思想

上に立とうとするならどうある方が良いでしょう。

やはり、上に立とうと言う人は、優しさでも、素直さでも、ぶれてないですよね。
凄いなって人ほど、素直だし、謙虚だし、優しいですよね。
人を馬鹿にしたり、見下したりすることはないですよ。
からかうくらいはご愛敬ですよね。
孤独だからこそ、安らぎが欲しいから、周囲を和ませたいんでしょうね。

でないと、疲れるでしょうから。

逆に言えば、優しさでも、素直さでも、ぶれる人は上に立っちゃ駄目だし立たせちゃ駄目となるでしょう。

間違えて立たせたら、本人も周囲も不幸ではないでしょうか。

人を馬鹿にしたり、見下したりすることと、からかうことの区別もつかない人は駄目でしょうね。

そういう人は、イエスマンや友人知人に囲まれないと、居心地が悪くなるでしょうね。

寂しい人ですよね。

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言わなくて済むものなら人を馬鹿と言わない方が良いかも。

マタイによる福音書 7章 1~2節
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
 
この聖句見るたびに、「馬鹿と言う方が馬鹿」と言う俗語を思い出すのです。
「こいつ馬鹿だな」と思ったら、「馬鹿」とは言わないでしょ。
だって、馬鹿を相手に言い合いしたってしょうがないでしょ。
しょうがないのに、「馬鹿」と口に出してしまうのが馬鹿だと思えるのです。
 
馬鹿な人たちとは、まともに論議はできないのですから。
馬鹿だと思ったら、もう相手にしない事が賢いってことなのかもしれません。
 
なるほどその通りですね。
 
つまり、人を見下し上から目線で馬鹿呼ばわりしながら絡んでくる人に対しては、無視して相手にしない方が賢い対応ってことかもしれません。
 
相手にするだけ、時間と労力の無駄でしょうね。
 
何言っても、自分の考えに凝り固まって見下して罵詈雑言返してくるだけなのは目に見えてますからね。
 
この手の人たちのようにならないために、聖書にはこれらの聖句があるのでしょうか。
 
ヤコブの手紙 4章 11節
兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。
 
ルカによる福音書 6章 37節
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
 
ルカによる福音書 6章 41~42節
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。

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とりとめのない話でしょうか。

ふと、思ったのです。
日本では、最後の締めを「とり」といいます。
最後とは、最高や頂点と言う意味も込められています。
そして、神輿の上には鳳凰と言う鳥がまさしく「とり」を務める構図です。
これが偶然なはずがないです。
神輿は移動神社であり、神社のとりは「鳥」が務めて「取り仕切る」構図であると言ってるようなものです。
日本は神仏混交だが、飛鳥時代はまさに過渡期だったはず。
飛鳥時代の仏像の裏のメッセージは、「日本の仏教は鳥が取り仕切る」であると言わんばかりに、見事なまでに鳥です。
外見に惑わされちゃダメというわけなのです。
飛鳥時代の仏像のシルエットは、まさに鳥そのものです。
私は気が付いた時、愕然としました。
もはや、飛鳥時代の仏像が全て、鳥にしか見えなくなったからなのです。
残念ながらほとんどの人が、飛鳥時代の仏像の裏モチーフの鳥であることに気が付いていないのです。
神職の衣の裾に房があるが、そのわけはほとんどの人が説明できないでしょう。
もしかしたら、神職の衣のモチーフは「鳥」かもしれません。
そして、神職の持つのは榊だが、仮に神職の真の姿が鳥なら、携えるべきはオリーブでしょう。
神社の裏モチーフは古代エジプトの太陽の船かも知れません。
だから鳥居があるのでしょう。

神社の裏モチーフは古代エジプトの太陽の船だとしても、神社には神輿があります。
神輿の正体がアークと言う指摘があります。
アークは方舟もさしますが、神職の真の姿がオリーブを携えた鳥だとしたら、神社の真の姿はアークとなってしまいます。
日本にはアークがあると、神社の姿は白状しまくりの構図と言う事なのです
日本には古代イスラエルの遺伝があることがわかっています。
その日本の神社の正体が、オリーブを携えた鳥が乗ったアークだとしたら、どうなるでしょう。
後は、聖書の預言を紐解いていくしかないでしょうね。
日本人こそ、聖書を読むべきなのです。
果たして、これは単なる白昼夢のようなものなのか、それとも真実なのでしょうか。
答えは、神様がご存知なのかもしれません。
 

