい腕の立つ石工とは、メーソンを指します。

陰陽では蛇や風など長いものは、声の象徴です。

イザナギとイザナミは、神の声を地上に降ろす役を持つメーソンの長だったのかもしれません。

そうなると気になるのは、随神(カンナガラ)と言う言葉です。

この随(ナガラ)の「ナガ」は、神の御言葉の象徴としての蛇を指すのかもしれません。

随神(カンナガラ)とは神に随うと言う意味ですが、それには神に導かれる必要があるはずです。

そう言えば神社には、しばしば白蛇が神の使いとされています。

この蛇は、神の御言葉の象徴です。

神道は折に触れて、神託を乞います。

この神からの導きのメッセージを常に受け、人々に伝わるのは預言者です。

となれば、日本には預言者が存在するはずです。

だったら、もっと日本は良くなっていてもおかしくないでしょう。

その疑問に応えてくれるイエスの言葉が、聖書に収められています。

マタイによる福音書 23章 37節
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
エルサレムを日本と言い換えれば、身につまされるのではないでしょうか。
預言者を殺さないまでも、彼らの言葉にどれだけ耳を傾けてきたでしょう。
そもそも預言者を預言者として、認めて受け入れようとしてきたでしょうか。
では、その預言者はどこにいるのでしょう。
わからない時はどうしたらいいのかの答えも、聖書にはあります。
ヤコブの手紙 1章 5節
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
あなたはどう思いますか。

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やはり重力波は引力と斥力から出来ている?!

