思想

性教育は知識の前に伝えるべきことがあるはず。

性教育と言うと、何歳から何をどう教えたらいいか、悩む人は多いと思われます。 

 

軽はずみなセックスはして欲しくはないが、特定の宗派の教義や特定の思想で縛りたくないし、縛られたくない。 

そう考える人は少なくないのではないですか

 

だったら、子供たちにこう聞いたらいいのではないですか。

 

あなたたちはどんな親になりたいですか。 

それはなぜですか。 

そうなるには、どうしたらいいと思いますか。 

 

あなたたちはどんな親になりたくないですか。 

それはなぜですか。 

そうならないためには、どうしたらいいと思いますか。 

 

子供たちには、思っている通りに素直に話してもらい、大人の考えを押し付けることなく一緒に考えた方が良いでしょう。 

 

子供たちに体の性差について聞かれたらパニックにならないで、あなたのような可愛い子供に会うためにあると、言えば良いでしょう。 

あなたに会うために、お父さんに命の元をもらったのとか、お母さんに産んでもらったんだよ、とか言えば良いでしょう。 

 

違うでしょうか 

 

その後は、その子の理解力に応じて話せば良いでしょう。 

 

違うでしょうか 

 

あなたが子供たちと普段からどれだけ話しているか、お互いの理解を深める話し合いがどれだけ出来ているか、問われるのでないでしょうか

 

幸せな家庭、愛のある家庭、お互い思いやりのある家庭、そのためには、私は、私たちは、何を考えてどうしたらいいかを、普段から当たり前のように考えられる子供たちに育って欲しい。 

 

そう思う事に、宗派や思想は関係あるでしょうか。 

これに異論を唱える人は、どれだけいるでしょうか。 

性教育は、この想いをどうやって子供たちに伝わるかを基本に据えて創り上げていく方が良いのではないでしょうか。 

 

性教育の基本は、まず、大人たちから子供たちに、あなた方を愛している、あなた方を大切に思っている、その気持ちを伝える事からはじめるべきではないでしょうか。 

 

それには、普段から子供たちにその思いが伝えるように接していないとだめではないでしょうか。 

 

そうでなければ子供たちに、大人はずるいと思われて警戒されるだけではないでしょうか。 

 

何をどう教えたら良いか悩む前に、まず、心のボタンをかけなおした方が良いのではないでしょうか。 

 

話はそれからではないでしょうか。

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千島問題の解決は歴史が指し示す方向に従うのが一番の近道。

北方4島と政府は言うが、千島樺太交換条約の前は樺太は日露雑居です。
 
4島言うなら樺太雑居も言わないと一貫性がないのです。
 
千島樺太交換条約は樺太雑居を解消のため、樺太をロシアに譲り北千島全島が日本領とすることを平和的に決めたのです。
 
連合国側が日本に放棄を迫れるのは戦争絡みで取得した領土だけです

連合国側が日本に千島放棄を迫るのは、自ら定めていた終戦処理原則に反するのです。
 
日本はそれを論拠にサンフランシスコ講和2条C項の千島放棄に関する部分の撤回を、関係国に求められるはずです。
 
憲法前文と9条に忠実な国ならできたはずで、千島放棄を迫る根拠は連合国にないはずです。
 
日米安保条約を日米の平和的な友好関係のための条約に変え、日本は外交と自衛隊で自国の領土領空領海を守り切る決意を固めるのです。
 
そうすれば、仮に返還された千島に自衛隊が配備されようとロシアがとやかく言う筋合いはないです。
 
北東アジアの海の平和と安全を、協力して守れば良いのです。
 
外交も憲法に従おうではありませんか。
 
ロシアが千島への自衛隊配備にとやかく言わないようにする必要があります。
 
ロシアに文句言わせないためには、個別的自衛権行使に徹し普段は災害救援隊として活躍した従来の姿に戻って、憲法前文と9条に則った運用をすれば良いだけの話です。
 
何も難しいことはないではありませんか。
 
安倍政権以前のどの政権もやってきたことではありませんか。
 
歴史と憲法を踏まえた外交に、保守も革新もないです。
 
その気になれば野党連立政権で実現実行が可能なはずではありませんか。
 
それをやってくれる野党連立政権が、早くできて欲しいです。
 
それは拉致問題解決前進にも、役立つはずです。
 

野党はできない理由を四の五の言わず、早く結束して政権交代して欲しいのです。
私は何か無理な注文をしているでしょうか。

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パブリックとリパブリックを考える。

洋風居酒屋はパブなどと呼ばれるが、パブリックハウスの略です。

パブリックの主な意味は、国民一般の、国民全体の(ための)、大衆の、公共の、公衆の、公衆用の、公開の、公立の、(政府の仕事をする意味での)公務の、公事の、などがあります。