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目覚めた市民が命を与えない民主主義は無力な偶像に堕落する。

本気でこの国の主人公として目覚めた市民がいったいどれだけいるのか、今、冗談抜きで問われているのではないでしょうか。

 

違いますか。

 

民主主義では市民が主人公、政党はそのための道具に過ぎない、そう思いませんか。

 

主人公は国民であり政党はそのための道具に過ぎないことを忘れてしまった政党は、使い物にならないからさっさと捨てようではありませんか。

 

市民が主人公、この自覚が私たちの側にあるのでしょうか。

今、私たち市民もまた問われているのでないでしょうか。

思い出して欲しいのです。

私たち市民こそこの国の主人公なのだ、私たちにその自覚と覚悟が、今、あるでしょうか。

 

市民が主人公、そう思っている人は、野党にドンドン思いをぶつけようではありませんか。

 

与党は国民こそが主人公であることを忘れ、高慢になっていないでしょうか。

 

突き付けようではありませんか。

「誰がこの国の主人公なのか」と言う、民主主義にとって最も基本的な、この問いかけを、です。

 

民主主義である以上、私たち市民が主人公なのです。

 

野党は国に市民の声を突き付けるための道具、市民はこの基本を忘れないことが何よりも大事です。

 

使い物にならない道具は市民から捨てられてしまうと、詰め寄ろうではありませんか。

「国民が主人公だ」この大原則を忘れた瞬間、民主主義は無力な偶像に堕落します。

民主主義に命を与えられるのは私たち市民であることを、忘れてはならないのです。

 

「野党は本気で政権取りたいのかという国民の批判や疑問に答える意思を具体的な行動で示して欲しい」そう思える時、実は腰砕けになっているのは、市民の方の覚悟なのです。

 

「共闘による政権交代でどういう政策や選挙共闘を実行するか協議している姿を、はっきりと示して欲しい」、野党に一番問われているのはこれだと市民の側が本気で思うなら、市民の側こそ、本気で思いを突き付けようではありませんか。

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「意を体する」と「忖度」の違いと関係を考えてみた。

 

「忖度」とかけて「包丁」と解きます。

 

その心は。

 

どちらも、用いる人は人に対する思いやりの心が求められます。

 

使いようによっては、人が死ぬことがわかってない人は、使わないで欲しいものです。

 

「忖度」それ自体は悪ではないのです。

 

むしろ、いちいち指示を受けて行動しなければいけない事態を避けるために組織にとって必要がある事柄でさえあるのです。

 

「忖度」を国政私物化や証拠隠滅に悪用した疑惑がもたれたことが、森加計問題の根幹ではないでしょうか。

 

私物化の結果、便宜が図られたばかりか、事実関係の隠蔽や改竄までもが、忖度の結果行われた疑惑が持たれているのです。

 

さらには、隠蔽や改竄をなかったことにするためなら、口封じのために自殺に追いやられた人さえもいるのではないかとの疑いさえも持たれてしまう始末なのではないでしょうか。

 

もちろん、こんな事はあってはならないし、あって欲しくないです。

 

ここで問題にされるべきは、安倍首相の国政私物化の意図がどれだけ「忖度」されているか、と言う事なのです。

 

だからこそ、徹底的に調べ上げ国政私物化の実態の真相究明する必要があるのです。

 

森友学園や加計学園に対する国政私物化による便宜供与疑惑の問題で安倍首相を庇う人が「忖度のどこが悪い」と言うのはある意味では正論でしょう。

 

忖度の悪用を、忖度自体が悪と勘違いして批判や攻撃をしてはいけないのです。

 

問題は忖度された中身であって、忖度自体ではないからです。

 

混同に注意したいものだと、自戒の気持ちを込めてこの問題を考え直してみたいと思い今回の議論となりました。

 

「意を体する」人の考えや気持ちを理解し、それに従うこと。

 

「忖度」他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。

 

つまり、「意を体する」とは相手の意図の範囲内に収まるように努めるが、「忖度」とは相手の意図の外に出る可能性がある言動を「意を体した」と解釈してすることとなるでしょう。