私達は何気なく床や地面に立っているが、素粒子の目から見たら驚くべき事が起きていると言います。

素粒子レベルで見れば、地面も床も私達の体も、隙間だらけのスカスカなのだそうです。

怖いですよね。

どうして、私達の体は地面や床に落ちていかないのでしょう。

詳しい話は省くが、要するに素粒子の間で働いている作用のおかげだそうです。

最新科学は、原子は電子と原子核から出来ていると明らかにしました。

ところが電子が原子核の周りをまわると、電磁波を放ってあっという間に原子核に落ちていくそうです。

怖いですよね。

そこで、電子は決まった軌道で原子核の周りを回っているとして一件落着しました。

実際には、電子の軌道は原子核の周りを取り巻く雲や霧のようになっているそうです。

アインシュタインは、重力を取り込んだ一般相対性理論を作りました。

それで宇宙を動かしてみたら、引力が働いてあっという間に宇宙は潰れてしまいました。

怖いですよね。

そこで、アインシュタインは苦し紛れに宇宙定数を導入しました。

すると宇宙は膨張しているらしいと言う情報がやってきて、アインシュタインは宇宙定数を投げ捨ててしまうのです。

ところがいま、物理学者達は量子力学と相対性理論の統一で悩んでいます。

素粒子レベルではスカスカな私達の体が、素粒子レベルではスカスカな地面や床に立てるのは素粒子の間で働いている作用のおかげです。

電子が安心して原子核の周りにいられるのは、決まった軌道のおかげです。

だったら、宇宙が引力であっという間に潰れないのは宇宙定数のおかげと言っちゃまずいのですか。

電磁波と重力波は、よく似た式で書けるそうです。

電磁波は電場と磁場、だったら、重力波は引力と斥力でいいじゃないですか。

電気はプラスとマイナス、磁気はNとS、スピンは上向きと下向き、物質は粒子と反粒子、それならば重力波は引力と斥力でいいじゃないですか。

電磁波は電場が動くと磁場が、磁場が動くと電場が、生まれます。

なら、重力波も似たようなメカニズムがあるはずです。

素直に見れば、物質が空間を押していると考えるのが自然なはず。

重力波は斥力が動けば引力が、引力が動けば斥力が、生まれると見ればどうでしょうか。

そうすると、案外すんなりと量子力学と相対性理論は結び付けられるのではないでしょうか。

どんな式になるか、やってみてくださいな。

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平等と公平や公正はどういう関係か。

平等=同じ、この解釈自体は正しいですよね。

確かに、条件は揃えないといけないですからね。

でもみんな、ここで思考が止まっているのではないでしょうか。

問題は、何のために条件を揃えるのかではないでしょうか。

公平や公正の実現のためではないでしょうか。

不平等=不公平=不公正は、避けたいですよね。

だったら、公平や公正=平等じゃないのですか。

違うでしょうか。

公平や公正は、間違った平等感から見ればえこひいきに見えかねないですよね。

公正や公正の実現のためには、ハンディキャップへの理解を広げる必要があるのです。

ハンディキャップとは、条件を揃えるための配慮なのです。

条件を揃える=平等を実現するための配慮が、公平や公正なのです。

ここが意外と理解されていないのでは、ないでしょうか。

視力の低い子をみんなと同じ条件で席替えした結果、一番後ろの席になったとして、それは平等でしょうか。

平等を隠れ蓑にした、事実上のいじめではないでしょうか。

視力の低い子がみんなと同じように見えることが平等なら、最前列にすることが公平であり平等ではないでしょうか。

違うでしょうか。

平等か公平かどちらが大事か聞くのは、ナンセンスではないでしょうか。

実力差がある者同士が何の配慮もなく対戦すれば、結果は見るまでもないでしょうね。

ハンディキャップを認めるのは、お互いが平等に楽しめるためですよね。

ハンディキャップ=公平は、お互いが平等に楽しめるための配慮ですよね。

この対戦を公式記録とするかは、また別の問題でしょうけど。

平等と公平、果たしてどちらかを重視するかの選択でしょうか。

常に、みんなを同じように扱うこと=平等なのでしょうか。

条件を揃えることが平等とみれば、個々人それぞれに細やかな配慮をしないと条件は揃わないではないでしょうか。

平等実現のための細やかな配慮=公平であるなら、平等と公平は両立する。

どうでしょうか。

違いますか。

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進化論者と創造論者の違いとは何か。

進化論者とは、答えに詰まると時間にすがる人達の事ではないでしょうか。

進化論者は創造論者に向かって、何かというと神を持ち出すと揶揄したがるが、そういう自分は何かというと時間を持ち出すのではないでしょうか。

つまり進化論者とは、時間神の信者の事を言うのではないでしょうか。

違うでしょうか。

聖書には「疲れた人は私のところに来なさい、あなた方を休ませてあげよう。私のくびきを負うて私にならいなさい」とあるが、進化論者にそのありがたいお言葉をくださる神様が時間神なのではないでしょうか。