居酒屋=パブリックハウスとは、大衆の家と言う事になります。

居酒屋=パブリックハウスと言う事は、様々な議論をしあう場でもあります。

日本でこのようなオープンな場があるでしょうか。

いくら格好だけまねても、仏作って魂入れずになっているそんな場所が日本は多くないでしょうか。
公園や広場だってそうではないでしょうか。

公園や広場は本来パブリックスペースなのです。

誰もが気軽に立ち寄って交流しあう場、様々な議論をしあう場です。

パブはそのような空間の一部なのです。

このような空間は、歴史的な背景の違う日本ではなかなか根付かないようです。

70年安保やベトナム戦争反対運動盛んな時、そう言う場が出来かけたが広がらず定着しなかったですし。

だが今、日本でも市民の連帯の輪が広がりつつあります。

日本の文化や風土に合ったパブリックスペースの作り方の模索は、いつ、どのような風に始まり、広まっていくのでしょうか。

しばらくは試行錯誤が続くでしょう。

どのような形、どのような展開になるか、気になるし、楽しみでもあります。

パブリックの前に、再びと言う意味の”リ”を付けるとリパブリックになります。 再びと言う意味の”リ”が、リユース・リデュース・リサイクルの頭の”リ”と同じ意味の接頭辞だと気が付くと、面白いことがわかってくるのです。
       リパブリックの主な意味は、共和国、共和政体、(フランスの)共和制、(共通の目的を持つ人の)…社会、…界などとされます。

パブリックの主な意味は、国民一般の、国民全体の(ための)、大衆の、公共の、公衆の、公衆用の、公開の、公立の、(政府の仕事をする意味での)公務の、公事の、などです。
ここに「再び」を意味する”リ”が付くと、リパブリックになるのです。
政治を、国民みんなの手に、大衆の手に取り戻すのがリパブリックだ、ということでないでしょうか。

リパブリックが政治を、全ての国民の手に、大衆の手に取り戻すことであるなら、まずそこには政治を取り戻す主体としてのパブリックが無ければならないでしょう。
国民みんなが政治を自分の手に取り戻してこそ、本来のリパブリックになる。 違うでしょうか。
参加しないのは自らを余所者や客人の位置に置くのと、どう違うのでしょう。

リパブリックとは、国民全体のために政治を行うために国政の主導権を国民がみんなの手・みんなの力で取り戻すことであり、そのような国を守り抜くことではないでしょうか。
国作りに参加しないのは、自らを余所者や客人の位置に置くことにほかならない。 そう思いませんか。
自らの意思表示をして、参加してこそリパブリックの国民。 そう思いませんか。

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民主主義とは国民が主権者としての責任や義務を負う制度。

考えてみると、公地公民は正式に廃止の宣言は出されていないのではないでしょうか。


公地公民制は大化改新と大宝律令で定められた後、瓦解崩壊有名無実になってはいるが、廃止の決定は今まで一度もなかったはずです。

出す時期を失ってしまい、何を今さらと思われるのが落ちになってしまって、今に至っていると言う事でしょう。

 

つまり、日本の国土も国民も未だに皇室の所有と言うことかも知れません。

 

戦後の民主主義と言うのは歴史的に見れば、天皇による為政者たちの首のすげ替えの順番が、国民に回ってきただけなのかも知れないのです。

それはさておき、今日本は民主制です。

つまり、独裁者と勘違いしている人物がのさばっているなら、その責任は国民にあって、のさばっている独裁者を退ける責任も国民にあるとなるはずです。

 

憲法以前は天皇直々に乗り出すこともあったが、現行憲法では勘違いしている独裁者を退ける責任は国民に託されていることになるわけです。

世が世なら天皇は独裁者を退ける勅命を出せたが、今それは出来ないのですから。

国民の責任は重大です。

 