 

言い換えれば、指示の「意を体する」行為をしたつもりがおしはかって相手に配慮するあまりに指示の範囲を逸脱した場合、その行為を合法化する方便に使われる危険性があるのが「忖度」となるのかもしれないです。

 

つまり、「忖度」は結果オーライなので、それだけ信頼関係が重要となる行為と言えるでしょう。 

 

ここで誤解してはいけない事は、「忖度」自体は決して悪くないのです。

 

むしろ、組織が円滑に動くために必要でさえあるのです。

 

「忖度」とは、「意を体する」行為をより柔軟に臨機応変に行うことと思えば良いでしょう。

 

民主主義をちゃんとわかった人が上に立てば、「忖度」はとても気の利いた行為になるでしょう。

 

独裁者が「忖度」を悪用すると、責任転嫁とトカゲのしっぽ切りに晒されるリスクと隣り合わせの状態の中行動させられる悪夢となるでしょう。

 

それだけに、上に立つ者は忖度されるに値する言動になっているかどうか常日頃気をつける必要があるのです。

 

忖度を悪用してはならないのです。

 

それが上に立つものが心得ておくべきことではないでしょうか。

 

違うでしょうか。

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自己責任の言葉に怯む前に。

自己責任と思っていたものが実は、そうじゃなかったなんてこともあり得るのです。

障害の内容によっては、あなたのせいよりも環境に原因があることもあり得るのです。

どうしてそうなのか、一度冷静に振り返ってみることをお勧めしたいです。

少しでも、環境に原因がありそうなら、声を上げた方が良いでしょうね。

案外そのことで、心苦しく思っている人も周囲にいるかもしれないからです。

率直に悩みを打ち明けた方が良い場合もあるということです。

自己責任と言われても、怯まないことです。

「何でもかんでもひとのせいにするな、自分で解決できるものだってあるだろ」そう言われたと謙虚に反省するチャンスを与えてもらえたと思うことです。

何でもかんでも敵対するのではなく、相談にのってもらって味方してもらえるところはしてもらう方が良いかもしれません。

「自己責任」の言葉で怯んでいる人に、聞いて欲しいのです。

本当に全部が自己責任なのでしょうか。

少しでも環境に原因があるとわかった場合は、周囲に声をかけてみた方が良いかもしれません。

あるいは、見つけ方がわからないなんて場合も、周囲に相談してみると道が開ける場合もありではないでしょうか。

自分でなんとか解決できるものならと、悩んでないで、一人で抱え込んでいないでいる方が良いかもしれません。

国でも地方でも、あるいは様々な団体でも、「自己責任」とか言う前に自分たちに何かできることはないか考えて欲しいのです。

行政など環境に大きな影響を与える事ができるところは、その持っている力で何とか出来る障害を一つでも多く現場の声をきめ細かく聞いて取り除く対策何とかして欲しいものです。

問題解決したくても諸事情によりできないと思っている人たち一人一人も、一人で悩んでいないで自分の抱えている障害のうちで、これは自分だけでは解決は無理と思えることは積極的に声を上げた方が良いですよ。

変わらないとあきらめないで、声を上げ続ければいつかは変わるはずです。

これは、しょっちゅう、くじけそうになったり、怠けそうになったりする私自身も反省しなければならない事でもあるのです。

マタイによる福音書 24章 13節
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

ルカによる福音書 22章 28節
あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。

コリント人への第一の手紙 1章 8節
主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。

ヘブル人への手紙 6章 11~12節
わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、
怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。
追記
この記事は自己責任を別の側面から見た以前のものです。
改めてこの問題の奥深さを感じます。
弱さを強さに変えるには自己責任論はかえって邪魔になる。 http://bit.ly/21pCj2y
自助努力ってなに? http://bit.ly/2iKrMON

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癌になりにくい生活ってどんなだろう。

皆さんの中には、身近な人を癌で失った経験を持っている方もあるでしょう。

私もまた、父を食道と胃の接合部の癌の切除手術後の縫合がうまくいかずに亡くしました。

呑み込みが少しでもうまくいかないと、自分にも来たかと不安がよぎります。

だから一時的だったと知ると、心底ほっとします。

 