私には、そうとしか見えないのですけどね。

進化論者とは詰まるところ、時間神がすべてを創造したもうた絶対神なのだと主張する創造論者の別派に過ぎないのではないでしょうか。

要所要所に時間を持ち出すと進化論者、要所要所に神を持ち出すと創造論者、と言う事は時間が進化論者にとっての唯一絶対神なのではないでしょうか。

進化論者は面倒くさいと全然時間のせいにして安堵するが、創造論者は面倒くさいと神に救いを求めて安堵する、私にはそう見えます。

進化論者にとって時間とは停止した思考のゴミ箱みたいなもの、創造論者にとって神とは人生の先導者みたいなもの、私はそう感じます。

時間は、進化論者にとって面倒くさい問題を引き受けて肩の荷を軽くしてくれる救い主、創造論者にとって主の再臨に備えるために無駄にできない存在。

「凄いな」と思うと、「誰がこんなもん作ったのか」と首を傾げる人は多いのではないでしょうか。

その疑問を、全ての存在に感じて答えを探そうとすると創造論者になるが、明らかに自然物と思える存在は除外して答えを探そうとすると進化論者になる。

「凄いな」と思うと「誰がこんなもん作ったのか」と首をかしげる、その疑問の首尾一貫しているのが創造論者、その反対が進化論者。

そう見たら、違うでしょうか。

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大義を民の声として掲げてこそ希望の光は見える。

出エジプト記は、神の声を伝えたモーセとアロンに対して頑なであったファラオのためにエジプトが被った禍の数々を記しています。

民の声は天の声神の声と置き換え、頑な為政者を頑なファラオと置き換えるなら、この教訓は今も通じるはずです。

民の声に対して頑な為政者は、民に禍をもたらします。

出エジプト記の紅海の奇跡は大義による結束によって救われた民の奇跡と、愚かで頑な為政者に従った民の悲劇の記録でもあります。

奴隷の苦しみより自由のために戦って死ぬ方がましという決意は、私達を結果として救いに導くのです。

高く掲げられた大義は、私達の希望の光であり道なのです。

大義の旗を高く掲げ、大義の旗を見失わず勇敢に前進するものだけが、勝利の光を見るのです。

真理や真実や大義そのものは見えないが、それを証言した現象や記録は見ることができます。

そして、それらを目に見えるものにすることができるのは、それらを実行したものだけなのです。

そして、それらを受け入れたものにとってそれらは現実となるのです。

大義を掲げる時、その大義は誰のためなのか何のためなのか、常に問われます。

私達は大義を掲げるなら、その答えもまた掲げなければならないのです。

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神社とアテン神とイエスと…。

日本の神社の原型は、山をご神体とした拝殿とされています。

この構図は確かに吉村作治教授指摘の通り、ピラミッドコンプレックスとよく似ています。

古代エジプトでは、ピラミッドが時代を下って本殿となり偶像崇拝が入り込みました。

日本の神社は、古代エジプトが陥った偶像崇拝を排して原点回帰をしたと言えます。

ピラミッドは、天への階であるとともに天から降り注ぐ光の象徴でもあるのです。

日本の神社にある鏡は、その天から降り注ぐ光の代替品なのです。

神社でなぜ拝殿と本殿の間に階があるか、それは、神社の原型がピラミッドコンプレックスであることを忘れないためです。

 だからこそ階で拝殿と本殿を繋ぎ、本殿に鏡を置いたわけですね。

本殿の正体は、ピラミッドコンプレックスのピラミッドにあると言って良いでしょう。

その証拠に、日本の神話大系は古代エジプトとうり二つの、太陽神を中心とした動物を含む八百万の神々を祀っているのです。

 しかも、古代エジプトと同様に三神構造で祀っている事も似ていますね。

太陽神が女神なのは、女帝合理化のためのすり替えの結果と指摘されています。