お上・御上とは、貴人や主君に対する尊称です。

転じて、公儀権力を示します。

日本では古より最上位の権力者をカミと称してきました。

主権在民とは、上位の権力者は国民と言う事です。

最上位の権力者は国民というなら、今やお上の責任を引き受けないとならないのは国民と言う事でしょう。

つまり、民主制にあってお上批判は自己批判と同義語となっていると、国民は自覚を持つ必要があるでしょう。

 

国民が未だに被支配者意識が抜けないで為政者をお上と呼ぶならば、それは国民が主権者としての責任を放棄し、一握りの人たちに丸投げしたことになるのではないでしょうか。

 

もし為政者が自らをお上と勘違いしているなら、歴代為政者をお上扱いして多くの国民が主権者としての責任を放棄しまくってきた付けなのではありませんか。

 

選挙で政治を託したい人や党を意思表示するのは、主権者としての義務、違うでしょうか。

 

白票や棄権は主権者としての責任からの逃亡であり、主権者としての地位からの逃亡ではないでしょうか。

棄権が過半数とは主権者としての責任や地位を投げ出し、臣民の立場を選んだ人が過半数と言う事と、どう違うのでしょう。

 

事実上過半数の国民は民主主義を投げ捨てて王政を選択した、白票や棄権が過半数と言う事はそういう意味なのです。

 

誰に政治の舵取りを任せるかの意思表示をするのは、主権者としての責任であり義務であると理解出来ていないなら、民主主義を一から学び直していただけますでしょうか。

 

我々は主権者としての責任からも地位からも逃げていないというなら、証拠を見せて欲しいのです。

あなたが立候補するか党や候補を選ぶ以外に、選択肢はないのですよ。

 

主権者と臣民、あなたはどちらを選ぶのですか。

 

あなた方が逃げれば、日本は王国に逆戻りするのです。

 

それでもいいなら、主権者としての責任や義務から逃げたら良いのです。

 

国民の半数を裏切ったと、後ろ指さされても構わないならば、ですが。

 

主権者としての責任から逃げていないというなら、あなたが立候補するか党や候補を選ぶ以外に選択肢はないのですよ。

 

私の言葉を、言い方はきついが正論と取れば主権者としての自覚がある人でしょう。

 

だが、言い方が厳しい私の弁明を聞いてくださいと泣いてすがるなら主権者としての自覚を捨てた人でしょう。

 

さあ、あなたはどちらですか。

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言わないと何も変わらない。

従来の人々の感性や意見に異論を唱えるのは、勇気がいります。

だが、それが自分にとってどうしても必要なら、声を上げる方が良いでしょう。

そうでないと、何も変わらないです。

気が付いた人が声を上げる、これしかないでしょう。

気が付いてない人が言うわけないのは、当たり前すぎる話です。

日本人は人と違うことを恐れすぎませんか。

確かに歴史的には、人海戦術で対処した方が良い自然の脅威への対応は別行動は危険だったかもしれないです。

だが今は変化が激しい時代ですよ。

多様性こそが生き延びる上で優位になる時代ではないでしょうか。

多様性の担い手になることこそ、日本の未来を保障すると自信をもって行動すべきでしょう。

素直に感じたことは感じたままに言った方が良いでしょう。

それがたとえ、多くの人からとんでも扱いされようが、多くの人が声を上げていけば無視する方がやがて非常識になっていくでしょう。
特に今はネットがあります。

どこかに共感者は何時かは見つかるでしょう。

一人出れば、その背景にはもっといるはずです。


 
諦めないことです。

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上に立とうとするならどうある方が良いでしょう。

やはり、上に立とうと言う人は、優しさでも、素直さでも、ぶれてないですよね。
凄いなって人ほど、素直だし、謙虚だし、優しいですよね。
人を馬鹿にしたり、見下したりすることはないですよ。
からかうくらいはご愛敬ですよね。
孤独だからこそ、安らぎが欲しいから、周囲を和ませたいんでしょうね。

でないと、疲れるでしょうから。

逆に言えば、優しさでも、素直さでも、ぶれる人は上に立っちゃ駄目だし立たせちゃ駄目となるでしょう。

間違えて立たせたら、本人も周囲も不幸ではないでしょうか。

人を馬鹿にしたり、見下したりすることと、からかうことの区別もつかない人は駄目でしょうね。

そういう人は、イエスマンや友人知人に囲まれないと、居心地が悪くなるでしょうね。

寂しい人ですよね。

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言わなくて済むものなら人を馬鹿と言わない方が良いかも。

マタイによる福音書 7章 1~2節
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
 
この聖句見るたびに、「馬鹿と言う方が馬鹿」と言う俗語を思い出すのです。
「こいつ馬鹿だな」と思ったら、「馬鹿」とは言わないでしょ。
だって、馬鹿を相手に言い合いしたってしょうがないでしょ。
しょうがないのに、「馬鹿」と口に出してしまうのが馬鹿だと思えるのです。
 