癌治療と言えば、手術や抗がん剤や放射線が思い浮かぶでしょう。

 

そんな中、衝撃的だったのは免疫療法の手段としての丸山ワクチンの存在と、その後このワクチンがまるではれ物に触るかのようにタブー視される展開になったことです。

 

だが、近年再び免疫療法が注目を集めるようになっています。

 

人間の体は、約60兆個の細胞からできています。

毎日、細胞が入れ替わる中で、5000個前後のがん細胞が、健康な人でもできていると言われます。

 

正常な細胞は、体や周囲の状態に応じてふえたり、ふえることをやめたりします。

ふえることをやめるだけでなく、ふえた細胞が脱落することもあります。

例えば、胎児のある時期に、いったん指の間に水かきのような部分ができます。

だがこの水かきは、しばらくすると脱落します。

皮膚や腸管の細胞は、古くなった表面の細胞から脱落して、徐々に新しい細胞に入れ替わるように調節されています。

この一連の仕組みは、遺伝子によって制御されています。

水かきが脱落するのは、遺伝子がそれを指示するからと見られています。

細胞がふえたり、ふえるのをやめたり、成熟して分化する、脱落するという仕組みは、遺伝子に変化が起こることによって調節できなくなります。

その結果、異常な細胞がふえ続けたり、脱落しなくなったりします。

 

このできそこないのがん細胞を日々監視しやっつけてくれるのが、リンパ球をはじめとした免疫細胞です。

この免疫に注目するのが、癌免疫療法です。

 

癌が発症してしまうのは免疫力が落ちたからだから、元気にして癌とたたかえるように力づけようと言うわけです。

免疫細胞を増やし、体内の免疫力を強化することにより、癌に確実な攻撃を仕掛けてバランスを取り戻す「癌に勝つ」療法が免疫療法(免疫細胞療法)なのです。

 

一言で免疫細胞療法といっても内容は千差万別です。ナチュラル・キラー細胞(NK細胞)を分離・培養して戻す方法、T細胞を分離・培養して戻す方法、樹状細胞を分離・培養して戻す方法などがあります。 もちろん、方法が異なれば作用等も変わってきます。

 

中でも期待されているのが、NK細胞です。

T細胞や樹状細胞では、抗原抗体反応があるうえ、即効性や柔軟性に欠けるのです。

抗原抗体反応とは過去に異常細胞と認識したものにしか攻撃を仕掛けないことで、これが必要なT細胞や樹状細胞は即効性や柔軟性に欠けるのです。

NK細胞は、抗体抗原反応を待つことなくそのために柔軟性と攻撃性、即効性が高いのです。

患者自身のNK細胞を活用できれば、異物として拒絶反応が起きる心配もないわけです。

 

免疫療法は治療の主役となるだけの力があるかと疑問を持たれているため、三大療法の補完とみなされてきました。

 

だが、ここへきて免疫療法が主役になり得ると主張する人たちが出て来ました。

 

NK細胞やT細胞や樹状細胞と言う免疫を担当している細胞のチーム力全体を効果的に動員できれば、免疫量は癌治療の主役になり得ると言うのです。

 

中でも心の持ち方に注目が集まっているのです。

笑う門には福来るとは昔から言うが、癌療法としても笑いの効用は馬鹿にできないと言います。

心の底から笑えば笑うほど、免疫も活性化すると言う実証試験の結果もあるそうです。

 

もっと過激と思えるのは、思考方法を変えれば癌でさえ大半の人は治せると言う主張です。

言葉と脳の使い方(思考パターン)を変えることでストレスの発生原因を断ち、実際に病気を改善させる取り組みを行なっているのがメンタルトレーナーの梯谷幸司氏です。

https://nikkan-spa.jp/1380608

 

梯谷氏のセミナーはつねに定員オーバーになるほどの盛況ぶりで、クライアントには各界の著名人も多いといいます。

セミナー参加者や顧客の中には医療関係者も多く、特に「言葉と心理技術で病気をやめさせる」プログラムの参加者の半数以上が医師、看護師、薬剤師で、標準医療と並行し梯谷氏のメソッドを導入している医院も少なくなく、中には、ステージ2から3の癌が消失した例も報告されたというのです。

 