しかし、鏡は天から降り注ぐ光の代替品にとどまりません。

なぜ丸でないとならないのか、と言う疑問が残ります。

実は太陽神は、太陽円盤をその象徴としています。

 鏡は太陽円盤をも、表しているのですね。

階は太陽が放つ光の象徴でもあると、指摘しました。

太陽円盤と太陽が放つ光の象徴を、一つに描いた神が存在します。

アテン神です。

神社は、アテンの神殿であることを見せながら隠し、隠しながら見せています。

その証拠に、天皇家の象徴である十六弁菊花紋をあげましょう。

十六弁菊花紋は、古代中東の太陽神紋がその正体なのです。

そしてその太陽神紋は、放射線に囲まれた太陽円盤として描かれています。

アテン神の放つ光は、しばしば神の伸ばした手の姿で描かれています。

それに対して、太陽神紋は放射線です。

だが、注意してください。

アテン神が伸ばしているその手が表しているのは、太陽円盤から降り注ぐ光でもあるのです。

 古代中東の太陽神紋の正体は、アテン神だったということですね。

そのアテン神を、天皇家は象徴としています。

そして天皇家は、日本の神道の最高祭司です。

神社の鏡と階は、当然、アテン神に対応するとみる方が自然なのです。

ピラミッドは、日本の神道では山で代替されたが、山の神は女性とされています。

 なぜでしょうか。

山、そして、ピラミッドは母体の象徴だからです。

神社の姿は母体を表していて、鳥居は足に当たります。

 だから、古い神社の鳥居は二本の柱だけが立っていた。

参道は産道でもあるのです。

茅の輪くぐりは、生まれなおしの儀式なのです。

 でも、新しい神社の鳥居は違いますね。

 古代イスラエルの門に、似ていると言う指摘もあります。

鳥居と言うのは、アラム語で門を意味するとも、言われていますね。

でも、他にも似ているのがあります。

ヘブル文字には、一文字で神を表すものがあります。

一つは勾玉に似ている「ヨッド」、そして、もう一つが「へー」です。

ヘブル文字の「へー」には、鳥居そっくりな書き方があるのです。

「へー」はヤハウェを表す「ヨッド・へー・ヴェブ・へー」の一文字です。

そして、ヤハウェとは、旧約聖書時代のイエスなのです。

 そうなると神社の鳥居は、イエスを表す事になるのですね。

イエスは、私によらないでは神の国へ入れないと語っています。

鳥居は、赤いものが多いですよね。

 白や、まれに黒もあるけど、大抵の場合そうです。

白や黒も、陰陽では霊界の象徴とされる色なので問題ないですけどね。

 赤は、陰陽では地でもあるが、火でもある。

イエスは、火と聖霊で人を清めると言われています。

アテン神と、イエスは、どういう関係なのでしょう。

 アテン神信仰と聖書の教えは、似ていると聞きましたけど。

さらに、調べて見た方が良さそうですね。

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独裁者は無意識の行動が呼び寄せる。

マタイによる福音書7章7節には、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」とあるが、これはある意味恐ろしい聖句でもあるのです。

なぜから聖書には、神は求める前から何を求めているかご存知だともあるからです。(マタイによる福音書 6章 8節)

つまりたとえ声に出していなくても、無意識のうちにこれを求めていると神に思われてしまえば神はそれを渡してくるという事でもあるのです。

最悪の場合、結果として独裁者を求めている事になる行動を続けていれば、独裁者が現実にやってきてしまうのです。

民主主義は本気で守らないと、簡単に失われてしまうのです。

誰かがやってくれるだろうではなく、私が守らないと民主主義は永遠に失われるくらいの危機感を持って、みんなが民主主義を守らないと、独裁者は明日にでもやって来るのです。