馬鹿な人たちとは、まともに論議はできないのですから。
馬鹿だと思ったら、もう相手にしない事が賢いってことなのかもしれません。
 
なるほどその通りですね。
 
つまり、人を見下し上から目線で馬鹿呼ばわりしながら絡んでくる人に対しては、無視して相手にしない方が賢い対応ってことかもしれません。
 
相手にするだけ、時間と労力の無駄でしょうね。
 
何言っても、自分の考えに凝り固まって見下して罵詈雑言返してくるだけなのは目に見えてますからね。
 
この手の人たちのようにならないために、聖書にはこれらの聖句があるのでしょうか。
 
ヤコブの手紙 4章 11節
兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。
 
ルカによる福音書 6章 37節
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
 
ルカによる福音書 6章 41~42節
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。

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とりとめのない話でしょうか。

ふと、思ったのです。
日本では、最後の締めを「とり」といいます。
最後とは、最高や頂点と言う意味も込められています。
そして、神輿の上には鳳凰と言う鳥がまさしく「とり」を務める構図です。
これが偶然なはずがないです。
神輿は移動神社であり、神社のとりは「鳥」が務めて「取り仕切る」構図であると言ってるようなものです。
日本は神仏混交だが、飛鳥時代はまさに過渡期だったはず。
飛鳥時代の仏像の裏のメッセージは、「日本の仏教は鳥が取り仕切る」であると言わんばかりに、見事なまでに鳥です。
外見に惑わされちゃダメというわけなのです。
飛鳥時代の仏像のシルエットは、まさに鳥そのものです。
私は気が付いた時、愕然としました。
もはや、飛鳥時代の仏像が全て、鳥にしか見えなくなったからなのです。
残念ながらほとんどの人が、飛鳥時代の仏像の裏モチーフの鳥であることに気が付いていないのです。
神職の衣の裾に房があるが、そのわけはほとんどの人が説明できないでしょう。
もしかしたら、神職の衣のモチーフは「鳥」かもしれません。
そして、神職の持つのは榊だが、仮に神職の真の姿が鳥なら、携えるべきはオリーブでしょう。
神社の裏モチーフは古代エジプトの太陽の船かも知れません。
だから鳥居があるのでしょう。

神社の裏モチーフは古代エジプトの太陽の船だとしても、神社には神輿があります。
神輿の正体がアークと言う指摘があります。
アークは方舟もさしますが、神職の真の姿がオリーブを携えた鳥だとしたら、神社の真の姿はアークとなってしまいます。
日本にはアークがあると、神社の姿は白状しまくりの構図と言う事なのです
日本には古代イスラエルの遺伝があることがわかっています。
その日本の神社の正体が、オリーブを携えた鳥が乗ったアークだとしたら、どうなるでしょう。
後は、聖書の預言を紐解いていくしかないでしょうね。
日本人こそ、聖書を読むべきなのです。
果たして、これは単なる白昼夢のようなものなのか、それとも真実なのでしょうか。
答えは、神様がご存知なのかもしれません。
 

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目覚めた市民が命を与えない民主主義は無力な偶像に堕落する。

本気でこの国の主人公として目覚めた市民がいったいどれだけいるのか、今、冗談抜きで問われているのではないでしょうか。

 

違いますか。

 

民主主義では市民が主人公、政党はそのための道具に過ぎない、そう思いませんか。

 

主人公は国民であり政党はそのための道具に過ぎないことを忘れてしまった政党は、使い物にならないからさっさと捨てようではありませんか。

 

市民が主人公、この自覚が私たちの側にあるのでしょうか。

今、私たち市民もまた問われているのでないでしょうか。

思い出して欲しいのです。

私たち市民こそこの国の主人公なのだ、私たちにその自覚と覚悟が、今、あるでしょうか。

 

市民が主人公、そう思っている人は、野党にドンドン思いをぶつけようではありませんか。

 

与党は国民こそが主人公であることを忘れ、高慢になっていないでしょうか。

 