癌以外でも消えた症例は、糖尿病、脳腫瘍、動脈瘤、腎臓結石、甲状腺障害などからうつ、パニック障害といった心因性のものまで実に30以上と言うから驚きです。

 

「病気も健康も、自分が選んだ脳の動かし方の結果に過ぎない。どのような言葉を使うと脳がどう反応し、結果として身体にどんな指示が出されるのかまでを考えていかなければならないんです」(梯谷氏)

 

そう言えば、友人から聞いた例の中には、癌を「治りました。ありがとうございます。」と心の底から感謝して喜び続け楽しいことをひたすら思い続けて克服した人の話がありました。

普通なら早く進行するであろう、まだ若い30代の女性だそうです。

 

思考回路を変えるだけでなく、体を冷やさないことが大事と言う主張もあります。

いま話題の歯科系ヒット本に小峰一雄院長(歯学博士・小峰歯科医院理事長)『名医は虫歯を削らない――虫歯も歯周病も「自然治癒力」で治す方法』(竹書房)があります。http://healthpress.jp/2016/12/post-2725.html

本書に興味深い記述があります。

「がん患者と歯周病患者に共通する5つの特徴」はこの5つだと言うのです。

糖質を好む、低体温である、交感神経がつねに優位にある、呼吸が浅い、酸性体質である。

低体温で癌になる、つまり、体を温めればそれだけで癌を予防でき仮になっても治癒力を高めて治すことができると言うのです。

 

それに本書には、交感神経がつねに優位にあることも癌になりやすくするとあるが、これなどはまさに思考回路を変えてリラックスして副交感神経を活性化することに繋がってきます。

呼吸の浅さも副交感神経を活性化することで、心の底から落ち着いてくれば自然と改善するはずです。

 

 糖質を好むと⑤酸性体質である、は食習慣の改善ということになります。

皮膚は弱酸性、体内は弱アルカリ性が基本である以上、癌予防の基本の一つは食生活の改善となります。

 

糖質を好む、それは言い換えればブドウ糖を取り過ぎということになります。

これについては、こういう指摘があります。

がん細胞は、ブドウ糖をエネルギー源とする――。これは、1931年にノーベル生理学・医学賞を受賞したオットー・ワールブルグ博士が、マウスの「癌性腹膜細胞」を用いた実験で解明し、1923年からの一連の論文で発表したものです。http://toyokeizai.net/articles/-/144042

 

このサイトはこう続けます。

今では、がん細胞は正常細胞の38倍ものブドウ糖を取り込まなければ、生命活動を維持できないことも分かっています。…ブドウ糖が枯渇すると、人間の体内ではブドウ糖に代わる、緊急用のエネルギーが生み出されます…「ケトン体」という酸性の代謝物質です。…がん細胞には、ケトン体をエネルギーに変える酵素が欠けている…。

 

このサイトはケトン食の勧めと注意事項を記しているが、正常細胞の38倍ものブドウ糖を取り込まなければ、癌細胞は生命活動を維持できないと言う事は、ブドウ糖の取り過ぎに気を付けるように思考回路を変えれば良いと言う事でもあるでしょう。

 

低体温が癌になりやすいと言う点では、体を温める癌療法では、こんなものがあります。

https://www.mugendai-web.jp/archives/6080

人体に無害な近赤外線を照射してがん細胞を消滅させる新しい治療法の開発が、世界の注目を集めている。

「近赤外光線免疫治療法」と言い、米国立がん研究所(NCINational Cancer Institute)の小林久隆・主任研究員が開発した。がん患者を対象にする臨床試験も順調に進み、23年後の実用化を目指している。

がん治療法には、「外科手術」「放射線療法」「化学療法」の3つがあるが、外科手術は患者の身体への負担が大きく、他の2つは副作用がある。転移・再発防止などにも課題があった。

これに対し、小林氏の開発した新しい治療法はがん細胞の死滅率が極めて高く、ほとんどのがんに適用できる。やっかいな転移がんにも有効だ。副作用がなく、必要な設備や薬品は安価なので、医療費の削減にも大いに貢献しそうだ。

 