あなたの味方ですと言う顔をしてやってくるが、丸投げしてしまえば独り善がりで行動をはじめしまい、ついには独裁者になるのです。 

民主主義や、命や、暮らしや、平和など、今すでに行動を起こしている人に向かって「頑張ってください」と声をかける人は多いです。

けれども「頑張りましょう」と連帯の声をかける人は、いくらもいないのです。

行動の仕方は、人の数だけあるのです。

思うだけ、忘れないだけでも、行動なのです。

覚えていて欲しいのです。

行動と言うと、体を動かして何かをする事と人はとかく思いがちです。

体が動けば行動ではない、それは作業です。

行動とは、心が動くことなのです。

例え寝たきりでも、何かを思い、何かを考えていれば、それは立派に行動なのです。

作業は心の行動を形にする手段だが、手段でしかないのです。

機械でも出来るからなのです。

なぜ人は何か作業をしないと、行動と思わないのでしょうか。

心の中は見えないが、作業の結果は見えるからなのです。

だが作業は、いつでもできるわけでも、していいわけでもないのです。

それが可能な場があって、はじめて実行できるのだと、理解した方がいいのです。

大事なものはいつでも見えているとは、限らないのです。

行動の自由を保障するとは、心の自由を保障する事です。

人は思いとは違う作業をさせることはできるかもしれないが、心の自由まで奪う事はできないし、それは絶対してはいけないのです。

独裁者が許されないのは、意に沿わない作業をさせるからでもあるが、それ以上に心の自由を奪うからなのです。

忘れないでいたいものです。

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人はモノじゃない。

行動・行為・作業、違いは何でしょう。

行動は作業と言う行為を通じて、はじめて行動となるのですよ。

つまり心が動いた段階で行動であり、作業はそれを形にする行為に過ぎないのですね。

誰かに唯々諾々と随うだけなんて、行動じゃなくて作業なのですよ。

作業なら機械にでもできるのです。

心の動きを形にしてこそ、人間なのです。

非常事態だから誰かに従えなんて、バカも休み休み言って欲しいものです。

非常事態だからこそ、何が必要か、何が足りないか、伝えるべきなのですよ。

だから人は、心の動きを形にしてこそ行動だと思うようになったのです。

そこに気づいてくださいって、言いたいですね。

赤ちゃんだって、何かして欲しければ行動でそれを伝えるのですから。

黙ってろって、人はものですか。

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神と悪魔の違いは何か。

あなたは神を信ずるかと聞かれたら、神の存在は否定できないと答えます。

私は徹頭徹尾、科学的に考えたいと思っています。

そのあなたが神の存在を否定できないのかと聞かれたら、その通りと答えます。

自分自身で体を張って、試したからです。

私は、家族の生活が自分が倒れたらその瞬間にその全てが止まる、その重圧に精神的に押しつぶされそうになる事が何度もあります。

両親は年老いたうえに一人は障害者、家計は両親の築いてくれた基盤に支えられていたけれど、日々の生活を実質的に回していたのは私でした。

精神的な重圧から私を救い支えてくれたのは、見えない力です。

その見えない力の主は、優しさで私を包んで受け止めてくれたのです。

この支えなくして、私は耐え切れなかったでしょう。

もっと直接的には、神と悪魔の違いを知ろうと苦闘していた時です。

何度となく強い力が私をとらえ、その探求を諦めさせようとしたのです。

ある時も、突然強い力が私に襲い掛かりました。

その力から逃れたい解き放たれたいと心から願い疲れて途方に暮れた時、あっという間に解放されたのです。

そして、いたわるような優しさが私を包んだのです。

私を、精神的重圧に耐えられるように支え、束縛した力から解き放ったのは、どちらも優しい包み込むような力です。

思い返せば子供のころ、私を閉じ込めようとする闇の力と守ってくれる光の力の両方の存在を感じ取っていたのです。

閉じ込めようとする闇の力の主が悪魔、優しく包み込み守ろうとする光の力の主が神であったと、私は自分の体験から断言します。

自分で確かめようともしないで頭ごなしに否定しようとする議論に、私はくみしません。

プディングの味は食べてみなければわからない、まさにその通りだからです。

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私達は神の命令から逃げられない。

マルクスとエンゲルスは、社会主義を低次と高次にわけてそれぞれこう位置付けました。

社会主義の低次の段階では能力に応じて働き、働きに応じて受け取る。

福祉や教育や医療は収入に関係なく、当人や家族の必要なだけ受けられる。

社会主義の高次の段階では能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。

もちろん、福祉や教育や医療は誰もが必要に応じて、そして、必要なだけ受けられる。

これはマルクスやエンゲルスが言い出しっぺではなく、聖書で神が命じている事なのです。

マルクスやエンゲルスのやった事は、聖書で神が命じた収入の低さで困る人が出ないよう惜しみなく助けろという命令からあれこれ理由をつけて逃げ回ってきた社会に実現可能だからやれと突き付けた事と言えるでしょう。

二人の著書は「空想から科学へ」と日本語では訳されるが、「理想主義から現実主義へ」と訳す方が、内容に合っています。

理想主義として社会主義思想を展開した人たちは何人もいるが、理想論の段階にとどまっていた限界もありました。

マルクスとエンゲルスは、それらの主張が理想論ではなく実現可能だと理論と科学によって示したと言えます。

マルクスやエンゲルスの思想を聖書の焼き直しと言う人もいるが、ならなぜ、資本主義はマルクスの呪いから逃げられないのでしょう。

福祉社会をどう実現するかの課題が突きつけられこの課題から逃れられない事自体、人間は神の命令から逃げられない事の証ではないのでしょうか。

どうでしょうか。

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