突き付けようではありませんか。

「誰がこの国の主人公なのか」と言う、民主主義にとって最も基本的な、この問いかけを、です。

 

民主主義である以上、私たち市民が主人公なのです。

 

野党は国に市民の声を突き付けるための道具、市民はこの基本を忘れないことが何よりも大事です。

 

使い物にならない道具は市民から捨てられてしまうと、詰め寄ろうではありませんか。

「国民が主人公だ」この大原則を忘れた瞬間、民主主義は無力な偶像に堕落します。

民主主義に命を与えられるのは私たち市民であることを、忘れてはならないのです。

 

「野党は本気で政権取りたいのかという国民の批判や疑問に答える意思を具体的な行動で示して欲しい」そう思える時、実は腰砕けになっているのは、市民の方の覚悟なのです。

 

「共闘による政権交代でどういう政策や選挙共闘を実行するか協議している姿を、はっきりと示して欲しい」、野党に一番問われているのはこれだと市民の側が本気で思うなら、市民の側こそ、本気で思いを突き付けようではありませんか。

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「意を体する」と「忖度」の違いと関係を考えてみた。

 

「忖度」とかけて「包丁」と解きます。

 

その心は。

 

どちらも、用いる人は人に対する思いやりの心が求められます。

 

使いようによっては、人が死ぬことがわかってない人は、使わないで欲しいものです。

 

「忖度」それ自体は悪ではないのです。

 

むしろ、いちいち指示を受けて行動しなければいけない事態を避けるために組織にとって必要がある事柄でさえあるのです。

 

「忖度」を国政私物化や証拠隠滅に悪用した疑惑がもたれたことが、森加計問題の根幹ではないでしょうか。

 

私物化の結果、便宜が図られたばかりか、事実関係の隠蔽や改竄までもが、忖度の結果行われた疑惑が持たれているのです。

 

さらには、隠蔽や改竄をなかったことにするためなら、口封じのために自殺に追いやられた人さえもいるのではないかとの疑いさえも持たれてしまう始末なのではないでしょうか。

 

もちろん、こんな事はあってはならないし、あって欲しくないです。

 

ここで問題にされるべきは、安倍首相の国政私物化の意図がどれだけ「忖度」されているか、と言う事なのです。

 

だからこそ、徹底的に調べ上げ国政私物化の実態の真相究明する必要があるのです。

 

森友学園や加計学園に対する国政私物化による便宜供与疑惑の問題で安倍首相を庇う人が「忖度のどこが悪い」と言うのはある意味では正論でしょう。

 

忖度の悪用を、忖度自体が悪と勘違いして批判や攻撃をしてはいけないのです。

 

問題は忖度された中身であって、忖度自体ではないからです。

 

混同に注意したいものだと、自戒の気持ちを込めてこの問題を考え直してみたいと思い今回の議論となりました。

 

「意を体する」人の考えや気持ちを理解し、それに従うこと。

 

「忖度」他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。

 

つまり、「意を体する」とは相手の意図の範囲内に収まるように努めるが、「忖度」とは相手の意図の外に出る可能性がある言動を「意を体した」と解釈してすることとなるでしょう。

 

言い換えれば、指示の「意を体する」行為をしたつもりがおしはかって相手に配慮するあまりに指示の範囲を逸脱した場合、その行為を合法化する方便に使われる危険性があるのが「忖度」となるのかもしれないです。

 

つまり、「忖度」は結果オーライなので、それだけ信頼関係が重要となる行為と言えるでしょう。 

 

ここで誤解してはいけない事は、「忖度」自体は決して悪くないのです。

 

むしろ、組織が円滑に動くために必要でさえあるのです。

 

「忖度」とは、「意を体する」行為をより柔軟に臨機応変に行うことと思えば良いでしょう。

 

民主主義をちゃんとわかった人が上に立てば、「忖度」はとても気の利いた行為になるでしょう。

 

独裁者が「忖度」を悪用すると、責任転嫁とトカゲのしっぽ切りに晒されるリスクと隣り合わせの状態の中行動させられる悪夢となるでしょう。

 

それだけに、上に立つ者は忖度されるに値する言動になっているかどうか常日頃気をつける必要があるのです。

 

忖度を悪用してはならないのです。

 

それが上に立つものが心得ておくべきことではないでしょうか。

 

違うでしょうか。

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