この治療法は、がん細胞だけに特異的に結合する抗体を利用し…近赤外線によって化学反応を起こす物質(IR700)を付け、静脈注射で体内に入れ…抗体はがん細胞に届いて結合するので、そこに近赤外線の光を照射すると、化学反応を起こしてがん細胞を破壊と言うからこの療法が可能な施設で受ける必要があるが、ほとんどの人は1日で良いと言うからこれまでの癌治療の常識を覆す画期的な方法ではあります。

 

しかしながら、体を温めれば癌が治ると言う点に注目すると面白い記事があります。

キーワードはヒートショックプロテインです。

https://ameblo.jp/salon-de-sol/entry-12152842958.html

 

「身体を温めると癌細胞が死ぬ」という研究で話題になっているのは10年位前からですが、実は、この方法は、第二次世界大戦後すぐに実験されて、明らかになっている事でした。その研究のヒントとなったのは、日本人の熱い風呂に入る習慣からでした。

 

第二次世界大戦前に、フランスの医師パスツール、ジョリエが実験し、その後、ドイツのアンリ・ランペール教授が2次大戦中に自分の腸チフスや兵士達の腸チフスを熱いお風呂(43度)に入らせる事で治してきました。彼は、熱いお風呂に入る習慣のある日本人の癌の発症率が他国と比較し20倍も低い事に注目し、研究しました。

 

その結果、ガン患者を36度のお風呂に入浴させ、徐々に温度を上げ、42度まで上げ、最終的に、体温が39度に上げると悪性細胞は衰えはじめ、42度で死滅する事を発見しました。…。

 

一番簡単な方法は、「温熱療法」です。HSP(ヒートショックプロテイン)はタンパク質の一種で、全ての細胞に存在します。このHSPは、免疫力を高めて、細胞を修復し強化してくれます。体温が上昇すると増加する性質を持ちます。一番効率良く増加させるには、お風呂に入る事です。

 

体内が酸性に偏ると癌になりやすいと言う点では、食生活の見直しが必要ということになります。

 

目安としては、アルカリ性か酸性かで食事に気を付ければ良いとなるでしょう。

アルカリ性食品

野菜(ほうれん草、ゴボウ、サツマイモ、ニンジン、里芋など)、果物(メロンなど)、海藻(ひじき、ワカメ、昆布等)、キノコ、干し椎茸、大豆など

酸性食品

肉類(豚肉、牛肉、鶏肉など)、魚類、卵、砂糖、穀類(米、酢等)

このように分類する観点から考えれば、高タンパク高脂肪に偏りがちな「欧米化した食生活」では酸性食品を多量に摂取し、アルカリ性食品が不足しがちであるとなります。

 

日本人食生活西洋化と、癌の相関関係がしばしば指摘されることを思えば、野菜や果物が不足しやすい人は意識して野菜や果物を食べた方がいいでしょう。

 

何のことはない、

癌になりにくい生活は、こんなことでしょうか。

ストレスをあまり溜めず、人生を大いに楽しんでよく笑い、体を冷やさないよう気を付け、野菜や果物をよく食べてお菓子や肉はほどほどに楽しんで、あったかいお風呂になるべく毎日入りましょう。

もし、それが難しい社会だなって思うなら、どうやったら変えられるか大いに議論してすっきりした方が良いかも。

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棄権する人は主権者であることをどう思っているのでしょう。

選挙のたびに棄権する人が出ます。

 

棄権を選ぶのはあなたの自由です。

でも、民主主義ではあなたを含めた国民が主権者です。

棄権を選ぶなら、あなたの選択は主権者の権利行使を放棄すること、違うのですか。

主権者であることから逃げるなら、国王だったら退位を迫られる事態ではないでしょうか。

違うのですか。

 

いいですか。

あなたが棄権していかないのはあなたの勝手です。

でも、棄権を呼びかけるなら批判票を投票箱の中から減らすのに協力しているのと、どう違うのですか。

時の政府の支持者の票に対する批判票の比率を下げるのに協力しているのと、どう違うのですか。

時の政府の別動隊に身を投じたのと、どう違うのですか。

 

棄権は誰にも協力しないってことでしょ。

棄権を選ぶあなたは、誰に協力したくないのかしら。

時の政府に批判的な人たちは、一人でも多く協力者が欲しい。

時の政府は、反対勢力を一人でも減らしたい。

棄権は、反対勢力を一人でも減らしたい時の政府に結果として協力したのと、どう違いますか。

 

棄権とは、板挟みになった場合の非常手段でしょ。

選挙で棄権するって、あなたは何と何の間で板挟みなのかしら。

選びたいが選択肢に選びたいところがないなら、あなた自身が出るか、強いて言えばここを探すか、の板挟みでもどちらかを選ぶのが主権者としての責任ある態度ではないでしょうか。。

違いますか。

棄権は、主権者であることからの退位ですよ。

 

民主主義とは、国民が主権者であると言う事ではないでしょうか。

主権者は、かつては国王などだったが、今は国民ですよね。

悪政をやった国王は主権者の座を追われた、違いますか。

もし今の政治が悪政なら、主権者である国民がその責任を負う必要がある、違いますか。

棄権は主権者である責任からの逃亡であり、主権者であることを放棄する行為である、違いますか。

それでも、あなたの選択は棄権なのでしょうか。

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本当にこれって原罪?

アダムとイブが蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べてしまう話は、聖書を知らない人でも一度は聞いたことがあるでしょう。

 

ここは、創世記の中でも、有名かつ、結構重要な個所です。

 

ある意味、聖書の一番の肝と言える部分でしょう。

 

なぜなら、この出来事がアダムとイブの楽園追放に繋がっていくからです。

カトリック教会のステンドグラスや壁画には、裸でエデンの園を追われる失楽園が描かれ、数々の名作も残っています。

 

多くの教会が原罪と位置づける部分であり、イエス生誕はこのアダムとイブの堕落からの救いとして説いているからです。

 

だが、本当にその解釈で良いのでしょうか。

 

アダムとイブは、皮の着物を与えられてエデンの園を出ているのですよ。

 

創世記 3 21

主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 

 

では、問題の個所を見ていきましょう。

創世記 3 45

4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 

5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 

ここは新共同訳でもこう訳されています。

創世記 3 45

4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 

5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

 

ところが欽定訳(キングジェームスバージョン)ではこう訳されています。

Genesis Chapter 3 verse 4~5

4 And the serpent said unto the woman, Ye shall not surely die:

5 For God doth know that in the day ye eat thereof, then your eyes shall be opened, and ye shall be as gods, knowing good and evil.

5節の訳はほとんど変わりません。

 

問題は4節です。

Ye shall not surely die:

この言葉は神がアダムに告げた“thou shalt surely die” 217節)の“surely die”を受けたものです。

thou shalt surely die”は「あなたに禁ずるよ必ず死ぬからね」と言うことです。

そこでイブも、“lest ye die”33節)「死んではいけないから」と答えています。

surely”は「間違えなく」「確かに」と言う意味です。

また、“shall”は「そうする」「そうなる」「そうするつもりだ」「そうするべきだ」と言う意味です。

そこで” Ye shall not surely die”は「あなたが死ぬと決まってはいない」とも解釈可能となるでしょう。

蛇はこの言葉の裏に、「神が言ったからって、真に受けない方が良いよ。神はあなたたちを脅かしてるだけだから」という気持ちを込めているのです。

蛇は「ここでアダムとイブに死なれちゃ困るという神の本音を私は知ってるよ」とほのめかしたと言えるかもしれません。

でも、神は蛇、つまり、サタンがそこを見透かしてアダムとイブをそそのかすことまで見抜いておられたわけですね。

 

神様の方が一枚上手というか、ある意味ずる賢いというか、でもそれくらいじゃないとサタンの上にいられないですよね。

神様は、わたしたちに「ここまでおいで」と言うのでしょうけど、かなりのむちゃぶりですよね。

マタイによる福音書 5 48

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 

だからこその、救いの計画なのでしょう。

神の深い読みと、深い愛に改めて感謝。

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真の教会はどこに?

聖書には象徴で描かれていて、よくわからない文章が多いですが、これもその一つです。

 

イザヤ書 4 

 

1 その日、七人の女がひとりの男にすがって、「わたしたちは自分のパンをたべ、自分の着物を着ます。ただ、あなたの名によって呼ばれることを許して、わたしたちの恥を取り除いてください」と言う。 

2 その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇、また光栄となる。 

3-4 そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。 

5 その時、主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。これはすべての栄光の上にある天蓋であり、あずまやであって、 

6 昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる。

 

口語訳では3節と4節が合わせて訳されているけど、新共同訳では分けられています。

 

イザヤ書 4

 

1その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。「自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と。

2その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。 

3そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。 

4主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。 

5主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。 

6昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。

 

キングジェームスバージョン(欽定訳)でも、3節と4節は分けられています。

 

Isaiah Chapter 4

 

1 And in that day seven women shall take hold of one man, saying, We will eat our own bread, and wear our own apparel: only let us be called by thy name, to take away our reproach.

2 In that day shall the branch of the Lord be beautiful and glorious, and the fruit of the earth shall be excellent and comely for them that are escaped of Israel.

3 And it shall come to pass, that he that is left in Zion, and he that remaineth in Jerusalem, shall be called holy, even every one that is written among the living in Jerusalem:

4 When the Lord shall have washed away the filth of the daughters of Zion, and shall have purged the blood of Jerusalem from the midst thereof by the spirit of judgment, and by the spirit of burning.

5 And the Lord will create upon every dwelling place of mount Zion, and upon her assemblies, a cloud and smoke by day, and the shining of a flaming fire by night: for upon all the glory shall be a defence.

6 And there shall be a tabernacle for a shadow in the daytime from the heat, and for a place of refuge, and for a covert from storm and from rain.

 

口語訳では「滅亡の霊」と訳された個所は、共同訳では「焼き尽くす霊」、欽定訳では“burning”となっています

burning”とは、「非常に熱い」「燃えるような」と言う事です。

 

そうなると「審判の霊と滅亡の霊」による洗い清めとは「聖霊と火」によるバプテスマの事かもしれません。

 

マタイによる福音書 3 11

 

わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。

 

主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きを…とあります。

もっとも欽定訳では“a cloud and smoke by day, and the shining of a flaming fire by night”とあって、昼は雲と煙で夜は火があることになっていて日本語訳との違いがあるのが少し気になりますが。

 

この箇所は、出エジプトの雲の柱と火の柱を連想できます。

 

出エジプト記 13

 

21主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。 

22昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。

 

イザヤ書では、雲や火に覆われるかの印象を受けます。

口語訳、新共同訳、ともに「天蓋」と訳しています。

そして欽定訳では“defence”となって、守られている事がより強調されています。

 

こうなると神の御霊に包まれ守られない事には、ここにいることもままならないでしょうから、攻めてくる敵はまずないでしょう。

となると気になるのは、一人の男にすがる七人の女です。

 

「女」も聖書で複数の意味で用いられる言葉の一つですね。文字通りの人としての「女」、教会や町の象徴としての「女」。ここでは教会の象徴と見て解釈しました。

七を「神の象徴」と見たのは創世記で七日目に神が休まれたからです。

それに、一般的な解釈としても七は特別視されることが多い数ですよね。

 

女を教会と見ると、黙示録の七つの教会が連想できます。

七を神の象徴と見れば「七人の女」は「神の教会」ということでしょうか。

「自分のパンをたべ、自分の着物を着ます」も「私たちは自分の報いを自分で受けます」と言う事でしょうか。

 

「ただ、あなたの名によって呼ばれることを許して、わたしたちの恥を取り除いてください」もまたこうなるでしょうか。

 

「主なるイエスの名によって呼ばれることを許して、わたしたちの罪を清めてください」

シオンの娘もまた、教会の聖徒の事かもしれません。

 

そうなると、このイエスの名による神の教会とは何かとなります。

 

神がイエス・キリストによって作られた教会と間違えなくいえるのは、イエスの時代の教会です。

教会の聖徒であると安心するだけではなく、神に守られるにふさわしくあれと言う事でしょうか。

 

自分はそうなれているか、祈りによって導きを求めていくことが求められていると言う事でしょうか。

 

自分の集っている教会はイエス・キリストの教会と名乗るにふさわしい状態か、自分はキリスト者、クリスチャンを名乗るにふさわしい心でいるのか、神に常に問いかけ自らを律している事の大切さを説いている聖文なんでしょうね。

 

マタイによる福音書 7 21

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

 

キリスト・イエスもこうおっしゃっておられますから。


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